五年前、内乱の末に忠誠を誓った主を失い、自身も利き腕である右腕の腱を切られ、戦士としての命をも断たれた。
 当時の近衛騎士団で何年も寝食を共にした戦友たちはシャールに対するルートヴィッヒのこの仕打ちに我が身の事のように深く嘆き悲しみ、クレメンスの遺志を継いでクーデターの画策を何度も立ててはシャールに持ちかけてきた。
 だが、シャールは内乱直後の混乱期にそれらの中心にいて、それでもなお一等冷静だった。
 彼は互いの戦力差、組織力、基盤を見極め、戦を仕掛けたとしても勝負にもならぬ事を悟っていた。それは勿論シャールにとって腑が煮えくりかえるほどの怒りを覚える現実であったが、その激情を彼はついに一度も表に出しはしなかった。
 そして何度も発起を打診される内に、彼はいつしか戦友たちをなだめる側に回った。
 そうして一年が経ち二年が経った頃、戦友たちは立ち上がらずにミューズと静かに暮らすことを選んだシャールに、もう過去の闘志は消え失せたのだと落胆した。

「・・・!」

 荒ぶる獣の様な渾身の気迫と共に打ち出された強力無比な急所突きが、魔獣を吹き飛ばして壁に激突させる。そして振り返りざまに腕の振り抜きで飛翔した炎の刃が後方の獲物を捕らえて切り刻み、瞬く間にその全身を焼き焦がす。
 その身は常に戦の中で炎を纏い続け、残火の軌跡を撒き散らしながら縦横無尽に戦場を疾駆する。
 今シャールの中では、抑えつけてきた戦士の魂が歓喜に打ち震え、躍動していた。
 ピドナ近衛軍団に揺るがぬ存在感を示していた最強の騎士は、その冷静さで以て無理矢理眠らせていた荒ぶる魂を、今この時、解放したのだ。
 彼の闘志は、消えてなどいなかった。それどころか今ここに至って、かつてない程に猛り、燃え盛っていた。

「・・・出番ないわ」
「そうですねぇ・・・」

 一応注意深く周囲に気を配りながら武器は構えつつも、カタリナとトーマスは先ほどから何もしていなかった。
 近くに迫り来る敵は須らくシャールの槍の餌食となり、その様子を伺う遠くの敵は、月の光を纏ったミューズがその手に作り出した月影の弓矢によって、次々と撃ち抜かれていく。
 阿吽の呼吸で繰り出される遠近双方の攻めにより、次々と眼前の魔物は散っていった。
 つまり、あとの二人にやる事は残されていない。
 気を引き締めてはいるものの、暫くの間二人はこんな調子でシャール達の後をついて行くだけだった。
 そうして幾つかの通路を抜けて扉をくぐり、階段を登ると、ついに幻想の宮殿は終着点を迎えた。

「・・・いるわね」
「その様だ。危険ですからミューズ様はお下がりに・・・なりそうもないですね」

 扉を見上げたカタリナの言葉に応えながらゆっくり振り返ったシャールの先には、淡い紅色をした唇を真一文字に結んで真っ直ぐに扉を見据えるミューズの姿がある。

「・・・ここの主は、私を招いたのです。ならば、先ず私が対面しなければなりません」

 そう言ってミューズが扉に手をかけると、扉はそれに呼応して彼女を迎え入れる様に一人でに開いた。
 その扉の中は、ロアーヌの謁見の間にも似た、しかし遠い昔の更なる栄華を匂わせるような威厳に満ちた空間であった。
 そして、その部屋の奥にある上段、世界最大の王国メッサーナの栄光なる玉座には、一人の男が座っている。
 その人物を見た瞬間、ミューズとシャールは大きく目を見開いて駆け出した。

「お父様!」
「クレメンス様!」

 駆け出しながら声をあげる二人に驚きながらカタリナとトーマスがあわてて後を追うと、玉座の前まで先に到達した二人は其々が段上の男に語りかけた。

「・・・お父様、お父様なのですか・・・?」
『おぉ、ミューズ、ミューズではないか。待っていたよ。苦労をかけて済まなかったな・・・。もう大丈夫だ。私と共に来なさい』

 次いで、跪いたシャールが顔を上げて男を見上げる。

「クレメンス様・・・」
『シャールよ、よく今までミューズを守ってくれていた。これからまた、私と共に戦ってくれ』

 そう言って玉座から立ち上がった男はゆっくりとした足取りで二人に近づき、その後で後ろから駆け寄ってきたカタリナ達に視線をよこした。

『ところで君たちは、何方かな?』
「・・・ロアーヌの騎士、カタリナ=ラウランと申します」
「ベント家の一子、トーマスと申します」

 二人は素直に男に対して名乗りながら、その姿を注意深く見た。
 王国の要人らしい質の良い衣服に包まれてはいるが、それに似つかわしくなく良く鍛えられた長身の体躯に、深い皺の刻まれた柔和な顔立ち。そしてその瞳は確固たる意志を持った、指導者の瞳だ。
 この男がメッサーナの前近衛軍団長、クレメンス=クラウディウスなのだろうか。

『おぉ、トーマス君か。はっはっは、実は私はね、君がまだ生まれて間もない頃に一度挨拶をさせてもらったんだよ。我が盟友の偏屈男は息災かな?』

 クレメンスのその言葉に、トーマスは深々と礼をしながら答えた。

「・・・はい、シノンで元気に過ごしています」

 トーマスが手短にそう答えると、クレメンスはそうかそうかと上機嫌そうに笑った。

「しかしお父様、なぜこの様なところに・・・?」

 ミューズが問うと、クレメンスはふわりと笑いながらミューズの頭に手を置いた。

『ここで傷を癒しながら、お前を待っていたのだ。いずれ封印が解かれる銀の手を具現化する手伝いをする為に』
「手伝い・・・?」

 ミューズが緩やかに首を傾げると、クレメンスは目尻に皺を寄せながらゆっくりと頷いた。

『・・・銀の手がミューズの体に移ったことをお前が生まれてすぐに悟り、その後に死蝕が起こり、封印は緩んだ。それで封印が解けるのも時間の問題だと分かったので、その時お前が苦しまぬようにとな』

 クレメンスはあくまでも柔和に微笑みながらミューズの頭を撫でる。

『今まで辛い思いをさせたな、ミューズよ。後の事は全て任せておきなさい』

 力強くクレメンスが頷きながら言う。
 その言葉は彼の実力と意思の力に裏付けされたかのように頼もしい響きで、カタリナとトーマスは目の前のこの人物がクレメンスその人であろうということにようやく合点がいきはじめた。
 だが、なぜかミューズは逆にここで流麗な眉を、ぴくりと軽く震わせた。
 彼女の隣でそれに気がついたカタリナがシャールに視線をよこすと、シャールもまたその表情から忽然と油断と安堵がなくなり、クレメンスを見つめている。
 そしてミューズは二度三度と瞬きをした後、ゆっくりと後退りしてシャールの横に移動した。

『・・・どうしたのだ、ミューズよ』

 ミューズの様子にクレメンスが微笑みながら首を傾げると、対するミューズは真っ直ぐにクレメンスを見つめながらゆっくりと首を横に振った。

「・・・お父様は優しい父であると共に、偉大な指導者でもありました。周りに集まる人達は皆、お父様の下で働く事に誇りを持っていました」

 軽く拳を握りしめ、切なそうに瞳を潤ませながら続ける。

「お父様はいつも私に言ってくれました。『ミューズよ、できるか?』と。それに私が奮い立って答えれば、今みたいに頷いて、こう言ってくださったのです。『よし、頼むぞ』・・・と」

 シャールの右手に輝く銀の手に自らの手を重ね、昔のその光景を思い出す様に唇を噛む。
 そして次には、父譲りの強い意志が宿る瞳で真っ直ぐにクレメンスを見つめた。

「その誇りを与えてくれる言葉に、私もシャールも近衛軍団の皆も、奮い立ったのです。今もその言葉は優しいけれど、お父様は、そんな言葉は使わない。貴方はお父様では・・・ない。貴方は、誰?」

 ミューズがそう言い放った次の瞬間、柔らかな笑顔を湛えていたクレメンスはふっと消え去り、直後に玉座の前の空間の狭間から巨大にして醜悪な人型の魔物が姿を表した。

「・・・ほんと、何でもありなのね!」
「記憶まで覗き込んでの抱き込みですか・・・。実に趣味が悪い」

 カタリナとトーマスがミューズらの前に躍り出ながら悪態をつくと、目の前の魔物は大きく裂けた口元を醜く歪ませながら、嘲笑うかの様に瘴気を吐いた。

『楽しい夢の世界へようこそ・・・』

 突如として脳内に直接響くその言葉と共にいきなり繰り出された大振りの鉤爪が前の二人を捉えるが、それは甲高い金属同士の激突音と共にシャールの槍によって阻まれた。

「・・・クレメンス様の姿を一時でも装ったその罪、消し炭で済むと思うな!!」

 激昂したシャールは魔物に対してそう一喝すると、至近距離から渾身の突きを放つ。
 だがその切っ先が望む手応えを得る前に魔物の体は霧となって消え去り、次の瞬間にはカタリナ達のすぐ後ろに現れた。

「・・・!?」

 振り向きざまにカタリナとトーマスが攻撃を仕掛けるが、それもまた空を切り、魔物は消え去った。

『おぉぉ、ミューズ、ミューズはどこだ・・・』

 広間全体に響き渡る異様なその声と共に、魔物は四人の真上に姿を現す。
 それに素早く反応した戦士三人のうちシャールがミューズを抱えて其々三方に飛び退くと同時に、轟音を伴って空中から振り下ろされた魔物の腕が大理石の床を抉り取った。
 そこにすかさずシャールが朱鳥の刃を飛ばすが、それもまた霧となって消える魔物を捉える事ができない。

「槍も炎も通らぬか。夢の中とはいえ、出鱈目な・・・」

 シャールが思わず悪態をつきながらミューズを離すと、再び玉座の前に現れる魔物にミューズが向き合った。

「あれはきっと、私が生み出した幻影・・・。ならば、私がやってみます」

 名乗り出たミューズにシャールが心配そうな視線を向けると、ミューズは表情を引き締めながら心配ないと仕草で示した。

「・・・これでも私だって、聖王様に連なる勇士の子孫です。剣を振るう力は有りませんが、学と術法ならシャールにだって劣るとは思っていませんわ」

 そう言うと、先程の連戦で見せた月の光にミューズが再び包まれた。
 そこに魔物が突撃をかけるが、それはカタリナとトーマスが防ぐ。

「なんだか分からないけれど、ここはミューズ様に任せた方が良さそうかしら。攻撃は私達が遮断します」
「ミューズ様は存分に術にご集中下さい」
「有難うございます!よろしくお願いします・・・!」

 カタリナとトーマスに対してそういうと、ミューズは魔物に向かって右手を振り抜く。それと同時に彼女の影から何本もの漆黒の矢が放たれ、魔物を襲った。
 それらはやはり相手に届くことはなかったが、しかしその避け方は今までの様な霧散して行くものではなかった。
 漆黒の矢を避けて後ろに大きく飛び退いた魔物を睨んで、ミューズは再度矢を放つ。
 迫り来る矢をまたしても霧になることなく回り込んで避けた魔物はサイドからミューズに攻撃を仕掛けようとするが、それは迎え撃ったシャールによって呆気なく弾き返される。
 幾度かこの攻防が続いた後、数を重ねる毎に精密な射撃となっていったミューズの放つ矢が、遂に魔物の胴体を射抜いた。

『おぉぉ、ミューズ、ミューズはどこだ・・・』

 貫かれた胴体から黒い霧を吐き出して苦しみ喘ぐ魔物の姿がそのまま霧散して消えたかと思えば、再びの声と共に腹部を抑えてしゃがみ込むクレメンスの姿がそこにあった。

「貴様・・・!!」

 怒りに燃えるシャールが槍を振り翳すが、突き出された槍はやはり霧散する相手に届く事がない。
 尚も追撃を加えようとするシャールをミューズが前に出る事で制し、喘ぎながら立ち上がる魔物に向き合った。

「・・・精神世界に住むのなら、その精神そのものを仕留めるまでです」

 その言葉と共に、ミューズの周囲に視認できそうな程の魔力の渦巻きが沸き起こる。
 その魔力の渦が巻き起こす不可思議な風に当てられたカタリナは、それが肌に触れた瞬間に背筋が凍りつく程の寒気を感じ取った。
 それに驚いて前方のミューズの姿をみれば、彼女の頭上にはうっすらと透けて精霊の姿が具現化していた。

「精霊召喚・・・。聖王三傑のヴァッサールが玄武召喚を成して以来、どんな術士も成し得なかった秘術だ・・・」

 シャールが若干上ずった声でそう言うと、張り詰めた表情のミューズは舞い浮かぶ自らの髪を邪魔そうに振り払って、精霊に勅令を下した。

「あの存在を、凍りつかせなさい」

 言いながら翳された右手の指し示す先、クレメンスの姿をした魔物に向かい、精霊が息吹を吹きかける。
 緩やかに吹き抜けていく白い息吹の道筋は空気すらも白く凍え、その先に有る標的は一瞬にして白い霧で覆われ、完全に見えなくなった。
 そうして閉ざされた空間が一陣の風によって再び姿を表すと、そこにはかすかに透けて凍り付いた魔物の姿があった。

『ミューズよ、愛しき娘よ・・・』

 ゆっくりとした足取りで氷像に歩み寄るミューズに、魔物の声が響く。
 それに対して鋭い視線を向けたミューズは、魔物の目の前に立つと、ゆっくりと右の拳を握りしめた。

「お父様は、もういないのよ!」

 その言葉と共に振り抜かれた拳が氷像に触れると、魔物は瞬時にして欠片も残さず粉々に砕け散っていった。
 その途端、主を失った幻想宮廷はその景色が徐々にぼやけていき、やがて全体が眩く白く掠れていく。

「・・・私の中にあった、妄執と願望・・・。それが、ここで形を成したのね・・・。弱い娘で申し訳ありません、お父様・・・。ミューズは、クラウディウス家の一子として強くなります」

 溶ける景色の中でミューズが放った言葉に、シャールの右腕にある銀の手が確かにゆらりと輝いて応えた。






最終更新:2013年01月11日 00:38