「琴(キン)や鼓(つづみ)の一つでもありゃ興が乗ったんだがなぁ……」

そのようにぼやいて、あぐらで座した光月おでんは悔しげに夜景を見下ろしていた。
ステージというには人気のないホテルの屋上で、新たな嵐の到来が告げ知らされるより前のことだった。
露店で多くの酒や肴を買い占められる程に人の交わりはあるとはいえ、景色は夜の暗さよりもなお悄然としていた。

「こう、皆でドンチャンやってる時によ、四拍子で『ジャン、ジャラン、ジャン、ジャラーン』って聴こえてくると、おっいつものヤツだなって皆、乗っかってきたもんさ」

元はと言えば、おでんが屋上での腹ごしらえを終えようかと言う頃合のこと。
幽谷霧子が、煮物の完食された器を片付けに訪れたのが発端だった。
煮汁まで飲み干された容器や、酒瓶のうち空になった何本かをひと所にまとめた上で、おでんの鼻歌に興味を持ったのだ。
聴き入られたことに気をよくしたのか、おでんが、もともとこういう歌だと歌詞つきでひとくさり歌い、今にいたる。

「ふふっ…………『シャン、シャラン、シャン、シャラーン』」

遠い目をしたおでんの回顧に寄り添うように、霧子はおでんの口にする前奏を真似た。
柔らかな高音で鋼琴(ピアノ)の調べに似た音をつくる。
物足りない楽器の不足を補おうとするかのように。
その気づかいにおでんは相好を崩し、ふたたびののど自慢に声を発した。

四拍子の笑い声が、海も見えないちっぽけな世界から空へと響く。
とはいえ、聴く者がいれば、それを笑い声とさえ受け取るのかどうか。
まるで、現実にはあり得ない不自然な笑い声をコンセプトにして作詞されたかのような奇矯な発声。
自身の『ふふっ』という控えめな笑い方には似つかわしくないその四拍子に、しかし霧子もまた声を重ねて歌った。

なぜなら、海賊は、歌うのだから。
そして、アイドルも歌うものだから。


――ビンクスの酒を、届けにゆくよ
――海風、気まかせ、波まかせ
――潮の向こうで、夕日も騒ぐ
――空にゃ、輪をかく、鳥の唄


歌詞はおでんの聴きかじりであっても、歌声にはよどみも詰まりもなかった。
霧子の記憶力は、実はとても確かなものがある。
学業優秀ということは、覚える力を鍛えているということでもあり、何より。
彼女はいつも、周りの音をよく聴いて、音のことをよく見ているから。


――さよなら港、つむぎの里よ
――ドンと一丁唄お、船出の唄
――金波銀波も、しぶきにかえて
――おれ達ゃゆくぞ、海の限り


その唄は戯れでこそあれ、軽くはなかった。
懐古や浪漫の想いがたしかに乗っていることは、音を聴いていればしかと伝わる。
歌っていると、そこには歌っている『自分』が表れるものだから。
彼らが、海賊(かれら)でいようとした、心の向かう先を感じ取ったから。
いつか、心の指針が定まった光月おでんにも、『行ってらっしゃい』と言わなければならない時が来る。
そのことを確かに、霧子は感じ取っていたから。
声を合わせて歌いながら、心の中では祈っていた。


――ビンクスの酒を、届けにゆくよ
――我ら海賊、海割ってく
――波を枕に、寝ぐらは船よ
――帆に旗に、蹴立てるはドクロ


お祈りには、作法はないけれど、手順はある。
心の中に、ひろびろとした海図を描く。
大丈夫さぁ前に進もうと錨を揚げ、太陽を抱いて帆を張った船を海に出す。
光月おでんとその仲間たちを乗せた、ばーりばりに無敵の海賊船が、冒険に出るのを見送る。
船の上にはおでんも、きっと縁壱も、もしかしたらおでんの大切な人で、家族にあたる人達も。
会ったことはないけれど、アンティーカにとっての恋鐘のような、おでん達にとっての『最強の船長』も、皆がいる。
たくさんの姿をキャンバスに浮かべて、すべて包む宇宙も描いて、色彩をつける。
『おーい、いってらっしゃい』と呼びかけて、航海の無事を願う。


――嵐がきたぞ、千里の空に
――波がおどるよ、ドラムならせ
――おくびょう風に、吹かれりゃ最後
――明日の朝日が、ないじゃなし


いつもは控えめに、アンティーカ全員の歌を聴いて、そこに合わせるための歌い方をする霧子だったけれど。
この時は、おでんと張り合うように、声を大きく張った。
かつておでんと一緒に歌っていた人達は、きっとそう歌っていたんだろうなと思ったから。
そして霧子は、上手な歌唱にこだわる歌手(シンガー)ではなく。
生きざまを魅せるために、想いに寄り添うために表現する、偶像(アイドル)だから。

だからこれは、二人きりのアカペラというだけではなく。
もういない人達を讃えて、想いを受け取って、携えていくためのトリビュート・ギグ。


――ビンクスの酒を、届けにゆくよ
――今日か明日かと、宵の夢
――手をふる影に、もう会えないよ
――何をくよくよ、明日も月夜


本当のところを言えば。
彼らのことを思って祈ったとしても、それだけでは必ずしも叶わないことを、霧子は知っている。
もっと言えば。
たとえお祈りが叶ったとしても、それは霧子の祈りが届いたおかげではなくて。
それは他でもないおでん達こそ、帰る場所を誤らなかったおかげで。
そのために頑張った結果だということを、知っている。


――ビンクスの酒を、届けにゆくよ
――ドンと一丁唄お、海の唄
――どうせ誰でも、いつかはホネよ
――果てなしアテなし、笑い話


だから、果てもアテもない笑い話の先で。
それでも光月おでんと縁壱は、望んだ場所に帰って行ける人達なのだと、願うのではなく、信じて。
そこに霧子にできる唯一のこととして応援をするために、この時は歌を合わせた。
この歌を、もしも聴かせたい人ができた時に、聴かせられるように留めるためにも。


それに。
気付けば屋上に居合わせていて、歌声を気に入ったかのように目を細めている縁壱のことが、うれしかったから。
姿はなかったけれど、近くにいることだけは確かである縁壱の兄にも、縁壱さんはこうだったと、お話できることが一つ増えたから。




鬼が負った傷は、たちどころに癒える。
包帯を巻かずとも、他者が傷口に対してことさらに気遣わずとも、自ずと再生をする。
癒えることがないとすれば、それは太陽の灼熱にあてられてから消滅するまでの焦がれのみ。
だから幽谷霧子は、一度も彼に『お手当をしましょう』と言えたことがなかった。

けれど、今やその太陽光によって傷を負うことがなくなったその鬼は。
身体の半分に、決して癒えることのない空洞(きず)を抱えていた。
文字通りに半身を失った、迷い子の顔つきをしていた。

何故、弟の縁壱は死んだのだと。
何故、己はこんなにも眩しいものを浴びなければならないのかと。

泣いて、泣いて、泣くだけ泣いて。
泣いて、哭いて、亡くだけ無いて。
泪は、錆びついた心の鍵を回した。
後に遺されたのは、人間とも鬼ともつかない躰に新生した、かいぶつ一匹。

「その身体は……縁壱さんが?」

遺していったんですか、授けたものなんですか。
そう言おうとしたところで、述語は続かなかった。
鬼という身体の特異性について、物質面での知見がない霧子には、詳しくは分からなかったけれど。
縁壱がもういなくなったこと、最期に『何かをした』結果として、その兄が陽光を浴びられていることは察せられた。

風の向きや光の当たり方ひとつで、命は変転する。
光の当て方しだいで、人の手指がいろいろな影絵に変わるように。
見出して、光をあててくれる人がいるなら命の形は変わる。
いろんな命になることができる。
けれど、今その命から返ってきたのは、威嚇になりそこねたような、元気のない声だった。

「縁壱の仕業だと、受け入れるというなら……貴様には、縁壱がそうする心当たりがあるとでも?」

だが、黒死牟こそがもっとも、その理由に納得を得ていなかった。
人間の血と力が融和したことによる陽光克服の促進。
そういった可能性を思い描くだけの視野はあっても、目の当たりにする現実はそうはいかない。
人間にも鬼にも、見たくないものを見るのは難しいことだから。

だから、幽谷霧子に問うのだ。
『縁壱が黒死牟に身体を与える』ことに納得するということは。
お前には、縁壱の遺していった行動の真意が分かるのかと。

「縁壱さんは……」

きっと、縁壱にしか分からない、と突き詰められてしまうことなのだろう。
縁壱がずっと、兄に対して想いを伝えようとしていたことを霧子は知っているから。
縁壱もお別れの時には、兄をずっと見ていてどう想っていたのかを言葉にしたのだろう。
その言葉でも伝わらないものを霧子が代弁したとしても、きっと本来のそれとは違う言葉になる。

「セイバーさんから、心を向けられてたなら嬉しいって…………笑ってました」

けれど、縁壱の心は預かっている。
黒死牟さんに見えている『縁壱』さんが、『心を預かってほしいと願った縁壱さん』の形になってほしいと思っている。
六つの瞳を、ぎょろりと開眼できる限度まで開いて、射るように霧子を直視する。
黒死牟のその仕草が、思い出を掻きむしられて動揺した時のものであることは、分かるようになってきた。

「……それだから、お前たちは嫌いだ」

二度目の『嫌い』に、胸は痛む。

慈しくするだけでは、救えないものがある。
だからお医者さんになる為には、知識と医術を身に着けないといけない。
医者になるための勉強をしている霧子にとって、その現実はいつも目の前にある。
黒死牟を手当するための正しい医術を、霧子は知らないかもしれないと、今でも迷っている。

「そうやって日輪を苦痛もなく浴びているのに、さも私と貴様らは同じだという顔をしている。
私も貴様らのようになれるはずだと呼吸(わざ)を説き、同じ枠組みに嵌めて考えようとする。
…… 私の命と、己らの命が、等価交換になるかのような真似をする」

けれど。
かつて、月と向かい合った弟に対してこぼれた、稚拙な本音。
なぜお前たちのことが嫌いなのか。
それと正面から向かい合うことだけは、誤っていないと信じている。

「太陽が待っているなどと、救済のように誘っておきながら。
陽の下に引きずり出される苦痛については、いざその時になってから謝罪する始末」
「はい……」

返す言葉がない、ところもある。
しんと冷えた冬を土の中で過ごす命は、春の陽を浴びようと地表を打ち破るために艱難辛苦を味わう。
冷たく、暗いところから、太陽の下に姿を現すのは、とてつもなく痛みと、息苦しさをともなうに違いなかった。

「『己の生まれてきた意味が分からなくなった』など弱音を吐いたかと思えば。
鬼である私に食われて一部になるのが望みだと、正気の沙汰ではないことを。
あげくの果てに、やりたいことをやってくれ、などと……」

最期まで己の望みを叶えなかった弟に対する怨嗟の声だと、受け取る者もいるのかもしれない。

少なくとも、言葉だけならその意味にも通るものだったけれど。
鋭い爪の生えた両手でのどを掻きむしった後のように、痛々しい声だった。
のどに爪痕がざっくりと残っているかのような、血の色をした音。
泥だらけの走馬灯に寄う。
こわばる心と、震える手。
掴みたいものがなくなって、変わっていく自分自身。



「縁壱を糧にするような真似をして……何のために生まれてきたというのか……!」



それは、弟を犠牲にしてしまったと嘆く、兄としての声。
そうとも解釈するのは、霧子の願いにのっとった虚構ではないと思いたい。

「セイバーさんのお日さまは…………痛い、ですか?」

己の命と、縁壱の命は交換していいものではなかったと。
どの言葉もそう言っているように聞こえた。
お前たちは胸を張って陽の下にいられる、そこにいるべき者で、一方の己にはそういう価値はないと。
そうやって自分のことが嫌いになっていくから、お前たちのことが嫌いなのだと。

「ごめんなさい……私には、お日さまの下に、当たり前にいたから。
セイバーさんが眩しいのも、痛いのも、全部は分からなくて」

ごうごうひびく嵐のような声を聴くのは、初めてではなかった。
やりたいことがあり、生まれてきた意味をいくらでも探せる、お前たちと私は違うという迷子の声。
縁壱がもういないことは、痛みとして胸を刺しているけれど。
だからと言って、『気持ちは分かります』と軽々しいことを言えるはずもなかった。

「でも、私は………きっと縁壱さんも、おでんさんも…………」

それでも、彼は初めて幽谷霧子の名前を呼び、すがるように問いかけている。
今でも、霧子の言葉の一言一句を、耳に容れようとしている。


――あなたの命は…………ちゃんと、ここにあります……!


まだお月さまがいた夜の間に、そう言ったように。
私は、「ここにいてもいいんだ」と伝えることはできるけれど。
本当の意味で、『ここにいてもいいんだ』って思うのはきっと、黒死牟さんにしかできない。

「あなたに、何をするために、生きてほしいとは……やっぱり言えないけど……」

何のために生まれて、何をして生きるのか。
アイドルにも、医者にもなりたい、どっちつかずの幽谷霧子に、ひとつきりの正解は出せない。

救いたくても、救い方が分からない。
だからちゃんとお祈りにならない人が、世界にはたくさんいる。

あなたは何者にもなれない『かいぶつ』として、間違って生まれてきました。
そう言われて、希望を捨てられた方が安心するのかもしれない。

だから、一人で何もない夜の暗闇で、迷子のままでいようとする。
そこに慣れてしまった者にとって、太陽は眩しすぎて、目が痛いかもしれないけれど。


「あなたに……幸せになってほしい、です」


『ぼくは幸せになる為に生まれてきたんだ』と言えたなら、とても素敵なことだと思う。


六つの眼が、はっきりと揺れた。

「生きていくには、命がある体と、あったかい希望と、どっちも必要だから」

兄がこれからも生きていく糧を与えるために、弟は命を渡した。
それを兄弟からの愛だから飲み込んで受け取れというのは、酷なことかもしれないけれど。

「お兄さんから、要らないって言われてしまったら、悲しいから」

その命を拒絶すれば、奇しくも継国兄弟が滅殺した悪鬼の嘲笑と同じように、縁壱を否定することになると。
黒死牟がその自己矛盾に戦慄して、ぞわりと後退したことも、霧子には理由が分からないけれど。

「私も、縁壱さんの代わりになれないことは分かってます、けど……」

縁壱は、霧子に心を託してくれた。
だから兄弟のことにもう少し踏み込んでも許されるだろうかと、自分を励ますために。
縁壱からもらった巾着の袋を持ち上げ、胸の前にあてるように両手で握りしめた。
六つの定まらぬ瞳が、その布袋へといっせいに向く。

「これからも……セイバーさんのこと、見ています」

大切な人が、ゆるやかに、いろんな形に変わっていくことを、一番近くで見届けて。
それでも大丈夫だと、一緒に歩んでいく。
そういう風に見守られたら歩けることもあると、霧子は知っていたから。

「私にできることは少ないけど。
どう生きたのかを、誰かが見てるなら……何も残せなかった人生には、ならないから」

巾着を手のひらで包むと、かたくて細長い手触りの『何か』があることが伝わってきた。
黒死牟の六つ三対の相貌が、食い入るような眼差しを向けていた。

「だから、縁壱さんからもらったお体のこと……お兄さんがお手当して、大事にしてあげてください」

他でもない自分自身で、あなたのことを励まして、お手当しよう。

自分を大事にするのも、きっと勇気が要ることだけど。
その勇気を、あなたに持って欲しいんだとわがままを言わせてほしい。



「縁壱と会って、わずか数時間に過ぎない身の上で……」



棘をたくさんつけたような言葉は、いつもの通りだった。
いつかのように胸倉をつかまれることは絶対に無さそうなほどに、執念はこそげ落とされていた。

「知ったような、ことを」

巾着袋に寄せられていた視線が、天を仰ぐ。
頸が傾けられた拍子に、頬を伝うものがあったようにも見えた。
そのまま、耐えなければ躰が傾いでしまうかのようにぐっと硬直して。
幽谷霧子に視線を向けないまま、平静に戻ろうとする声が放たれた。

「笛を預かったところで、奴の代弁者にでもなったつもりか。思い上がりも甚だしい」

お前の言葉が真だと認めたわけではないと、距離をおくための言葉だった。
しかし、何拍かの間をおいた上で、霧子は理解する。
理解して、眼を細めた。
初めて知ったという喜びを、そのまま声にだした。

「この袋の中身を、ご存じなんですね……」

その声を受けて、黒死牟もはたと気付いたように立ち竦んだ。


黒死牟は、『巾着袋』ではなく『笛』と言った。


霧子は大切に預かりこそすれ、その中身をあらためる機会はなかった。
その中身を、黒死牟は知っていた。
弟が大切に扱い、仕舞いには『私の心』とまで称した思い出の宝物を、兄は理解していた。
それは、兄が弟を想う心に、羨望や憎しみ以外のものが確かにあったという証だてに他ならなかった。




恥というものには、際限がない。
今さらになって、語るに落ちるというものを、実演することになったのだから。

光月との果たし合いで、眼を開かされて。
兄弟力を合わせての鬼退治などという物語の振る舞いに、夢から醒まされて。

とうとう今ここで、眼を反らす余地さえもなくなった。
『縁壱が己の贈った笛を大切にしていたことを知っている』と、幽谷霧子の前で明かしてしまった。

そうなっては、もはや否定ができない。
己はとうの昔に、それこそ鬼になってしばらくの、数百年よりも以前から。
継国兄弟の間には憎悪ではない想いがあったことを目の当たりにした上で、眼をふさぎ続けていて。
弟が兄に対して言い放った数々のことは、すべて飾らずに受け止めるべき意味だったのだと。

――あいつは!! お前に!! ずっとそうしてほしかったんだぞ!!

いつぞやの言葉が、断じて冗談ではなかったことも。

――兄上は、この地にてひとつでも、命を殺めましたか

ここにいる鬼と人の混ざりものに、罪は無いとしたことも。

どうしてこうなった、と誰にでもなく問う。
その答えが、眼前で大切そうに巾着袋を握りしめている。

予選の間に殺傷をすることなど、いつでも起こり得たことだった。
そうはならなかった。
対敵を望んで夜の街を歩いているというのに、『ついてくる』という動きによってこちらの移動を鈍化させる、面倒な石ころ。
情報収集にでも出向いたかと思えば、およそ長閑としかいいようのない日常の景色しか聞かせなかった。
皮下なる陣営の配下の者たちを斬り伏せようとした時にも、まず話をするのだとごく長閑に止められた。
いつもいつも、『そちらに行ってはダメだ』と言い聞かせるような振る舞いばかりをしていた。

そのようにして、黒死牟が命を殺めなかったという偶然のいくらかは、幽谷霧子がもたらしていた。
弱卒だと見なしていた町娘が、ずっと黒死牟を見ていた結果として。

「……中身を知っていたも何も、忘れるには意外に過ぎただけだ。
子どもの戯れのような笛を、守り袋のように後生大事に持ち歩くなぞ、侍らしくもない」

反論にさえならない、捨て台詞。
だが霧子は、その言葉さえも丁寧に拾った。

「……らしくない、でもないと思います。
私の見た縁壱さんは、音楽を聴くのも好きな人でした。
私とおでんさんがうたうのを、嬉しそうに聴いてくれたから」

それは、知らない出来事でもなかった。
何が楽しくて観客に加わろうという気はしれなかったが、宿部屋の屋上にて響く歌のことは感知していた。
縁壱がその場に混じっていたことも知れたが、いつも酔狂なことをする輩だからと関心はなかった。

いつもそうだった。
剣の話よりも、双六や凧揚げをしませんかと言われる。
他者の生きがいを、児戯より劣るもののように扱うかのように。
まるでばかにした誘い文句だったと、妄執の記憶には刻まれていた。
だが、逆だったとすれば。
切実な望みとして、凧揚げを、兄との遊びを、俗っぽくありふれたものを望んでいたのではないかと。
そんな洞察をすっと腑に落とすには、あまりに取返しはつかなかったけれど。

――そういう生き方を……私も送りたかった。

弟は絶対的な孤高として生きるのではなく、とるにたりない小さな命になることを望んでいた。

非の打ちどころのない人格者の、日輪の子。
黒死牟は長らく、そんな夢想でしかないものを視界に定めていたのだと、悟らずにはいられなかった。

「何が楽しいのかと、長らく想っていた」
「…………」
「今も、そうだ……縁壱を一部に宿したところで、奴と同じ景色は見れぬものらしい」

縁壱どころか、今ほどみすぼらしく眩しいものとして空をあおぐ生き物は、そういないに違いなかった。
どうしてここまで青いのかという世界の下で、あまりに矮小に取り残されている。

「はい……見る人によって、空の色は変わるから、でも」

少女は、縁壱の六つの瞳に見入っていた。
そこに写っている空の色を、確かめるかのように。

「その空は、縁壱さんが、お兄さんに見てほしいと思った空だと思います」

あなたの空と、私の空。
その二つが違うことを、むしろ喜ぶように霧子は微笑した。
そこから軽く会釈をして、すぅと小さな息を吸う。
それまで言えないでいたことを、改めて告げるように。



太陽の光には、音があった。



「おはようございます……縁壱さんのお兄さん」



一か月、現界していた。
当然、その言葉を向けられたのは一度や二度ではない。

だが、鬼となった者に、穏やかな朝というものは二度と訪れない。
故にそれは日々、『霊体化せざるを得ない時刻の始まり』を告げる定形語でしかなかった。
かつて継国厳勝という名を持っていたセイバーは、はじめて朝の挨拶としてそれを耳に容れた。

――なぜ、なつかしやと思うのか。

故に、反応は既視感となる。数百年の時を経て耳に届いたような知覚になる。
かつて毎日そう挨拶する者がいたことは覚えていると、深く沈んでいた記憶がわずかに浮上する。
ただ一つの日輪の記憶よりもはるかに霞んで、霞ませることをことさら歯牙にもかけなかった、女と子らの顔がある。

――妻子も、厳勝に捨てられ、もう決して戻ってこないと悟った時は、胸に空洞を抱えたのだろうか。

継国厳勝の写し身は、それを思う。やっと思った。


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最終更新:2023年05月08日 22:54