まずいことになった。
脳内に鳴り響く警鐘の音色が鬱陶しい。
此処まで来て今更見苦しく騒ぐなと自分の本能的な部分へ冷たく愚痴る。
まさか自分の中に、まだこんな人間らしい弱さが残っていたとは。
小さく舌打ちをする
北条沙都子の立ち振る舞いもその仕草も、とてもではないが十歳そこらの童女のそれとは思えない。
“落ち着きなさいな
北条沙都子。百年を囚える魔女が、この程度の逆境で四の五の言うんじゃありませんわ”
沸騰しかけた脳髄は思いの外利口で、苛立ち混じりの叱咤を一つかければそれで素直に沈黙してくれた。
沙都子は今苦境にある。
いや、これから苦境に立たされる。
今まさに彼女は自分自身の足でもってともすれば死地にもなり得る修羅場へ向かっている。
“元を辿れば身から出た錆。問題を先送りにし続けていたツケ、ですわ”
まず最初に
カイドウに取り入った。
そうするしかない状況だったし、間違いなくこの聖杯戦争で最強の一角だろう武力を味方にできる利点は無碍にできなかった。
問題はその後、沙都子自身ですら予期せぬ偶然で彼の顔馴染みの怪物と同盟を結んでしまったことだ。
人間相手に卑怯な蝙蝠を演じるのとは訳が違う。
相手は一度怒りを買えばその時点でこちらの命運が尽きるような正真正銘の怪物である。
そんな連中を相手に綱渡りをし続けてしまった。
状況のまずさを悟っていながらすぐにそれをケアしなかった。
要するにこれは沙都子の迂闊さが招いた状況なのだ。
その点に関しては沙都子も言い訳するつもりはなかった。
だが問題は…
“ですけれど…何も自ら進んで状況を悪くする必要はないでしょう。
あの方は一体何を考えているんですの。全く意図が分かりませんわ”
沙都子の泣き所を怪物達に明かしたのは
皮下真でもガムテでもなく、他でもない沙都子自身のサーヴァントであることだった。
アルターエゴ・リンボ。
窮極の地獄界曼荼羅なる荒唐無稽な目的を掲げる彼が何を考えているのかはそもそも分からない。
しかし命令には一応従ってくれるため、当分は静観でいいだろうと高を括っていた。
その結果がこれである。
自分のマスターを地雷原に放り投げるような行いの意図はさっぱり読めなかった。
眉間に青筋を立てるのを堪えながらも頭痛だけは如何ともし難い。
はあ、と沙都子の溜息が鏡面世界に小さく響いた。
“今念話で問い質しても仕方ありませんし…まずは目先の問題を片付けるしかありませんわね……”
一応理屈は用意してある。
ただ果たしてそれで納得してくれるか否か。
ガムテのライダーが話の通じない狂人であることは知っている。
皮下のライダーは彼女に比べれば大分マシだが、初対面でリンボがやらかしていることを思うと楽観視はできない。
一度のチョンボは許されても二度目は話が変わってくる。
そして今回沙都子は、彼らの両方を納得させなければならないのだ。
四皇(かれら)の恐ろしさを知る者が聞けば誰もが沙都子の多難な前途を思い祈りを捧げたことだろう。
「…ああ、もう!」
思わず傍らの壁を蹴飛ばした。
どれだけ魔女を気取っても、やはり奥底の憤りは隠せない。
知り尽くした雛見沢をゲームマスターの立場から弄ぶのと、何が起こるか予想のつかない聖杯戦争に挑むのとではまるで話が違った。
あるいは先刻のアイドル殺しがもう少し沙都子の心を満たしてくれていれば…今より多少は心持ちも違ったのだろうか。
“無事にあの方々への弁明が済みましたら…リンボさんを詰問しなければなりませんわね。
それに――”
沙都子の眉間に皺が刻み込まれる。
脳裏に浮かぶのはガムテープ塗れの顔で笑う"王子様(プリンス)"の顔だった。
“この先、ガムテさん達をどう利用しどう切り捨てるのかについても。一度考えておかないと”
ガムテは自分の抱える弱みを見透かしていた。
今回自分に同行しなかったことで彼のスタンスも透けた。
あわよくばあちらが自分へ必要以上に感情移入してくれていればと思っていたが、その可能性には期待できないとも分かった。
あの男は
北条沙都子が味方ではないことを理解し弁えている。
泣き落としや情に訴えかける立ち振る舞い上の小細工は通じない。
そのことがはっきり目に見える形で示されたのが先のやり取りだった。
「上等ですわ、殺しの王子様(プリンス・オブ・マーダー)。
たかが殺し屋如きが…殺すしか能のないお子様が。
運命を弄び操る絶対の魔女(わたくし)に敵うと思わないでくださいまし」
本人は決して認めないだろうが。
むしろ互いの距離感を見誤っていたのは沙都子の方だったのだ。
割れた子供達の王と軽口を交わす時間は居心地が良かった。
少なくともこの世界に来てからの中では最も心底脱力できる時間だった。
それでも沙都子は止まらない。
ガムテに少なからず絆されかけていた事実を鏖殺しながら、その紅い瞳を今は視界に居ない彼へと向ける。
魔女と極道。
殺人者と殺し屋。
生死を占う戦いの縮図は人知れず既に描かれており。
"いつか"に備えて引き続き爪を研ぐためにも、沙都子は兜の緒を締め直して目先の死地へと進んでいくのだった。
「――何眠てェこと言ってんだい? お前」
怪物の名はビッグ・マム。
殺しの王子様と彼に憧れ救われた子供達のすべてを良いように扱う女王。
彼女の声色は心底呆れ返ったようなもので。
それが沙都子の背筋に改めて鳥肌を立たせた。
彼女は魔女にだってこうして恐怖を与えられる。
その程度の相手…彼女はこれまで山程蹴散らしてきたのだから。
「まずは頭を下げなよ。お前はおれと、おれが弟のように思ってる腐れ縁(マブダチ)を欺いてたんだからねェ…!」
「ッ――も、申し訳ありません…でした……ッ」
沙都子は言われた通り頭を下げて謝罪の言葉を口にするが。
そこに屈辱の念やそれに起因する怒りの念はなかった。
生物としての根本的な恐れと焦り。
それが細かい道理を無視して沙都子に頭を下げさせた。
「答えな。
カイドウと組んで、てめえ何をするつもりだった?
こいつとおれがたまたま旧知だったから良かったが…部外者のお前がそれを知っている道理はねェよな」
「おいクソババア! 何を他人様の真名言ってんだてめえは!?」
「今更細かいこと気にしてんじゃねェよ!
相変わらずヘンな所でケツの穴が小せェ男だねお前は!
大体それが判明(わか)ったところで大して変わるもんもねえだろう!」
ビッグ・マムの詰問は生死を分かつ問いだ。
真実か嘘か(ライフ・オア・トリート)。
我が身可愛さに嘘を吐こうものなら容赦なく殺される。
そして沙都子も彼女がそれ程までに常軌を逸した、人智人倫の外にある存在だということは理解していた。
だからこそ虚言を弄して乗り切るという選択肢はない。
「…率直に言うなら」
北条沙都子の目の前にある選択肢は、ただ真実を述べる――それ以外にはなかった。
「貴方がたの間を上手く立ち回りつつ、両方に取り入りながら共倒れを狙う腹積もりでしたわ。
勿論どちらかが倒れるまでは両方の後ろ盾としての機能をしっかり受け取りながら、私が勝利を勝ち取るために利用するつもりでした」
「へぇ…。いい度胸じゃないか」
神をも恐れぬ発言とはまさにこのことだろう。
沙都子が言った次の瞬間には空間を満たす威圧の重力は体感数倍にも増したように思われた。
雛見沢というゲーム盤の中には存在しなかった、どんな陰謀も策もそれ一つで無にしてしまえる程強大な暴力が此処にはある。
沙都子が此処で尻餅をつかなかったことは十二分に評価されるに足る事柄の筈だ。
覇気でこそ無いものの。
百戦錬磨の四皇が放つ本気の気迫。
現に彼女は唇を噛み締めて冷や汗を流しながら耐えるのが精一杯だった。
しかし歯が鳴るのも体が震えるのも見事に抑え込んで魔女としての格を保ったのだ。
海の皇帝を相手取っていることを踏まえて言うなら、十分すぎる奮闘だと言えよう。
「…どうか落ち着いてくださいまし。あくまでそれはお二方がお知り合いだと知らなかった頃の話ですわ」
舐められれば食い尽くされる。
かと言って不敵すぎれば怒りを買ってこの場で死ぬことになる。
自分の格は保ちながら、それでいて龍の逆鱗に触れないよう細心の注意を払う。
言わずもがなその難易度は想像を絶する領域に達して余りある。
視界の端にチラチラと映る従僕の姿を極力脳裏から排するようにしていたのは、少しでも感情がざわめく余地を減らしておきたかったからだ。
苛立ちだとか疑念だとか、そういう類の感情は…今抱えるには邪魔すぎた。
「豊島区で派手に戦って来られたと聞いていますわ。
そのことも踏まえてガムテさんと今後に向けた話し合いをして…それが済み次第報告に向かう筈でしたのよ。
なのに私のサーヴァント……アルターエゴが先走ってしまったようで」
真実ではないが嘘でもない。
沙都子とてビッグ・マムと
カイドウの間に同盟が結ばれてしまった以上、いずれはバレる秘密を後生大事に秘めておくつもりはなかった。
頃合いを見て彼らに伝え、謝罪の一つもして機嫌を取るつもりでいたのだ。
リンボが余計なことさえしなければそれで丸く収まった話なのだ。
少なくとも沙都子はそう確信していた。
「混乱させてしまって申し訳ありませんでした。マスターとしてお詫びしますわ」
そう言って頭を下げる。
これで矛を収めてくれればいいが。
顔を伏せているので傍からは分からないだろうが、沙都子の苦々しい顔からはそんな思いが滲み出ていた。
「マ~ママママ…おれは擦り寄ってくる奴のことは邪険にはしねェんだ。
仲間(ファミリー)が増えるのは楽しいからね……一緒にお茶会をして良し、子供を作らせて良し。
家族が多くて困るってことはねェとおれはよ~~く知ってるのさ。排斥主義なんざ今時流行らねェ」
沙都子が頭を上げる。
ビッグ・マムは笑っていた。
カートゥーンの住人を思わせる丸い歯が嫌に悍ましく見える。
ギラついた眼光に射竦められ、沙都子の体が小さく跳ねた。
「けどね…おれは去る者は許さないよ」
ビッグ・マムが暴君なことは知っていた。
話の通じない怪物。
一度癇癪を起こせば味方だろうと構わず殺す。
そう聞いていたしだからこそ怒りを買わないよう細心の注意を払ってきたつもりだ。
だが――初めて我が身に向けられる"皇帝"としての殺気。
否が応でも鬼ヶ島の屈辱を思い出してしまうそれに、沙都子の握った拳が汗ばんでいく。
「来る者拒まず去る者殺す、それがウチの流儀(
ルール)さ。
お前言ったね? おれ達を謀るつもりはなかったって。
その言葉…お前の魂に懸けて誓えるかい?」
魂に懸けて誓う。
その単語の意味はことビッグ・マムが口にする場合単なる比喩では留まらない。
何故ならば彼女はソルソルの実の能力者。
万物万象の魂を操る女なのだから。
「おれに不実をかましたのは他でもないお前自身さ
北条沙都子。
とはいえお前は見所があるからね…担保次第じゃ今回は手打ちにしてやってもいい」
沙都子は心の中で舌打ちをした。
何が皇帝だ。
こんなのは皇帝ではなく、極道(ヤクザ)のやり口ではないか。
「私の魂を寄越せと…そう仰るんですのね? あの"
プロデューサー"さんにしたように」
「察しが良いね。なぁに心配するな! あのバカ野郎程多く取るつもりはねェよ!」
「…なるほど」
察するにこの老婆はこうやって数多の魂を集めてきたのだろう。
とはいえその所業に嫌悪感を抱く程沙都子は善良ではなかった。
仮に沙都子が彼女の立場だったとしても同じ手を取ったろうとさえ思う。
取引や契約の代金代わりに魂を徴収して自らの糧にする、実に合理的なやり方だ。
沙都子が頷けばビッグ・マムは満足するだろう。
この場を丸く収めるには多分それが一番いい。
不実を働いた側が相応の和解金(ソウル)を払って頭を下げる。
ビッグ・マムはそれに免じて沙都子を放免する。
実に平和的な解決手段だ。
「お話は分かりました。ですが…それはできませんわ。謹んでお断り致します」
「あ?」
だがそれを分かった上で、沙都子はかぶりを振って示談を拒んだ。
ビッグ・マムの眉間に皺が寄る。
隣で静観している鬼ヶ島の支配者、
カイドウも訝しげな目をした。
「私には叶えたい願いがあって…辿り着きたい未来がございますの。
如何に非礼を働いてしまったとはいえ、魂を譲り渡すことはできません」
「お前――」
もしこの場に割れた子供達の構成員が居合わせていたなら。
それが誰であれ、黄金時代は死にたいのかと正気を疑ったことだろう。
ビッグ・マムの恐ろしさをその片鱗でも知っていたならこんな命知らずな言動はできない。
魂を献上してその場を凌げるならそれでいいだろうと、誰でもそう考える筈だ。
しかし沙都子は自分が間違った判断をしたとは一切思っていない。
遥か高くから自分を睥睨する鬼母の眼光を総身で受け止めながら、それでもだ。
「自分が誰に生意気(ナマ)言ってるか…分かってんだよな?」
「勘違いなさらないでくださいな、お婆様。
私はあなたの同盟相手ではあっても…奴隷ではありませんのよ。
未来まで差し出してあなたに媚びることはできませんわ」
「――本当にいい度胸してるねェ、お前。本当に十歳そこらのガキかい?」
沙都子は少なくとも今はガムテ達を裏切るつもりはない。
彼らは寄生先として非常に有用で、いざという時の隠れ蓑としても使いでがある。
だが心中するつもりは当然なかった。
北条沙都子にとって重要なのは大切な友人と過ごす理想の未来であり、割れた子供達の一員として過ごす末路ではないのだ。
ならば当然こんな所で、たかが同盟相手程度に魂など捧げられる訳もない。
たとえその選択が自分にとって致命的な結果をもたらすかもしれなくともだ。
“ンンンン良いのですかなマスター。今のはこのリンボめも自殺行為かと思いましたが?”
“お黙りなさいなこの頓珍漢。貴方には此処を乗り切り次第ちゃんとお話を聞かせていただきますから、今の内に言い訳を纏めておきなさい”
魂をどれだけ奪われるのか知らないが、魂が欠けた状態でどんな不具合が出るのか分からないというのもあった。
沙都子はエウアと契約を交わして繰り返す者となった。
定命の人間が生涯を通して過ごす時間と同等程度の人生の記憶を、沙都子はエウアの能力を介して得ている。
古手梨花が繰り返した百年分。
そして
北条沙都子が
古手梨花を囚えて繰り返した幾らかの時間。
北条沙都子本来の人生。
束ねれば確実に常人の一生を凌駕する時間の記憶と経験が沙都子の中には備わっているのだ。
杞憂と言われればそれまでだが、魂を奪われたことでその辺りの無法のツケを思いがけない形で支払わされることになる可能性がないとは言えない。
それは困る。
死ぬのは構わないが、梨花と過ごす時間が永遠に消滅してしまうことだけは認められない。
だから危険を呑んででもビッグ・マムに異を唱えた。
「…もしもどうしても私が気に食わないようでしたら、大人しくこの場を去りますわ」
「できると思うのかい? おれは去る者は殺すと、今しがた教えてやったよねェ――?」
「令呪がありますわ。これを使ってリンボさんに一言"逃がせ"と命じれば、さしものお婆様でも追い付けないのではありませんこと?」
令呪ありきのビッグマウスなのは本当だ。
空間移動という規格外の芸当すら可能にするらしい令呪であれば四皇二体を相手に逃げ遂せることも可能だろう。
そこに懸けての大立ち回りだった。
幸いにして部活を通じてギャンブルすることには慣れている。
問題は此度のギャンブルは、負けても恥ずかしい衣装を着せられたり落書きされたりする程度では済まないことなのだったが…
「お前…」
ビッグ・マムの巨体が揺らぐ。
既に皇帝は青筋を浮かべていた。
「おれを舐めてんのかい?」
沙都子としても出来ることなら令呪を使う事態に陥って欲しくはなかった。
単純に損失であるし、少なくとも今はまだ皇帝の武力を失いたくない。
だが魂を渡す選択が取れないのもまた事実であり。
こうなればもはや妥協するしかないかとそう思った矢先。
ビッグ・マムの巨腕が不遜な魔女を力で罰しようとする直前に、今の今まで黙し静観していたもう一人の皇帝の厳かな声が響いた。
「おーおーその辺で止めとけよリンリン。こいつはおれの駒でもあるんだ」
「何眠てェこと言ってんだい!?
カイドウ!
それにてめぇ、サーヴァントは真名を伏せるもんだろう! 悪酔いにも程があるよ!?」
「先に人の真名言いやがったのはてめえだろうがクソババア!!! 殺すぞ!!!」
…予期せぬ助け舟だった。
譲れないものを素直に譲れないと言った沙都子を助けたのはもう一人の皇帝。
沙都子がビッグ・マムよりも先に盟を結んだ相手、
カイドウ。
彼はごほんと咳払いをするとギロリと沙都子を睨み付けた。
「…おい沙都子。今回は肩を持ってやったが、長生きしたきゃ口の効き方には気を付けろよ」
「っ。ええ、そうさせていただきますわ…」
「それにリンリンとの盟がどんな条件だったかは知らねェが、少なくともおれはお前らを"傘下に加える"形で落とし所をくれてやったんだからな。
ウチの海賊団じゃお前らはおれの部下扱いだ。そこの所は努々忘れんじゃねェぞ」
痛い所を突かれた。
沙都子は唇を噛み締めながら
カイドウの言葉に頷いた。
詰問する側が彼であったなら、沙都子は何の正当性も示せなかったろう。
鬼ヶ島での一件は殆ど不可抗力的に…沙都子の意思も奸計も挟む余地のない"白旗"だったのだから。
「…改めて今回のことは本当に申し訳ありませんでした。
飲み込めないこともあるかとは思いますが、どうかお許しいただければ幸いですわ」
だが今回ばかりは彼に感謝せねばならないだろう。
沙都子が今更何を言っても響かないだろうが、同格の同胞からの言葉ならば無碍にも出来まい。
令呪一画ないしは自分の命運を彼に救われた形だった。
「お前ももういいなリンリン。信用ならねェ所があるのは分かるが有能な人材なんだ、今は矛を収めとけ」
「…チッ。命拾いしたねェ、クソガキ!
こいつが煩く言わなかったらお前なんざ虫ケラみてェに踏み潰してるとこだぞ!」
上手く行った。
胸を撫で下ろす余裕はないが、自然と頭は下がっていた。
「…ありがとうございます。お二人の寛大さに感謝致しますわ」
本当に死ぬ所だったのだ、頭を下げることなど躊躇いはしない。
これで少なくとも当分の間は彼らの武力に寄生できる。
鬼ヶ島で
カイドウと初めて邂逅した時は心底戦慄したものだが、今では話の通じる相手が居ることに感謝すら覚えていた。
「なら早速一働きして貰おうじゃねェか。
おれに山程魂を捧げてくれた"
プロデューサー"のサーヴァントが、今もせっせと戦いに出てくれてんだ。
沙都子お前、リンボの野郎をそこに援軍として向かわせてやりな! サーヴァント二体も居りゃ流石に一人は殺せるだろう!?」
またしても内心舌打ちが漏れたが、此処で渋れば流石に命に関わる。
そう判断した沙都子は素直に頷いた。
リンボのことだ。
戦況が芳しくなければ早々に退いてくることだろう。
彼と話をするのはその後でも構わない。
今はこの荒ぶる皇帝の機嫌を宥めることに注力するべきだと、沙都子はそう判断したのだった。
「ところでだ沙都子。おれの方からもお前に一つ聞きてェことがある」
「…何ですの? 今の件以外には誓って不実を働いてはいない筈ですけれど……」
「つい先刻皮下から報告があってな。
鬼ヶ島に紛れ込んだサーヴァントを叩き潰してそのマスターを拿捕したらしいんだが。
そいつがお前の名前を呼んでいたらしい。もしかしたら知り合いかもしれねえと思ってな」
「私の……名前を?」
どくんと心臓が妙な鼓動を打った。
その意味合いは沙都子にもすぐには分からなかった。
だが胸はざわめき呼吸は乱れる。
さもそれは、
北条沙都子の肉体の方は
カイドウの言う人物の素性を既に理解しているかのように。
そんな彼女をよそに
カイドウはその名を告げた。
不遜にも鬼ヶ島へと踏み入り、そして敗れた少女の名前を。
「
古手梨花。この名前に聞き覚えはあるか?
北条沙都子」
「――――――――――――――――、」
言葉を失った。
それに足る価値のある名前だった。
古手梨花。
その名を聞いて涼しい顔などできる訳もない。
目前の皇帝達に彼女との縁を気取られるリスクを踏まえても。
それでも、その名を聞いて平静を保てる程、
北条沙都子が件の少女に抱く執着は浅くはなかった。
「…その顔を見るに知り合いのようだな」
カイドウのその言葉を聞いてようやく沙都子はハッとする。
自分が愚を犯したことを悔やむよりも先に質問が出ていた。
「梨花が…今、鬼ヶ島に居るんですの?」
「ああ。手負いらしい上、そう簡単に抜け出せる空間でもねえからな」
「――私をすぐに鬼ヶ島へ行かせて下さいまし、
カイドウさん」
古手梨花。
北条沙都子が繰り返す力の存在を知るよりも遥か先。
彼女がまだ彼女自身の人生を生きていた頃、ずっと友人だった少女。
彼女が居なければ沙都子は魔女にはならなかった。
絶対の魔女は誕生しなかった。
そして世界の垣根をすら越えた今も沙都子は梨花に執着し続けている。
古手梨花が居て自分が居て、雛見沢の仲間達が居る。
誰が欠けることもなく永遠にその時間が続く。
それこそが
北条沙都子の理想であり悲願。
彼女が地平線の果てに辿り着いたなら界聖杯へ願うだろう未来。
その未来にて、自分の隣に居るべき
古手梨花が。
あろうことかこの世界に招かれている。
本戦まで生き残り、今もこの東京の何処かで息をしている。
その事実は
北条沙都子からあらゆる冷静さを奪い去るに足る"爆弾"だった。
「まァ…それは構わねェんだけどよ」
カイドウが酒を一口呑んで嚥下する。
甘いチョコレートリキュールだったが、極論アルコール度数が高ければ味は問わないのが彼流であるようだ。
「お前は
古手梨花と会ってどうするつもりだ。
殺す気か…それともおれの元から逃がす気か。
答え次第じゃ鬼ヶ島への門を開く訳には行かなくなるぜ」
「…ご安心くださいな、鬼ヶ島の鬼さん。
よりによって梨花を逃がすだなんて……そんなこと。私がする筈もありませんわ」
「何だ? お前は
古手梨花と友達(ダチ)なんじゃねェのか」
「そんな言葉で言い表せる程浅い間柄ではございませんわよ。
私と梨花は友人を越え、仲間さえも越えた…血と血で結ばれた関係ですから」
古手梨花は鬼ヶ島に囚われている。
彼女の独力ではあの異空間を抜け出すことはできないだろう。
しかし沙都子が梨花のために骨身を削ることはない。
そうではないのだ、
北条沙都子は。
そういう存在ではないのだ、
北条沙都子にとっての
古手梨花は。
「死んではいませんわよね? 梨花は」
「手負いらしいがな。一度は腕をぶった斬られたらしい。まぁ当分動けはしねェだろう」
「…そう、分かりましたわ」
それにしても随分と下手を打ったらしい。
しかしそこに彼女らしさを感じてしまう自分も居るのが不思議だった。
失敗し転げ回って血に塗れ、それでもがむしゃらに立ち上がる。
常人ならとっくに精神が擦り切れて諦めていてもおかしくない惨劇の荒波に放り込まれながら、負けるものかと只管に前を向く。
何十回でも何百回でも転んで死んで絶望して…一度は完全に己の運命を乗り越えてのけた奇跡の黒猫。
そんな女がたかが腕の一本を斬られた程度の絶体絶命で諦めるとは思えない。
素直に死ぬとは思えない。
だから沙都子は驚きも動揺もしなかった。
それどころか。
“早めに鼻っ柱をへし折られたということは…この先は思いがけない巻き返しをしてくるかもしれませんわね。
何しろ今回は一回限りの大勝負。繰り返し(ループ)などというズルは許されておりませんもの”
"今回の"梨花は手強いかもしれないと認識を新たにさえしていた。
鬼ヶ島で囚われている彼女にしてみれば不運以外の何物でもないが、これで
北条沙都子が油断してくれる可能性は消え果てたと言っていいだろう。
「リンボさん、では
プロデューサーさんの援護に向かってあげてください。
戻り次第今回のことについてみっちり問い詰めさせていただきますのでそのつもりで」
「承知致しました。では、かの悪鬼に恩でも売ってくるとしましょう」
「言っておきますけれど余計な真似にうつつを抜かすのはやめてくださいましね。
貴方が付ける薬のないお馬鹿さんなことは知っていますが、流石にこれ以上は私も堪忍袋の緒が切れますわ」
心からの本音だった。
頼むから聖杯戦争をしてくれという切実な思いが滲み出た言葉でもあった。
元の世界に戻れさえするのであれば、必ずしも聖杯獲得に拘るつもりはない。
それが沙都子の基本方針であり、故にリンボの唱える窮極の地獄界曼荼羅構想についても積極的に異を唱えるつもりはなかったのだが。
こうも協調が取れないとなるとその認識も改めねばならなくなってくる。
リンボの有能さについては沙都子自身しっかり理解していたが、それとこれとは話が違う。
だから釘を刺したのだが…果たして響いてくれたかどうか。
「それは大変だ。では精々働きで信用を取り戻すとしましょう」
そこの所は不明だったが、とりあえずリンボは妖しく微笑って頷いてくれた。
「…私もこれからは少々忙しくなりますわ。
貴方にばかりかかずらってもいられませんの。どうかこれ以上胃痛の種を増やさないで下さいまし」
一先ずは彼の言葉を信じて任せるしかあるまい。
せめて今回は敵の首級一つでも持って帰ってきてくれればいいのだが。
悩ましげな溜息を溢して沙都子は再び四皇二人の方へと向き直った。
「改めて今回のことは申し訳ありませんでしたわ。
リンボさんの言を借りるようですが、この分はちゃんと働きで代えさせていただきます」
「
カイドウに感謝するんだねェクソガキ。もう一度言うが、こいつが止めなかったらおれがお前を殺してたよ!」
「…えぇ。分かっていますわ」
沙都子はガムテや他の子供達がこの老婆に対しただ怯えるばかりではないことに気付いている。
彼らは誰もがビッグ・マムに激しい殺意を抱いていた。
しかし自分達のナイフは巨大な皇帝を刺し殺すにはあまりに小さすぎるから、屈従の影に殺意を隠して無害な使い走りを装っているのだ。
今はまだ。
だが彼らはいずれこの皇帝に牙を剥くだろう。
秘めてきた殺意のナイフを露わにして手のひらを返すだろう。
散々圧政を布いてきた大嫌いな皇帝に。
ゴミのように仲間を潰してきた憎き仇に。
そしてビッグ・マムは恐らくそんな未来など想像もしていない。
愚かなことだ。
力だけを積み重ねて肥え太った末路がこれか。
上機嫌そうに笑うビッグ・マムの巨体に、沙都子は心底からの軽蔑を覚えずはいられなかった。
それが先刻自罰し蹴飛ばしたガムテ達への肩入れの延長線上にある嫌悪なことに…沙都子はまだ気付けない。
「つきましては鬼ヶ島のライダー…もとい
カイドウさん。
梨花の元へ行きたいので門を開けていただいても構いませんこと?」
「まぁ待て。獅子身中の虫を好き好んで中に入れる程馬鹿じゃねェんだおれは」
「…ま、そうですわよね。ではお目付け役でも付くのでしょうか」
「ウチの大看板を一人寄越す。準備が整ったら注文通り門を開けてやるよ」
「ご配慮痛み入りますわ」
…勿論。
カイドウとて只の親切心で梨花との面会を斡旋した訳ではなかった。
もしもこの機に乗じて沙都子が自分達へ再度の裏切りを働こうものならその時は容赦しない。
梨花を逃がそうとすればすぐにでもお目付け役の大看板が彼女達を磨り潰すだろう。
その点、沙都子に梨花を逃したりするつもりは全くなかったのは彼女にとって幸いだったと言える。
「さぁ行ってきなリンボ! 戻ってきたらおれ達のマスターの親睦会も兼ねて改めてお前の話を聞いてやるよ!」
ビッグ・マムの高らかな鬨の声が響くと共に。
リンボが霊体化し、この場から姿を消した。
悪の陰陽師は狛犬の鬼が降り立った戦場へ。
そして皇帝達の前には沙都子のみが残された。