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平成前期

1990年
  • 12月
 第一次湾岸事変勃発。ソ連のコントロールを離れ暴走するイラクに対し、イランに多く権益を保持する日本、サウジアラビアに深く関わるアメリカが珍しく(いがみ合いながらも)連携。国連安保理は賛成4(日英米伊)、棄権1(ソ連)の常任理事国賛成多数により対イラク制裁を決議。国連臨時総会も賛成多数でこれに追随。

1991年
  • 1月17日
 日英米伊は国連決議に基づきイラクに宣戦を布告、開戦しイラクを激しく空爆。激しい戦闘になるも、相対的な戦力差からイラク軍は108時間耐久制空権獲得レースに敗北し、2月27日からの地上戦でクウェートから辛くも撤退する。

1994年
  • 6月27日
 新興宗教団体による松本サリン事件発生。
  • 9月4日
 畿内国際空港、開港。世界初の浮体構造(メガフロート)式の空港にして、世界最大規模の空港。4000m級滑走路4本、2500m級1本。

1995年
  • 1月
 日本連合帝國でパソコン用OS「TRON-1」発売。同年、アメリカでは同じくOSの「Windows95」が発売され、日米IT戦争が始まる。PC向けOSでは「TRON」と「Windows」が世界を二分するが(共産圏は除く)、家電製品等では「TRON」系列が圧倒する。またこれ以降、インターネットが加速的な勢いで普及していく。
  • 1月17日
 阪神大地震が発生。しかしながら近衛軍、帝國軍及び自衛隊の迅速な展開と関東大震災以来の非常に強力な耐震基準法が制定されていたことにより被害を最小限に止める。またこの際も畿内国際空港は無傷(連絡橋の神戸側が大破し3ヶ月間通行止めになったのみ、大阪側連絡橋は僅か1日の重点検で済んだ)だったため、メガフロート構造による強みを見せ付けた。
  • 3月20日
 東都地下鉄で新興宗教団体による地下鉄サリン事件。発生から30分後にサリンによる無差別テロと判明すると、日本連合帝國政府は関東道全域に対し戒厳令を布告。さらに全軍に対し出動待機命令。関東道内の全部隊は出動命令を受け、連合帝國軍と自衛隊が関東道の全交通インフラを封鎖し、実に50年ぶりの軍用列車を徴発し沿線各地から被害者らの治療に当たり不足が予想された解毒剤を武装列車によって輸送。
 直ちに出動した対毒ガス部隊による除染も行われ、迅速な対応が行われたが、結果的に死者14名、重軽傷者5914名の大惨事に(史実よりも被災者が増えているのは史実とは違う東京だから)。なお、交通インフラは21日には道境に臨時の検問所が設置された後に封鎖解除された。
  • 3月22日
 連合帝國高等行政庁国家警察局は関東道山梨県上九一色村の宗教施設の強制捜査に踏み切るが、宗教施設からの毒ガス散布や激しい銃撃戦という事態に陥り死傷者が出たため、後詰めとして控えていた陸上自衛隊の特殊部隊を投入。4時間にも及ぶ銃撃戦の末に教祖を逮捕する。警官隊・陸上自衛隊員の死者11名、重軽傷者27名、宗教団体側の死者21名、重軽傷者12名を出した。
  • 3月24日
 日本連合帝國政府は安全が確認されたとして関東道全域の戒厳令を解除。以後、対テロリストの法整備などが急速に進む。

1997年
  • 4月5日
 明石海峡大橋、開通。
 四国新幹線、徳島~神戸間開通。

1998年
  • 3月8日
 第三次中華事変発生。中華連邦政府大総統官邸に共産系工作員が運転するトラックが自爆テロを敢行。同時に中華人民解放軍が大規模越境を行い、指揮系統が一時的混乱に陥っていた隙を突いて中華連邦内へ雪崩れ込む。常設国連軍は連合帝國軍、満韓印連合軍と連携し一歩遅れた3月12日より大規模空爆を行い、また中華連邦軍も体制が整ったため反撃。4月7日に元の国境線まで戻り、再び停戦する。
 中央新幹線、東京~長野~岐阜~名古屋間開通。

1999年
  • 6月2日
 トラック宇宙基地の一部機能開始。順次本国から運ばれてきたメガフロートモジュールを結合しつつ拡大していく。
  • 7月1日
 英領香港、都市国家として独立。

2000年
 日本帝國電気グループ(JEE)からPC向けCPU「Type」シリーズが発売される。また同年末、アメリカでは「Pentium4」などがリリースされ、より一層PC関連競争が加速する。またこの時期から日本連合帝國内部ではいわゆる「コンテンツ産業」がクローズアップされ始める(むしろ暴走か?)。

2001年
  • 9月11日
 中華人民共和国の工作員にハイジャックされた民間機が大阪のATCツインタワービル、沖縄の嘉手納空軍基地へ突入。また前後して共産党に支援されたイスラム原理主義者によるハイジャックと航空機突入がアメリカ国内で起きる(標的は史実通り)。両国で一時戒厳令が布告される。
 アメリカは直後にイラクへ殴り掛かろうとするが、日本海軍が一時的に欧州での軍事的プレゼンスを低下させてまで空母機動部隊を派遣したことにより、国連での話し合いを受け入れることになる。
 喧々諤々の協議の結果、国連査察団の受け入れ、1年以内の国連軍監視による民主選挙の実施、大量破壊兵器の放棄をイラクに宣言させることで決着する。また中華人民共和国に対しては経済制裁と軍事圧力の強化が成された(国連査察団など受け入れないことが端から分かりきっていたため)。

2003年
  • 8月5日
 北海の英国に程近い海域に於いてソ連の未確認大型原子力潜水艦が爆発事故を起こし沈没。日英とソ連双方の陣営が多数の艦艇を派遣し緊張が高まる。一時は軍事的衝突も懸念されたが、双方が一時的に軍を退き、ソ連が速やかに沈没した原潜を引き揚げることで決着。
  • 9月9日
 第一次太平洋戦争終結60周年を期して、日本連合帝國とアメリカ合衆国の首脳会談がサンフランシスコで行われる。世界同時多発テロでの対応が分かれて冷却化していた両国関係修復。エネルギー・環境問題について協力していくことで一致を見、対米貿易摩擦解消の一環として、日本列島に新設予定の磐代第二原子力発電所をアメリカ企業が全て受注することが決定。

2004年
  • 2月9日
 日本連合帝國、帝國宰相に後に第三次大戦を切り回すことになる上総志津(立憲政友会)が就任。
  • 1月30日
 日本連合帝國、磐代第二原子力発電所の建設着工。

2005年
  • 7月15日~7月16日深夜
 緊張が極度に高まっていた(双方が臨戦態勢に入っていた)英仏海峡上空でソ連赤軍機の領空侵犯が双方の過剰反応を呼び、日英とソ連空軍が大規模武力衝突。英仏海峡で警備活動中のHMS「フューリアス」がとばっちりを受け撃沈される。
 各国は直後に戒厳令と臨戦態勢を発令し(もっとも日英ソのそれぞれの陣営間ではとっくの昔に戦争体制に入っていたし、準戦時動員が開始されてすらいた)、すぐさま中立国スペインのマドリードで緊急会談が行われるが協議は平行線を辿り、さらに「ツァーリ」を巡る一連の軍事対立に対し、日本連合帝國政府が「使用目的の明言と国連査察の受け入れ、ソ連赤軍による軍事的圧力の低下がなされない場合は先制攻撃も辞さず」との発言が出るに至り交渉は決裂する。
  • 7月25日午前0時(グリニッジ標準時)
 全部隊の配置完了を受け、「英仏海峡付近に掛けられる不必要なまでの大規模な日英の軍事力から全欧州を守るため」として、ソ連側から日英両政府に宣戦布告がなされ、十分後に英仏海峡上空で戦端が開かれた他、東西フランス国境線付近で日仏対ソ連、満州国境地帯で日満対ソ連の大戦車戦及び制空権獲得競争が始まり、第三次世界大戦が勃発した。また中華地域では(主に中華人民共和国が)宗主国のコントロールを離れて火事場泥棒的に勝手に戦争を始めるなど混乱を極めるが、アメリカは傍観姿勢を貫いた。
  • 7月27日未明
 ソ連軍、各地で国境線である礼奈川を渡河し益筑へ侵攻。連合帝國陸軍、渡河地点前面への展開が間に合わず益筑包囲を許す。益筑市に立て籠った国土管理局国土警備部が市外郭の新市街を放棄し、中心部の城塞である旧市街に市民を避難させ防御。市街侵入を阻止。28日夜半の連合帝國陸軍主力の到着まで、放棄された市街地で一進一退の激しい市街戦が繰り広げられる。
  • 8月6日
 北極海から南大西洋を経由して日本列島近辺まで近付いたソ連潜水艦による核攻撃。弾道弾の飽和攻撃は防ぎ切ったものの、マッハ5で紀伊水道を超低空侵入した非核特殊弾頭の巡航ミサイルが大阪湾へ入港しようとしていた原油を満載したタンカー「浦汐丸」を直撃し、同船を撃沈。大量に漏れ出た原油が湾上に広がって引火し大火災と視界不良を招き、大阪湾を4日間に渡って通行不能に陥れる(その後も原油回収作業などで結局完全復旧に1ヶ月以上かかった)。
  • 8月7日
 連合帝國軍、ソ連核ミサイル基地を特殊通常弾道弾により攻撃。日本連合帝國政府、こちらから積極的に核を使うことはありえないが、再度の核攻撃の際には全面核戦争も辞さずと警告。
  • 8月9日
 再度日本列島近辺海中及びソ連本土からの弾道弾攻撃。核弾頭多数を含む全弾を完全撃墜に成功。
  • 8月10日
 連合帝國軍、非核弾頭の弾道弾でウラル工業地域を徹底攻撃。同時に叩ききれなかった核ミサイル基地を再度攻撃。ソ連核戦力、9割を喪失。
  • 8月15日
 ノルマンディー上陸を企図した日欧連合艦隊とキール軍港から出航したソ連艦隊による今大戦唯一の艦隊決戦。1000発単位の対艦誘導弾攻撃の迎撃に成功するも、双方とも航空戦力が半壊し、誘導弾も撃ち尽くした結果、時代錯誤の砲撃戦となる。日欧連合艦隊、ソ連艦隊を殲滅。ノルマンディー上陸作戦成功。
  • 8月19日
 ノルマンディー上陸部隊とソ連軍、パリ郊外で大規模な戦闘。欧亜連合軍はこれを撃破、独仏国境へ迫る。同日、国境線で膠着していた極東戦線がジリジリと西へ移動を開始。
  • 8月29日
 欧亜連合軍、ルール工業地帯へ侵攻。中華戦線、中華民国軍と人民解放軍が北京郊外で激突(北京会戦)。
  • 9月2日
 ソ連徹抗戦派が政権内でクーデター。和平派、地下に潜る。ソ連軍、「ツァーリ」を3回使用。欧州戦線の欧亜連合軍地上部隊、並びに非軍事目的の宇宙反射望遠鏡による衛星反射で遠距離狙撃された日本の横浜、長崎両市街が壊滅。横浜で4万人、長崎では2万6千人が死亡。日本連合帝國宙軍、神業のような人工衛星の軌道制御を行い、高軌道上の反射望遠鏡を始めとするソ連の衛星の大半を一掃。しかし飛び散ったスペースデブリにより第三国(特にアメリカやCENPONAL)の静止軌道以下の低軌道衛星も多くが損傷・大破する。
  • 9月3日
 グアム基地で「ツァーリ」攻撃を受けて暴走した部隊の独断専行による核弾道弾発射未遂事件。米軍駐留時代に密かに地中に埋められて破棄されていた毒ガスを奪取した部隊が基地主要区画を一時占拠。多弾頭型核弾道弾がこともあろうに北米へ向け発射されかけるも、寸前で阻止。弾道弾は発射サイロ内で各坐。首謀者は鎮圧部隊との撃ち合いで死亡。
 欧亜連合軍、総力を挙げて「ツァーリ」に対し激しい空爆。ソ連軍との激しい攻防の最中、戦線を単独突破した連合帝國海軍機による核攻撃により「ツァーリ」ごとザルツヴェーデル消滅。
  • 9月5日
 欧亜連合軍、欧州、中東、北東アジア、中華の各戦線を突破。猛烈な勢いで撤退を続けるソ連軍を激しく追撃。日本連合帝國政府、ソ連政府に対し停戦勧告。抗戦派で占められるソ連政府は勧告を拒否。
  • 9月9日
 モスクワで抗戦派に対する和平派のクーデター。抗戦派と受諾派の部隊がモスクワ市街で激しく戦闘。指揮系統が一時的に消滅し、その間隙を衝き欧亜連合軍は戦線を大きく前進させる。
  • 9月11日
 クーデター失敗が必至となった和平派、抗戦派諸共に水爆を用いて自爆。2メガトン弾頭複数がモスクワのクレムリン中心に炸裂し、モスクワ消滅。指揮系統の混乱を衝いた欧亜連合軍により、前線の主な抗戦派将校も戦死する。
  • 9月17日
 消滅した中央政府に代わり、レニングラードに逃れていた和平派が立ち上げたソ連臨時政府が停戦勧告を受諾。各戦線の戦闘停止。在中ソ連軍もこれに合わせて活動を停止したため、中華地域の戦闘も急速に鎮まる。
  • 10月21日
 ハワイ国連本部にて欧亜連合国とソ連による講和会議が始まる。日本連合帝國はソ連に対し、第二次大戦時に占領したままの国家・地域の放棄、ソ連に廃位された王室の復帰、ソ連邦構成国・地域及び連合軍占領地域の国連監視投票による帰属の決定、一党独裁体制の解体、一方的軍縮(特に核)、戦争犯罪者の無関係な第三国主催による国連国際軍事法廷での処断等を要求。

2006年
  • 2月15日
 ソ連臨時政府、日本連合帝國政府の要求をほぼ全面的に受諾。ホノルル講和条約締結。発効は同年8月15日。同時に日米間で核兵器削減交渉が打診される。
最終更新:2011年12月19日 17:36