◆ ◆ ◆
「弱いねェ~! ママママ! おれの肌に傷一つつけれねェナマクラじゃねェか!」
四皇ビッグ・マム。
チェンソーの悪魔を宿す少年
デンジ。
此方の戦いは
カイドウと無惨のそれとはとても比べられない程一方的だった。
地面に倒れるデンジの体は所々が曲がってはいけない方向に曲がり、脇腹から折れた骨が臓物混じりの血肉を載せて突き出している。
ごぼっと嗚咽すればバケツを引っくり返したような吐血が彼の異形頭から流れ落ちた。
ビッグ・マムは未だ傷一つ負ってはいない。
デンジのチェンソーはマムの打撃に合わせて切り込めば力負けし、その上彼女に血の一滴も流させることのできないまさにナマクラだった。
「…らいだーくん」
しおの声色も曇っている。
デンジは千鳥足もかくやの状態で立ち上がるが、それが無駄な抵抗でしかないのは誰の目にも明らかだった。
殺島は思わず片手で目を覆う。
見てられねぇなと小さな声が漏れて、彼はアイに横目で目線を送った。
その意味が何かをわざわざ克明に解説する必要はないだろう。
“痛っ…てえ……。このババア、本気(マジ)バケモンかよ……”
デンジだって英霊の呼び名に恥じない戦いくらいはできる。
支配の悪魔を殺した時点での彼にはそれだけの実力はあった。
なのにこの通り、まるで敵わない。
防戦に徹することすらできない。
純粋な暴力としての強さであればそれこそ支配の悪魔…マキマをすら遥かに凌ぐだろうとデンジは確信した。
もしもデンジが特殊なサーヴァントでなかったなら、とっくに彼は消滅していただろう。
現に彼の霊核はこの時点でもうボロボロだった。
ヒビ割れて崩れて、原形を保っていないような有様だった。
「らいだーくん…!」
分かってるよ、クソ。
いちいち言ってくんじゃねえ。
言っとくけど今俺メチャクチャ体痛えんだからな。
後でたっぷり嫌味言ってやるから覚えてろクソガキ。
“なんて言ってはみたけどよ…”
全身の関節全てが錆びついたようにぎこちない。
骨が折れすぎて至るところに食い込んでいるからなのだろう。
憎らしいババアの不気味な笑顔を見上げながらデンジは心の中でぼやく。
“そもそも後先とかあんのかよこれ”
ビッグ・マムがデンジに対してやったのは実に単純。
殴って、蹴って、剣(ナポレオン)で斬る。これだけだ。
サーヴァント同士の戦いの経験に悖るデンジでも分かる。
このババアはまだ、本気を出していない。
本気を出していない状態でこれなのだ。
なら本気を出してきたら、出させてしまったら自分はどうなるのか?
その答えは考えるまでもなくすぐに明らかとなった。
「それじゃ…」
皇帝が手を掲げる。
そこに出現するのは小憎たらしい表情を浮かべた太陽だった。
惑星(ほし)を照らす炎の星、それを極限までデフォルメさせたホーミーズ。
四皇ビッグ・マムの魂を分け与えられた太陽の化身プロメテウス。
「お遊びは此処までな♪」
むんずとプロメテウスを掴むビッグ・マム。
そのまま彼女は地を蹴った。
上空に跳び上がってプロメテウスを離せばあろうことかそこを狙ってその剛拳を叩きつける。
それだけで空間が軋む程の衝撃が生まれるがそんなものはこれから起こることの序の口ですらない。
マムの拳を受けたプロメテウスが眩く感光して、燃え上がって……
「――"天上の火(ヘブンリーフォイアー)"ァ~~~!!!」
…地表を焼き払う太陽熱の爆炎を降り注がせた!
まさしくそれは天上の火、プロメテウスの名に相応しい御業。
彼と同じ名を持つ神が天から盗み出した珠玉の炎に他ならない。
「…後退(さが)れッ!」
殺島がその時アイやしお、そしてさとうの叔母に指示を出したのはほとんど咄嗟のことだった。
しかし彼が声をあげなくとも誰だってそうしていただろう。
それほどまでに空から堕ちてくるその火は致命的なものだった。
太陽の偉大さに日々照らされながら生きている人間であれば誰もが等しく畏怖する、それ程の凄まじさが確かにそこにはあったから。
あくまでもマムの攻撃の標的はデンジだ。
だから殺島やアイ、しおやさとうの叔母がその爆熱に巻き込まれることはなかった。
逆を言えばデンジだけはそれから逃げられない。
逃げるほど足は上手く動かせないし、逃げたら逃げたで追撃が飛んできていただろう。
「畜生が」
デンジはぺたりと地面にへたり込む。
そして夜空を見上げて吐き捨てるように言った。
空に浮かぶのは嘲笑うビッグ・マムと太陽のホーミーズ。
それから吐き出された炎の津波。
「人に損な役回りばっかり押し付けやがってよ~…」
しかして。
デンジが見ているのは笑う老婆でもそのしもべでもなく。
彼女達の更に上空(うえ)。
そこからやって来る、憎たらしい奴らの姿で。
「何考えてたんだか知らねぇけどよ――もっとちゃっちゃと来てくれねぇかなあ! クソジジイがよぉおおおお~~!」
その言葉を辞世の句にしてデンジは死んだ。
黒焦げの焼死体に早変わりした。
だがビッグ・マムはそれを確認する間もなく振り返ることを余儀なくされる。
夜空(そこ)からやって来る新たな敵があったから。
「てめえ」
ビッグ・マムの喜悦が消える。
そこに宿るのは満面の怒り。
自分を出し抜いた者に対して、出し抜かれた者が向ける当然の表情だった。
「てめえだなァ!? コソコソ嗅ぎ回ってやがった蜘蛛野郎は~~!!」
「いかにも」
一流の悪役ならば出遅れるような真似はすまい。
しかし超一流の悪役ならばあえて遅れてやってくる。
主役とはいつだって遅れてやってくるもの。
そして超一流の悪役もまたそうして遅れてやってくる。
されど彼らの遅刻には必ず理由がある。
「すまないねライダー君。我々が普通に馳せ参じても状況は何も好転しない。
この怪物めいたご婦人と切った張ったの勝負ができる程、私は強いサーヴァントではないのでネ」
とはいえ君は特別なのだろう。
どうか寛大な心で許してくれたまえ。
傲慢さすら感じさせる口振りで紳士は嘯く。
「故に君には難題を請け負ってもらった。
客人が思う存分気持ちよくなれて、思わず前後不覚になってしまう程のワンサイドゲーム。
君を過小評価しているわけではないが…こればかりは君にしか任せることのできない仕事だった」
快く請け負ってくれてとても助かったよ。
まぁ君に直接許諾を得たわけではないのだがそこは目を瞑ってくれたまえ。
その分の埋め合わせはこれから、そしてこの後でしっかりとさせてもらうとも。
だからまずはご苦労さま、ライダー君。不死の君。
しお君から事前に君の体質について聞いておいてよかったよ――声なき声で人柱の少年を労い蜘蛛は笑う。
「では地に墜ちたまえ、無粋極まりない来訪者よ!」
――夜を切り裂くマズルフラッシュ。
爆音轟音銃声、ありとあらゆる剣呑を詰め込んだノクターン。
上空から巨大なる女傑に殺到したそれは彼女の肉体に着弾するなり鮮やかな爆発を引き起こした。
それでも連射は止まらないが、機銃掃射が続いているのに粉塵が晴れるという超常現象が巻き起こる。
「効かないねェ~!」
余人ならば蜂の巣、否原形を留めない肉塊に成り果てること請け合いの弾幕。
だが生憎と皇帝の彼女は常人ではない。
砲弾すら跳ね返す鋼の皮膚。
鋼鉄の風船と称された頑健さは颯爽登場した犯罪王もといオールド・スパイダーの一斉掃射を無傷で耐え凌ぐ。
笑いながらビッグ・マムがホーミーズ化させた剣を振るう。
「"刃母の炎(ははのひ)"!」
蜘蛛を奸計もろとも焼き切る皇帝(ナポレオン)の刃。
地に墜ちながら真上の敵を斬るという後の先にも匹敵する御業とて彼女にしてみれば朝飯前。
実力ありきの度胸を前にしてなお蜘蛛は不敵に笑う。
そしてその片腕…過剰武装仕込みの棺桶を刃に向けて構えた。
「聞いたよ? お前ら、このおれを陥れようとしてたらしいねェ!」
衝突するや否や犯罪王の棺桶が軋みをあげる。
「おれに跪いて詫びでも入れりゃ部下として飼ってやるのも吝かじゃなかったが…!
よりによってお前このおれに銃を向けやがったな! そんなクソガキは殺さなくちゃねェ~!?」
「ふははは――よもやこの歳でガキ呼ばわりされるとは。
えぇえぇ、申し開きのしようもありませんなご婦人。しかし私はガキはガキでも根っからの悪ガキでしてな」
なのに犯罪王が。
ジェームズ・モリアーティが笑うのは何故か。
見栄? 苦し紛れ? 負け惜しみ? 全て違う。
彼の笑顔の意味はそのどれでもない。
誰もがあり得ないと思う理由から出る笑みだ。
「ふんぞり返った大人に手痛い悪戯をやらかすのは、いつの世も我々ガキの特権です。
それとも…そういう経験はおありでないですかな? 傍若無人なご婦人(ビッグ・マム)殿は」
あまりに無謀な鍔迫り合い。
泡沫未満の拮抗。
だが実情はどうあれ今この瞬間、ジェームズ・モリアーティはビッグ・マムと限りなく零に近い間合いで相対している。
武芸の心得を持たないモリアーティだがこれだけ距離が近ければ外す道理もない。
ナポレオンと競り合う超過剰武装多目的棺桶…その砲口が、砲弾でも銃弾でもない何かを横溢させて夜に吠える。
「ッ…!?」
ビッグ・マムが驚愕した。
それと同時に彼女は自らの不覚を悟り激怒する。
彼女もまたその腕っ節で成り上がった実力者であるから。
我が身一つで英霊の座に登録される栄誉を得たサーヴァントであるから。
モリアーティの砲口に満ちた何かの正体と彼の目論見の真体を悟れた。
されどもう遅い。
次の瞬間、ビッグ・マムの愛剣は規格外のエネルギーによって押し返されていた。
「挨拶が遅れましたな。しかしてその非礼これに免じて許していただきたい」
ビッグ・マムが吠える。
モリアーティが笑う。
「私なりの…連合(われわれ)からの宣戦布告でございます」
宝具解放。
真名、同じく解放。
解き放たれるは破壊の力場。
もう一匹の蜘蛛が持たない強力無比な物理破壊のすべ。
宝具の素性を明かす程モリアーティは驕った性格はしていない。
だが此処では彼の御業の正体を語ろう。
彼の宝具は惑星破壊という規格外の所業、空想上の絵空事そのものだ。
あるべき歴史にては果たされることのなかった悲願。
「この」モリアーティが夢に見続けた終局の破壊を具現化させる超絶の宝具。
「――終局的犯罪(ザ・ダイナミクス・オブ・アン・アステロイド)」
今はまだせいぜい対軍規模。
しかし今後対都市、対国と成長していく余地を起こした窮極の破壊。
ジェームズ・モリアーティの描いた見果てぬ夢そのものが破壊力を帯びた尊き幻想(ノウブル・ファンタズム)。
その一撃は罵詈雑言を喚き散らかす皇帝をその剣もろとも押し返していく。
誰もが恐れ誰もが慄いた人類種の例外、生まれついての破壊者(ナチュラルボーンデストロイヤー)。
その体は具現化された惑星破壊のエネルギーを前にただ墜ちていき。
そしてとうとうその背中が、地面に触れ――
……轟音と閃光が世界を埋め尽くした。
◆ ◆ ◆
鉄の風船と称されるビッグ・マムの体はしかし実際は筋肉と脂肪の塊だ。
その上で八メートルを超える巨体ともなれば、当然重量も桁違いのそれになる。
そんな化け物が地面に落ちてきた。
もとい君臨していた天から叩き落された。
墜落の衝撃でビルや家屋がドールハウスのミニチュアのように粉砕され。
ドォンと地の底まで響くような鈍い轟音と振動が夜の東京に轟いた。
「えむさん!」
「待たせてしまったねしお君。ライダー君にもずいぶん苦労をかけてしまったようだ」
言いながら着地するモリアーティ。
いかにも悪の総帥めいた登場だが、その右手が腰に添えられているのをアイは見逃さなかった。
悪党も寄る年波には勝てないんだなぁ…と思うアイであったがそれはさておき。
「戦勝を祝するのはまだ早い。見ての通りまだまだお元気なようだからね」
粉塵と白煙をあげる瓦礫の山から勢いよく巨体が起き上がる。
あれほどの衝撃を伴う落下だったにも関わらず。
不完全とはいえ惑星破壊の概念を宿した宝具の一撃を間近で食らったにも関わらず…ビッグ・マムの威容には何の翳りも見えない。
「やってくれたねェ…。悪だくみが趣味のガキにしちゃいい宝具(モン)持ってんじゃねえか」
「お褒めに預かり恐悦至極。その刺激に免じて見逃していただけるとありがたいのですがネ」
「マ~ママママ! 図に乗るんじゃねェよ虫野郎。そんなに頭が良いんならよぉ…今の状況はおめェが一番よく分かってるよねえ?」
ビッグ・マムは依然として健在だ。
タイミングを見計らって上手く不意打ちを当てられた、成程それはお見事。
「誰を敵に回したのか教えてやるよ……!」
――で、だから?
そんなもので彼女達の牙城は崩れない。
宝具の真名解放に直撃していながらふらつきもしていないマムの姿がその証拠。
社会の闇に隠れ影に潜み、人を操って犯罪という名の糸を編み続けてきた犯罪王は遂に皇帝の手の届く範囲に収まった。
颯爽と登場したことそれそのものが愚の骨頂。
モリアーティはこれから身の程を弁え損ねた失策のツケを支払わされる。
「ふむ」
だというのに男は笑っていた。
実に面白いと。
或いは面白くなったと。
いや…"思った以上に"面白くなったと。
そういう風な笑みが空元気でも何でもなくその水気の失せた初老の肌に浮かんでいる。
「分かっちゃいたが後には引けないネこりゃ。勝っても負けても進んでも逃げても全面戦争は避けられないようだ」
肩を竦めるモリアーティ。
いやに芝居がかった台詞だった。
「さて――どうする我がマスター?」
「まどろっこしいな。答えなんざ最初から決まってんだよ」
靴音が響く。
一挙一動が地鳴りと轟音を伴う四皇共に比べれば酷く矮小な靴音だった。
暗闇の先から歩んでくるのは不健康な顔色と荒れた地肌の目立つ青年。
その右手に輝く三画の令呪が、ビッグ・マムの不興を買った蜘蛛と繋がる絆(たづな)であることは明らかだろう。
覇者の眼光が青年を射抜く。
死柄木弔の痩身に襲いかかる形なき圧力。
ビリビリと大気を震わせる程の威圧を受けて、連合の頭(かしら)は不遜に鼻を鳴らした。
「よう…ボス猿。ガキ共は連れてこなくてよかったのかよ」
モリアーティは弔にこう問うた。
どうすると。
弔は即答した。
決まっていると。
それが全てだ。
状況は依然として最悪も最悪。
裏方仕事の黒幕業が本職のアラフィフと発育途上の小悪党(クズ)が一人増えた程度で四皇との戦力差が埋まる筈もない。
だとしても――弔は挑発するように笑って、怒れる皇帝を嘲笑うのだ。
死柄木弔は、どこまで行っても一人のヴィラン。
そういう風にしか生きられないよう導かれた闇の救世主なのだから。
「そっちのマスターと違って老人介護の心得はねぇんだ。スカスカの灰になっちまうぜ、ババア」
「へぇ」
弔の軽口を受けたビッグ・マム。
その口角がニィと弧を描き丸く白い歯列を覗かせた。
安い挑発だが唱えた相手が相手だ。
身の程知らずの愚行も一周回って偉業に変わる。
しかしもう一度言う。
相手が、相手だ。
「吐いた唾飲むんじゃねェぞ? ケツの青いヒヨッ子の分際で…このおれを"殺す"と吠えたんだ。
当然、それなりの覚悟はあるんだろうねェ……!」
覇気横溢。
泣く子も黙るを通り越した頂点の殺意。
ビッグ・マムの異能が今此処に発動される。
それは魂に語りかける声。
万物に魂を与えそして奪う規格外の能力者の力の片鱗。
「『LIFE』 or――」
ソウル・ボーカス。
ビッグ・マムを怪物たらしめる理由の片翼たる力。
夜の闇の中に爛々と輝く母の眦を不敵に見据えるは連合の王。
彼の中に渦巻いていたフラストレーションは新宿の抗争を目の当たりにして遂に沸騰を起こした。
燻るばかりだった中途半端な犯罪者はもういない。
お山の大将と指差し笑っていられるのはその猿山が自閉している間だけだ。
山と人里を繋ぐ境界線が、垣根が消え果てたなら。
彼の君臨する領域が陣地を超えて社会へ、世界へと拡大をし始めたなら――
そこに待つものはただ一つ。
夢見る青年と犯罪卿が追い求めた破滅の地平線だ。
絵空事の中にしか存在を許されない絶対的な悪の誕生だ。
「――『SLAVE』…!?」
「どっちでもねぇな」
弔が駆けた。
地を蹴った。
目指す先は"四皇"ビッグ・マム。
泣く子も黙る、神でも恐れるシャーロット・リンリン!
雷霆と太陽を侍らせながら壮絶に笑う古き時代の皇に最新の悪は咆哮する!
「テメェが死ねよビッグ・マム! 次は……俺だ!」
◆ ◆ ◆
「正気ではないと思うかね」
「えぇ…まあ、正直言うと。ありゃどう考えても無茶(ヤリスギ)でしょうよ」
殺島飛露鬼の隣に立って腰を擦りながら言うのはジェームズ・モリアーティ。
自身の見落としが原因でデトネラット崩壊という惨事を巻き起こしてしまった蜘蛛は奮戦で責任を取るでもなくギャラリーとして立っていた。
だが誰もそれを笑えない。
誰もが釘付けにされていた。
チェンソーの少年が弾き出され犯罪王が自ら退いたリングの上で戦う一人と一体の姿に。
「死にますぜ、あの死柄木(ガキ)」
紫煙を吹かしながらも殺島は流れ弾ともう片方の四皇(バケモノ)の動向に気を張り続けている。
しおの妙な剣幕に押されて撤退の判断を下さなかったアイ。
それを責めるつもりはないが、やはりこの鉄火場は状況が悪すぎると言わざるを得なかった。
まして今行われている戦いは…もはやそれを許したモリアーティの正気を疑ってしまう程酷い、絶望の温床だった。
「俺達(サーヴァント)とは違うんです。骨が折れりゃ治らねぇし潰れた内臓は死を運搬(はこ)んでくる。
手足が吹っ飛んだらそこでおしまいだ。そんな脆弱(ヤワ)な体で…何ができるってんですかい、化物(アレ)に対して」
「ふむ。君の言うことは確かにもっともだが…見たまえ」
ビッグ・マムが剣を振るう。
ナポレオンの斬撃は地面を割る。
ゼウスが瞬けば弔はそれを避けねばならず、プロメテウスの炎は致命的な火傷に繋がるためもっと念入りに回避せねばならない。
避けるために地面を転がるのですら生身の人間にとっては十分なダメージだ。
今や弔の全身は頭の上から足の先まで余すところなく泥と粉塵に塗れていた。
「彼は死んでいない」
「…Mの爺さんよ。アンタまさか本気で信じてるんですかい」
既に呼吸は絶え絶えで顔色も悪い。
虫の息とそう一言で切り捨てられる這々の体。
それでも彼は生きている。
死柄木弔は、生きている。
技術に依らない動物的直感のみを寄る辺にビッグ・マムの攻撃の中で生を繋ぐことに成功していた。
ギガントマキアを相手に積み重ねた勝ち目のない戦いが彼の体に経験を蓄積させていたのだ。
一切大袈裟でも何でもなく、今までの人生で最も死を身近に感じる状況だからこそ。
その苦境は死柄木弔に対し無尽蔵の、そして未曾有の経験値を注ぎ込んでくれる。
「サーヴァントは慈善事業ではないよ。彼に見込みがなければ私とて後生大事に抱えはしないさ」
単に優勝するだけならばもっと楽なのだ。
こちらのモリアーティは手段を選ぶ必要がない。
若く青い彼のように無数の足枷に戒められてもいない。
マスターが無能ならばすぐに見切りをつけて次を探す。
それで何とかなるだけの頭脳と能力を彼は当然持っている。
犯罪界のナポレオンの二つ名を侮ってはいけない。
「彼は私の夢を叶えられる逸材だ」
だから信じているのさと。
そう言って笑う犯罪王の眼差しに殺島はある種の憧憬を垣間見た。
こうなると殺島はもう何も言えない。口を挟めない。
その上で改めて孤軍奮闘する青年の不格好な姿を見れば、心の中の何かがドクンと脈を打つのを感じた。
“…黄金時代(オウゴン)”
若さは全てに勝るなんて月並みなことを言うつもりはないが。
若者は誰もが一度はこう思う。
自分は何でもできるのだと。
何にでもなれるのだと。
思って歩んで走って、敗れて転んで諦める。
それが人生のテンプレートだ。
殺島もそうだった。
暴走と疾走に全てを注いだあの頃は確かに自分が何物にでもなれる存在だと信じて疑わなかった。
暴走の果てに挫折して、拾われて、また暴走して…負けて終わって。
そうして行き着いた先の世界。
人生の排気口のようなこの世界で見るみすぼらしい青年の背中が何故か輝いて見える。
「…似合わないっスよォ~。その歳(ナリ)で夢追人(ドリーマー)とか」
「何を言うか。人生は冒険だよ、極道のライダー君」
失意の底にあった殺島を拾い上げてくれた男。
輝村極道とはベクトルも資質もまるで違うが、しかしたった一つだけかの男と弔の間には共通項があった。
その単語以外の何もかもが違えど、彼らはどちらも悪のカリスマなのだ。
人を惹きつけて暗い明日に導く者。
敵(ヴィラン)という言葉を一人で体現できるそういう輝きを持った者なのだ。
「マ~ママママ! 威勢の割にはその程度かい? みっともねェガキだねェ~!」
呵々と笑うビッグ・マムには未だ傷一つなく。
弔はそれに比べて全身くまなく汚れきったまさにみっともない姿を晒していた。
よろよろと立ち上がる姿はいじらしさすら感じさせるものであり。
それは奇しくも先程マムの前にボロ雑巾のように散ったデンジの姿の焼き直しのようだった。
「とはいえおれを相手に此処まで立ってられたのは大したもんだ…そこは褒めてやるよ。
そのチンケな能力でおれに勝てると夢想しちまった頭の出来は何とかした方がいいと思うけどね…!」
当たり前だ、そもそも勝てる道理がない。
膂力の差、耐久値の差、スタミナの差。
いずれも文字通り天と地程の格差があるのだ。
ジャイアントキリングを成し遂げられる要素は弔には存在せず、極論ビッグ・マムは何の能力も使わなくても彼を打ちのめせただろう。
弔の個性もそれ程までに力の差がある相手に対しては何の役割も果たしてはくれなかった。
触れた物体を崩壊させる能力など、触れられなければ惨めったらしい風車でしかない。
マムは彼の個性の性質を理解したその上で一度もそれを浴びることなくちっぽけなヴィランを圧倒した。
「ムカつく目だね。今から死ぬってのに潤みもしねえ」
マムのこめかみに青筋が一つ浮かんだ。
「おれはそういうガキが嫌いなんだ。散々手を焼かされたからね…!」
ビッグ・マムを破ったガキ共。
何度力の差を見せつけてやっても懲りずに食らいついてきた新世代(ガキ)共。
彼女は今この瞬間、無駄な足掻きを続ける目前の青年に彼らのそれと同じものを見ていた。
だからこそ機嫌は悪くなる。
よりにもよって新世代! おれを地に落としやがったあいつらと同じ目をしやがるなんて!
「おれの夢の礎になれるんだ、光栄に思いな…! お前みたいなドブネズミにはもったいねェ程の名誉だろう!」
「…夢か。心底……似合わねぇな。知ってるか? テメェみてえな奴のことはな、老害って言うんだぜ」
虫の息ながら減らず口は尽きない。
だがそれとは別に純粋に気になった。
「聖杯なんて大それたもんに縋って晩節汚してよ…そうまでしてどんな夢を叶えてぇんだ?」
「此処まで食い下がったご褒美だ。冥土の土産に教えてやるよ」
ビッグ・マムには夢がある。
誰もが馬鹿げていると笑うような夢。
しかし当の本人は大真面目だ。
鬼の始祖が恐れる耳飾りの剣士ですら一目置く他なかった、彼女の暴威と比較すると空寒く聞こえる程綺麗な夢がその巨体の内にはある。
「誰もが同じ目線で食卓を囲んでメシを食える、そんな理想の国を作ってやるのさ! お前みてェな小汚いガキでも例外じゃねえから安心しなァ!」
「そうかよ。…あぁ、確かにそいつは安心だ」
誰もが並んで同じ目線で食卓を囲めるような国。
冗談かと問いたくなる程、目前の巨女には似合わない夢だった。
高尚なことだと弔は思う。
そこで異論を唱えるつもりはなかったし、むしろ今放った言葉の通りだ。
ビッグ・マムの理想を知った死柄木弔は確かに安堵した。
何故ならその理想は呆れる程愚直で眩しくて…。
死柄木弔がまだ志村転弧と呼ばれていた頃、確かに持っていた幸福の形だったから。
『お父さんはああ言うけどねぇ、大丈夫だよ。私は転弧の事応援してるから』
お母さん。
『お父さんは…ただ…知ってるの。ヒーローが大変だって事』
華ちゃん。
『やめろ――転弧!』
お父さん。
『痒みはもう感じなかった』
あの家は僕を優しく否定した。
穏やかで笑顔に溢れた優しい優しい絶望の家。
脳裏を蘇る記憶は既にただの事実として認識できるようになっていて。
弔は何の動揺もなく笑顔と共に右手を伸ばす。
触れたものを何であれ壊す崩壊の手。
それを前へ──立ち塞がる皇帝の巨体へ翳した。
「心置きなくブッ壊せる」
死柄木弔の体に纏わりついた手が崩れていく。
形を失い塵になって消えていく。
いびつな家族の絆と未練を振り切った弔の髪の毛が白く染まる。
外見に急速な変化が及ぶ程の何かが、それだけの現象が彼の体内で起こっているのだ。
弔が再び地を蹴った。
体力などとうに尽きていて然るべき有様ながらその初速は今までのそれよりずっと速い。
しかし当然ビッグ・マムの目で追い切れない程のものではないのが現実だった。
「知ってるか? 大口叩くのにも責任ってもんは伴うんだ」
この小僧は自分の夢を聞いてこう言った。
ブッ壊すと。
他でもないおれの食卓(未来)をブッ壊すと啖呵を切った。
その言葉はビッグ・マムに対する何よりも明確な宣戦布告だ。
相手がどれほど取るに足らない小虫だったとしても、これを言われたら見逃せない。
「おれの“夢”を壊すって!? 上等じゃねェか! やってみろよできるものなら!
おれに触れもしねェヒヨっ子が、いつまでも涙ぐましく喚いてんじゃねェぞォ──!?」
「テメェこそ喚いてんじゃねぇよ老害が。ヒステリー拗らせたババアと食うメシなんざクソ以下だろ」
真の悪とはよく笑うものだ。
ビッグ・マムも怒髪天を衝きながら笑っている。
弔もボロ雑巾同然になりながらそれでも笑っている。
戦場(ここ)には悪しかいなかった。
「ほざいてなァ! "刃母の炎"!」
炎を纏ったナポレオンを振るう皇帝。
不敬の報いに素っ首落とさんと迫る巨体の速度は明らかに生物としての常識や限界を無視している。
速度も力も確実にギガントマキアの上位互換と言っていいだろう。
オール・フォー・ワンお抱えのドクターが寄越したクエストと比べて、今の状況は難易度で数段上を行く。
“速すぎるな。此処まで来ると避けただけでも体の何処かが軋みをあげやがる”
しかしそれは逆説的に、元々死柄木弔にはこういう怪物との交戦経験があったということを意味した。
そしてビッグ・マムは未だ弔に対して全力を見せているわけではない。
彼女が空へ上がってゼウスとプロメテウスによる炎雷の雨霰でも降らせれば弔はそれで確実に詰んだろう。
にも関わらずそれをしていない訳はビッグ・マムが彼のことを舐めているか、それともこれ程の矮小な弱者に本気を出すのはプライドが許さないか。
本当のところは彼女にしか分からないが、その手抜かりは弔にとってたいへん幸運だった。
“だが…ああ。ようやく見えてきたよ”
長い戦いの中で当時の弔はマキアの大暴れに適応しつつあった。
それと同じことが今この戦場で起こっている。
太陽の炎を帯びた皇帝剣を躱す。
実に不格好な舞いだったが回避は回避だ。
マムの眉間に皺が寄る。
死柄木弔は生きている。
まだ生きている。
何十年もの間山程の猛者をその豪腕で蹴散らしてきた怪物が…二十歳そこらの社会のゴミ一匹殺せていない。
「不味いツラだねェ」
マムがおもむろに剣を掲げた。
ナポレオンの刀身を見つめて止まる弔。
弔の見上げる刀身に炎と雷が付属(エンチャント)されていく。
ゼウスとそしてプロメテウス。
天候を司る二柱のホーミーズの権能が皇帝の名を冠したビッグ・マムの愛剣に凝集される。
「これで後腐れなく消し飛ばしてやるよ。カビたお菓子を残しておくと、他の旨いお菓子にまで感染(うつ)っちまうからね…」
それによる光を肌で浴びているだけでも痛みを感じる程の熱量と光量。
対城宝具の真名解放に匹敵する程の力が母(マム)の意のまま思うままに剣へと灯る。
その規格はサーヴァントの限界域に近い。
ある平行世界で異聞帯の王と呼称される七柱にも酷似した災害のような力と魔力。
人間、死柄木弔が相対しているのはひとえにそういうものだ。
決して人間が相手になどするべきではない…ただ怪物とか災害とかそういう表現をして目を背けるしかないような存在。
「綺麗さっぱり消し飛びなァ――"鳴光剣(メーザーサーベル)"!」
「今だ」
弔は驚くよりも戦意を吠えるよりも先に言った。
ビッグ・マム及び彼女の振るう全ての力と事象に対してもはや微塵も怯むことはない。
「――――助けてくれ、しお」
悪いなクソババア。
でもよ、お前ガキ共を連れて来なかったんだろ?
じゃあアンタの失策だ。
知らなかったか? 忘れてたか? じゃあ教えてやる。
「――――たすけてポチタくん」
俺達は連合(レギオン)だ。
此処で死ね。
.
――たすけてポチタくん。
令呪を以って少女はそう希った。
それが何よりの起動詠唱になる。
星の光を担う者が聞けば驚く程に短く飾り気のない詠唱(エンゲージ)。
しかし少女の願いは必ず届く。
彼はそういうものだから。
本来のあり方を望まれなくても、彼がそういうものであることに変わりはないから。
ぶうん。音がした。
「――ッ!?」
それに反応したのはビッグ・マムだった。
その顔に浮かんだ表情は海の覇者たる彼女に相応しくないもの。
驚愕と動揺が現れた顔は単に誰かに知恵や根性で出し抜かれた時のそれではない。
純粋な驚愕だ。
彼女をして脅威だと認識するしかない、そういう存在が突然出現したことに対しての驚きだった。
爆光が夜暗を切り裂いて炸裂する。
地面に叩きつけられた光は弔の方に向けられてはいなかった。
新たに現れた、否復活した気配の方に向かった。
ビッグ・マムの鳴光剣。
英霊一人を文字通り蒸発させるくらいはワケのない超火力が解き放たれ。
ぶうん。と、また音がした。
「何だい…? お前……」
次の瞬間に起こった出来事を前にしてビッグ・マムは訝るような声を出す。
そう反応するに足る事象が今、全員の見ている前で起こった。
放たれた光と熱が超音速の何かで以って文字通り両断されたのだ。
雷切の逸話が裸足で逃げ出す超人技を苦もなく成し遂げた得物の正体がチェンソーであるとマムが理解したその時。
ビッグ・マムを驚嘆させたその男は既に彼女の懐にまで迫っていた。
「うおおおおおッ!?」
四皇がその速さを追えない。
少なくとも初見では。
ビッグ・マムはこの次元の速さを知らなかった。
先刻カイドウと共に対面した耳飾りの剣士。
こと足運びの速度に限っては、この悪魔は彼すら上回る。
カイドウの雷鳴八卦ですらも超える異次元の速度、歩み!
「テメェ…本当にさっきのガキかい!?」
それは一言で言うならば。
チェンソーの、悪魔だった。
デンジが変身していたのとは訳が違う。
人間らしいところは手足の数と輪郭くらいしかない。
その面影から漂ってくるのは…四皇をして驚く程の血と臓物の臭い。死の臭い。
あまりにも腥すぎるのに彼の体と一体化したチェンソーの刃に錆は一切ない。
錆びる隙もなく刃を回転させ続けているからだ。
錆びる隙もなく――悪魔を屠り続けてきたからだ。
「言葉は通じるかよライダー」
「……」
「そんな成りになってもテメェとは合わねえんだな。…まぁいいよ。これだけ伝わりゃそれでいい」
弔はデンジという英霊の真実を知らない。
デンジはあくまで彼と契約を交わしたある偉大な悪魔の乗り物でしかないのだということを知らない。
しかしそんなことは何も関係はなかった。
とことんまで馬の合わない二人だが、ただ一つにおいてだけは彼らは同じ方向を向ける。
「敵(ババア)を殺すぞ。行けるよな」
無言は肯定の同義語だ。
チェンソーの悪魔が動くのと同時に弔も地を蹴った。
ビッグ・マムを此処で殺す。
その目的の許に人間と悪魔が疾駆する。
悪魔(かれ)を表現する言葉を手綱を握った彼女は決して吐かない。
彼女はそれを望んでいないから。
ヒーローなんて慈善事業じゃ彼女の夢は叶えられない。
彼女が求めているのはただ一つ、武器だけ。
皆殺しの武器(チェンソー)として全ての敵を倒してくださいと。
彼女は過去も今も変わることなく経験に、悪魔(かれ)に対してそう願っている。
その令呪(ねがい)を動力源として。
地獄のヒーローだったもの、チェンソーマンは四皇殺しを開幕させた。
最終更新:2022年02月28日 23:13