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     軽蔑するものなどない――すべてに意味があるのだから

     ちっぽけなものなどない――すべてが全体の一部だから

                          ――オリーヴ・シュライナー、アフリカ農場物語






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 要人警護、と言う観念は何も米国(ステーツ)や英国(U.K)、欧州(EU)などの、銃社会に限った話ではない。
参議、衆議院議員、その中の更に上澄みである、各省庁の大臣であったり、各政党の上位ポジション、そして副首相や首相レベルの人物ともなると、
その身辺には常に、要人警護のSPが付きっ切りである。これは公私問わぬ外出のみに限定されている訳ではない。
彼らの私邸はそれこそ24時間体制で警察の専門部署が警備にあたっており、不審な人物・不逞の輩の侵入可能性を徹底して排している。
確かに其処に来ると言う予定の事実確認が正確になされた、宅配の配達人レベルですら、彼らの私宅の敷居を跨ぐ為には煩雑な手続きを経ねばならない程だ。
これを不自由と取るか、職務の責任性からすれば妥当なものであるかと取るのは、その人物の自由であろう。何れにせよ、この日本に於いても確かに、銃社会におけるセレブの邸宅を守衛するような、厳戒態勢と言うのは存在するのである。

 それを見ると、峰津院大和と言う人物は、VIPの中でも異質な考えの持ち主であると定義するしかない。
峰津院大和。疑いようもない、国家にとって有為の人物。VIPの中のVIPである。国防、貿易、内需喚起の為の国家事業の舵取り等々。
国益を左右するあらゆる分野に強い影響力を持ち、それらの行く末を決める会議会合に参加した事も、諸外国の大使や要人が集うパーティーに列席した回数だとて、数えて行けばキリがない。
紛れもない、国家の要職に君臨する人物であるが、しかし、彼は己の近辺について一切の警備を付けない事で知られている人物でもあった。
勿論、全くの一人と言う訳ではない。現に大和が今乗車しているリムジンだって、彼が運転している訳じゃなく、御付きの運転手がハンドルを握っているのだし、
秘書や、所謂鞄持ちと呼ばれるような使い走りも、常に彼の側にいる。彼らは峰津院財閥の構成員であり、当主である大和に対し危難が迫らないよう、武術にも精通している。
だが、所詮それも、本職には及ばない。本業のついでに、武術が出来ると言う程度に過ぎないのである。

 よく言えば王者の余裕、悪く言えば日本と言う国家の安全性に胡坐をかいた危機感のなさが露わになったような、大和の手薄な身辺警護は、内々からも疑問の声が上がっている。
特に、真琴がこの件については進言している。もう少し警備に予算を割いても良い、当主の御身に何かあられては……。そんな具合に、だ。
若くして峰津院財閥の当主の側近にまで抜擢される、真琴の言葉に対しても、大和は馬事東風。聞く耳を持たない。
別にそれは、大和が意固地だからでもなければ、予算や人員を考えての事でも、況して財閥の構成員に対して優しさから配慮している訳でもない。

 単純に、邪魔だから。この一言に全て尽きるのだ。

「……」

 無言。足を組み、腕を組み。
瞑目しながら思案に耽るその様子は、瞑想のようにも見える。1年先まで分刻みのスケジュールについて、思いを馳せているようにも見える。
計画中のプロジェクトの穴がないかを探しているようにも見える。どちらにしても、絵になる姿だった。
大和自身が美男子にカテゴライズされる、隙の無い美形であり、何よりも峰津院財閥の当主であり、その身分に恥じぬ寵児なのである。
容姿に、才覚、普段の振舞いに社会的立場(ステータス)。これらの要素が折り重なる事で、普段の何気ない大和の所作に、並ならぬカリスマが光の粒子のように煌めいて見えるのである。

 聖杯戦争に参加するマスターと言う点から見て、大和と言うマスターは異常一歩手前か、或いはそのものの人物だった。
峰津院家、つまりデビルサマナーたる彼らに求められる才能は即ち、魔力の多寡。悪魔を使役する為に必要な物は、1にも2にも、魔力である。
これらがなければ悪魔は満足に行動する事は愚か、この物質世界に於いて実体化させてやる事も出来ないのである。だから、一秒でも彼らを長く実体化させてやる為に、
術者自体に魔力が備わってなければならないのは当然の事。この点に於いて、峰津院大和は合格点以上、桁違いのマスターだ。
複数体の悪魔を苦も無く使役出来るだけの魔力量は勿論の事、彼らを操る指揮能力についても巧みのそれ。忌憚なく言えば、当代最強に近いデビルサマナー。それが大和であった。
だが、魔力だけが求められる才能ではない。デビルサマナーは、術者自身も戦える事を求められる。悪魔を操るだけが得意の青瓢箪では、立ち行かないのである。
この点に於いても、大和は異常な才覚を見せる。調伏して来た悪魔の数は数え切れぬ程であり、中には魔術を使ってのものだけでなく、素手を使って悪魔を殴り殺したことだとて……。
つまり大和と言う人物は、サーヴァントに頼らない自らの力のみを押し出した戦闘に於いても、下手なサーヴァントであれば返り討ちに出来ると言う事になる。

 そんな人物にとって、身辺警護……つまり、NPCの存在は、どう映るのか?
『目障り』なのだ。召喚された当初から確信していた事だが、この世界のNPCは基本的に、戦う力の一切を封じられている。
無論、訓練次第、サーヴァントやそのマスターの手ほどき次第で、如何様にも変わるであろうが、原則として、彼らは力を奪われている。
大和はこの事実を、部下である真琴や史、乙女の三人の体たらくで確信した。三人とも、大和が側にいる事を許す最低限の基準の強さに達していないのは勿論、
そもそも『悪魔』の存在すら認識していなかったのだ。つまり真琴は荒事に長けた優秀な秘書、史は財閥のIT部門の天才プログラマー、乙女は優秀な医療スタッフ、この域でしかない。
このレベルでは話にならない。大和が本気で戦う戦闘ともなれば、元居た世界に於いてそれは首都ないし国家の存続に類するレベルの危難に見舞われているに等しい事柄だった。
この水準にまで達した戦闘に於いて、今の真琴達、つまり峰津院財閥のNPCではいるだけ無駄な人材だ。寧ろ、生中な判断で下手な事をされてしまえば、大和の方が危険である。

 だからこそ、今大和達がいる、リムジンの中と言う密室空間の中に於いても警備が手薄なのだ。
運転席・助手席の遥か後ろ、パーテーションで区切られた、当主である大和のみが在る事を許される、車内のプライベートエリア。
五つ星ホテルのスイートルームをそのまま切り取って持ってきた様な内装で、恐ろしい事に、車内に『バー』が存在する。
大和自身は酒を嗜まないが、カウンターの向こうにある冷蔵庫やワイン・セラーには、一本で数百万は下らない名酒が転がっている。持て成し用だ。
そんな、上等そのものの空間にいるのは、大和のみ。それ以外のNPCはいない。……いやそれどころか、この手の、車での要人移動につきものの白バイによる警備すら、
このリンカーンリムジンの周りにはない。徹底して、邪魔だからに他ならない。彼らがいて、生存の可能性が減るのであるなら、居ない方がマシ。そう言う、事なのであった。

「……ふん」

 厳密に言えば、この空間にいるのは、大和一人だけではない。
一人だけ、大和が側にいる事を許し――と言うより、大和が許すまでもなく勝手に居座る男がいる。
それこそが、大和の引き当てた、槍兵(ランサー)のクラスをあてがわれたサーヴァント。黒衣を纏った色黒の美男子。
ベルゼバブ、キリスト教圏に於いて数々の悪行狼藉を働いた、悪魔の盟主、悪霊の棟梁とも言うべき大魔王。
そんな悪魔の中の悪魔たる存在と、同じ名を持つ目の前の覇王こそ、この世界に於いて大和と共に戦う事を許された存在。

 ……その男は今、大和の対面で、5つものタブレットを駆使して様々な動画やデータを眺めていた。器用な事をする奴だ、と大和は思う。
見ている物に法則も統一性もない。有料のディスカバリーチャンネル、医学論文、武術書、神話、アイドルのPV。……アイドル?

「音量を絞れ、喧しい」

 冷たく、巌とした声音で大和が告げる。ディスカバリーチャンネルのナレーションと、アイドルの声音が二重音声が、兎にも角にも耳障りなのだ。
どちらか一方ならばそう言うBGMだと聞き流せたし無視も出来たが、両方一挙に流されると訳が分からなくなる。発信している層も、動画の目的も全くの別ベクトル。水と油のような間柄だ。

 勿論、大和の命令を素直に聞くベルゼバブではなし。
全くの無視。羽虫の羽ばたきにしか、大和の言葉は聞こえないらしい。構わずタブレット5つに、目線を配らせ続けているのみだ。
つくづく、完全防音のパーティションでリムジンを区切り、音響を吸収するような内装で車内を誂えておいて良かったと大和は思う。
自分が、アイドルの歌を聞くような人物だとは思われたくないのである。思春期だからどうのと言う以前の問題として、峰津院財閥の頭としての体裁の故であった。大和は、メンツに拘るのだ。

「君が、アイドルの歌を好むような男には私には見えん」

 人を見かけで判断するな、とはよくも言われる事であるが、大和は勿論、ベルゼバブの魁偉を見て、硬派な男だ、と思ったのではない。
界聖杯を巡る聖杯戦争、その本戦開始前、大和とベルゼバブの2人は、両手の指で数え切れない程の主従をこの手で葬って来た。
殺しの、漏れなし。つまり、彼らと対峙した全ての主従は、退却も撤退も許されなかった。初回の戦いで、大和とベルゼバブは全ての主従を殺して来たのだ。
その戦いの軌跡に、苦戦の記述があったのか? などと言う問いは、魔力に一切の損失もない大和と、身体に傷一つ負っていないベルゼバブを見れば、甚だ無意味と言う物だった。
勝利と言う言葉では尚足りぬ。圧勝、と言う言葉よりもさらに強い意味合いの、勝利を意味する言葉があるのなら、それをこそ用いるに相応しい完勝ぶりなのだった。

 その葬って来た主従の中には、サキュバス染みた挙措……有体に言えば、『女の武器』を駆使する者も存在した。
魅惑の媚態、悩殺される事を誰が咎めようかと言うなまめかしい肢体、触れれば折れぬか?と言う心配が浮かび上がる細い柔腰、熱っぽい吐息。麗しの、かんばせ。
これらを駆使し、男なら抗い得ぬ女体の渇望を喚起させようとしてきたその女サーヴァントを、ベルゼバブは対峙した瞬間素手で両肩を掴み、
そのままグッと腕を大きく開き――脳天から股間まで生きたまま真っ二つに引き裂いて即死させてしまった。その時の彼の顔は、酷く退屈そうなそれ。と言うより、顔色一つ変えてなかった。
余りに凄惨な殺し方に、胃の中を全て吐き戻したそのサーヴァントのマスターを殺すのは、大和の仕事であったのは、言うまでもない。楽な仕事であった事も、また。

 そんな、女体美を余す事無く武器とするサーヴァントを惨殺したベルゼバブの姿を見ている大和だからこそ、信じ難い光景なのである。
ベルゼバブは間違いなく、女と言うものに興味を抱くような人物ではない。良くて、利用価値のある駒としか思わなかろう。
そのような男が、今更年端も行かぬ少女が歌って踊る姿に興味を抱くか? つまりは、そう言う事なのだった。

「微塵の情も湧かぬわ」

 大和の問いを、ベルゼバブは即座に切り捨てる。
路傍の石ころの、形の違い。そんなものを気にする者が、何処にいるのか? ベルゼバブにとって、人間……もとい、NPCの女など、その程度の価値しかないのである。

「余が気に掛けるのは文化、風習、神話に伝承よ。個々人の来歴や個性など、何の興味も抱けぬ」

 文化。
思えばベルゼバブと言うサーヴァントは、知識欲を吸収する事にも貪欲であった。戦闘のない時は出来る範囲で身体を鍛え、書を嗜み、知識を蓄える。
元々召喚された当初から、頭の切れる男である事も大和は知っていたが、それに飽き足らずなお、知識を得ようとするその姿勢は、驚くのと同時に好ましいものでもあった。
腕自慢、力自慢。そんな者達のみが勝ち抜ける程、戦争は単純ではない。新しい時代の波に、浪漫の泡(あぶく)が浚われ、潰されてから何百年もの久しい時間が過ぎていた。
田舎の百姓や寒村の漁師のような木っ端共が、鎧に身を包んだ騎士の首を討ち取り、栄誉を勝ち取り成り上がり、自分だけの領地を得られる程に出世する。そんな、華と光彩の夢舞台。
嘗て戦争とはそんな場所であり、言うなれば己が野望と欲望とを成就させんとギラギラする者達にとっての、夢工場でもあったのだ。
どんな美酒よりもなお美味い、幻想と言う名の神酒に酔える場所だったのだ。今より、ほんの1000年程前までは。
戦争は既に冒険の場所ではなかった。けちな計算が幅を利かせ、求められるものは個人の武勲よりも集団の効率。
指揮官は兵士(ソルジャー)の士気に気を配り、時には彼らの顔色を窺う事もある。また時には彼らを餓えさせぬよう、時には満足に戦えるよう、補給にも目を光らせる。
まさに全て、計算ずく。戦争と言う事象が生じたその時、ありとあらゆる場所に於いて、打算と言う名の算盤はパチパチと音を生じさせるのだ。

 聖杯戦争とは即ち、打算と効率が戦場を支配していた時代よりも、更に前の時代。或いは、それらの桎梏から逃れている別世界の戦場。
其処から呼び出された英雄猛将達の、晴れ舞台であるとも換言出来るのだ。神話の時代の、凛々しくて雄々しい大英雄。古代の騎士物語に語られる、祝福された武器を操るナイト達。
敵味方の境界を越えて、見る者を魅了する戦いぶりを披露する戦士。互いにいがみ合っていた筈の両軍が、それまでの戦争を中断してしまう程に鮮やかな決闘を繰り広げる剣士。
現代(いま)を生きる我々の常識を超えた剣術と超人性を誇る者達が、現代のテクノロジーでは測れぬ魔法の武器を振るって鎬を削り合う。それこそが、聖杯戦争。
それを理解する為には、成程、確かに知識と、文化に対する精通の度合いは必要であろう。今となっては英雄など、御伽噺(フィクション)の住人であり、肉を持たぬ仮初の影。
つまりは最早、文化の中でしか生きられぬ存在達だ。聖杯戦争のサーヴァントが真名の露呈を致命的な物と判断するのは此処に在る。
彼らはもう、今の文化の影と引力から逃れられないのだ。例えば、吟遊詩人が誇張して語ったワン・フレーズ。例えば、事実性の欠片もないような、偽書偽典のワン・パラグラフ。
其処に語られている記述こそが、尾ひれがつき、誇張され続け、結果として今の弱点になってしまうと言う事が、往々にしてあるのだ。

 そして、ベルゼバブはこれを理解している。
だからこそ、あらゆる角度から知識を吸収し、勝率を極限まで高めようとしている。対峙した相手の弱点を、こちら側が一方的に突く事が出来、それによって完膚なきまでの勝利を、
得られるように。殊勝な心掛けであろう。実際、そういう意図も含まれていると言えば含まれている。だが、全てではない。他の意図も、其処には含まれていた。

 星の民。ベルゼバブと言う人物のパーソナリティが、深くかかわっていた。

 ――オーディン……ゼウス、エウロペ、シヴァ、メタトロン……ミカエル……ルシファー。この世界でも、あの下等種族共の名前は使われているか――

 ――星晶獣。斯様な生命体が、ベルゼバブが生まれ育った世界には存在する。
星の獣とも呼ばれるこの存在は、そのルーツを辿れば、たった一つの例外……コスモスの獣と呼ばれる星晶獣を除けば、その一切が例外なく星の民の手による被造物であった。
星晶獣の最大の特徴とは何かと問われれば、神にも等しい権能を振るう事が出来る、と言う点に尽きる。
概念の数だけ、星晶獣の数はある。生み出された意図は勿論の事、最終的に何体の星晶獣が創造されたのか? 星の民のトップレイヤーであるベルゼバブですら、
その全貌を把握出来なかった程である。そして、その数の多さはそのまま、星晶獣の司る概念でもあった。
炎や風、海や川、大地に纏わる力を振るえる者もいる。万軍を容易く弾き返す、防衛を司る者もいたし、夢の世界に入り込む星晶獣もいた。
弓矢を操り、優に数百里をカバーする超々々距離からたった一人の人間の頭部を撃ち抜く星晶獣もいた。――並行世界の創造をも可能とし、過去や未来の記述をも書き換える者も、いた。

 星晶獣は、創造主である星の民の奉仕種族として生み出された、と言う前提が存在する。彼らの命令には、服従しなければならないのだ。
そのサガを以て、星晶獣は、空の世界の侵略に用いられた。つまりは戦争、殺戮、暗殺、支配の道具だ。殆どの星晶獣は、そう言った目的があって生み出されたのである。

 人智を超越した力を発揮出来る。それが、星晶獣。その理解は正しい。だがもう一つ、星晶獣には大きな特徴があった。
星晶獣と呼ばれる存在は、空の世界に存在していた力ある生命体、あるいは、星の民が侵略を試みようとしていた時代よりも更に古の時代に信仰されていたとされる神格。
更には、その時代の人間達によって嗜まれていた文化や哲学、芸術や学術などの概念(エッセンス)を抽出。これらに改造を加える事によって生み出されていたのである。
星晶獣につけられた名前に、空の民によって信仰されていた神格や伝説上の存在と同じものが多いのもそう言った事情がある。
意図は、ある。自分達が信仰し、窮地に陥れば守って下さる筈の存在が、インベーダーの支配下に置かれ、そのまま此方を殺してくる。
その絶望は、果たして如何程のものなのか? 軒昂状態の士気を、容易く挫ける威力を有しているか? そう言った面もまた、星晶獣には期待されていたのであった。

 纏めると星晶獣とは、次のような存在になる。
天変地異を容易く引き起こせるだけの脅威の権能を息を吸うように振るう事が出来、創造主の命令には服従。
高度な戦略作戦を理解出来るだけの知能を誇る個体が数多く存在し、空の民の間で信じられていた神話や伝説の中の神霊や英雄を基に作られ、彼らに絶望を与える存在。
この点に於いて星晶獣は、極めて高度な、まさに神そのものと言っても良い生物兵器であり、星の民とはこれらを意のままに操れる神の上の存在である、とも言えるかも知れない。

 まさに、これだけを聞くならば、星の民とはまこと恐るべき軍事力を誇る、天上人のような存在に聞こえよう。
高度な科学力、完成度の高い政治システム、民の文化水準。そして、星晶獣を筆頭とした数々の兵器。地球上におよそ、星の民の敵など、存在しえぬように聞こえるだろう。

 だがこれだけの力を誇っていながら、星の民は、空の民との間で勃発した覇空戦争に於いて大敗を喫し、歴史から消え失せたと誰もが思った程に個体数を激減させてしまった、
と言うのは歴史を齧っていれば誰もが知る所なのである。何故、超高度な文化水準を誇り、無類無敵の兵器の数々を保有し、高い知性を誇った星の民は敗れ去ったのか?
ベルゼバブが赤き地平と呼ばれる所に叩き落され、2000年の時を経て空の世界に舞い戻った頃には、終戦から1000年以上も経過していた為、彼にはその理由が解らない。
しかし推測は出来る。星の民側のやる気が、なかったからだ。

 ――欲なき者は、戦いに敗れるのみよ――

 生来、星の民と呼ばれる者達は、執着心が非常に薄いと言う種族的な特徴を有している。言ってしまえば精神性が、希薄なのだ。
彼らの文化の中に在って、ベルゼバブの如く力に対する執着が強い存在は異端の扱いであり、しかし、それ故に頭角を現しやすい。
ベルゼバブも星の民の一員であった時には、その力を遺憾なく彼らの為に発揮していたが、最終的には尽きぬ野心と力に対する渇望、そして何よりも、自分が一番優れている、
と言う増上慢から反旗を翻し、そのまま敗北したと言う苦い記憶がある。その敗北があったからこそ今の自分がある為、全く無駄な敗北ではなかったものの、それでも、悔しいものは悔しい。

 ベルゼバブと、彼が唯一名前で呼ぶ腐れ縁の様な男。その2人と言う癌細胞を切除して、星の民の体制は盤古不変になったかと言えば、そうではない。
何故なら、空の民との戦争に負けているのだから。ほぼ絶滅寸前にまで、個体数を減らしてしまったのだから。これは疑いようもなく、種族としての敗北以外の何物でもなかった。
負けて当たり前だと、ベルゼバブは思う。懸ける願いも理想も野望も持たず、漠然に近い意識で戦いに勝てる筈がないのだ。
だから、戦力の差で言えば本来負ける筈などある訳がない、空の民如きに足元を掬われるのである。ヴィジョンを持つ者、持たぬ者の差は、この様な形で現れるのだ。

 ベルゼバブの目標は常に、シンプル。
最強になり、世界を支配する事。それだけだ。シンプルを通り越して、最早子供の妄想そのもの。呆れ返る程に、幼稚な野望だ。
だが、その目標を成就する為の真剣さ、熱意、費やした努力の時間と質について、一切侮れる要素がない。

 最強の存在になる、そんな理想を掌握する事について、ベルゼバブは何時だとて本気である。
千年の間身体を鍛える事が必要であると言うのならばそれを実行するし、過程上数十万の無辜の民を殺す必要が出てくるのならこれも殺戮する。それが、ベルゼバブと言う男なのだ。
この現世に於いて、様々な知識、アイドルのPVを含めて観察する、と言った事も、ベルゼバブが理想を成就する為の一環、と言う考えからブレていない。
何せベルゼバブは知識として、人間の持つ文化や物語を基礎として、恐るべき力を発揮する生命体を生み出す技術を知っているのだ。
ならば、学ぶ。取るに足らない羽虫のサーカスとは言え、見聞は怠らない。アイドルと言う活動を通じて、力を発揮したりする手合いが居ても、おかしくはないのだから。

『当主様』

 大和が着けている、TEL機能を内包したイヤホンマイクから、女性の声が聞こえて来た。部下の、真琴の声だった。

「発言を許可する」

『ハッ。直に、目的地である皮下医院へと到着致します。当主様の許可さえあれば、私が交渉に向かいますが、いかがなさいますか?』

 交渉、と言えばお行儀が良いが、その実は、脅迫スレスレの詰問である。
皮下医院について、峰津院財閥の構成員が其処に入院し、その日を境に失踪、行方知れずと言う情報は勿論真琴にも共有してある。
恐らく真琴であれば、構成員の所在を厳しく追及しつつ、相手が煮え切らぬ返事を寄越したり茶を濁し始めたら、峰津院財閥の持つ権力、と言うカードをチラつかせるだろう。
院長である皮下真の逮捕、とまでは行かずとも、その気になれば病院やクリニックとしての施設基準を満たしてないとして、運営を取りやめさせる事など造作もない。それだけの権力を、峰津院財閥は行使できるのだ。

「私が直々に出向いてやる。お前は車内にて待機しろ」

『っ……!? しょ、承知致しました』

 言って真琴は、そのまま通信を切った。
最初の言葉に、躊躇いと戸惑いがあった。一人で行かせる訳にはいかない、と言う思いと、大和が態々出向く事ではない。そう言う事を、口にしたかったのだろう。

「出立(で)るぞ。狩りだ」

 大和の言葉と同時に、リムジンのドアが開く。

「狩りにもならん。蹂躙の時間だ」

 成程、言い得て妙だ、と大和も思う。此方に不利益を被らせる輩は、蹴散らし殺し尽くすのが、峰津院の礼儀と言う物なのだから。



◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆



 アオヌマからの報告を受けた時、皮下が思わず口にした言葉が「あちゃ~~~~~~~~~~~~~~……」だった。
そうと言いたくもなる。皮下医院の入り口の真ん前に、それはそれはご立派な黒のリンカーンリムジンが停車した、と言うのが、アオヌマから受け取った報告であった。

 別に、車自体が珍しかった訳じゃない。
元居た世界での話になるが、皮下は唸る程の金があったし、実際付き合いでこの手の車には来賓として乗った事もある。
東京は金持ちが多い。この手の車で送迎されるに相応しい大物の存在だとて、成程珍しい事ではなかろう。

 問題は、このレベルのグレードの車に乗っているようなお偉いさんが、露骨とも言うべきレベルで、此方に用向きがあると言う意思表示を見せた事だ。
この界聖杯に呼び出され、医者としてのロールに従っていた皮下。彼が診察している患者の中には、確かに金持ちと呼ばれるに相応しい人物は存在する。
だが、このレベルの金持ちは、定期的に通院してない。何せ車の本体価格で都内に戸建てが建てられるレベルだし、年間の維持費だけで数十万は軽く吹き飛ぶ。その様な富豪と、親しい間柄の医者など、早々はいないのである。

 ――だが、医者と患者としての付き合いでないのなら。
皮下は、このリムジンに乗っている人物に覚えがある。もしも皮下の予想が正しければ、彼は、そのリムジンのオーナーの部下を殺している。
……殺している、と言う言い方には語弊があるか。実際には、尊い医学の礎になってもらっている、と言った方が正しい。本当に礎石になってしまったか、実験が成功したのか。
それは皮下には解らない。どちらにしても事実は一つ。リムジンの主――峰津院財閥の何者かと皮下真は、医者と患者の関係ではなく、殺す者と殺される者の関係にあると言う事だ。

『どうするよ、皮下。此処で始末するのか?』

 アオヌマがスマホで、意見を仰いでくる。

『ダメだ。殺し損ねた場合が怖すぎるし、車停めてる場所が拙い』

 リムジンを医院の前に停めたのは、牽制の意味が大きかろう。
峰津院財閥の所有する車ともなれば、当然の様にドライブレコーダーは取り付けられているし、何ならば、録画している映像は提携している警備会社に常に送られている事だろう。
そうなれば、皮下医院は他の聖杯戦争の参加者に付け入られる隙を与えてしまう事になる。峰津院財閥の長い手は、当然の様にメディアをもカバーする。
この財閥の前には、提供された情報の吟味も裏打ちも不要。一切の面倒臭い手続きをすっ飛ばして、財閥が提供した情報は、メディアは全て『真実正しいもの』として認めて即日ニュースとして流す事が出来るのだ。

 ――襲える物なら、襲って見ろ。
オーナーの声なき声が、聞こえてくるようだった。此処であのリムジンを襲撃して、作戦に失敗し、その映像がメディアに流れてしまえば、皮下医院の優位性。
即ち、医院と言う社会的信頼も篤い建物の下で、語るも無残な実験を行い、着実に戦力を整えている、と言う水面下のアドバンテージが一気に消え失せてしまうのだ。

 そして何よりも、此処からは勘の話になるが、皮下の直感が告げていた。
『リムジンを襲撃する程度の猿知恵で、向こうのキングは獲れない』。そんな確信があるのだ。
相手は手練である。皮下自身、聖杯戦争本開催してまだ一日も経過していないのにも関わらず、その短い間に拙い鉄火場を踏まされて来た。
今回は、その比ではなかろう。先ほどのリップとシュヴィの一件は、まだ心理的余裕もあったが、恐らく今回に限っては……。

『車から人が出て来た。峰津院大和だ。ほほお、すげーイケメンだな。お前とは大違い』

『俺を引き合いに出すのはルールで禁止ですよねアオヌマくぅん……。――ってか待て、もしかして峰津院の若大将一人なの?』

 二重の意味で、予想を裏切られた。
峰津院財閥との対峙は、遅かれ早かれ起こり得る物だと、皮下も割り切っていた。だから正直な所、このアクシデントについては驚きはない。
来るとしても、大和本人が来るとは皮下も思わない。恐らくは財閥の名を背負った代理人が来るだろうと踏んでいたし、大和本人が来るにしても、
参勤交代で江戸にやって来る外様の大名宜しくに、大勢のSPやらを引き連れて出向いてくる物だと思っていたのだ。

 ……一人?
幾らなんでも気が緩み過ぎじゃないか? と皮下は思う。
と言うか、本当に一人だけで来るのであれば、ワンチャンあるんじゃね……? みたいな感じで、楽観的な予測を立てる皮下だったが――――――――――――

【……おう皮下。テメェ命はまだ落としてねぇだろうな?】

【皮下真に医者の不養生と言う諺はないものでしてね。どったの、総督】

【見聞式……って言ってもわかんねぇか。テメェのとこの病院の前に、バケモノがいるぜ】

 そんな楽観視は、カイドウの念話で即否定されてしまう運びとなった。思わず、溜息。

【せめてサーヴァントは弱けりゃ良かったんだけどな……】

【と言うか、向こうのマスターの方も中々だな。おれが予選で倒したサーヴァントの何体かは、殺せるだろうな】

【死んでよ~~~~~】

 これ以上詳しく情報を詰めていると頭がおかしくなって死にそうになる。
要は峰津院大和は、金も権力も桁違いな上に、引き当てたサーヴァントは勿論、彼自身の強さも異常であったと言う事らしい。
ゆ、界聖杯(ユグドラシル)くん……? このご時世に差別は許されないんだよ……?

「……仕方ねぇ、腹ァ括るしかないか」

 元より、虎穴に自ら入って事も、知らない間に入っていた事も。
一度や二度の話ではない。皮下は幾度も、そう言ったケースを経験している。
人の形をした怪物共――夜桜の一族を相手に立ち回ると決めたその時から、皮下の人生からは、安寧の二文字は消え失せている。
この世界では、その危機を齎す相手が、夜桜から別のものにすり替わるだけだ。然したる問題では、ない。

 受付からの内線が、慌てたような声音で、峰津院大和の来訪を皮下に告げてくる。
真正面から正々堂々と。これでは、チャチャは役に立つまい。あれは病院内に不正に侵入して来た者に対する置物だ。玄関から自信満面に来るような輩には意味はない。
「はいはい解ってますよー」とやる気なさそうに電話越しの看護婦に告げた後に、「応接室に案内して差し上げて」と付け加え、内線を切って――。

「行きたくねぇ~~~~~……」

 寝起きのサラリーマンが口にするような事を言いながら、重い足取りで応接室へと向かって行くのであった。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


 応接室と言っても、大層なものではない。
皮下医院自体、新宿の一角にこじんまりと佇む小さな病院である。同区に存在する病院として著名なのは慶應義塾大学病院であるが、この大病院とは比較にならぬ程に、規模は小さい。
皮下に言わせれば、ある日突然新宿の一角にだけ生じた、空き地になった土地にでも無理くり建造されたみみっちい病院だ。
そんな所であるから、応接室などと言われてもたかが知れている。敷かれてる絨毯も、ソファも、応接テーブルも。
高い事は高い代物だが、それは、庶民向けのインテリア用品店の中では高い、と言う意味だ。要は、金を掛けてない。お客人に最低限、失礼な印象を与えない程度のグレードの品を揃えただけだ。

 そんな部屋に、貴人も貴人たる、峰津院大和がやって来る。
来なくて良いよと心底で思いながら、皮下はソファに腰を下ろしていた。部屋の貧乏くささに激怒して帰ってくれねーかな~、などとも思っていた、その矢先だ。ドアがノックされたのは。

「――お入り下さい」

 それは、普段の皮下を知る者からすれば、信じられない程真率――遜った――な態度。
そんな声出せるんだ、とタンポポの面々は思うだろう。一応社会人だったんだ、と思う者もいるだろう。寧ろ敬語喋れるんだ、と思う不遜の輩もいるであろう。
平時の皮下からは想像もつかない程に、腰の低い態度。そんな自分を客観視して、「バカみてーだ」と思う皮下がいる。これから下手すりゃ、殺される相手に取る態度かよこれが。もっとでけー態度でいろよ。

 ドアが開かれる。開けたのは、案内役を任された医院のスタッフ。そして、開け放たれたそのドアを通して、一人の青年が入室する。
日本人離れした銀色の髪。それが染めているものではなく、生来授かったそれである事を皮下は見抜く。
夏場であるにもかかわらず、黒いロングコートを着流すのは、彼自身が暑さを感じないのか、それともコート自体に特別な機能が備わっているのか、或いは、敵襲を警戒してなのか。
顔だちは、恐ろしいまでに整っている。日本人の骨格と肉付きとは思えない、アジア人離れした美男子だ。峰津院財閥が突然崩壊し、無一文で彼が放り出されたとしても、この美形なら世の女性が放っておくまい。引く手数多の、美青年であった。

 ……だがそれ以上に特徴的なのが――――

 ――成程な……そりゃあ本戦まで生き残れてる訳だよ――

 勿論皮下自身、この界聖杯に呼び出された当初も当初から、峰津院財閥及びその当主である大和が、疑わしいと思っていた。
戦前から戦後まで、変わらぬ姿で生き続けてきたこの男にとって、GHQによる財閥解体はまさに、リアルタイムで目の当たりにしてきた事柄。
だからこそ、良く理解していた。当世に財閥などと言う組織が生き残っている筈がないのだと。他の参加者でも、同じ事を思う筈である。
そういう訳であるから、早い段階から大和は『黒』だと当たりを付けていた皮下は、彼の事を調べていた。とは言え、元が日本トップクラスの権力機構のトップである。
検索エンジンでも叩けば、顔写真など直ぐに出てくる。闇に通じる権力者、影のフィクサー、と言う訳ではない。表にも通じるし裏にも通じる支配者と言う訳だ、余計に厄介である。

 皮下は、峰津院大和は手練なのではないかと言う事にも、早くから気付いていた。
峰津院財閥の現当主と言う、余りにも目立ち過ぎる立ち位置に在りながら、彼に纏わる聖杯戦争絡みの噂が一切ない。
勿論、これだけ大きい組織である。ネット上でこの財閥の名前を調べれば、取るに足らないカストリそのものの、まとめサイトおよび個人ブログ、そしてSNS上に於いて、
根も葉もなさそうな私怨染みた書き込みやら記事やらは嫌と言う程出てくるし、事実性が高そうな考証めいたものも星のように出て来た。
峰津院家の闇だとか、暗黒だとか、そう言った感じの言葉でラベリングするべきか。兎に角、確かにそう言った手合いの妬み嫉みや記事考察が多かった。
だが、何一つ、峰津院大和が『不穏な何かを従えている』だとか『人を殺している場面にでくわした』だとか言う、血腥い噂は存在しなかった。
存在してなかったと言うよりは、漏洩させなかったと言うべきなのかもしれない。どちらにしても、あれだけ存在感のあるロールを賜っておきながら、
聖杯戦争本開催まで一切の戦塵を被る事がなかった、とはとてもじゃないが考え難い。とは言え、彼のロールを用いれば戦闘回避だとて出来なくはないだろう。

 だから皮下は、予測を3つ、立てていたのである。
峰津院大和は、財閥と言う権力をコントロールする術に極めて長け、戦闘を悉く回避していた。
峰津院大和は、弩級の強さのサーヴァントを引き当てていて、相手を瞬殺させて噂が広まる余地の一切を潰していた。
峰津院大和は、平均以上の強さのサーヴァントを引き当てていたが、戦闘の痕跡を残す事がままあり、これを財閥の権力でもみ消していた。
これが、3つの予測である。どれをしても、相手する分には厄介極まりない相手だがしかし、この3つに共通項がある。『大和自身は強くはない』と言う共通点である。
とは言え、皮下自身が他の聖杯戦争の参加マスターからすればインチキ極まりない強さを持っている。自分自身がそうなのだ、他のマスターにも同様の存在がいるだろうとは思っていたし、大和自身もそれなりに心得のある部類なのじゃないかとは思っていた。

 ――この若旦那自体も強いんじゃんかよ……――

 何て事はない。峰津院大和が今日まで壮健だったのは、シンプル過ぎる理由の故である。
大和自身も強く、サーヴァント自身もバケモノで、与えられた権力も桁違いかつこれを巧みに操れていたのだ。早い話、この主従はハチャメチャに強い訳だ。
他の聖杯戦争の参加者すれば、やってられないレベルでパワーバランスが狂っている。こんな存在が聖杯戦争に参戦していると聞けば、その時点でやる気が失せる者も出て来よう。

 一目見て、皮下は確信する。これは、バケモノだ。
皮下にとって、サーヴァントを除く怪物の筆頭とは、葉桜の模倣元、即ち夜桜の一族の事だが、大和はこの一族と比して何ら遜色がない。
どころか、持ち込む分野によっては、あの一族の誰かを容易く完封出来てしまうのではないのか、と言う気迫と凄味で溢れていた。
何をしてくるのか? 何が出来るのか? それを一切悟らせないが、確かに『強い』と言うのを事実として見る者に教え込む、圧倒的な説得力。
峰津院大和、彼もまた、聖杯戦争の覇を勝ち取れるに相応しい『龍』であったようだ。

「ご着席――と言うと、ハハ。私が促したような言い方で失礼ですね。本来であれば、貴方様が先に座られて、私に着席を御認めになられるべきであるのに」

「お気遣いなく。失礼と言うのなら私の方が礼を欠いている。御多忙の身である皮下氏の貴重な時間を、このような急な来訪で奪ってしまったのですから」

 敬語。
上品な物腰であり、態度も落ち着いている。大人物の風格だ。日頃、上流階級がひしめく環境で揉まれている事が伺える、洗練された所作だった。
だが、こんなものに騙される皮下ではない。目の前にいる青年の心の内奥で渦を巻く、途方もない殺意の香り。これを、百年の時を越えて生きるバケモノは、明白に嗅ぎ分けていた。

「なんのなんの。元より父が一代で建てた病院を引き継いだだけのドラ息子で御座いまして。基本的には、幸運の女神に微笑まれて何とか生きられている男だと思っていただければ」

「謙遜の上手い御方だ。先生の御評判は私の耳にも届いている。患者に心身に付き合い、友好的な態度で打ち解けやすく、誰であっても差別しない方だと」

「いやぁお恥ずかしい。御覧の通り、閑古鳥が鳴いている事の方が多い医院で御座いまして……。こうする事が、弱小病院を運営する我々の処世術なのです」

 示し合わせた様に、同じタイミングでソファに座り始める大和。机の上には、今の時期には嬉しい、氷入りのグラスに注がれた麦茶が置いてあった。

「峰津院財閥の御当主殿とこのような話し合いの機会が得られるとは、私としても望外の幸運。いつまでもお話していたいものであります」

「私としても同じ気持ちだ。世間では私の仕事はそれ程認知されてないのが悲しい所ではあるが、心の休まる時間がない、暇なしの身分でしてね。このような何気ない世間話でも、随分と疲れが取れるものだ」

 暇がない、と言うのは本当の事なのだろうと皮下は思う。
組織の理想は、下が優秀で何も言わずとも働いて利益を出してくれる事で、経営者は基本的に能動的に動かない事が望ましい。
それが解らぬ大和ではなかろうが、峰津院財閥レベルの規模の組織ともなれば、彼が暇である事が良い、と言うのはそれこそ理想を越えて夢物語の世界であろう。
峰津院大和こそが、財閥の顔であり脳であり、対外の柱なのだ。出席せねばならない会議や談合、会食に折衝に懇親会、総会など、それこそ馬鹿みたいな数に上ろう。
恐らく、峰津院財閥に於いて尤も働いている人物こそが、目の前にいるその財閥の当主その人である。にもかかわらず、疲労している様子は欠片もない。寧ろ、年齢特有の見事なエネルギッシュさに満ち溢れている位だった。

「親しみやすさ……。おろそかにしている医者も多いとは伺うが、悩みの種の一つだ。財閥は専属の医療部門を抱えている。福利厚生の一環だ」

「さぞ優秀な御歴々が集まっている事なのでしょうね」

「フフ、仰る通りだ。財閥の構成員達のバイタル・メンタル面のケアも万全、定期的な健康診断の実施で此処何十年と、生活習慣病を出した事もない、誇るべきチームだ」

「素晴らしい事です。私なぞちょっとした手術でもあわあわしてしまうタチでして、よく親父にも咎められましたよ」

「……だが、昔から抱える悩みもある。何分、我が財閥お抱えの医者達だ。当然診断結果をトップは見る事もあるが……そういう仕組みの為か、良くない病やメンタルだと査定や評価に響くのでは、と恐れる構成員もいるのですよ」

 成程、気持ちは解らなくもない。
表向き、病で差別する事はないと言っても、実際はそうは行かない色眼鏡を常にかけているのが人と言う物だ。
財閥の直属の医療チームに診断され、厄介な病気を抱えている、となると、如何なる評価が下されるか解らない。そう思う者が出てくるのも、さもありなん、かも知れない。

「この手の問題は根が深い。様々なアプローチを考えてはいるが、思わず相談したくなるような人物を医者として配置するのも、手だと思っている」

「……まさかとは思いますが」

「そちらが適格かと思いましてね。勿論、御自身の病院を運営されているのだ。此処を捨てろ、とは言わない。定期的に、構成員の往診に来て頂ければ有難いのだが」

 普通なら、願ってもない申し出であろう。大抵の医者であれば、峰津院財閥に定期健診の契約を持ちかけられれば、二つ返事でOKの言葉が飛び出してくる。
マネーの面でも、厚遇されるのは間違いなかろう。皮下のような自分の医院を持つ医者でなく、大病院で働く勤め人のような立場の医者であれば、
あわよくば財閥に流れでヘッドハンティングされる事をも夢見るかも知れない。金、待遇、処分できる時間の総量。どれをとっても、垂涎のものが保証される筈だ。

「私よりも適当な方が、この新宿には大勢いらっしゃいますよ? 彼らには御声の方はかけられたのですか?」

 このような、場末ギリギリの病院を頼るよりは、大病院、それこそ慶應義塾大学病院の先生に交渉をした方が、余程マシだろう。皮下はそう考えていたのだが。

「惚けられるとは、悪い人だ」

 と言って、足を組み始めた大和。
普通なら、このような話し合いの場では無礼な態度であり、心証を悪くしかねない行いだ。
だが、大和の場合は違う。その様子が、余りにも絵になり過ぎて――寧ろ、そういう態度を取ってくれている方が、財閥の主としてよりらしい感じがして。不思議と、悪感情は生じないのである。

「この病院には我が財閥の構成員が通院していたと聞く。いや、している、と言う形なのかもしれないが、それは良い。財閥の者達も無能じゃない。我々の医療チームの優秀さは知っている。それを蹴るのならば、第二候補は医者や病院の実力や評判を選ぶのは当然の事。此処を選ばれたのは、それが原因だったのでは?」

 ……成程、事情は知っているらしい。皮下はそう判断する。
峰津院財閥の構成員に粉かけて、それどころか一部のメンバーは鬼ヶ島の狂える宴に供物として捧げられている事も、下手したら御見通しの可能性すらある。

「我が財閥の力を借りず、他所の病院を頼るのだ。貴院はさぞ、優秀なドクターを抱えている事なのだろう」

 微笑みを湛えて、一呼吸置く大和。
口元は笑みの形を作っているのに、その瞳の奥底で、底冷えするような冷たい殺意が輝いていた。

「話していて、皮下真先生が信頼に足る方だとは分かった。部下の評価も直接聞きたい。彼らは何処に行かれたのか?」

 退院した、とホラを吹くのは容易い。
だが、此処でそれを言ったところで、嘘など看破されてしまうだろう。要は峰津院大和は、自分の財閥のNPCが全員、帰らぬ人となっている事など、とっくの昔に解っているのであろう。
このような、腹の探り合いですらない、茶番に大和が付き合っていた理由は単純明快。皮下真が、どの程度のものなのか、試していたのが全てなのである。

 いやはや、これはなんとも、全く以て――――――――

「下らねぇ猿芝居だ」

 被っていた猫の皮を全部剥ぎ捨てて、地をむき出しにして皮下が言った。取り繕った態度を取っていたのは、大和にしても同じであったらしい。
それまで浮かべていた微笑みが、突如として消え失せ、相手を見下しているのが手に取るように解る、示威的な厳めっ面に表情が変わり始めたのであるから。

「格下相手に敬語に出るのも楽ではないな」

「へぇ、それがアンタの本性かい若旦那。良いじゃないか、そっちの方がよっぽどらしいぜ」

 突如として尊大な態度を取り始める物だから、思わず皮下は苦笑いを浮かべてしまう。
内心、俺の事も格下だと思って見下してたんだろうよ、と彼は思う。それでよい。峰津院大和に限って言えば、その驕りも侮りも正しい。
帝王の星の下に産まれた大和であるのならば、その様な態度を取ろうとも、果たして誰が咎めるであろうか。それが許されるだけのオーラを、彼は身体中から発散しているのだ。

「ちょっち、3秒だけ待っててね」

 言って皮下は、自分の両目に人差し指を突き入れ、眼球をなぞる様に指を動かし、2、3度。パチパチと目をしばたかせる。
淀んだ、黒い瞳が、皮下の眼窩に嵌っていた。精彩を何一つとして見出す事の出来ない、生気なき黒い瞳。
今まで大和が見ていた、生命力と若さでキラキラ輝いていた風に見える瞳の煌めきは、専用のカラーコンタクトによるものであったようだ。

「お偉いさんと話をする時はさ、こんな死んだ瞳で話すのも失礼なんでね。こうしてちょっと目をキラキラ演出させちゃうのさ。エチケットって奴よ」

「ほざくな。私に感情を読み取らせぬ為であろう」

「正解」

 ヘラヘラ笑いながら、両の人差し指に乗っていたカラーコンタクトを、弾いて後方に放り捨てる皮下。

「んじゃ改めまして。皮下医院院長兼、聖杯戦争参加者の一人の、皮下真でーす」

「貴様如きに名乗る名などない」

「オイオイ、自己紹介位解っててもちゃんとやろうぜ。常識は1兆出しても買えないんだからさ」

「貴様への表敬訪問は既に終わっている。これからは尋問の時間だ。身の程を知れ」

「表敬? マジで敬ってたの? そりゃビックリだ。こっちは敬ってなかったのに」

 峰津院大和が敬いの態度を持っていたとは驚きだ、と一瞬たりとも思う皮下だったが、流石にそんな感情抱いてもなかったらしい。
それはそうだと皮下も思う。何せ、部下からも敬われないのだ。目の前の男も敬う筈がなかった。……そこまで思って泣けてきた。俺結構頑張ってんだけど……と、思う皮下だった。

「今一度聞くぞ、皮下。私の部下は何処に消えた」

「尊い尊い科学の犠牲になってるよ。旧ソのクドリャフカみてーなもんさ」

「ライカは確かに科学の礎石になったが、私の部下が犠牲になったとて、貴様の下らぬ野望の充足が早まるだけだろうが」

「下らないってのは聞き捨てならんね、若旦那。俺は俺で、誠実な夢があるのさ」

「面白い。貴様とて、この東京の地に願いがあって蠢いている身だろう? 他人の命を踏み台にして成し遂げたい、醜い夢を囀ってみろ」

 皮下は、自分の分の麦茶を、ズズッ、と音を立てて啜ってから、やおらと言った態度で口を開いた。

「世界平和、人種平等」

 それは、時に無辜のNPCを何人も拉致し、時にカルテを巧妙に操作して入院している患者を引きずり込んで。
本人の意思など構いなしに、非人道的な人体実験のモルグとして利用している男の口からは、およそ、飛び出す事自体が信じられない言葉だった。
それは、よく言えば夢想家、悪く言うなれば、現実逃避している愚か者の口から飛び出すような。若いとか青いを通り越して、ある意味で『幼過ぎる』領域に片足の入っている願いであった。

「笑わせる」

 失笑を隠せぬ大和。

「血と死の臭いは隠せんぞ下郎。貴様がこの地に招かれてから幾人殺して来たか知らないが、業を重ねておいて夢見る野望が世界平和か。何様のつもりだ貴様は」

「聖職者さ。お医者様なんだよこれでもね」

 大和の悪罵に、皮下は即答する。一桁の計算の答えでも口にするような、素早いその返事は、常日頃から、自分がそうであると思ってなければ到底言えぬ言葉であった。

「平等や平和である事と、人を殺す事は、両立すると思ってる」

「サイコパスの妄言でもマシな事を口にするぞ、クズめ」

「愛は差別なんだ、峰津院さん」

 麦茶の、啜る音。カラン、と氷がグラスとぶつかる音が、涼し気に――冷やかに、室内に響いた。
グラスの口を五指で掴み、グルグルと器用に中の麦茶を廻して見せる。氷もまた、浸された麦茶の回転に合わせて、小さいグラスの中でダンスを踊った。

「女の子に手を出しちゃいけない、子供の未来を奪っちゃ行けない、赤ん坊には慈愛を以て接しなくちゃいけない。色んな国を見て来たけど、似たり寄ったりな考え方をする所が殆どだったよ。事実、俺もそうだなぁと認めてる所は、あるかな」

 「だけど、よ」

「庇護や愛ってのは、俺から言わせれば、そいつの主観(エゴ)で、依怙贔屓したい奴の価値を平均よりも上に設定してるだけに過ぎなくてさ。ま、早い話が、特別扱いの正当化みたいなもんよ」

 話は続く。よくも、回る舌であった。

「今更アンタに言うのも釈迦に説法だが、世の中には特別じゃない奴だって大勢いるし、何なら居ても居なくてもどうでもいい、なーんてラインを飛び越えて存在しちゃならない次元の奴までいる。その差は何だ? 歳か? 身長か? 体重か? 肌の色かも知れねぇし、瞳の色だってあり得るな。『ぶら下がってる奴』のデカさかも知れねぇかもよ? 社会の枠組みと言う価値観で言えば、名誉や立場や学歴なのかも知れんし、前科歴だってあり得るわな。ま、数えて行けばキリねぇよ。だが、一つだけ確信を以て言えるのはよ。そう言う区別と差別は、この世界に於いて大なり小なり肯定されてるって事と、人の社会はそう言う差を前提として廻さなくちゃいけない事だ。違うかい? 峰津院さん」

「貴様の言う通り、そんな問いは今更だ。人の差とは多様性だ。そしてそれこそが、この数千年で人類が発展して来た究極の要因だ。差の否定とは、人の歩んだ歴史の否定に他ならない」

 ニッ、と笑ってから、皮下は言葉を紡ぎ始めた。

「霊長の頂点の人間サマが、差を当然のものとして組み込んでる以上。その差の類型化、定型(テンプレ)化が出来ない以上よ。平等と、それに基づいた平和だなんて、仰る通り実現不能だ」

「話はそれで終わりか? それで話を切るなら、貴様の評価は夢見がちの馬鹿に終わる」

「終っちゃないよ。人間が誰かを区別する、差って奴を全部定義し終える事が出来ない以上、それに依拠した平和が叶わないってだけさ」

 数秒程、間を置いた後、皮下は口を開いた。

「楽に平等を達成する方法が、2つある。『全ての人間の価値を等しく最上のものだとする事』。どうしようもないクズや犯罪者でも、だ。そしてもう一つは――『全ての人間の価値をそれこそ赤子や子供、老若男女の隔てなくゼロにしちまう事』。ていうかぶっちゃけ、それしか方法がない」

「……」

 緘黙を貫く大和。瞳に宿る光が、鋭さを増す。

「価値を最上に置くなど不可能だ。人のサガがそれを許すまいし、物質的にも出来まいよ」

 要するに全ての人の価値を最上に設定するという事は、誰彼構わず丁重に扱うと言う事に等しい。それは対面の人付き合いの面でも、福利厚生、権利面でも、と言う事だ。
だが実際それが出来ないという事は、少しでも世故に通じた立ち位置に組み込まれている人間なら誰だとて理解が出来る。
人間自身、どうしようもなく誰かを区別し差別する生き物であるし、そもそも人が生きて行く上で必要な仕事、と言う行為自体に、どうしようもなく、階級や役職と言う形で人を区切る。
それがなかったとしても、誰彼構わず均一に最上位に取り扱えと言われても、それを成す為のリソースがこの地球上に存在しない。全人類に等しく、先進国と同じレベルの生活を約束せよ、と言われても、それは、地球と同じサイズかつ同じ資源量の惑星が複数個ないと、これは不可能なのだ。

「同感だね。と言うか、出来たしても俺はそっちを選らばねぇよ」

 「俺自身に価値がないからね」、と、皮下は続けた。ヘラヘラ笑いながらの言葉だったが、その言葉に、僅かな重みを大和は感じ取った。薄めてはいるが、真が含まれている。

「――人を殺した者、地上で悪を働いたという理由もなく人を殺す者は、全人類を殺したのと同じである。人の生命を救う者は、全人類の生命を救ったのと同じである」

「食卓章……コーランの聖句か」

「流石の教養だね若旦那。こんな有難い教えを説いてる聖典を崇める奴らが、無辜の民を殺し続けてる。そして、こいつらとは全く無関係のところでもまた、同じように誰かが理由もなく殺されてる。この素晴らしいお説教の通りなら、如何やら人類は神様に何万回とリセットボタンを押されてるらしい」

 皮下の顔から、表情が消える。
感情が、何もない。能面のような、とは無表情を指してよく使われるフレーズだが、それですらない。
表情の一切が彫られていないだけの、木肌のみの、面だ。そうとしか感じられない程に、皮下の顔からは情動の類が一切消え失せていた。

「命は何よりも重い。そうと説いておきながら、この星から無為の死が起こらなかった日は一日としてない。心の奥底では皆理解してるからさ。同じ重さのものが存在すると言う事実があり得ないこの星で――不平等が世の掟のこの世の中で、『命の重さだけは平等にゼロ質量』なのさ。命だけは、重力も引力も関係ねぇ。等しく重さなんてないし、軽いだけだ」

「聖杯でも使って、ジェノサイドでも起こすつもりか?」

「言っただろ? 聖職者だって。虐殺で平和が勝ち取れるなら、この星は何百年も前に穏やかな星になってなきゃ釣り合わんだろう」

 ジェノサイド。言葉自体の歴史は新しいが、それに近い事が行われるようになったのは、何も最近に限った話ではない。
敵対していた王侯貴族、士族に華族、騎士団や武家と言った面々の皆殺しも、ジェノサイドに含めて良いのなら。歴史上数えられない程ジェノサイドは存在した事になるし、その都度、平和になってなければならない。だが実際には今も紛争の火炎が地球上の至る所で燃え上がってる所からも分かる通り、虐殺では、平穏も平等も、齎し得ないのだ。

「淘汰だよ、俺の理想は。人は死ぬが、それが目的でもないし、人の数を減らして平和、だなんて嘯くつもりもない」

「……ほう」

「突然変異。……今更アンタに対して説明するのも面倒だししねぇがよ。俺達人間は、嘗ての誰かの遺伝子に交じっていたエラー品、それが何かの間違いで、それまで繁栄していたノーマルの遺伝子を持った奴らよりも栄えちまって、そしてそのまま、陳腐化した奴らの果ての姿なんだよ。突然変異と、それの普遍化。そしてその普遍化した奴らの中から、またおかしな遺伝子が持った奴らが産まれて、運命の気まぐれでそいつらが栄える。猿が猿人になって、猿人が原人になって、そして原人がまた、今の俺達のプロトタイプに近い、人になる。そんな、繁栄と淘汰の螺旋を歩みながら、俺達はいるのさ」

 沈黙の帳が下りた。
両名共に、口を引き結び、押し黙っている。だからこそ、この応接間の中で、極限まで張り詰めた、ピリピリと、ヒリヒリと、皮膚に痛い程の空気が、辛い。
常人であれば、数秒と耐えられぬ、この極限に近い空気で満たされたこの空間の中で、皮下は、口を開いた。

「桜だ」

 男は語る。

「綺麗な桜があったんだ。誰からも愛でられ、誰からも注目され、――その綺麗さのせいで、誰からも弄ばれた、昼も夜もなく見目麗しい、桜がね」



 ――桜のように注目され、崇められ、弄ばれるのは、もう沢山――



「桜などと。比喩だろう、それは」

「察しの通り人間でね。その血は誰かに不思議な超能力を齎す。それで終わりじゃないぜ。その血に含まれる成分に耐えられなければ、その瞬間に死に至るような、猛毒を孕んだ血液さ」



 ――小さく、取るに足らない……どこにでもいるタンポポのような――



「その血を見て、閃いた。これを利用して、全人類に力を発現させればいい、とね」

「……毒、と貴様は言ったが?」

「良薬も過ぎれば毒になるって言うだろ? 毒も薄めりゃ薬なのさ。当然、耐えきれない奴も出てくる。そうすりゃ自壊して死ぬね。耐えた所で、ある時点で限界が来る奴もいる。暴走するだろうよ。そうなったら俺も知らん」

「耐えられ、適合する者も出てくる、と、言いそうだな」

「頭が良いと助かるよ。説明の手間が省ける。世界中のあらゆるシステムは、嘗てない人類のミューテーションに耐え切れず崩壊を起こすだろうし、その混乱と騒乱の度合いは、戦中の比じゃないだろう。それで良い。間違ってない。選別、なんだよ。その段階は」

 ――。

「選別に生き残る人間は僅かだろう。人間と言う種族が存続出来る、最小限度、辛うじての数しか生き残れねぇんじゃないかな。残った適合者どうしで、子が生まれる。特殊な能力を授かった適合者がセックスをし、生物濃縮とその遺伝子を引き継いだ子供がね。そうして、少しづつ脳と身体が無理なく進化して行き、人と言う個体は強くなる。そしてそれは、社会と言う枠組みに頼られない在り方を人が得られるようになる。そしてそれは、人の歴史に影みてぇに付きまとっていた、悲しみや争いからの脱却を意味し――」

 笑みを浮かべ、皮下は言った。

「そこで、平等と平和が達成される。誰もが等しくゼロスタートから始めてそこから進化して行ったからこそ平等で、誰もが特別な能力を持つからこそ平等。そして、争いの根源たる社会そのものに頼らず生きて行ける強い人類だからこそ、平和。そこで初めて、真の世界平和が達成される訳だ。誰もが皆綺麗に咲き誇る桜になれる。平等に価値が0だった時代から、平等に誰もが最上の価値の約束された時代になる」

「気の遠くなるような話だ。その段階まで至るまで、人類が存続しているかも危うい」

「だから、俺は、種を撒くだけに過ぎない。恐らくその『地平』に至った人類を、俺は見る事が出来ないだろうね。少々、悔しくもあるが」



 ――そう、タンポポみたいな……普通の存在になりたい――



「人は枯れ木だ。その枝の先には花もなければ葉の一枚もなくて、ただ大地に突き刺さってるだけの、死に行く樹木だよ。人類の未来の暗示にしか、俺には見えない」

 「そんな奴らに――」

「俺が綺麗な花を咲かせようって思ってね。ハハハ、ちょっとした花咲じいさんだよな、俺」

 冗談めかして口にする皮下の言葉に対し、大和は、冷ややかだった。
感情が揺れ動いてる感じがまるでない。淡々と、目の前の狂人の話を、聞いていただけのような。小鳥の泣き声でも、セミの鳴き声でも、聞いているような。そんな素振りだ。

「優れた力には報いがなければならない。平等は、私の理想に反する」

「アンタが強いから言える言葉だぜ、それ。アンタのその財力も、恵まれすぎてるその才能も。まぁそちらの努力を否定するつもりはないが、天与のものも、あるだろ?」

「今の地位にしがみ付きたいから、人類の格差を認めている、とでも? 成程、そうも見られような」

 語るまでもなく、大和との持つ権力も、財閥が保有する資産の数も、数値化が困難なレベルのグレードを誇る。
金持ちの中の金持ち、権力者の中の権力者だが、それと同時に、身体能力や頭脳と言う面でも桁外れており、およそ人間が理想とするあらゆる物を、全て彼は手中にしていた。
その中には実際に彼が努力せずに得たもの、つまり、先代から引き継いだだけのものもある事は嘘でもない事実だ。大和が、世襲で何かを引き継いだ側面がある事もまた確かなのだ。
だからその、引き継いだものを失いたくないから、人間との間に生じる格差を肯定しているのだ、と見られるのは、何も間違いではないし、それが普通であろう。大和自身、そう見られてもおかしくないな、と思っているレベルなのだ。

「私を殺せると思ったのならば、存分に殺してみるが良い。今の地位から引きずり下ろせると思ったのなら、試してみるが良い。掲げる理想と信条の故、その行為を否定はしない」

「面白れ~。アンタが聖杯戦争の参加者なのはとっくの昔に知ってたがよ、掲げる理想が全然予測出来なかったんだわ。これを機に、お聞かせ願いたいものだな」

「実力主義と、これを常識として是認する、人類全体の意志改革」

 大和の返事もまた、一切の淀みがなかった。
言葉の迷いのなさは、彼が聖杯に懸ける理想と夢、それに取り組む真摯さの証明でもあった。

「身分、性別、年齢……。貴様の言ったような、差別や区別の温床たる要素は全て撤廃する。その上で才能ある者、力のある者が上に成り上がり、仕組みを作り出す側に至れる構造。それこそが、私の理想」

「そちらが爺さんになったら、どうするんだい? 峰津院さんよ」

「歳は言い訳にならんよ。老いたる神は、追放されるが定め。時が来れば、私もそれに倣う時があろう。それで良い。理想の世界だ」

「……そっかぁ」

 比類なき程に、シンプルな世界だった。躊躇いも何もない。本気の語調で、大和は語っている。
力を持つ物が偉い、才能のある者が尊ばれる。今の世界構造でもそう言う面はあるが、大和の理想はそれを純化させた世界なのだ。
正真正銘、完全なる実力主義なのだ。力があれば、家なき身分からでも成り上がれる。才能があれば、年齢の分け隔てなくトップのポジションに行ける。
それを邪魔する者は一切いない世界にしたいのだ。その世界に於いては、兵力を兵力で駆逐し、その立場に収まっても誰からも恨まれない。
力ある者の立志を邪魔する政治的な力学もなければ、新たなる富める者の誕生を望まないような経済学的な構造力学もまたない。
なれるのならば、なって良い。覇を示したいなら、示せば良い。まさに完全かつ完璧な実力主義。それこそが、峰津院大和が理想とするアルカディアなのであろう。

「ま、俺もよ。掲げる夢が夢だからさ、仲良ーく、上手くやっていこう、みたいな思いもあったんだけどね。聖人君子じゃねーんだ、無理だったわ。俺、アンタの事、嫌いだぜ」 

「奇遇だな。私も、貴様については、蜘蛛とは別に、蹴散らさねばならない相手だと考えを刷新した」

「おっと、其処だけは意見が一致してるんだな。ハハ、良くある事とは言え、世知辛いねぇ」

 大和も、そして皮下も、場違いな程柔らかい微笑みを浮かべて始めた。
浮かべる表情の柔和さと、反比例するように、場の空気は、倍々ゲームのように重みを増していき、加速度的に鋭さを得て行く。
空気のスイッチが、入れ替わる。話し合いと言う穏やかな場所ではない。聖杯戦争の敵対者どうしとして、行うに相応しいものへと、雰囲気が、空気が。入れ替わって行くのを、肌で二人は感じ取っていた。

「んじゃま、そうだな――」

「ああ、そうだな――」

 旧友同士、互いに交し合うような軽いやり口でそう言いあった、次の瞬間――

「死ねや」

「死ね」

 溜めていた殺意を、2名は爆発させた。

 先に動いたのは、皮下の方だった。
今も麦茶の入ったグラスを摘まむ右手。その手甲から、黒曜石(オブシダン)に似た艶と色が特徴的な、棘のような物が凄まじい速度で大和に向かって延長して行く。
物を握っているから、攻撃には転ぜられない、そんな意識を利用した不意打ち。クロサワの持つ、金属細胞の力を保有する皮下は、身体の至る所から、
サイズ可変、鋼を切り裂き鉄壁を貫く武器を、如何様な形にでも創造する事が出来るのである。

 ――その、比類ない硬度を誇る、クロサワの黒槍が、パァッ、と、その強度の触れ込みが嘘八百だと錯覚してしまう程に、脆く砕け散った。
「おっ?」と反応する皮下。崩れ方が見える。それは物理的な強い衝撃を受けて砕かれれたと言うよりは、風化したと言う方が相応しい壊れ方で、
砕かれた槍の破片とも言うべき黒色の粉が、風に舞う煤のように、室内を舞い始めたのを見た。原因は、ハッキリしている。
峰津院大和の左手に纏われた、アメジスト色の、炎のような何か。それを纏わせた左腕で槍を払った瞬間、御覧の通りの結末を、クロサワの武器は辿った訳だ。

「ここは腐っても病院だったな」

 それまでソファに座っていた――金属細胞の槍を砕いていた状態でも、なお――ままの大和が立ち上がり、後ろ足にソファを小突いた。
その軽い動作だけで、ソファが紙みたいに吹き飛んで、そのまま、応接室の入り口のドアを塞ぐ形で縦に転がった。少なくともこれで、余人は入って来れない。

「貴様の死亡診断書は私が直々に書いておいてやる。光栄に思え」

 一部の高位悪魔のみが使用を許される、万能属性の魔術。
広く人間世界に知られる名を、『メギド』と呼ばれるその魔術を、大和はその手に纏わせたのである。槍を破壊したものの正体こそがこれであった。
そして、この纏わせたメギドを、発散と言う形で解放すれば、どうなるのか。容易く、皮下医院は消滅する。それこそ、柱一本、土台一欠けら、余す事無くである。

「ちと、これは分が悪いな」

 大和の方に目線を注ぎ続けながら、皮下は思案を巡らせ――決断した

「カードを切るか」

 そう言った瞬間、まるで渦潮のような黒い何かが、部屋中に敷かれたカーペットの、その更に一枚上に生じ始めたのである。
大和も皮下も、地に足着いている、と言う実感を失い出し――いや、実感どころじゃない。事実、空中に放り出されたに等しい状態になった彼らは、その渦の中に、落ちていった。

「むっ……」

 回りくどかったが、遂にやったな、と大和は思った。
地脈と霊地の管理は、峰津院家の十八番。この病院を見た瞬間から大和は、その地下空間に、途方もない何かを飼っている事を看破していた。
空間の広さは皮下医院に容易く百倍はするであろう超広大な空間を、この世界の時空とはまた異なる時空に折り重ねて隠蔽する形で、
皮下が引き当てたであろう何者かは隠蔽していたのである。此処が本丸である事は間違いない。余人に見せられぬ何かの全ては、其処に隠れているのだろう。
そして、何かあれば、其処に大和を引きずり込むであろう事もまた、彼は理解していたのである。それが遅いか早いかの違いでしかなかったが、存外、遅かった。大和からすれば、此処からが本番なのだ。話し合いで解決するなどとは思ってない。此方に不利益を被らせる輩には、死を与える。皮下の行動はまさしく大和の聖杯戦争のプランに対し障害となる物であり、彼の与える死の大槌の範囲に、皮下の頭蓋はあったのである。

 タッ、と、数十m程の不快な浮遊感を堪能した後、大和も皮下も着地。
皮下は元が、夜桜の血の影響で人間の括りを超越している為、その高度から着地しても問題はなく。
大和の方は、魔力によって身体能力を強化している為か、問題はない。受け身を取り損ねて死ぬ、と言う結末は、2人には無縁であったのだ。

「――ほう」

 左手に纏わせたメギドの炎を霧散させ、大和は嘆息する。
一面畳張り、壁に掛けられた提灯、昼のように明るいその空間。漂う酒の臭い。
旅館などにあるような、和風の宴会場のような場所であろうかと大和は考えた。それにしても広い空間だ。
天井の高さだけで、何十mとあろうかと言うもので、ビルの三、四階建て以上は容易く超えていた。部屋の広さにしても凄まじく、四方数百m以上は優に下らない広さなのだ。
サッカーやラグビーなどの、フィールド競技だとて容易く行えそうなその空間は、意匠は兎も角、広さについていえば、伊達や酔狂で設定したものじゃない事を大和は一瞬で理解した。

 ――それは、目の前で胡坐をかき、直径二mはあるであろう巨大な盃に入れた酒を、グビグビと音を立てて飲んでいる男に合わせた、部屋作りなのだろう。

「成程。貴様の自信は、目の前のサーヴァントによるものか」

 酒を飲むサーヴァントの側に佇む皮下を見て、大和は得心が行く。
何よりも目に付くのはそのサイズだ。皮下のサーヴァント、ライダーのクラスで召喚されたそれは、人類にはあり得ない体格の持ち主だった。
人間と言うものは、地球の重力の大きさの都合上、あるサイズ以上の身長を越えて、産まれないのが通常である。その通常が、ライダーには全く通じていない。
何せ胡坐をかいて座っているその状態でも、既に大和が見上げるしかない大きさなのだ。目測だが、この状態でその大きさは5mを容易く超える。
控えめに言ってこの体格の時点で、目の前のサーヴァントは理屈を抜きにした完全な強者なのだが、次に目を引くのがその身体つきだ。
直立すれば9mはあろうかと言うその巨体には、てっぺんからつま先まで。巌か鋼かと見紛うような凄まじい筋肉がみっしりと凝集されていて、
この身長に満遍なく搭載されているこの筋肉と、考えられる体重をフルに攻撃に用いれば、それを叩き込まれた相手は如何な結末を辿るのか、容易に想像が出来てしまえる程であった。

 だが、体格よりも、大和の興味を惹起させたのは、ライダーの側頭部から生える、巨大な角だった。
水牛に似たその立派な角は、雄弁に、彼が人間以外の存在である事を物語るファクターであり、一目見ただけで彼のイメージを、『鬼』に近しい何かだと固定させる理由そのものだ。
巨躯や魁偉を越えて、巨人か小山の域に達するその巨大な体格。そして、肉体から発散される、暴威とも、覇気とも取れる強烈なオーラ。
この男の前では、鬼も悪魔も、阿諛追従の腰巾着、御機嫌取りに回るだろう。大和には解る。目の前の男が――カイドウが正真正銘、この聖杯戦争の『キングピン』となるであろう存在の一人である事を、その霊性から見抜いたのだ。

「……ウォロロロロロ。正直、驚いてるぜ。皮下」

「何がよ、総督」

「目の前のガキ、おれを恐れてもねぇ。予選でぶっ殺したサーヴァントですら、見ただけで腰砕けになる奴が居たってのに、こいつはマスターの身なのに身動ぎ一つしねえ。帝王の器だ」

 そもそも真っ当な神経の人間は、カイドウの持つ常識を逸脱した身体つきを見れば、その時点で立ち竦むばかりか、呼吸すら忘れる程の恐怖に陥る。
サーヴァントレベルであっても、この存在にはどんな武器を持ち出しても勝てる筈がない。そうと思い込ませる程の、意識に対する攻撃を常に視覚的に行っている状態に等しいのだ。

 予選でも、本戦でも。
カイドウの恐るべき相貌を眺めた者は、その時点で、止まらぬ震えに苛まれる者が多かった。人によっては、見ただけでサーヴァントに、撤退の命令を出す者もいた。
それが当たり前の存在なのに、大和は、カイドウと真っ向から目線をぶつけ合っている。それだけじゃ、ない。
目の前で、『カイドウが覇王色の覇気を放出しながら睨み付けているにもかかわらず』、大和は堂々とした態度を貫いているのだ。
覇王色の覇気の直撃を受けて、無事に自我を保てているマスターは、これで二人目。先の一人は、意識を何とか保てていた、と言うだけで指一本動かす事が出来なかったが、大和は違う。意識を保てているばかりか、あろう事か腕を組み始め、不遜な態度でカイドウを見上げ始めたのだ。

「威圧に立ち竦む程度では頭から喰らわれるのでな。脅しに対する術は、心得ている」

「面白れぇ。小僧、良いぜ。名前ぐらいは覚えておいてやる、言ってみろ」

「下郎に名乗る名などない」

 無視。大和はカイドウの気配りを、バッサリと切り捨てた。
その瞬間、爆発するような殺意がを荒れ狂った。子供だとて、この空気の変わり方は即座に悟るだろう。
風を伴わぬ、音を生じさせぬ嵐が、宴会場に吹き荒れているようなものだった。そして事もあろうに、その殺意の奔流は、カイドウからのものではない。
寧ろ彼の方は、凪。静かに酒を飲んでいるだけであった。怒気を解放させている物の正体、それは、カイドウと大和らが佇んでいる地点から、離れた所に存在する、閉じた襖であった。

 ――そしてもっと近くには、

「総督、殺しても良いんだよな、こういう時は」

 胡坐をかいているカイドウの左右には、これまた、カイドウに勝るとも劣らぬ三人の巨漢が佇んでいた。
勿論、3名ともに巨漢と言う言葉ですら烏滸がましい巨人である。古代ギリシャの彫刻者は、彼らを指してこう言うであろう。ギガース、と。
カイドウに対し抹殺の許可を訪ねたのは、彼からみて右の場所に佇む、漆黒のレザーで誂えられたダブルスーツを着こなす、これまた黒いヘルメットにマスクを被った男である。
背面から炎を噴出させるその様子はさながら不動明王の仏像の様で、であれば腰に差している大和の身長以上もあるあの刀は成程、倶利伽羅利剣か。
ただ者ではない事を、大和は見抜いている。恐らくは、あのライダーが全幅の信頼を置く部下の一人だと、当たりを付けていた。見立ては、正しい。大看板の一角、百獣海賊団最強の一人である、火災のキングを、大和は正しく評価していた。

「まぁ待てよ、キング。今は若造の大口程度、一度ぐらいなら許してやれる気分なんだ」

「総督が、そう仰るなら」

 不承不服と言った様子で、小山の如き巨体を誇る、長く伸ばした金髪を後ろにまとめ上げた男が言った。
まるで象の牙を思わせる意匠が取り付けられた面頬を装着しているこの男の名は、ジャック。旱害の名を冠する、大看板の一人。カイドウの海賊団を代表する、顔役でもある男だ。 

「小僧。お前だな。この地の霊地を抑えてるって言う、強欲な野郎は」

 ――海賊に強欲とか言われるとか世も末だな……――

 率直にそんな事を思う皮下だったが、ぐっと堪えた。

「中々の地獄耳だな。そうだと言ったら、どうする?」

「分かち合おうじゃねぇか、なぁ? そうすりゃテメェの安全はおれが保証してやっても良いぜ」

 驚いたのは、誰ならん、大看板の三人と、襖の先で待機している、飛び六胞及び真打の面々達だった。
分かち合う、と来たものだ。宝は総獲り。海賊にとっては、況して、海賊達のハイエンドであるカイドウにとってすれば、
利益は全部ウチの物と言う考えは、骨身に染みた常識だ。宝は山分け、半分こなど、思っていても絶対に言わないと、誰もが信じていたのである。
その男から、そんな言葉が口から飛び出してくるとは……夢にも、彼らは思ってなかった。

 最悪の酒癖、刹那的な快楽を求める性格からも誤解されがちだが、平時のカイドウは極めて頭がキレる、冷酷な男である
計算高く、したたかで、目的達成の為には何年も己の心を悟らせぬ、高度な政治力をも併せ持つ、文武に長けた怪物なのだ。
そうでなければ、数千名からなる大海賊団の首魁など到底名乗れない。そしてその知略は、海の上、船の上のみで発揮されるものではない。
ワの国影の支配者として20年以上も君臨していた逸話からも分かる通り、陸(おか)の上の政治と言う意味でも、カイドウは卓越している。この要所を抑えればどうなるか、何処に対してどんな仕打ちをすれば効率的なのか。彼にはそれが、直ぐに解るのだ。

 今でこそ、カイドウは皮下医院の地下と言う空間で、手筈を整えると言う手段に甘んじていたが、初期のプランではこうではなかった。
東京23区に存在する、霊地即ち、ある程度の魔力の供給を可能とする、レイ・ライン。当初はこれを抑え、其処から供給される魔力を以て、軍備を急速に整える算段だったのだ。
理論上、当初予定していた霊地を抑えていれば、聖杯戦争の本開催日、つまり今日には、東京都の至る所に、十全の状態の真打・飛び六胞・大看板の面々が、カイドウと共に暴れまわっていた計算であったのだ。

 だがそうはならず、今日までずっと雌伏の時を過ごしていた訳は、その計算が捕らぬ狸の皮算用に終わってしまった事を意味する。
単純だ、既にカイドウらが予定していた複数の霊地は、全て、峰津院財閥の手による管理下に置かれていたからだった。
カイドウ自身もこの報告を受けた時は、かなりのやり手がいる、と即座に思った。
本戦開始前に度々起こっていた、鬼ヶ島から遠征し、戯れにサーヴァントを葬り去っていた、あの外征。あれは、酒に酔ってやった事もあるが、それ以外。
素面でやっていた時もある。単純だ、峰津院財閥管理下の霊地を下見に行って、『同じような魂胆の予選参加者とぶつかってしまった』、と言うある種の玉突き事故めいた事もあるのだ。
そのまま流れで、霊地を襲ってやっても良かったのだが、その時の皮下の魔力プールの観点から、直ぐに取りやめ――そうして、今日に至ると言う訳だ。

 そして今こうして、霊地の管理者を見て、何とも細い若造が出てきやがった、とカイドウは思った。
だが、身体から発散される気風や、瞳に漲るその意志力は、峰津院大和とは強者である事を如実に教えていた。

「誰が、何を保証するだと? 耳を疑って、聞いてなかった」

「テメェだって楽に、確実に、聖杯戦争って奴を勝ち進みてぇだろうが? 強者って言うのはな、何時の時代も、反発しあってるようで手を組んでる事があるもんだ」

 これはある意味で事実だった。
あれだけ反目しあっているように見えたカイドウとビッグマムも、手を取り合ってワの国で戦っていたし、そもそもの話、
電伝虫で連絡を取り合える程度の仲は保たれていたのだ。本当に二人が仲が悪かったら、そもそもそのホットラインを断っていたであろう。
強者とは看板が大きい。その価値も比類ない。その掲げた看板が大きい者どうしが戦えば、それは最早戦争である。何も残らないどころか、勝者が何も得られない事もある。そんなリスクがあるから、強者と強者は牽制をしあうのだ。

 大和は、カイドウが聖杯戦争本開催以降に見て来た、どの参加者よりも、手を組むに値する人物だった。
霊地を確保していると言う事実が勿論大きいのだが、何よりも、この胆力が良い。正直な所、道化を気取る割には心に余裕のなかった、破戒僧崩れのあのアルターエゴよりも余程信頼出来るのだ。

「他所を当たれ」

 大和は素気無く、切り捨てた。

「騙す相手は選ぶのだな。後から貴様が私を出し抜こうとするなど、見抜けないとでも思ってるのか?」

 カイドウの性根は、略奪と暴虐である事を、大和は即座に見抜いている。
悪魔との交渉によって磨かれた、人を見る慧眼は、正しい形でカイドウの本性を見抜いている。この男とは、実力とかの面以上に、信頼と言う面で組むに値しない。

「だってさ、総督」

「……まぁ、解ってた返事だ、皮下」

 盃の酒を、其処でカイドウは一気に飲み干してから、立ち上がった。
――やはり、巨大い(デカい)。9mを越えて、10mはあろうかと言うその巨体は、カイドウ自身が発散させる抜山蓋世の気力もあいまって、
山脈が意思を以て立ち上がったようにしか見えなかった。直立するだけで、この威圧よ。

「大和、って名前なんだよな。こいつァ」

「そ、峰津院家の現当主、峰津院大和さ」

 と言う皮下の返事を受けて、カイドウは、クツクツと忍び笑いを浮かべる。
それは、勘当して家出してしまった、馬鹿息子の事でも思い出すような顔で――。

「大和……ヤマトか。その名前との縁はつくづく腐ってるな、おれは」

 カイドウは、己が保有する宝具・鬼ヶ島の中に於いて、唯一再現されていないドラ息子の名前を口にしながら、ゆっくりと。
眼下の大和を見下ろしながら、威圧も露わな語調で、判決を告げるように言った。

「おれが、『どうだ?』って持ちかけたら、此処では首を縦に振るしかねェんだよ。小僧」

「残念だが、私が否と言えば覆りようがなく否なのだ」

「ムハハハハハ!! この鬼ヶ島で、能力者でもねぇのに此処まで意地を張り通せるなんて、良い度胸だ!!」

 そう言って高らかに笑うのは、キングの近くで佇んでいた、6m長の背丈を持った男だった。
ジャックやキングと違い、この男の場合は鍛えている様子が見られない、肥満体のような男だ。
サングラスを掛け、葉巻を加えるその様子はまるで、カートゥーンの中に登場するコミカルなギャグキャラクターだが、実態は違う。
疫災の名を冠するこの大男は、クイーンと呼ばれる百獣海賊団の大看板。幾人もの海賊や民草を、自らの非道な人体実験で弄んだ、非道の中の非道、悪魔の名が最も相応しい人物だった。

「なあ船長、コイツの身柄は俺に任せてくれないか? 頑丈そうなデクは何体いたって良いからな!!」

「ウォロロロロ……クイーン。お前に預けるのが一番良いが、この小僧の魔力は中々優れてる。鬼ヶ島の顕現の為に、コイツの魔力を上手く搾れるような実験を考えておけ」

「マスター、サーヴァント。共に、話し合いが決裂してしまったな」

 他人事のように、大和は口にする。

「今更、後悔したって遅いんだぜ、坊主。テメェの立場って奴を、よく認識しておくべきだったな!!」

 と、口にするクイーンに対し、不敵な笑みを浮かべながら、大和は言った。

「そこの皮下と言う男については論外だが、サーヴァントならば利用価値があるやもと、一応は考えていた。だが話してみれば、骨の髄までの略奪者と来た。これでは骨折り損だな。顔を見た瞬間、そこのマスターを殺しておくべきだった」

「こっわ……そんな事思ってたのかよアンタ。……って言うのも、もう強がりだよなアンタの場合。サーヴァント、鬼ヶ島にいねーもんな」

 鬼ヶ島は、皮下医院の地下室に展開されている空間、と言う訳じゃない。
皮下医院の遥か地下。下水道や地下鉄が通っている場所よりも更に地下の空間、その場所に展開された異なる時空であり、そもそもの話
界聖杯内の東京には存在しない。別の空間を隔てた、異なる次元に隠されているのだ。カイドウの話によれば、大和の引き当てたサーヴァントは、未だに皮下医院にいると言う。
要するに、取り残されている形である。時空を越える手段がなければ、能動的に、この鬼ヶ島にはやって来れない。そしてそんなサーヴァントは、いるものじゃない。
普通は、この時点で、チェックメイトなのだ。

 ――――――峰津院大和の引いたサーヴァントが普通留まりのサーヴァントであったのなら。

「……もう良い。来ても構わんぞ、ランサー」

 そうと、大和が告げた瞬間、彼から二百m程離れた背後の襖、その奥から、凄まじいまでの悲鳴と絶叫が鳴り響いた。
それに対して何かと反応し、大看板及びカイドウが構えたその瞬間、襖が千々に切り刻まれ、無数の破片になって破壊された。

「馬鹿め。あんな寂れた施設など、余の一撃で破壊していれば良かったものを」

 襖の先に広がっていたのは、血の海。内臓の山。死体の、河。
ある者は車にはねられた様に身体がぐちゃぐちゃになっていて、ある者は無数に身体を分割され、またある者は首を刎ねられて……。
多種多様な死に方をしているウェイターズやプレジャーズ、ギフターズの死体の最中で、大和の引き当てたランサー、黒衣の偉丈夫ベルゼバブは、鋭い目線をカイドウらに投げ掛けていた。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆


「下らぬ雑兵共を、せせこましく準備する手合いか。さぞ退屈な相手だと思っていたが、予想が外れたな」

 凝った作戦ではなかった。
皮下とカイドウの主従は、目下大和らが追跡中の、蜘蛛とは関係がない事は、事前の調査で分かっていたのだ。
財閥関係者に何らかの形で接触して来た者の素性には、皮下医院の入院歴も、親しい縁者を調べてみても彼らと接点がある者も。いなかったからだ。
大和の部下に危害を加えたのは、確かに怒りはあるが、相手の性格次第では、利用してやっても良いと。大和は判断していたのだ。
もしも、交渉が決裂したら、殺して良い。大和はそんな提案を、ベルゼバブに持ち掛けていたのだ。

 そして結果として、マスターもサーヴァントも、利用に耐えない。組むには危険性が高すぎる。そうと大和は判断。
そうして、皮下医院で霊体化して退屈していたベルゼバブに、告げた。来い、と。それを受けた瞬間、ベルゼバブは空間を引き裂き、大和らがいる座標を特定。
其処目掛けて瞬時に転移。転移先はウェイターズやプレジャーズ達の詰め所の一つで、鈍った身体を動かす為、手始めに彼らを虐殺。
また彼らの魂を喰らう事で、魔力も余剰に喰らい、運動を終え――そうして、今に至る訳であった。

「混ざっているな、貴様」

 大和達の方に歩み寄りながら、ベルゼバブは言った。ドラフのオスに、似ている。カイドウを見て率直に思った事がそれであった。
ただ、屈強な体格で知られるドラフが、痩せた子供にしか見えない程、カイドウの方が巨大だ。それこそ、比較する方が酷な程に。

 カイドウ、キング、クイーンにジャック。自らも星晶獣のコアを取り込んでいる人物であるから、ベルゼバブには解る。
彼らは混ざっている。元は人間……にしては少々サイズが規格外だが、それでも、確かに生物学上は人間だったのだろう。
それに、何らかの獣の因子が、極めて無理のない、調和の取れた形で混ざっている。そして、三人ともその獣の因子と、元来の人間の因子を、高いレベルで磨いていた。
とは言え、ベルゼバブにしてみれば、カイドウ以外の三人は、取るに足らない小物。羽虫も同然である。事実上、ベルゼバブの脅威足り得るのは、カイドウただ一人だけ。ベルゼバブは、冷静に戦況を分析していた。

「成程な、この小僧が自信満面なわけだ」

 カイドウもまた、目の前に現れた黒衣の男の戦力を、冷静に判断していた。
見た目は、ハッキリ言って、一般人としては兎も角、自分達と比較した場合何と小さくて貧相なんだと思った。
背丈に至っては、百獣海賊団の幹部の中でも小柄な、うるティと殆ど大差がないではないか。

 だが、実態は全く異なる。
カイドウと、大看板三人は、見聞式の覇気と呼ばれる、探知・調査の為の力を自在に操れる。これを以て、ベルゼバブの戦力をこうと判断した。『別格』と。
最低でもベルゼバブの力は、四皇並か、それ以上に匹敵する怪物だ。百獣海賊団の中に於いて、明白に、ベルゼバブと渡り合えるのは、カイドウただ一人だけ。
大看板レベルではよくて足止め、それ以下の場合では、肉の盾にもならない。それが、この場にいる4体の大御所の判断だ。

 皮下が、此方に念話でステータスを告げてくる。弱い要素が何処にもない。
嘗て、カイドウと対峙したあらゆるマスターは、彼のステータスを目視して絶句していたが、今度は同じような事をする番になるとは、思ってもみなかった。
ジャックとクイーンの額に、冷や汗が伝い始める。こんな怪物が、この世界で息を潜めていたなんて。
その思いはカイドウも同じだ。これだけの怪物、これだけの気性。抑え込むだけでも、骨が折れよう。労力も並大抵のものではない筈。
この狭い世界に君臨する怪獣、これを、今まで目立たせる事無く操っていた、峰津院大和の技量の卓越さに、カイドウも皮下も唸った。間違いも疑いもなく、この主従は、最強の一角だ。

「どうした。私にしたような協力の申し出を、ランサーにもして良いのだぞ」

「ふざけるな馬鹿野郎。こんな野郎おれだっていらねぇ。熨斗付けて返してやる」 

 カイドウはここに至るまで、数々の主従を引き抜こうとし、そして時には、向こうの方から同盟の提案を持ちかけられた事もあった。
彼が同盟を組む上での判断基準としているのは、その人物が『人の下で働いていた』かどうかだ。
アウトローらしくない考え方であるが、これは当たり前の基準であった。海賊も組織であり、況して百獣海賊団は何千名もの構成員からなる大海賊団である。
強い者が上を喰らえる、自由過ぎる気風がウリであったとは言え、最低限の法とルールは存在する。船長の命令を守れぬ輩は、いらないのだ。
カイドウ自身も、そして、あの自由かつ傍若無人を地で行くシャーロット・リンリンですら。
遥か昔、今の百獣海賊団よりも無法を極める海賊団だったとは言え、元は同じロックスの御旗の下で働き、あの船長の命令に従って動いていた時期があった。
つまりは、今は四皇と呼ばれる、海賊の頂点を極めたこの二名ですらが、昔の話とは言え、人の下で汗を流していた時期があったのは、間違いのない事実なのである。

 ――一目で分かった。ベルゼバブは、誰かの下で働いた事がない。それどころか、人に頭を下げた事すら、ないだろうと言う確信があった。
生まれた時から頂点、それ以外は全て格下。釈迦は生誕したその折より、天上天下唯我独尊を口にしたそうだが、このベルゼバブは、まさにそれを地で行くメンタリズムだ。
こんな輩、部下にしてくれと言って来ても願い下げである。強さ以外の要点が、落第を極むる男だ。もう、この男とは、どちらかがくたばるまで、殺し合うしかないのだ。

「皮下、此処を出ろ」

「ですよねー、俺もそう思ってた」

 カイドウは、鬼ヶ島が半壊程度に留められれば、安いものだとすら思っていた。
目の前のランサーは殺す。殺すが、この鬼ヶ島が無事で済むとは思ってない。どころか、最悪の場合宝具の一つが完膚なきまでに潰される懸念すら抱いていた。
直近で、機械の女のサーヴァントを自軍に引き込む事は出来たが、アレにしたとて叛意が隠せていなかった。期待は出来ないどころか最悪牙を剥く可能性すらあった。

 此処が、峠だ。そうと、思う事にした。

 皮下の背後の何もない空間に、ぽっかりと、黒い穴のような物が生じ始める。
その黒い穴は直ぐに、皮下医院の内部へと繋がり、ある種のポータルとなった。其処に目掛けて皮下が身を投げたその瞬間、ベルゼバブが動いた。

「あの羽虫を追って殺せ。余が此処を始末する」

 そう言ってベルゼバブが念じた瞬間、大和の前方の、何もない空間に亀裂が生じ始め、其処から空間が、宴会場の風景の一部を移したまま、
無数の剥片となって砕け散り、穴が生じた。その風景が何かを映すよりも早く、大和は其処に身を投げたのである。

 皮下が身を投げた、その3秒後程に大和が消え。
カイドウとベルゼバブが生じさせた空間の穴が、凄い速度で閉じて修復を初め、遂には、何事もなかったように元通りになる。

 こうして、この場には、怪物のみが残る形となった。

「図体だけは立派な見掛け倒し共を、よくも集めた物だ」

「テメェ……!!」

 激情したのは、ジャックの方だった。
ミシリ、と彼の筋肉が膨張によって軋む音が聞こえて来た。
空間が質量を伴い、重厚な殺意が発散される。血走ったジャックの目線には、強烈な殺気がこれ以上となく内在されており、木の板ですら貫いて穴をあけられてしまいそうな、恐ろしい凄味で溢れていた。

「失せろ」

 その一言と同時に、ジャックの身体が、丸めたボール紙でも放り投げるような容易さで、吹っ飛んだ。
襖を突き破り、その向こうにいた雑兵達が、この世の終わりのような騒ぎを上げ始めた。「ジャックさんだ!!」「血を流してる!!」「信じられない!!」
その攻撃の正体を、キングも、クイーンも。掴む事が出来なかった。カイドウだけが、体重にして500㎏を越える大質量の大男を、時速二百㎞のスピードで吹っ飛ばした攻撃の正体を認識していた。

 所謂、遠当てだ。離れた相手に、パンチやキックなどの衝撃を届ける技術。
サーヴァントであれば、これの実行は容易い。魔力を媒介にして、相手に衝撃を届けるだけなのだから。
だが、ジャック程の存在を、此処まで一方的に吹っ飛ばす攻撃となると、その練度には唸る他ない。

「おれに用があるんだろう、兄ちゃん。良いぜ、遊んでやる」

 ゆっくりと、カイドウはベルゼバブの方へと歩いてゆき、その最中に、背負っていた物を取り出した。
鬼が持つ物は、相場が決まっている。棘の付いた金棒だが……カイドウの握るそれは、最早棒と言う次元を飛び越えて、巨大な鉄の柱だ。
長さにして6mを容易く超え、しかもびっしりと、鬼の金棒にはつきものだろう? と言うように、棘がビッシリと付随されていた。
八斎戒。それが得物の名前であり、宝具ではないが、カイドウの膂力と合わさる事で、その宝具をも粉砕してしまう暴威の具象そのものだった。

「手ェ出すなよ、キング。クイーン」

 そう言う頃には、ベルゼバブもカイドウも、間合いだった。
加速度的に、二人の質量が増して行く。勿論、実際の重さが増えた訳ではない。増えて行くのは、存在としての重さ。威圧の、重さだった。
殺意は極限を越えた先に到達し、最早二人が佇むその地点は、完全な別世界そのもの。常人が入ればそれだけで気絶は免れず、
彼らの頭上を小鳥が飛んで横切ろうものなら、気迫に呑まれてその瞬間地面に墜落し、気死してしまうだろう。それ程までの覇気が、両名を取り囲む嵐となっているのだ。

 これ以上の、ステージがあるのか?
誰もがそう思う程、まだ、重みが増して行く。これ以上進めば、二人は、この世に在りながらにして、この世のものとは思えない何かに――。
この世の一切の法則を受け付けぬ、特異点になってしまうのではないのか。そうと思ったその瞬間、動いた者がいた。ベルゼバブ――カイドウ。同時。

 右手に握った金棒を、思いっきり横なぎにスウィングするカイドウ。
大ぶりな動作であるのに、恐ろしく早い。『雷鳴八卦』の名に違わぬ、稲妻のような速度の一振りを、ベルゼバブは、右足の回し蹴りで迎撃した。

 ――誰もが、核爆発でも起きたのでは、と思う程の爆音を聞いた。
衝撃波と突風が、比喩を抜きに真実応接間を駆け抜ける。宴会場中の畳が空中に舞い上がり、撓み、曲げきれる限界を超えたのか、メキメキと音を立てて破断して行く。
クイーンとキング、大看板二名レベルですらが、衝撃波の強さに耐え切れず、十何mも吹き飛ばされた。
至近距離にいた彼らは、実力の故にこれで済んだが、彼らよりも更に遠くにあった襖は、衝撃波の影響で全て吹っ飛んだばかりか、
その先にいた飛び六胞や真打、それ以下の面々に至っては、衝撃波に耐えられず思いっきり、風に舞う木の葉のように吹っ飛んだ。

「こ、攻撃の衝突でこれかよ……!!」

 クイーンのボヤキに対して、誰もがそう思った事であろう。
だが、真に目をむいたのは、舞っていた畳が落下し始めた時だった。皆、「あっ」と声を上げた。
カイドウが、仰向けに倒れていた。誰もが、信じられない物を見るような目で、彼の様子を見ていた。
あの男が、倒された。カイドウの頑丈さは、百獣海賊団に所属している面々なら誰もが知っている。一万mも上空から落下してなお、流石に少し痛い、で済ませた男が。
金棒を用いてのスウィング、その衝突で、体勢を崩してしまった。疑いようもない、異常事態だった。

「……血を流す事は、あったけどよ。此処まで明白に倒されたのは、お前が始めてだぜ」

 直ぐにカイドウは立ち上がり、あらぬ方向に目線を向けた。ベルゼバブが、カイドウの近くにいない。
黒衣のランサーは、よく見れば、いた。カイドウから二百と七十m程左の床に、片膝をついているではないか。
よく見ると、剥き出しになった畳の下の板張りが、燃え上がっていた。それが、ベルゼバブがカイドウの雷鳴八卦を迎撃した時の威力を殺しきれず、吹っ飛ばされ、
この勢いを殺す為に両足で思いっきり地面と接触。その摩擦を以て急ブレーキを掛けた跡だと、知る者はカイドウ以外に誰も居なかった。

「つっても……。如何やらお前も、『血を流すのは今が初めてだった』ようだな」

 ゆっくりと立ち上がったベルゼバブ。カイドウの、言う通りだった。
ベルゼバブの足首を、赤い液体が伝っていた。ベルゼバブは、この聖杯戦争に召喚され、初めて、血を流したのだった。

「此処は……地下だったな。丁度良い、墓穴を掘る手間は……ないようだ」

 其処まで言った瞬間、ベルゼバブが纏っていた黒衣のローブが、消滅。
ローブの下の筋骨たくましい姿を強調した、動きやすい服装が露わになる。その――瞋恚に燃える瞳が特徴的な、美貌もまた。

「――貴様と、その郎党全てを殺戮し、この場を貴様ら羽虫共のカタコンベにでもして呉れるッ!!」

 鬼ヶ島にとって、最も長い一日が、カイドウから放出された覇王色の覇気と、ベルゼバブの両肩から展開された鋼の翼を以て、幕を開けたのだった。


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最終更新:2021年11月10日 23:36