アシュレイ・ホライゾンにとって、日本、つまり、彼が生きていた時代に於いてアマツと呼ばれた国家とは、半ば神話上の国家。
例えばアトランティスだとかヴァルハラだとかと同じレベルの、伝説・伝承上の国であった。それこそ、今日残ってる資料の数多くに、実在が証明されてあっても、である。
そう思うのも無理はない事だった。何せアッシュが産まれた時には日本と言う国は既に、国家と言う体制がなくなったとか、隣国に併呑されたとか、植民地になっただとか。
そんな枠を飛び越えて、『北海道や沖縄含めた本土そのものが地球上から消滅』していたのである。それも10年20年とか言う最近の話ではなく、最低でも800年以上の遥か昔の事だ。
当然、アッシュの生きていた世界の、殆ど全ての住民が、アマツと言う国家など馴染みもない。今日で言うヨーロッパ圏の産まれの為、地理的にも接点がないから、
ピンとこない。そんな次元の話ではないのである。日本と言う国がなく、日本由来のテクノロジーもなく、そもそも純血の日本人が一人もいない。
そんな世界情勢下で生きて来たアッシュにとって、日本に対するイメージは? と言われても、伝説上の国家です、以外に答えようがないのである。

 七草にちかを無事に元の世界に戻してやりたい、これは偽らざるアッシュの本心である。
今は机上の空論以外の何物でもないが、界聖杯が提示した前提のルール、『最後の一組以外に帰還の権利はない』、これを改竄するメソッドも一応は考えている。
しかし現状は、既に述べた通り絵に描いた餅だ。量子力学的に、人間が壁に向かって走って行き、ぶつかる事無くそのまま幽霊みたいに通り抜けてしまう確率と、全く差がない。要は0だ。

 アッシュが何よりも腐心するのは、戦闘に直面した場合どうするべきか、だ。
最後に残った勝者の1人以外にあらゆる権利がない事が判明した今となって、意図的に見ないようにしてきた大いなる問題が巨大な壁となって立ちはだかる。
勝者以外は、この地で死ぬ。恐らくその通達は他の参加者も理解している事だろう。当然、様々な思惑が絡み合う事は容易に想像出来るが、
元々聖杯の獲得に意欲的な主従であるならば、『尚の事全員殺す必要が出て来たな』、ぐらいにしか思わないだろう。
そして勿論、今までどっちつかずで、スタンスが状況によって浮動していた主従の中には、聖杯の獲得にベクトルを定めたろう者もいる筈。
あの通達は、否応なしに聖杯の獲得と言うゴールに向けて他の参加者を走らせる為、と言う目的の為にされたのであれば文句なしに目論見通りに行ったのではないか。アッシュはそう考えている。

 戦闘に意欲的な主従が出てくるという事は必然、にちかもアッシュも戦火に巻き込まれる事が予想される。
戦いに巻き込まれて、にちか或いはアッシュが死亡すればその時点でゲームオーバーなのは勿論、令呪を切るのが相当に拙い。
アッシュの思い描いている絵図に於いて、一番重要なのが界奏、スフィアブリンガーとなるのだが、これを使うタイミングは明白だ。
界聖杯の位置が明らかになった上で、これまでに溜めに溜めた魔力を一気に消費し、スフィアブリンガーを発動、前提や根底となるルールを書き換えるだけなのだ。
だが、その魔力が問題なのだ。スフィアブリンガーは事実上、考えなしに発動すれば1秒でアッシュが消滅する、『使えば自分が死ぬ』宝具なのだ。
スフィアブリンガーを維持する為の魔力が余りにも膨大過ぎる為、これを維持する為に、アッシュと言うサーヴァントの霊基を維持する為の本当に手を出してはならない魔力すら、
徴収してしまうからに他ならない。だから現状、アッシュはスフィアブリンガーを少しでも長く持たせる為、令呪を一切期間中使わないで、3画全て消費して作戦に望もうと考えていたのである。

 夢物語である。
先ずアッシュ自身が、それ程強力なサーヴァントでない為、本当に急場が訪れた時そのピンチを凌いだり、降ってわいた勝機をこじ開ける為に極めて有用である令呪を切れない、
と言うのは非常に痛い。逆転の為の要を、封印せざるを得ない状況なのだ。これ程頭の痛い話もない。
戦闘に一切出くわさず、聖杯戦争を切り抜けられる。そんな甘い考えはアッシュは当然の話ながら、にちかですら思っていなかった。

【参ったな……戦うのに適した場所がないぞ】

【具体的にそこって、どんな場所なんですか?】

【広くて……そうだな、直径100m位のスペースがあって、人の目が全然入らないような場所とか……】

【そんな場所東京にあるわけないじゃないですか!!】

 正気を疑うような声のトーンでにちかが念話で告げてくる。あるわけないか、とアッシュも落胆する。
にちかによって召喚されてから、聖杯戦争が本開催に至るまで。アッシュはにちかの案内によって、東京を観光していた。
アッシュにとっても、彼の比翼たるヘリオスにとっても、第二太陽(アマテラス)に昇華される前の日本とは未知の国家である。
尤も、アッシュらが聞いていた、文明水準が極めて高まっていた時代よりも更に昔の時代の東京らしいので、それ程テクノロジーについて凄いと思った事はない。
だがそれでも、活況ぶりについてはアドラーは勿論、アッシュの故国であるアンタルヤ、仕事上赴く事も多かったカンタベリーなどと、比べる事が失礼な程東京の方が上だった。
都心に近づけば近づく程、目を引くような建物や、見た事のない食事を扱っている屋台ワゴン等も見るようになったし、扱っている雑貨や商品もアッシュにとって未知のものが多かった。物質的にも、豊かな時代だったのだろう事が、直ぐに解ったのだ。

 勿論ただの物見遊山で終った訳じゃない。
その観光の真の目的は、自分が全力で戦っても問題ないような場所の下見である。一種のスパイ調査のような物でもある。
人通りの少ない場所、開けている場所、監視のない場所。そう言ったポイントに焦点を絞って、アッシュは適切な場所を探していたのだ。観光は、実際は二の次に過ぎない。
結論から述べれば、そんな場所はなかった。東京23区、くまなく歩けばどこかしら、アッシュの口にしたような条件に該当する場所があるかもと思っていたのだ。
甘い見通しだったと、言わざるを得ない。何せ何処に目をやっても人がいるし、都心に近づけば近づく程、監視カメラが多く、また、重要な施設が多くなる都合上、
警備の目も光っていると来ている。極めつけに、都心になればなるほど建物どうしも密集してくる為、広場も空き地もないのである。

 諸々歩きまわって得た結論は、アッシュと誰か他のサーヴァントが全力で戦えば、間違いなく人目に付くと言う事実だ。
アッシュ自身、ヘリオスと言う規格外の相棒や、界奏と言う特級の能力を除けば、強力な星辰奏者と言う訳ではない。が、それでも。
帯銃・帯剣した程度の戦士が、何人掛かって来ようが返り討ちに合う程度の実力を有している。元来、アドラー産の星辰奏者のコンセプトは、
一個人で兵士の集団を容易に上回れる強さなのかどうか、と言う向きが強い。勿論能力の得手不得手によって、戦闘以外、例えば研究・尋問・セラピーに向いている者もいる。
だが概ね、彼らに求められるものは戦闘能力である。星辰奏者として目覚めた以上、易々やられるなどあってはならない事だ。
何せ彼らは、その時代に於いて最強の兵器。先史時代に用いられたと言うミサイルや戦闘機、戦闘用サイボーグ等の技術が完全に使えなくなった彼らの世界に於いて、
星辰奏者とは等身大の戦車であり、戦闘機であり、核ミサイルにも形容される人間兵器なのである。現にアッシュの知る、優れた星辰奏者達は、生身で一個中隊以上の実力を発揮する者が殆どだった。

 強力な星辰奏者とはおよそ言い難いアッシュですら、本気を出せば、銃を持った小隊程度など相手にもならないのである。
それだけの実力を持った人物が人目の多い所で本気を出せば、どうなるか。当然の帰結として、目立つ。そして目立つ事が、何を意味するのか?
相手の持っている能力やコネクション次第で、此方の手品が割れかねないと言う事でもあるのだ。手札の開帳だけは、アッシュとしては避けたい。
何せ、発動すれば実質死ぬ宝具とは言え、彼の持つスフィアブリンガーは紛れもない規格外、戦闘に限って言っても極めて強力な宝具である。
そして、アッシュがにちかに対して頑なに、『存在を忘れろ』と口にしている――ヘリオスは「其処まで嫌うな」と拗ね気味――烈奏(スフィアブリンガー)に至っては、
万が一存在が安定する手段が見つかってしまえばその時点で勝利が確定する……と言うよりは、この再現された東京を飛び越え多次元世界をも破壊するレベルの災厄と化す。
にちかには秘密にしているが、アッシュと言うサーヴァントは他の者達にしてみれば、95%不発ではあるが残り5%程度で起爆しかねない核爆弾と同じなのである。
こんな危険人物、聖杯の獲得に意欲的な主従が見逃す筈がない。間違いなく、抹殺に向けて動くに決まっている。
そうでなくとも、極晃星(スフィア)と呼称される能力は、アッシュの元居た世界でも、政治利用・個人利用しようと目論む者も多かった危険な代物である。同じような下心を抱かぬ者が、居ない筈がないのである。

 アッシュやにちかが、NPCが戦いに巻き込まれて死んだとしても、何も良心が痛まないし、手札がバレても無問題である、と言うような割り切りを持っていたのなら。
アッシュのこんな悩みは些末なものである。だが、やはり。此処が再現された世界であったとしても、無関係の誰かを殺しながら戦う、と言うのは許容出来ない。
何よりも、そういう無力で、目的が定まらなくて、どれを選んで良いのか解らなくて、それでも、この世界を生きて行こうと努力し、何時か何かを選べる者達の代表であるアッシュが、
そんな人物達を無下にする筈がない。それは、彼のアイデンティティの否定、生き様を一切合切無に帰させる冒涜なのであるから。

【……ファヴニルの奴だったら遠慮なくやってたんだろうな】

【? 誰ですかそれ?】

【昔の……あー、上司だな】

 認めるのは癪に障るが、最後の一組になればそれでいい、と言うゴールが明白な戦いに於いて、『誰を巻き込んでも気にしない』性情とメンタル、
そしてそれを実行に移せる強さの持ち主と言うのはアドバンテージが凄まじい程存在する。状況と次第によっては、精神的な破綻と言うのは、人より優位に立てる事があるのだ。
そう言う意味では、あの光の奴隷(きょうじん)は、聖杯戦争に於いてこそ輝く人物であったのかもしれない。それに、能力の方でも、都市向きである。
確率は天文学的に低かろうが、この地に呼ばれていてくれるなよ、とアッシュは祈る。スフィアブリンガーを封印している状態で、勝てるかどうか。さしものアッシュでも未知数であるからだ。

【にちか、一旦家に戻ろうか。何だかんだ言っても、戦わないで消耗せずにやり過ごせるのならそれに越した事はない。何より、君も暑いだろ】

【本当ですよ〜……。なんだってもうこんな季節にやるんですかね……、春とか冬にしてくれたらいいのに……】

 それは同感だとアッシュも思う。
彼の生きていた時代、日本国はどんな伝わり方をしていたかと言うと、とにかく、技術の優れた国であり、勤勉な国民性であったと言う事である。
実際それは、生前に日本が生み出した諸々の技術の数々を見れば、嘘もまぎれもない事実であった事をアッシュは知っている。
だが逆に言えば、伝わっていたのは本当にそんな側面だけだったのだと、アッシュはこの国に召喚されて痛感させられた。暑い、マジで暑いのである。
元々アッシュらがいた国と言うのが、世界地図上で言えばヨーロッパ圏に当たる国であり、確かに四季はハッキリしていて暑い時には暑かった。
だがこの国の暑さは異常だ。気候がどうだとか、温暖化がどうだとか、色々小難しい理由をアッシュは考えてみたが、この暑さの前では全て無。考えるだけ無駄だと判断した。
だって暑いもんは暑いんだもん。この事実の前では、暑い理由を考えたってまさに無意味、徒労。意味ねーんだもん。

 単純に過ごし難いし苦痛である、と言う事実もそうだが、本当に拙いのは終盤戦に差し掛かった頃である。
正味の話、サーヴァント同士が熾烈な戦いを繰り広げ、2日、3日と聖杯戦争が続いて、東京が無事な状態を保てているか解らない。
仮に建物が無事であったとしても、ライフライン。電力やガス、水道などのライフラインが断たれてしまっている可能性だってゼロじゃない。携帯だって使えない可能性も出てくる。
そうなると非常に困る。この夏の暑さで、水道が止まって水が飲めなくなっただとか、送電線が機能しなくなりクーラーが使えなくなった、は命に係わる。
食料の供給だって、今はまだコンビニやスーパーがあって金の許す限り何でも買える事が出来るが、これも果たして続いているのかどうか。
長期戦は、望ましくない。アッシュとしても早急に、聖杯戦争の終結に急がねばならなかった。

 新宿は歌舞伎町の外れを、にちかは歩いていた。
にちか自身の意思で、此処を歩いている訳ではない。彼女も、アッシュが下見の意味も込めて東京を可能な限り散策したい、と言う意思を汲んでいる。
今此処を歩いているのは、その一環であった。そうでなければ、一時期よりはマシになったとはいえ、反社や半グレ、タチの悪い客引きが多いこの街は、にちかにとって余り歩きたくもない場所であった。

 解りきっていた事だが、東京は都心に近づけば近づく程、人目の付かない場所が絶無になる。
況して、先程までにちか達がいた渋谷も、今いる新宿も、副都心と言うカテゴリに属する地域であり、人の流入も密集の度合いも、他県に隣接している区に比べて桁違いに多くなる。
やはりこんな場所で戦うのは無茶か、にちかはそう思いながら、歌舞伎町の住宅街を歩いていた。
不思議な事に、通りにはにちか達以外に誰もいなかった。通りにいないと言うだけで、実際住居の中には人はいるのだろう。道路脇にも、配達の車が停まっている辺り、完全な無人ではありえない。

 歌舞伎町にもこんな、マンションが建ってたり戸建が並んでる所があるんだなぁ、とにちかは思った。
だが一方で、その閑静な住宅街にいきなり、場違いにも程があるラブホテルがドンと現れるのであるから、やっぱり此処は歌舞伎町だったと思いなおす。
パレス・露蜂房(ハイヴ)。それが、このラブホテルの名前だった。メルヘンの世界から飛び出してきたような、ロマネスク様式を思わせる城風の建物である。
玄関近くにはミツバチを模した噴水と、よく手入れされた花壇の道が用意されていて、これだけ見るなら成程、都心に建てられたちょっとしたお屋敷に見えなくもない。
だが、入口近くに設置された、90分2万円だとか、120分3万円だとかの看板が、メルヘンを粉々にブチ砕く。「一時間半で2万円て……」と呟くにちか。品質にこだわらなければ、電子レンジや電気ケトル、掃除機などを買っておつりが来るレベルであった。

 ――そのラブホテルの噴水の陰から、誰ならん、にちかのサーヴァントであるアシュレイ・ホライゾンが出て来たものだから、彼女の思考はフリーズを引き起こしてしまった。

「……? ? ? ??????」

 完全に混乱しているにちかをよそに、アッシュは神妙そうな顔で彼女の方に近づいて来る。

「……一応言っておく。誤解するなよ。他意はない」

 そこでアッシュは、目にもとまらぬ早業で、彼女を横炊き――お姫様抱っこ――にし、ホテルの方へと駆け出した。
速い、駿馬に跨っているかのようであった。噴水の前まで接近するや、軽く地面を蹴って跳躍。水の噴出口である、ミツバチの噴水。
そのミツバチのオブジェの上に着地し、其処からまた更に、跳躍。アッシュとにちかは、引力の軛から解き放たれたように、軽々と20m超の高さを跳躍。スタリ、と、7階建てのラブホテルの屋上に着地してしまった。

「な、な、な……?」

 何が何だかわからないし、次に何を言うべきかもわからない。
やるのか、ここで!? みたいな思考に支配される。七草にちか、誰もが羨む、華の16歳。華も盛りなどと言うレベルではない、現役の女子高生だ。
彼女だって馬鹿じゃない。この建物が何を目的として建てられているのか、姉経由で理解している。
知っているから、訳が解らなかった、アシュレイ・ホライゾンは、嘗てにちかをプロデュースし、283を去るその時まで付き添ってくれていた、白いコートの彼と同じ程に、
信頼出来る頼れる人物だった。認識としては、父親と言うよりも、年の頃が近しい為、兄のような印象の方が強い。
真面目だし誠実、適切な意見を適宜提示出来る、彼がサーヴァントでつくづく良かったと、何度思った事やら。

 その人物が、まさか、このように大胆かつ信じられない行動に出るとは思わなかった。
「まさかライダーさんは、私をそんな目で……!?」とか、彼の元居た世界にいた本命が聞こう者ならキレッキレのキレートレモンになりそうな事を考えていた。
いよいよもって、にちかの口から「最低……!! 信じてたのに……!!」と、レディコミ読者が口にしたい言葉ベスト3位には入りそうな言葉を口にしようとした時、アッシュは、腰に差していた刀を引き抜き――

「もういいだろ。隠れてないで出てこい」

 それは、温和なアッシュからは想像も出来ない、厳しい口調だった。相手を詰問するような、宛ら、取調室での刑事のような声音である。
目つきも鋭い。一目で、平時のそれから戦時のそれに転じた事が、にちかにも伝わるような変貌ぶりだった。そうだ、年齢も近くて優しいから勘違いしがちだが、この男もサーヴァントなのだ。
それも、裏でこそこそするような手合いではない。血風が吹き荒び、塵に交えて肉骨粉が舞い飛ぶ戦場の中でその真価を発揮する、紛れもない戦士の英霊なのである。
にちかを抱いた状態を解き、彼女を立たせるのと同時に、その気配は、突如として現れ出でた。

「……あっぶなかったー……。危うくお見せ出来ない光景を見せられてしまうのかと冷や冷やしましたよ……」

 外観は見ての通り小ぎれいな城風だが、余り人目の届かない屋上部分は、メルヘンを維持する為に意図的に隠されていた、現実のそれ。
ダクトが存在するし、クーラーの室外機も存在する。我々が認知出来るような現実の風景が、其処にはあった。
その現実の部分、より言えば、ダクトの陰に屈んで隠れていた者が、姿を現した。冷や汗を拭いながら、若干赤面しながら現れたのは、女だった。それも、何か途方もない勘違いをしてくれてる女だ。

 ――だが、その女は美しく、目を引く女でもあった。
華が、何もない空間に、咲いたようだと、にちかは思った。その華は、美女の姿を取っているのだった。

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◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

「気配を薄める事はそりゃ出来るけど、本職には及ばないのかなぁ。小太郎くんとか段蔵ちゃんにコツ教えて貰うべきだったなぁ」

 緋牡丹。彼女の姿を認めた時、アッシュはそんなイメージを抱いた。
一流の歌舞伎の役者や、俳優。彼らがその裡に持つ、言葉では言い表せない、人的な魅力。人間を惹きつける磁力であり、人を集める臭いのない香りであり、エネルギー。それを、人は華とか、カリスマとか言う言葉で表現する。

 彼女――宮本武蔵は間違いなく、その華を有していた。魅力的だとアッシュは勿論、にちかだって思っている。
勿論、彼女が見目麗しいと言うのもある。荒々しくも瑞々しい輝きに満ちた銀の髪、愛くるしくも成熟した美しさを宿すその顔立ち。
豊満な胸周りに、シュッとした腰回り。その体形の維持には、日々の激しい鍛錬や、それに類似する何らかの肉体的な運動の秘訣があるのだろう。
何処となく、『和』を重視したような、流しとも解釈出来よう、藍色の服を纏っており、それが、彼女に良く似合う。この服自体もまた、武蔵と言う人物の象徴のようでもあった。

 だが違う。武蔵の愛らしさは、彼女の華の本質の一側面だ。
本質的な所は、また別にあるのだろう。どちらにしても、彼女の出現によって、アッシュもにちかも、華の磁力に包まれてしまった。
彼女が着けていると看破し、姿を表せと言ったのは間違いなくアッシュの方なのに。イニシアチブは、何故か、武蔵の方に取られているのだった。

「参考まで聞きたいんだけど、いつから気づいてたのかな」

「それを聞きたいのは俺の方だよ。俺が気付いたのは、この通りに来てからだが……君は、もっと前から俺の存在に気付いてたんだろ?」

「当たり」

 ニッと歯を見せて笑う武蔵。白い、花崗岩のような歯だった。
武蔵の言う通り、この女侍はアッシュが気付くよりもかなり前の段階で、アッシュの存在に気付いていた。
暗殺者の位階を以て召喚されるサーヴァントには遥かに劣るとはいえ、武蔵もまた、その名を鳴らす武辺者である。鍛錬の過程で、気配や殺気を押し殺す術を、当然の如く会得している。
これを以て、自らの気配をなるべく薄めさせて、彼女は東京の街を、マスターである古手梨花から遠く離れすぎない範囲で散策しているのである。要は哨戒であった。

「当世って凄いのねぇ、何処探しても美味しそうなお食事を出すとこばかり!! 私の鉄の自制心を以てしても、我慢するのは至難の業!! ――その我慢の最中に、そっちが現れた、と言う事ね」

「俺達の方がテリトリーを侵した、みたいな言い方は心外だな。こっちだって街を歩いてただけさ。言うなればこの邂逅は、一種の事故だ」

 アッシュは要するに、気配を薄めていた武蔵の存在に、気付かなかったのだ。
彼女の気配遮断、その巧みさの方が、アッシュの危機感知能力を上回っていた。結果としてはそう言う事になる。
だがアッシュとて愚図ではない。武蔵が意思を以てこっちに近づいて行き、その距離が十数mにまで達した瞬間、流石のアッシュも気づいたのである。サーヴァントの放つ、魔力をである。

「その娘が君のマスター? ……うーん、10年前に期待かな!!」

 10年後に期待、と言う言い回しは、世のダンディが口にする事が多い、相場の決まった決まり文句であるが、10年前に期待とは、アッシュも聞いた事はない。
一つ言える事があるとすれば、この女が意外とロクデナシであろうと言う事が、今の武蔵の一言で理解出来てしまったと言う事であった。

「うちの可愛いマスターを褒めてくれてありがとう。で、そっちのマスターは何処にいるんだ?」

「おっと、口が軽い女の子と思わないで頂戴な?」

 流石に口を滑らせる事はなかったか、とアッシュは考える。
取って食うつもりもないし、殺すつもりも、利用するつもりさえもない。ただ純粋に、居れば話が通しやすいと思ったから聞いただけである。
だがやはり、普通の答えが返って来た。それはそうだ、恐らくこのセイバーは、マスターに言われて、自らが手綱を握れる範囲内で、単独行動をしているのであろう。
マスターから距離を離しているのには、相応の意味がある。少なくとも、此処でマスターの所在を口にしてしまえば、アッシュ達はその時点で、一人で無力なマスターの居場所を知る事になる。彼の人となりがまだ理解出来ない武蔵が、マスターの場所を言わないのは、至極当然の帰結であった。

「別に、警戒しなくても……って、貴方達を着けてた自分が言うのも説得力ないけど、誰彼構わず襲い掛かる辻斬り女だとは思わないで下さいね?」

 「その上で――」

「今度は私の方から尋ねるわね? ……貴方達の目的は、何?」

 此処が、分水嶺だと、アッシュは思った。

「この娘を……マスターを、マスター自身の夢の為に、元の世界に戻してあげる事だ」

「言わなくても解ってると思うけど、貴方の目的の達成は、最後の一人になるまで勝ち残らなくちゃならない。それを、目標にしているのね?」

「答えても良いが、その前に俺の質問に答えるんだ。君達の目的は、なんだ」

「刀は振るわれるもの、剣は断ち切るもの。私に出来る事は戦う事だけど、私を振るう人物は……うーん、まだ考えが定まってなくてね。主従共々、行く当てのない風来坊なの」

「俺達と組まないか?」

 裏も衒いも目論見も、何もない。真っ直ぐな声音でアッシュが言った。突如の提案に、にちかは目を丸くする。

【ら、ライダーさん!?】

【落ち着け、考えなしの発言じゃない】

 ライダーの独断専行に対して、にちかは焦っている様子だが、アッシュが念話で告げた通り、ノープランでこんな事を口にする程アッシュは馬鹿じゃない。
彼なりの考え、公算があって、このような事を口にしているのである。

「同盟……か。悪い提案じゃない、と言うのがこっち側の本音ね。旅は道連れ世は情け、なんて言う訳じゃないけど、私個人で出来る事にも限度がある。分担出来る事は分担するべきなのは、私もわかってる」

「納得出来ない事があるのなら、言うべきだ」

「ライダーくん、貴方は肝心な事を答えてないわ。マスターを元の世界に戻す。うん、良い事だと思う。けど、どうやって? 現状それが出来る方法は、この聖杯戦争に勝ち残るしかない、と言う事は解ってるんだよね?」

「理解してるさ。した上で、別の手段が取れる。勿論、その方法は秘密だ。同盟を組んでくれて、時期が来たらその方法は話す」

 武蔵は、アッシュが肝心な部分を秘匿した事に対し、ピクリと反応する。
其処が交渉のキモである事を、アッシュだとて理解している。そう簡単にひけらかす訳には行かない。

「でもそれにしたって、貴方が勝たなきゃ意味がない方法でしょう?」

「界聖杯と言う機能と、その機能の前提となるルールを破壊する。極論、上手くいけば俺のマスターは勿論……君のマスターだって元の世界に戻す事が出来る」

「あっはっはっはっは!! 大見得切ったね〜、そう言うのは嫌いじゃないんだけど、せめて現実味のある嘘を――」

「……」

「……マジ?」

 アッシュが、余りにも真面目な顔をしているのと、武蔵の目から見ても、その目が嘘を吐いてない事が明らかであった為に。彼女はそんな事を、間抜けな顔で聞き返してしまった。

「ハッキリ言う。可能性は限りなくゼロに近い。今の時点だと、君が言うように、現実味の欠片もない、夢物語も良い所の話でしかない。正直な所、俺に出来るかどうかは別にして、普通に戦って、普通に全ての参加者を倒して回って、最後の一人になる方が、余程目がある話だよ」

 「それでも――」

「俺はやはり、妥協したくない。確実に痛い目を見る方法だ。俺だって強い男じゃない、打ちのめされて地面に転がる機会だって多分、この聖杯戦争中に数えられない位あるだろうさ。そして……俺のマスターだって、無傷では済まないだろうし、心にだって傷を負うんだろう。恐ろしく……険しくて、長くて、遠い回り道だ。間違いない」

「その手段って、他のマスターも元の場所に戻したいって思うからこそ、取るんだよね? それを選ぶ必要、ないと思うけど?」

 意地の悪い質問だと、武蔵も思う。試す為の質問とは言え、言ってて彼女も、良い気はしなかった。

「正直、それはその通りだろうな。だけど、やっぱり……その手段の方が良いと思う」

「何で、かな」

「俺達は一人じゃ勝ち残れないからだ」

 何ら迷いなく、アッシュは弱さを曝け出した。

「セイバー、君が言った事と同じだ。俺達だって、個人で出来る事には限度がある。分担出来て、俺達よりも長じる分野があるのなら、そっちに任せた方が絶対良い。そうだ、俺達は弱いし、出来る事だって限られる。だけど、それが当たり前なんだ。だから俺達は手を組むんだ、協力しあうんだよ」

 更に淀みなく、アッシュは続ける。

「多分、俺も……そして、マスターも。同じ思いを抱いて俺達に協力してくれた人たちに対して、情がわく。助けたいと思い始める。切り捨てる、と言う手段を選ぶ事に、究極の選択めいた葛藤が生まれると思う。それはそうだ、だって俺達は……半端だから。何処まで行っても、ただの人だから」

「……ライダーさん」

「俺の思い描く計画では、誰かしらの協力が必要不可欠だ。俺の計画に協力してくれて、じゃあ最後の最後で協力した人間を切り捨てるとか、反目して争うとか……。それは、不誠実だ。マスターにとっても、決して取れないしこりを残す。俺にとっても、同じだ。とても出来ない」

 きっとそれは、方法の仔細を聞くまでもなく、困難な物であろう事が武蔵にも分かった。
善人なんだろうな、と武蔵は感じた。それが極めて、艱難に満ちた方法であり、自分もマスターも傷つくものであろう事を、深く理解しているのであろう。

「真面目、だね。ライダー君は」

「どういたしまして」

 その姿に武蔵は、武蔵が唯一マスターと呼ぶ『彼女』の姿を思い出した。
困難な道を選ぶのではなく、常に困難な立場で常に始まる事を強要される彼女。
其処に彼女自身の意志はなく、悪意や作為の所在を疑わざるを得ない程、彼女が初めに立たされるラインは厳しいもので。その上常に彼女は、傷ついて歩む道を選ぶしかなかった。
それでも、彼女は歩むのを止めないのだ。善を望む事に見返りを求めず、傷つき血を流す道を歩む足取りに曇りもない。ただ、ひたすらに、前を往く。

 藤丸立香の姿と、アシュレイ・ホライゾンの姿がダブって見えたのは、偶然ではないのだろう。自分の天眼が、曇った訳ではないのだろう。
此方を見据えるアッシュの姿は、たとえ自分がその時無力だと解っていてもなお、立ちはだかる恐るべき鬼敵に対し、目線を逸らさず睨み付ける彼女の姿と、確かに相似なのだった。

「……うん、そうだね。そっちが誠意を見せてくれたんだから、こっちもそれなりの態度で臨むべきよね」

 かぶりを二度三度と振るった後で、武蔵は今まで浮かべていた不敵な、ニヤリと言うような笑みを転じさせ、遊びもふざけもない、真面目なそれに変えさせる。
笑みとは武蔵と言う戦士にとって、生の感情を覆い隠す1枚の圧布であったのだろう。それが今はない。戦士として、侍としての姿で彼女はアッシュと相対していた。

「本来ならば名を明かし、胸襟を開いて接するべきなのでしょうけど……此度は聖杯戦争。分けても、私の悪名は特に広まっているようだから。真名は今はまだ、明かせません。その非礼を、先ずは詫びましょう」

「別に構いやしないよ、それ位は」

 アッシュとしては、この聖杯戦争内で、余程悪目立ちしたんだろうか、と言う程度の認識であったが、そんなレベルのものではない。
まさか彼女こそが、新西暦に於いてもその名が語り継がれていた、アマツに於ける伝説の大剣豪、二天一流の創始者であり五輪書の執筆者である、宮本武蔵であろうと誰が思おうか。
武蔵の名前も戦い方も、世に広く膾炙されている。真名の露呈が対策に繋がる、を地で行くサーヴァントだ。名を、言える筈がなかった。少なくとも今この瞬間に於いては。

「先ず貴方達を尾行してた理由だけど、結論から言えば失踪した身内の捜索、って事になるのかな?」

「仲間? 君のマスターの友達か?」

「ううん、聖杯戦争の参加者。同盟も結ぶ手前までは行ったんだけれど……ちょっち、保留になっちゃってね」

 たはは、と言って苦笑いを浮かべる武蔵。訳は、詳しくはアッシュも聞かなかった。

「捜索って言ったけど、同盟を結ぶって腹が決まったから、探してるって事で良いのかな」

 首を横に振るう武蔵。その目に、沈淪の色がサッと過ったのを、このライダーは見逃さなかった。

「行方がね、解らないの。警察とかが捜索する位の、まぁ、事件なのよ」

 そこでアッシュもにちかも事情を察した。聖杯戦争の参加者が、行方知れずでいる。
これが意味する所は、最早1つである。酷な話だが、アッシュは、希望的観測を一切持たなかった。

「……生きてると思うかい?」

「死んでるわ」

 武蔵の言葉は、ドライだった。返事は早く、感情もない。にちかは、酷い返事だと思ったが、アッシュの方は違った。
現実を、武蔵は見ている。サーヴァントと言う存在を駆る聖杯戦争、その当事者であるマスターが、戦いに敗れれば、選択肢を誤れば、待ち受ける未来は何なのか?
それを理解しているからこそ、武蔵の言葉は冷淡に聞こえるのだ。違う、彼女はただ、その同盟相手になろうとしていた人物の身に起こった事を、冷静に考察しているだけに過ぎないのである。

「私だって生きてて欲しいとは思うけど……この戦いが、そんな優しいものじゃない事ぐらい、よく理解してる。その上で言える、生きてないって。そしてそれは……私に捜索頼んだあの娘も、薄々ながら理解してる筈よ」

 そこで一息吐いてから、武蔵は更に言葉を続けた。

「言葉にはしなかったけどね。多分あの娘は、件の同盟相手を殺した人物を、葬って欲しいって。探してって言葉の中に、込めてたんだと思う」

「葬るか? その同盟相手を倒した主従を」

「戦いの上でなら、葬った事については、正統な権利であったとして、復讐する事は私には出来ないわ」

 それは、武蔵の矜持だ。
現世に於いて武蔵や侍、戦士に騎士とは格好よく、煌びやかに彩られているが、何処まで行っても戦う事しか能のない者達だ。
剣を振るう、槍を持つ、弓を引いて拳足を武器とする。そう言った手段や技術には確かに彼らは長けている。だが、それだけだ。彼らが得意とするものは何処までも暴力でしかない。
米は作れぬ鉄は打てぬ、魚を取る事また難しく、家建てる事甚だ難事。殺し、傷つける技術は一丁前だが、産む事、満たす事について、彼らは全く赤子同然なのである。
侍や武芸者の誇りが戦う事であるのなら、戦いに於いて殺される事は、路上で犬猫に出会うかの如く、日常の上で当然起こり得る事なのだ。
そう言う価値観の下に生きると決意し、殉じると誓った以上、戦った末での死について、断じて許すまじと義憤するその権利は、武蔵はないのだと考えていた。

「だけどそれは――本当に真正面から戦った場合での話」

 そう、外道であれば、その限りじゃない。
戦いは非日常だ。力がない故に、平静の中を生きると決めた者達からは、隔絶された異世界であると換言出来る。
非日常の世界は魔や怪(あやかし)を寄せ付ける、蜜を塗り付けた朽木のようなもの。強い者が惹かれてやって来るだけならばまだ良い。
日常からは拒絶され、非日常の中を生きる者にとってすら腫物同然の外道が、戦いの空間には招かれるのである。
それは、武蔵は許容出来ない。斬る。風一つない日の湖沼の水面のような心持ちで、しかし、その湖底の中に修羅の怒りを胎動させ。己の技を怒りで鈍らせず、全霊で、斬る。

「本当はね、貴方達の事を、疑ってた。行方不明の主従に関わってる人物なんじゃないかって」

「だから、着けてたのか」

「でも多分違うわ。少なくとも話してて、貴方達は外道の手管で相手を追い詰める人達じゃない事も解った。仮に……本当に殺してたんだとしても、多分貴方達なら正々堂々と戦ってたろうし、何よりも、ライダー君の性格だもの。打ち解けて、戦いにもならなかった筈。うん、やっぱないない!!」

 アッハッハ、と言った感じで、あっけらかんと笑い出し、武蔵は今までアッシュ達に抱いていたイメージを吹き飛ばした。

「じゃ、じゃあ一緒に手を組んで戦って――」

「それは駄目」

 にちかの言葉を、武蔵は全て言い切る前に一刀両断。言葉の快刀でバッサリと切り捨てた。

「……いや訂正。駄目って言葉は強すぎるな。本音を言うと、貴方達はほぼ9割方信頼出来る人だと思ってる。一緒に組むのも、私は悪くないと思うわ」

「残りの1割が気になるな」

 その残りの部分を、アッシュは理解していた。今の自分に、恐らく足りないものだ。それを武蔵は、感じ取っている。

「力」

 武蔵の言い放った言葉は、アッシュの予想していた答えそのものだった。

「同盟に求める物は、誠意や人間性なのは間違いないけど、やっぱそれと同じ程に、背を預けるに足る実力が必要だと思う。理想だけじゃ、人は救えないから」

「その通りだと思う」

 武蔵、ひいては彼女のマスターにしてみれば、当たり前の懸念だと思う。
同盟を組むに当たって一番重要なのは、土壇場になって同盟を反故にしない性格であるか否か。つまり裏切らないと言う保証、人間性や誠意の類だ。
これが欠けていればどれだけサーヴァントとして、マスターとして優れていた所で、組むに値しない。火事場が訪れれば、真っ先に切られるのは弱い方、不利な方なのだから。
だが皮肉なことに、力足らずの主従とも、組むのはリスクがいる。単純で、しかし無視できない大きな理由があるからだ。弱い、と言う理由が。

 武蔵は、マスターである古手梨花を真っ先に守らなければならない。これはマスターとサーヴァントと言う関係を鑑みれば当たり前の事だ、論ずるに値しない。
だが、マスターを守りながら、自分よりもずっと弱くて、守らなければならないだけの強みもないサーヴァントとマスターにも気を配れる余裕はないのだ。
これが、武蔵が一刀の下に切り伏せられる取るに足らない相手ならまだ良い。だが、彼女と梨花が同盟を組もうかと考えたサーヴァントは、間違っても弱いなんて言えない強さだ。
彼らを倒していながら、それが誰だかも悟らせない相手など、弱いと考える方が楽観的で愚かである。間違いなく、強い筈なのだ。
目下の目標は彼らだ。必ずどこかで出会い、その人となりを理解しなければならないと、武蔵も思っている。アッシュとにちかは、自分のそのわがままに、付き合えるだけの力があるのか? それが問題なのだ。

 要は、ただ乗り(フリーライド)を警戒しているのだ。
同盟とは確かに魅力的な響きだが、同盟のメリットだけを享受して、本来引き受けて然るべき義務を全うしないとなれば、これ程の荷物もない。
この点アッシュは、武蔵から見れば義務を履行しない不誠実な人物には見えないが、強さの方は解らない。

「どうすれば……君に対して証立て出来るのかな、セイバー」

「とぼけちゃって」

 チャキチャキと、腰に下げていた二振りの刀の鯉口を切りながら武蔵は言った。

「……そうだな。俺の方から抜いておいて、その方法を存じません、は通る訳がない。……なんかハメられた気がしなくもないけどな」

「えぇー、何のことやら」

 今度は武蔵の方が、すっとぼけた調子で言った。その間も、チャキチャキチャキチャキと鯉口を鳴らし続けている。まるでカスタネットを与えた三歳児みたいに鳴らしまくっていた。……もしや、これが目的だったんじゃないのか? と思わなくもない、アシュレイ・ホライゾンなのであった。

「大丈夫。宝具は使わないし、試すだけだから。命は取るかもしれませんけど」

「最後の方は取りませんって言って欲しいんだけどな」

「えへ〜」

 馬鹿みたいなにへら顔を浮かべた後で、まるで、色相がグラデーションを起こして行くかの如く、武蔵の表情は無のそれへと転じて行く。
構えはない、自然体だ。腕をだらりと下げ、先程まであれほど鯉口を切っていた刀の柄には今や手すらかけてない。存在にすら気付いてないように、腰に差したセイバークラスを表す得物には、意識すら向けてなかった。

【ら、ライダーさん……この人……】

【言わなくても分かるよ。彼女は、ハッタリじゃない】

 スッと、アッシュもまた構えを取った。呆れる程、オーソドックスで基本的な、中段の構え。
師から教わり、継承した教えの一つ。基本こそが王道だ。この構えから、先ずは全てが始まる。それ故に、如何なる技にも繋げられる。アッシュのような才無き人物にとっては、有難い構えなのだ。

 対する武蔵は構えをやはり取らなかった。いや、違う。これこそが、彼女の構えなのだろう。正確に言えば、数多ある構えの中の一つを、武蔵は取っているに過ぎないのだろう。
異様な剣だった。技術の体系ではないのかも知れない。余人が学ぼうと思って、学べる類の剣術では恐らくないのだろう。ある種の哲学、観念論の域に突入している剣術かも知れない。
正しく彼女のみが全てを理解する事が出来、彼女であっても全てを理解しきれていない、限りなく完全に近づいている途上の剣だとも言えるのかも知れない。
言える事は一つ。新免武蔵の振るう剣は、新免武蔵だけが振るえる、至った剣なのであろう事だ。

「良い構えです。良き師匠に恵まれたのですね」

「尊敬している人だ。サーヴァントになった、今でも」

 其処から言葉がもうなかった。風は吹かず、雲はなく。その言葉を契機に、尋常と日常の空間は終わりを告げた。
ダクトが空気を送る音と、セミの鳴き声だけが間断なく響き渡る空間の中を、七草にちか1人だけは掌の感覚が馬鹿になりかねない程、ギュッと握りしめ、2人の動きを見守っていた。

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最終更新:2021年08月19日 21:38