ロアーヌ軍制圧下の出城にて行われたロアーヌ侯爵ミカエルと神王教団教長ティベリウスの会談は、それまでの両軍が相見えた戦の数と規模からすれば驚くほど静かに、そして呆気なく終わった。
 この会談により、両軍間にて不可侵条約を締結。またロアーヌ侯国は相応の戦勝金の確保と何より神王教団領地内に在外公館を持つこととなり、それに伴う幾つかの両国間での決め事を制定した。これによりロアーヌ侯国は、神王教団の活動の制限をしない事を条件としてナジュまでの影響力を多大に有することとなった。
 そしてリブロフ軍に関し、ミカエルはこの機を逃さず大きく攻勢に出た。
 先ずリブロフ総督バイヤールの戦争責任を深くは追求せず、ルートヴィッヒへと一連の事の顛末を書状に認めて送るに留めた。ピドナの近衛軍団からすればこれは拍子抜けといっていいほどあっさりとした決着だったが、その実これはルートヴィッヒにとっては実に芳しくない着地だといえる。
 まずリブロフ軍は連敗に次ぐ連敗で完膚無きまでにロアーヌ軍に叩きのめされたという事実だけが全軍に重くのしかかり、ナジュを起点としてリブロフを睨む事となったロアーヌに対し、必要以上に怯えた。なにより総督たるバイヤールがリブロフの城門警戒態勢を戦時非常事態と同等まで引き上げた上で自室に篭りきりとなってしまったといい、現在のリブロフはほぼ軍団として機能しなくなってしまったのだ。一般渡航者の入国も規制が入っているらしく、正に戦時下と同等と言ってもいいほどだという。
 だが、それをミカエルは書の中で寧ろ大きく称賛してみせた。曰く、神王教団との共闘という過ちに気付いた後の迅速な撤退と、ナジュからの侵攻に備えた首都警備の速やかなる補強。リブロフという要所を押さえるに相応しい総督としての判断であり、おかげでこちらも後顧の憂無く、又、余計な刺激も与えずナジュの信頼を得て会談に臨む事ができた、と。
 この称賛により、ミカエルは王都からリブロフへの軍の派遣、もしくは大々的な援助や監視強化を防いだのだった。逆に今回もしロアーヌがリブロフの一連の行動を強く非難し王都ピドナに責を問えば、それは王都主導によるリブロフの現行体制の粛清とナジュ方面への近衛軍団による干渉を生むことになったかも知れない。むしろルートヴィッヒならば、それを狙っただろう。
 だが、それは今回は我々ロアーヌの役目であり、この上で後からリブロフに派兵でもしようものならば我々の会談と話が食い違い、裏切りと取った神王教団が何をしでかすか分からない。そう、暗にミカエルは書状によってルートヴィッヒに申し伝えたのだった。
 リブロフは王都の意向をを汲み、異教たる神王教団を拝するナジュ地方の監視を外からしてもらう。そして我々は直接戦勝国として神王教団と対談し、その結果拝する神こそ違えど義により彼らの信を得るに至った。故に我々は現地に在外公館を設け、内から監視をする。これによりナジュでの利益も聖王信仰諸国へと循環させ、王国の更なる発展に寄与しよう。そう、ミカエルは結んだ。
 元来メッサーナ王国を中心とする西方諸国は明確にこそ決められていないものの、その領地は爵位と共にある程度限定されている。無論未開地の開拓は当然許される範囲ではあるが、それ以外の地を侵略したり、ましてや爵位領土同士での争いなどは以ての外とされており、それは現行の法としても厳しく定められている。もしこれを破ることがあれば、王国が総出で潰しにかかる、という構図だ。つまり、侵略が許されるのは実質近衛軍団を擁する王都のみと言える。
 一方ロアーヌ侯国は西方が内海玄関口となるヨルド海沿岸ミュルスまで、そして東方はシノンを開拓しているがその先には腐海が待ち受けており、北は伯爵領地で関を設け、南には偉大なるエルブール山脈が横たわる。開拓と成長の余地は腐海を超えぬ限り既に限界が見えているといっても過言ではなかったのだ。
 だが今回の件で、ロアーヌは現状で唯一ナジュと友好的な関わりを持つことと成った。しかもその実はロアーヌが上であり、今回締結した条項の中には有事の際の相互協力も含まれている。これは終戦の流れの中でリブロフが完全に無干渉を貫いてくれたからこそ出来た構図とも言えるので、ミカエルはそういう意味では本当にバイヤールに感謝しているだろう。
 侵略ではなく、あくまで会談の末の双方合意による監視体制、そしてリブロフ総督の行動の肯定。これらにより、ロアーヌは他国に先んじて実質的な国力増強を成したといえる。
 王なき今のメッサーナ王国に、これに表立って異を唱えられる者などいるはずもなかった。これはロアーヌにとって、今までにない大きな躍進といえる。
 あとは王都での後継問題が膠着している間に体勢を確り固める事が肝要とし、明日には出城とナジュ本土に入国する部隊がロアーヌ本国より出城へと到着する予定だ。これと入れ違いに、ミカエル率いるロアーヌ軍本隊は一度ロアーヌへと帰還する。







 夜空に煌々と輝く月と星たちが、城壁の縁に立って彼らを見上げたカタリナの瞳に映し出される。
 連日の戦勝祝賀会と称した大宴会でいい加減酒の飲み過ぎですっかり出来上がった非番の騎士団仲間から、カタリナは隙を見てやっとの事で逃れてきたのだった。
 確かに祝杯が連日に及ぶのも無理はない程の勝利ではあるのだが、中でも、彼女は今回の連戦の最後の勝利を無傷でロアーヌに齎らした勝利の女神だなどと持て囃されてしまい、これにはほとほと参ったものだった。
 それを現在の主力となっている同期の騎士団仲間や年上のベテラン勢には多大に揶揄われるし、モニカの侍女となった故にあまり関わりのなかった年下の騎士団新米勢からは此方が気まずくなるくらいに羨望の眼差しを向けられてしまっている。
 特に不味かったのが、ティベリウスを案内してきたときの格好だった。
 神王の塔でのマクシムスとの戦闘でノーラに作ってもらった鎧がかなり損傷してしまったので代わりになりそうなものをナジュにて見繕ったのだが、ここでは女性兵士という概念がなく、彼女に合いそうな兵装がなかった。なので仕方なく現地の民族衣装(サリーというらしい)に肩当てや剣帯を装着し月下美人とマスカレイドを装備して、足元は聖王のブーツを装着した。
 このサリーが非常に色鮮やかで模様の豪奢な作りなもので、丁度ロアーヌの様な敬虔な聖王信仰の地では何かの儀式でもない限り身に纏わない様な煌びやかなものだった。かつ風を纏う聖王のブーツの風圧でそれが常にゆったりと靡くものだから、彼女の周りだけ空気の流れが異なるのが視覚で丸見えなのだ。
 それらが相まった姿を見た騎士団連中の誰かが言い出した『まるで女神のようだ』という言葉が拡大解釈を重ね、此度の事態を招いているというわけなのである。

(全く冗談じゃないわ。皆、本物の女神様を見たことないから私をそんな風に揶揄えるのよ)

 頭の中ではピドナのミューズの姿を思い浮かべながら、小さく毒吐く。因みに今は流石にその格好に懲りたので、アクバー峠の市場で急遽購入した白いドレスシャツと藍の色合いが美しいロングスカートの姿だ。戦闘にはどちらかと言えば不向きだが、普通に過ごすにはゆったりとしていて着心地が良い。無論のこと、剣帯は欠かしていない。
 そう言えば彼女と共にもう一人、今回の戦にて軍神と讃えられた人物がロアーヌ陣営にいたらしい。らしい、というのは彼女はその人物をそもそも見ていないからだった。しかし話を聞く限りでは、彼女は恐らくその人物を見知っていた。
 特徴的な帽子に愛用のフィドルを肌身離さず、帯剣するは聖王遺物最強の一角と目される七星剣。そんな人物は世界広しといえども、あの胡散臭い聖王記詠み以外にいるはずもない。
 詩人は神王の塔にてカタリナと別れた後、どうやら単身アクバー峠を目指したらしい。そのまま峠を抜ける折にロアーヌ軍が神王教団の軍勢に奇襲を受けているところに鉢合わせ、絶体絶命のロアーヌ軍を七星剣の力の解放により救ったのだという。そこから何故か彼はロアーヌ軍に合流して暫く過ごし、ナジュ砂漠まで戻ってきたのだそうだ。そして彼はミカエルらと共に砂漠戦の軍議にも参加し、敵陣の異変に気付いてティベリウスやカタリナを迎えるために皆が軍議を行っていたテントから出るところまでは一緒だったことが確認されていたようだ。
 だがカタリナがミカエルと再会したとき、そこには詩人などいなかった。
 元々神王の塔で別れる時も七星剣だけ持ってふらっといなくなってしまったので、カタリナ自身は彼がそうして忽然と消えてしまったことにも何ら驚きもしなかった。だが軍内では彼の離軍をとても残念がる声が多かったらしく、あんなに人を食ったような態度の割りにカタリナとしては意外だったものだ。
 未だあの詩人の正体と目的は分かっていないが、少なくとも今回は我々に加担してくれたようなのでまた会うことがあればそこは一応感謝せねばなるまいと考える。
 そこまで回想していたところで、俄かに緩く暖かい夜風がその場を吹き抜けた。その風を受けながら、カタリナは自分の腰に装着している聖剣マスカレイドの柄にそっとに手を当てつつ、改めて夜空を見上げる。
 今宵の月は格別に大きくて明るく、見る者を惑わそうとするかの如く美しい。これはまるであの夜のような月だと、カタリナは見上げながらぼんやりと考えた。
 聖剣マスカレイドを奪われたあの夜から、まだ一年も経ってはいない。しかし感覚的には随分と長い旅の末に、やっと今こうしてここに立っているという気すらする。それだけここに至るまでの旅路が今までの彼女の人生にはなかった発見と驚きの連続で、その圧倒的密度の経験を彼女の頭が処理し切れていないのかも知れない。
 だがそんな感覚に包まれていてなお、発端となったあの夜のことはまるで昨日のことのように鮮明に思い出される。
 忌むべき、自分の人生に於いて最大の汚点。そして、今の自分へと連なる出発点。
 あれからとてつもなくいろいろなことが自分の周りで起き、またそれに関わってきた。今となっては、あの夜の出来事は自分にとっては必然だったのかもしれないとすら思える。あの夜以降で、彼女の身の回りから失われてしまったものは多い。あの時マスカレイドを奪われずにあのままであれば享受できるはずだったものが幾つも、それこそ永遠に失われたのだ。
 だが、その代わりに得たものもまた多かった。旅先で出会った様々な人々、その都度に得た経験。その上で今、こうして夜空を見つめる自分自身。それらはあの出来事無くして、絶対に得られなかったものだ。
 どちらであればよかったとは、最早カタリナは思わなかった。そのどちらもが今となっては、甲乙など付け難いのだ。
 さらに言うなれば、どうやらこの先もまだまだ自分の予想し得ない事が色々と起きる予感がある。今この瞬間もまた、途中経過に過ぎない。この数日、近年には無い歴史的な戦勝に沸く騎士団仲間と共に彼女も又この旅に出ることとなった悲願を達したこと自体は素直に喜びながら、そのようなことをずっと考えていた。
 そんな中どこかあの夜に似ている今宵は、もしかしたら私の新たなる出発点なのではないか。今この瞬間が、何故かそのように感じられたのだ。
 騎士を目指すきっかけとなった死蝕が、第一の転機。マスカレイドを奪われたあの日が第二の転機。そして今日がその次、第三の転機へとなるのではないか。
 そんな事を、月を見上げながら想う。
 丁度そんなことを考えていたものだから、背後から自分へと近づいてくる気配に振り返ったカタリナは、一瞬だけ必要以上に目を見張ってみせたのかも知れない。
 そこに立っていたのは、ミカエルだった。

「・・・どうした、気分でも優れないのか?」

 カタリナのそんな表情が予想外だったので、ミカエルは軽く眉をひそめながら目の前のカタリナにそう声をかけた。
 だが、声をかけられた頃には穏やかな表情を取り戻していたカタリナは、ゆっくりと頭を振ったあとでミカエルに微笑んで見せた。もう、あの夜は来ない。あのようなことは、繰り返さない。そう、彼女は決めたのだ。

「いえ、申し訳ありません。特に体調が優れぬという訳ではなく、少々夜風に当たりに。ミカエル様こそ、お体の調子は如何で御座いますか。戦続きで大分ご無理をなされていたようだと伺いましたが・・・」

 カタリナが同期となる騎士のコリンズ達から聞いていた話を元に返すと、ミカエルは軽く口の端をつり上げるようにして笑いながら片腕だけを竦めてみせた。

「・・・全く、伝わらんでも良いことは確り伝わるものだな。心配には及ばぬ。お陰様ですっかり体調も回復した」

 ミカエルのその妙な言い回しに、カタリナは瞬きをしながら小さく首を傾げた。

「いえ、私は何も」
「いや、あながち間違いではあるまいさ」

 そう言ってなにやら不敵に微笑んで見せたミカエルは、ふと周囲に視線を走らせた。それをカタリナが特に気にするでもなく眺めていると、彼はそのまま半身だけ後ろに下がりながら、カタリナに声をかける。

「話をしたいのだが、どこに耳があるか分からぬので場所を変えたい。少々つきあってもらえるか」
「はい、畏まりました」

 ミカエルの申し出に二つ返事で頷いたカタリナは、その返事を聞いて歩き出したミカエルに続いてその場を後にした。





「トゥイクのワインも、意外と馬鹿に出来なくてな」
「ふふ、トゥイクといえば赤が主流でございますしね。ミカエル様好みのものも多いかと存じます」

 監視を主な目的として建てられたであろう出城の中ではどうやら客間に当たるのか、案内された部屋は他の無骨極まりない場所に比べれば幾分か落ち着けそうな空間だった。
 既にデキャンタージュされていた赤ワインをミカエルが自らグラスに注ぎ入れ、カタリナに差し出す。それを会釈しながら受け取ったカタリナは、自分でも不思議に思うほど落ち着いた気持ちでその場に居られることに内心驚いていた。
 旅の最中はあんなにも焦がれる気持ちに振り回されたというのに、再会してからはまるで、そんな事実が全くなかったかのように自分の中の気持ちが穏やかになっている。
 つくづく現金なものだなぁ、と内心呆れてみる。

「特にこのトゥイク北西地区の固有品種で作られた銘柄が中々好みでな。ロアーヌにはない味わいだ」
「ええ、私も多少なり存じております。リブロフではワインの王様、王者のワイン等と呼ばれているようです」
「ほう、王者のワインか。悪くないな」
「ええ」

 他愛のない会話の掛け合いをしながら、お互いにグラスを掲げ、ワインで唇を潤す。
 ジビエによく合いそうな濃く深みのある口当たりは、ロアーヌのワインが持ち味とするシルクのようなエレガントさとはまた違って非常に男性的な味わいに感じられる。テーブルに用意されたブルーチーズも現地のものと見受けられ、塩分の強い味わいがまたワインと良く絡み合う。

「・・・漸く、ゆっくり話せるな。では、聞かせてくれないか」
「はい」

 ミカエルの問いかけにしっかりと頷いたカタリナは、少々俯いて手元のワイングラスの水面を見つめた。話すべき事はわかっているのだが、果たして何から話していいのかと一瞬考えてしまったのだ。それだけ話したいこと、話さなければならない事が多すぎるのだ。
 ミカエルはそんな様子のカタリナを急かすことも無く、ゆっくりとグラスを傾けながら彼女の言葉を静かに待った。
 やがてある程度筋道立てが済んだのか、カタリナは再びミカエルと視線を交わらせる。

「まず最初に、差し出がましくもお許しを頂きたい事が御座います」
「聞こう」
「聖王遺物である国宝、この聖剣マスカレイドの御返上。これを今暫くお待ち頂くことを・・・どうかお許し頂きたいのです」

 言葉と共に己の剣帯から優雅な装飾の鞘と共に取り外した聖剣マスカレイドをテーブルに置くカタリナに、対するミカエルはその動作を目で追いながら薄っすらと視界を細める。

「重ねて、理由を聞こう。恐らくは、その王家の指輪と関係があるのであろうがな」

 続いてカタリナの左手に嵌められた指輪に一瞬だけ視線を走らせながらミカエルがそう言うと、カタリナは肯定の証として先ず小さく頷いた。

「はい。これは当初はピドナの魔王殿にて入手した物ではありますが、後に聖都ランスに赴き聖王家当主オウディウス様とお会いして入手の経緯等をお話しした折に、その場の結論として暫く私が預かる事となりました」
「・・・つまりはカタリナが八なる光の一人、ということなのか」
「・・・そのようです」

 大凡を察していたらしいミカエルの言葉を、隠すことも無く素直に肯定する。それからカタリナはロアーヌを出てから今までのことを一つ一つ、ミカエルに聞かせていった。
 ミュルスでトーマスに出会ってから旅が本格化し、聖王三傑と称された初代メッサーナ国王パウルスの子孫であったということが後から分かったクラウディウス家のミューズとの出会い。ピドナの魔王殿で出会った正体不明の少年や、地下迷宮でのアラケスとの対決。フルブライト家現当主であるフルブライト二十三世との邂逅と、ベント家のバックアップを受けながらの世界経済への参入。アラケスの予言を受け手がかりを求めて聖都ランスへの巡礼と、オウディウスやヨハンネスとの出会い。そしてその旅路で出会った仲間の内何人かがピドナに集った折、八つの光として恐らくミカエルと同じ幻を共有したこと。
 そこまで話し、カタリナはここでこれも言わなくてはなるまい、と意を決して姿勢を正した。
 カタリナの様子の変化を見て取ったミカエルが視線で続きを促すと、カタリナは一度ワインで唇を濡らし、ミカエルの瞳を見つめた。

「私と共にピドナにてその幻を見たのは奇しくも、あのゴドウィンの変の折に宮廷の謁見の間に集った勇士達でした。即ちハリード、トーマス、ユリアン、エレン、サラ、そして・・・モニカ様です」

 その言葉の終わりと共に、静寂が部屋の中を支配する。
 正直、どんな反応が来るのかも分からなかった。ただトーマスやポールが調べた限りではロアーヌ侯家の公式発表上はモニカは数ヶ月前から消息不明となっていた以上、ミカエルの理解もその筈だと考えていた。そうなれば少なくとも、ここでのモニカ生存の報告は驚きが主な反応かとは予想していた。ただその後で色々モニカについては語らなければならないことも多く、非常に頭の痛い話題であることには違いがなかったのだ。
 だからこのあとに見たミカエルの反応は、カタリナにとっては全く以て予想外だった。
 なにしろモニカの名前を出したあとの静寂の後に、なんとミカエルはにやりと笑って見せたからだ。

「・・・ミカエル様?」
「私も、お前には話しておかねばならんことがあってな」

 カタリナの問いかけに、ミカエルは肘掛に片肘を立てつつそう言いながらもう一度、今度は少し悪戯っぽく笑ってみせる。その表情があまりに堂に入ったものであったから、カタリナは思わず視線を合わせ続けることが出来ずにワイングラスに視線を落としてから見上げるように彼を見た。あまり心臓に悪い表情はやめて頂きたいものだ。

「と、申しますと・・・?」
「モニカのことは、少なくともピドナにいる事は知っていたのだ。大凡の様子も分かっていた。何しろ、あの地には間者を放っているからな」

 因みにカタリナの社長姿の記事も見たがスーツ姿も意外と似合っていたぞ、とミカエルがいよいよ声を抑えられなくなったか、ふっと笑いながら言う。
 その言葉に、カタリナは瞬間沸騰したかの如く一気に耳まで赤くなりながら俯いてしまった。あのスーツ姿を、まさかミカエルに見られてしまっていたとは・・・余りの恥ずかしさに顔を合わせられる気がしない。
 いやいやそういうことでは無いだろう、と大慌てで思考を脳内で切り替える。

(確かに、考えてみれば普通の話だわ・・・そもそも各国に間者を放つのは今の時勢では当たり前の話だし、それこそ発行部数世界一と言われるメッサーナジャーナルの紙面に彼処まで大々的に乗れば、私の顔を知っている人間に伝わったって何ら可笑しくもない。当然そこで私もピドナの間者の観察対象に入る事は当然の成り行きであり、っていうかあれだけ変装の下手くそなモニカ様が見つからないわけもない。あぁ、くそとか言ってしまいました申し訳ありませんモニカ様・・・)

「・・・そうでしたか。寧ろ、それを聞いて安心致しました。私も急ぎミカエル様にお伝えせねばとは考えていたものの儘ならず、申し訳御座いませんでした」

 自分の話題には極力触れないようにしながら、ほほえみを作りつつ無難に返す。その返答にミカエルは再度肩を竦め、顎に手を当てた。

「まぁ、更に言えば先にメッサーナベント家からモニカの無事だけは知らされていたので、ピドナで確認したときもそこまで慌てはしなかったのだがな」
「ベント家・・・トーマスですね」

 どうやら、これに関しては先にトーマスが手を打っていたようだ。相変わらず痒いところに手が届く絶妙な補助をしてくれる。

「トーマス、か。なかなか面白い男よ。馬鹿正直に、ピドナにて匿っていると伝えてきた。此方が情勢的に王都に対して大それた動きはできないことも考えの上だったのだろう。それに最強の護衛集団が身辺警護をしているので身の安全は世界一保証する、とまで来たものだ。まぁ、ユリアンは元よりカタリナやトルネードまで居るのであれば、それも間違いではあるまい」

 いつになく上機嫌な様子でそう話すミカエルに、カタリナは恐れ入りますと首を垂れた。
 しかしそこでミカエルがふと黙り込み、それに合わせてカタリナも口を噤む。ワイングラスを傾けたミカエルはグラスをテーブルの上に置くと、真っ直ぐにカタリナを見つめた。

「お前はその聖剣マスカレイドで、何を成すのだ?」
「四魔貴族を、討ちます」

 言葉に一切の淀みなく、カタリナは即座にそう答えた。
 神王の塔の地下にて聖王遺物に触れたとき、彼女は確かに感じ取ったのだ。聖王遺物は、まだ己の役目が終わっていないことを強く示していた。聖王が後世に残した伝説の武具達は寧ろその輝きを増すばかりであり、それは聖剣マスカレイドもまた、そうだった。まるで眠っていた力が呼び起こされたかのように、マスカレイドから感じる力はゴドウィンの変の頃よりも強大に感じる。
 それに、彼女は聖都ランスにてヨハンネスにも約束をした。妖精族の長からも、討伐を頼まれている。何より、騎士として魔神アラケスに負けたままでいるわけには、いかない。自分に出来るところまではやってみようと、そう覚悟したのだ。
 そんなカタリナの返答を聞いたミカエルは、小さく頷くと座っている姿勢を正した。

「いいだろう、返還の延期を許可する。己が決めた道を進むがよい」
「有り難う御座います」

 再び頭を垂れるカタリナに対し、ミカエルはふと腕を組んで考えるような仕草を見せた。

「しかし・・・私が見た幻を顧みる限り、恐らく私も八なる光という解釈になるわけか」
「・・・はい。ただ先ほど申し上げた通り、私が知る限りでは指輪の記憶を見たのはミカエル様が恐らく九人目となります。聖王記に記されたパウルスの予言と異なる状況となっておりますので、これは伝説そのものに変化があったのかとは考えておりましたが・・・」

 これに関しては、やはりカタリナが自分で考えた限りでは明確な答えが出てこなかった。少なくとも聖王自身は記憶の中では八人に語りかけていたのだから、本来からすれば誰かが招かれざる者のはずだ。とはいえ、話を聞いた限りでは彼女の周りで同時に幻をみた面子は全員が同じ幻を見た。だとすれば魔王殿で出会った謎の少年が最も怪しいのだが、残念ながら件の少年とはあれ以来一度も会っていない。容姿は非常に特徴的だったのでトーマスに伝えた上で探してもらってもいるのだが、発見されたという報告もない。

「人数についてはさておき、私も八なる光の一であるのならばカタリナの進む道に向かわねばならないはずだ。少なくとも聖王様はそう望まれていたように見えた」
「ご質問をお許し下さい。ミカエル様は、あの幻を何処まで聞き取れたのでしょうか。私などには、残念ながら肝心と思しき部分が殆ど聞き取れず終いでした」
「それでは恐らく一緒だな。宮殿と思しき場面はまだ聞き取れたが、中空に浮かぶような幻覚の中では聖王様の声は掠れて意味のある言葉としては聞き取ることが出来なかった」
「・・・左様で御座いましたか。有り難う御座います」

 ミカエルの返答から自分や他の面子がピドナで見たものと同じであろうと考えたカタリナは、やはり別の方面から見ていく必要がありそうだと感じ、胸の下で腕を軽く組んで思案した。
 因みに、もしかしたらこの場合ミカエルと共に自分が旅をする等という展開がありうる物なのだろうか。そんな考えが彼女の頭の片隅を過ぎったが、そんなことになったら自分は果たして毎日正気を保てるものなのだろうか、と悶々としてしまう。
 斯様にカタリナが微妙にワイン漬けになった頭で考えていると、ミカエルはグラスを傾けた後に目の前のカタリナと同じように腕を組み、ふぅむと唸った。

「しかし、何故私やカタリナ、そしてそれらの面々が八なる光として選ばれたのだ?」

 当然出てくるであろうその疑問に、カタリナは明後日の方向に飛んでいた思考を引き戻して彼に向き合い、残念そうにゆっくりと首を横に振った。

「それに関しましては私達も考えを巡らせてみましたが、依然として不明です。寧ろミカエル様やモニカ様であれば聖王三傑たるフェルディナント様の直系の血脈であらせられるので納得もいこうというものですが、私やハリード、シノン出身の面々等は一体何故選ばれたのか・・・」

 『邪悪なるものを封じる』とされるものが国や軍ではなく八人であることの理由を語った詩人も、そこばかりは分からないと言っていた。勿論それが本当なのかどうかすらカタリナには分からないが、少なくとも今は未だ知ることが出来ない段階であるようだ。それは以前に妖精の里の長の反応から見ても、間違いなさそうではあった。
 カタリナのその様子を見ていたミカエルは一つ頷くと、自分とカタリナのグラスにデカンタからワインを注ぎ足した。

「まぁ、分からぬのならば今考えても仕方あるまい。本当に我々が八なる光であるのならば、いずれその理由も分かるであろう。続きを聞かせてもらえるか?」
「・・・はい」

 存外軽くその話題を流したミカエルに短く返答したカタリナは、ピドナでモニカと再会して以降のことを話して聞かせた。
 グレートアーチへと神王教団の手がかりを求めて向かった事、その途中で船が魔物に襲われ、混乱の中でフェアリーと出会ったこと。漂流の末に辿り着いた密林で妖精の里に招待され妖精の長と会話をしたこと。フェアリーと共にグレートアーチへ赴き、現地人の協力を得てピドナに戻り、カンパニーの上半期決算報告会の中で敵の誘き出しに成功しマスカレイドの行方を遂に知ったこと。神王の塔でのマクシムスとの対決により聖王遺物の多くを回収したこと。
 ミカエルに対しそれらの出来事を話して聞かせながら、カタリナは我ながらこの数ヶ月は矢張りとんでもなく濃い時間であったなと再認識した。
 道中で詩人と会ったことなども踏まえながら話し、ミカエルが時折挟んでくる感想や質問に応えながら時間が過ぎてゆく。
 気がつけばデカンタの中身はとうに無くなり、トゥイク地方の伝統的な食後酒とされる蒸留酒を頂きながら今後の動きについて話し合っていた。

「現状動きが確認されている四魔貴族は、アラケスとアウナスです。とはいえアラケスは先のピドナで起こった『予兆』以降の動きは分かりませんが、アウナスは妖精族に対して継続的に攻撃を仕掛けているようです。アラケスは魔王殿地下にいることは確認しており、アウナスの居城とされる火術要塞は、恐らく妖精族の力を借りればたどり着くことは出来ると思います」
「アウナスは、伝説に寄れば魔道にも通じた炎の騎士であるという。挑むにあたり準備が必要ならば協力は惜しまぬが」

 ミカエルのその申し出に有り難く感謝の意を述べながら、しかしカタリナは軽く首を横に振った。

「まだ四魔貴族に対する手段に関しては調べていく必要がありますので、もしお力を貸して頂きたい場合は必ず申し上げます。ことアウナスに関しては妖精族がよく知っていると思いますので、近く現地に赴き話を聞いてみるつもりです。聖王遺物の多くを手にした今ならば、あるいは即座に動けるかも知れません」
「そうか。では私はタフターンに目を光らせながら己のするべき事をし、お前の言葉に何時でも応じられるようにしておこう」
「有り難きお言葉。一刻も早くマスカレイド返還を成すべく、尽力いたします」

 そういって再度ミカエルに頭を下げ、グラスを傾けようと手に取った、その矢先であった。

「・・・・!?」

 唐突に頭の中に直接地震が起こったかのように視界が大きく揺らぎ、体が平衡感覚を失う。
 手から放たれた床に落ちたグラスが砕け散る音を遠くに聞きながら、カタリナは己の体を必死に支えるようにテーブルにしがみついた。更に遠くからミカエルのものと思しき声が飛んでくるが、それに応えようにも声を出すこともままならぬ視界の揺れが立て続けに襲ってきて、それどころではない。まさか酒にでも酔ったのかと馬鹿げた考えが一瞬脳裏に浮かぶが、直ぐに否定する。酒に酔ったことは幾度とあるが、こんな現象は体験したこともない。
 そうこうしているうちに、やがてぐるぐると回転を続ける視界が段々と落ち着いていき、その代わりにどこからか声が近づいてきた。

《・・・・さん・・・ナサン・・・タリナさん、聞こえ・・か・・・カ・・ナさん!》

 覚えのあるその声は、耳を通さず直接脳内に語りかけてきているようだった。その声をぐらつく脳で必死に思い出し、必死の思いで口にする。

「・・・フェ・・・アリー・・・?」

《カタリナさん!》

 遂にはっきりとその声が聞き取れたと思えば、一瞬にして視界は正常を取り戻し、ミカエルに支えられて椅子から崩れ落ちていた彼女は即座に立ち上がっていた。

「フェアリー? 一体どうしたというの?」
《説明は後です! 森が・・・大樹が・・・! 外を・・・!》

 片手を側頭部にあてがいながら脳内のフェアリーの言葉に耳を傾け、中空に向かってしゃべるカタリナ。
 その様子を見て怪訝な顔をしていたミカエルは、しかしそのままカタリナが慌てて部屋の外に駆け出してしまったので兎に角追いかける事にした。

(フェアリーとは先の話題に出てきた妖精族か。あの様子は遠方から何らかの力を用いて会話をしている・・・と言ったところか。一体、何が起こった・・・?)

 そのまま城壁部分まで出たミカエルは、物見塔の上に登っていくカタリナを見つけてさらに追いかける。
 そしてその塔を登りきると、カタリナが出窓の縁に乗り出さんほどの勢いで、南西の方角を見つめていた。
 つられて、ミカエルもその方向に視線を走らせる。
 その先に見える光景は、空に向かって昇り立つ赤い炎と、禍々しくうねる黒煙。
 それらが、夜空を犯していた。

「・・・何ということだ。カタリナ、まさか今燃えているのは・・・」

 ミカエルがそう言いながら彼女に視線を投げかけると、カタリナはミカエルに向かって苦々しい表情を浮かべながら頷いた。

「・・・妖精の里です。アウナス軍が妖精の里の母体である大樹を覆う結界をうち破り、大樹に火を放ったそうです・・・」

 そう言ってまたカタリナは頭に手を当て、歯をくいしばるような表情で南西を見つめた。恐らく、頭の中ではフェアリーと会話を続けているのだろう。
 ミカエルはカタリナを横目に塔の下に一度おり、二人の動きに反応して付いてきていた衛兵を呼んだ。

「ブラッドレーに通達。現在駐屯している部隊の中から至急、一小隊の編成を。密林調査を任務とする。三分隊で編成後、明朝出立準備をして待機」
「復唱します!一小隊を三分隊規模にて編成、主任務は密林調査にて明朝出立待機、以上をブラッドレー様に伝達いたします!」

 復唱にミカエルが頷くと、衛兵は即座に反転し駆け出していく。
 そのすぐ後に階段を駆け下りてきたカタリナに振り返ったミカエルは、状況を問うた。

「妖精族がアウナス軍相手に応戦中との事ですが、迫る火の手には殆ど対応のしようがない様です。一時的に避難をしているそうですが・・・」
「里は持たぬのか」
「・・・・・・。・・・はい、恐らく持たないだろうとフェアリーが・・・」

 カタリナの言葉に視線を細めたミカエルは軽く胸の下で腕を組み、垂れてきた己の髪を片手で掴んで軽く引っ張るような仕草を交えながらどこか一点を見つめた。彼が何かを思案するときの癖だった。

「長は、まだ無事でおられるのか?」
「・・・。はい」
「この先の戦いに妖精族の助けなくしてはアウナス討伐は成せぬだろう。どうにか長が逃げ果せるようにと。こちらから直ぐ一小隊を派兵する。救助に向かいたい」
「・・・伝えてみます。・・・・・・お願いしたい、と」

 カタリナの言葉にしかと頷いたミカエルは、カタリナについてくるように仕草で伝えると兵士たちの集まるホールへと向かって早足で歩き出した。
 その間にもカタリナを通じてフェアリーに細かく状況の確認を挟みつつ、頭の中でどう動くべきかを構成していく。
 急ぎ足で入ったホールには、既に整列をした兵士たちがミカエルを待っていた。散々飲んでいたとは思えぬその整列ぶりは、彼らが矢張り日々精神鍛錬も含めて鍛え抜かれた軍団であることを表している。
 その先頭に立っていたブラッドレーが、ミカエルの前まで進み出て敬礼をする。

「小隊はフォックスのシーフギルドを中心に軽装での行軍を可能とするように組んでおります。分隊それぞれにコリンズ隊から早馬を当てがい、拠点駐屯地形成時に連絡を素早く飛ばせるようにしております」

 ブラッドレーの報告にミカエルは短く頷く。そして彼はその場の全員を見渡しながら声を張り上げた。

「もう外を見た者もいるだろう。今、南方の密林にて遂にアビスの魔の者たちが動き始め、現地で妖精族が襲われている。我々は敬虔なる聖王教徒として、三百年の昔に聖王様と共に戦った盟友を助けなければならない。現在妖精族はその長がなんとか逃げ果せているところのようだ。選抜部隊は明朝暁に本拠点を出立、妖精族の救助に向かう。残りの者は本拠点を仮の救助本部とし、救助隊やロアーヌとの連携を取れ」

 そこでミカエルが一旦言葉を切ると、その場の全員がロアーヌ式敬礼をした。

「救助部隊の指揮はコリンズとフォックス、本拠点での指揮官はブラッドレーが引き続き任務に就いてくれ。カタリナは救助部隊と共に現地同行を頼めるか」
「御意に」

 カタリナがミカエルの言葉に即座に頷くと、ミカエルは明朝出立に備えての散会を指示した。







最終更新:2017年03月16日 13:26