対象Nとそのライダー、Hと対面する約束を先送りにしたことに、未練はある。
七草にちかの面談においてフォローは任せたと頼まれながら『急用ができて立ち会えません』という追伸を送ることに、不誠実だと気が咎めなかったわけでもない。
もっと言えば、己のマスターとの顔合わせだって先延ばしにしている。
心が追い詰められている時に、寄り添う人がいてくれることがどれほど大事なのか、『ウィリアム』という一人の人間は誰よりも知っているにも関わらず。

――それでも、『お願いします』が効くようになっただけ、ありがたいと言うべきか。

己でなければできない采配(ワン・オペレーション)で多くが回っていた頃に比べれば、ではあるが。
『会談そのものの趨勢は彼らに委ねる』という判断が効くようになったのは、直近の出来事の中でも数少ないプラスだった。
最初の同盟者であるアーチャーが『七草にちか(283プロ非所属)』の精神安定に寄与していることは言うまでもなく。
いざ会話する時間を設けてみて、Hの英雄としての指向性には察しがついた。
きっとHの得意分野は、相談役(コンサルタント)とも探偵(ディティクティブ)とも異なる。
おそらく解決屋(クローザー)とでも称するのが、もっとも正しい肩書だ。
仲裁し、取りまとめる事。相手の立場を慮った言動をすること。
二度の通話において、それができる人物だとの信用はある。
彼ならば、七草家での会談の立ち合いを任せても問題はない。
駒として使うという風に言ったばかりなのに、早くも『任せる』という頼り方を、それも暗黙で押し付けている矛盾に、いったんは目をつぶらせて欲しい。

新宿事変に巻き込まれていた櫻木真乃との連絡がここにきて繋がったことは、それだけの緊急性と重要性があった。
それも、代理人による使いで済ませるわけにいかない三つの理由がある。

理由の一つ目は、言うまでもなくマスターにとって案ずるべき知己の一人であるということ。

二つ目は、プロデューサーが誘拐されたという第一報は、どんなに酷であっても早急に伝えなければいけないこと。
当然ながら、283プロダクションには『犯罪卿直通の連絡先』など存在しないし、存在すべきではない。
つまり、誘拐にともなって犯人側が通常取りえるであろう『脅迫文』に相当する連絡は、283プロ全体に伝わるような形で告知される可能性が高い。
であれば、誘拐について伏せていたところで、何の覚悟も無い寝耳に水のタイミングで、プロデューサーがマスターであること、手段を選ばない聖杯狙いに誘拐されたこと、そして場合によってはそのスタンスさえも知らされる事態が待ち受けていることになる。

そして三つ目が、最重要の理由。
もはや、『櫻木真乃がこっそりと接触している主従』について、看過できる時節ではなくなっている。
峰津院財閥。皮下勢力。割れた子ども達。
この三勢力が分かりやすい強者として盤面に影を現してきた。
今後の戦局で予想されるのは、『それ以外の主従』による、蹴落とし合いと同盟の併存する大物狩り。
誰が誰と繋がっているのか、裏返しになっている伏せ札はもう引っくり返して関係を検めなければならない時が来ている。
その上で、櫻木真乃と繋がったマスターの『先』にいる存在は、おそらく無視できるほど小さくない。

――悪意ある主従から『糸』を付けられている可能性。消極的な聖杯狙いの主従と接点を持ってしまい、打ち明けられないでいる可能性。

田中摩美々には両方の可能性を伝えたが、実のところ謎のマスター候補を全く絞れていないというほどではなかった。
犯罪卿は、ここ一か月において283プロダクションの黒幕であり、アイドル達に割り振る仕事をコンサルティングしていた立場でもあったからだ。
櫻木真乃は、今日の午前中に初めて共演するアイドルと対談をしていた』という情報も、そのスケジュールが決まった時点で仕入れている。
そして新宿事変後に正式発表された『合同ライブ開催中止』の通達と、それに対する関連情報として捕捉された『星野アイの元に選挙公報のキャンペーンガールとしてのオファーが来ている』という非公式情報。
仮に『星野アイがそうである』とした場合、彼女が更なる大物と繋がりを持っていることは、推測可能だった。

だが、それらの理由は、櫻木真乃とそのアーチャーが直面したそれ以外が、大事でないという事にはならない。
ふたりの少女から笑顔が砕かれたことは、決して小さくない。軽くない。

――櫻木真乃のことを案じていた風野灯織と八宮めぐるを殺してしまった?

――それこそ、『犯罪卿(オマエ)』がやるべき事だろうに、なぜ全て終わってから駆け付けている?

――お前が少女たちを殺していれば、少なくとも『櫻木真乃とアーチャーが犯罪卿を恨む』以上の業を、彼女らに負わせずに済んでいた。

そんな至らなさを、彼女らに見せて不安にさせることはできなかったが。

「たくさんのお話をありがとう。そして、私も己に刻みましょう。
本当なら、星野アイのライダーがそうだったように、危機に駆け付けなければいけなかった」

全てを聴き取り、二人が『そんなことありません』と否定するのを、その気持ちだけは受け取る。

――暗殺者(アサシン)として、貴女方の代わりに手を汚し、血を浴びなければいけなかった。

続く言葉は封じ込めて、苦悩の顔として表に出てこないように、念入りに錠をかける。
『貴方達の代わりにNPC殺しができなくてごめんなさい』などと告げられても、優しい少女二人は嬉しくも何ともないだろう。
しかし、送り出した少女たち二人が傷だらけになって戻ってきたという事実は、大人として、サーヴァントとして、許されないに決まっていた。
彼女達もまた己の意思と目的を持ったマスターとサーヴァントであり、匿うのではなく自由にやらせたのは正しい形なのだろう。
その一連すべてを己の責任として肩代わりしきるのは、傲慢でしかないことも理解している。
それでも、風野灯織と八宮めぐるを、無辜のNPC達を絶命させる役目が必要だったのなら、その悪行については己が引き受けるべきだった。
こればかりは、二人の治癒が叶わない以上はどう足掻いても無力だったとか、万事を尽くしていれば間に合ったか間に合わなかったかという問題でさえない。
少なくとも。
罪を重ねたくないと願う少女たちが、己の意思でないまま手を緋色に染めることだけは。
返り血で汚れきってしまった者として、防がなければいけなかった――


――それは自罰的過ぎるってもんだろ。あのな、ああいう輩が湧いてくるのはいつだって突然なんだ。


風に優しく、ふわりと撫でられたような言葉だった。
先ほど聞かされたばかりの言葉が、現在に追いついて心の荷物を軽くする。
放置している相手に、勝手に助けられていては世話がないなと、苦笑をごまかすために少女たちの元から立ち上がった。

彼の言葉に、『探偵』を重ねているせいだけではない魅力があることには、気付いていた。
おそらく、高ランクの話術スキル。催眠や洗脳で支配するでなく、ただ『耳を傾け』させるようなもの。
それも、会話時間と効能が比例するのだろう。
なぜなら一回目の会話より二回目の方が、なかなか悪い気がしない。

「では、さっそく星野さんの連絡先を使わせていただきましょう」
「えっ……私たち、もう話せそうにないぐらいの、別れ方をしちゃったんですけど」
星野アイが他の主従と繋がっている裏は取れています。仲直りではなく、そのつながりの確認と、情勢把握のためのお話を少々」
「え、私達と別れたばっかりなのに、もう他の人達と!?」

おそらく繋がったのはあなた達と電話するより以前ですよ、と言われても急展開過ぎることだろうけれど。

これで『糸口』は手に入れた。
櫻木真乃とアーチャーが『すでに星野アイ以外にも繋がっている主従が多数いる』という秘密を守ってくれたおかげ。
悔いるだけなら、全ての策が潰えた後でもできる。
いま折れたところで、夜明けを迎えられはしない。
マスター達を待たせている分、憎まれ役になり損ねた分まで働く。
これを元手に仕掛けないと、遠からず≪詰み(チェックメイト)≫に持ち込まれる。

計画更新。誤差調整。
失地回復を始める。

人目、カメラのレンズ、形のある人工物、想定済(オールクリア)。
対聖杯戦争用・新規獲得反復動作(ルーティン)開始。
両手の五本指を、彼がそうしていたように口元で指の腹同士を合わせる。
少しの時間だけ、そうする。
彼がサーヴァントだったならば伴ったであろう、何らのエンチャントもありはしないと分かっている、子どものまじないのようなルーティン。
ただ、勇気が欲しかっただけ。
彼から名前を呼ばれたことを、思い出したかっただけ。
両手をほどくと、被災地で手に入れた多数の予備の携帯端末(遺品)の一つを手に取る。
それらはいずれも外国メーカー由来であり、販売時点での盗聴器内臓のリスクについては排除している。

さて。
再び腹を括ろう。
敵(ヴィラン)に対面しよう。
最悪の策(プラン)に、観念して乗っかろう。
己の命を賭け金に乗せるというずっと続けてきた営みを、吊り上げよう。

――一人であれこれ抱え込んで意味深に笑ったりするのはナシだ。せめて使う側として最低限の説明くらいはしてくれ

また、袖を引かれるようにその言葉を思い出した。
Hとの連絡に使っていた方の端末を先に取り出した。
メールを立ち上げ、思いついたことを試すために新規メールの画面をなぞり、第一宝具の限定展開・簡易計画書の開帳を思い描く。
ちなみに、これから通話をする行為自体が『遺失物横領およびその使用』という犯罪行為の括りに入る。
従来であれば、そこから生み出されるのは横書きの書面の形をとった『計画書』だ。
しかし宝具の性質上、『計画書』には『紙媒体でなければならない』という制約事項はないし、田中摩美々との作戦では口頭説明でも効果が確認されている。
試みの成功が確かめられたのは、真っ白い新規メールに本文がまるごと現れる一瞬だった。

櫻木真乃さんと話した結果、白瀬咲耶さんと神戸あさひさんの炎上を起こした扇動者の連絡先を掴みました。
 また、相手方にも櫻木真乃さんの連絡先を掴まれていると分かったため、猶予のない緊急対応としてこちらから扇動者に電話します≫

続いてつらつらと、その判断に踏み切った根拠が長文メールとして出来上がっている。
我ながら愛想も何もない文面であることは自覚している。
かといって、こういう書き方でもしないと、どうにもHには甘えの入った対応をしそうになってしまうから良くない。
ともあれ、『無茶なことを発言していないだろうな』と疑念の種にもならないよう、通話を録音する準備も万全。
一言でも発言ミスは許されない手合いであるため、むしろ『後々の公聴会不可避(これ)』ぐらい緊張感があった方がいい。



――なにせ死ぬかもしれません、私が。



なるべく軽く聞こえるよう、ウィリアム・ジェームズ・モリアーティは内心でうそぶいて発信した。



かくて、二人の犯罪紳士は対面しないままの邂逅を果たす。

絶対悪と必要悪。
青い蝶と赤い薔薇。
善殺しの為の悪と、悪殺しの為の悪。
魔弾(アーチャー)と緋色の手(アサシン)。
巨悪(モリアーティ)と、義賊(モリアーティ)。

「問おう。君は何者かね」

この地において、幾度となく交わしてきた問いかけ。
そして、互いの脳裏では、すでに応酬されていたかもしれない問いかけ。

『初めまして、連合の教授。私は櫻木真乃主従と同盟するアサシンのサーヴァント。そして、あなたのご想像通りの英霊です』

連合、という言葉を使ったからには敵連合の名乗りまでを認識しているのか。
否、『この通話相手ならば既に集団を作っているはず』という前提の鎌かけやもしれぬため、敢えて追求する意味はない。
そしておそらく若い蜘蛛だろうという輪郭は掴んでいたものの、『いや、予想以上に若いな!』という驚きがきた。
仮に『同じ物語』を出処とするのであれば、彼が数学教授の職を得たのは21歳の時になる。
声色から推定される年代は、教授職に就いてから何年も経過していない。おそらく田中一と同年代なのだろうと思わせた。
なぜか声質そのものも黄色人種であるはずの田中と酷似していた為に、年代が重ねやすかったのかもしれないが。

「そうか、おそらく私も、君が察している通りの英霊だ。聖杯を狙う者同士で連帯する連合の頭脳役。
アーチャーの座をいただいているが、ここでは『M』と名乗っているよ」

向こうがクラスを開示したからというわけではないが、ここでクラスを隠匿する必要はない。
モリアーティの魔弾は新宿聖杯戦争という特異なポイントで獲得したものであるが故に、真名からは辿れない。
むしろ相手もまた『その真名を持つ』と推定される以上、弓の宝具ならば『大佐』を伴っているのではないかというミスリードの種にもなる。

『奇遇ですね。私は『W』と名乗っています』

『奇遇』という単語に宿る、やや強い響き。
拒否感はあったのかもしれないが、牙を剥いてくるというほどではない。あるいは牙を隠そうとしている。
『W』とはこちらが『M』を用いることを想定しての対抗心なのか、あるいは彼だけの由来があるのかまでは定かではない。
だが、第一声から終始、にこやかな挨拶を、穏やかな受け答えを、通話口の向こうで微笑みさえ浮かべていそうな表敬を崩さない。
白瀬咲耶の炎上から始まった騒動が己の陣営に何をもたらしたのかを、承知の上で。
それでいい、それでこそとMは頷いた。
もしも敵視しているからだとか、所属陣営が不利にあるからといった理由で、自分を大きく見せようとする程度の輩であれば、即座に減点をつけていたところだ。
互いの間にすでに敵対関係を持った上で、殺意を隠した紳士の仮面をつけているという事実と、その名乗りによって彼を知ることができる。
何より、『M』をして教授という呼び名を断定したことが根拠だ。
彼もまた、『モリアーティ』を戴く英霊だ。

「ではW君。話をすることはやぶさかでないが、まずは聞こうか。
なぜ、星野アイ櫻木真乃の接点ひとつから私の存在にたどり着いた?」

通話が繋がったことはまずくはない。
そもそも、こちらから通話を持ちかけようとしていたことは事実だ。
まずは星野アイから頂戴した櫻木真乃の携帯電話へと発信。
283プロダクションを動かしている黒幕のサーヴァントを通話に出すよう要求する。
たとえその会話で仲間は売れないと強情になったところで、星野アイの話ではかなり憔悴しているとのことだったし、『向こうも対話は望んでいるはずであり、必要なら先方に連絡して確認を取ってもらってもいい』とレスポンスを促せば話は通る。
向こうとて、この状況下で『蜘蛛』からの直接的なアプローチを無視することはできない。
その場合は櫻木真乃に対してついでに『後々にこちらの思い通りに動く布石』を打ち込んでいたことも間違いないが。

だが、先んじてかかってくるとは思っていなかった、という所見が正確だ。
新宿の壊滅および情報網の混乱は、283プロダクションのアイドル達という移動する座標を抱えている上に、デトラネットのような大企業の支援はないWの陣営にとって、敵連合以上のダメージがあったはず。
加えて、当該事務所が依然としてグラス・チルドレン他、複数主従の標的にされている事実は動かないことも読めている。
この状況で『生存が確認されたばかりの櫻木真乃に絡みついた糸をたぐり寄せること』を行動の最優先に置くものではない。
それは、『櫻木真乃の周囲にいる何者か』とモリアーティ陣営の繋がりを確信していなければ選べないアクションだ。
星野アイからそのような糸を手繰られないために、キュリオスによって世間から身を隠しても疑われないような筋書きが既に流されている。
彼らの働きぶりにいささかの綻びもなかったことは事実だ。

『大きな根拠は二つ。
苺プロダクションは実質的に夫婦経営の小規模事務所であり、社長夫妻に子どもはいない。
そして、星野アイが選挙公報の仕事のオファーを得たという情報が、今晩の時点で流れていることでした』

これが推理小説であれば、凡人の脇役が『それはどういう意味だ』と問いただすような解法だろう。
星野アイの人間関係の特定とまったく別の話題である上に、二点の間にさえもまるで脈絡が見えないのだから。
だが、この両者の間でそれらのやり取りは不要となる。

「なるほど。星野アイには隠し子がいる、それを前提として推理したというわけだネ」
『合同ライブ中止の布告があったおかげで、苺プロ絡みの関連ニュースに不自由しなかったのは幸いでした』
「名犯罪者は名探偵に成り得るとは私の持論だが、なかなかに味な真似だネ」
『その様子だと、そちらも彼女の『動機』にはすでにたどり着かれていましたか』

まず、星野アイは『隠し子を持つ母親』である。
これが全ての前提であり、そもそも初めにモリアーティが禪院に与えた芸能関係者リストの中に、彼女を含めた理由。

「たしかに私も、彼女をこちらに招聘する前からマスター候補だと疑っていた。
情報収集によって組み立てられた輪郭(プロファイル)と、彼女の設定(ロール)がどうにも噛み合わなかったからね。
この際、ひとつずつ印象をあげていこうかな?」

通話器ごしに、互いの目利きを並べようと誘いをかける。
星野アイ当人には、わざわざ手口を漏洩することはないと見なして深くは語らなかった、その人物評を晒していく。

「五感が鋭敏」
『歩き方が大股』
「教育レベル低め」
『無頓着さと過度な執着』
「破天荒な行動に対し完璧主義者」
『愛情の抱き方に何かしらのバイアスあり』
「秘密主義と暴露欲求……無意識もあるのだろう、手の包帯などもそれだろうネ。コスメティックに精通した職業柄、他に幾らでも令呪の隠し方はある」
『金銭感覚が節制傾向……あの年齢で将来のための貯蓄を視野に入れた感覚を持っている』
「この世界での『経歴』を見る限り、15歳あたりから破滅的行動に改善が見られる……少女にとって最も有り得そうなものは、良い出会いだろうネ」

そして、その直後に病気療養と称して約一年の長期休暇に入っている。

もちろん、この『一年の休暇』はあくまで界聖杯に付与された設定(ロール)だ。
だが、設定(ロール)として与えられた経歴、人間関係は、おおむね『再現元の世界のそれ』に準拠する。
例えば、283プロダクションの人員とユニットの編成であったり。
例えば、Mが予選期間に利用、蹴落としを行ったマスター達の周辺関係であったり。
死柄木弔の世界では誰もが有していた『個性』の欠落や、七草にちか達の経歴などの、NPCが影響を持ちすぎないよう、マスター達の存在を割り込ませるようにとの空白、改変がままあったことも事実ではあったが。
それらの『モデルとなったであろう世界との違い』に一か月の観察期間、本戦一日目の様々な出会いを経て慣れてきたモリアーティ達は、わざわざ『星野アイの数年前の経歴』に改変を加える意味はなく、再現元の世界そのままなのだろうと推定する。
彼女は、数年前に意味深な長期休暇で世間の目から隠れていたアイドルだと。

『何より肝心な点がひとつ。思春期の段階で性交渉があった者特有のバランスの悪さ』
「……いや、君、そういう眼で283のアイドルも見てたの? 君のプロファイリングこそ修正が必要だった?」
『貴方もそこで純情ぶる歳ではないでしょうに。お互いに世間の暗部は見慣れているはず』

暗に『往年のロンドンはそういう処だったはずだ』と示唆しいてる。
当時のイーストエンドで春を売っていた女性たちの人数は『かなり階級の低い』者だけでもおよそ1200人。
その中には無論、十代で稼ぎに出た少女もいれば四十代の壮年女性もいた。

「16歳で出産したなら、現在は4歳児程度。若い母親で、まして彼女の性格であれば別居は辛かろう」
『苺プロダクションの社長は星野アイの後見人を兼ねている。子どもを隠すなら、社長夫妻の子どもという扱いにするのが最も穏当』
「だが、社長夫妻に子どもはいない。故に星野アイの所感は『噛み合っていない』となる」

ともあれ、これらの推理は今日を迎えるまでの時点では『あるいはマスターなのかもしれない』という程度のもの。
櫻木真乃と対談の仕事をした後でさえも、『彼女こそが櫻木真乃の秘している主従である』と断定に足りるものではなかった。

『この推測のみの時点では『他の居所に子どもを預けている』設定のNPCという可能性もありました』
「そこに『アイドルの政治活動参加』と受け取られかねない情報がリークされた。
政治がらみのネタは、どうしたって家族の思想、出自を追求されるからね。隠し子を育児するアイドルが引き受けるには、確かにリスキーだ」

キュリオスは当然に星野アイに隠し子がいる前提での仕事などしていない為、それについて彼女の落ち度だとは言えない。

『加えて、その情報がリークされた時点では、まだ新宿事変が起こっていないことが決定的でした。
ライブによって大勢のファンの前に姿を現すことになる、その前日です。デリケートな分野の仕事を受けたという先行情報が流れるのはタイミングとしておかしい』
「アチャー。早急な繋がりの隠蔽を促したことが裏目に出たか。とはいえ、痕跡の抹消は早ければ早いほどいいから、このあたりは難しいところだネ」
『仮にこのニュースがカモフラージュで流されたのだとすれば、星野アイはメディアを操作できる立場にある主従に囲われた、と見ました。
それも、よほどの大組織を構えた黒幕、なおかつ隠蔽せずとも堂々と引き込みができる峰津院以外の者だというのは疑いない』

これによって証明終了。
仮に星野アイが『櫻木真乃と接触したマスター』であった場合、その背後には既に『蜘蛛』がいる。
少なくとも、そのような隠蔽工作が自然かつ鮮やかであればあるほど、真っ先に候補としてあがる存在はそれになる。
それを以ってWは先んじて接触する選択をした。
星野アイ経由で『蜘蛛』が櫻木真乃の連絡先を握ることになれば、彼女を先んじて接触させるのは相手が悪すぎるとも読んで。

「よく分かった。君と人間観察の手法について議論するのも面白そうではあるが、そろそろ要件に入るとしようか」
『はい、情報交換の申し出とこれからの話を……と言いたいところですが、その前に互いの最終目的だけでも確認しておきませんか?
互いにこれだろうと決めつけたままでは、要らぬ誤解があるかもしれない』
「よかろう。では同時に言おうか」

要約。殴っても後腐れはないかどうか改めて確認させろ。
そして、この問いには沈黙する意味も偽る意味も無い。
こちらとて最終目的を偽るようであれば、そもそも『敵(ヴィラン)』連合という名称は冠しないが故に。

『私の目的は、マスターのこれから先の人生』
「私の目的は、マスターの大願成就」
『おや、最低でも一国家の破滅、最大であれば全ての破壊をご所望だと伺っていました』
「おやおや、どこでそのような悪評を聴きこんできたのかね? 私は後進の育成に頭を悩ませるしがない老人だよ」
『己の死を理解したNPCが本意から傘下に入る為の動機となれば限られてきますので、悪い噂もたってしまうのでしょう。
己の死を度外視して尽くしたいほどの忠誠心か、NPCの皆さんもまた破滅そのものを目指しているのか、と』

どこでそのような悪評を、と言いつつも、Mが返した言葉はその実で謙遜ではない。
死柄木弔と同じ部屋にいる場で『破滅(カタストロフ)は望まない』とは言えないし、言わないものだが。
言外に告げた意味は別だ。
私のマスターは、私を超えていくほどの破壊者に育つだろう。

また、Wの方にせよ、ありもしない噂によってMの指向性を判断したわけではない。
1970年代にシャーロキアン兼SF作家だったアメリカ人の発表した短編小説では、ホームズの小説作品の限られた描写からモリアーティ教授の最終目的は地球の惑星破壊だと推理されており、現代でも既知の事実になったという。
彼はMのことをモリアーティだと確信するが故に、もし義賊ではないモリアーティがいるとすれば目的はこうだと推量したのだ。

『なるほど、マスターはよほどの大器のようだ』
「ここには競争相手も数多くいるからネ。将来が楽しみだよ。ところで、情報交換の申し出とは?」

自慢もそこそこに、本題を要求する。
わざわざ動転していたであろう櫻木真乃から連絡先を引き出してまで、一体なにを提示するつもりなのかと。
一拍が置かれた後、涼しくさりげない誘い声が社長室に届く。



『戦場の真ん中に放り込まれたくはありませんか?』



それは……という驚きの声が漏れかけた。
『相手の欲しい物を先に用意しているかどうか』は、交渉相手を推し量る際に極めて重要だ。
もしこれが『あなたはどうしてほしいですか』と聞いてくる手合いだったならば、『そちらが交渉を望んだのに、ろくな下調べもしていないのか』と軽視され、『つまり、ふっかけてもいいんだな』と搾り取られる末路まで見える。
もしも『こちらは全てを差し出す用意がありますから教えてください』を前提にする交渉人がいれば、ウルトラレアだと言わざるを得ない。
その観点で言えば、これは。
暴投にして直球。

「こちらが望むような戦場を用意できると?」
『どこを標的と定めて戦うのかにもよりますが』
「グラス・チルドレン(割れた子どもたち)を殲滅したい。それが我が主の選択だ」

ここで、今度は相手方が驚いたような間があった。

『不可能ではない。しかし……そちらのマスターは、白瀬咲耶さんから端を欲する騒動を詳しくご存知の上で?』
「いいや、星野アイ君が見聞きした程度のことしか伝わっていない」

つまり、日中に283プロ事務所においてグラス・チルドレン絡みの騒動が起こったことも知らないと暗に伝える。
最初から283の窮状を見越した上で、標的をそちらに定めたわけではない、と。

『貴方が一目おく理由のひとつは分かりました。あなたのマスターは、つまり賭博師(ギャンブラー)ですね』

賭博師(ギャンブラー)。
それは、最小のリスクで最大の利益を得ようと『見積もり』をする策謀家の発想とは、まさに真逆の者。
それも、己の破滅と、己以外の破滅を天秤に賭けて引っくり返そうとする大博打の挑戦者。
どこを狙えば二番煎じにならないか、どこを突けばまだ荒らされていない鉱脈を掘り当てられるかという『最大の見返りだけ』を判断基準に置く。
リスクについては考慮しない、できないし、そもそもリスクを恐れて歩みを止めるなら、オール・フォー・ワンの後継たる器には至れまい。
それは『数学者』『教師』『相談役』『頭脳役』であれば、よほどの窮地、一発逆転を企図しない限り至れない発想。
故にWは、初手でグラス・チルドレン殲滅を選択したことについて『それほどの賭けに対してMが後押しをしたがるほどの人物』だと判断したのだろう。
最も、そのギャンブラーには苦手とする勝ち筋、期待値計算とイカサマの仕込みを担当する指導役(サーヴァント)が付いているため、死角はないという自負がMにはある。

「そう言われると鼻が高いものだネ。
しかし、お互いに意外な思いをしたようだったが、もし私が『戦場なんてやーだー!』と答えればどうしていた?」
『その時は誘い方を変えました。しかし、マスターが将来有望だと聞いた時点で、この路線にしようかな、と。
貴方が好まれるということは、戦いを忌避する性格のマスターではない。なおかつ、貴方から策謀家としての教授までは受けている風ではない。
予選の間から意識していた『貴方の手並み』には、どうにも誰かとの合作という趣がありませんでしたので』

つまりMと共謀して裏方に回る策謀家ではないが、戦いに積極的な輩だと仮定して。
そろそろ戦場に立ちたいのではないか、という方向で問うことにした、と。

『ともあれ、標的がそこであったのは安心しました。
他の二勢力を狙うようであれば、かなり込み入った手順が必要になるところでしたので』
「二勢力とは?」
『新宿での事変を起こした二組ですよ。他に潜在する強者はいるかもしれないにせよ、あの事変が起こってしまった後では彼らを意識した上で動くことは避けられない』

つまり、現在の東京において全主従に対して『我は強者だ』と名乗りを上げる真似をした二組。
そこに既にして『強者(プロ)の集団組織』として成立している割れた子ども達を含めて、『君臨する三大勢力』とでも呼びならわしたいのはモリアーティとて同感だ。

「対グラス・チルドレンであれば自信を持って打ち出せる策があると?」
『我々が彼らとの間に確執を持っていることは、貴方なら察しているでしょう』

ちなみに、この会話で『実は皮下院長の方を追っていて……』などと虚偽を答えるメリットは皆無だ。
選択をしたのは死柄木だが、それを元に経路(チャート)を汲むのはモリアーティの仕事であり、ことによってはその『経路を部分的に明かす』ことさえも誘導の糸口となるため、まずはWの真意、申し出の詳細を問うことが優先される。
Wの側もそれは了解できることであり、両者の間に余計な疑念は発生しない。

「いよいよ決戦の時は近い、という事かネ。まずは君がどの程度その敵について知っているか、教えてもらおうかな?」
『その前に』

短く、前置きがあった。
その一言は、仕切り直しのように冷たく鋭いものへと変じていた。
天使にも似た悪魔ほど人を惑わす者はいないと。
そんな言葉で形容される舞台の役者が、役柄をがらりと悪魔に変えるように。

『あらかじめ言っておきますと』

その言葉に宿るものが何かを、M(ジェームズ・モリアーティ)はよく知っていた。
生前は常に顧客の傍らにあり、しばしば操ってきたものであるから。
緋色の殺意。

『この通話は私の独自判断で設けたものです。
そちらも人員配置などを考える時間は必要でしょうから、この場で全てを決めるつもりはありませんが。
もし我々のマスター達がどうしても飲めないと決断すれば、残念ながら話は打ち切らせていただきます』

私も貴方と同じようにマスターの意思を優先しますので、とさも軽く言いながら。
お前はいつか殺してやるという不退転の意志を隠さず、むしろ示すための言葉を吐いている。

『私は、あなたのしたこと全てを忘れない』

アイドルのマスター達が『対グラス・チルドレン』へと向くようになった状況の火付け役は、悪の味方をする扇動者が発端だった。
それが水に流され、許されることはない関係になるぞと、布告している。
それは、もしもマスターにとって酷な要求を持ち出すようなら話を打ち切る、という牽制のようであり。
しかし、その為だけに紳士の仮面を剥がして殺意を見せた意図を、Mは読もうとする。
そして、間もなく理解した。

「なるほど、つまり君はこう言いたいのだね?
『こちらが窮地だからと言って、足元を見られるつもりは無い』と」

Mからの接触を待たずに、先んじてアプローチを仕掛けたこと。
気配遮断を持ち得る暗殺者のクラスだと、まず名乗ったこと。
お互いに要望を満たすことができると、言い切ってみせたこと。
その上で、いつか殺してみせるだけの志があると表明したこと。
おそらく、全ての理由はその前提を作るためのものだった。

改めて説明するまでもなく、Wは新宿事変がらみでなにがしかの痛手をこうむり、283プロダクションは危機を脱していない。
その情勢下で、悪の組織の首領がアイドルのマスターと直通の連絡先を手に入れれば、どうなるか。
まずは、【君達の窮状は察している。ここはひとつ手を組もうじゃないか】と言うそれらしい申し出。
そして、【私達を嫌うのは構わないが、全てこちらの要求を呑まないと死ぬぞ。もっとも最終的には殺すぞ】と使い潰される隷属の成立。
むしろ、こちらから電話しようとしていた時点では実際にそうするつもりだった。
故に、利害が一致するならば話は聞くが、それが足元を見た対等でない支配関係なら、こちらにも覚悟があると示されている。

「しかし、私がこう言えばどうする? 私たちの助力を失えば、より追い詰められるのは君たちの方だと」

敵連合とて、課題(クエスト)には挑もうとしても、標的にそれらしい隙がないという攻めあぐねている状況。
283プロダクションの存在は、むしろ渡りに船であり、善なるアイドル達から断られれば有効打が一つ潰れる。
だが、それは相手にとっても同じであり、むしろ現在進行形で攻撃を受けている時点で、283プロダクションの方がより痛手が大きい。
一時的にでも味方にならないと分かれば、犯罪王は即座に283プロダクションを潰そうとする側に加勢するだろう。
拒絶する選択肢が無いのは、どう考えてもWの方だ。

それだけの含意をこめた言葉を、犯罪の王としての威圧を乗せて突きつけると、青年の答えは端的だった。
初めから台詞を用意していたかのように。

『【その姓】は悪役を任ずる。貴方も、こう言えば分かるはずだ』

己の真名であり、蜘蛛の真名である姓。
それを指しているのは、証明するまでもなく。

なるほど、君もまた理解しているのかと、悪の味方はその縁に妙味を感じる。
犯罪王が、死柄木弔に対して、その『切り札』を死ぬかもしれないとした根拠は幾つかある。
第一の死因。
それはどちらの英霊も『モリアーティ』だという確信を両者が有しているということ。
悪役としての『モリアーティ』は、己が滝壺に落とされるその間際に、探偵を起死回生で道連れにしようとした男だ。
でなければ、ホームズに武術の心得があると分かっていながら、その時点ですでに壮年期の終わりであったモリアーティが徒手空拳の喧嘩を売るだろうか。
実際には、物語のご都合設定でしかないのかもしれず、しかし本音では、悪役の意地があったのだろうと、虚構かもしれない記憶に対してつけた結論。
『モリアーティ』とは、たとえそれで追い詰められることになっても、お前を倒すための布石を打ってから死ぬ男だと。

「【やめろよ。誰かさん同士のあらそいはみにくいものだ】とでも返せばいいのかな。
例えば、もし私が取引を蹴った後に、君たちの囲い込みを加速させたらどうする?」
『こちらも敗北するつもりはない。しかし、仮に貴方の言うような敗北を迎えるとしたら、道連れにする為に、ありとあらゆる布石を打ってから倒れます』
「その布石が渡る先には、白瀬咲耶を直接的に殺害したマスターなどもいるのだよ?
マスターの生還を優先する君からしてみれば、自陣以外のどこが勝ったところで結果は同じだ。そんなことをする意味がない」

グラス・チルドレン。
櫻木真乃たちの心を砕けさせた皮下と峰津院。
Wにとっての憎むべき敵が東京には多すぎる以上、そんな言葉はどの陣営を相手にも口にできて、脅迫の実態など無いとMは説いた。
だが、Wはさらりと話題を変えた。

『日中、事務所を訪れたグラス・チルドレンのマスターには、随行していた少女がいました』
「…………」
『隙の無い身のこなし、リーダーとの距離感など明らかに右腕のそれでした』
「『大佐』に当たるというわけか」

『歩き方と立ち姿がバレエのそれでした。殺しの巧者(プロ)になった後も動きが沁みついているのだから、おそらく経歴は長い』
「極めようと思えばお金がかかるだろうネ。保護者が裕福だったことが推定される」
『殺し屋に転身してもフォームを崩していない時点で、愛着が弱いとは思えない。保護者には娘のやりたい事をやらせる親心があった』
「それが現在は非合法組織に身を置いている。とても両親が未だ健在だとは思えない」
『裕福で娘想いの保護者だったにも関わらず、先立った時に備えて何も残せなかった。つまり、両親の死亡と時期を同じくして財産も奪われている』
「ことによると真っ当な施設に入ることも叶わなかったのだろうネ。いやはや理不尽なことだ」
『右腕にまで登り詰めた少女がそうであること。【割れた】子どもだと名乗っていること。他の子ども達にもそのような過去があるとは察せます』
「社会に追い詰めらた子どもたちの寄り合い、というわけだネ。して、それがどう繋がる?」
『あなた達の集団にいるマスター、1人1人の願いについては分かりません。
しかし、貴方個人の願いと、彼らの頭目が聖杯にかける願いであれば、私はまだ、後者を優先する』

彼らはこれからも殺し続けるのだろうけど。
それでも『勝ち負け』ではなく『どちらの願いに叶ってほしいか』という話であれば。
Mに釘をさすための、ハッタリも半ば混じった言葉であるという、否定はしきれないにせよ。

――だって少なくとも彼らは、守るべきものがある限り世界全てを壊すことはしないでしょう?

どちらにも因縁と仇があり、排除すべき敵の一人と位置付けていることには変わりません、とWは誤解を正すように付け加えた。
その上で、仮にそちらの連合のせいで自陣の敗北が決まることがあれば。
負けるつもりはないが、もしMの言うような結果が起こったとすれば。
その時は、こちらを直接的に攻撃したグラス・チルドレン達の勝率を上げるかもしれないと承知の上で、Mの陣営が不利になるような暴れ方をする。
なぜならMとそのマスターが聖杯を獲った時の方が、より大きな悲しみが生まれて、たくさんの未来が失われそうだから。

なるほど合わないな、と犯罪王は犯罪革命家との違いを痛感する。
その上で、判断する。
ここまで主導権を渡さない姿勢を固められたならば、折れたほうが得策だと。

「仮に手を組むとしたら対等、了解した。改めて話を続けよう」

当初の気が合わないという直観は、正しかった。
なぜなら生前の己は、ここまで誰かに対して殺意をつのらせたことはなかった
人を殺す計画を練るときはいつも楽しく、充実していた。
たった一人だけ、例外はいたが。
ジェームズ・モリアーティがその生前に心からの殺意を持ったのは、『モリアーティ』ではなく『ホームズ』だった。


その男を『M』と呼ぶことに、思うところが全くないと言えば嘘ではあった。
兄弟と同じ二つ名で呼びたくはないからどうにかしろなどと、子どもじみた難癖を付けられる歳でもないが。

だが、そういった『同族嫌悪がある』だの『性質が受け付けない』だのという個人的な情動よりも、何よりも。
その男に表明すべき怒りは、既に多くを狩り取り、これからも総てを狩り取るであろうという一点に集約される。
例えば、櫻木真乃の現状。
新宿に闊歩していた『冷たい屍鬼』の情報。
それは状況だけ見れば、新宿事変の影で始まりそうで世間的には始まらなかったテロ未遂。
しかし、蜘蛛たちは『皮下病院では来院する患者を攫って≪研究≫に利用していた』という手ごたえを得ている。
その上で、『新宿事変の影で感染症テロをやらかそうとした新興勢力がいた』と考えるよりは。
あの暴発は、皮下院長の拠点が破壊された余波で逃げ出した『実験体』たちの成れの果てなのだろう。
そして、その上で283プロダクションのアイドル達だけが目撃させられたものがある。
風野灯織と八宮めぐるは、最初に『病気』を発症した人達の中にいたこと。
そして、既に別のアイドル達が『体の各所を変形させられる真っ黒人間』に攫われかけたという事実があること。
幽谷霧子に皮下病院の手の者が監視者をつけていた事実があること。
重ねれば、イルミネーションスターズのアイドル達を悲劇の渦中に投げ入れたのは誰なのかは仮説が成り立った。
これらは、前提として。
そうなったさらに遠因は、1人のアイドルの死が敵意の的として祀り上げられたことが発端だ。
そういった悪意の火付けは、醜聞によるものだけではない。
星野アイを怪しむに至った経緯について確認するだけでも、裏側で『怪しむべき芸能関係者のリストアップと情報提供』をもって他主従を暗躍させる企み事が、為されていただろうことは明白。

Hに対しても、『私はその輩を許しはしない』と言い切った当人が、会話の成立するところにいるという赫怒が、感情の多くを占めていた。
その怒りを抑えることを可能たらしめているのは、半生で培った牙を隠すための処世術だけではない。
会話によって得られる情報のすべてが『可能であれば敵に回すな』と訴えてくる、その男の傑出性によるものだった。

これなる者は、たしかに常世総ての悪を敷く者。
物語で描かれた姿をそのまま映した、虚構からの侵食。
例えば、こちらの発する推論を聞いて、感心した風に髭を擦るような挙動の音。
それに伴う微かな衣擦れだけで、その男の纏っている衣服の仕立てと、布地と、着こなしが一級のそれであることが読み取れる。
時に発せられるおどけたような軽薄な声はすべて道化であり、この男の本質は紳士であり、貴族であり、支配者である。
己の振る舞い方を知り尽くしている理性の怪物である。

であるからこそ、最初に『足元を見るな』という前提は絶対に必要であったし、それを獲得できた時点でどっと崩れかけたことも内心の秘密ではあった。
だからこそ、得られる利益は惜しまず供与し合わなければならない。

『海賊帽子、巨体の老女、無類のお菓子好き、魂の干渉。
理解した。実のところサーヴァントに対しては全くの未知であったのでネ。どれも有り難い情報だよ』

櫻木真乃および星野アイさんたちの証言によって、名が『ビッグ・マム』であることも確認は取れている。
明らかに風体から付けられている以上、真名ではなく通り名のようですが。
あの頭部の大きさから推定すれば、どんな体格だったとしても身長8メートルはくだらないかと」

『体格が大きいということは、皮膚も厚いということ。耐久力も並みではないだろうネ』

「観察ができた部位、たとえば表情筋ひとつとっても脂質だけでない頑健さが存在しました」

『うむ……極道のライダー君たちのおかげで海中では溺れるという弱点が判明したことは僥倖だが、向こうも一度痛い目を見たなら、それがある戦場は避けるだろう』

「加えて、そちらの傘下が中央区マンション付近で聴きこんだという『意志を持った樹木』。
これは、魂の収奪能力と関連づけていいものかどうか」

『こうして並べてみると【分かっていたところで、どう対策するんだ】案件が多すぎて頭が痛いネ……。
しかし『気を強く持てば魂は守れる』っていうのは、君、味方側を盛ってる感じがしない?
こっちが同じようにやろうとして、嵌るのを期待してない?』

「嘘はついていません」

この会話が始まった大前提だが、両者は莫迦ではない。
互いの手札を見せ合うことは、将来の敵を有利にはしても、現在の敵にとって不利に働くことは疑いない。
故に、足を引っ張り合った結果の両損(ジレンマ)はまず避ける。
それを上回る黙秘理由はない。

「ただ、主従関係が不仲であるという点については特筆すべきでしょう。これは数少ない隙ではある」

『ふむ。敵を欺く為に、敢えて仲が悪いように振る舞っていたという可能性はない?』

「ありません。右腕の少女についての印象は、先に語った通りですが。
立ち去り際に『ライダー女史への言伝をお願いできますか』と言ったところ、聞こうともせず拒否されました。
もし『もう一人の首領』と認めた相手への言伝なら、演技の最中だろうとも聴くだけは聴く義務と立場がある」

『つまり信頼関係どころか、最低限の主従関係さえも皆無である、と』

「彼女が会談の最中に目線で指示を仰いでいたのも、リーダーに対してのみでした。
指揮系統の統一などを抜きにしても、子ども達はあくまでサーヴァントではなくリーダーについている」

『彼女だけが特別そうしていたという可能性は?
少なくともアイ君たちの話では、リーダーの情報を漏らす子どもだっていたそうだが』

「こちらも末端の子どもと予選の間に関係を作っていましたが、リーダーの求心力自体は相当なものでしたよ。
そしてサーヴァントについては『リーダーの客人』と言った言及で、しかも敬遠している趣きがあった」

『機嫌を取らねばならない厄介者、というわけか。
しかし、それなら実のところサーヴァントにマスター裏切りの可能性を示唆してあれこれ操れば足りる話ではないかネ?
労せずに主従の連携を崩せるとなれば、そこを狙わない手は無いように思うのだが』

「私の所感としては、その余地はないと思われます。
そのような仲であるにも関わらず、予選期間も含めて一か月以上も関係を回していた事実を軽視すべきではない。
それに、貴方より若い者としての見解ですが、あの手の『支配者(おや)』は、いざその時が起こるまでは子どもに叛逆されるリスクを軽視するものです」

それを利用して養父母と養兄を焼殺した子どもが口にするには、あまりにも白々しいことは自覚している。

『なるほど、君がその手段に訴えない理由はある、ということか。
ちなみに、これは伝聞情報であり同一人物だと確証は無いのだがね。
そのビッグ・マム女史、先刻、新宿に現れたそうだよ』

最新情報が得られる。
その期待を表し過ぎないよう、努めて落ち着き払った返答を心掛ける。

「それは、霊体化ではなく、あの巨大な姿を現したと?」

『姿は建物の陰に隠れて、片手の手首から先だけだったそうだが。
目撃者によれば、人間離れした巨大さを持ち。肉付きは硬くはあれど女性のそれに近く、女性ものの指輪が幾つも見受けられたことから性別についてはほぼ確定的だと』

それに加えて、その『目撃者』が見聞きしたという挙動と気配についても伝えられる。
一般人であれば失神に至るほどの闘気を周囲に放ち、明らかに並みのサーヴァントでは及びもつかない脅威だと認識され、その威圧が終わると間もなく気配ごと姿を消したと。
目撃者について曖昧にされているのは、おそらく既に同盟者として引き込んでいると見ていい。

「気になる事がいくつかありますね」

『ああ、並みの異能を持たないマスターであれば近づくだけで脅威となることも恐ろしいが、特筆すべきはそこにいた『手段』と『目的』だろうネ』

「霊体化は気配遮断ほど便利ではないし、『目撃者』も『波動』の能力とは別に女性自体もまた強者であるという気配を察している。
最低限、『そこにいる』ことさえ割れてしまえば、『明らかに他と違う別格の風格』を放っていたほどのサーヴァントが、全く痕跡を辿らせずに消失するのは難しい」

『存在するだけで別格だと分かる巨女のサーヴァントなど、そうそう何人もいるものではない。
しかしそうなると、ビッグ・マムは海賊という職業にはいささか似つかわしくない気配遮断の能力を有していることになる』

「そうでなければ、空間を超えて移動するような秘技を持ち合わせているか、それができるサーヴァントの助力を借りている、と」

『そこでさらに目的の謎が加わるわけだ。闘気だけを放って消えた。それだけで相手に伝わり、何かしらの合図を送るには充分だと言わんばかりに』

「しかも周囲に他のサーヴァントもいない戦場跡地の付近で行っている。それで伝わるとなれば、可能性として浮上するのは『それだけで感知も伝達も可能な既知の関係者がいる』ということ」

これまでの情報交換で、Mの側における『皮下とグラス・チルドレンはあるいはてを組むのではないか』というリスクについては聞き込んでいる。

「峰津院財閥のサーヴァントに向けて放たれたものだという可能性は?」

『峰津院は逃げ隠れもしておらず拠点もはっきりしている。合図など送らずとも連絡手段はあるだろう。
一方で青龍達の方はいずこへ逃亡したとも知れず、拠点さえ表側の世界には無いかもしれない。
もちろん彼女ら独自の手段で新宿近辺にいると見なした別の主従に合図をしたという線も無いではないが。
いずれにせよ想定できるのは、グラス・チルドレンの側も戦力拡充を図り得る、ということだろう』

つまり、いざという時の戦場は、ビッグ・マム一人に大勢でかかるのではなく大乱戦になるかもしれないね、とさほど焦った風もなく老紳士は結んだ。

「こちらの想定以上に混み入っているのはよく分かりました。他に、現時点で提供できる情報はありますか?」

『そうは言われても、現状で我々が持っている彼らの情報(ネタ)はこれ限りだよ?』

「こちらは、人間観察(スキル)持ちが直接にサーヴァントと対峙した結果を他の主従より先に提示している。
さすがに、もう少し見返りを要求しても罰は当たらないと思いますが」

暗に、この情報を既知であるかのように扱うようだったら『ビッグ・マム主従と内通している』と疑われても仕方が無いとも含みを持たせると、老練の策謀家は良かろうと答えた。

『では、他の主従の情報(ネタ)も含めた、我々のこれからについて少し話をしよう。
……峰津院財閥が先の事変で新宿御苑を失ったことは分かるね?』

「はい、私有地としての権利は残っているが、土地そのものは焦土になった……やはり霊地だったのだろうと見ますか?」

『聖杯戦争において、土地に強くこだわる理由と言えば、施設の用途以外にはそれしかないだろうからネ。そうでなければ、豊かな公園として一般開放されてしかるべき場所だ』

「他に似たような『不自然な私物化』がされている名所がありますね」

『ああ、特に目立つのは東京タワーとスカイツリーだろう』

蜘蛛たちはいずれも、魔術に秀でたサーヴァントではない。
だが、新宿御苑、東京タワー、スカイツリーといった施設の『常識的に考えられる本来の運営』を推測。
加えてMについていえば過去に別世界での『聖杯戦争』を経験していた際の現代記憶もある。
よって、『本来ならば半ば公有の商業施設として万人に開放されてしかるべき立地・機能を持った土地および施設が、いち早く私有地として抑えられている』という状況証拠を拾うこともできる。

『そこでこちらからの情報だ。予選期間も含めて探りの者を出した感触だが、御苑を探らせた者よりも二つの塔の方が消息が途絶えるのが早かった。秘匿レベルが相当に高い印象を受けたよ』

当然にその『探り』たちは峰津院主従に口封じを図られたことだろう。
所業については思う所あれど、話を先に進めるために黙する。

「となると、新宿御苑をはるかに超える霊地になり得る」

『埋蔵金や秘蔵の魔術兵器を隠しているのでもない限りは、まぁ似たような、より優れた機能を持っているのだろうね。
その上で、ここまでが前提なのだが』

ああ、彼は嗤ったなと直感的に悟った。
顔も知らぬ相手がニヤリと口元だけを緩めたのが、その部位だけ見えたかのようだった。



『できれば決戦の地はこの二つのいずれかにするか、あるいは、段階的に戦場をここに移動させたいと思っている』



「…………」

呆ける。
瞬間的に、ここは呆けてもいいものだろうか、こちらに意図の読み損ねがなかったかと不安にはなったものの。

「峰津院の長を標的と定めなかったのは、他に心算があったから、というわけですか」

――なぜ峰津院を狙わなかったのか?

標的を定めたのはMのマスターだとしても、進言により『今もっとも危険な主従は他にいる』と中断させることは可能だったはずだ。
まして、老教授は新宿事変の勝敗をかなり正確に分析している。
最も優勝候補と見なし得る存在は、そこだと割り出せなかったとも思えない。
その通りと頷き、地獄の底まで届くような重みと苦みのある声で。

『理由の一つ。この東京における最たる過剰戦力は、峰津院ではない。
件の会合がどうにかこうにか収まり、協力、ないし不可侵の関係が成立した巨大サーヴァントを抱える組織二つだ』

峰津院はとかく『目立つ』『強すぎて隙を見て裏切る余地さえ少ない』という理由ふたつによって、同盟者を誘致しにくいという慢性的欠点を抱えている。
一方で、峰津院の無法ぶりを目の当たりにした東京中の主従の中には、こう考える者もいるだろう。
その峰津院と勝負が成立していた青龍や、それと同等のサーヴァントを味方につけた上で数によって勝れば、あるいはと。

「ただでさえ峰津院戦を想定した戦力拡充の余地がある二勢力。
その上で確実に峰津院を上回る為に、最低でも相互不可侵を、と考えることはするでしょうね」

『そうなったら我々が付け入る余地はどこにもない。単騎であっても複数主従で徒党を組まなければ対抗できない本命主従が、数の力をも得てしまう』

だが、二勢力が不可侵の関係を得て峰津院の力を上回るのを片方を落としたところで、それは峰津院が弱体化することを意味しない。
むしろ、峰津院の対抗馬、潰し合いを行う候補者を削ってしまうことで、峰津院が一人勝ちに至る可能性を高めてしまうとすら言える。
そのことを、裏社会の勢力図を書き換えてきた海千山千の老蜘蛛が理解していないはずもない。

『もう一つ。この状況では誰だって最たる脅威は峰津院だと印象づくだろう。
皆も冷静になれば戦闘の仕掛け人も勝利者も峰津院だったと気付き始めるだろうからネ。
だが、誰だってそう考えるということは、奇をてらう隙もないまっとうな対処が組まれるということだ。それではこちらが主導権を握る余地がない』

事前の準備で戦う前から勝敗は決まる、とは戦略理論の常套句だ。
逆に言えば、強者同士が万全の準備を整えた状態で開戦すれば、分かりやすくもあっけない勝因、敗因はついてしまうとも言える、とMは説く。

「つまり三大勢力が準備万端、想定通りの状態で戦っている場合は、かえって戦況を操りにくい、と」

『そう、だから彼らにとっての予想外が必要になる。【今さら二番煎じをしても仕方がない】という我が主の決め手は、そういう意味では正しいよ』

そもそもこの討伐は、超新星爆発を誘発するための機会でもあるのだ。
あの新宿大崩壊を見て『先に始めやがって』と幼い怒りを露わにする以上、皮下たちの思惑に組み込まれてまずは峰津院からだ、とするような常道は辿らない。
アレを超える所業を為す、己の破壊が全てだと知らしめるという、幼さと紙一重の妄念が生み出す後先考えない賭博(ギャンブル)。
彼のサーヴァントは、すでに命令された。その変数を式に入れろと。
なるほど、と口舌を通して指向性が見えた。
根本的なところで、この主従は夢想家だ。
夢の方向性が、憂国のモリアーティとは相いれない正反対ではあるけれど。

そしてその上で蜘蛛の巣づくりには、『峰津院の要所を戦地にする』という一手が織り込まれている。
それはつまり、最初に仕掛けるのは割れた子ども達であっても、その延長で峰津院を引っ張り出すことも視野にいれる、と。
まず倒れまいと思われている強者の一角が、予期しないダークホースの手によって欠けた、あるいは欠けそうになっている事態で場を荒らす。
その後、願わくばたて続けに他の強者も引っ張らざるを得ない戦場を作り出す。

「この霊地にはそれだけの価値がある、と見ているわけですか」

『現状で、峰津院を引っ張りだせそうな手札がそれというだけのことだ。他に餌として使えるものがあれば使う』

「我々がその『餌』にされる可能性もある、と」

『そうならないよう心掛けるのが君の仕事だろう。いや、君のことだから、むしろ我々を巻き添えにしようと動くか』

とすれば、二つのタワーが要所だと伝えたのは、単なる情報提供だけではない。
いざという時に『あの陣営は知っていたぞ』『知らなかったとは言わせないぞ』という状況を創るための布石でもある。
言うなればこの会合は、手を結ぶ密約であると同時に、毒杯の飲ませ合いでもあった。
あるいは、共に開戦の一発目を撃とうと拳銃を差し出し、ハンカチで互いの手をひとつの引き金に縛り合う儀式。

「要約すると、意図的に大乱戦、あるいは連戦を狙うわけですか」

例えば、『手っ取り早く排除したい弱者の集団に気を取られているうちに、峰津院が王手をかけるかもしれない』ともなれば。
残る二大勢力は背面作戦になると分かっていても峰津院に強硬突撃をかけるしかなくなるだろう。

『実際はもう少し柔軟にやるつもりではあるヨ。なに、場を唆して総浚いするのは、昔から得意だった。マフィアだの自警団だのをぶつけ合わせてネ』

つくづく『犯罪卿』の逆を行くような企みごとをしている。

「仮にその流れが実現すれば、一気に局面は終盤まで雪崩れかねない」

『そうだ、相手はなるべく確実に勝てる環境を望むだろうが、こちらは破滅がやってくる心構えをしている。
私がこれから教導しようとしているのは、状況の手綱を握る事、破滅を乗りこなすことだからネ』

策というにはいくらか大雑把。
だが、その大雑把を乗りこえるし、乗り越えさせてみせると豪語するのは、まぎれもない経験則だ。
まったく、頭が痛い。
特に、アイドルのマスター達もともにその『破滅』を超えなければ未来に至れないという大嵐になることが。

これが、死ぬかもしれない理由の二つ目。
青龍と女傑海賊が同盟しているところに突っ込むのはいかがなものか、といった慎重さは、もはやできない。
巻き込む主従の規模を広げる以上、どうあっても予測しきれない死地に赴くことになる。

「しかし、巻き添えと言っても何も我々が共に行動しようというわけでは無いでしょう。」

『それはそうだ。言葉は悪いが、君達が厄ネタになっていることは否定できないからネ。
それに聖杯戦争に積極的でない陣営を擁していると聞いた時点で、我々の連合に与することを躊躇う敵(ヴィラン)だっているかもしれない。
だいいち私はまだしも、複数組を擁している陣営同士が合同で動く想定をするなど、我々の陣営には頭がパンクする者もいるだろう』

そして、理由の三つ目でもある。
この東京において、それぞれの陣営は、それぞれの置かれた環境、スタンスによって『厄ネタ』と成りえる状況にある。
それを協力者として孕むことによる巻き添えのリスク。
それに対して、いざとなれば己が糾弾の矢面にも立たねばならない。

「そもそも櫻木さんと星野さんのように、既にして不和が生じている関係もある。
こちらも合流して仲良くしましょうと言うつもりもありません」

『だが、同じ組織を共に攻撃する必要はある。
そしてその為には、最低条件として必要なものがあるネ』

それは確認ですらない、ただの断定。

「組織の首領、殺し名にして『ガムテ』と称する少年と、逃げ隠れの効かない場で対面することですね」

『そうだ、末端を幾ら潰しても根本的解決になりはしない。
サーヴァントである『ビッグ・マム』は無軌道な性質をしている上に、謎の消失手段も持っている。
また、青龍の陣営と同盟していれば、『東京から隔絶された拠点に逃げ込む』という手段も解禁されかねない。
ならば、極道のライダー君いわく、駆け引きを知っている玄人(プロ)である少年の方に働きかけて、拠点から降りてきてもらうしかない』

「その機会を用意するのは、ちょうど少年たちから狙われている我々の側になる。
元より、そちらも『グラス・チルドレンが我々を襲う隙をついて攻め込みたいです』という取引きを持ちかけるつもりだったのでしょう?」

『うむ、それが一番シンプルだからね。日時や呼び出す用件の練り込みは君達に任せよう。
『放り込む戦場を用意する』とはそういうことだろう』

そして、Mにはいまだに秘していることだが、その『密会』の機会となり得るかもしれない事件が、現在進行形で起こっている。
283プロダクションのプロデューサーが誘拐され、遠くないうちに彼の処遇をめぐる結論を出さざるを得ないことだ。
Hによって『七草にちかを聖杯とともに生還させるための獅子身中の虫となる気ではないか』と、推理された存在。
彼を巡る取引や密会ごとが起こるかどうかは、誘拐についての進展と、プロデューサーの現況の把握と、なにより七草にちか同士が対話をした結果にかかってくる。
そもそもHの元にいる彼女と、プロデューサーの知る彼女とが同一人物かは分からないという問題もあることだが。
プロデューサーの方は、Hとそのマスターを自宅に向かわせていたことから、七草にちかとの対面を望んでいると考えていい。
また、Hの側にプロデューサーを追いたいという意志があることもうかがえた。
だが、肝心の七草にちかがプロデューサーと対話する意思を持てないようであれば、そもそも彼女達を送り出すという選択ができなくなる。
彼女が拒否をするなら彼女抜きの作戦を組まねばならないが、彼女が答えを出さなければ彼女抜きの作戦になるかどうかが決定できない。
世田谷区で行われている二人の少女の対面は、彼女が前線に出るか否かの分水嶺でもあるのだ。

その上で、問題は子ども達側にも同盟者がいる可能性が高い以上、取引を行うとしてもその場に同席するのがガムテ以外の主従になる可能性もあることで。
どうにかしてガムテ当人もその場に同席せざるを得ない口実を作ることも、また課題には違いないのだが。
犯罪卿がその場に来るぞ、などと告げるのは幾らなんでも意図が見えすぎる。
かと言って七草にちかおよびそのサーヴァントに、ガムテでさえ犯罪卿以上に注目せざるを得ないほどのヘイト感情を集められるとは思えない上に、そうしたくもない。

「それについては、この密約そのものの成否をマスター達に図った後に詰めますよ。
そちらも『連合に与する仲間』を増やす算段を立てているようですし、忙しい立場なのでしょう」

『うむ。こちらは面談を控えている。こちらはこちらで、アイ君たちを納得させるのも不可欠である以上、成否を図った上で連絡しよう』

「では、こちらはこちらで紹介を」

色々と話はしたが、要点はさほど多くない。



①標的である283の主従が誰か矢面に立ち、ガムテ少年自身がやって来ざるを得ないような密会の場を設ける。
②敵も組織および複数の同盟者を抱えていることが予想されるため、実際の戦闘は散らばると想定する。
③協定は結ぶが、互いの不和は避けられないため団体行動は避ける。指揮はそれぞれ別にして動く。



これらを双方の陣容に図り、双方ともに同意が取れたところで、場所と時刻などの詳細を定めてゴーサイン。

『ところで』

だが、それでいったん会話は打ち切り、とはならなかった。



『――君、生前の『宿敵』のようになりたいなら、やめておきなさい』



その問いかけで、別の戦いだと犯罪卿は察した。
ああ、これはこれで七草にちかが全く他人事ではない。
これは、『もう一人のモリアーティ』としての言葉だ。

ここまでで、陣営同士の相談は終わり。
ここから先は、個と個の会話になる。





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最終更新:2022年01月29日 11:24