【受験のカミサマ 2】

   3

 いわゆる夏休みの季節に入ると通年授業はストップし、夏期講習という形式で授業が始まる。浪人生だけでなく、現役高校生も一緒になって夏期講習の授業を選択し、受講する。
 夏期講習は、通年の授業とは別に料金が発生するという姑息な商売であった。雄眞は母親から小言をぶつけられるのに一生懸命耐えながら、必死になって頭を下げ、受講したい授業をあらかた確保して勉強漬けの毎日を送ってきた。
 そんな彼の熱い夏も、すでに佳境に入っている。生徒であふれかえる廊下をかき分け、セミの合唱もやかましい表の非常階段へと出た。顔面を焼きつける厳しい日差しに立ち向かい、雄眞は彼女の待つ、いつもの場所へと向う。
 現役生と一緒に授業を受けるこの時期、雄眞は毎日をみずほと過ごしていた。階段がつくる日陰で体育座りをしていたみずほは、雄眞がやってきたのを認めると、にっこり手を振った。
 昼食を終えて弁当箱を巾着袋に包み、リュックサックに放り込んだ。のんびり遠くを眺めていたみずほのほうを向き、雄眞は彼女にこんなことをきいてみた。
「みずほちゃんさ、暑くないの?」
「うん? 全然暑くないよ?」
 涼しい顔でそう平然と答えた。確かにみずほは汗を一滴たりとも流していない。雄眞はとても納得いかない様子で、下敷きをうちわ代わりにして扇ぎながら、さらにきいてみた。
「そっか。今日はとうとう三十七度越えるんだって。僕の田舎なんて四十・九度に達したんだぞ。お天道様も一体どうしちゃったんだろうね。世間が温暖化だの異常気象だのあわてふためくなか、君はどうしていつまでも冬服のまんまなんだい?」
 みずほは炎天下にも関わらず、相変わらず布地の厚い長袖の制服を着てやってきた。まもなく一日で一番気温が高くなるなか、カラスのごとく全身を真っ黒に着込んできた彼女は、とても涼しげな顔で雄眞にこう答える。
「お気に入りなの、この制服。かわいいでしょ?」
 女の子それぞれに、お気に入りの格好というものはあるのだろう。首を傾けつつ、雄眞は「そうだね。君の言うとおりだと思う」と言った。
 夏休みなのに、ついに八月の終わりまで制服のまま予備校に通った吹上みずほ。このまま一年まるまる、学校の冬服で通す気でいるのだろうか? 普通な感覚の持ち主なのかそうでないのか、やはり理解できない。
「スカートも前より短くしちゃった。こういうの好きなんでしょ、いまどきの男の子って」
「・・・・・・」
 雄眞は言葉に詰まった。出会った頃はひざ下十センチ程度であったスカートのたけも、今では太ももの真ん中あたりにまで短くなっていた。
 日焼けを知らない美白の太ももは、ありきたりな表現だが、上質なシルクを見ているかのようだ。自分の火照った指で触れてしまったら、きっと拭おうにも拭えない一点の穢れをつけてしまうに違いない、神聖な領域。
 ニーソックスとプリーツスカートの間から露になった、魅惑的な白。
 体育座りをしているがゆえに先ほどからちらちらのぞく、刺激的な白。
 ニーソといいスカートといい体育座りといい、見せ方ひとつでこんなにも心に訴えるものの質と強度が変わるのか。
「別にあなたのことを言ったわけじゃないのに。えっち」
「・・・・・・」
 恥ずかしそうに潤う瞳が、雄眞をいじらしく責めたてていた。もはやどうにも落ち着きようがなく、あっちこっち視線を泳がせる彼を、みずほはくすくす笑って眺めている。
 すっかり調子を狂わされた雄眞は、家から持ち出したタオルでごしごし顔面を拭き、気を紛らわせた。そんな雄眞に、みずほは機嫌よくこうきいた。
「雄眞くん、最近調子どう?」
 受験生の会話では、この場合、勉強や成績の調子のほどを指している。
「うーん。ちょっと不調かな」
 汗で湿ったタオルをあぐらの上に放り、少し疲れたような表情をしてそう答える。両手を背後につき、真っ白な西の空を遠く眺めながらこう言った。
「先月のはじめに受けた模試はひどかった。よく出来たと思ったのに、C判定だったんだ。ちょっとまずいな」
「それだけ周りも力をつけてきて、競争が厳しくなってきたんだよ。浪人生はここだけでなく、全国にいるからね」
「やっぱりそうだよね」
 七月の模試のC判定は、これまで頑張り続けてきた雄眞に相当なショックを与えた。社会からドロップアウトし、人より三ヶ月も余分に勉強してきたのに、合格率は五十パーセント以下だという残酷な結果を突きつけられたからだ。
 みずほも言うように、必死になって勉強着けの毎日を送っているのは、何も雄眞だけではない。同じ立場の人間が全国にいくらでもいるのだ。それにこれから秋・冬へと時間が経つにつれ、現役合格を目指す高校生たちも非常に手ごわい存在となる。もう八月も終わろうとしているのに、本当の勝負はまだまだこれからなのだ。
 そろそろこの時期、雄眞に精神的な意味でも体力的な意味でも、疲労の色が見え隠れし始めた。この暑い二ヶ月間、彼は本当に頑張った。模試の悪い結果を受け取ってから、いったい自分に何が足りないのか、どうして今のままじゃ危ういのか、そしてこれからどう夏を過ごすべきなのか、そんなことなどいちいち気にしてはいられなかった。とにかくがむしゃらに頑張って、出口の見えない真っ暗なトンネルを前に進むことしかできなかった。
 努力しても結果が出ない。昨年の悪夢が脳裏をよぎる。
 どうせ無駄に終わる。この苛烈をきわめる争いに勝てっこない。勝ち残れそうもない。結局、親や友人や母校の教師たちを見返すことすらもできずに、全てが終わってしまうのだろうか・・・・・・?
 ・・・・・・そう毎晩のように、一度振り払ったはずの鬱にさいなまれてきた。だが、もう雄眞は折れなかった。押し潰されることはなかった。
 それはとても辛いことであったが、自分の実力不足や努力不足を真摯に受け止め、赤ペンだらけのテキスト・ノート・辞書の文字を昼も夜も追い続けた。自学自習を進めていく上でわからないことがあれば、早急に講師やみずほにきいて、解消することを心がけた。
 そんな必死さでいっぱいの毎日は台風のようにゆっくり過ぎていき、気づけばあと数日で九月になろうとしている。
「半年間頑張ってみたけど、また無駄に終わっちゃうのかなぁって。そんな不安も抱えてる」
 雄眞はそう、素直に自分の苦悩をみずほに打ち明けてみた。
するとみずほは雄眞の前でかがみこみ、彼の両肩を二度叩いてから、優しい微笑を浮かべてこう言った。
「そんなことないよ! 雄眞くんはこの夏休み、とっても頑張ってたじゃない。自習室が開いている時間の限り、ずっと集中して勉強してたじゃない。私が証人だよ。ずっとずっと一緒にいたしね、えへへ」
 照れ笑いを交えながら、みずほは力強い口調で雄眞に語りかける。
「まだまだこれから! 良い結果は、これから形になって目に見えるようになるよ!」
 じんと目頭が熱くなった。みずほの澄んだ瞳は、にじんだ視界の向こうでもよく見える。
 疲れきった心を癒し、元気付けてくれる存在が今の彼にはいる。一人で心配事や不安事を抱え込もうとしてきた昨年とは違うのだ。雄眞は軽く鼻をすすった。
「ありがとう。そうだといいね」
 どこかでツクツクボウシが鳴いている。過ぎ行く夏を惜しむかのように、熱せられた都会に鳴き声を響かせる。
「雄眞くん、今日は遊びに行こうか」
 突然の誘いに目を見張った。思わぬデートの誘いもそうだが、これから始まる三時間目の授業や、自分たちの今置かれている状況、立場を考えれば、そのような行為はとうてい考えられない。
「授業をさぼるのはまずいんじゃないかな? さぼったらそのぶん差がつきそう」
「大丈夫! 一日ぐらいなんともないよ。ココロだって休養が必要なときだってあるんだから。 ね、あそぼ!」
「うん」

 遊ぶ場所に困らないのが都会のいいところである。千種駅のすぐ近くに、複合型アミューズメント施設があったのだ。屋上に立っている巨大なボーリングのピンは、予備校の非常階段からでもよく目立っていた。
 エレベーターの扉が開いたとたんタバコの煙がどっと押し寄せてきて、みずほは思わず顔をしかめる。最上階のフロアはボーリング場とゲームセンターの二つに大分され、若者や家族連れが終わり行く夏を心ゆくまで楽しんでいた。
 みずほがUFOキャッチャーの景品に目を輝かせていたので、手のひらほどの大きさである、パンダのぬいぐるみを取ってやった。一発勝負で掴めるか不安であったが、幸い腕はなまっていないようだった。
「きゃー、もふもふしてかあいー。雄眞くん、ありがとう!」
 ぬいぐるみに頬をすりつけているみずほ。そんな彼女のことを見つめつつ、雄眞はこっそりと悲しい笑みを浮かべていた。が、すぐに気を取り直し、おとといもらったばかりの小遣いをすべて両替機に突っ込み、放出口に降り注いだ百円玉をみずほに握らせた。
 ゾンビに襲われるガンシューティングや、太鼓のリズムゲームで子どもみたいにはしゃいだ後、みずほは3D格闘ゲームにチャレンジしていた。
だが簡単な第一面をクリアしたところで急に静止画になり、ゲームの進行が止まった。英語で「挑戦者現る」と表示されている。みずほは目を丸くして戸惑っていた。
 乱入か、と雄眞は呟いた。反対側の台をさり気なく覗くと、大学生らしき若者二人が下卑た気持ち悪い笑い声をあげながら、慣れた手つきで筐体にICカードを差し込んでいた。それは明らかにこのゲームの経験者であった。
「えー! こんなの勝てっこないよー!」
 反対側の台から、「もっと手加減してやれって」「対人ゲーだからいいじゃねえか、弱いほうが悪いんだよ」「初心者狩りして勝率稼ぎたいだけだろ?」「バレタ?」などという、とても耳障りな会話が聞こえてくる。
 騒音の耐えないゲームセンターだから、会話をしている彼らの声はやかましいぐらいに大きい。だからそれはみずほの耳にも届き、彼女の横顔が苦悶に歪んだのを見る。やがてみずほは完敗を喫した。
 彼女が力なく立ち上がると同時に、向こう側の台から「やっぱり強いなあ」「なぁに、相手が弱すぎるだけだって」などという、勝ち誇った声を浴びせられる。
「ううー。大人気ない人たちだ」
 がっくり肩を落としているみずほと入れ替わりに、雄眞は無言で椅子に座った。
「え? 雄眞くんまさか?」
 彼は黙って財布からICカードを取り出した。コインを投入してゲームを起動させ、カードを筐体に挿入する。雄眞のデータが表示される。対戦戦跡は、通算九千戦にして勝率八割強・・・・・・!
 スタートボタンに握りこぶしを叩きつけ、雄眞は怒れる乱入を宣言した。
「お?」「さっきの女か?」「負けん気はあるな、返り討ちにするけど」などという、滑稽な会話がまだ聞こえてくる。しかしお互いの戦跡データが対戦を前にして明るみにされると、連中の血の気が引いたのが、この澱んだ空気を介してはっきり伝わってきた。
「勝率四割五分程度。上級者のいない昼間にやってきて、初心者相手に大人気ないことやってるわけだね。上級者には歯が立たないお粗末な腕前だからね。だから四割なんだよ。糞が」
 雄眞の豹変を目撃したみずほが「ひいいい!」と悲鳴をあげる。向こうからも「おい、勝率やべーぞ!」「なんだよこいつ! 千種でこんな凄い奴見たことねぇよ!」という情けない会話が聞こえてきた。
「伊達に旧作からプレイしてねえ。田舎ザムライ舐めんな!」
 ラウンドワン、ファイト。スティックを持つ彼の左手が閃く。

 千種一帯を悠々と見下ろす予備校の校舎はすっかり朱に染まり、ヒグラシがひと夏の終わりを告げるかのように細々と鳴いていた。
「いやあ、びっくりだよ。雄眞くんがあのゲームの上級者だったなんて」
 雄眞は照れながら後ろ頭をかいた。二人組みをコテンパンにしたあの後、しばらくの間ぽつぽつと現れる乱入者の相手をしていた。雄眞が連勝を重ねるごとに対戦の質も上がり、いつの間にか大勢のギャラリーに囲まれていた。
「ごめんね。一緒に遊ぶはずだったのに、久々にやったら燃えちゃって」
 雄眞は腕をぶらぶら垂らしながら言った。酷使され続けた両腕は、疲労で力が入らない。
 最後にあのゲームで遊んだのは、四月の頭にあったガイダンスの日だ。タバコ臭いゲームセンターで一日中暇つぶしをしていたあの夜、駅のホームでみずほと出会うのである。
「気にしてないよ! 私もとっても楽しかったし、雄眞くんが意地悪な二人をやっつけたのを見て、すごくスカッとしたの」
「それならよかった。ゲーマー冥利に尽きるよ」
「雄眞くんは私の仇をとってくれたんだよね」
「う・・・・・・」
 ただ初心者をいたぶって、悦にひたるような三流が気に入らないだけだった。みずほにそのような言い方をされてしまうと、頬が一気に熱を帯び、若々しく血潮が滾る。
「私が死んだぶんまで、雄眞くんが頑張ってくれた。なんだかステキ。私そういうのとても好きだよ。憧れちゃう」
 自然に腕と腕が絡まる。疲れきって動かないはずの右腕に電流が走り、指先がぴくりと痙攣する。腕に伝わってくるのは、しっかりとした冬服の生地越しに感じ取れる、女の子の柔らかさ。みずほは夕焼けよりも真っ赤になった雄眞の顔を覗き込み、「えへへー」と笑ってみせた。
 その瞳が、温もりが。雄眞に懐かしくて悲しい記憶を呼び起こさせる。
 今日のデートで久しぶりに体感した、この甘いひととき。ときめき。夕日に映える無邪気な笑顔を前にして、彼は過ぎ去っていった青春のことを思い出していた。こうやって、自分の隣にずっといてくれたあの子はもういない。
 告白されたのは、進級を間近に控えた高校一年生の春だった。ゲームセンターに入り浸るこんな不良学生のことを好きになってくれた、田舎のあの子。雄眞が例の格闘ゲームで連勝を重ねていると、彼女まで誇らしげに微笑んでくれたものだった。
 クレーンゲームでぬいぐるみを取ってあげたときの嬉しそうなえくぼがとてもいとおしくて、もう何度少ない小遣いを全て百円玉に替え、彼女のためにクマだかネコだか様々なぬいぐるみを吊ってあげたことだろう。そして彼女は、ある夏の日に黄色いコンバースを贈ってくれた。
 しかし時は流れ、高三の秋ごろ。受験勉強に苦しんでいた雄眞は、彼女に一方的な別れを告げてしまった。
 このままでは勉強に集中できないからと、心の中で血の涙を流している自分自身に、厳しく言い聞かせた。彼は彼女を振った。大好きなアーケードゲームもやめてしまった。
 そう、あの頃はただただとにかく苦しくて、趣味も捨てたし大切な存在も捨ててしまった。
何もかも捨てて、前へ前へと進む気でいた。だから五ヵ月後に、知らない男子と仲良く手をつないで下校していたあの子と町で出くわしても、彼は彼女を責められなかった。
 別れなくても一緒に頑張ればいいじゃない。支えあえばいいじゃない。
 涙でぐしゃぐしゃにしながら言われたその通りにしていたら、少しは違うイマを迎えられていたのだろうか? 雄眞も彼女も深く傷つくことはなかったのだろうか? さんざん悲しみだけを生み出したあげく、あんな結果に終わってしまったのは、やりきれないぐらいに悲しすぎる・・・・・・。
 全てを犠牲にして前へ進むどころか、みんな、失敗した雄眞を一人残して先へと進んでしまっていた。もう雄眞にあの子の背中は見えない。そんなむごたらしい春を受け入れ、心の整理をつけることなどは、とうていできなかったのである。レールの脇に咲いた、白い菊の花が思い起こされる。
「雄眞くん、どうしたの黙っちゃって? もしかして鬱陶しかった? ごめんね・・・・・・」
 みずほがしゅんとしてそう言ったことで、雄眞はほろ苦い青春の追憶から解き放たれた。
 彼は気がついた。吹上みずほは、昨年まで付き合っていたあの子にとてもそっくりだったのだ。何もこの子にまでそんな顔をしてほしくない。
「ああ、ごめんよ。全然鬱陶しくないよ!」
「ほんとう?」
「うん、照れ屋なだけなんだ」
 自分を慕ってくれる子を、かけがえのない存在を、もう二度と手放したくない。絶対に手放さない。つま先から伸びる二人ぶんの影を前にして、雄眞は心に誓う。
辛かった勉強のこと。悲しかった恋愛のこと。抱えてきた全ての後悔をその場に置き、前進していく決心をつけた。「僕は、みずほちゃんが好きなんだ」。そう、今の自分の気持ちに自信を持つことで。
 みずほの肩を抱き寄せる。いきなり積極的な行動に出た彼に、彼女は「きゃあ」と悲鳴をあげた。ちょうど制服の袖がまくられていたので、雄眞は指先で滑らかな肌に触れる。
「みずほちゃんって、本当に肌が白いよね」
「やあん。くすぐったいよ。セクハラだー」
「あはは、綺麗だと思うよ。で、本当に暑くないの? 確かに身体がとっても冷たい」
「今だけちょっぴり熱い。雄眞くんのせいだ」
 そうやって二人はお互いの体をつつき合ってふざけながら、千種駅へ向かった。
 ろうそくの炎を連想させるまぶしい夕日は、都会のビルにさえぎられると、後光を発しながら沈んでいった。棒のように何本も立つ黒い陰が、くっきりと縦長に伸びて際立っている。
 ただ、どす黒い雨雲の塊にいたるところを汚されて見苦しい、そんな西の空であった。


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最終更新:2010年04月19日 01:43
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