【受験のカミサマ 1】

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   1

 大通りの桜がまったく綺麗に見えなかった。だから逃れるように目を伏せた。
 本当なら自分も周りの連中のように、すがすがしい気分でうっとりと桜を眺めることができたのだ。華やかな夜道を歩きながら、伏見雄眞はため息をつく。安物の茶色いジャケットにはタバコの匂いがこびりついている。
 まだところどころ明かりの点いている、予備校のビル。それを尻目に、広小路通りを渡って駅前広場に入った。ロータリーでは客目当てのタクシーが列を作っていた。暇を持て余したドライバーたちが、缶コーヒーやタバコを片手にして世間話に花を咲かせている。
 買ったばかりの定期券を取り出し、自動改札機に放り込んだ。この時間になると乗降も落ち着くのか、年配の駅員はどっかりと椅子に腰掛け、あくびをかいている。
 跨線橋を渡ってホームに降り、ひとけのない先のほうまで歩く。JR中央線の千種駅は堀の中にあるため、薄暗く、寂しいぐらいにひっそりとしていた。
ひんやりとした春の空気を吸いこみ、雄眞はベンチに座る。そして汚れきった白い息をすべて吐き出した。それはまるで体内に沈殿していた疲労と絶望と憂鬱が、薄い膜を破って漏れ出したかのようであった。
「何やってるんだろうな、僕・・・・・・」
 今日はろくに勉強もせず、だらだらと時間を潰してしまった。だが雄眞が失望しているのは、時間を無駄にしてしまったからでも、親を心配させてしまったからでもなく、もっと深い理由がある。
勉強に明け暮れた高三の一年は、一体何だったのだろう。友達と同じ大学に行きたくて、人並み以上に努力してきたはずだった。趣味も恋愛も全て断ち切って、受験勉強に集中してきたつもりであった。雄眞はそれ相応の結果を得る資格があるとさえ思っていた。
 しかし、彼の努力は残念な結果に終わってしまった。成績は夏ごろから伸び悩み、危機感と焦燥感で冷静さを失い、結局他の受験生と差がついて志望校に落ちてしまった。
 こうして、彼のこれから一年間にも及ぶ予備校生活が始まったのである。
 今日は第一回目の登校日で、今年一年のガイダンスと、クラス担任の原さんによる浪人生たちへの力強い鼓舞から始まった。
 受験に失敗して落ち込んでいるのはとてもよくわかる。でも、一年間しっかり勉強して志望校に再挑戦できる君たちはむしろ得しているんだ。と、そのようなことを言われてきた
「だから今年は頑張ろう!」と背中を叩かれてきた。
 雄眞はまた一つため息をついて、両目を強くつぶる。歯を食いしばる。握りこぶしをぶるぶる震わせる。
 いくら手厚い同情のことばや激励のことばをいただいたところで、悔しいものは悔しいし、悲しいものは悲しいし、惨めなものは惨めである。雄眞がこうして屈辱の予備校生活へ入るのをよそに、友人たちはこれから始まる新生活に胸を躍らせながら、春を彩る桜を眺めて歩くのだ。どうして自分だけが、こんなにも悲劇的でむごたらしい春を迎えねばならないのか。
 列車の接近ベルが鳴り、びりびり音が響いた。おもむろに顔を上げる。
「まもなく二番線を電車が通過します。黄色い線の内側にお下がりください。まもなく・・・・・・」
 しんとしていたホームにアナウンスが流れた。辺りが押し黙ったかのように静かなため、暗い堀の中で反響して聞えた。
 だが、構内放送は彼の耳には入らなかった。雄眞はすっとベンチから立ち上がる。立ち上がるとすぐに、まっすぐ線路へ向かって歩き出す。虚ろに視線を泳がせながら、一歩二歩とよろめいた足取りで前進する。
 広告看板に照りつける光が、だんだん強くなる。文字や絵柄を焼き尽くしてしまう。強烈な電車のライトに体が映し出される頃には、彼のつま先は二本のレールを見つめていた。
 警笛が三度、静寂を破り裂いてはじけた。そこをどけと、危ないからどけと、死にたくなければどけと、必死に怒鳴り散らしながら電車は駅に滑り込んでくる。
(もう、どうでもいい・・・・・・)
 雄眞はそう呟いた。真下の枕木に自らの落下点を定めようとする。しかし、ほんの一瞬だけ彼の思考が止まった。
レールの脇に咲いている菊の花に気づいたのだ。冷たい夜風に体を揺らして凍えている、季節はずれの残菊。都会のきらびやかさや賑やかさが届くことのない寂しい暗がりのなかで、白い花弁を儚げに見せていた。
 薄く笑う。自分が粉々になりながら眺める最期の光景としては、粋な部類に入るのではないかと。死にゆきながら鑑賞するにふさわしい、趣のある絵。そしてついに雄眞は両足の力を抜き、列車に飛び込む動作へと入った。
 彼の十九年にわたる生涯が終わろうとしていた・・・・・・。
 そのときだった。
「だめぇー!」
 誰かがそう叫んだと思うと突如、襟首を真後ろに引っ張られた。そのまま引っ張り倒されてしまい、ホームのアスファルトに頭を打つ。
「いってぇ・・・・・・!」
 強打した後頭部を押さえながら、雄眞は混乱する。いったい自分の身に何が起こったのか、全くわからなかった。
 ブレーキ音を激しく響かせて、目の前を列車が通過していった。最後尾の車両をホームに残す位置でゴトンと巨体を揺らし、止まった。駅を通過する回送列車が、危険を察知して非常ブレーキをかけたのだ。闇にくっきりと浮かぶテールライトが、赤々と六両編成のしんがりを示している。
「あれ・・・・・・? え・・・・・・?」
 まず、無意識のうちに出た行為に戦慄する。自分は自殺しようとしていたのだ。大学受験に失敗したからといって、自ら命を絶とうとしていたのだ。
 全く言葉を発せない。いったい僕は何をやっているのだろう。いくらなんでも死ぬことはないじゃないか。そう、腰を抜かしたまま震えていたときだった。
 いきなり首をごきりと右の方向へ九十度、強引に向けられる。
 深く透き通る黒い瞳の、まんまるの目がそこにあった。
 活発さと可愛らしさを備えかねた短めの髪に、黒地の古典的セーラー服。白い素肌との対比が、見るものに強い印象を与えた。冷たい夜風にひらひら、緋色の三角スカーフが揺れている。
 今度はこの少女の出現に驚いた。彼女は眉をきっと吊り上げ、彼の弱った、活力のない瞳を見つめている。
 雄眞が思わぬ登場人物にどぎまぎしていると、女の子の瞳はみるみるうちに潤い、固く一文字に結んでいた口元が歪みだした。そして、列車の方から車掌が走ってくるのが見えたとき。
「ばかたれぇー!」
 頬を打たれた。思いもしなかった一発に視界が跳ね飛んだ。それはアスファルトに叩きつけられた衝撃よりも、ずっとずっと重たかった。
「あなた何考えてるんですか! 私がここにいなかったら轢かれていたんですよ! バラバラになっていたんですよ! まだ若いのに! 将来だってあるのに! どーしてそんなおバカな真似をなさるんです! 自分を大事にしなさい! 家族を大事にしなさい! 何より命を大事になさい!」
 両肩を前後に揺さぶられながら、雄眞は呆然と、女の子が泣き叫ぶ言葉を聞いていた。
 それが、黒服の少女との出会いであった。

 まる一日に及ぶ猛勉強に疲れて、めまいを起こしてしまいました。
 そう事情聴取に応じたことで、始末書を書かされた程度で雄眞は釈放してもらえた。電車を止めてしまった責任である。
 駅事務室の扉を開けて表に出ると、すでにキヨスクは閉まり、駐車していたタクシーは二台に減り、駅前の商店街もみなシャッターが下りていて、先ほどよりも深い夜の闇に街は包まれていた。ホームへの階段を下りる。
 ホームには誰一人おらず、本当に列車はやってくるのか疑わしく思えるほど、しんと静まり返っていた。
 雄眞は今もなお愕然として穏やかでない。志望校に滑り、浪人が決定し、母親を泣かせてしまったあげく、自ら命を絶とうとしていた。そして、それほど自分が追い詰められていたことを、とても悲しく思った。
 そう肩を落としていたらまた、首を左の方向に九十度、ごきりと向けられた。目撃者として事情聴取に付き合ってくれた黒服の子は、鼻と鼻の先がぶつかりそうなぐらい顔を近づけてきて、瞳の奥の奥に言い聞かせるようこう言った。
「まったくもう! 二度と、自殺なんて馬鹿な真似しちゃダメだよ! わかったね!」
「うん、もうしないよ。どうもありがとう」
 雄眞は真摯に反省し、お礼を言った。
それを聞いて女の子は「よろしい!」と言って手を離す。「自殺なんて逃避はとってももったいないんだよ? 本当にもったいない。生きていれば嬉しいことや幸せなことなんて、きっといっぱいあるんだから」
 情けなさのあまり苦笑してしまった。まったくもって彼女の言うとおりだ。まだまだ自分は生きることの厳しさなど何一つ知らない小僧だから、あのように自分を不幸だなどと思えるのだ。この長い一年を耐え抜けば、きっと素晴らしい人生が待っている。
 だが、行きたかった大学に行けなかった挫折のショックは計り知れないものがあった。この春、友人たちは雄眞を置いてきぼりにして新しい生活を迎える。凍てついた冷気が鼻腔の奥に突き刺さるたび、嫌でもその現実を突きつけられてしまうのが、たまらなく苦しかった。
 そう目線を落としたところを察せられたか、女の子はこう言った。
「あなた、受験で失敗したんだね」
 雄眞は驚いた様子で「何で知ってるの」と返す。
「だって」少女は闇夜にたたずむ巨大なビルを見やる。「今年からこの予備校に通うんでしょ? ここに来るってことは」
「ああ、確かに」
 このように千種駅は、大手予備校「赤池塾」の最寄り駅である。都会の高校生や浪人生だけでなく、雄眞のような地方の生徒も集まる「受験生の駅」だ。
 しかし千種駅にいるからといって、自分が浪人生であるという論理はいささか強引なものだ。単に身なりから見破られただけなのかもしれない。薄汚いジャケットやユニクロのジーパン、高校三年間の通学に使っていたボロボロのリュックサック・・・・・・。
 確かにどこか垢抜けなくて、みすぼらしい風体をしている浪人生に見えなくもない。いずれにせよ浪人生であることをあっさり看破され、雄眞は後味の悪い驚愕を禁じえない。
 じゃあ、この子は何なんだろう? 
 どうしてこんな時間にこの駅にいるんだろう? 
 彼は対抗心のにじみ出た観察眼で、この美少女を頭からつま先までじっくり眺めてみた。
 命の恩人であるこの少女は、腕と足がきわめて細く、背も低く、かなり小柄と言える。雄眞も高身長とはいえない平凡な背丈をしているが、そんな彼でもちょうど、胸元に女の子の頭頂部が位置しているほどであった。
 折り目正しいプリーツスカートは、長めだ。年頃の子がやる、スカートのたけを短く調整するようなことはしていない。黒いタイツのようなものをぴっちり履いており、学校指定のものだろう、黒の革靴が蛍光灯に反射して、光沢の白い玉をつま先に乗せていた。
 青春まっただ中のハイティーンというよりも、中学校に入学したばかりの、あどけない少女のように見えた。でも、今でもルーズソックスを堂々と履いてくるような田舎の子と比べれば、見るものに与える印象はこの子のほうがずっと良かった。はっきり言ってしまえば、とても可愛い雄眞好みの女の子。
 千種駅にいるということは、この子も同じ予備校に通っているどこかの現役生だろうか。じろじろ見ていたら「なあに?」と言われたので、雄眞はすぐに目を逸らす。
 ひとつだけ、彼はたずねてみた。「きみの名前はなんていうの?」
 女の子は、ん、と微笑み、「吹上みずほ。みずほでいいよんっ」と答えてくれた。
 人懐っこくて可愛い。可愛いが、こんな子に助けられたうえ、立派なお説教までいただいたと思うと、全く頭が上がらない。ぽつり「みずほちゃんね」と呟いた。
「僕は伏見雄眞。今日は本当にありがとう。みずほちゃんのおかげで死なずにすんだから」
「もう二度と自殺なんて考えちゃダメだよ? すっごく悲しいことなんだからね?」
「うん、もうあんな馬鹿な真似は絶対にしないよ!」
 みずほは「うん!」と笑顔になった。「ほら、電車来たよ。あなたのせいで中央線のダイヤは十分遅れなんだからね!」
 田舎へ帰る普通列車は、名古屋駅からの乗客をたくさん乗せてやってきた。扉が開き、浮かない顔をした通勤客がどっとあふれ出る。そんな彼らと入れ替わるように乗車し、ドア寄りの位置で振り返った。
「じゃあ帰るね。今日はどうもありがとう。ばいばい」
 と、もう何度目かもわからないお礼の言葉を口にしながら、雄眞は手を振る。
「うん。気をつけてね。ばいばい!」
みずほも、名残惜しそうな様子で手を振っている。
 重たい扉ががたがた音を立て、ドンと閉まった。古い制御装置がうなりを上げ、オレンジと緑の旧型車両は老体に鞭を打ちながら加速を始める。
 彼女の手を振る姿が見えなくなってから、雄眞は彼女がどこに住んでいるのか、どこの学校に通っているのか、携帯電話のメールアドレスだとか、様々なことが気になりだしたのであった。

   2

 大学受験に失敗し、予備校通いを始めた浪人生に、ゴールデンウィークなどない。通常通りにびっしり授業が組まれており、彼らにとって休みのない日々は続くのである。
「せっかく身についた学習習慣を損なわないようにするため」だそうで、今朝も雄眞は不機嫌な母親に平謝りをして弁当を作ってもらい、田舎を出た。
 大型連休の使い方だの、出国ラッシュ真っ盛りだの、世間は初夏らしいのんきで平和な様相を呈していた。先に進学していった友人たちもまた、「生まれて初めての海外旅行に行ってくる」「お土産は何がいいかい?」などといった、配慮の足りないメールを雄眞に送りつけていた。それに対して苦笑しながら「バカヤロウ」と返事をしてやった。
 大きな失敗のあとは、連休が無いだの、友人が遊んでいるだの、そのような事はまったく気にならないものである。ただ毎日、黙々と勉強するのみ。どん底から這い上がってきた雄眞も例外ではなく、ますます受験に対して集中力を上げていた。
 改札口から予備校のビルへ続く歩道橋を、一歩一歩しっかりとした足取りで渡る。真下の大通りは、トヨタ車や市営バスが数珠のように並んでおり、連休中でも忙しい朝の通勤ラッシュを演出している。正面玄関を入り、活気ある講師室を左手に見ながら階段を上がると、一時間目の講義が開かれる教室にたどり着いた。
 一時間目は英作文の講義だった。雄眞はとても英語が苦手である。
 彼は田舎の進学校に通っていた優等生であったが、本格的に受験シーズンを迎えるまでは真面目に勉強をせず、毎日ゲームセンターに寄り道をして遊ぶ、不純な高校生活を送っていた。
 読まず、書かず、聞かず。ずっと苦手のままで放置していた英語という科目は、昨年いざ本番を迎えたとき、これまでの堕落を一つ一つ責め立てるかのよう、ネックとして大きく立ちふさがった。
 そのような恥ずべき過去もあってか、雄眞は情けない心境で間違いだらけの宿題をペンで赤く染めた。努力不足が最も身にしみるひと時であるが、英語をどうにかしない限りは来春の成功はありえない。そのことを強く自分に言い聞かせ、こらえた。
 二時間目の数学ⅡBが終わると、六十分間の昼休みを挟む。雄眞は校舎のベランダに出て、屋外に設置されている非常階段を上がった。
 風の強い正午であった。都会のビル群を吹き抜けてきた横風が、三日前にすいたばかりの短髪をなぎ払う。鉄製の階段を上がるスニーカーの足音が、あたかも他人が出しているそれのように、高く響いて聞こえてきた。
 地上五階と六階の間にある踊り場に着く。どっかりあぐらをかき、母親に作ってもらった弁当を広げた。中身の十分入った魔法瓶を置くと、甲高い金属音が上下に反響し、くぐもった細かい振動が尻に伝わってくる。どこかすぐそばで鳩が鳴いていた。
 食堂はあるにはあるのだが、席に限りがあるうえ、膨大な数の生徒が押しかけてくるので着席できる見込みがない。座れたとしても、一緒にお昼を過ごす仲間がいないので、彼一人だけでテーブルを占有するのはとても気が引けた。そこで、日当たりの良く静かで、誰も来ることのないこの非常階段の踊り場を、絶好の休憩場所として陣取ったのである。
 一人ぼっちなのは仕方がない。一年間耐えればいい話。
 箸を止めて下を向き、雄眞はぽつりと呟く。夏から履き続けてきた黄色のコンバースは、かかとの部分がそぎ落とされたように磨り減っており、思っていたよりも大きな穴を開けていた。
 校舎のすぐ下をJRが走っており、名古屋へ行き来する列車を一望できる。中津川へと向かう四両の快速列車が、きらきら車体を輝かせ、軽快な足取りで千種駅に到着するのを見た。
「や、こんにちは!」
 突然背後から呼ばれ、雄眞はびくっとして後ろを振り向いた。足音が一切しなかったので、全く気づけなかった。
 セーラー服のよく似合う少女が、両手を前に組んで彼に微笑みかけていた。さらさら風に揺れるボブカットと、赤いスカーフに見覚えのある雄眞は、緊張を解いて口を開いた。
「ああ、君はこの前の・・・・・・」
「後姿を見てあなただと思った。こんなとこで一人ぼっちのご飯なんて寂しいよ、雄眞くん」
 吹上みずほはそう言うと、すっと彼の右隣に座る。肘と肘の先がちょっとだけ触れ合う。彼女の体は非常に冷たく感じられた。
 雲ひとつない快晴であった。いつの間にか突風は落ち着いており、そよ風が二人の額を優しく撫でていた。このどこまでも広がる青空のどこかで、ヘリコプターがのんびり泳いでいる。
「元気にしてた? 何せあの後だから、ずっと心配しちゃってて」
「もう大丈夫だよ。結構楽しいもんだね、浪人生活」
「なら、良かった」
 小さな口元が可憐な微笑をつくる。潤いのあって、若さ溢れるきめ細やかな黒髪。光沢すら浮かぶ漆黒のセーラー服。そしてひざ小僧をも包み込む黒タイツと思しき履物。それは紛うことなき、女子学生の美しい姿であった。
 あの時は夜ふける暗いホームにいたから、この明るい日差しの下で眺めるみずほの姿は、とても新鮮で映えるものがあった。彼女の素肌は透き通るように白く、まるで色彩鮮やかな風景画に白の絵の具を垂らしたかのようだった。黒と白の印象深い対比で、吹上みずほは構成されていた。
 穏やかな晴天のもと、気持ちよさそうに背伸びをしているみずほに雄眞は言う。
「僕さ、今年一年頑張って、落ちた志望校に行くよ」
「雄眞くんは何が目指してるものがあって、その大学に行きたいの?」
「え、えーと・・・・・・」
 雄眞はばつが悪そうに後頭部をかきながら、こう答える。
「正直言うと、友達と同じとこに行きたいからっていう、くだらないわけで受験勉強してたんだ。高校三年間、ずっと一緒にバカやってきた仲なんで」
「そういう動機もいいじゃないか」
「いやいや、さすがにこの一ヶ月で不純だったと反省した。周りの必死な目を見てたらね、なんか自分はとても受験を舐めてたんだなぁと反省させられた。まだはっきりと決めたわけじゃないけど、僕は工学部に入って化学を勉強したいと思ってる。その理由は楽しそうだから・・・・・・うーん、まだまだ不純かな?」
「それだけ具体的に言えれば大したもんだよ。雄眞くん、あの日から本当に変わったね。とっても目がイキイキしてるよ」
「まあね」と言ってから、雄眞は最後までとっておいたから揚げを口に放った。「ちゃんと毎日の授業に出てると、今の自分に何が足りないのか、そして何をすればいいのかがわかるんだ。去年は精神的に追い込まれちゃってて、そういうのがまるっきりわからなかったから、今考えれば意味のない努力ばかりしていたと思う」
 英語なんとかしなきゃなあ、と雄眞はおどけた苦笑いをみずほに向けた。彼女はくすっと、口に手を当てて微笑んでくれた。
「自分はダメなんかじゃなくて、失敗をしていただけなんだ。まだまだ頑張れるよ!」
「いいことだ!」
 雄眞は空になった弁当箱をリュックにしまい、水筒の麦茶をすべて飲み干した。携帯電話のデジタル時計は、十二時四十八分を表示している。あと十分だけ一緒にいられる。
 一緒にいられる。
 雄眞は少しでもそう思ってしまった自分を、強く恥じた。みずほに名前を呼ばれるたび、心が敏感に反応してしまう。何かこう女々しく、切なくなってしまう。数日前にひょんなことから出会い、命を救ってもらっただけなのに、彼はもうこんなにもセーラー服の美少女に魅かれていた。
 浪人生活を始めたからには、こういう色恋沙汰はまずないと思っていた。自分の青春は、とっくにけじめをつけていたはずだった。彼は目線を落とし、そんなことを思っていた。
 浮ついたり、落ち込んだり。揺れ動く気持ちを少しでも落ち着けたくて、雄眞はリュックサックを枕にして寝転がる。目を瞑ったらそのまま気持ちのいい昼寝ができそうなぐらい、日差しは暖かくて、優しい色をしていた。
「みずほちゃんって、名古屋のどこかで暮らしてるの?」
 もっと彼女のことが知りたかった。こういうききかたをしたのは、雄眞が岐阜県の地方都市から通っているからである。みずほは青空と向き合ったまま、こう快活に答える。
「うん! そこの大通りをバスでちょっと行けばね、すぐに住宅地に入るの。そこに住んでたんだ」
「住んでた? じゃあ今は違うんだ」
「あ・・・・・・。うん、まあね」
 みずほの声が陰りを見せ、持ち前の元気が無くなった。
「ああ、聞いたらまずかったかな? ごめんね?」
 余計な詮索だった。慌てて右手を振って謝る彼に、みずほはううんと首を振って応える。雄眞は気を取り直し、住まいの次に気になっていたことをきく。
「じゃあ、学校もこのあたり?」
「そうだよ。あなたも名前ぐらいなら聞いたことあるはず。東城高校」
 雄眞はつい唸ってしまう。進学校の生徒なら、その堂々たる校名を知らない者はまずいない。全国模試のランキングで上位を独占しているのは、そのほとんどが東城高校の生徒である。
「みずほちゃんって東城高校だったのか! あの天才ばかりの」
「うん。みんな頭良くってね、私のようなおバカはついていくことすらままならないの」
「そりゃあ毎年毎年、東大生や京大生や医大生を大量生産してるとんでもないとこだからなあ」
「だから私はこうして予備校に通ってるの。ゴールデンウィークもずっと自習室にこもりっぱなし」
「みずほちゃんも頑張ってるんだね」
「だって、家にいたら親がぐちぐち文句言うんだもん! もっと勉強しろとか頭悪いんだから努力しろとか、お金をたくさんかけているんだから自覚しろとか! だからって連休後の学校も行きたくない! ・・・・・・ああもうほんと、受験って大変だね」
 雄眞は唖然として息を呑み、いきなり鬱憤を爆発させた彼女のことを眺めていた。みずほはげっそりとしながら深いため息をつき、ゆらりと立ち上がる。
 とたん、意地悪な初夏の風がスカートをまくってしまった。みずほはひゃあと叫び、両手でスカートを押さえつける。
そして即座に、非難の含んだきつい目つきで、寝転がっている雄眞を睨みつけた。
「見たな・・・・・・」
「見テナイヨ? ああそっか、もう三時間目が始まるね。行かないと」
「あやしい」
「オーバーニーソっていうのかな? 可愛くて好きだよ。萌え萌えでたまらないよ。黒タイツかなと思っていたのに意外や意外。それでスカートが短かったらもっと可愛いよ」
「寝転がって覗かないとわかんないもんね」
「意外といえば、白なんだね。黒だろうという淡い期待をいい意味で裏切って、白だったね」
「えっち」
「ああ、脳裏に焼きつく強烈で鮮烈で、イケナイ白だった!」
「雄眞くんのえっち」
 雄眞はリュックサックを担ぎ、わざとらしく笑いながらそそくさ逃げ出す。みずほはそんな彼の肘を指先でつねりながら、後に続いた。

 ゴールデンウィークが終わっても、みずほは平日の夕方と、休日の昼過ぎにその姿を現した。
 学校が終わるとすぐ予備校に来ているらしい。毎日遅い時間まで自習室に残り、雄眞がとにかく苦手としている英語を教えてくれた。教え方はとてもわかりやすく、雄眞は徐々に実力をつけていく。さすがはエリート進学校の生徒だけあり、どんな国公立の試験でも英語だけは絶対に九割取れるよんなどと、みずほは胸を張っていた。
「センター英語は得点源なんだから、こんなミスしてちゃダメでしょ! 本番でマークミスなんてしてたら泣くにも泣けないでしょこのドジ! マヌケ! ばかたれ!」
 毎日のようにみずほは怒り狂い、雄眞はさんざん頭を単語帳で殴られた。英語に関しては壮絶なスパルタ教育で、徹底的にしごかれた。
 校舎が閉まった後はいつも駅前の本屋に寄り、参考書や問題集を一緒に物色した。そして雄眞が電車に乗って田舎へ帰るとき、みずほはいつもホームまで見送りに来てくれた。
 一緒に頑張る仲間ができた。自分にとってかけがえのない存在ができた。遠回りの人生に潤いが生まれたことを、雄眞は一人喜んでいた。
 ただ、彼が勇気を出して携帯電話のメールアドレスを聞いてみたら、彼女から笑みが消える。別れ際のホームで、吹上みずほはこう言い残した。
「私、携帯電話持ってないの。ごめんなさい」


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最終更新:2010年04月19日 22:31
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