それは来訪と呼ぶにはあまりにも不躾で。
そして、あまりにも剣呑が過ぎる襲来だった。
豊島区・上空。第二次大戦下では焼夷弾を搭載した戦闘機が駆け抜けたであろうその空に。
百年の時を超え、再びそこを敵が翔ける。
機械に非ぬ生身の身体と地上に存在しない幻想種の龍体で。
人に生まれながら人を超えた二体の皇帝が、一つの企業を潰すべく。
もといそこに巣を張った狡知の申し子を滅ぼすべく我が物顔で夜空を切り裂きながら進撃していた。
その気配を感じ取れない者などいないだろう。
マスター、サーヴァントは言わずもがな。
何の魔術的センスも持たない凡夫達でさえその恐るべき気配に尻餅をつく。
何故なら彼らは。
これらは。
乱世という言葉が死後と化し、未知の浪漫が駆逐された現代においては異物と言う他ない無遠慮な侵略者であったから。
そして彼らの接近は無論、彼らが標的としている蜘蛛の片割れとその共犯者達にも遅滞なく伝わっていた。
「バーサーカー君。こんな状況で悪いが、一つ頼まれてくれまいか」
「貴様は何を言っている。こうなった以上もはや貴様らに付き合ってやる義理はない」
「逃げようというのであればやめておきたまえ。あんなのでも一応君を現世に繋ぎ止める要石だ」
単独行動に類するスキルを
鬼舞辻無惨は所有していない。
それはつまり、現在のマスターを欠くような事態になれば彼は現界を保てないことを意味していた。
松坂さとうという後任のあてはあるものの生憎この場に彼女はいない。
今から呼びつけることが可能だったとしても、どう考えても此処に迫る二体の脅威が到着する方が早い。
その意味するところは無惨にとって致命的だった。
得意の逃げの手が打てない。
聖杯戦争の土俵にあっては、さしもの彼も一人では生きていけないのだ。
そういう
ルールの許に召喚されている以上、要石の存在は必須であった。
「共に腹を括ろうじゃないか。今や君と私達は運命共同体だ」
「その不愉快な喩えは二度と使うな。命が惜しければな」
「覚えておこう。で、協力してくれるかね?」
「…巫山戯た要件であれば今すぐこの場で貴様を引き裂き殺す。それを承知して言葉を紡げ」
「うむ。では率直に頼む。この部屋を、なるべく原型を止めない形で破壊してくれたまえ」
無惨の行動は実に迅速だった。
戦闘能力に悖るモリアーティでは残像を目視するだけで精一杯の速度で彼の注文をこなしてのけた。
無惨は短絡な人物だがしかして馬鹿ではない。
その上こと生き延びることにかけての本能は一級品と呼んでいい鋭敏さを誇っている。
自分が目前にしている老紳士が如何に腹に据えかねる存在であれど、今この場で自分の生存に繋がる手を打てる可能性は高いと評価したのだろう。
社長室だった部屋は一瞬にして台風一過もかくやの惨状に成り果てた。
此処に四ツ橋が居合わせていたならきっと頭を抱えたろうが…今はそれどころではない。
「それで、この行動に何の意味があったのだ?」
「これは私の不徳の致すところなのだがね。恐らく我々の動きは、某かによって傍受されていた可能性が高い」
そうでなければこうも早く足が付くのは不自然だとモリアーティは続けた。
漏れる可能性があるとすれば数刻前にこのデトネラット本社を訪れたアルターエゴだが、それにしたって段取りが良すぎる。
盗聴器という可能性は考え難いにしろその傾倒の傍受手段がこの社長室内に存在する可能性は極めて高いと老蜘蛛はそう踏んでいた。
「だが此処まで念入りに壊せば追加で情報が漏れる心配はないと踏んでいいだろう。
これでようやく、心置きなくこれからの話ができるというものだ」
「……どう見積もっても到着まで一分もない。その時間で講じられる策があるというのか?」
「単なる役割分担の話だがネ。おそらく敵は直にこのビルを吹き飛ばすだろう。
その時敵が複数だったなら、バーサーカー君には敵をなるべく分散させるよう動いてもらいたい。
無論可能な限りで構わないよ」
「死にたいのなら遠回しではなく率直にそう言え」
「話は最後まで聞きなさい。君の悪い癖だぞ」
「貴様」
傍らの無惨から迸る殺意の桁が一桁膨れ上がった。
モリアーティは両手を挙げながら続ける。
「君はまだ生き延びられる期待値が高い方だよ。
私などはほぼほぼ詰んだに等しい状況だ。君より数段は悪い」
「私を此処まで足労させてその言い草とは恐れ入る。こうも舐め腐られたのは初めてだ」
「だがね…世の中、案外何事も最後まで分からないものだ」
彼の表情は笑みを象っていた。
この状況で微笑める神経が無惨には皆目分からない。
無惨は決める。
すぐにでもあの出来損ないのマスターを回収してこの場を離れると。
新たな拠点を作れないのは惜しいがそれもこの老蜘蛛の一派が死に果てれば何ら問題はない。
耄碌した死にかけの虫は勝手に死ねばいい。
至極平常運転の思考で無惨がそう結論付けた、その数秒後のことだった。
「『熱息(ボロブレス)』!!」
天下総てに轟くような雄々しい咆哮が響くや否や。
国内外にその名を轟かせるデトネラットの本社ビルに、とてもではないが自然現象では片付けられないサイズの火球が直撃。
多数の社員の命運を業火の灼熱に溶かしながら、蜘蛛の巣食っていた本拠地は崩壊の末路を結論付けられた。
◆ ◆ ◆
着弾。
それと同時にデトネラットは炎に包まれた。
ガラス窓を押し破って社内に流入した業火。
聖杯戦争の存在すら知らない平の社員も四ツ橋経由で覚醒させられていた者達も見境なく焼死体に変えられていく。
わずか数秒にして数百人単位の死者を出しながら、"彼ら"の初陣は壮絶な幕開けを迎えた。
「…! らいだーくん、これ……!」
「黙ってろ! 舌噛んでも知らねぇぞ!」
デンジとそのマスター、
神戸しお。
彼らが幸運だったのはあてがわれていたゲストルームが低層階にあったことだ。
開戦の号砲と呼ぶにも激しすぎる一撃は主にビルの最上階から四階程度を埋める形で炸裂した。
無論じきに下階も焼けて崩落するだろうが、それでも上の連中に比べればわずかに猶予があるのは確か。
変身を果たして異形の頭を晒し、サーヴァントとしての身体能力でしおを抱えて走る。
“なぁにがクエストだあのクソジジイ。とんだクソゲーじゃねぇかよ~!”
舌打ちをしながら後ろを見る。
すると"あの女"…バーサーカーのマスターも付いてきていた。
こういうところはちゃっかりしているというか抜け目ないというか。
いっそうっかり瓦礫に潰されでもしてくれれば楽なんだけどなと、
デンジが思う一方で。
「しおちゃん、ライダーくんの言う通りよ。この辺はまだ大丈夫そうだけど、火が広がってるところに出たらできるだけ息を止めてね。
火事のときは喉をやけどするのが一番危ないの。煙を吸わないように口と鼻を塞いで、じっとしてるのよ」
「はぁいっ…! ん、むっ…」
案外そういう基礎的な知識はあるらしい。
ちなみに
デンジはこれについては全く知らなかった。
義務教育を受けていない彼には当然、避難訓練の経験なんてものはないのだ。
頭のチェンソーで積もった瓦礫を切り裂いて押し退けて先へ進む。
そうしてようやく外に続くドアが見えた時、そこには既に先客がいた。
「
星野アイさん! 無事だったんスね~…いや~良かったっす!」
「あ、しおちゃんのライダーくん。よかった、そっちも何とか逃げ出せたんだね」
こんな状況でも男というのは正直なものである。
デンジはしおを抱えたままビッと背筋を正し、ぺこぺこと意味もなく頭を下げた。
星野アイとそのサーヴァント、ライダー…
殺島飛露鬼もまた渦中ならぬ火中のデトネラットから脱出を果たせたようだった。
「そう畏まんなよ。今は同じ釜の飯を食う仲間なんだから。そうだろ?」
「言われなくてもアンタにはぺこぺこしねぇよおっさん」
「おいおい気にしてんだぜこれでも。オレもてっきり二十歳そこらの姿で呼ばれると思ってたからよ…」
聖華天にその人あり、暴走族神(ゾクガミ)ありと謳われたあの黄金の時代こそが自分の全盛期だと殺島は今でも信じて疑わない。
しかし蓋を開けてみれば聖杯が殺島の全盛期と認定したのは"八極道"になってからの姿。
純粋に戦闘能力だけを見てそう判断したのかそれとも別な理由があるのか、そこは殺島にも分からなかった。
「で…。しおチャン達はMの爺さんから何か聞いてたかい?」
「聞いてたらもっと早く避難してるぜ。耳に水が入ったみてえな気分だよ」
寝耳に水って言いたいのかな、とアイはそう解釈した。
「私もきいてませんでした」
「ま、そうだよなぁ。もしかしたらオレとアイはまだあの爺さんに信用されてなかったのかと思ったが…」
「それに…もしえむさんがこうなるってしってたら、だいじな会社をこわされないようにしたと思う」
しおの推測に殺島は納得した。
ややもすると自分達は嵌められたのかとも思ったが、それにしては確かにあちらの抱えるリスクが大きすぎる。
デトネラット本社ビルという最高級の拠点をわざわざ棒に振ってまで自分達を切り捨てたいと考える、あの男がその程度のおつむだとは思えない。
だが、だとしても事態と今の状況は何ら好転しない。
あのMをして予想外の状況。
喉元にナイフどころかロケットランチャーの砲口を突きつけられている現状。
果たして連合に加入することを選んだ選択は正しかったのかと感じ、殺島はアイとどちらともなく顔を見合わせた。
“…どうする?”
“んー…もし本当にヤバそうだったら令呪を使うよ。Mさんの力が借りられなくなるのは痛いけど、それで死んだら元も子もないし”
“了解(りょ)。その時が来たら躊躇うな”
アイ達にとって敵連合は協力相手だ。
利害が一致している間は付き合うし甘い汁も吸う。
が、彼らとつるむことそのものがリスクになるなら切ることに躊躇いはない。
言われずともアイに躊躇いなどなかった。
願いを叶えるためならどんな非道も働ける、どんな嘘でも吐ける彼女だ。
出会って数時間の少年少女を捨て駒同然に切り捨てることすら今更厭いはしない。
念話で殺島と今後の打ち合わせを迅速に済ませつつ。
デンジ達と共にデトネラット本社の外へと一歩踏み出したその瞬間に……
「……本気(マジ)かよ」
殺島は苦笑した。
そうでもしないとやっていられなかったし、種別はどうあれ微笑めた時点で上出来だ。
彼以外の者は感情の麻痺した狂った女一人を除いて皆一様に表情を失っていた。
茫然自失。その一言に尽きるあまりにも無防備な顔。
各々の顔面を味気ない無機――という名の絶望に彩りながら。
彼らは、そして彼女達は…夜空を背に立つそれを見上げていた。
「マ~マママ…! 見なよ
カイドウ、火に燻されて出てきたよ! クモ野郎が後生大事にしてやがった虫ケラ共が!」
燃え盛り崩れ落ちる高層ビルを前にして一人の老婆が立っている。
老婆だ。
そう、それは確かに老婆だった。
顔には皺が寄り容貌は劣化し見る者全てに老境の色を認識させる。
だが、それは老婆と呼ぶには精強すぎた。
巨大(おおき)すぎた。
今この場にいる人間の中では一番長身である殺島でさえ頭を大きく上に動かさなければ顔が見えないほどのサイズをしていた。
しかしその顔を見ないに越したことはなかったのかもしれない。
だるんと弛んだ皺だらけの顔の中に空いた眼窩。
そこに収まった二対の眼と目が合えば…否が応にも自分達が生物としてどれほど格下なのかを思い知ることになってしまうから。
「なぁオイ、しお」
確信する。
やはりあの爺が自分達にやらせようとしていたクエストなるものはとんでもないクソゲーだったのだ。
「やっぱ後であのクソジジイとっちめた方がいいんじゃねぇか?」
「……そうだね、ちょっと怒ろっか」
そう言って頷き合う
デンジとしお。
彼らやMに見切りをつけて安全を優先するべきか、冷や汗を滲ませながら逡巡するアイと彼女の判断を待つ殺島。
ただ一人平時と何も変わらないさとうの叔母。
物理的な大きさも一人一人が持つ力も小虫のように矮小な彼らを、偉大な母(ビッグ・マム)は残忍な笑みで見下ろしていて。
「さァて」
すぅと息を吸い込む音が聞こえた。
それを聞いた時、アイが連想したのは津波だった。
大津波が押し寄せる前。
ざっと海の水が引いていく光景をイメージした。
そこまで思い描けたなら必然この後に何が起こるのかも予想がつく。
引いていった潮は何処へ行くのか。
何処にも行かない。
必ず、元あった場所に帰ってくる――。
「落とし前の時間だよォ~! 虫ケラ共ォ~~!!」
そしてそのイメージ通りに。
老婆の咆哮が響くと同時、津波の如き"覇"が核爆弾のように炸裂した。
◆ ◆ ◆
燃え上がる城から青年が翔び立った。
死柄木弔は個性保有者である以外は普通の人間だ。
数十メートルの高所から飛び降りて生き延びられるような超人性は持っちゃいない。
しかしこの墜落は悲観でも博打でもない。
連合のブレインは全てあの犯罪王に任せているのだ。
ならば手前の読み切れなかった非常事態、その責任くらいは取るべきだろう。
もしあの男が自分のケツも拭けない程度の器だったのなら自分の命運も此処までだったということ。
自由落下に身を委ねながら死柄木はそう考えていたが。
実のところ、そう最悪なことにはならないだろうとも思っていた。
だからこそ焦りはなく。
ヒリつくような感覚もてんでない。
そして引力に誘われ落ちていくその体は、至極予想通りに抱え上げられた。
「心底気色悪い構図だな」
「そう言わないでくれたまえ、未来の魔王。これでも足腰に無理を言わせて飛んできたのだよ?」
「当たり前だろ駄蜘蛛。元を辿ればテメェのミスだろうが」
「いやぁ申し開きのしようもないネ。四ツ橋君が社外に出払っていたことだけが不幸中の幸いだ。
彼さえいれば拠点には困らない。都内には他の支社のビルもあるだろう」
デトネラットは連合の最大のパトロンだ。
四ツ橋力也が擁する巨大な財力と社会的信用度は、蜘蛛が巣を張るのにあまりに適した大木であった。
そのデトネラットという太木の所有者である四ツ橋が所用で本社を留守にしていたのは大きな幸運。
そこのところに関しては、死柄木も異論はなかったが……
「それまで生きてられたらいいけどな」
「…そこなんだよネー。問題は」
間違いなく此処は連合の存亡の分水嶺になる。
デトネラットを強襲した二体の強者。
恐らくはモリアーティがクエストと称してぶつからせる腹積もりだった、サーヴァント界のハイエンド達。
それが仲良く肩を並べてこのデトネラット本社にやって来ているというのだから状況は最悪どころの騒ぎではない。
「現状の我々は戦力で語れば貧弱そのもの」
「まともにやればまず負ける、か?」
「弁解させて貰うなら、君達にこなさせようとしていたクエストも一応は可能な限り正面戦闘を避けて進められる形にしようとは思っていたよ」
だがその配慮もこうなってしまっては何の意味もない。
この超絶難易度(ベリーハード)な状況を平定できなければ敵連合は間違いなく消滅する。
「崖っぷちだな」
数刻前の死柄木ならば不貞腐れたように眉根を寄せていただろう。
しかし今の彼は笑う。
乾いた唇を吊り上げれば裂け目のような傷からじわり血が滲んだ。
一歩踏み外せば奈落の底。
破壊を求道した男が更に上の破壊者にすり潰されて終わるという皮肉すぎる結末。
それを前にして心を躍らせるなど、気が触れたとしか思えない沙汰である。
「断崖を背にして笑うかね。一体その目で何を見据えている?」
「変わらねぇよアーチャー。初めて会った時、アンタに話したそのまんまだ」
だが気が触れているくらいでなければ、世界を破壊するなど夢のまた夢だ。
そもそも正気なら世界の滅びなど願わない。
社会に迎合して。誰かと足並みを揃えて。
背伸びはしないでなぁなぁに生きる。
理由が環境であれ人格であれその両方であれ、その妥協ができなかった者達は大輪の花を咲かせるものだ。
周りの全てを養分にして咲き誇る、悪の花を。
「皇帝(ロートル)共を蹴り落とす。力と知恵を貸しやがれ"犯罪王"」
「委細承知だマスター。ではまずは、我々の最高戦力である彼に助力を仰ごうか」
視界に映るのは蒼い龍だ。
新宿を滅ぼした二体のサーヴァントの片割れ。
本来ならばかち合うのは当分先になる筈だった相手だが、蜘蛛の巣を突くのならば是非もない。
不躾な来訪者にはこちらも精一杯手荒な歓迎をするとしよう。
「すまないが足止めを頼むよ、バーサーカー君!」
◆ ◆ ◆
鬼舞辻無惨は生前、神仏の存在など一切信じていなかった。
もしも実在するというのなら、千年もの間自分のような巨悪が跋扈することを許した無能だと嘲笑っていた。
英霊の座なる理が存在することを知った今では多少認識も変わっているものの…彼が神をも恐れぬ男であることは依然変わらない。
だがその彼をして今日という日を称するにはこんな表現を用いる他なかった。
私は疫病神にでも取り憑かれているのか――と。
“何故こうも想定を外れる。物事の全てが私の逆鱗の上で繰り広げられているかのようだ”
視界に入る龍の全容は天災と呼ぶしかないほど非現実的で荒唐無稽な規格をしている。
こんなものと何故真正面から向かい合わねばならなくなっているのか。
血管が切れそうな程の憤怒と脳裏を焦がす生存本能由来の焦燥。
「蜘蛛野郎の尖兵か? ずいぶんと貧相なナリだが…ロクでもねェ眼をしてやがる」
黙れ。
喋るな。
貴様如きが私を評すな。
「龍(おれ)を睨むとはいい度胸だ。業火で骨まで焼き尽くしてやるよ!」
龍の顎(アギト)が開く――地獄の窯を思わす光景。
そこに渦を巻く炎はデトネラット本社を焼き払った文字通りの業火だ。
彼こそは龍に化ける大海賊、地上における最強生物"百獣の
カイドウ"。
彼が明王として君臨したワノ国の民衆達…その誰もが心から恐怖した破壊と君臨の象徴。
龍という幻想種のパブリックイメージを地で行く天変地異が再び牙を剥く。
「『熱息(ボロブレス)』!」
それを前にした無惨。
しかし彼は無様に喚きはしなかった。
恐怖に震えもしなかった。
確かに
カイドウは強大な存在である。
その彼を最強たらしめる柱の一つ。
ゴッドバレーで女傑リンリンから譲り受けた悪魔の実の力。
それが弱いわけはない。
だが侮るなかれ。
浴びた恐怖と絶望、生み出してきた悲劇の数ならば。
無惨もまた
カイドウと同じ規格外の領域に達している。
「邪魔だ」
無惨の肉体から異形の肉が突き出した。
触手、触腕という形容が適しているだろう鞭のように靭やかな肉塊。
無惨がそれを用いて行ったことは決して難しいものではない。
迫ってくる火球に向けてただ全力で触腕を振り抜いただけだ。
大きさも見栄えも
カイドウのそれの比ではないが。
無惨の肉と
カイドウの炎とが激突した瞬間、それは起きた。
「…何!?」
カイドウの炎が、熱息(ボロブレス)が弾けたのだ。
弾けた火球は結合も勢いも失い大気中に溶けていく。
無惨は無傷で消耗している様子もない。
小手調べの色が強かったとはいえ、四皇の一撃をこうも容易く凌いだ芸当はお世辞にも弱者のそれではなかった。
「デトネラットの主は私ではない。殺したければ好きにしろ」
だというのに無惨は追撃をしない。
彼が放つのは攻撃ではなく言葉だった。
「お前達のような馬鹿共の戦いに巻き込まれたくはないのだ。
私が去れば連中の戦力は激減する。蹂躙なり略奪なりするがいい」
無惨としても連合には一定の利用価値を見出していた。
というよりもM、
ジェームズ・モリアーティの存在が大きかった。
約定通り新たな拠点を見繕わせるまでは利用し、美味い汁を吸う。
その後には殺すがそれまでは不服ながら生かしておいた方が利が大きい。
そういう腹積もりでいたのだったがこうなるとその気も変わる。
Mと組むことで得られる恩恵が目前のリスクと比べ下回っている。
「…お前、わかってねェな」
決して悪くない話だ。
それは間違いない。
無惨を欠いた現状の連合は戦闘力に限って言えば烏合の衆もいいところである。
ならば無惨の離脱はデトネラットに巣食った計略家を潰す上で間違いなく得になる筈。
理屈は通っている。
が、この理屈に一つ問題があるとすれば……
「確かにおれ達の目的はこのビルを根城にしてた蜘蛛野郎の素っ首だ。
だが此処に集まってる連中を潰しておくこともおれ達にとっちゃ利になる。
後でもう一度探して潰す手間も省けんだろうが」
「その蜘蛛を逃す可能性が高まるとしてもか? 随分と楽観的に物を考えるのだな。簡単な頭で羨ましいぞ」
「それがわかってねェって言ってんだよ」
無惨の眦がピクリと動く。
そんな彼に龍はニヤリと笑った。
不敵を体現するようなその顔はひどく無惨の神経を逆撫でする。
「目の前の財宝を妥協する海賊はいねえ」
確かに無惨という最高戦力が消えるのならば、蜘蛛殺しという本懐を遂げられる可能性は高まるだろう。
だがそれがなくとも
カイドウは蜘蛛を逃がすようなことにはならないと踏んでいた。
無惨の在不在は目的の達成に影響を及ぼさないとすら考えている。
その考えの源泉はひとえに自らの強さに対する自覚だ。
蜘蛛は殺す。
蜘蛛が巣穴で飼っていた仲間達も殺す。
両方を完全にこなす難易度は蜘蛛の実力も合わさって相当に高いが。
「だがおれと戦わずに済む方法が一つある!
ウォロロロロ…! おれの炎をハジいといて眉一つ動かさねェその実力は類稀なモンだ。
お前がおれの傘下に入るってんならおれも鉾を収めてやる。悪い話じゃねェだろう!?」
それができるからこそ彼らは四皇なのだ。
彼らの頭に不可能の文字は存在しない。
どれだけ無謀だろうが手を伸ばす。
荒唐無稽だと笑った奴らはブチのめして手を伸ばす。
彼らはいつだってそうしてきた。
諦めを知らない夢追人(ドリーマー)共の到達点こそが
カイドウであり、ビッグ・マムなのだ。
「あの鋼翼を仕留め損ねたことをそうまで気にしているとはな。図体の割には繊細な男だ」
「野郎の処理のアテはもう出来てる。これは純粋に手前の能力を買っての勧誘だ」
「……」
無惨は気位の高い男だ。
誰かの下に付くなんてことが許せる人格はしていない。
もしも顎で使われるようなことがあれば彼はどんな状況であれ、それが如何なる契約の許にある関係だろうと破壊するだろう。
しかし現実問題…敵を仕留め損ねたとはいえ新宿をああも完膚なきまでに破壊できる力を一先ず味方にしておけるのは破格の話だ。
そこについては無惨も業腹ながら異論はなかった。
どんな謀も正面から突破できる武力。
それと当分の間敵対を避け、雌伏し…その間に彼ら怪物共を退ける手を探るという選択も悪くはあるまい。
一時とはいえ傘下などに入らねばならない事実(屈辱)は脳髄を焦がすが、得られる利はあまりに大きすぎる。
「…鋼翼のランサーを処理するアテがあると言ったな。具体的な手の内を聞かせてもらおうか」
「ヤツとやり合って生き延びたとんでもねェ侍を見つけてな。
勧誘には失敗したが契約は出来た。あのランサーも相当な野郎だったが……侍って連中には侮れねェもんがある」
新宿を破壊した二体の片割れ。
鋼翼のランサーと仮称されるあの男は紛れもない怪物だった。
そんな男を殺すために用意した人材が言うに事欠いて侍と来た。
無惨の生きた最後の時代でさえ銃器の発展に負けて淘汰されていた連中が、英霊になったとはいえそこまでの能力を得られるものなのか。
訝るように眉を顰めた無惨に
カイドウは何処か上機嫌に続ける。
「そいつの腕と刀がありゃランサーは倒せない敵じゃねェと判断した。根拠はこれでいいか?」
「……」
根拠としては確かにこれで十分だろう。
だが無惨は沈黙した。
カイドウに対する敵意や猜疑心によるものではなく、もっと別な理由からの沈黙だった。
カイドウにとって侍は宿敵だが、それ故に一目置いている存在でもある。
一方で無惨にとっての侍も
カイドウと同じく宿敵だ。
しかしその意味合いは彼のそれとは大きく異なる。
「特殊な刀でも持っていたのか」
「あぁ。あれは妖刀の類だろう。首筋を掠めた程度だったが…ありゃ凄まじい。
何せ今でも傷が治らねェ程だ。ランサーの野郎もひょっとしたら今頃痛みでのたうち回ってるかもな」
赫い刀だ。
恐ろしい刀だった。
そう付け足した
カイドウの眼下で無惨の瞳孔が静かに肥大した。
何かを言いかけて一度止め。
それから無惨は改めて空を泳ぐ青龍へと問うた。
「その男は…日輪の耳飾りを付けていたか?」
――
鬼舞辻無惨は。
――神仏の存在を信じていない。
英霊になった今でも遥か彼方に逐わす彼らには何の力もないのだと蔑んでいる。
その彼が今この時ばかりは本気で祈っていた。
神仏に対してではなくとも、無惨のような男がただ無形の願いを掲げていたことだけは間違いない。
そうまでして避けたい事態があった。
決して聞きたくない言葉があった。
自分の何を捧げてでもあり得てほしくない現実があった。
「耳飾り? …あぁ、そういえば付けてやがったな。知り合いか?」
「――――」
無惨の眼がクワッと大きく見開かれた。
心底からの戦慄と心底からの動揺がその動作に同居していた。凝集されていた。
次の瞬間無惨が起こした行動は
カイドウへの返事でも更なる詰問でもなかった。
その痩躯から……ぶわりと、赤黒い色の染み込んだ茨の波を噴き出させたのだ。
「おい」
血鬼術――黒血枳棘。
自然で喩えるなら茨。
現代で喩えるなら有刺鉄線によく似たそれらは無惨の血をもとに成立した死の触腕である。
体内に無惨の血が入れば末路は即死か即座の鬼化のどちらか。
サーヴァントであろうと重篤な影響を受けることは間違いない。
それを仮にも交渉を持ちかけてきた相手に放つという行為の意味は…つまり。
「これは……そういうことでいいんだな?」
話は終わりだという暴力的な意思表示。
カイドウという怪物を相手にしている以上、そこには更に"命知らずな"という言葉が足されるか。
暴風を巻き起こして黒血枳棘を打ち払った青龍の鋭い眼光が地の無惨を睥睨する。
しかし無惨は彼以上に激怒していたし、それ以上に動揺していた。
呼吸は荒く弾み、青筋がところどころに浮き出た形相。
彼はこの界聖杯に召喚されてからというもの数多の苛立ちと憤怒を噛み締めてきた。
それはマスターの狂人ぶりに対してであり、他の某かに対してでもある。
だが――今の無惨が抱いている感情の激しさは、間違いなくこれまでのどれよりも荒れ狂っていた。
「私の力が入用だというのなら今すぐ件の侍を殺して来い」
目を閉じれば今でも鮮明に思い出せる。
忘れることなどできる筈もない。
今もあの侍に斬り刻まれた傷は無惨の総身に刻まれ続けているのだ。
肉の奥深くに何百年と残り続け、死を経ても尚消えることのなかった忌まわしい傷。
人間であることを止め、日光のみを敵として思う存分に人を喰らい続けていたかつての無惨。
その自負と驕りを完膚なきまでに打ち砕き膾切りにした男がいた。
赫い刀を振り翳し。
日輪の耳飾りを提げたおぞましき男。
無惨を鼠のように闇に隠れ潜ませた男。
神仏をも恐れぬ
鬼舞辻無惨に、初めて恐怖を与えた男。
「そうでなければ私が貴様を殺す」
カイドウが満足げに語った"侍"の情報はその全てが彼と一致していた。
否、そうでなくとも無惨には分かった。
誰よりもかの剣士を恐れた身であるからこそ分かった。
激突だけで都市を崩壊させる程の怪物共。
それと伯仲できる程の力を持った"耳飾りの剣士"。
これで人違いならば無惨は生涯で初めて神と仏に感謝の言葉を吐くだろう。
そんなことはあり得ないと分かっているから。
「お前とあのセイバーにどんな因縁があるのかは知らねェが……」
カイドウが無惨を見下ろす眼にもはや好奇の色はなかった。
そこにあるのは退屈と諦観。
つい先刻まで傘下に入れと勧誘を行っていた者がするとは思えないほど冷めた眼だった。
次の瞬間
カイドウの龍化が解ける。
どん――と揺れる大地。
地震を思わす振動を伴いながら着地した彼の姿は一言で言うならば鬼神。
無惨と彼の眷属達よりも遥かに大衆のイメージ通りの"鬼"の姿形をした、怪物。
「もうお前はいい。底が見えた」
失望を露わに吐き捨てたその言葉に無惨は憤ったが、それは屈辱から生じる感情ではなかった。
実際に対面していながらまだ分からないのか。
あの男を利用するなどと本気で考えているのか。
そんなことができると本当に考えているのか。
実際にあの剣を見たなら考えるべきことは利用でも泳がすことでもなく。
真っ先にあらん限り全ての手段を使ってあの男を潰すか、奴が敗走することに懸けて隠れ潜むことであろうが。
「そんなにアイツが怖ェなら会わないで良いようにしてやるよ。
こんな腰抜け野郎が此処まで生き残ってやがるとは…流石に思わなかったぜ」
「精々利用した気になっていろ阿呆め。あの男を軽んじている時点で貴様の末路は見えた」
金棒を構えて嘆息する
カイドウに対しての興味などはもはや無惨にはなかった。
耳飾りの剣士。
継国縁壱という名の人間を名乗る化物がこの地に存在していることを聞いた時点で無惨の選択は決まった。
Mも青龍も今となってはどうでもいい。
縁壱が死ぬまで全ての気配と痕跡を隠して雌伏に徹する。
それが無惨の決定だった。
縁壱が死なずに生き残ってしまった場合のことなどを考える余裕は今の彼にはない。
今の無惨を支配しているのは縁壱という稀代の超人に対する忌避感(トラウマ)。
合理性や細かな理屈など吹き飛ぶ程に峻烈な、動揺(ショック)だった。
“聞こえているな。細かい話は後だ。すぐに令呪を使え”
無惨は青龍と睨み合いながら、マスターである異形の精神を持つ女へ念話を飛ばす。
命じるのは令呪の使用。
彼女に手綱を引かれることをあれほど嫌っていた彼とは思えない命令だったが、これはそれだけ彼にとって状況が切迫していることの現れだった。
こんなところで油を売っている暇はない。
新宿を滅ぼしたサーヴァントだろうが何だろうが関係ない。
新しい拠点の話になど、もはや名残惜しさの一つも感じられなかった。
“この場から今すぐ貴様を連れて退避する。分かったら今すぐに令呪を使って私を呼び寄せろ!”
無惨はこと逃走することにかけては卓越したものを持つ。
彼がこうまで恐れる耳飾りの剣士ですら初見では無惨の逃走を止められなかった。
そんな彼もマスターという重荷を背負っている以上はこの場から逃げ出す判断はそう容易くは下せない。
しかし令呪がもたらす一時的なブースト効果さえあれば。
空間移動に等しい速度であの女を回収し、二体の怪物の手が届かない射程圏外まで逃げ遂せることも可能だろう。
“鬼舞辻くん。私、あなたにお願いするわね”
そうだ、それでいい。
令呪を使って救援を希え。
貴様の命令に従わされるなど腸が煮えくり返るなんて形容では済まない不快感だが今この時だけは寛大に許そう。
一画で足りなければ二画を重ねて私を強くしろ。
頭の涌いた愚図が私に貢献できるまたとない機会だ。
“令呪を以って命じます。Mさん達を助けてあげて、鬼舞辻くん”
「――ふざけるなァァァ!!」
無惨が咆哮した。
それと同時に彼の肉体が膨張し無数の触腕を振り乱す。
音を遥かに置き去って振るわれる触腕が鎌鼬めいた真空の刃を飛ばし、
カイドウは金棒を斜めに構えてこれを防ぐ。
最強の生物に堂々弓を引いておきながら、しかし無惨の激情は
カイドウではなく己のマスターへと向けられていた。
“あの女は…一体、何処まで……!”
異常発達を遂げた脳に走った血管がブチブチと音を立てて切れていくのが分かる。
もしも無惨が鬼にも英霊でもないただの人間だったなら、間違いなく彼は七孔噴血の末に憤死していただろう。
忌まわしき耳飾りの剣士の存在を知っておきながら逃げられない。
速やかに気配を消して闇に身を潜めねばならないというのに、これから悪目立ちをすることになる。
何をどう間違えたらこんな最悪の状況に立たされる羽目になるのか問い質したい心地ですらあった。
「思い通りに行かなかったみてェだな。顔に出てるぜ」
「黙れ!」
鬼舞辻無惨、激昂。
不退転を課せられた彼は単身最強生物と相対する。
全てを殺し尽くしたい、喰らい尽くしたくて堪らない苛立ちと衝動。
かつて鬼の始祖として君臨し傍若無人の限りを尽くした男も……此処では首輪に繋がれた一匹の猛犬でしかないのだった。
◆ ◆ ◆
芸能界という魔界を生きてきた。
日本中から集まった妖怪が所狭しと犇めく魔境をスキップで歩んできた。
その
星野アイが片膝を突いて口を抑え、逆流した胃液でその手を汚している。
それがどれほどの異常事態かは彼女がどれほどよくできたアイドルなのかを知る者であれば自ずと理解できよう。
アイドルは人前で汚い姿など見せない。
弱い部分など晒さない。
それなのに今のアイはどうだ。
顔を青褪めさせ、みっともなく吐瀉物を吐き散らしている。
ファンが見たら言葉を失いともすれば幻滅してもおかしくない姿。
しかしそれを指差し笑ったり揶揄したりできる者は恐らく居まい。
むしろ彼女達の前に立つモノが何であるかを一目でも見れば、白目を剥いて泡を吹いていないだけ上出来だと賞賛すらしたくなるに違いない。
“大丈夫か、アイ”
“…あんまり。てか、ちょっとやばいかも”
“無理もねぇよ。英霊(サーヴァント)のオレでさえ……心底(マジ)で戦慄(ブル)った”
覇王色の覇気。
大海賊時代を生きた豪傑達の中でもごくごく一部の者だけが習得できる雄々しきカリスマ。
立ち塞ぐ敵の全てを鎧袖一触に薙ぎ払うことすら可能とする覇気のエネルギー。
ましてや今回の場合それを振るうのは海賊達のハイエンド、四皇"ビッグ・マム"である。
それを間近で浴びて平気でいられる筈がない。
それが可能なのは彼女と同じかそれ以上の資質を秘めた超人だけだ。
「ン~? 何だい、女子供だらけのクセして存外タフじゃねェか。
おれの覇王色がこんなガキ共に耐えられる程ヌルいわけはねェんだが…界聖杯の野郎、まさか余計な真似をしたんじゃないだろうねェ」
ギロリと天を睨むビッグ・マムだが当然返答はない。
が、彼女の推測は的を射ていた。
可能性の器としてこの地に立つマスター達の存在はこの世界においては常人よりも一段上の存在として扱われる。
可能性の器、地平線の彼方に辿り着く資格の保有者という格(ランク)。
ビッグ・マム…シャーロット・リンリンの覇気を受けて尚アイやさとうの叔母、それどころか幼子であるしおさえ意識を保てているのはその恩恵だった。
もっともこれはリンリンにしてみれば至極不愉快な話であった。
本来なら覇気の放出だけで人事不省に叩き込めるような女子供が、ただ足腰立たなくなってゲロを吐く程度の被害で済んでいるというのは。
「おいおい、おれに一人で喋らせてんじゃねェよガキ共?
どんな手品を使ったのか知らねえが…おれの覇王色を耐え抜いてみせたんだ。名乗りくらいはあげたらどうだい? 無作法な奴らだねェ!」
ママママと呵々大笑するリンリンを前に殺島は苦笑するしかなかった。
確かに殺島は破壊の八極道の中では下から数えた方が早い程度の人材だった。
最強の極道と呼ばれた男はおろか、息子程の歳である幼狂にすら及ばない三下。
だが…それを踏まえても断言できる。
こいつは格が違う。
サーヴァントとしての格以前に、生物として格が違うと。
“アイ。令呪を使え”
“…仕方ないかな、これは”
“戦えって言うならそうするが…勝率はハッキリ言って1%あるかどうかってとこだろうな。
オレの宝具(オウゴン)も化物(モンスター)相手じゃ分が悪い。そこの電ノコ君の働きにほぼほぼ委ねることになっちまう”
殺島飛露鬼の宝具『帝都高爆葬・暴走師団聖華天』はマックス数万に及ぶ軍勢を召喚する強力な制圧宝具だ。
しかしながらリンリンのような圧倒的すぎる個を押し潰すには彼らはあまりにも向いていない。
最悪今しがた見せた覇気の解放一つで数割削られてしまうような事態もあるだろうと殺島は踏んでいた。
つまり、此処で戦い続けることはほぼほぼリスクしかない選択なのだ。
であれば令呪の一画を使ってでもこの鉄火場を離脱した方が利口であろう。
アイもそこに異存はない。
ないのだが。
そんな彼女達をよそに少年少女は言葉を交わしていた。
「らいだーくん、戦える?」
「…まぁ行けるか行けないかで言ったら行けるけどよ。お前は大丈夫なのかよ、今の」
「だいじょうぶだよ。へっちゃら、だから」
神戸しおと
星野アイならば覇道に通じる素質があるのは確かに前者だろう。
ならば覇王色の覇気を浴びたことによる負担も多少は軽減されるかもしれない。
だが前提としてしおはあまりにも幼すぎた。
狂気という名の武装をしていることを含めても。
可能性の器であるという特権を含めても。
ビッグ・マムの覇気を浴びておいて"へっちゃら"な筈はない。
「くえすと……ちゃんとやろ?」
「……お前、マジでこういう時ムチャクチャ言うよなあ」
地面にへたり込んで息を切らしながら笑う姿は明らかに空元気で。
だがだからこそ
デンジも嫌だ逃げようぜと正論を言うことができなくなってしまう。
デンジが目にしたどの悪魔よりも悪魔らしい化物を見上げながら…
デンジは嫌々一歩を踏み出した。
それからチェンソーにすげ替えられた頭でぐりんと振り向く。
「アンタはどうすんだよおっさん」
「負け馬に張る趣味はなくてなぁ」
「ケッ。まぁそんな事だろうと思ったけどよ」
溜息をつきながら前に向き直る
デンジ。
リンリンは彼の貧相な霊基を見透かしたように甲高く嗤った。
アイは心の中で小さく呟く――ごめんね、しおちゃん。
“私は生きなきゃいけないの”
アイとて人の子だ。
悪女ではあれど悪魔ではない。
この年頃の幼子を置いて自分達だけ逃げることに後ろ髪を引かれる思いがないと言えばそれは嘘になる。
だがそれでもアイはしおと
デンジに背を向ける。
彼女達の姿をよそに踵を返せる。
そうまでしてでも生きなければならないから。
そうしなければならない理由があるから。
「まって、アイさん」
その背中を引き止める声がかかる。
今まさに令呪を使おうとしていたアイの意識がそれに引かれる。
しおはアイの方を向いてはいなかった。
未知の強敵であるイカれた老婆に一人向かう
デンジの背中だけを見ていた。
されどそれはヒーローの背中に願いを懸ける無力な子どもの姿ではなく。
デンジという名の武器を振るって敵を殺さんとする可能性の器の形をしていた。
「もう少しだけまってください。らいだーくんがあのおばあちゃんを殺せるかもしれないから」
「ごめんね。私、その言葉で足を止めれるほど子どもじゃないんだ」
「そうじゃなくても」
しおが目指す未来は二人きりの楽園だ。
だけどこの世界で生きる彼女には家族のような仲間がいる。
それは一蓮托生のらいだーくんこと
デンジであり。
都市一つをすら自分の手の平で転がしてのける犯罪王モリアーティであり。
そして……
「とむらくんが来てくれるから」
神戸しおの好敵手(ライバル)である彼。
世界を壊すと豪語した彼。
彼がこの場に駆け付けないなんてあり得ない。
しおはそう信じていた。
そんなしおの言葉にはアイの心にも響く、強がりや我儘ではない心からの確信があった。
「だからもう少しだけ、まってください。おねがいします」
これは試練(クエスト)だ。
自分と彼を育てるための無理難題なのだ。
そんな難しい言葉は分からずとも。
しおは今この時にあっても、この現状をそういうものだと思っていた。
「本気で言ってるの?」
だからアイも思わず子どもに向けるべきでない言葉が出る。
子どもの言葉に"本気で言ってるの?"なんて大人げなすぎるが。
それでも言わずにはいられなかった。
それほどの重さがしおの言葉には籠もっていたのだ。
「うん。らいだーくんととむらくんが、必ずあのおばあちゃんをころすから」
そしてしおはやはり断言する。
勝つのは私達だと。
その言葉にアイは足を止めた。
殺島から聞こえる念話を受けても…それでも気付けばそうしていた。
なんて不合理。
なんて自殺行為。
そう分かってはいるのに。
それでもアイがそうしたのは彼女があらゆる嘘を知り尽くした偶像(アイドル)の中の偶像(アイドル)だったからなのかもしれない。
その言葉には嘘がなかった。
何処までも荒唐無稽で馬鹿げているのに嘘だけはなかった。
それが、アイの足と選択を止めたのだろう。
◆ ◆ ◆
カイドウが金棒を振り上げる。
そして振り下ろす。
それだけの動作であるにも関わらずそこには黒い稲妻が伴っていた。
武装色の覇気。
たとえ自然という概念を体現するロギアの能力者であろうともただの一打で打ち砕く武の極北。
最低ラインを音速として振るわれる重打はしかし空を切る。
鬼舞辻無惨は最強生物の一撃を躱したことを誇るでもそれに驕るでもなく、怒色満面の貌で血鬼術を解放した。
黒血枳棘の茨がシュルシュルと奇妙奇怪な音を立てながら押し迫る。
それは
カイドウの表皮に触れるなりその鋭利な棘で皮膚を破り、無惨の血を最強生物の体内に流し込まんとしたが…
“つくづく不快な男だ。私の血鬼術で薄皮一枚裂けぬとは…”
その体内へと続く傷(道)が開けない。
カイドウの皮膚は明らかに異常な耐久性を有していた。
いや。よしんば彼を流血させその体内に血を流し込むことができていたとしても。
それで果たして無惨の期待通りの成果を得ることが果たしてできたかどうか。
カイドウという生物の規格外ぶりを含めて考えれば、実に怪しいと言わざるを得ないだろう。
「やればできるじゃねえか。お前、おれの一撃を見てから避けやがったな」
「貴様のような野蛮人が私に向かって囀るな」
「ウォロロロ! よく吠えるじゃねェか…じゃあてめえは何だ?」
カイドウは笑う。
不敵に笑う。
「むせ返るような血の臭いが此処まで匂ってきやがるぜ。お前今まで何人殺した」
答える義理はないしそもそもそんな些末な事柄をいちいち記憶しておく程無惨は殊勝な生命体ではない。
強いて言うならば数えるのが億劫な程と答えるのが正しいのだろうが、重ねて言うが答える義理などないのだ。
無言を貫き、肉塊から成る有機の槍を数十と生成して
カイドウへ放つ無惨。
そんな彼を愉快そうに下瞰しながら明王は無惨をとある言葉で評した。
「人間の真似事は止せよ…鬼が。似合ってねェぞ」
カイドウ、金棒を一閃。
生じた衝撃のみで無惨の攻め手を全て薙ぎ払う。
次の瞬間その巨体が無惨の視界から消えた。
無惨の思考を驚愕が満たす。
次の瞬間、彼の腹部を中心に強烈な衝撃が炸裂した。
“ち――…!“
雷鳴八卦。
最強生物の代名詞たるその一撃は言葉で語るならただの打撃だ。
しかしその速度はまさに雷鳴の如き疾さで牙を剥く。
高速戦の世界に列席するに十分な力を持つ無惨でさえもが被弾を余儀なくされる超音速の一撃。
胴体の八割以上を吹き飛ばされながらも無惨は瞬時に肉体を再生。
彼に限って意趣返しなどという考えを思い浮かべる筈はなかったが、奇しくもその形になる行動へ無惨は打って出た。
全身の肉を蠢動させてバネのように扱い、自らの全身を"射出"。
カイドウへ肉薄するなり至近距離から叩き込む連撃の総数凡そ百二十。
カイドウはやはりと言うべきか金棒を構え防御したが…その少なく見積もって鋼鉄以上の硬度を持つ皮膚は確かに血を流していた。
「大した速さだ。耳飾りのセイバーにゃ及ばねェが」
瞬く間に無惨が追撃する。
かの侍を相手に張り合うつもりなどない。
無惨にとっての彼は恐るべき化物でこそあれど、対抗意識を燃やすような相手ではないから。
故に無惨はただ単純に"自分の前でその存在に言及した"という事実に憤激した。
さながら妖魔について言及する童のことを、不吉だから止めろと一喝する老人のように。
「道理も解らぬ蛮族が。その愚かしさは地獄で償え」
「道理なら解ってるさ。解った上で笑い飛ばすのが海賊(おれ)だ」
「そうかならば死ね」
何故この私がこんな戦いをさせられている。
あの男の存在を知りながら逃げることすらしていない。
現状への怒りはそのまま
カイドウに対する攻め手の苛烈さに直結する。
生半な攻撃では薄皮を裂くことすら叶わない最強生物の血を流させる、それだけの力を思う存分感情のままにぶち撒ける無惨。
今の彼はそうするしかない。
そうしなければならないように、目には見えない絶対の命令権によって無理矢理背中を押されている。
“認めること自体が業腹だが、埒外の強度を持っていることは確かなようだ”
並のサーヴァントであれば挽き肉に変えられて然るべき高速連撃。
それを受けておきながら僅かな流血で踏み止まっている
カイドウの異様さを、無惨は激情の中にありながらも確りと理解していた。
普通に刻んでいたのではいつまで経っても削り切れない。
血を流し込んで呪いを刻む手もあるが望みは薄い。
となれば万事休すと諦めて溝鼠のように逃げ回る以外手立てはないのか。
無惨はこの苦境に心底怒っていたが、しかしそれは否だと考えていた。
“ただ刻むだけでは糞にもならない。ならば…”
生前ならばまずあり得なかった、自分が戦略を立てて立ち回らねばならないという状況。
それそのものが無惨にとっては十分に憤怒の対象だ。
過去最大級と言ってもいい屈辱に身を焦がしている無惨を一顧だにせず
カイドウが再び暴を奮った。
再度の消失――高速移動。からの雷鳴八卦が無惨の半身を先刻の焼き直しのようにもぎ取るが。
その刹那、半身を欠いた無惨の体が溶けた鉄のようにどろりと歪んだ。
「気味の悪ィ体だなァ!」
無形の体は新世界の海賊にとって敵ではない。
自然(ロギア)を殴れる覇気を纏って
カイドウが一閃。
無惨はそれを巧みに掻い潜り、そこで人の姿へと回帰。
したかと思えばその右手で
カイドウの腹の、つい先刻自身が流血させた傷口に触れた。
「大層な体をしているようだが」
成程確かに怪物だ。
無惨もそれは認める他ない。
が。体表から深く刻むことが不可能だとしてもそれならそれで打つ手はある。
実に単純な発想だ。
外から破ることができないのなら、内側に直接響かせてやればいい。
「――所詮はただの肉袋だろう。蛮人如きが私を見下すな」
血鬼術、発動。
名など与えてすらいない、それにしては絶大すぎる出力の異能。
生前ただの一度の解放で迫る鬼狩りの群れを壊滅状態にまで追いやった無惨の虎の子。
それは俗に衝撃波と呼ばれる現象であった。
傷口を介して
カイドウの体内へと響いた衝撃波。
人体程度なら掠めただけでもお釈迦にできる破壊の力場を直接流し込まれれば…如何に四皇と言えども。
「お、ォォッ……!?」
無傷ではいられない。
涼しい顔ではいられない。
カイドウが漏らした苦悶の声。
それを聞き終えるのを待たずして、無惨は全力の衝撃を彼の胸板に叩き込んだ。
ぐらりと傾ぐその巨体は地面に背を触れさせた。
倒されたのだ、無惨によって。
敵の攻撃で倒されて天を仰ぐのは、此度の現界で二度目のことだった。
「おォ…ウォロロロロ! なかなか……効いたぜ、今のは」
口から垂れた一筋の血を拭う
カイドウ。
四皇に血を吐かせたその事実は紛れもなく誇るべき功績だ。
此処までの戦いで
カイドウに屠られてきたサーヴァント達は、皆いずれも彼の血の一滴すら拝めず終いだったのだから。
だが無惨の顔はあいも変わらず厳しいままだ。
少なくともそこには難敵に攻撃を通せたことを誇る色は微塵も見られない。
“化物め……”
無惨の見た目は既に五体満足、完全な状態に復元されている。
しかし彼の現状は実のところ満身創痍と言っていい状態だった。
カイドウの繰り出す打撃を浴びたことによる消耗が予想以上に激しかったのだ。
それもその筈、形なき自然すら捉える武装色の一撃ですら十二分に強力なのにも関わらず――
カイドウが振るうのは覇王色。
覇気の頂点たる力を横溢させた金棒で殴られたとあっては無惨の玉体もただでは済まない。
毒に冒されながら異常者共の相手をした忌まわしい落日の記憶が嫌でも蘇ってくる。
“だが…脆い箇所もあると分かっただけでも収穫か……”
無惨は常に最強だった。
それは鬼狩りとの最終決戦にあっても変わらなかった。
継国縁壱という例外こそありはしたが、無惨は端から彼の存在を勘定に含めてなどいない。
技を磨く必要などない。
工夫などせずとも腕の一振りであらゆる障害が砕け散る。
無惨にとってはそれが常だった。
なのに今の自分はどうだ。
憤死寸前の怒りを噛み殺しながら不合理な戦いに臨むことを強制され、まるであの鬼狩り共のように頭を回して難題に立ち向かわされている。
令呪の束縛さえなければすぐにでも逃げ出しているというのに。
無益な戦いに匙を投げることすら今の無惨には許されない。
「……」
奥歯を噛み潰しながら戦闘態勢を維持する。
カイドウは口許の血を拭って金棒を無惨へ向けた。
現代風に言うならばそれはホームランを予告する打者のような仕草で。
次の瞬間鬼神が黒い稲妻を纏わせながら得物を振り被る。
無惨は回避することに意識の大半を割きつつも、
カイドウの隙を縫って再びその体内に衝撃を打ち込む算段を練る。
秘術に依らず物理的な部位の多さを要因として実現する分割思考。
アトラスの本家本元達が見れば失笑するような力技でのそれが皇帝殺しの活路を開く微かな望みになる。
「鬼退治だ! ガラじゃねェがな、ウォロロロロ!」
「ほざけ――!」
停滞を引き裂く暴力と暴力の躍動。
それがいざや再開されるのだと互いの発散する凶気が予兆を醸す。
が…先手となるであろう
カイドウが動くよりも先に、彼らのどちらにも起因しない暴力的な熱光が夜闇の中で炸裂した。
「…あのババア!」
既に瓦礫の山になりつつあったデトネラット本社の残骸を文字通り消し飛ばす炎と光。
カイドウにとっては嫌になるくらい見覚えのある爆光だった。
天候を従える女(ビッグ・マム)のホーミーズ、プロメテウスの力だ。
「興が乗るのは結構だが、こっちに余波を飛ばしてくんじゃねェよ。全く……」
苛立ち半分呆れ半分といった様子で嘆息する
カイドウ。
とはいえ飛んでくる瓦礫や余波の炎は彼にとっては何ら致命的なものではない。
鬱陶しげに金棒を軽く一振りすればそれで終わる程度のアクシデントだ。
しかし。
単身で四皇の暴力と相対するのを余儀なくされている鬼の始祖、
鬼舞辻無惨の反応は違った。
「――――」
彼がその反応を見せるのは二度目。
驚愕に目を見開いて言葉を失っていた。
継国縁壱の存在を知らされた時程の動揺でこそないものの。
無惨は此方の戦場に飛んできた爆光とそれ由来の炎で燃えた瓦礫に一瞬の躊躇いもなく背を向けた。
「…なんだ、お前」
カイドウはそれを訝しげに見つめる。
そしてその背中に向け、何の感慨もなく無惨の最大の欠陥(ウィークポイント)を看破した。
「太陽に弱ェのか?」
答える義理も余裕もない。
しかしそれが答えだった。
ビッグ・マムのホーミーズが一体にして主力格の"プロメテウス"。
彼は、"太陽"のホーミーズだ。
鬼舞辻無惨は…彼ら鬼は。
太陽の光を浴びれば、死ぬ。
最終更新:2022年02月22日 07:16