でも1つだけ 残されてる
ボクらを繋ぐモノ
◆◆◆◆◆◆◆◆
田中摩美々は、緋色(アカ)に続いて、ソルジャー・ブルー(アオ)が溶けていくのを見送った。
緋色(アカ)の炎みたいな熱さはなく。
ブルー(アオ)の少年みたいな暑苦しさはなく。
しかし、冷たいこともない、中間色の紫色。
その人肌を与えることだけは、最後までできただろうかと、振り返る。
「さて、紫色だけ……残っちゃいましたね」
寂しい。
見届けた後の本音は、直球でそれだった。
さすがに目の前にいる人達を放っておけない想いが優先したけれど。
お別れした後に痛みがないかと言われたら、あるに決まっている。
……なら、私の手は緑色の女の子にでも取ってもらおうかな。
すでにボロボロだけど、にちかの方もやばいかもしれないけど。
生き残ったなら、帰る努力ぐらいはすべきだろう。
そう、同じく残された心残りに、思いをはせて。
何とか、立ち上がろうとしていた時だった。
――――タン!
「…………え?」
立ち上がろうとしていたところで、左胸の下あたりに真っ赤な穴があいた。
同時に、灼熱みたいなアカの熱さが全身を揺さぶり、ぐらりと身体が傾く。
倒れかかる視界のなかで、音のした方に首を向ければ。
落下して壊れた電光掲示板の近くで。
その男が、拳銃を持ち上げ、銃口から白煙をのぼらせていた。
服を緋色に汚しているとは思えないぐらい、半身をぬるっと健常そうに起こしていた。
拳銃と反対の手にあるのは、ビニール袋の残骸みたいなもの。
つまり、懐からこぼれたのは……血糊。
そっか。
納得と同時に、やらかしたという渾身の口惜しさに襲われる。
星野アイの姿をした女の子は、最後に、血だまりに溶けて行った。
もし、『血』に関する何かの力を持っているのだとしたら。
いざという時に死んだふりでもできるようにと、血液を分け与えて懐に持たせていたのだとしたら。
メロウリンク達を見送らなければと思った。
全身が痛いのを押し殺して這った。
その二つに意識を向け過ぎていた。
そんな失敗を、悔いている時間も許されず。
再び全身を、がんがんと、色んなところが打ち付けられていった。
自動改札をくぐったところを、撃たれたのだ。
倒れた先にあるのは、階段。
落ちていく。
落ちていく。
奈落へと。
暗闇へと。
死の底へ。
そして…………。
「ごめんな……」
たった今アイドルを死なせたことに対してではなく。
その直前に偶像のホーミーズを失わせてしまい、今まで気絶していたことに
田中一は謝罪した。
死柄木の敵だから、うんと絶望させてから、殺す。
ホーミーズのアイに言い聞かせたその言葉を、実行するために撃ったつもりだった。
撃った後も、湧き上がってくる想いは、愉悦ではなく、虚しさだった。
アイに対して、嘘をついたつもりはなかった。
けれど別の本音もあったことに、やっと田中は気付く。
田中一は、
死柄木弔の為であれば仲間をも殺すと、もう決めてしまったから。
星野アイをあんな風に、絶望させて孤独に殺してしまった以上、他の者もそうしなければ犠牲が報われない。
そして今、ホーミーズのアイを失わせてしまったという罪悪感から。
せめて犠牲には報いたいと撃たずにいられなかった。
破滅するまでのめりこむのは昔からだったけれど、仲間の破滅をそこに巻き込むのは初めてだったから。
そして、仲間が破滅したら、そんな風に背負わずにはいられないぐらいには。
俺はちゃんと、他人に興味を持ったり、推したりができる人間だったのかと、やっと自覚を持ったから。
失った後になってから分かるという陳腐さまで付いてくるあたり、我ながら本当につまらない凡人だとは思うけど。
ならば、追いかけてさらにありったけの弾丸を撃ちこまねばならない。
死柄木の勝利に貢献することはできたけれど、己のせいで敵連合の偶像を失った。
せめて他の者達も同じぐらいかそれ以上に絶望してもらわなければ、犠牲に申し訳が立たない。
そう思い、電光掲示板がかすめて怪我したことには変わりない脚を引きずり、急いで階段を下りていく。
ぷつんと、ひざ下のあたりで鋼線を引っ掛けたような切断音がした。
そう、ひざ下あたりの高さにあるものだった。
鋼線……思い出したのは、道中で何本もみつかったトラップもどきのことだ。
田中摩美々は、階段を転がったがゆえにそのワイヤーをひっかけなかった。
田中一は、既に追っていた手傷と、喪失の痛みから埋め合わせをすることに夢中になり、引っ掛けた。
たしかに前進したことで、己が仲間のために動く人間だと気付いたところで、引っ掛かった。
とっさに仕掛けがありそうな壁の方を見れば、また別の拳銃の銃口が田中を向いている。
なるほど。フェイクのトラップで精神的に削った後に、いよいよ最後に逃げ込む場所に本命を置く。
合理的だ。過去にプレイしたゲームでも、トラップはそういう風に配置されていた。
そうか、と田中は己の失念に気付く。
今、自分は階段を下りたのだ。
つまり、アイが反響音を使った探査を、まだ行っていないフロアに。
そして。
――――タン!
また一つの銃声が、この世界で新たに『可能性の器』の未来を終わらせた。
【田中一@オッドタクシー 退場】
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七草にちかは。
会ったことも無い怖そうな男の人と、長い話をする夢をみた。
太陽の擬人化みたいな人に、宇宙みたいな場所でガンを付けられてると思ったのが最初だ。
それも、
幽谷霧子さんを例える時に使われる太陽ではなく。
物理の教科書で『ほらこんなに超高温なんですよー』と書かれる断面図や写真のイメージだ。
これは間違いなく、頑固で気難しくて厳しくて、頭が硬くて暑苦しくて話の長そうな人だとすぐ察した。
いやむしろ会ったことあると、だんだん気付いた。
世田谷区とかで。真夜中の世田谷区とかで。
世田谷区と言えない場所になっていく真っ最中の世田谷区とかで。
ヘリオスさん、と呼べば肯定が返ってきた。
最初で最後の会話は、お互いに最低の中の最低みたいなテンションから始まった。
それはそうだ。
この人のいる『向こう側』は界聖杯内界ではないから、無形を飲み込む崩壊であっても影響は及ばない、とか。
彼の片翼は、極晃へと接続の手を伸ばし、それが滅びによって切断される営みと同時並行で、
契約者である七草にちか、引いてはその先にある『界聖杯』と繋がるために契約パスの存在情報(ログ)に手を伸ばしており。
結果的に、いざという時の予備燃料(コスト)として同じく接続先に指定されていた彼と彼女が、彼の精神世界を介して何とかかんとか、と。
そういう理屈の上で、『なぜ』を説かれるうちに、気付いてしまった。
にちかは僅かにでも『彼は完全に消えてはいなかった』という証を期待していて。
そして、理屈を説かれたことで、『やはり彼はここにいない』と悟ったことを。
そこからは過程はともかく、結果は予定調和だ。
話がすんなり通じたかは別として、話題がどうなるかは決まっていたから。
その人(ヒト?)が知っている、ライダーさんの話をたくさん聞いた。
その人に対して、私が知っているライダーさんの話をそれなりにした。
にちかとその人が出会ったら、そうなることは自明であったし。
そして実際にそういうことになった。
ライダーが、どんな最期を迎えたのかを、聴いた。
実際に見ていたヒトが語ったのだから、間違いないことを。
最初から、最後まで。
………………。
痛。
痛い。
いたい。
いきてる。
目を開けると、視界がそうなっていたせいで横向きになったテーブルがあった。
情報量に比して、現実の時間経過はそんなでもなかったらしい。
なぜ分かるのかと言えば、スポドリのボトルがまだひんやりとテーブルにあったから。
摩美々からとにかく飲めと押し付けられ、まだ半分ほど残った、その時の冷たさのままだった。
脱力感も、止血された腕がしびれているのも、なくなった右手も、そのままだった。
真夏だというのに全身に肌寒さがあるし、全身が『もう動きたくない。動いたところでやばい』と訴えている。
摩美々の姿がないのだけが、違っていた。
代わりのように彼女のスマートフォンが、ペットボトルの隣に残されている。
なぜ摩美々のものだと分かるのかと言えば、たびたび使う所を見ていた、というだけでなく。
こんな、迷彩色に紫をまぶしたような模様の、ガスマスクをしたパンダみたいな絵を飾る人なんてそうそういない。
万一、幽谷霧子が連絡をしてきた時の為に置いていったのだろうか。
だったら、どこに行ったと書置きでも残してくれたらよかったのに。
『飲みきらないとミイラになる呪いをかけた』なんて速筆のメモだけはボトルの下にはさんであった。
なんでこれを思いつくのに連絡事項は書かないんだろう。
ぼんやりとそう思い、でも頭はいい人だったのにな、と発想が違う方を向く。
もしかして、行き先を書いたら『帰って来るのかどうか』を意識するから、わざと書かなかったのだろうか。
摩美々が帰って来ないかもと意識すれば、にちかは『今度こそ一人になった』と思うかもしれないから。
彼女は自分の安否を曖昧にすることで、『喪失』ではなく『姿が見えなくなっただけ』と嘯こうとしたのではないか。
まだ死んだと決まったわけではないと現実逃避してほしいわけではなく、ただ気にしないでほしいのだと。
どこかで無惨に死んだと思ってほしいのではなく、曖昧な蜃気楼に溶けていったんじゃないか。
『私はこういうアイドルです』と言わんばかりに主張の強い紫色のスマートフォンを手に取ると、そんな気がした。
彼女は、紫色の蜃気楼を名乗っていたアイドルだから。
そして、気付いたことが、もう一つ。
観客の七草にちかは、どこからでもアイドルの七草にちかを見ていると言った。
プロデューサーは、ぜいたくにもワンマンライブを見届けた。
けれど。
アイドルとプロデューサーに話をさせる為に、彼だけがその場にいなかったせいだけれど。
「わたし……まだ一度も【あなたの為のアイドル】を、やってなかった……」
【渋谷区・路地裏横の屋内(アシュレイ達との戦場跡とさほど離れてない)/二日目・午後】
【
七草にちか(騎)@アイドルマスターシャイニーカラーズ】
[状態]:精神的負担(大/ちょっとずつ持ち直してる)、決意、全身に軽度の打撲と擦過傷、『ありったけの輝きで』
片腕欠損(簡易だが止血済み)、出血(大)、サーヴァント喪失
[令呪]:全損
[装備]:
[道具]:スポーツドリンク、田中摩美々の携帯電話
[所持金]:高校生程度
[思考・状況]
基本方針:283プロに帰ってアイドルの夢の続きを追う。
0:?????
1:アイドルに、なります。
2:殺したり戦ったりは、したくないなぁ……
3:ライダーの案は良いと思う。
4:梨花ちゃん達、無事……って思っていいのかな。
[備考]
聖杯戦争におけるロールは七草はづきの妹であり、彼女とは同居している設定となります。
WING決勝を敗退し失踪した世界の七草にちかである可能性があります。
当人の記憶はWING準決勝敗退世界のものですどちらの腕を撃たれたかはお任せします。
※こちらは田中摩美々が退室してから、さほど時間は経過していません
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――どちらまで?
とっさに乗り込んだタクシーのドライバーからそう問われたような、『どうしよう』が眼前にあった。
いや、これからどこに行くのかは分かる。
あの世。お彼岸。あっち側。死後。冥界。幽世。お星さま。界聖杯の魔力源。そういうのだ。
だが、いきなり階段の踊り場に立たされていては、『ここはどこだ?』という顔になりもする。
……っていうか、あからさまな扉の前とかじゃなくて、踊り場なのかよ。
半端な所にいるから、のぼる階段と降りる階段の二択になってるじゃないか。どっち行きゃいいんだよ。
不親切なことに、その分岐には階下が何階、階上が何階でそれぞれ何があるといった掲示が一切ないのだった。
階上へと果てが見えぬ風に伸びる階段。こちらは上方が眩しげな光に満たされていて先が分からない。
階下へと同様の不確かさで伸びる階段。こちらは下方を一面の闇に満たされていて、同じく分からない。
しかし、指針となるものは残されていた。
階下へと直近で降りて行ったらしい、返り血と埃で汚れ切った靴音が数多く残されていたのだ。
土埃はともかく明らかに返り血らしきものをその足で踏んだような赤茶色は、持ち主の属性を察するに余りある。
さらに階下への壁の、まだ見える範囲には『暴走族神永久不滅』だの、『愛羅武愛』だのと。
そういう連中の一部が童心に返って書き残したようなスプレー文字がある。
前者についてはさっぱりだが、後者はもしや『アイラブアイ』か?
この階段は、同担のファンを篩い分ける心理テストだとでもいうのか。
だが、知りたいことについては分かった。
階段の上がどういうところで、階段の下がどういうところなのかは、これで察せる。
だったら、どちらに進むのかは決まっていた。すぐに決められた。
だって、もしここで階段をのぼることを選んだりしたら。
まるで俺が敵連合に入ったことを後悔して、抜けたがっているみたいじゃないか。
俺がそんなことを表明するはずがないだろう。
正直言って、こんな足跡を残す属性違いの連中が集まっている場所に降りるのかと思うと心底憂鬱になるし。
ろくな目に遭わないだろうことを思えば、できるなら行きたく無いなぁというのも本音だったのだが。
まぁ、階段をのぼるのは、さすがに無いよな。
俺はあの魔王の下で悪の手先をやると、自分で選んだのだから。
その為に罪のない者たちを、果ては仲間まで殺したことを、否定しないから。
それでも後悔してない社会の敵なんだと胸を張って、虚勢だろうと格好つけながら階段を下りてやろう。
そう思って見上げた光の先からは、とぎれとぎれに、鳥の鳴き声が聴こえた。
「あ……」と間抜けな声を出した。
しばらく、口をぽかんと開けっ放しにしていた。
とても懐かしい、忘れようもない声だったから。
――チ……チチッ……キュ……キュイッ……
鳥の鳴き声の種類なんて、数えきれないほどあるというのに。
小さなさえずりの音だけで、俺はすぐに悟っていた。
あれは、『まる』だ。
小学生の時分からそばにいた愛鳥。
この世界に来るまでの、俺の唯一の友達。
この世界に来なければ、『最初で最後の』友達という枕詞さえついたかもしれない。
罪のない、寿命をたしかにまっとうしたオカメインコがそちら側にいるのはとても納得がいくことだった。
まぁ、この世界で逝くことになったあの世にまるがいるというのはおかしな話なのかもしれないが。
俺の設定(ロール)を界聖杯が作り出したというなら、まるの情報がどこかにまぎれこんでてもおかしくは無さそうだし。
他にもうっすら、幾つか動物の鳴き声唸り声や、くぐもった『ドードー』という声も混ざってきた。
そう、あの鳥は記録によれば名前のとおり『ドードー』と鳴いていたらしい。あのゲームでもそういうことになっていた。
まさかソーシャルゲームの紛失データまで、この世界では『死者』の判定がされているわけじゃあるまいな。
そんな呼び声を懐かしい、と思う事すこし。
吹っ切れた笑いが顔に浮かぶことに、そうそう苦労は要しなかった。
声を聴かせてくれてありがとな。
そんで、ここからはお別れだ。
もう大丈夫だよ。
俺は、きっと好きに生きた。
そして、この先は一人でも行ける。
一人だとしても、俺は独りではないことが分かったのだから。
旧友に別れの言葉を終え、階段から背を向けようとして。
その次に聴いた音は、今度は幻聴だったのだろうと思う。
カンカンカン、と靴音が鳴っていた。
たった今、進む事を放棄したばかりの段差を駆け上がって遠ざかるように。
足早に、長い黒髪の艶やかな影が、階段をのぼっていく。
そんな姿が見えるような、軽快な音だった。
一秒でも一瞬でも早く、階段をのぼった先にたどり着きたいかのように。
その先に、帰りたくてたまらないスイートホームが待っているかのように。
どうやら彼女を殺害した俺にも、そんな夢想をするだけの図々しさは残っていたらしい。
もちろん、彼女の会いたい人が階段を上がった先で待っているなんて不謹慎だと言われたらそうだが。
それでもアイツは。
愛する子どもの為に一連のことをやったのだとすれば。
階段を下りた先ではなく、上った先にいてほしいと、俺が思っただけだ。
それで、今度こそ何も聴こえなくなった。
感傷の時間も、いよいよ終わりだ。
あとは、胸を張って階段を下りるのみ。
脚は震えちゃいるけど、これぐらいは矯正しようがないだろう。
まぁ、究極的に言えば上っても下りても界聖杯の杯の中に落ちることに変わりないのだろうし。
ここまで来てどっちの階段を行こうとも、その先は『無』でした、なんてことになるのは怖いから。
まぁ、それはそれで、死柄木の願いを叶える燃料にはなるのか。
俺のことも喰らって先に進めなんて捨身飼虎の精神は持ち合わせちゃいないが、そうでなきゃやってられない。
そんなことを思いながら足を動かすうちに、段上からの灯りはもう届かなくなっていた。
俺は淡々と階段を下りて、自分の姿を階下の闇へと沈めていく。
『……ぽちゃん』と、最後に水音が聴こえた気がした。
まるで、スマホを側溝の中へ水没させるがごとくに。
まるで、暴走車両が車線を外れて墜落し、海底に沈むみたいに。
まるで、愛に満ちた杯の中に何かを滴らせて、もうひと味を加えるように。
◆◆◆◆◆◆◆◆
あなた一人のせいだなんて思わないで、と偉そうなことは言ったけれど。
目の前のやるべきことが終わってしまうと、皆がいなくなってしまうと。
ちゃんとできなかった、という痛みを感じないのは無理だった。
帰りたかったな、という本音(わがまま)がそこに追従する。
死ぬ時は、独りだった。
独りぼっちになった。
必然と言えばそうなのかもしれないけど。
だって、相棒は二人とも見送った。
摩美々に見送れる限りの人は、見送ってきた。
つまり、摩美々を見送ってくれる側の人は、もういない。
誰かさんが、真っ暗で冷たくて誰もいない場所に突き落としたせいでもあるけれど。
救いの余地など許さないという痛みだけが、身体じゅうを這いまわっている。
身体から熱がなくなって、摩美々が摩美々ではなくなっていく。
蜃気楼みたいな熱が、胡散霧消して消えていく。
いなくなる。死ぬ。聖杯に落ちる。
今ここにいる、私さえも。
落下する、真っ黒に。
落ちていく。
そう、あの時と同じ暗闇だった。
心が死んだ、と思った時に見えた心象風景。
落下していく風切り音は無いけれど。
鼓膜がどうにかなったおかげで、音のない現実感の無さが身を包んでいる。
そう、誰の音もないし、誰もいない。
あの夢から醒めた後に救ってくれた太陽も、ここの場所は知らない。
彼女が願ってくれた『元の家に帰れるといい』という祈りにも、応えられなかった。
霧子だって、このままだと一人にしてしまうかもしれない。
あの時と違うのは、彼ではなく自分の身にふりかかったことであること。
生きてほしいという祈りに応えられなかった悲しみが、摩美々の背負ったそれであること。
ああ。
いなくなりたく、ないなぁ。
そんな願いのことを、誰か聞いてくださいと。
祈ったつもりなんて、なかったけれど。
誰だろう、と思った。
音も、姿も分からないけれど。
気配は確かに、近づいてそばに立ったから。
ふわりと降りてきたものに、しっかりと掴まれた。
私の手は掴まれていた。
あ……って思った。
この手は、知っている。
たしかに一度、この手に握ってもらったことがある。
いや、人の手の感触なんて、一人一人覚えてられないけど。
この既視感だけは、ごまかしようがない。
なぜって『過去夢』のことだから。
その人は、この世界に来られないものだと思っていた。
にちかのライダーが遠い星と繋がり、その上で【助力を請い】【応える】という手順を踏む。
一度話してみたいなぁ、という思いはあったけれど、どんな英霊だってそれは必要。
ライダーも言われるまでもなく頑張ってくれたことは分かるから、そのきざはしには至っていたのかもしれないけれど。
それが叶えば死柄木弔にも勝てていた以上、ライダーはそれが叶わなかったのだとは思う。
ただ、その人に関することは、【もう一人のその人】の記憶を見たという話も含めて、よく知っていた。
その人たちの宝具は、部分的に因果を逆転させ得るのだという。
たとえば鍵の失われた宝箱があったとしても、鍵は「失われていない」ことになる。事件解決の為なら。
だから、英霊の座に繋がるための糸が中途で切れてしまったとしても、糸は繋がったことにする。
一番肝心な【助けを求めて】【応える】手順がないなら、星の一部にはなれないとしても。
でも、そこにいてくれた証なら、たしかに心当たりがあった。
目と鼻の先にいる死柄木弔に見つかってもおかしくなかったのに、渋谷区駅地下まで隠密行動できたりだとか。
マイクや盾をすぐに見つけられた利だとか。そういう、追跡や探索に成功したこと。
実行能力さえそろっていれば、犯罪を犯せる能力と対になる。
実行能力さえあれば、探偵になることができる解明の力。
それがほんのちょっとだけ、導いてくれたのだとしたら。
――指先に力を込めると握り返される。寒さを和らげてくれる暖かさと一緒に。
夢と同じだと思ったことが、確信になる。
なぜ可能だったかは疑問にならない。尋ねない。
初歩的で、明白で、明らか。
そのお星さまは、みんなよりも、たった一人を照らしてあげたかったのだから。
そんな人に会いに来ることには、理由は要らない。
熱が抜け落ちていく身体に許された、最後の動作で。
口元を『ふふ』という形にゆがめた。
摩美々だけが知っている渋谷幻霊事件。
ただ、手を取ってくれる人が摩美々にもいたかもしれない、というだけで。
パートナーで、教師で、友達で、お兄さんみたいだった人から。
こんな冷たい最期でも、灯りがひとつ。
ご褒美をもらえた、という気がした。
じゃあ、一緒に会いに行きましょうか。
それとも、捕まえに行くと言った方がいいのかな。
予定調和はない。
あったのは揃いの気持ちだけ。
見渡せば、紫の蝶が舞ってた。
【田中摩美々@アイドルマスターシャイニーカラーズ 退場】
◆◆◆◆◆◆◆◆
緋色の薔薇が愛した紫の蝶は、蜃気楼の中に溶けることを選んだ。
社会の敵になった無敵のピューマは、爪痕を刻むことを望んだ。
少女は口元に人差し指をあててニッと微笑し、輝きの向こう側に隠れる。
男は胸を張って、地獄への階段を下りる。
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最終更新:2023年11月24日 01:06