地獄とは、一体どのようなものを言うのだろうか。
宗教的死生観における死後の世界、あるいは比喩としての地獄絵図。責め苦に喘ぐ死人たちが跋扈する、死と退廃に充ちた世界とも。
その語句は最早実態を失って、付随する様々な装飾と共に独り歩きを始めて久しいが、総じて苦痛と恐怖と絶望の具現と捉える者が大半であろう。
凄惨な殺人現場や事故現場、災害の跡地、あるいはそれらが過ぎ去った後の喪失と共に歩まされる日常。華やかなりし文明の灯が遍く神秘を暴き立て、宗教的価値観が意味を無くし、今や祈る神さえ失った現代において、地獄とはそうした生者の苦痛にこそ使われる語句であった。
そしてその意味で言えば、この東京内界にて発生した諸々の事象もまた、地獄と形容して差し支えないだろう。
新宿区、豊島区にて発生した大災害と、それに伴う万を超える死傷者。ライフラインや交通網は今を以て機能不全に陥り、親類縁者や友人、恋人を失った市民の嘆きで都市は埋まっている。惨たらしく損壊した遺体の数々まで添えられては、なるほど確かに、これ以上もない地獄絵図が幾度となく描かれたと言っていい。
で、あるならば。
今この時、世田谷区にて発生した"それ"もまた、同様に地獄であることに疑いはないだろう。
熱鉄の雨が降り、刀山剣樹が迫りくる、物皆全てを殺し尽くす鏖殺の愁嘆場。
人はそれを、等活第二小地獄と呼ぶ。
◇
その戦場に、悲鳴や嘆きは存在しなかった。
そんなものを上げられる人間は、最初の一撃で全て消し飛んだからだ。
"それ"を認識した刹那、
ベルゼバブは全身全霊での攻撃を敢行した。右掌中にて魔力を圧縮、空間が歪むと錯覚するほどの力の奔流が一点に収束し、次いで形作るのは漆黒の魔槍である。
ベルゼバブはそれを前方に掲げるように構え、地を蹴り上げると同時に極超音速での突撃を行ったのだ。
様子見、手加減、躊躇に油断、全て無用。王者としてのプライドと、無窮の練達者としての直感が、彼にその攻撃行動を行わせていた。竜巻のように激しく旋回しながら突き進む黒槍はまさしく万象削り穿つ穿孔削岩機そのものであり、例え敵手が如何な防御盾を使おうが諸共に穿ち貫くだけの威力を備えていた。
まさしく防御不能の魔撃に対し、言葉なく仁王立つアシュレイの取った行動は、あまりにも不可解で無謀なものであった。なんと彼は、避けるでも防ぐでもなく、徒手空拳のまま構えを取り、黒槍に対して迎撃態勢で応じたのだ。大地を割り抜く震脚が轟音を立て、抜き放たれた絶拳が空を絶つ。
衝撃が、生まれた。
音速を遥かに超える大質量同士の衝突が生み出す衝撃波が、炎に包まれる大地を抉った。二人を中心とした半径百数十mの大地が一気に爆ぜ、爆轟そのものである衝撃が吹き荒れた。数㎞彼方からこの戦場を観測した者がいれば、直上の灰色雲に穴が穿たれ、円形に吹き飛び、その向こうに隠されていた星空が一気に晒されるのを見ることが叶っただろう。膨大な運動量の局所的解放は、急激な上昇気流を伴う膨張エネルギーとなって弾け飛び、遥か上空にまで影響を及ぼしたのだ。
天を衝くような轟音が、周囲世界を震わせた。
あまりにも人智を逸脱した破壊の惨状。しかし
ベルゼバブの目に映った光景こそ、最も荒唐無稽を極めた現実であろう。無謀にも拳で黒槍に立ち向かったアシュレイの華奢な肉体は、旋回錐に穿たれ肉片と化す運命を覆し、何と逆に黒槍を粉砕。槍の破壊に飽き足らず、止まらぬアシュレイの拳はそのまま
ベルゼバブへと突き進み、彼の右頬のすぐ脇の空間を貫き、極大規模の風圧で以て
ベルゼバブの顔面を殴打してみせたのだ。
堪え切れず、その長大な体躯ごとを横合いに弾き飛ばされる
ベルゼバブ。ダメージこそ皆無だが、単純に叩きつけられた風圧に彼の体重が耐えられなかったのだ。強風に舞い上げられる木の葉の如く空中を錐揉み回転する
ベルゼバブが鋼翼による姿勢制御にて体勢を立て直すまでに要した時間はコンマ秒より遥か下。にも拘わらず彼が吹き飛ぶ原因となった青年の姿は既に地表から消え失せて、その瞬間には
ベルゼバブの背後にて独楽のように旋回するアシュレイの蹴撃が、三日月の弧を描いて
ベルゼバブの横腹に突き刺さった。無論のこと超反応にて防御姿勢を取るが、ガードに構えられた腕諸共叩き折り、胴体をくの字に大きくへし折られて
ベルゼバブの体躯は眼下の地表へと叩きつけられた。
弾け飛んだ、どころではなく、それはアシュレイの足を砲身として
ベルゼバブという弾丸を射出したに等しい有様であった。自身が超音速の弾丸と化して大地に叩き込まれた
ベルゼバブは、轟音と大量の土煙を噴出させながら、着弾点から軌道上の隣接家屋数軒ごとを岩盤諸共衝撃で削り取りながらおよそ二百mほどの距離を吹き飛ばされ、ようやく静止した。
噴き上げられた土煙と土砂の最奥では、砕かれた大量の岩盤と瓦礫片が舞い散る中に天を睨み付け直立する
ベルゼバブの姿があった。防御と姿勢制御に相当な力で踏ん張ったのだろう、彼の足元には後退させられた距離と同じだけ、直線状に抉られ削り取られた岩盤の痕が二本、くっきりと線を描いているのであった。
「小癪な……」
遥か彼方、未だ以て中空にて足を蹴り上げた姿勢で滞空する敵に向かい、呟く
ベルゼバブの表情は鋭く、まさしく剃刀めいた鋭利さを見せていた。それが意味するのは屈辱と怒り、されど癇癪のままに喚き散らす幼稚な怒りでは断じてない。そこには冷徹なまでの戦士としての風格と技量が垣間見えていた。
「消え失せろォッ!!」
言葉と同時、
ベルゼバブの腰部より鋼の両翼が刀剣めいた金属音と共に展開。多量の魔力が次々と発生、収束し、数百を超える漆黒の棘羽が機関銃の如くに撃ち出されたのだ。
曰くブラック・フライ。あるいは漆黒の棘翅(バース・オブ・ニューキング)。天使型星晶獣のコアによりもたらされた錬鉄の棘翅であり、その一つ一つが凡百の英霊を殺傷するに足る驚異的な威力を保持する。それらは一直線に、あるいは弧を描き、あるいは螺旋状に回転しながら全方位よりアシュレイに殺到。その矮小な体躯を刺し貫き、圧倒的物量によって押し潰さんと迫るも。
「笑止」
その総てが、アシュレイの体表に到達するより先に蒸発して消え失せた。
弾かれたのではない、逸らされたのでもない、消滅したのだ。それを為したのは彼を覆う紅焔によるものであり、鋼鉄など及びもつかぬ神域の棘翅を、それも超音速で飛来したそれらを一瞬のうちに気化状態まで昇華させたという悪魔的な事実が、そこにはあった。
「貴様は……」
ベルゼバブの言葉は、硬い。遊びや油断は断じて最初からなかったが、しかし今や侮りの感情さえ完全に失せ果てていた。
「貴様は、なんだ……!」
「語るに及ばず」
答えると同時、アシュレイの体は雲霞の如くに消え失せ、次いで音の壁を越えたことによる爆轟する大音響を引き連れて
ベルゼバブの胸元まで近接、その右拳をアッパーカットの要領で真っすぐに
ベルゼバブの鳩尾目掛け突き入れ、ガードに差し込まれた掌に受け止められた。
その一瞬に訪れる膠着状態の最中、
ベルゼバブは改めて敵手の相貌を視認した。赫怒と殺意に猛るアシュレイの総身は、最早先刻とは全くの別物と化している。
ハイペリオンの特性として、火炎の発生とその纏身が挙げられる。基本的な性質はそのままに、しかし生じる規模が余りにも違い過ぎた。
人が炎を纏っているのではない。炎が人の形を取っているのだ。尽きせぬ炎が物理的な質量さえ伴って、あろうことかアシュレイの肉体的頑強さを補う外骨格として機能していた。
その熱量を無秩序に放射すれば一都市が容易く消滅するだろう。そう思わせるほどの魔力の高まりが、しかし外部には一切の影響を及ぼさず付属しながら、立ち昇る膨大な獄炎となって渦巻いている。その様を指して、
ベルゼバブの小手先の一撃で倒れ伏した凡俗と同じであるなど、誰が言えるのか。
そして、語られる口調から受ける印象もまた同じ。
アシュレイ・ホライゾンとは一線を画す何者かが、彼の口を借りて言葉を手繰る。
「俺は名乗るに能わぬ塵屑だとも。光の宿痾を抜け出せず、相も変わらず殺すことしか能のない救い難い愚者に他ならない。
強く優しい片翼のようには終ぞなれず、今もこうして悪よ死に絶えろと希うばかりの恥知らず。
そう、お前のような救えぬ悪が蔓延る限り、俺は何度でも現れよう」
それは
アシュレイ・ホライゾンの持つ第四宝具、その"前段階"。
煌めく赫怒の翼が、今まさに
アシュレイ・ホライゾンという門に手をかけ、無理やりにこじ開けようとしているのだ。
アシュレイの意識の消失を契機として起動したこの形態は、取り繕うまでもない暴走状態。今も秒ごとに彼の霊基は崩壊し、肉体は多大な過負荷に断末魔の叫びを上げている。纏う装飾が金色に輝くは臨界寸前の証に他ならず、そもそも発動に必要な魔力が存在しない現状、発動に至ってしまえば不発に終わり、アシュレイと"彼"は諸共に消滅する末路を辿る以外にない。
そんなことは、"彼"とて百も承知している。
だが、その程度のことが足を止める理由に、果たしてなるのだろうか?
「人々の幸福を、希望を未来を輝きを───守り抜かんと願う限り、俺は無敵だ。
来るがいい! 明日の光は奪わせんッ!」
「ほざけよ小蠅がァッ!!」
絶叫と共に、
ベルゼバブは掴んでいたアシュレイの拳をいなし、逆の腕を水平に振り翳し抉るような回転を利かせたフックを放つ。
アシュレイはそれを僅かに首を傾けるのみで回避し、同時にのたうつ蛇のように跳ね上がった手刀の一撃が
ベルゼバブの首を狙い、既にそれを予測していた
ベルゼバブはパンチ動作の遠心力を利用して踏み込み様に反転・回避してアシュレイの背後に回り込み、それを追うように振り返ったアシュレイの左脚がマッハコーンを伴って弧を描き、それすらも予見済みの
ベルゼバブは上体を仰け反らせて回避する。
拳と蹴撃の応酬は、当然ながらその全てが極超音速に至った絶技に他ならない。その技は共に練達という言葉さえ侮辱にしかならないほどに練り上げられ、武の極みに達している。最早余人には回避はおろか、その動作の視認さえ絶対的に不可能な領域に到達しているのだ。
物体の動作速度を速めるにおいて、まず第一に音の壁、第二に熱の壁というものが立ちはだかる。空気の圧縮性の影響から生じる造波抗力の急増、断熱圧縮による体表面の急激な温度上昇。そうした負荷の存在により、高速機動の実現には推進力の確保よりもむしろそうした負荷に耐え得る耐久性の実現こそが課題とされてきた。
だが二人は、そんな壁など知らぬとばかりに超絶的な高速戦闘を行っているのだ。本来ならば生身でこの速度域に達すれば肉は剥がれ、骨は砕け、超高温の反動により総身が燃え尽きて然るべきはずであるのに。なんという不条理か、両者はサーヴァントの中にあってさえ荒唐無稽と呼ばれるであろう速度域でひたすらに殴り合っていた。
交わらぬ拳打の応酬はついに互いが互いの右手を鷲掴むことで再びの膠着状態へ移行し、次瞬、両者は上体と首を仰け反らせ、渾身の力を込めた頭突きで以て衝突した。激突に際し今までに倍する衝撃が発生し、大地は幾度目かの激震に揺れ、二人を中心とした戦場は巨大なハンマーを振り下ろしたかの如くに捲れ上がっていく。
両者の攻撃は全くの互角。互いが互いの威力でたたらを踏み、よろける様に後退すること0.001秒。先んじて戦闘に復帰したのは
ベルゼバブの側であり、弦の如く引き絞られた右腕に顕現するは漆黒の魔爪。曰く「黒銀の滅爪」と呼ばれるアストラルウェポンに同じく漆黒に染まる魔力の奔流が収束して渦を巻き、拳打と共にアシュレイへと炸裂。彼が纏う直径十mほどの紅焔を、更に容易く呑み込む規模の超巨大な黒い竜巻として発生したのだった。
その直径、およそ二百m。誓って加減のない、殺す気で放たれた全身全霊の一撃である。仮に山間へ向けて放たれたならば中腹ごとを削り取り巨大な空洞を開けてしまうだろう超威力が、たったひとりの矮小な人間に向けて放たれたのだ。当然ながら射線上にある民家の悉くなど一たまりもなく、既に無人の荒野に等しかった住宅街の残骸が、更に丸ごと抉られ削られて、完全なる焦土になり果ててしまっていた。
高位の三騎士級サーヴァントであっても致命傷は免れぬ一撃、しかし
ベルゼバブに油断はない。彼は更に自身の周囲、そして上空の広範囲に至るまで更なる武装を顕現。白亜の光輝に彩られるは神器めいた荘厳さを醸し出す光芒の槍であり、その見た目に相違なく燦然と輝く光の魔力を内包した聖槍に他ならない。
銘をロンゴミニアド。世界の果てを刺し貫く聖槍と同じ名を冠したその槍は、今や百や二百では利かぬ数を展開され、その照準を闇の波濤によって吹き飛ばされたアッシュただひとりに向けていた。
「輝きの中に散華せよ、『カレイドフォス』ッ!」
刹那、放たれる白銀の光条───圧縮射出された光の軌跡が、雪崩を打ってアシュレイに殺到した。
全方位三百六十度、逃げる隙のない包囲殲滅である。陽子加速の原理で射出された光条は瞬間的に秒速5000mを突破、光という本来曲がらぬはずの運動ベクトルすら捻じ曲げてホーミング追尾する様はまさしく不条理の具現そのものであり、威力もまた耐久に優れるサーヴァントを一撃のもとに消し炭にする熱量を誇るため回避も防御も不可能。アシュレイはこのまま、光槍によって串刺しにされる未来しか待ち受けてはおらず。
「まだだッ!!」
当然ながら、その程度のことでは星の救世主は殺せない。
裂帛の気合と同時、瞬間的に膨れ上がる魔力が桁を二つは飛び越えて圧倒的な強化を成し遂げた。ハイペリオンの炎が輝きを増し、周囲を守る力場として展開、ロンゴミニアドの光を捕捉する。炎の焦熱圏内に到達したレーザーを、あろうことか逆に食らい、呑み込み、無力な光の粒子と分解して取り込んだのだ。それはまさしく非物質さえ焼き尽くす魔性の炎に他ならず、彼はこの土壇場で純粋な出力向上はおろか性質進化の業まで達成したということを意味していた。
勢いを増す業火は尚も嵩を増し、濁流の如くうねっては
ベルゼバブへと殺到した。触れるものすべてを焼き滅ぼす焦熱の波濤はまさしく地獄の顕現であり、先とは真逆に
ベルゼバブの危機と陥るが、しかし。
「なるほど───こうかッ!」
覚醒、覚醒、限界突破───不条理が巻き起こる。
灼熱の業火を前に笑みを浮かべる
ベルゼバブは、何の冗談かこれまでの全力を更に上回る出力を獲得。総身から放たれる魔力の波濤は更なる威力を得て、炎の濁流に呑まれるも体表に触れるより先に相殺を続け、振るわれる腕の一閃により逆に炎を払いのけて見せたのだ。
それは魔力そのものへの感応現象であり、星辰奏者の星辰体制御と全く同一の術理であった。魔力、すなわちエーテルの操作については
ベルゼバブもまた一端の戦士であり、術者であり、稀代の研究者でもあったが、その経験値と知識、類稀なる術式センスによって、この土壇場でアシュレイの扱う異能形態を解き明かし、己が力と変えてしまったのだ。
「貴様にできた業ならば、余にできぬはずなかろうよッ!!」
「然り。未来へ懸ける人の意思の躍動を前に、不可能などこの世にありはしない。故に」
揺らめく炎の中、静謐に構えるアシュレイが告げる。
「俺も更なる高みへ至るとしよう。そうでなくば、お前の敵たる資格なしと断言する」
そして巻き起こる不条理───雄々しき宣言通り、アシュレイもまた覚醒と限界突破を成し遂げる。
膨れ上がる熱量が局所的な嵐となって、
ベルゼバブを呑み込んでも止まらず核爆発めいて轟き唸る。周囲二百mの半球形状に広がった炎のドームは内部温度を摂氏6000度を超えるまで上昇させ、しかしそれは攻撃のために放たれたものではなく、"彼"の顕現に伴い自然発生した、呼吸も同然の生態現象でしかないことを、
ベルゼバブの慧眼は見抜いていた。
ベルゼバブへと向け、掲げられる右腕。そこに凝縮されつつある魔力はこれまでの比ではなく、滾る決意に呼応して破滅的なまでに圧力を増大させた。
焔の神核が叫びを上げる。収縮、創生、融合、装填───終焉が舞い降りる。
「創生───純粋水爆星辰光(ハイドロリアクター)」
───そして、世界は白一色に塗りつぶされた。
その日、202■年8月2日午前0■時■8分42秒、東京世田谷区に"太陽"が顕現した。煌めき照らされる世界が、その一瞬だけ完全なるモノクロと化した。
それは重水素と三重水素の核融合第一段階から生み出された戦略兵器。人類が未だ到達していない核融合のみを用いた純粋水爆。
解き放たれた大熱量は絶望的なまでに巨大だった。広島型原爆3000発分に相当する熱核エネルギーは最早一サーヴァントが出せる出力上限を遥か逸脱しており、如何な防御宝具を用いたとして純粋な威力のみであらゆる概念的防御を突破できるだけの火力を有している。
本来ならば東京二十三区どころか、関東一円を根こそぎ消滅させて余りある大熱波。しかしそれを、"彼"は極限の集束性で以て直径500mの大火球まで圧縮し、
ベルゼバブただひとりを狙い撃ったのだ。
それはまさしく、世界という漆黒の画布に空けられた巨大な空洞と言って差し支えなかった。
夜の闇を真っ向塗り潰す、あまりに巨大な白亜の球形。轟音は、そこにはなかった。音を伝播させるために必要な大気が、周囲一帯から完全に消滅していたのだ。
これこそ"彼"の前身、形持たぬスフィアの眷属であった頃の名残、すなわち天奏の残滓である。
そもそもハイペリオンとは厳密には火炎発生能力ではなく、"彼"という中継点を経由して天奏の炎を現実世界に召喚するという異能であった。
"彼"が天奏の眷属ではなく烈奏という独自のスフィアに至った今、最早その異能をかつてのような形で行使することはできない。天奏という特異点へアクセスする手段は、この聖杯戦争には存在しないからだ。
それが意味することはただひとつ。"彼"の中にほんの僅かに残った天奏の残り滓を、今までハイペリオンという疑似的な宝具として行使していたということ。
ならば、同じく天奏の残滓を行使することなど、"彼"にとっては造作もないことで───
アシュレイの肉体に、これまでに十倍する負荷をかけることを代償に、この一撃を成し遂げたのだ。
今やアシュレイの肉体は、比喩ではなく全身がひび割れていた。まるで強く打ったガラス細工であるかのように、しかしひび割れる全身から光と熱を放出させて、文字通りの炎となりつつ尚も激しく燃え盛る。
白熱光球の只中から、その全容に比してあまりに小さな何かが、勢いよく飛び出てきた。それは全身を激しく焼け爛れさせながら、しかし四肢の一つにさえ欠損の見られない
ベルゼバブの姿であった。彼は炭化する体表にすら構うことなく、墜落するように下方へ飛来しつつも視線は真っすぐアシュレイの方向へ向けていた。
「潰れて果てろ、忌々しい害虫めが……!」
総身を焼かれ、なれど尽きせぬ戦意と共に、
ベルゼバブは鋼の両翼を展開。舞い散る刀剣の羽根は剣呑な輝きを放ち、夜闇に怪しく光りながらも夜空に映える星の如くに空域全体へ拡散する。
そして次瞬、僅かな光と共に変化するは更に剣呑な輝きを放つ壮麗な武器群であった。対人仮想宝具群アストラルウェポン───日輪を象る炎熱の斧剣「ソル・レムナント」、運命さえ切り裂く蒼銀の輝剣「フェイトレス」、森羅万象を司る大地たる生命の力持つ玉杖「ユグドラシル・ブランチ」、風と祈りを加護と変える弦楽器「イノセント・ラブ」、そして今まで彼が使ってきた「ロンゴミニアド」と「黒銀の滅爪」も含め、多様な武器群が遥か空を覆い尽くしたのだった。
その数、百や二百では利かず、千の大台を超え、今や万の域にまで到達せんとする極天の流星雨である。その一つ一つが超高ランクの対人宝具に匹敵する神秘の塊であり、こと他者を殺傷するという性質においてみれば、同ランクの宝具群の中でも更に優れた性能を持ち合わせる、まさしく必殺にして必滅の鉄雨に他ならない。
その一刺しで並みの英霊を容易く屠れる一撃であり、壊れた幻想(ブロークン・ファンタズム)の行使においては対軍・対城宝具に匹敵する。単純な物量においても規格外の攻撃行動であるにも関わらず、絶対の覇者たらんとする暴虐の王は質においてさえ最上を志しているのだ。
振るわれる腕の動作に反応し、万の宝具群がまさしく地表へ殺到する流星群と化してアシュレイへと押し迫る。速い、目では追えない。生身の体では避けられまい。光に匹敵する速度を持ち、あるいは別次元へ逃避する手段を持ち合わせていなければ。
例え避けたとしても、破砕し拡散する致死の魔力波によって殺される。
ならばこそ───取るべき行動は迎撃を置いて他にない。
アストラルウェポンの展開範囲は直径250mの球形状空間内。その体積は半径である125の3乗×円周率πである3.14×4/3で8177083.2立方m。
気温30度で空気重量が1.225グラム立方mと仮定して理想的な爆発を起こす比率に再設定。蒸気密度は2.00、蒸気圧は59kPa。必要とされる量は体積×必要物質の体積比率×空気重量×同じ温度における蒸気圧での同じ体積の重量比。瞬時に計測を完了する。
「集圧・流星群爆縮燃焼(レーザーインプロージョン)」
それは莫大質量の連鎖的爆縮現象。類似した事象として粉塵爆発が挙げられるものの、しかしそれとは比較にならない凶悪性を以て加速度的に増殖し続ける小型の劫火。
対象座標へ殺到する無数の爆熱、夥しい数の燃焼反応。それは間接的に大気圧さえ変動させて、同じく迫りくる無数の宝具群を片端から呑み込んでは滅却していく。
火力面においては純粋水爆星辰光のほうが上であるが、こちらは制圧可能な範囲において遥かに上回る。対象空間座標内の全方位360度を隙間なく熱と外圧で押し潰す様はまさに人工のブラックホールと言うべき代物であり、如何なアストラルウェポンでも単純な耐久力の問題から耐えられない。
万の光輝が万の劫火に包まれ消える、その刹那。
「なるほど、大口を叩くだけはある。しかし!
貴様も所詮、摂理の内側に在るのだと教えてくれよう!」
その熱を飛び越えて、
ベルゼバブは凶悦に歪んだ形相と共に進撃を開始した。
その手に現出するは漆黒の魔力であり、しかし今までとは規模が違っていた。未だ彼の掌中に収まる程度の光球であるそれは、しかし物皆全てを呑み込むであろう理外の気配を放ち、今も妖しく明滅しているのだった。
仮にそれが放たれたならば、万象一切灰燼と帰し後には何も残るまい。アシュレイを取り巻く業火にせよ、それは全く同じことであった。
そして対峙するアシュレイは───大きく軸足を踏み込み、四足獣が如く低身に構えを取りながら、抜刀術の姿勢に入っていた。
その手にはアダマンタイト刀の柄が握られ、しかしその刀身は既に
ベルゼバブによって根本から粉砕されているはずなのに。
ならば見るがいい、その剣を。
白銀の鍔より先には、まさしく紅蓮に染まる不可思議な刀身があった。燃焼し、爆縮し、今もなお燃え盛る炎の剣であるかの如く。そして実際、これは固体としての形状を持たない炎の剣であるのだ。
核融合・極限集束。剣状の空間内において莫大量の質量を放射、核融合反応を引き起こしてその熱量と気圧を上昇させつつ、減った分の質量を更に放射し……という工程を秒間数万回繰り返すことで形成した、原理としては太陽核と全く同じものを、"彼"は行っていた。
仮にこの場に解析能力を持つサーヴァントがいるならば、算出された解析結果に言葉を失うに違いない。熱量にして3.8×10^8ケルビン、気圧にして1.56×10^17hPa。常軌を逸したその質量は、気化状態でありながら鋼鉄の1万倍を優に超える密度で粒子を循環させ、今も激しく燃え盛っているのだ。
当然ながらそんなものを収められる鞘などなく、しかし紅剣の周囲の空間は変調をきたし、熱量によってではなく奇妙な歪みを見せていた。その歪みが、物理的な障壁となって剣を鞘走らせるための器と化しているのだ。
そう、"彼"は世界そのものを鞘として抜刀を行うつもりなのだ。
暗黒天体を手に振り翳す
ベルゼバブ。
恒星剣を手に居合抜刀の構えを取るアシュレイ。
視線の交錯は一瞬にして、死線の衝突は唐突だった。
「神威抜刀───秘剣・加具土命」
───次瞬、世界が"ズレ"た。
縦真一文字に斬り上げられた神威抜刀は、比喩ではなくまさしく世界を断割した。
ベルゼバブの放つ混沌の魔力、すなわち天に生じた虚空の孔、有象無象を消し去る重力崩壊に等しいケイオスレギオンの胎動を真っ二つに両断。
混沌の波濤を、魔力だけではなく熱・音・衝撃さえも魔力から生じた世界の変化ごと斬り砕き。
のみならず、その途上にある空間を、更に向こうに広がる星々の輝く漆黒の天蓋を、彼方に見える渺茫たる地平線を、まるで世界という卵の殻を内側から破るが如く、切り裂いてみせたのだ。
それすなわち、アッシュの持つ恒星剣が今や膨大な熱量と質量のみならず、空間切断の性質さえ獲得し始めた証左に他ならない。
この結末に堪らぬのは
ベルゼバブである。彼はケイオスレギオンの魔力球を切断されると悟るや、培った超反応で以て身を捻り斬撃を回避するも、左側の鋼翼と左腕とを斬り飛ばされ、多量の鮮血を空にまき散らした。
漆黒の羽根を舞い散らせ、凄まじい形相にて地表のアシュレイを睥睨し、しかし斬撃の余波に抗うこと叶わず彼方へと墜落していく。
それを見届け、アシュレイもまた、更なる闘争と決着のため歩みを進めようとした。
その時であった。
「───駄目だよっ!」
孤軍で歩むアシュレイの背から、声と共に抱きしめる誰かの腕。
それは行かないでと言うように。
あるいは、もういいよと言うように。
何ら敵意を感じさせない声だった。そこに含まれる感情は、決意と、哀しみ。
「そっちに行っちゃ、駄目だよ。もうこんなにボロボロで、傷ついて……
何がなんだか分からないけど、でもこれ以上あなたがそんなになってまで一人で背負うことなんて、ない!」
それはキュアスター/
星奈ひかるの、必死の呼びかけだった。
少女の声などまるで聞こえていないように尚も歩みを進めようとするアシュレイの体は、今や見るに堪えぬ有様を晒していた。
端的に、生者のそれではなかった。纏う炎は彼自身をも焼き尽くしたかのように、アシュレイの総身は燃えて炭化した木切れのように黒く、細く、かつての面影など何処にも見えない。
全身がひび割れ、目口から炎を吹き出し、腹に空いた穴は最早流せる血さえないのだろう。今や彼は哀れな焼死体に他ならず、むしろなぜ今を以て動き続けていられるのか不思議なほどだった。
それはひかるにとって、あまりにも悲痛で、泣き叫びたいほど悲しい情景だった。人一倍感受性の強い彼女である、自分以上に他人が傷つく姿を見るのは、とても痛々しいことであったから。
そして、事はそれだけではない。
ひかるには、どうしても彼を止めなければならない理由があった。
「それに……それに、"それ"だけは絶対に駄目なんだ。
傷つけるのも、傷つけられるのも、仕方ないことなのかもしれないけど……でも、それを仕方ないって諦めることだけは、絶対にしない!」
───
星奈ひかるは、本当の悪党を知らない。
無論、世に悪党や犯罪者が溢れていることは知っている。それによって生まれる哀しみも知っている。けれど、彼女はキュアスターとして戦ってきた中で、いわゆる本物の悪に出会ったことはなかった。
誰もが戦う理由を持っていて、誰もが本当は誰かを傷つけたくなんかなかった。
ノットレイダーたちは、自分の故郷である母星を失い、生きる場所を探していた。
侵略に遭い、不当に奪われ、嘆きと共に必死に手を伸ばした。プリキュアとノットレイダーの対立とは結局のところ生存競争の延長線上に過ぎなかった。
諸悪の根源と呼べるだろうダークネスト───蛇使い座のスタープリンセスとて、最初にあったのは些細な行き違い。それがいつしか取り返しのつかないことになって、ずっと苦しんでいただけだった。
だから、この聖杯戦争において出会った"本物"を、
星奈ひかるは理解も共感もすることができなかった。
楽しむために誰かを傷つける。殺人に恥も躊躇も罪悪感も感じない。そんな人間が、本当にいるということが、額面通りの知識としてではなく実感として信じられなかった。
だってそうだろう。人が死ぬのは、悲しいのだ。
どんなに言い訳しても、人が死ぬことはあまりにつらく、悲痛で、涙をもたらすものなのだ。時代や国の違いによって、その本質が揺らぐことはない。
だからひかるは信じることができず、認めることもできず───あるいは、そうした"悪"を容赦なく打ち倒そうと思い詰めたことさえあった。
正義の味方ではない、悪の敵。
そうした在り方を是として、迷いすら投げ捨てて歩もうとしたこともあった。
けれど。
「けど、そんなのは逃げなんだ。あれは悪い人だから仕方ない、悪党なんだから死んで当然、殺して全部見なかったことにしよう、なんて。
そんなの、つらいことから目を背けて楽なほうに逃げてるだけ。私はようやく、そんな簡単なことに気づいたから……!」
人を傷つけてはいけない。人を殺してはいけない。
突き詰めれば、話はこんなにも当たり前で誰もが知っていることであるはずなのに。
悪の敵を志そうと、かつて一瞬でも思ったことのあるひかるは、本物の"悪の敵"を目の前にして、思ったのだ。
───ああ。自分はきっと、こんなふうにはなれない。
「だから、戻ってきてください……!
あなたにはまだ、帰るべき場所があるはずです! 待ってくれてる人もいます!
私、聞きました。七草にちかさんは、あなたのことを信じて待ってる! だから!」
焔に包まれるアシュレイを抱きしめて、当然ながらひかるもまた炎に焼かれていた。
付属性によって望まぬ誰かに影響を与えないはずの炎は、しかし今やその限界値すら超越したのだろう。触れるひかるの肌を容赦なく焼き焦がし、耐えがたい激痛を彼女に与えていた。
彼らの足元に広がるは、赤熱化し溶解し始めた地面である。臨界点はほど近く、あと幾ばくかもしないうちに限界が訪れようとしていることは明白だった。煌翼の完全顕現、そして足りぬ魔力による双方の完全消滅。破滅の未来はほど近く、それを本能的に理解して、しかしひかるは諦めない。
星奈ひかるは、もう、何も諦めない。
光のため? 希望のため? 自分以外の誰かのため?
うん。そんなふうに雄々しく吼えることができたなら、きっと良かったんだろうけど。
でも、それ以上に。そんなことより。
私は、みんなに笑っていてほしいから。
誰かの涙を、もう見たくなんてないから。
「戻ってきて、ライダーさん!」
◇
七草にちかは、ぼんやりと彼方を見つめていた。
世田谷区の外側に位置する路地の上。アーチャーを名乗る中学生くらいの少女に連れ出され、必死の逃走を敢行して、辿り着いた避難地。
決して安全であるわけではない。そんな路地の一角に、彼女はいた。
田中摩美々と、もう一人の自分もいた。二人は共に気を失って、軍人のアーチャーと一緒に寝かされている。
それでいいと思う。だって、あんなものを見ずに済んだのだから。
「……はは」
渇いた笑いしか出てこない。何もかもが唐突すぎて、どんな感情を出力すればいいか分からなかった。
いきなり敵に襲われた。
逃げたと思ったらとんでもないのに襲われた。
死ぬかと思った。
そしたら、ライダーがなんか凄いことになった。
そしてまた逃げ出して、ここまで来て。ああ、自分はいったい何をしているのだろうか、と。
分かるはずもない。にちかは、今まで何もわかっていなかったのだ。
「ね、ライダーさん。生きてますか?
死んで、ないですよね。私のこと、置いてかないって、言ってくれましたもんね」
───俺は、置いていかないよ。
───君を置いて、いったりしない。
その言葉を覚えている。決して、決して忘れたりするもんか。
信じてる、だなんて無責任なこと、軽々しく言えはしないけれど。
怖くない、なんて口が裂けても言えないけど。
でも、それでも。
今もあそこで戦ってくれているであろうあなたのことを、私は、信じてあげたいから。
「……帰ってきてください」
それは、無意識の祈りだった。
にちかは神なんて信じていないけど、それでも思う気持ちがひとつ。
それは神にではなく、自分にでもなく、大切に思う誰かへ伝われと祈る気持ち。
「帰ってきてください、ライダーさん」
そして。
彼女の腕が、ほんの微かに輝いて。
◇
───誰かに呼ばれた気がした。
声も何も聞こえず、それでも誰かに呼ばれた気がする。
そんなよく分からない感覚と共に、アシュレイは目を覚ました。
「……ここは」
見覚えのない場所だった。あるいは、酷く懐かしい気分でもあるが。
例えるならば、そこは宇宙とでも形容すればいいのだろうか。頭上には銀に輝く大輪の満月があり、足元には大河のように無数の星々が流れ煌めいている。
上体を起こしたアシュレイの視界に広がるのは、そうした常識外の光景だった。神秘的で、幻想的で、しかし地球上では見られぬだろう異様な光景。
此処が何処なのかは分からない。
何故此処にいるかも分からない。
けれど、今自分がやるべきことだけは、痛いくらいに理解していた。
「……こうして顔を合わせるのは、あの時以来になるのかな」
目的の人物を探して、少しだけ周囲を歩いてみたりして。そうすればすぐ"彼"を見つけることができたから。
アシュレイは穏やかな笑みを浮かべたまま、旧来の友に語り掛けるように、告げるのだ。
「久しぶり、ヘリオス」
焔そのものである魔人に向かい、アシュレイは刃も銃弾も飛び交わぬ戦いを始めようとしていた。
最終更新:2022年05月03日 12:38