「退け、退けぇーー!!」

 幾重にも折り重なって飛び交う怒号の中、リブロフ軍指揮官ヴラドが無念を多分に滲ませながら全軍退却を叫ぶ。それを耳にしたラッパ兵がそれもやむなしと言わんばかりに即座に全軍退却を知らせる合図を甲高い金管音で鳴り響かせると、最早隊列すら保てなくなりつつあったリブロフ軍前線兵士達は命からがらと言った様子でその場から後退していった。
 その様子を自軍後方から確認して不要な後追いは控えるよう指示を飛ばしたミカエルは、並行して直様野営に適した場所を周囲から探ってくるよう斥候を飛ばした。
 目前の戦に決着はついたが、現在進軍している進路の先に控えるリブロフ軍の出城の攻略に早急に着手するため、早急に軍議を開かねばならないのだ。
 それに先立ち各部隊からの損害状況についてミカエルが報告を受けているところへ、派手に泥で汚れた鎧をいくらも気にする事もなく、ズカズカとミカエルの元まで歩み寄ってくる青年がいた。
 今回の作戦の最前衛を務めた、コリンズ部隊長だった。

「ミカエル様!騎士コリンズ、ただいま前線より帰還いたしました!」

 そう言ってにこやかにロアーヌ式敬礼をするコリンズを見て、ミカエルは彼にしては珍しく口の端を少し上に曲げながら労う様に彼の肩に手を載せた。
 その拍子に鎧に飛び散っている泥がミカエルの手や衣服にも付着するが、その様な事はお互い気にしていない様だ。

「コリンズ。此度の作戦、本当に良くやってくれた。お主の疾風の如き速攻突撃がなければ戦線は伸び、我が軍のこの地での被害は多大なものとなっていただろう」
「いえ、昔っから私が得意なのは速攻ですから、その旨を覚えていただいていた上でご拝命いただけて光栄でした。むしろあそこでミカエル様が相手の思惑を察知し沼地を速攻で越える進軍を指示してくれなければ、我々は足場の悪い沼地で抑えられて大打撃を被っておりましたでしょう。しかし沼地を越えることに集中しすぎて、衝突後のニノ手は我ながら切れに欠けました。こんな事ではまたカタリナに怒られ・・・あ」

 褒められて照れ笑いを浮かべながら上機嫌に喋っていたコリンズは、思わずそこで口を閉じた。
 周囲に控えていた騎士達も思わずぎょっとした表情をしたが、しかし目の前のミカエルは何ら気にした素振りはない。
 そのまま有耶無耶に笑ってごまかしながらコリンズが下がっていくと、ミカエルは周囲に一時間後の軍議を指示して幕舎へと向かった。

「馬鹿かお前・・・!侯爵様の前であいつの話はご法度だろうが・・・っ!」

 近くに控えていた同期の騎士であるライブラに小突かれると、コリンズは己の失態を誤魔化す様に頭を掻いた。

「いやー、すまんすまん・・・つい・・・な。しかし、ミカエル様は本当に大丈夫なのだろうか・・・。我々のようなものが心配しても仕方ないのだろうが・・・最も信頼していた部下が国宝と共に手元を離れ、最愛の妹君を不慮の事故で失った。だというのに、まるでそのようなことなど一切なかったかのようにこれほど迄に力強く精力的に活動なされている。むしろ、旺盛に過ぎると言っていい様にも感じられる・・・。いつかお倒れになってしまいやしないかと・・・な」
「・・・こら、無駄口を叩いているでない!持ち場に戻らぬか!」

 コリンズとライブラの背後から、突然声が掛かる。二人がそれに驚いて慌てて敬礼をしながら振り向くと、そこには彼らの上官であり本遠征の本陣指揮を任されているラドム将軍が立っていた。

「失礼いたしました!持ち場に戻ります!」

 二人が大慌てでその場を去るとラドムは二人を見送りながらため息を一つつき、ミカエルのいる幕舎へと入った。

「・・・失礼します。ミカエル様、ラドム、ただいま戻りました」
「ラドムか。此度の作戦もご苦労だった。後方の安定感は流石だったな」

 卓上に広げられている斥候によって細かく書き込まれた地図を眺めていたミカエルは、ラドムに労いの言葉をかけながらテーブルに手をついて立ち上がった。
 するとその瞬間、体重をかけていた手が滑り、ミカエルは思わずバランスを崩して地面に膝をついてしまう。

「ミカエル様・・・!」

 直ぐさま駆け寄り、慌ててミカエルの体を支えるラドム。
 ミカエルの体は騎士達と同じく鍛え上げられているはずなのに、ラドムには酷く軽く感じられた。
 ミカエルの肩を支えながら椅子に座らせ、近くに用意されていた水を手繰り寄せる。そして香りを掻いで一口のみ、毒味をする。これはフランツ侯暗殺以来の、ロアーヌ臣下の習慣だ。その上で問題ないことを確認すると、ミカエルに一口飲ませた。
 間近から確認できたミカエルの表情には、明らかに疲労が溜まっていることが見て取れた。

「・・・ミカエル様」
「・・・言うな、ラドム」

 何かを言いかけたラドムを、ミカエルはゆっくりと首を横に振りながら遮る。

「一刻も休んでいる暇など、今はないのだ」

 そうとだけ言ったミカエルは、自ら背筋を伸ばして深呼吸すると、もう一度水を口に含んでから立ち上がった。

「予定を早める。十分後に軍議を行うので、各部隊長に通達を」
「・・・畏まりました」

 ミカエルの言葉に沈痛な表情でラドムが頷くと、ミカエルは目を細めながら、腰の高さまで上げた自らの両手に視線を落とし、何かを確かめるように拳を握った。

「なに、私とて自分の体の限界はわかる。そして、私が倒れてしまった場合のリスクも弁えているつもりだ。だから、そうならぬようにお主達には働いてもらうのだ・・・宜しく頼むぞ」
「・・・御意」

 ラドムはミカエルのその言葉に今一度頷くと、踵を返して幕舎を出て行った。
 その背中を見送り、ミカエルはゆっくりと椅子に腰掛け直す。
 するとまた幕舎の外に、微かな人の気配が感じられた。

「・・・フォックスか。入れ」
「・・・お疲れとは思えない察しの良さですね」

 そういいながら入って来たのは、ロアーヌ騎士とは似ても似つかぬ軽装備の、風変わりな女だった。
 フォックスと呼ばれたその女は、懐から丸められた羊皮紙を取り出すと、徐にそれをミカエルに手渡す。

「この先の出城では、リブロフ軍は大型の投石機を城門上に三機配備しています。配置はそこに記しておきました。指揮官はラザールという男で、大した実戦経験もない小物ですが・・・総じるに矢張り、地の利が少々厄介ですね。」

 フォックスがそう言うと、ミカエルは羊皮紙に書き込まれた配置図を眺めながら顎に手を当てた。

「・・・弓兵は用意できるか?」
「正面から行くのですか?・・・畏まりました。お任せください」
「五分後に軍議を行う。それまでに用意できる数は把握できるか?」
「後方に待機させている部隊と斥候を合わせれば、明日の朝には四百程度には」

 フォックスがすらすらと答えるとミカエルはそれに満足そうに頷き、集めるように指示を出した。
 それに応えたフォックスは直ぐにその場を去ろうとしたが、ふと思い出したようにミカエルに振り返る。何事かとミカエルが視線で問いかけると彼女は何枚かの魔力で写しこまれた写真を腰のポーチから取り出し、ミカエルに手渡した。

「忘れてました。ピドナのラビットからです。お元気そうですよ」
「・・・そうか」

 ミカエルが反応薄そうにその写真を受け取ると、フォックスはにこりと笑いながら改めてその場を去って行った。
 手元の写真に視線を落とせば、そこには快活そうな笑顔を覗かせているモニカや、スーツ姿のカタリナ等が写っている。
 どのような場面かは知らないがずいぶんと無防備に写されているような気がするのが多少不安ではあるが、兎に角元気そうである事には間違いない。
 ミカエルはそれらの写真をすぐ懐にしまうと、再び敵陣配置が書き込まれた羊皮紙に視線を戻した。

「・・・失礼します。ミカエル様、もう間も無く軍議のお時間ですが・・・おや、何か良い知らせでもありましたか?」

 数分後に再び幕舎に顔を覗かせたラドムは、珍しくうっすらと目が笑っているミカエルを見てそう問いかけた。

「いや、何でもない・・・よし、軍議を始めよう」

 ミカエルの掛け声と共に外に待機していた部隊長たちが次々に幕舎に入ってくる。
 幕舎中央の卓上に現地の地図と先程フォックスから受け取った投石部隊の配置図を広げ、先刻までの疲れなど微塵も感じさせぬ力強い瞳で以てその場の全員を見渡し、ミカエルは軍議を始めた。







最終更新:2015年07月30日 12:44