柄部霊歌は、自分の行動を反芻していた。
そして、もう何度目かも分からないような『自分は何をしているんだろう』という感情に囚われる。
辻斬りハローとして、
福沢正也の妹として、殺し合いに乗ると決めていたのに、この体たらく。
それもこれも、
守谷彩子なんてイレギュラーが介入したせいだ、と霊歌は唇を尖らせる。
ほんの数十分前に起きた風呂場での一件が、今なお霊歌を悩ませていた。
悩ませていた、と言っても、別に深刻なそれではない。
霊歌の在り方が根本から揺るがされた訳じゃないし、きっかけ一つですぐに辻斬りにだって戻れる。もしも兄が命じれば、このお人好しだって何の未練もなく切り捨てられるだろう。
―――とは、思っているのだが。
不思議なことに、この女性に対して『殺意』が懐けないのだ。
殺そうと考えられない、殺す意味がない――そんな風に、どうしても考えてしまう。
復讐のために、数多くの人間を殺害してきた彼女の中では、既に殺人行為は正当化されていた。
殺人が禁忌であるという認識も大分薄れ、命を奪うことに慣れ始めていた。
だから、守谷彩子を殺す気になれないこの事実は、彼女にとって計算外と言ってもいい事態なのだ。
計算外と言えば、彩子の行動一つ一つがそれにあたる。
巷を震撼させる殺人鬼を目の前にしていると知っても変わらぬ態度で接してくるし、あまつさえそんな危険人物にこれからの行動方針を打診するとは。
柄部霊歌は、自分という人間がつくづくこういったタイプに弱いのだと改めて実感した。
敵意には残酷に応じるが、好意には弱い―――というやつだ。
「霊歌ちゃーん!」
………ほら、こんな風に。
出会って半日と経っていない相手にここまでフレンドリーな態度を示せることも霊歌からすれば異常だったが、未遂でこそあれど殺されていたかもしれない相手にとる態度ではない。
警戒心だとかそういった概念がないのか、それとも信用しきっているのか。
どちらにしろいざという時には好都合なのですが、と彩子に聞こえないように呟き、『はい、何でしょう』と彼女の呼び掛けに応答する。
「そろそろここ出た方がいいんじゃないかな。『兄さん』も探さないといけないし」
「そうですね……髪も乾きましたし。ドライヤー使えないのは不便でしたけど」
風呂からあがった後、濡れた髪の毛を乾かしておきたかったのだが――音が漏れるといけないので、断念した。
その前に彩子から受けたセクハラ紛いの行為に関しては、もう思い出さないようにしている。
気にしたら負けというかなんというか、凹むからだった。
「とりあえず、最初と変わらずデパートを目指そうと思うんですけど。
当分殺し合いはしないとしても、身を守る武器が『これ』だけじゃ――いくら何でも心細いです」
霊歌が当分の護身用に選んだ武器は、風呂場にあった剃刀だった。
リーチは短いし脆いし、おまけに切れ味の程も定かではないと文句をつけたいのは山々だったが、こんなものでも『刃物』。柄部霊歌を強化してくれる。
一般の女子高生より小柄な体躯、それによって生じるハンデもこれで埋められるだろう。
いや、それ以上の効果がもたらされるに違いない。
「いい? 襲われても、なるだけ逃げることに専念するのよ? 戦うのは最終手段」
「分かってますよ。……わたしとしては、しっくりこないけど」
「何か言ったかな?」
「い、いえ。何も言っていませんよ」
彩子は、霊歌がどんな形であろうとも戦うことを異様に避けたがっていた。
異常能力者(サイキッカー)に部類される柄部霊歌なら、こんな頼りない武器でも大抵の相手を相手取れる―――それを知らないにしても、霊歌が心配というだけではなかったように見える。
戦わせたくないということは、殺させたくないということ。
バトルロワイアルでの戦いにはルールがない――決着は、どちらかが死ぬまでつかないのだ。
霊歌は汲み取れていないのだが、守谷彩子は柄部霊歌にこれ以上人を殺させんとしている。
そりゃあ、襲撃された相手を殺そうとした時に相手を庇うだとか、そんな真似はしない。
だが、高校生という若さでまだ将来に希望が溢れている少女が、取り返しのつかないところまで堕ちてしまうことを、どうしても彩子は認められなかった。
辻斬りハローだとか、そんなことはどうでもいい。
この危うげな少女を、守る。
確かに実力でなら彩子は霊歌には及ばないだろう。しかし、人生経験なら彼女の方が上だ。
人生の先輩として、と言えば陳腐な響きだが、とにかく霊歌を助けたいと、心から望んでいた。
だからまずは彼女の兄を探して、どうにかして彼女を止めてくれるよう頼む。
出会ってからまだそう時間は経っていないが、柄部霊歌という少女が『妹を必ず守ってくれる』と評価した人物が、彼女を貶めるような行動をする筈がないと彩子は思う。
『妹にしてくれと頼むといいでしょう』――この言葉がちょっと生理的な不安を掻き立てるものはあったが、まあ精々シスコン止まりと見ていいだろう。
彼を首尾よく見つけられればいいが……彩子は不安を無理矢理振り切って、髪を串で整える。
「っと、よいしょ……っと」
ヘッドドレスをセットし終えて、再び人形めいた姿に戻ると、霊歌は立ち上がって背伸びをした。
こうしているところだけ見れば可愛いのに―――彩子は微笑んで、口には出さずに呟いた。
口に出せば真っ赤になって反論してくるに違いないし。
実はそうやってむきになって否定しようとしているところがもう既に可愛いのだけれど、本人は気付いていないようだ。悲しきかな。
「……む。何かいま、すごく失礼なことを思われた気がするのですが」
「思ってない思ってない」
「? ………だったら、いいのですけど……はぁ」
「どうしたの、急にぼーっとしちゃって。
―――あ、分かった。大好きな兄さんに会えると思うと緊張しちゃうってやつでしょ?」
「そのおめでたい思考回路、一度徹底的に叩き直した方がいいですか?」
「いいねえ、兄妹ってのは……でも悲しきかな、兄妹じゃ結婚できないのよね」
「話を聞けよ!」
「きゃっ! キャラが変わってるよ!?」
「こほん。話をよくお聞きください、彩子さん」
「無理矢理すぎる軌道修正いただきましたー」
暢気を通り越してもはや牧歌的にさえ思えるやり取りを終えると、今度こそ二人は立ち上がる。
霊歌の兄を捜して、彼の意見を基に霊歌がどう動くかを決めるために。
或いは、彼女の兄を説得して、彼女を止めてもらうために。
思いの外長居してしまった個室を出ようとして、霊歌が不意に右手で彩子を制した。
「静かにしてください。誰か近付いてきます」
「えっ……? 敵、かな」
「それは何とも……個室を一室一室調べているわけではないとは思いますけど、念のため彩子さんはそこのベッドの下にでも隠れていてください。
逃げるにも、一本道の廊下だと少し分が悪いですから、ここは何とかします」
その声色は、穏やか(と言えるのかは微妙だが)に会話していた時のものとは明らかに違う。
あの風呂場で見せたものと同じ――『辻斬りハロー』のものだ。
歳に見合わないその切り替えの早さだけで、彼女がどれだけの修羅場を潜り抜け、どれだけの殺し合いを演じてきたのかが分かる。
辻斬りとは言えど、所詮は高校生。
それに霊歌の小柄で華奢な矮躯では、一撃で仕留められず戦いになることもあったのではないか。
敵意を浴びせられて、それら全てに残酷に応じてきた。そんな彼女がどれほどの苦しみを経てここまでの覚悟を得ることが出来たのか―――考えると、彩子は胸が痛む思いだった。
かつ、かつ―――と、ホテルの床を踏み締める音が近付いてくる。
耳を澄ませば、こういった場面にほぼ遭遇せずに生きてきた彩子にも、十分聞き取れるようだ。
『何者か』は素人で、足音を隠そうという考えにすら至れないのか。それとも、足音を隠す必要などないと考える手練れか。
殺し合いを解せんとする人間か、殺し合いに乗ることを快諾した人間か。
様々な可能性が脳裏を過り、二人の間に緊張が走る。
如何に辻斬りといえど、今所持している武器は剃刀のみ。
腕の立つ相手でしかも殺し合いに乗っているとすれば、かなり厳しい戦いになる。
最悪、前言を撤回して逃げることに専念する羽目になるかもしれない。
そうこうしている間に足音は二人の居る部屋の前で止まり、緩やかに扉が開かれる―――。
そして、扉の向こうにあった人影は、無言でその手に持ったナイフを投擲する!
切れ味こそ控えめな調理用のものでこそあったが、眼球に当たりでもすれば十分人間を殺せる。
真っ直ぐに霊歌の顔面目掛けて飛んでくるナイフを、霊歌は手にした剃刀で器用に叩き落とした。
投げられた分はおよそ七本。
常人なら避けきることは困難だろうし、柄部霊歌のスペックでは避けきるなどまず不可能だ。
そう――――本来ならば。
「…………はろーっ!」
剃刀の短い刃を、飛来するナイフの先端に横から当てて、確実に威力を殺して落としていく。
『はろー』の言葉を口にした瞬間、彼女のポテンシャルは本来のそれを大きく上回った。
―――サイキック。刃物を持つと身体能力が向上する。
言葉にしてしまえば単純だが、いざ使われてみればそれは恐ろしいことこの上ない。
それ自体が強力である刃物を、異常なる力で強化された使い手が用いたなら、相乗効果は計り知れないものになる。―――小柄な女子高生でも、プロの殺し屋顔負けの戦いが出来るレベルまで、その能力は高められる―――!!
流れるように、だが確実に、全ての投擲物を叩き落としていく。
当然相手とて追撃を放ってくるが、それらも落としながら、襲撃者に迫っていく。
これでは仕留められないと判断したのか襲撃者は霊歌のすぐ横を潜り抜け、彼女の斬撃を回避。
格闘技の構えで霊歌を迎え撃たんとする。
それに飛び込んでいっては飛んで火に入る夏の虫。辻斬りの少女もまた、相手が行動をおこすまでは動かずにその場で待つことを選んで―――戦いが静止した。
「………あはっ」
「くくっ」
しばし続いた膠着状態を崩したのは、今の今まで殺し合っていた二人の笑い声だった。
敵意とは違う、戦いを楽しんでいる風なそれでもなく―――嬉しそうに、二人は笑っていた。
「やっと会えましたね――――兄さんっ!」
「ああ―――久しぶり、ってわけでもないけどな」
剃刀を懐にしまい込み、ついさっきまでのぴりぴりした空気は何処へ行ったのか思わず問うてしまいそうなまでの変わり様に、ベッドの下に未だ隠れたままの彩子は面食らう。
というか、彩子と話していた時でさえあれほど元気な子ではなかった。
「紹介します、彩子さん―――あれ。もう出てきていいですよ」
「あ、うん。初めまして、守谷彩子です……」
「ベッドの下の……怪人……!?」
「確かに定番の怪談だけど! 私のどこが怪人よ!?」
たったこれだけ話しただけだが、霊歌の『兄』は若干天然の入った性格なのだろうか、と思う。
しかし、まさか再会直後最初のやり取りがあんなハイレベルな戦闘だとは思わなかった。
どういう原理なのかは不明だが、青年の投げた調理用ナイフは跡形も残さず消えている。
だがそんなことよりも、小柄で華奢な体格の霊歌が――あんな芸当をやってのけるとは。
彼女をもう二度と辻斬りには戻さんとしている彩子ではあったが、彼女が辻斬りと呼ばれる意味が少しだけ理解できたような気がした。
刃物を持った瞬間、纏う雰囲気がいきなり変わった、と言おうか。
刃物を探そうと躍起になっていた理由もそれか、と彩子は全ての辻褄が合っていくのを感じていた。
「―――柄部霊貴、だ。どうやらお二人さん、仲良くやっていたみたいだな」
「色々あったんですよ……色々と」
「可愛い妹さんだね。私も欲しいくらい。譲ってくれない?」
「な、何を言ってるんですか!」
「可愛いだろ。譲る気はないけどな」
妹も相当なブラザー・コンプレックスだが、兄の方も相当なようだった。
霊歌の前まで近付くとその小さな身体を抱き寄せ、顔だけを彩子の方に向ける。
「守谷だったっけ。ちょっと話いいか。―――『これからのこと』だ」
これからのこと、なんて言葉で濁してこそいるものの、それが意味するところは彩子も察した。
彼もまた、柄部霊歌がどんな存在として生きてきたかを知っているのだろう。
辻斬りの殺人鬼だと知っていて、彼も彼なりに苦悩してきたのかもしれない。
どうも霊歌の方も、確固たる意志の下に殺人を行っているようだし、下手に止めることも出来なかったのか。それとも―――彩子が踏み込んではならないような、深い何かがあるのか。
どちらにしろ、彼と情報交換を行うことも必要だったし――彩子にも、目的があるのだ。
他ならぬ柄部霊歌が辻斬りを『引退』するには、彼女の最愛の兄の言葉が必要不可欠である。
彼女にとってそれが幸せであることは間違いないと、彼だって理解してくれる筈。
こくり、と首を縦に降り、彩子は承諾の意志を示す。
「霊歌。ちょっとここで待っていてほしいんだけど」
「ふえ? 何でですか?」
「大丈夫、いなくなったりしないさ。ちょっと情報を交換してきたいんだ。構わないか?」
仕方ないです、とやや不満げに呟いて、霊歌は青年の腕の中から抜け出す。
律儀なことに両目まで瞑っている――兄の命令に従うために、意地でもここから動かないことを決めたらしい。兄が絡むと相当素直になって、警戒心が薄れる性格のようだった。
彼に先導されて、一人残される霊歌に声が聞こえないように、部屋を出て隣の個室に向かう。
壁一枚隔てれば、大声を出さない限り内容が聞かれてしまうことはないだろう―――あっては困る。
改めて見ると霊貴はかなりの長身だ。髪も黒いし、霊歌とは腹違いの兄妹だったりするのか。
はっきり言って個人的に聞きたいことは山程ある。
霊歌は普段どんな子なのかとか、さっきのナイフはどうやって出したり消したりしていたかだとか、言い始めたらキリがない――それくらい、この兄妹には興味が尽きない。
しかし、会話の始まりは意外な一言からだった。
「俺は福沢正也という」
「――――えっ?」
青年は、そう名乗った。
最初は冗談を言っているのかとも思ったが、よく考えればここで嘘をつくメリットが彼にはない。
ならば、その告白が何を意味しているのかは明白。
それは―――
「――――霊歌ちゃんとは、兄妹じゃないの?」
と、いうことになる。
霊歌が嘘をついているようにも見えなかったし、やはりそれは意味のない嘘だ。
髪の色、体型と顔つきの違いなどから、義理の兄妹だろうかとは思っていたが――福沢という名字も、正也という名前も。柄部霊貴とは全く一致していない。
「兄妹だよ。俺たちの中では、そうなんだ。
あいつは俺が実の兄だと信じているし、俺もあいつを本当だろうが義理だろうが、妹だと思っている。
偽物の関係だとか何とか、そんなことでうじうじするつもりは、ない」
「でも―――何で? 霊歌ちゃんは、そのことにどうして気付いてないの?」
「分からない。でもこの誤解はきっと解けないだろう。だから、俺から頼みがある」
霊貴―――否、福沢正也は、出会って間もない女性に頭を下げる。
意外すぎる事実を次々に告げられてパンクしかけている彩子だが、彼が真剣に言っていることを感じ取ったのか、動揺を引っ込めて、取り繕った冷静さで正也を見た。
既に死んでいる『柄部霊貴』と瓜二つの外見を持ち、それ故に生じた記憶改竄に等しい現象だ。
こればっかりは正也にも、彩子にもどうともすることは出来ないだろう。
「………霊歌を、見捨てないでやってくれないか」
絞り出すように紡がれた言葉は、彩子の予想から遥かに外れたものだった。
あまりにも劇的な登場からはとても結び付かないような悲痛な声で、正也は懇願する。
霊歌を見捨てないでくれ――――その意味は。
「どういうこと……なのかな」
「あいつは、殺人鬼だ。人の命を、奪うことには何の躊躇いもない。
だけどあいつの様子を見るに、あんたは知っているんだろう? 霊歌の正体を」
彩子は答えない。だが、時に沈黙は肯定を意味する。
改めて言われれば、自分のやろうとしていることがいかに無謀なことか、理解できてしまった。
全てを覚悟した上だと思っていたのに、まだ足りなかった。
辻斬りの業を背負った少女を光の道へ回帰させる―――それは、言葉にするよりずっと大変なことだ。
最悪命を落とすことにも繋がってしまうし、この誤解がもし解けでもすれば――大変なことになる。
「身勝手だってのは分かってるよ。だからこれは俺の自分勝手に過ぎない。
守谷に人生を棒に振れと言ってるようなものだし、断られて当然だと思ってる。
……今のあいつは、これ以上殺すべきじゃない。きっと今しか抜け出せるチャンスもないだろうさ―――殺人鬼を辞めさせるには、今しか、ない」
「協力する」
―――――即答がきた。
「………いやいや、もっとよく考えろよ、お前」
「考えたよ。お風呂であの子に殺されそうになった時から、ずっと考えてた。
誰も助けられないなら私が助けてあげようと思ってた。あの子の気持ち―――よく、分かるから」
「………ありがとう。俺は、あいつが幸せになってくれればいい。
後のことは俺が全部請け負う。妹の落とし前くらいつけられなくて――『兄貴面』なんて出来ないからな」
福沢正也という青年は、妹のためになら修羅にだって喜んでなるような人物である。
自分より妹を優先し、たとえ偽りの妹だろうと関係なく愛情を注ぐ、奇特極まりないと言っても過言ではない『変人』である―――だが、その心には一切の偽りがない。
確かに、妹以外の全てを皆殺しにした方が話は早いだろう。
そうすれば霊歌は確実に生還することが出来るだろうし、主催者打倒より随分と楽だ。
だが、それで結果的に柄部霊歌が幸せになれるかまでは、考えていなかった。
守谷彩子という人間が、曇りのない好意で霊歌に接してくれることを知って、正也は理解した。
――――俺の妹は、辻斬りでいるべきじゃない。
普通の女子高生として、生きていくべきなのではないか――と、思った。
決断は一瞬だ。
迷うことなく、福沢正也は―――自分の進むべき道を選び取ったのだ。
「じゃあ、霊歌ちゃんのとこに戻ろうか」
「そうだな……ま、よろしく頼む、守谷」
「ふふっ、よろしくね。お・兄・ち・ゃ・ん・?」
何の気なしに呟いた。
冗談として言った筈のその一言が、福沢正也に火をつけてしまったことを彩子は死ぬほど後悔する。
格好いいことを言っているが、単刀直入に言えば妹萌えの権化のような男だ。
うっかり呼んでしまった呼称『お兄ちゃん』―――それが、正也の境界線を取り払う。
◆◆◆数分後◆◆◆
「わわわっ! 彩子さんがすごいげっそりしてますっ」
「…………あー、やりすぎた」
「………変態変態変態変態変態変態変態変態変態変態変態変態変態変態変態」
◆ ◆
「へー、そうですか。兄さんはわたしというものがありながら、彩子さんにセクハラを働いたと」
「は、ははは……ま、まあ、どうでもいいだろそこは?」
「――――あぁ?」
「うおっ、キャラが変わってる。怖っ」
心のどこかで抱いていた兄妹への幻想が音を立てて崩れ去った彩子は、しばらく魂が抜けた様子だったが、記憶を封印することで折り合いをつけたらしい。
正也としても掘り返すのは怖かったので、このままにしておこうという暗黙の了解が生まれていた。
そんなことよりも、これからが二人にとっての本番なのだ。
辻斬りを改心させ、彼女を救った後で――人無結を打倒するために徒党を組むこと。
一番の難所だ。ここを越えられればいいものの、もし失敗すれば大変なことになる。
正也と彩子はアイコンタクトを暫く取り合って、やがて緊張した様子で彩子が口を開く。
「霊歌ちゃん、ちょっといい? お兄さんから話があるみたいなの」
なるべく何気ない、自然な感じで切り出すよう努めてはみたものの、やはり強張った様子は拭えなかった。そのただならぬ様子に、霊歌少女は真剣な表情になって正也に向き直る。
正也も茶化す様子は一切なしにその両肩に手を置き、言葉を選ぶようにしばし沈黙した。
やがて覚悟を決めた表情で、重い口をゆっくりと開く。
「霊歌。お前は、人殺しが楽しいか」
「―――え」
完全に意表を突いた質問だったからなのか、霊歌は素っ屯狂な声をあげる。
その意味を何度か反芻して、険しい顔色のまま彼女は言葉を返す。
「楽しく、ないですよ。人を殺して気持ちいいと思ったことなんて一度もありません。
わたしは、
沖崎翔を殺せればそれでいい。それさえ叶えば、いいんですから」
「もういいだろ」
沖崎翔という人物がこの小さな少女に何をしたのかは、二人の預かり知るところではない。
そして記憶の雑な改竄を受けて、霊歌本人にもこの復讐心が何からなるものか理解できていないのだ。
最愛の兄は眼前にいる。
親友と呼べる存在はいないし、霊歌自身が沖崎に何かをされた覚えもまた、ない。
ならこの、沸き上がる感情は何なのか―――本当に、正しいものなのか、彼女にもわからない。
何か大切なことを忘れているような、そんな気がしていた。
だが、たった今その矛盾した感情は、否定された。
愛する兄さんに、復讐鬼として生きる道を諦めることを、促された。
「どうして……兄さんだって! わたしのやることに賛成してくれたじゃないですか!」
霊歌の記憶によみがえるのは、この会場に飛ばされる直前に、他ならぬ正也自身が自分の言う殺人行為に賛成してくれた時の記憶。二つ返事で快諾してくれた彼が、どうして今になって霊歌の行為を否定するのか―――彼女には、まったく理解できなかった。
どうして彼はこの女―――守谷彩子と同じことをのたまうのか。
辻斬りなんて不毛だと、殺人なんてもうやめろと、どうしてそんなことを言うのか。
この世で最も愛する存在に自らを否定されたショックで両目の端に涙を浮かべ、霊歌は反論した。
「えっとな、霊歌。俺の気持ちにもなってくれ」
ぼりぼりと頭を掻いて、億劫そうな調子で正也は、
「人殺しの妹なんて、正直言って気持ち悪いだけなんだよ」
「っ――――」
と言った。
後ろに仰け反るように後退りして、ショックを隠そうともせずに霊歌は正也の顔を見つめる。
気持ち悪い。
自分を肯定してくれたたった一人の人間に拒絶された衝撃は、容赦なく彼女の精神を絶望という形で蝕んだ。それが兄という唯一無二の存在だから尚更、ダメージは大きい。
反論することも出来ずにいる霊歌に追い討ちをかけるかのごとく、正也は続けた。
「妹ってのは確かに可愛いけどさ、はっきり言ってそういうのは幻滅する。
あの時だって、逆上されでもしたら怖いからお前に従っただけなんだぜ。おめでたいな、お前」
人形のように華奢な身体を小刻みに震わせて、霊歌は言葉を発することなく立ち尽くす。
が、この展開に衝撃を受けているのは決して霊歌だけではなかった。
(どうして―――? どうして正也くんは、こんなことを言ってるの?)
守谷彩子もまた、霊歌程ではないにしろ相当な衝撃を受けていた。
妹想いが人の形を為したような人物だったのに、それがこんな風に妹を糾弾している。
兄という存在が彼女にとってどれほど大きいか知っていながら、そこにつけ込んでいる。
ただ見ていることしかできない彩子を他所に、『兄』は糾弾の勢いを落とさない。
「俺はお前を愛していない。それどころか早く消えてほしいとさえ思っている。
こんなことを言うのは、お前に好かれたままお前の兄を辞めたくないからだよ―――辻斬りなんざと因果が繋がっているなんて、考えるだけでもおぞましいな」
「………っ」
今にも大粒の涙を溢しそうな霊歌と、鬱憤を晴らすかの如く笑う正也。
つい数分前まで、たとえ偽物だとしても仲が睦まじすぎるくらいの兄妹だったというのに、全く対称的な光景が展開されている。
しかしこれは兄妹喧嘩ではない。
一方的な――――言葉の暴力だ。
自分を妹がどれだけ支えにしていたか知っていながら、それでも尚暴言を吐き続ける。
確かに柄部霊歌のしてきた行為は決して許されることはないものだ。
何人もの人間の人生を滅茶苦茶に狂わせて、復讐の動機があれど、正当な行為では絶対にない。
だが――守谷彩子には、どうしても柄部霊歌を真っ向から糾弾することができなかった。
もしも自分が、殺された被害者の親族だったならと考えると胸が痛むし、きっと下手人を許そうという気持ちにはならないだろう。それでも、彩子は彼女を責めなかった。
最初から殺人鬼で生まれてくる人間も確かにいるのかもしれない。
けれど、彼女はそうではない――と、思った。
生粋の殺人鬼だったなら、あの風呂の一件で彩子を見逃すわけがない。
あんな悲しそうな目が出来るわけがない。
それなら、彼女はまだ戻れるかもしれない。だから、霊歌を助けようと思ってこの人を探していた。
それなのに―――これはなんだ。
完全に裏目に出てしまっている。余計に霊歌を追い詰め、壊してしまうかもしれない―――こんなはずじゃ、なかったのに。
「俺はこの時を以てお前との縁を切る。兄として最後の命令だ――辻斬りを辞めろ」
「……わかりました、ごめんなさい………兄さん」
「兄さんって呼ぶな」
「ひっ……ごめんなさい、ごめんなさい―――」
「鬱陶しい」
あの、清楚ながらも強気だった少女はすっかり影を潜め、弱々しく項垂れている。
可哀想とかそういう感情じゃなく、悲しいと思った。
柄部霊歌の中で、柄部霊貴―――福沢正也―――『兄』の占めていたものは、途方もなく大きかったのだ。
世界でたった一人信じられる人間にこんな形で裏切られたら、発狂したっておかしくない。
最後の柱は、沖崎なる人物への復讐心。皮肉にもその感情だけが、霊歌を支えているのだろう。
或いは、せめてこれ以上兄に嫌われたくないという、健気な心だろうか。
そんなものをまざまざと見せつけられて黙っていられる程、彩子は温厚ではなかった。
大切には思っていたが、肥大化したプレッシャーに押し潰されてしまったのかもしれない。
仕方がないことで、責められるものではないのかもしれない。
――――バチン
それでも。
「いい加減にしなさいよっ!!」
気付けば、彩子は正也の頬を思い切り、右手で打っていた。
呆然と目を丸くする彼。
たった一発、たった一発の暴力を振るっただけだというのに、肩で息をする彩子。
激しい怒りに突き動かされて、衝動的に彼の頬を打っていた。
「痛ってえ……あんたには関係ないだろ」
「そうだね、関係ないよ。私と霊歌ちゃんは、まだ出会って半日も経ってない。
だからこれは、私が勝手に怒ってるだけ―――私が、あなたを認めない、たったそれだけよ」
目の前の青年が本気になれば、彩子一人くらい殺すことは造作もないだろう。
ひょっとすると逆上されてしまうかもしれないのに、それでも彩子は怒りに任せて行動してしまった。
―――僅かな時間の付き合いでこそあれど、柄部霊歌が兄へどれだけの思いを寄せていたか知っているから。知ってしまったから、彼の裏切りを看過することができなかった。
必死に自分を落ち着かせようとするが、口を突いて出る言葉はやはり、鋭いものだった。
「―――消えて、『柄部霊貴』くん。霊歌ちゃんをこれ以上、傷付けないで」
「おいおい、随分な言い草だな―――ま、言われなくてもそうするが」
かはは、と笑って、長身の体躯を翻らせて。
最後まで自分が柄部霊貴ではないことを明かさなかったのは、せめてもの良心なのか。
でも、霊歌の兄となったことも、辻斬りの標的になることを免れるためだったのかと考えると、何とも形容しがたい想いが込み上げてきた。
彩子に出来ることは、ただ、震える霊歌の身体を抱き締めてやることだけだった。
重すぎる業を背負ってきた少女を―――同じく業を背負う彼女は、ただ黙って抱き締める。
少し高い体温が伝わってくる。
涙を流さないのは、彼女の最後の矜持だろう。
多くを斬ってきた殺人鬼に泣く権利はない、それを理解している彼女には、泣くことができない。
辻斬りハローは失われた。
まだ彼女が立ち直るまではわからないが、多分もう辻斬りに戻ることはない。
人殺しそのものへの忌避ではなく、兄からの命令だから。
まだ健気に兄を想っているこの少女は―――兄からの命令を破らない。
自分だけは何があっても、この儚い少女の味方で居ようと。守谷彩子は決意した。
少女を抱き締めて、一人固い覚悟を決めた――――
◇ ◇
――――――――ぱぁん、と音がした。
◇◇
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最終更新:2012年05月05日 22:41