朝日が浅い角度から差し込むヤーマスの町宿の一室にて。その日の目覚めは彼のこれまで生きてきた中で歴代堂々一位であろうと確信できるほどに、最悪だった。
 どんな目覚ましよりも強烈な衝撃に脳髄が直接揺さぶられ、ポールは絞り出すような絶叫と共にベッドから転げ落ちる。
 ガタン、と大きな物音がしたことに驚いたのだろう。何事かとユリアンがすぐ隣の部屋から駆けつけると、ポールはそれに構える余裕など全くない様子で床に転げながら頭を押さえ込んでいた。

「お、おい、どうしたんだよポール!?」
「ぐ・・・だ、大丈夫だ・・・うぅ・・・」
「だ・・・全然そうは見えないぞ! ちょっと待ってろ!」

 揺らしてしまうのもどうかと思案したユリアンが医者を呼んでくると叫んで駆け出したのを床にへばり付きながら見送ったポールは、今一瞬の衝撃が嘘のように徐々に戻っていく平衡感覚と、それと共に脳内に響き渡る声に応えるように声を絞り出した。

「き、急にどうしたっつんだ・・・フェアリー・・・」
《・・・ポールさん!無理矢理で済みません。まだ長距離の念話に慣れず、思念波の出力調整が上手く出来なくて・・・》
「いや・・・大丈夫だ。寧ろこんなことが出来る事に驚きなんだが・・・」

 そう言いながら頭を押さえつつなんとか起き上がったポールは、やっとの事でベッドに腰掛けると、近くのテーブル上にある水差しから汲んだ水を飲み干し、一息ついた。

《・・・誰でも何処でもというわけではなく、聖王遺物みたいな大きな力を宿したものがあるところを目印に思念を飛ばしています》
「あぁ・・・じゃあ、こいつがあるからか」

 そう言いながら、直ぐ脇に立てかけてあった妖精の弓を横目に見た。どうもここ数日は前にも増して弓から発せられる力が強くなっているように感じられていたものだが、それも関係しているのだろうか。

「んで・・・一体どうしたんだ?」
《それが・・・》

 そこからポールは、フェアリーの語るとんでもない事実にしばし聞き入った。
 昨夜、妖精の里がアウナスの尖兵により燃やされたこと、そして現在その救助にマスカレイドを携えたカタリナが向かっていること。そして襲撃から落ち延びた妖精族の長が言うには、これはアウナスを含めた全ての四魔貴族が本格的に目覚めた事に他ならないと。

《他は分かりませんが、アウナスは間違いなく我らの長を狙いに動きます。里が燃え、我々の力が大きく弱まった今を逃さぬ手はないでしょうから・・・。ですので早急にアウナスに対する手段が必要です。火術要塞までは私たちが案内できますが、アビスの炎に守護されたあの魔神を討つには、最低でも妖精の弓が必要です》
「成る程な。それで急遽ってわけか・・・」

 ポールがフェアリーの言葉にそう反応したところで、部屋の外からどたばたと幾人かの足音が響き渡ってくる。
 そちらに視線を向けると、取り敢えず女性陣全員を連れてきたらしいユリアンと最初に目が合い、続いてわらわらとエレン、サラ、モニカが部屋に入ってきた。
 しかし対するポールが存外普通な様子である事に入室してきた全員が首を傾げていると、何時もの様子で肩をすくめたポールは彼女らを近くへと手招きした。

「今、フェアリーが思念を飛ばしてきて会話している。緊急事態のようだ。とりま、状況を説明するわ」
「思念・・・?」

 いまいちポールがなにを言っているのかその場に集まった面子は理解できなかったが、兎に角四人はポールの近くに寄ってそれぞれ楽な姿勢をとった。
 ポールはまずはじめに、その場の全員に今し方自分がフェアリーから聞いたことを申し伝えた。
 そして次に妖精の弓を誰が持っていくかを決める事にした。兎に角急いで行動せねばならないので、ここで決めて即座に出発せねばならなかった。
 そこで即座に手を挙げたのは、サラだった。

「ポールの狙いからすると、私の役割はもう少しあとのはずでしょ。逆を言えば、私以外は今動く必要がある。だったらそれは私が行くのが一番だと思う」
「・・・そうだな。分かった、サラ、頼めるか?」
「ぎょーい」

 サラが敬礼の姿勢をとりながら至極軽い調子でそう言うと、そこにエレンが口を挟む。

「でも流石にサラ一人じゃ危なくない?あたしも同行しちゃだめかな?」
「大丈夫だよ、お姉ちゃん。私こう見えてカンパニーでの船の手配とかも一人で港まで行ってやってたりしたし、来た道帰るだけだから心配しないで。届けたら直ぐ戻ってくるし」

 それにお姉ちゃんにはすぐ仕事があるよ、とサラが続けると、エレンは渋々頷いた。以前の自分ならばそれでも心配だと言ったかも知れないが、この半年少々でサラは見違えるほど逞しくなったように思う。あまり心配の度が過ぎても良くないなと思い直したエレンは、気を付けてねと言うに留めることにした。
 その様子をニヤニヤしながら見ていたポールはすぐ近くの弓を手に取り、頼むぞと言いながらサラに差し出す。それをサラが受け取ると、俄かに妖精の弓の発する波動が一際強く波打ち、より大きなものへと変わった。

「へぇ・・・やっぱサラは八なる光なんだな。俺が持つよりも力が大きくなってる」
「・・・初めて持ったけど、なんか変な感じ。この弓、まるで意識があるみたい」

 そんなサラの感想に面白がって持ちたがるエレンやモニカの手に弓が渡っていく様子を眺めながら、ポールはフェアリーに事の次第を伝えた。

《分かりました。お待ちしております。本当なら、氷の剣があれば良かったのですが・・・》
「氷の剣・・・雪に閉ざされた町の伝説、か。一応そっちもな、睨んではいるんだ。ここでの一件が落ち着いたら調査に入るつもりだよ」
《はい、お願いします》

 ふっと撫でるような微風が通り過ぎたかと思うと、もうフェアリーの声は聞こえなくなっていた。
 世の中はまだまだ自分の知らない不可思議で溢れているもんだなどと考えながら立ち上がったポールは、腰に手を当てて一息ついた。

「さて、コトは一刻を争うようだ。サラには済まないがすぐ出発してもらう。ここに残る俺らも、この数日で一つでも多く裏を取らなきゃならん。朝メシ食ったら即、行動開始だ」
『おー!』

 一同の掛け声に満足そうに頷いたポールは、そういえば自分が寝間着姿であったことを思い出してそそくさとその場で着替えだし、女性陣から総批難を浴びた。






 ヤーマス港からピドナ行きの船が出航するまで思いの外時間が空いてしまったサラは、乗船しながら狭い船室で出港を待つのもつまらないので少し町を歩いてから港に向かおうと考え、乗船所周辺の通りを気ままに探索することにした。
 改めて眺めるこの商都ヤーマスという場所は、ピドナに負けず劣らずの賑わいだ。市場を歩けば右も左も世界各国から集まった様々な品が所狭しと溢れかえっており、その繁栄っぷりには目を見張るものがある。
 折角だから何か土産の一つでも買っていこうと露天を幾つか冷やかしたサラは、少しひょうきんな表情をしているルーブの竜を象った置物を気に入って購入し、あとは出港前まで近くのカフェで過ごす事にした。
 異国の地で一人の探索という経験が初めてだったサラはどこか高揚感を味わいながら、オープンテラスの風通しが良さそうなカフェを選んで入る。
 店内には、彼女と同じく乗船待ちかと思われる旅支度の客が数組留まっていた。席もちらほら空いているので先に飲み物を買いにカウンターへ行き、アイスラテをミルク多めで頼む。程なくして出てきたドリンクを片手に、どこに座ろうかと見回しながら店内を歩き回った。
 すると、オープンテラスの一角に座って読書をしている一人の客に自然と目が向いた。
 そこに座っていたのは、周囲の客とは一風変わった容姿の客だった。その人物はナジュ地方によく見られるような薄い褐色の肌と黒い髪をした線の細い中性的な顔立ちをしており、一見しただけでは男女どちらかいまいちサラにはわからなかった。身に纏っている衣服がこれまた見慣れぬもので、稀に何処から入手してくるのかナジュの商人が東方から仕入れてくるような衣服を纏っている。
 ふと、本から顔を上げたその人物と目が合った。
 正面から見ると思いの外顔立ちも幼く、ともすれば自分とあまり変わらない程度の年齢なのではないかとも思えた。
 サラがそのまま何も喋らずに真っ直ぐ見つめていると、しかしその人物は見つめ合いに付き合う気はないらしく、すぐに視線を本に戻した。
 気がつけば、サラの体は勝手に反応していた。即座にサラはその人物と同じテーブルにアイスラテを置くと、相手に断りもせずに対面の椅子に座る。

「僕に構わないで」

 視線は手元の本に落としたままで、目の前の人物は、ぽつりとそう言った。
 その声色はとても耳に心地よく透き通るようなテノールで、サラはここで初めて目の前の人物が男性であることを確信する。
 拒絶の言葉を受け取ったにも関わらず、サラは微動だにせずに居る。すると程なくして俯いていた視線が、まるで面倒くさいと雄弁に語るようなため息一つとともに此方に向けられた。向けられた瞳の色はまるで吸い込まれそうになる程に深い藍の色をしており、サラは思わずその瞳に魅入った。
 そして彼女には見えた。その瞳の奥の光が、微かに震えているのを。

「どうしたの?」

 サラが優しくそう口にすると、目の前の少年(と言って差し支えないであろう容姿だ)は目を少し見開いて彼女を見返した。すると先ほどはあまり見えなかった感情の色がより鮮明に瞳に浮かび上がってくる。
 やっぱりだ。この瞳を、その光の震えが表す感情を、彼女は知っている。

「怖がらなくても大丈夫だよ。私はサラ、あなたは?」

 その一瞬、彼女に向けられた瞳の中の微かな光の震えが止まったように見えた。

「僕は・・・」

 無意識に、言葉を発していた。
 まるで自分の意思とは別に勝手に口が動いたかの様に少年は何かを言いかけ、しかしはっと気がついた様な表情をしたかと思うと、何処か自嘲気味な笑みを浮かべて手元の本を閉じた。

「知らないんだ、自分の名前さえも。ずっと一人だったから」

 嘘ではない。本当に少年は自分の名前も知らないし、少なくとも彼の知る限り、彼の頭の中にある記憶の中では常に彼は一人だった。
 自嘲の笑みが漏れてしまったのは、二つ意味がある。一つは、まさか初対面の少女に二言三言でこんな事をいうなんて、自分自身で思っているより随分と社交的だったんだなと思ったこと。もう一つは、自分の知る限りこの話をすると誰もが彼を哀れむのが分かっているのに、懲りない自分の愚かさが度し難く可笑しかったからだ。
 彼は自分の記憶のかぎりでは全ての人間に哀れまれた。彼と言葉を交わした人間が皆そろって自分を哀れむ度、自分はこの人達とは違うのだなと実感した。それは最初はとても悲しいことであったと記憶しているが、流石にもう慣れた。自分一人なら名前もいらないし、哀れまれるのならば関わらなければいい。それだけのことなのだ。

「かわいそう・・・」

 そう、それだ。
 目の前に座る少女が漏らしたその言葉は、幾度となくこの耳に聞かされてきた言葉だ。自分と違って悲惨な境遇にあると分かった目の前の何かに対して、一様に同じ反応を返す人々。それらと、この少女も同一だ。
 そんなことは既にわかりきっていたはずなのに言ってしまったのは、一瞬だけ彼女に、自分の心を覗かれたかのような錯覚に陥ったからかも知れない。何の気もなしにだったのだろうか、彼女に怖がらなくても大丈夫だと言われたときに「そうか自分は怖がっていたのか」と妙に腑に落ちてしまった自分がいたのは確かに事実だった。だから何を言おうか考える前に、口をついて言葉が出てしまったのだろう。
 だが、これまでと何が違ったわけでもない。彼女も又、一様なる反応しか示さない。
 だが次の瞬間、少年は自嘲気味に笑うことを止め、ぎょっとした表情をして慌てだしたのだった。
 なにせ自分の目の前に座った少女は一体どうしたわけなのか、その円らな瞳から大粒の涙を流していたからだ。

 彼女は、目の前の少年がしていた瞳を知っていた。あの瞳、あの表情は自分も長いことそうだったからこそ、よく分かるのだ。
 最愛の姉に守られながら育った彼女は、幼い頃は常に世界を姉の背中越しに見ていた。姉が守るということは、自分に害を為すなにかが姉の背中の向こうにあるということだ。
 姉は常に優しく言ってくれた。私が守るから大丈夫だ、と。その言葉は彼女にとってはとても心強かったと同時に、背中越しの世界に垣間見える恐怖を増幅させた。姉の背中越しに見える世界全てに関わることに、怯えていたのだ。
 この少年は、あの時の自分と同じ目をしている。世界と関わることそのものに彼は今、酷く怯えているのだ。彼と世界はきっと自分にとっての姉の背中のような何かで隔たっていて、でもその『何か』は、姉のように彼を護ってくれはしない。だから少年は瞳の向こうに見ている世界に、怯えているのだ。
 自分はユリアンやトーマスとの関わりによって、いつしかその状況から自然と脱することが出来た。だが彼は今の自分とそう変わらぬ年齢であろうにも関わらず、未だその渦中にあるというのだ。その恐怖、その孤独は年月が経てば経つほど大きくなり、誰かに手を差し出されぬ限り自分では決して抜け出すことのできない牢獄と化す。
 なんという悲劇だろうか。彼の周りには、このような状態の彼を助け出す人は、いなかったのだろうか。彼は目に見える世界全てに怯え、悲しみ、諦めようとし、それでも諦めきれぬ自分を蔑んでいるようにすら見える。このような悲劇が、あっていいのだろうか。
 だから、サラは迷わずそう口にした。

「一緒に行こう」

 そう言って右手を差し出す。
 少年はその手を見つめ、そしてサラを見つめ直す。彼女が何故泣いたのかは分からない。だが、彼女が今まで自分が出会ってきた人たちと違うということだけは、分かった。彼女はどこか、自分と似ているものを持っているのかもしれないと、そう感じられた。
 だが少年は幾つもの感情が入り混じったような瞳でサラを見返し、しかし怯えの色を濃く出しながら弱々しく首を横に振った。

「僕に関わった人は・・・みんな死ぬんだ。僕を助けようとした人も、殺そうとした人も。だから、僕に構わないで」

 ガタン、とサラが手を出したまま椅子を押し退けて立ち上がった。少年はびくりと一瞬震えて、彼女を見上げる。
 その瞳に向かって、サラは微笑んだ。
 あの時、ユリアンやトーマスはどんな表情で、どんな瞳をしていたんだっけ。そんなことを思い出しながら、それを真似てみる。

「助けられないし、殺せない。そんなつもりは、はなからないよ。私はそこまで傲慢にはなれないもの。でもこうすることで、なにかが起こることを願ってるの。だからただ、一緒に行こう」

 その言葉に、少年の瞳が僅かに震える。だが、まだ迷いが消えない。サラはアイスラテを一気に呷ると左手に荷物をまとめ、少年の横に移動して彼の手を取った。

「そんな風に思い詰めないで。ね、行こう!」

 そう言って一歩後ろに引き、少年を立ち上がらせた。もう一度彼を引っ張るようにすると、少年は流されるままに椅子にかけてあった荷物と、布にくるまれた長大な剣のようなものを肩にかけてサラについていった。

「ね、名前ないなら、決めよう」
「え・・・うん」

 意気揚々と港に向かう途次、サラは少年にそう提案をした。流石に名前がないのは呼びづらいなと考えたのだ。
 うーん、と歩きながら考えていたサラは、不意に立ち止まって少年へと振り返った。あまりに突然に立ち止まるものだから少年は勢い余ってサラにぶつかりそうになってしまい、慌てて止まる。しかし彼女の顔が思いの外至近距離にあることで赤面してしまい、顔を背ける。

「だーめ、こっちむいて」

 サラが片手で顔を戻すように彼の頬に手を当てると、少年は成されるがままに正面に向き直る。出来ればもう少し離れて見て欲しいと彼は思うのだが、上手く言い出せない。

「テレーズ・・・テレーズでどうかな!」
「・・・それ、女性名称じゃ・・・?」
「だって、似てるんだもの。髪の色は金髪じゃないけど、後ろに結んでいて、切れ長の目で、中性的な顔立ち。テレーズ様そっくり。ね、テレーズでどうかな!」

 サラが満面の笑みでそういうのを聞きながら、少年は呆気にとられる。彼女が誰のことを言っているのかは彼には分からなかったが、不思議と彼女がそういうのならそれでいいか、と思えた。
 少年がそれにゆっくりと頷くと、サラは無邪気に微笑む。

「決まり。宜しくね、テレーズ!」
「・・・うん、宜しく、サラ」

 二人はこうして、旅を始めた。
 この時、世界が、僅かに震えた。
 だがその震えを感知したものは、世界に散らばる幾百万の人間の内、極一握りの者だけであった。






最終更新:2017年07月04日 17:23