港町特有の潮の香りが北に広がるトリオール海から風に運ばれてきたかと思えば、一方ですぐ南東には来るもの全てを死に至らしめんとするかのような広大なる灼熱のナジュ砂漠が広がる。その間の北東を仰げば雄々しきエルブールの山嶺が天空に向けて連なり、それら三点の分岐となるアクバー峠には世界中から集まる商人達で賑わいを見せることで有名なアクバー市が一年を通して開かれている。
 そんな東の賑やかさとは対照的に西を向けば、半島の内陸には世界的に有名な良質の茶葉を育む豊かな土壌を伺うことができる。温海の風を受けてよく育つ穀物、果実、そして森林帯と、恵まれた気候環境につつまれた豊潤な土地が半島全体に広がっているのだ。
 トゥイク半島の付け根あたりに位置するリブロフという街は、ぐるりと見渡せばそのような景色の移り変わりに事欠かない、何とも飽きのこなそうな場所だった。
 しかし、そのような場所でもせっかくの景色や風土、そして市などを楽しむ余裕などは今の彼女には一切ない。
 ピドナから短い船旅にてリブロフの地に降り立ったカタリナは、まずこの地に多く蔓延っているであろう神王教徒から己を隠すために全身を黒いローブで覆った。現地の女性の多くがその服装を好んでいるようで、それに倣ったのだ。
 それでもストールの間から覗く白い肌と碧眼は隠しようがないが、それでも問題はなかった。
 この地にはナジュの血を色濃く継いでいる者たちと、典型的な西方人と、南方からの出稼ぎの民と。そのような数多の人種が共存している。
 その中にあれば、彼女の存在とて一枚の布で容易く市井に紛れるのだ。
 そうして難なくこの街に潜んだ彼女は街を巡っていち早くここでやるべきことを成した後、現地宿の一つであるシェヘラザーデへと赴いていた。
 ここで一夜を明かしたのち、先ほと話しを取り付けたばかりの商隊に随行して明朝早くに早速神王の塔を目指す予定だった。
 夕刻に差し掛かる頃には持ち物まで含めて準備らしい準備がすべて終わってしまったカタリナだったが、かと言って観光気分で街を散策する気にもなれず、蒸し暑い部屋から脱出し涼を求めて一階のパブにいた。
 そこで少しぬるめのエールを傾けながら、パブの喧騒に耳を澄ます。
 其処彼処から商いの調子がどうとか、ピドナでなにやらあったようだとか、そんな話が届いてきた。
 それらの噂話にそれとなく耳を傾けていたカタリナは、そういえば以前もツヴァイクでこの様な頃合いに大変な事を聞いたものだった、などと思い返していた。あのときはポールを待っていたが、今は正真正銘の一人旅である。故に今回はそんな事もなかろうと、カウンターで現地のつまみなのであろう豆の粉にスパイスを混ぜて薄く伸ばし焼かれたおつまみを頬張りながら、カタリナは暫しの涼を得ていた。
 グラスを傾けるペースも遅くゆっくりと過ごしていたカタリナだったが、やがて間も無く日が沈まんとした頃になって店内のそれまでの客層とは雰囲気の事なる二人組が随分と陽気な様子で店内に来訪した。
 来訪した二人ともが鍛え上げられたがっちりとした体格をしており、麻で作られた肌着の上には、この地独特の通気性に優れる改良を施された鎧。そして腰には、その一つ一つが職人の手彫りと思われる見事な紋様付きの剣。
 その装いから察するに彼らは、十中八九リブロフ軍団の人間だった。
 だが彼女の目からみれば、明らかに彼らがこんなところにこうしているのはどうにも様子がおかしい。
 なにせ普段は彼らも非番となれば鎧を脱いで寛ぐはずだし、逆に警邏の途中であれば、今まさにカウンターに座ってエールをオーダーしている事自体が軍団規則に反するだろうからだ。
 となれば、答えは一つ。
 彼らの装備は、臨戦体制。いつ何時の招令にも対応できる状態の確保。
 つまり今このリブロフは、何処かと交戦中、ないしはそれを強く警戒しているのだ。
 カタリナからは少し離れた席に座った彼らは、間も無くカウンタースタッフから突き出されたエールジョッキを掲げて、意気揚々と飲み始めた。
 多少興味をそそられたカタリナはカウンターのマスターに声をかけ、すぐさま二人に一杯ずつエールを振舞った。
 目の前に現れた突然のお代わりに目を丸くした兵士二人は、マスターのサインでカタリナに顔を向ける。
 そこでカタリナがわざとらしくローブで隠した口角を僅かにあげて微笑むように瞳を薄めると、二人はお互いを見合ったのち、我先にとカタリナの両サイドに陣取った。

「おネエさん、他所からきたの?ローブめっちゃ似合うね。色っぽいわー」
「つかキミ今さ、俺らがここの憲兵だってわかってて奢ったでしょー。ほんとはダメなんだよー、それ。まぁ今日は勿論見逃しちゃうし、そんかわり少し付き合ってくれよな?」
「あら・・・ふふ、お二人とも慣れていらっしゃるのね。でも先ずは、ここで私たちが出会えた事に祝杯を。そうでしょ?」

 そういってグラスを軽く掲げたカタリナに、兵士二人は満面の笑みで杯を合わせた。二人がその杯を豪快に飲み干す様を見てクスクスと笑いながら自らもグラスを傾けつつ、彼らの視線や仕草の一つ一つにそれとなく注意を払いながら世辞を飛ばし、話題を振る。

(なんだか私もこういうの手慣れてきちゃったなー。なんか複雑・・・)

 そのような心中はどこ吹く風か、カタリナはすっかり上機嫌な二人の兵士の話し相手をしながら、次に、その次に話す内容とその流れの先を頭の中で精査していった。

「・・・そういえばお二人とも、それ、脱がないのね。今、そういう感じなの?」

 自社の取扱品目を頼りに自らを行商人という事にして少し世界各地の事を話して聞かせ、各地でこうして誰かと話をするのが趣味なんだと適度に杯を合わせながら酒を飲み、当然最初は抱かれていた警戒心と緊張感が程よく解れた頃合い。
 さも今気づきましたとばかりに、カタリナはいよいよ話題の変換にかかった。
 兵士二人はそれまでに気持ちよく飲みながらカタリナの話に相槌を打ち、その脇でちょくちょく身体に触れてこようとしたりするが、そのようなお手つきはそれとなく回避しつつ。

「へぇーおネエさんやっぱわかるんだねー、さすが世界を渡り歩く行商人だ。ま、ファルスとスタンレーの会戦を間近で見てたらそりゃー察しちゃうよね。今はあれさ・・・」

 本来はこの様な兵役に関わる話は非常に繊細な扱いをしなくては、直ぐに間者を疑われる。だが今となってはそのような心配もなくなったようだ。
 兵士の一人は機嫌良く喋りながらジョッキを掲げ、バーカウンターの後ろに貼り付けられている地図を示した。
 生憎とカタリナの位置からは彼がその手で何処を指し示しているのか全くわからなかったが、その次に紡がれた言葉は彼女にとって久しぶりに聞く言葉だった。

「北東の青二才侯爵国家、ロアーヌと交戦中なのさ」

 その瞬間、二人は耐え難い急激な寒気を全身に感じて突然身を震わせた。
 彼らに挟まれる形で座っている女から発せられた強烈な『何か』に、当てられたのだ。

「ロアーヌと?・・・そうなの。その話・・・できればもう少しだけ詳しく聞かせて頂戴?」

 先ほど出会った時と同じく、彼女の瞳は静かに薄っすらと細められた。
 だがストールに隠れたその口角は、今は間違いなく笑顔を形作ってはいないだろう。
 それが分かってしまっても、最早二人には直様その場を去るという選択肢は持たされてはいなかった。




 翌暁、現地の商隊に同行してカタリナは予定通りアクバー峠からナジュ砂漠へと出立した。
 昨晩になにやら二人の兵士が宿泊先の宿の裏で昏倒しているのが見つかったという事件があったようだがそんな事には目もくれず、一行は一路、神王の塔を目指す。
 行程では駱駝という動物に乗る事となり、初めて見る背中に瘤のある不思議な動物に、カタリナは目を丸くしたものだった。砂漠では馬よりも断然駱駝なのだそうだ。
 ちなみに今回旅路を共にする商隊は、元ナジュ王国の地にある珈琲豆栽培を営むエルブールコーヒーというブランド名の農家なのだそうだ。
 彼女も出立の際に自慢の一杯を馳走になったが、それは普段飲んでいるものとは全く異なり、たっぶりの砂糖と香辛料を加え小さな専用の鍋で作られる一杯だった。生まれて初めて飲む味だったが、濃厚なコクと風味豊かなスパイスの香りがよく合っていて、これはこれでとても気に入った。他にも別の香辛料を加えた飲み方があると聞かされ、道中にそれも飲ませてもらえるらしいということで、カタリナはそれをとても楽しみにする事にした。
 そうしてしばし駱駝に揺られて砂漠を渡っていくと、彼女はとんでもなく奇妙な光景に出くわすこととなった。
迷い込んだものすべてを乾涸びさせてその命を吸いつくさんとする灼熱のこの砂漠の中を、なんと驚くべきことに数人の集団が杖をつきながら今にも倒れてしまいそうな様子で必死に歩いている姿が彼女の視界に飛び込んできたのだ。
 それをみて思わず目を疑ったカタリナがたいそう焦り気味に同行していた商人達に声をかけると、彼らはそれをちらりとだけ見てからカタリナに顔を向け、誰もが揃って首を横に振るのだった。
その目はこう語っていた。あれには触れてはならない、と。
だが明らかにあのままでは死人が出てもおかしくなさそうな状況であるというのに放っておくなど如何なものかとカタリナが頻りに集団の様子を見ていると、同行者の中で比較的若い男性が彼女の横に駱駝を寄せ、小声で教えてくれた。

「彼らは、敬虔な神王教徒。彼らは神王の塔に行くため、そこで来たるべき時に現れる神王の祝福を受けるため、死を恐れずにナジュ砂漠をその身一つで渡る。だから、邪魔をしてはいけない」

 言われて、改めて徒歩の集団を横目で眺めてみる。確かに彼らはこちらになど見向きもしないし、その瞳は真っ直ぐに地平の向こう、神王の塔へと向けられている。
聖王を信ずるものも極めれば山籠り等をしていたりすることもあるらしいとは確かに文献で見たことこそあるが、しかしそれにしてもこの行為は自殺行為としか彼女には思えなかった。

「彼らは十年前に多くの血を流して戦い、自らあの地をもぎ取った。そしてそこに十年前から、天へと続く塔を建設し続けている。その一部分一部分が、彼らの血肉といっても過言ではない。彼らはああして日夜信仰心を高め、今は神王の到来を静かに待っている」

 それは彼女にはとても理解できなかったが、それが彼らの信仰心の表し方なのだというのであれば、そうなのかと頷くまでだ。
 カタリナは最後にもう一度神王教徒たちを振り返り、そして前に向き直った。
 彼らと同じく、自分にも命を賭して目指さねばならぬものが、この先にあるのだ。
 カタリナは今一度気を引きしめて、彼方に垣間見える神王の塔を見据えた。






最終更新:2015年02月17日 13:41