――ずっと、それだけを探していた。

    ◆  ◆  ◆

「沙都子ちゃんはなんて言って死んだんだ?」
 咲き誇る桜の樹海。
 それは最早、"開花"により実現可能な範疇を半ば飛び越えていた。
 遍く可能性を開花させると宣う界聖杯の地。
 そこで得た数多の戦いとこれまでの自己からの解脱。
 元々始祖の血に耐え得る素養を持っていた事と皮下自身の意思の強さ。
 そして未だ明かされぬままのもう一つ。
 要因が絡み合い彼の中に立つ三相合一(トリニティ)。
 その結果として今彼は開花のその先に手を掛けている。
 宛ら、長い冬が終わり春が訪れるように。
 雪の下で踏み締められて来た花が春来と共に花開くように。
「多少なりとも付き合いのあった間柄でね。聞く権利ぐらいはあると思うんだが」
「生憎と、宝物は大事に仕舞っておくタイプなの。教えてやらないわ」
「そりゃ残念だ。只その顔を見るに、あの子なりに満足して逝けたみたいだな」
 北条沙都子は死んだ。
 古手梨花の熱が彼女の心を覆っていた氷を溶かし、神に歪められた魂を救済した。
 だからこそ梨花に後悔の念はない。
 敗者への同情は情けに非ず。
 精一杯手を尽くして戦い合った末の結末を誇りこそすれど、目を伏せて悔やみ涙する等魅音の部活にはそぐわないノリだ。
 離別は済ませた。
 魔女の物語は終わり、後はさしずめ後日談。
 夜桜の魔女との契約の履行。
 その為だけに、古手梨花は今魔人の前へと立っている。
『想像以上ね。此処まで至っているなんて、正直思いもしなかった』
 脳裏に響く初代(つぼみ)の声。
 彼女の言葉は一切の幸いを保証していなかった。
 寧ろその真逆だ。
 つぼみは、梨花の目前に立つ桜花の到達点に驚嘆さえしている。
『"開花"の先…"開花春来"にまで至っている。この領域を彼は知らない物だと思っていたけれど――いえ、事実知らないのでしょうね。
 力を極め、効率を極め、合理を徹底した末に……皮下さんは自動的に其処まで辿り着いた。ということかしら』
“ごちゃごちゃした話はこの際いいわ。率直に言いなさい、つぼみ”
 神剣の贋作。
 繰り返す者を屠る剣、その柄を強く握り締めながら梨花は問うた。
“ざっとでいいわ。どの程度出来るの、アイツは”
『先刻の沙都子ちゃんを凌駕している事は間違いないわね』
“…オッケー、了解。つまり状況は最悪って事ね。よく理解したわ”
 妄執の果てに異界法則まで掌握するに至った絶対の魔女。
 それさえ凌駕するとなれば、最早その戦力はサーヴァント基準で見ても一級に違いない。
 ましてやそんな男が最強のサーヴァント…海賊カイドウを従えていると言うのはまさしく鬼に金棒。最悪の悪夢だった。
 そんな梨花の表情を察してか、皮下が口を開く。
「つぼみと話してるのか。ズルいな、俺は君の手札を殆ど知らないってのに」
「どの口で言うのよ。あんたこそイカサマの権化みたいな存在じゃないの」
「そう言われると俺も弱い。じゃあバケモノ同士潔く殺し合おうか――と行きたい所なんだけどな。折角だ、これだけ答えてくれないか」
 皮下真は紛うことなき怪物である。
 彼は夜桜の使徒として、既に一つの極致に至っていると言ってもいい。
 初代か。それとも彼女をこの世に産み落とした狂人か。
 もしくは最強の名を背負う現世代夜桜の長兄か。
 そうでもなければ影さえ踏めない域に達した徒花の化身である。
 そして今。彼は、真の怪物に変貌する上で排すべき最後のパーツの切り捨てに掛かった。
「アイツは…つぼみはなんて言ってる?」
「…気になるの?」
「おいおい、それ聞くかぁ? 俺は一応つぼみの為に戦ってるんだぜ。当人の意思を聞くのは大事な事だろ。な、霧子ちゃん!」
「えっ――は、はい…。えと、同意無しで手術をしたりすると……最近は、すっごくたいへんな事になったり……します……!」
「……み、みー。霧子の素直さも時には悪癖なのです…」
 調子を崩された様子で眉間に皺を寄せ、嘆息する梨花。
 とはいえ求められたからには応えようという気持ちもあった。
 因縁のある相手とはいえ、元を辿ればこれは依頼された戦だ。
 その結果事態がどう転換するにせよ、伝えておくに越した事はないだろう。
 そう判断して梨花は精神世界で繋がっている"彼女"へと問いを投げる。
 そうして返ってきた答えを、梨花は率直に皮下へ告げた。
「『もう十分です』だって」
「そっか」
 皮下はまた笑った。
 今度のは不敵でも嘲笑でもない。
 困ったような、人間臭い笑顔だった。
 街一つを覆うような魔樹の海を繁茂させた魔人が浮かべるには不似合いな、そんな表情であった。
「残念だよ」
 落胆の言葉は一つ。
 それで以って切り捨ての工程は終わる。
 次の瞬間巻き起こったのは、視界中に生い茂った桜の木の更なる異常成長だった。
 只でさえ数年数十年を懸けて育つべきサイズだったそれらが倍に、いや更にそのまた倍にと成長を加速させていく。
 更にそれらが撒き散らした種子がまた次の桜を生い茂らせ、ものの十秒足らずの内に渋谷を更なる異界へと変じさせていった。
「ッ、これは…!」
 単なる桜の海だったならどれ程幸いだったか解らない。
 これはそんな可愛げのある物ではなかった。
 何しろ全長数百メートルを超える大木から今芽吹いたばかりの幼木まで全てが"夜桜"だ。
 接触が死に直結する事は最早言うに及ばず。
 降り頻る花弁の一枚に触れただけでもソメイニンの過剰摂取に繋がり得る死の樹海。
「聞いておいて何だが、最初からやる事は変わらない。変わるのは俺の心の持ちようだな」
「あんた…この東京全体を、死の土地に変えるつもりッ!?」
「当然だろ。そろそろこの戦争も潮時だ。総取りしようと考える発想はそう的外れな物でもないと思うが?」
 皮下の標的は何も古手梨花だけに留まらない。
 この場に居合わせた彼女の友軍の少女二人。
 呉越同舟を地で行く境遇の、砂糖菓子の少女とその近侍。
 命を燃やして竜王に挑む女武蔵と月の剣鬼。
 更には渋谷の街に存在する全生命。
 行く行くは東京都全域…界聖杯内界に息づく全ての魂を。
 那由多の樹海はこの世界の全てを吸い上げる。
 其処に在る"可能性"を、一滴残らず枯らし尽くすまで。
「この戦争は今、終わる」
 夜桜事変――最終演目。
 夜桜樹海決戦。
 人外魔境と化した渋谷は遂に、終局の地へとその姿を変貌させ始めた。
「さあ終わろうぜ古手梨花。亡霊に呪われた哀れな人柱よ。俺がお前のラストステージに付き合ってやるよ」
 死が満ちる。
 全ての可能性を閉ざす、最大の夢が具現する。
 悪夢の病名(みな)は安楽死。
 只安らかに、眠るように終わってくれと願う優しい殺意(あい)。
 事実この樹海に身を委ねれば。
 抵抗を止め、苦しむ事を放棄して蠢く桜に身を沈めれば。
 その先にはきっと夢見るように安らかな眠りが待っているに違いない。
 二度と覚めない、痛みも喪失も味わう事のない恒久の眠りが。


「…そうね。きっともう私は終わるだけ」
 霧子とアイには未だ言えていない事だ。
 だがきっと、彼女達にも伝わっているだろう。
 今の梨花の体は只生きているだけだ。
 命を繋ぎ続けているだけ。
 嚥下機能を失った老人が胃に穴を開けて栄養を流し込まれ生かされているのに似ている。
 そしてそれも――数刻としない内に限界を迎えるのは明らかだった。
 未練がないと言えば、嘘になる。
 何せ百年もかけて勝ち取った未来だったのだ。
 それをこんな所で失ってしまうだなんて冗談じゃない。
 本当は泣き叫んででも異を唱えたい。
 生に縋り付いてみっともなく暴れたい。
 なのに心がこんなに凪いでいるのは、嗚呼きっと。
『"また"ね、梨花』
 これで終わりではないと解っているからなのだろう。
 終わりは来る。
 だが、それは本当の終わりではない。
 自分達に限ってはそうなのだと今の梨花は信じている。
 だから剣を握れる。
 だから――最後までこうして立っていられる。
「けど、此処で終わるのは私とあんただけよ」
 親のようで姉妹のようで、そして親友のようでもあった神から託された神剣の写しを力強く握り締めて樹海の主と向き合う。
 その体に震えはない。
 握り締めた刃に迷いはない。
 神剣は今、悲劇を繰り返す者の妄執を断ち切る為に輝きを放っている。
「地獄の底にだって力強く咲き誇る…そんな花を見せてあげるわ。皮下真」
「やってみろよ。出来るものなら」
 木々の海が爆裂した。
 そう見紛う程の加速的成長は死の津波に等しい。
 そんな中に、梨花が立って剣を振るう。
 皮下の力はつぼみ曰く北条沙都子の数倍。
 沙都子相手にさえ命からがら、奇跡のような幸運で勝利を掴むのが精一杯だった梨花が戦える相手では決してない。
 ――本来ならば。
「最後よ。つぼみ」
 彼女の体に流れる"夜桜"が、皮下真の夢と反目する存在でさえなければ。
 古手梨花は一瞬の拮抗すら叶わず押し潰され桜の苗床に変えられていた事だろう。
「後先なんて考えなくていいわ。ありったけ、全部、私に寄越しなさい――!」
 モーゼの神話を再現するが如く、梨花の一刀が桜の海を割る。
 それと同時に閃いた一閃は皮下本体にまで到達し彼に袈裟の傷を刻み込んだ。
 一瞬の瞠目はしかしすぐに納得に変わる。
 口端を伝う血を花弁に変えながら笑う皮下。
 皮肉なもんだな、と肩を竦めた。
「夜桜の血を此処まで引き出した俺が…今は誰より夜桜に否定されてるって訳か」


 つぼみの意思は皮下の眠りを望んでいる。
 それを血を通じ受け取った梨花は今や、夜桜でありながら夜桜を殺す者と化していた。
 彼女の振るう力は夜桜が繁茂する事そのものの否定。
 夜桜の否定者(UNBLOSSOM)。
 今の梨花を形容するならばそんな所だろうか。
 そしてそれは言わずもがな、夜桜を愛する故に立ちはだかる皮下にとって最大の皮肉だった。
 ――もう。
 声がする。
 ――もう、終わりにしましょう。
 下らない幻聴だ。
 ――もう十分です。ありがとうございました。
 だから切り捨てる。
 ――川下さん。
 その余白は、弱さになるから。
「いいさ。アンタすら否定するのなら…俺が代わりに夜桜(アンタ)になってやるよ」
 立ちはだかるのは夜桜の否定者。 
 しかし皮下は流石だった。
 反粒子にも等しい天敵を純粋な出力差だけでねじ伏せて桜の版図を拡大させていく。
 つまりこれだけの天敵が相手でも戦況は十分すぎる程に互角以上。
 皮下の圧倒的優勢という構図は小揺るぎもしていない。
「行くぜ。つぼみ」
「来なさい。バカ医者」
 桜花絢爛。奈落満開。
 樹海の戦端は、神話の一頁そのものの劇的さで幕を開けた。

    ◆ ◆ ◆

「轟おおおおおおォォッ!!」
 カイドウの咆哮が響く。
 それは音圧だけで大地を抉る天災だ。
 この男に限って言えば最初から万人の悪夢そのものだった。
 皮下のように機を得て化けた訳ではない。
 ベルゼバブのように大海を知り異形化した訳でもない。
 カイドウはこの聖杯戦争に召喚されたその時から今に至るまでずっと元の形を保ち続けている。
 にも関わらず彼が最強の座を譲った試しはなく。
 そして今も、彼はその身一つだけを究極の武器として不条理を成し続けていた。
「は…はあッ!?」
 武蔵の口から思わず驚愕が飛び出たのも無理はない。
 天元の花へ向けて吶喊していた彼は今、空中でその軌道をジグザグに歪めたのだ。
 一体どれ程の負荷が生じているか想像も付かない、あらゆる常識を無視した超次元的挙動。
 音を置き去りにしながらそんな芸当を成し遂げて来るのだから形容の文句は"最悪"以外にはなかった。
「ウォロロロロロロ!!」
「づ、ッ…!」
 カイドウの巨体は二十尺に達している。
 その上筋骨隆々と来ているのだから重量も尋常ではない。
 そんな生物がデフォルトで音速並の速度を叩き出してくるのは何の冗談か。
 速さは重さ。従って音を超える豪打の一撃は、いずれも余さず致死の威力を含む。
「当たり前みたいに反応しやがって。おれの攻撃に初回から付いて来れる奴なんて、あの海にさえそうは居なかったぜ」
「そこはそれ、年の功って奴で一つ。こっちも大概の人外魔境を渡り歩いて来てるのよッ」
 武蔵はアルターエゴ・リンボとの戦闘で手持ちの刀剣の大半を失っている。
 しかしそれは彼女のコンディションが不完全である事を意味はしない。
 寧ろ逆だった。
 文字通り後先のない状況で抱えた不具の縛りが武蔵の意識を過去最高の領域にまで研ぎ澄ましている。
 だからこそカイドウの息吐くように行う無茶にも体が付いて行く。
 目で追える。反応ができる。
 梨花から流れ込んで霊基ごと変質させて来る夜桜の魔力も合わさって、間違いなく今この瞬間の真打柳桜は最高の切れ味を発揮していた。
 雷切伝説さえ苦もなく成し遂げるだろう桜の一太刀が音を置き去りにする。
 カイドウもそれを追って八斎戒を振るい、両者の間に鈍い火花が散る。
 傍から見ればさぞや信じ難い光景だろう。
 誰の目にも明らかな怪物の巨体から繰り出される剛撃を女の細腕で捌き、あまつさえ拮抗しているのだから。
「ふッ――!」
「…! 速ェな!」
 更に太刀の速度だけに限定するならば、武蔵は確実にカイドウの上を行っていた。
 最強の名に恥じぬ武芸者であるカイドウだが、彼に刀を持たせたとして此処までの速度と技の冴えは見込めまい。
 鮮やかなり天元の花。その刃、異界の皇帝に届く。
 八斎戒を伝って走った剣筋が鬼の右腕に一条の傷を刻み込む。
「愉快愉快! こりゃ良い気付け薬になるぜ…!」
 然し四皇――豪笑。
 羅刹の蹂躙が突き進む。
 それは単なる力押しの正面突破、されど彼が行うならば覇者の進軍に他ならぬ。
 実際武蔵は至極当然の結果として跳ね飛ばされた。
 一瞬の拮抗も許さぬ世界最強の力押しだ。
 如何なる技も研鑽も、カイドウは只持って生まれた力だけで踏破する。
 そしてその先にこそ、彼が極めた技の数々は存在しているのだ。
「"威国"ゥ!」
「づッ――」
 空間そのものが爆裂したと見紛う程の衝撃に貫かれて武蔵が喀血する。
 咄嗟に剣捌きで受け流したから内臓の二個三個の犠牲で済んだが、直撃ならば胴体が抉れ飛んでいてもおかしくなかった。
 しかし武蔵も怯まない、譲らない。
 奥歯が罅割れる程強く歯を噛み締めながら、受けた衝撃が引くより速く桜の花弁を吹き荒ばせた。
「――おおおおおッ!」
「蛮勇だな…! だが受けてやるよ、うおおおおおおッ!」
 夜桜一閃、相対するは雷鳴八卦。
 衝突と共に桃と紫の稲妻が空を裂いた。
 純粋な身体能力に限ればベルゼバブの水準さえ超えていると改めてそう確信する。
 だからこそ鬼退治、竜殺しとは難業なのだ。
 身の丈も力も、何もかも格が違う敵を討ち取るからこその英雄譚。
 武蔵は生憎とその手の肩書に興味はなかったが…朋友にそう望まれたならば是非も無い。
「…何!?」
 カイドウの一撃が弾かれ、両者の均衡が崩れる。
 瞠目する鬼神を前に武蔵は止まらない。
 したり顔で戦果を誇るでもなく次を用立てる。
 二天一流、限界駆動――十重に二十重に咲き乱れる斬撃の桜吹雪。
 要求される剣勢(スペック)は最低水準でも神速。
 斬鉄どころか斬神の領域になければ話にならない。
 せめてその次元はなければこの鬼は斬れない、この龍は墜とせない…!
「ズ、ぐ…! チィイイイ……!」
 刻む、刻む。
 カイドウの体から血桜が咲いていた。
 完全に翻弄し圧倒している。
 新免武蔵が最強生物の命運にその手を届かせている!
 鬼が浮かべる苦渋の表情からもその事は明らかで、そしてだからこそ――
「――洒落臭ェぞオオオオオオオオオ!!」
 咆哮の炸裂と共に武蔵は轟雷の炸裂を見た。
 覇王色の覇気、最高峰まで高められた王者の素養のその爆発。
 武蔵の剣も体も震動と共に宙を舞う。
 単なる"威圧"でこのレベル。
 こんな生き物が曲がりなりにも人に分類され生きて来た事実を彼女が知れば、目玉が飛び出る程に驚いたろうが…
「癪に障ったか、鬼神!」
「応とも! ムカついた――だから雷を落としてやるよォ!」
 彼は雷神(ゼウス)等遣わない。
 雷雲を手繰る指揮棒にも頼らない。
 気候現象としての雷なぞ単なる虚仮威し。
 見よ、真の雷霆とは――
「味わえよ"天罰"! "咆雷八卦"ェッ!」
「ッ、…――!?」
 ――得物を両手で握り振るうもの!
 轟いた天罰(それ)の名は咆雷八卦、新免武蔵は其処に確かに天の稲妻を見た。
 遥か異聞の全能神が下す雷霆をも知る武蔵をしてその僭称に異議を唱える事の出来ない圧倒的武力の具現。
 剣で受け止めただけで視界が白く染まって声が飛んだ。
 霊核にまで届く衝撃の震撼に体内を撹拌されながら、唇を噛み潰して意識を保ち武蔵が持ち堪える!
「これしきで天罰とはよく吼えた。見なさいカイドウ、人斬り一人殺せてないわよ…!」
「口の減らねェ女だ。お前モテねェだろ」
「興奮すると龍に化けるデカブツにだけは言われたくないわねッ!」
 カイドウの龍化に合わせて鱗を刻む。
 だが浅い、此処までなら時を超えた赤鞘の侍達でも叶った戦果。
 空へ昇った青龍が熱息を吐き出す。
 但し一発や二発では最早ない。
 矢継ぎ早、否そもそも矢を継ぐ事さえしない大火球の大乱舞。
 恐竜(ディノ)の時代を終わらせた隕石の到来をさえ彷彿とさせる災禍はまさに龍の特権だ。
 カイドウの龍鱗から桜が散っているのを武蔵は見た。
 やはりと思う。
 夜桜の血の恩恵に預かるのは何も、自分だけの特権ではなかったのだ。
「ウォロロロロ! 悪くない気分だ…! 初めて青龍(このちから)を手に入れた時を思い出すぜ……!」
 上空に漂いながら哄笑するカイドウ。
 その姿から伝わって来るのは漲る欲望。
 この界に存在する全てを貪る、海賊の象徴たる感情。


 ――悪竜現象(ファヴニール)という言葉が存在する。
 閾値を超えた欲望は生き物を竜へと変生させる。
 英雄の仇敵たる邪竜。
 愛に狂った巨人の王。
 欲するを知った太祖の竜。
 いずれの前例も比類なき脅威性を約束している。
 カイドウは天性の竜ではない。
 神々の地で悪魔の実に巡り合い、それを食らって手に入れた後付けの力。
 動物系"ウオウオの実"幻獣種・モデル"青竜"。
 それがカイドウの持つ竜化の法の正体だ。
 だが。今、再起した孤軍の王は確かに真実の竜王へと変容していた。
 ビッグ・マム、ベルゼバブ――並び立つ者達が次々と進化を遂げていったこの地平聖杯戦争にて。
 不変のまま最強の座を維持し続けてきた怪物が事此処に至って可能性の開花へ辿り着く。
 悪竜現象、発生。
 対象者、海賊(ライダー)のサーヴァント。真名をカイドウ。
 個体名――"真打竜王"。
 柳桜を喰らって世界の全てを我が物にせんと猛る竜王が確かなる顕現を果たした。


“…一発一発が重すぎる! まともに相手をしてたらゆっくり消し炭にされるだけね…!”
 火球の流星群から逃げる武蔵はそう判断する。
 今のカイドウは、差し詰め武蔵がかつて鬼ヶ島で見えた械翼のアーチャーの上位互換だった。
 同じ空からの絨毯爆撃でも一撃一撃の威力があまりに異なる。
 冗談抜きに今の彼ならば、東京という都市をものの数十分とかけずに一面の焦土へ変えられるだろう。
 以前武蔵は空からの制圧にやり込められて敗走した。
 だが空に届かなかった訳ではない――やるべきはあの時と同じ芸当だ。
 火球で巻き上げられた岩を足場に空へと駆ける。
 青龍の玉体に突き立てた刃は錨の代わりだ。
 これで体を固定したならば、その上で地の代わりに巨体を蹴って駆け進むのみ。
「思い出すぜ…」
 カイドウは苦悶どころか感慨深げに呟いた。
 脳裏を去来しているのは光月おでんとの初戦。
 完膚無きまでの敗北と失意を味わされた、トラウマの討ち入り。
 だがそれも今やカイドウを唆らせる美酒と成り果てて久しい。
 決着を果たせず終わったこの世界に値打ち等ないと思っていたが、まさかあのような異形の鬼に真理を示されるとは思っても見なかった。
“ありがとよ黒死牟。お前のお陰で錆が取れた!”
 開口するや否や収束していく熱量。
 真の魔竜と化したカイドウのそれはもう単なる余技の域にはない。
 正真正銘、比類なき破壊力を秘めたドラゴンブレス――竜種の特権だ。
 火力ならば既に先刻討った蘆屋道満、その宝具解放をも凌駕している。
 これぞ錆を落とし、桜花爛漫に至りし真打竜王。
 その真価の発揮を前にして真打柳桜もまた退かず。
「南無、天満大自在天神」
 浮かび上がる仁王像は闘志の象徴。
 そして武蔵の天眼は、今も変わらず冴え渡っている。
 つまりこの戦い方で間違いはないのだ。
 愚直に、向こう見ずに…そして無謀に。
 生き汚くあってこその新免武蔵だが今だけはそれを捨て去る。
 只この一戦の為に一花を咲かす――それこそが此度天眼の示した収斂なれば。
「征くぞ――剣轟抜刀ッ!」
「来い――夜桜の侍ッ!」


 …無空の斬撃。 
 竜王の吐息。
 二つの力が激突する。
 迸る衝撃波は理をねじ伏せ、世界を無辺の白で覆った。
 焼き尽くされた地表が露わになったその時、地に立っていたのは二つの影。
 片や新免武蔵。
 全身を血塗れにしながら、息を乱してそれでも立っている。
 片やカイドウ。
 胸に袈裟懸けの巨大な刀傷を追加され、鮮血を撒き散らしながらそれでも立っている。
 彼らは共に怪物なのだとこの光景を見れば誰もが理解しよう。
 人でなし、人で無し。
 ましてや刻まれた傷が花に覆われ緩やかながら回復していく光景は何の冗談か。
「鬱陶しい血だな」
「其処については同感です。味方にしても敵にしても厄介具合がとんでもないもの。良薬と呼ぶにもちょっと苦すぎるわね」
 まさにこれぞ人外魔境。
 最終決戦と呼ぶに相応しい地獄絵図だった。
 地獄が只悍ましいだけのものと誰が決めたか。
 此処に絢爛と咲き誇る地獄は途方もなく美しい。
 焼け爛れた大地から芽吹いては瞬時に地上を満たす夜桜の樹海。
 此処もまた、夜桜樹海決戦――ある男と女の因縁の帰結の一形態なのだ。
 だが。
「てめえも流石のタフさだな。立ち上がるだけでも地獄の激痛の筈だぞ」
 その因縁に並び立たんとする月輪を、先の一瞬にカイドウも武蔵も見ていた。
 無空一閃と竜王の吐息が激突して世界が消し飛ぶ刹那の一瞬。
 桜舞う真昼の白夜に瞬く月が確かにあった。
 相殺にまで持ち込めたのは彼の横槍もとい援護あってこそ。
 そうでなければ武蔵は押し負けて、今より遥かに多大な痛手を被っていた事だろう。
 ――割り込んだ月の号は上弦の壱。
 かつて確かにそう呼ばれていた、人喰いの剣鬼であった。
「粘り強さも親譲りか? ウォロロロロ…!」
「――『其奴』の事等…どうでも良かろう……」
 正々堂々の正面対決で敗れた男が再び未練がましく立ち上がる等侍としては間違いなく恥であるに違いない。
 然し恥じぬ。
 然し、悔いぬ。
 そして省みぬ彼の佇まいは無慙無愧。
「無粋は無用…等とは、この期に及んで言うまいな……二天一流………」
「勿論。但し首級は早い物勝ちよ」
 それは再演のようでもあった。
 朝日が昇る以前の死闘。
 猛る混沌を前にして、確かに彼らは轡を並べ戦った筈だ。
 あの時は三人だった。
 けれど今は二人だ。
 神に愛された最上の剣士は夜明けと共に消え。
 今は昼に咲く夜桜と、陽融に至った剣鬼があるだけ。
 然し敵は毛程もかの混沌に劣らない。
 絶望を煮詰めた鍋の中と見紛うような地獄を前に、二人の剣士は堂々立っていた。
「火祭りがてらの討ち入りか。死ぬぜ、てめえら」
「「上等」」
 二つの鋒を向けられながらカイドウは笑う。
 破顔一笑、歓喜の極み。
 取り出された酒瓶の中身を一息に傾け取り込みながら…最後の皇帝はとうとう全ての力を解放する事を宣言する。
「ウォロロロロロ! ならば良し――来いよガキ共ォ! 生煮えの肴で終わんじゃねェぞ…!? 煮えてなんぼの、だからなァ!!」
 此処は火祭り。
 美しき地獄。
 強者達の踊る――魔境なり。

    ◆ ◆ ◆

「クッソがア~! どうなってんだこりゃあよオ!」
 夜桜の樹海の中を駆けるのは古手梨花だけではなかった。
 ライダーのサーヴァント、デンジもまたエンジンを吹かしてその電刃を嘶かせている。
 彼個人の火力ではこの樹海を全て伐採する等気の遠くなる話だ。
 彼の中に眠る"悪魔"を引き出したとて正面突破は不可能だろう。
 恐るべしは皮下真。春来に至りし夜桜の魔人。
 個人の努力と準備の二つだけで、彼は今サーヴァントさえ容易には抜け出せない運命の袋小路を現出させている。
 この樹海の厄介な点は、生えている全てが夜桜…即ち皮下の手足のような物である事だった。
 己の体内に蔓延る敵性分子を静観などしてくれない。
 白血球の役割を果たすが如く、枝葉を伸ばして蔓を張りその命を絡め取らんとして来る。
 デンジはその対処に追われていた。
 サーヴァントならば仮に桜に捕まっても抜け出す目は有るだろうが、マスターのしおやその他少女達はそうも行かない。
 良くて即死。
 そうでなくとも忽ち全ての精気を吸い尽くされ、永遠に桜と同化させられるのが落ちだ。
「きれいだね。お花がふわふわひらひらしてる」
「お花見気分たぁいいご身分だなクソガキ! …色気出さないで下がってろよ、霧子さんも動かないよーに!」
「は、はいっ…!」
 だからこそ梨花だけでなく外野のデンジもこの通りの獅子奮迅。
 阿修羅もかくやの勢いで手近な木々を伐り倒し、奇しくもチェンソー本来の使い方を披露していく。
 そんな彼の事を霧子は不思議な物を見るような眼で見つめていた。
 相棒への視線に気が付いたのか、しおがおもむろに口を開く。
「らいだーくん、ああいうひとだから」
「…そうなんだ……。優しい人なんだね、しおちゃんのらいだーくんさんは……」
 下心の塊のような男だが、この切羽詰まった状況ではそうした諸々を抱えている暇はないだろう。
 それでも彼はごく自然に幽谷霧子という少女の事を守るべき対象に含めていた。
 一時の休戦を結んでいるとはいえ、皮下とカイドウが消えればすぐにでも殺害対象に変わる筈の少女の事を。
「ホントはね。らいだーくん、人なんて殺したくないんだよ」
 しおはそうやって知った口を利く。
 けれど彼女はもう十分にデンジという男の人となりを知っている身だ。
 一ヶ月間同じ釜の飯を食い、遊び、死線を共にした相棒。
 だから分かる。どんなにぶっきらぼうで滅茶苦茶でも、デンジの根底にある物はきっと善性だ。
 彼はヴィランなどではない。
 彼はきっと、ヒーローの方が向いている男なのだと。
「こうやって誰かのことをたすけて…まもって。それでちやほやされた事を寝る前にベッドの中でおもいだして、ニヤニヤして」
「……」
「おいしいものを食べて、ゲームで遊んでまんがを読んで。たまにえっちな女の人のことを考えられればそれでいいの。たぶんね」
 デンジがヴィランをやっている理由。
 無限大の不幸を振り撒く魔王と背中を並べて戦っているその理由。
 それは、神戸しおが彼にそうある事を望んでいるというそれだけでしかない。
 霧子にしてみれば今のデンジは"らしくない"風に見えるだろうが本来の彼の気風はこれなのだ。
 誰かの為に立ち上がって血を流す人界のヒーロー。チェンソーマン。
 堕天使の呪いさえ無ければ彼はきっとこの世界でも多くの命を救った事だろう。
「しおちゃんは…らいだーくんの事、だいすきなんだね……」
「…わたしが? らいだーくんのことを?」
「うん…。だってあの人のことを話してる時のしおちゃん、なんだか……とっても、楽しそうだから……」
「…たのしそう…」
 そう言われて次に困惑するのはしおの方だった。
 彼女は敵連合の片翼だ。
 今や残っているヴィランは彼女一人。
 けれど驚いたように口元に手を当てて、自分の表情を確かめる姿はとてもじゃないがそんな剣呑な人物には見えなくて。
「らいだーくんは友達だから、間違ってはないのかもだけど」
「だけど…?」
「私がすきなのはさとちゃんだけだよ。だかららいだーくんのことは、すきじゃないとおもう」
「ふふ…」
 何故笑うのか。
 むっと眉を顰めるしおに、霧子は。
「友達でも…大切な人でも……"すき"は"すき"で、いいと思う………」
「――そういうものなの?」
「うん、きっと…。だって……友達なのに嫌いって、好きじゃないって……ちょっと、不思議じゃないかな……?」
「…うぅん。言われてみたら、そうかも」
 そうしている姿はまるで、患者の女の子と看護婦が交流しているようだった。
 諭されてしおは奮戦するデンジの方を見る。
 思えば色んな事をして過ごしてきた。
 さとちゃんの部屋にはなかったゲーム。
 味のやたらと濃い手料理。
 言葉遣いも下品なのに何故かそれが嫌じゃなかった。
 デンジは、自分をずっと守ってくれた。
 本当は誰かを殺したりなんてしたくないのに自分のわがままに付き合ってくれた。
 そっか、としおは思う。
「らいだーくんは友達で」
 愛は大切な誰かに捧ぐもの。
 何を犠牲にしても愛の前では全てが許される。
 愛しているのならやっちゃいけない事なんてこの世にはない。
 だけど――
「そんならいだーくんのことが、私はすきなのか」
 愛しているのと好きなのは似ているようで違う。
 その二つは両立してもいい。
 敵の少女にそう教えられて、しおは何だか自分の中にずっとあった気持ちに名前が付いた気がした。
 松坂さとうへの恋情とは間違いなく違う形の好意。
 それを定義するならばきっと友情とか信頼とかそういう言葉になるのだろう。
 唯一無二の愛を抱えながら、付き合いの長い相棒への"好き"を自覚して。
 神戸しおという少女の持つ可能性がまた一つ拡張を迎えたその刹那、彼女と霧子の傍を黒い影が一つ跳んだ。
「…! アイさん……!?」
「ごめんなさい、霧子…! でもっ、アイさんも……! 皆の為に何かしてあげたいからっ」
 アイ。虹花の生き残り。
 負けて死ぬ筈だった皮下に可能性を与えてしまった少女。
 アイは優しい娘だ。
 今もう一度あの時に戻れるとしても、彼女は結局悩んだ末に皮下へ手を差し伸べてしまうだろう。
 そんな彼女の心にあるのは負い目だった。
 自分があんな事をしなければ、霧子も梨花もこんな戦いをせずに済んだのにという罪悪感。
 そしてもう一つは――所業はどうあれ。
 その本心はどうあれ、かつて自分を救ってくれた男に対する温情であった。
 アイの言う"皆"の中には皮下真も含まれている。
 今や手の届かない所にまで行ってしまった恩人。
 化物のように成りさらばえてアイには理解の及ばない何かを成し遂げようとする彼のその姿があんまり哀しく見えたから。
 だから止めたいと願い、拳を握って大地を蹴ったのだ。
 デンジの切り残した桜、今まさに枝を伸ばさんとしていたそれを飛び蹴りで力任せに蹴り倒す。
 それからアイはデンジと背中合わせの形で並び立った。
「…オイ、霧子さんが困ってんだろうが。ガキは戻ってろよ」
「アイさんガキじゃない。アイさんはアイさんだもん。ガキって言う方がガキなんだもん」
 最後の虹花が徒花となって咲き誇る。
 全ては方舟を――自分に明日を見せてくれた大好きな人達を助ける為に。
 ちっぽけな善性と漲る力を胸に、アイは今こそ立ち上がったのだ。
「アイさん、しおは怖いから苦手。でも今は仲間だから、霧子もしおも二人とも助ける」
「…、まあ其処は同情するけどよ。アイツちょっとサイコ入ってるからな、正直俺もたまに怖ぇもん」
 お前はああはなんなよ。
 そう言ってまた桜の木を切り倒すデンジ。
 何言ってんだ俺は、と自嘲するが吐いた言葉は戻せない。
“近々殺すガキに未来の話かよ。我ながら最悪の趣味だな”
 その感情に名を与える事はしおへの裏切りになる。
 だからデンジは湧いて出た自嘲をかき消すように刃を振るった。
 そんな彼を援護するべくアイも身を躍らせる。
 適合率では他の虹花に劣るがそれでも貴重な成功例の一つだ。
 単なる力押しでどうにかなる局面に限って言うならば、夜桜への反逆者として十分に成立し得る。
「このままやってても埒が明かねえ。隙見て皮下の野郎ブッ倒そうぜ」
「うん! やっつけよう、ぶんぶんさん!」
「…一応聞いとくけどそれ俺の事か?」
「? そうだよ?」
「…………」
「イヤそう!?」
 共同戦線は此処に成立。
 桜の木々をチェンソーと人狼が伐採する。
 その光景を遠目に見ながら、魔人は迫る否定の桜と相対していた。


「アイの奴が此処まで生き残るってのは予想外だったな。真っ先に死ぬと思ってたが」
 桜花は常に満開を保ちながら梨花へ向けて咲き乱れる。
 万一にでも貫かれれば内側から侵される暴食の魔桜。
 それを梨花は臆せず正面切って切り祓う。
 宛ら巫女が魔を祓うため鍬を振るうが如く。
 綿流しの奉納演武を再現するように梨花は踊り舞って魔人の調伏に臨んでいた。
「俺の造った虹花ははぐれ者の集団でな。ある者は人格、ある者は境遇。兎にも角にも人とは最早足並みを揃えられない連中の集まりだった」
「胸糞悪い話なら御免被るわよ。あんたがアイの大切な人に何をしたのかはこの眼で見てるんだから」
「まぁ聞けよ。年寄りの自分語りには黙って耳を傾けるもんだぜ?」
 一歩踏み込んだ梨花を出迎えたのは炎の渦だった。
「アイは死んだ連中に比べれば落ちこぼれだった。悪くもないが良くもない。抜きん出た物は持たない、凡庸な成功例の一つでしかなかった」
 亡き虹花の一人。
 炎に灼かれ全てを失った少女の花が再生される。
 燃える海(フィルル)。
 炎を噴く桜という常識外れの開花が古手梨花を呑み込みその体を焼き焦がしていく。
「だがどうだ。アイツは只一人生き残り…この俺の運命をさえ変えてみせた。
 そして今は電ノコ頭と並んで立派に俺の敵をやってる。
 命を救われた事に俺が感謝した所で薄ら寒いだけだが、正直かなり感銘を受けたよ。
 そして確信した。この界聖杯はこと誰かの可能性を培養する土壌としては間違いなく唯一無二だ」
 それでも不動の梨花に「それでこそ」と皮下は笑う。
 何しろ彼女が宿すのは経年と共に薄れた血等ではない。
 自分の身に流れるのと同じ、正真正銘初代の血だ。
 たかだか紛い物の夜桜に――あの美しい桜(つぼみ)を枯らせるものか。
「俺に言わせりゃ千載一遇の好機だ。此処で本懐を果たす。つぼみを終わらせて俺も歩みを止める」
「勝手に浸ってんじゃないわよ、女々しい男ね…!」
「ちょっとは浸らせてくれよ。旅の終わりの清々しさは解って貰えるもんだと思ったが」
 出力は臨界点を突破。
 再生の開花を持っていなければ純正の夜桜でさえ自壊するだろう出力の炎海が地上の太陽となって膨張する。
 生半な炎なら力任せに突破されてしまうのは承知の上。
 ならば焼死でさえない最高火力で蒸発、融解させてしまえばどうか。
 そんな皮下の一手は事実梨花にとっても致命的なもの。
 まともに呑まれればまず間違いなく血ごと死滅する…その認識があったからこそ梨花は尚更臆さなかった。
「逃げてみるか? それでもいいぜ。その時は後ろのあの子達に向けて思い切りこれをぶん投げるだけだ」
「でしょうね。あんたがそういう事平気で出来る男なのは私もよく知ってるわ」
「あぁそう。なら見せて呉れよ、此奴は復讐鬼の炎だ――血肉の一滴まで憎悪し呪う業火をどう凌ぐ?」
 梨花は答えなかった。
 窮したからではない。
 形にしてそれを示す為だ。
 前へ踏み出し、柳桜を振り上げる。
 この期に及んで古手梨花が至ったのは奇しくも皮下のと同じ発想。
 即ち、血の濃さに物を言わせた強引な事この上ない力押しだった。
 血管を漲り巡るソメイニン。
 心臓が弾けそうな程に痛み、脳の血管がブチブチと断裂しては片っ端から再生を繰り返していくのが解る。
 如何に夜桜と言えど此処まで無茶をして無事で済む筈もない。
 直にツケを払う時は来るだろう。だがそれは、今じゃない。
「憎悪だの呪いだの…そういう意思(モノ)の相手はね、もういい加減慣れてんのよッ!」
 梨花の振るう鬼狩柳桜は贋作だ。
 夜桜の血を基に構築し現出させた偽りの神剣。
 その実態は超高濃度のソメイニン集合体である。
 討つべき皮下との直接対決と言う状況も手伝って、つぼみとの同調は後先を顧みない最高状態。
 ましてやつぼみは彼の"夜桜"を許容していない。
 従って今、柳桜は絶対の魔女の前日譚と激突した時のそれとは比較にならない威力を含有しており――
 斬(ザン)、と音を響かせた。
 両断される大火球。
 復讐鬼の炎を再生した小型太陽が切断されて空に還っていく。
 本来ならば有り得ぬ威力だがしかし両者共に驚かない。
 彼らは互いに夜桜の使徒。
 この血が引き起こした事象に対していちいち驚いていては身が保たないと知っているからだ。
 梨花の追撃が空を滑る。
 皮下は右腕を硬質化させ、金属に変えて応戦した。
 結果は大方の予想通り。
 夜桜殺しの神剣は一瞬の拮抗も許さずに殺人鬼の開花を粉砕する。
 行ける。
 殺せる――梨花はそれを確信した。
 だが。
「焦るなよ。勝負は始まったばかりだぜ」
 その足が文字通りの意味で凍る。
 いやそれどころか脛へ、膝へ、腿へと伝わっていく凍結。
 今の梨花にとってそれは決して破れない拘束ではなかったが、一瞬足を止められてしまうのは避けられない。
 この次元の戦闘では、その一瞬が十分過ぎる致命傷になる。
 奇しくも先の梨花がしたのをなぞるように踏み込んだ皮下の手が――再生した有機合金の腕が少女の頸動脈を切り裂いた。
「ッ…!」
 噴き出す鮮血がすぐさま桜に変わっていく。
 次いで炸裂したのはシンプルな前蹴りだった。
 しかしそれも夜桜の力で放てばダンプカーの衝突にも等しい衝撃になる。
 骨と内臓が砕ける感触に悶える梨花へ次に襲い掛かったのはまたしても炎。
 但し今度のは猛る炎海ではなく…殺人鬼の凶刃を覆う膜(ヴェール)という形で。
「大した剣だ。其奴の前じゃクロサワの刃もナマクラだな」
 実際、直接戦闘に限って言うなら不利を被っているのは寧ろ皮下の方だ。
 梨花につぼみが憑いている以上、大源(オリジナル)である彼女と夜桜の力で張り合うのは無理難題にも程がある。
 皮下の得意の戦術である体内にソメイニンを流し込む手も通じず、しかし相手の神剣は夜桜への特効として覿面に利く。
「なら力競べはやめにしよう。こっちは"速さ"だ」
 数合の攻防で出た結論。
 真っ向勝負に固執するのは消耗するだけだ。
 なるべく激突を避けながら一方的に削っていくのが望ましい。
 皮下の腕が消える。
 葉桜等とは訳が違う本物の夜桜によって再生された殺人鬼の開花、それによる腕の伸長の速度は今の梨花でも捉えられる物ではなかった。
「く、がッ…!?」
 刺す。
 只管に刺す。
 樽に海賊を入れて突き刺す玩具宛らに梨花の全身を穿っていく。
 刺傷と、その度に肉骨内臓身体の全てを等しく焦がす炎熱。
 只でさえ残り少ない余命を削り取るに足るだけの破壊が梨花を苛むが、皮下は一切手抜かりをしない。
「な、めんじゃ…ないわよ、ッ……」
 柳桜を千切れかけの腕で振り上げて皮下の凶刃を砕いた梨花。
 いざ反撃に転じようとした刹那、しかし。
「――ごッッ!?」
 彼女の細身が拉げながら線になって真横へ吹き飛んだ。
 梨花の眼球が一瞬完全に白目を剥く。
 夜桜でなければ確実に即死。
 体の原型すら失って然るべきだろう超質量の直撃だった。
「カイドウに学んでみたんだが…こりゃ良いな。道理であんなアル中が強ェ訳だ」
 その正体は彼が零した通り、カイドウに学んだ速さ×重さの相乗効果の賜物である。
 ソメイニンの過剰生成で体の質量を尋常ならざる域まで膨張させ、それを出来る限りの最高速度で梨花にぶつけた。
 質量増加の過程を除けばやっている事はカイドウの"雷鳴八卦"とそっくりそのまま同じだ。
 なるだけ強い威力を、なるだけ速く相手にぶつける。これだけ。
 しかしほんのこれだけで、なんて事のない通常攻撃が必中必殺の大火力に化ける。
「が、ッ…! はぁ、はぁ、はぁ……!」
「おっ。やるじゃんか、今のを受けてまだ立てんのは流石だな」
 火葬だ氷葬だと生易しい手段に訴えるつもりはない。
 フラつきながら立ち上がった梨花を、皮下は真上から叩き潰した。
「ならもう一回だ。死ぬまで同じ事をさせて貰う」
 常にトップスピード。
 常に最高重量。
 名付けるならば夜桜八卦。
 これが、彼の編み出した夜桜殺しの殺し方であった。
 梨花は皮下の速度に対応出来ない。
 反応が追い付かなければ、流石の柳桜も単なる棒切れだ。
「役者が足りないんだよ。つぼみの本気を扱いこなせる人間なんて居る訳がない。
 たとえ君じゃなくたって…本家の夜桜どもだってその筈だ。
 親友との決着の為に契約する悪魔としてはなかなか良いチョイスだったが……」
 次はもう立ち上がるのを待ちすらしない。
 宣言通り死ぬまで叩き続ける。
 それで終わりだ。
「俺にまで勝てると思い上がったのは早計だったな」
 古手梨花は北条沙都子と戦って死ぬべきだったのだ。
 友と共に、眠る。
 つぼみの誓いなど喧嘩が終わった時点で反故にしてしまえば良かった。
 そうすればきっと…こんな蛇足のような無様な死を遂げる事もなかったというのに。
「さよならだ、最後の夜桜。君を最後にして…この呪われた血は終わる」
 訣別の言葉と共に皮下は異形に歪んだ半身を振り上げる。
 其処に籠もっていた感情は不思議と嘲笑ではなかった。
 自分の眠りを望んだつぼみの良心、それを背負って現れた最後の桜花。
 彼女に対して向けた感情の意味はきっと皮下にしか解らない。
 解らないまま、全てが終わる。
 安楽死の夢が奇跡の花を潰す。
 今、その時は無情にやって来て――


「梨、っ――」
 確定されようとした結末。
 それに否を唱えるが如く、小さな黒い影が跳んだ。
 それは本当にちっぽけな影だった。
 大局を変える筈もない、皮下に届く筈もない…紛い物の桜。
「――花ああああああっ!!」
 だが今、またしても少女の勇気が未来を変える。
 皮下をして予想外の介入は跳び蹴りという形で炸裂した。
 振り上げていた半身を真横から蹴り付けた少女の名前は――
「…アイ……!?」
 ――アイ。
 虹花の最後の生き残り。
 皮下を助け、そして今は彼の敵を助けた葉桜の少女だった。
 彼女はNPC…ノンプレイヤーキャラクターである。 
 可能性等一つも持たずに生まれた少女は今、自らの意思でこの可能性の怪物へと反撃を果たしたのだ。
「バカだな、本当に。折角見逃してやったのによ」
「かわした、さん――」
「今更お前なんかが出て来てどうにかなると思ってんのか?
 黙って霧子ちゃんの護衛でもしてるんだったら、もう少し長生き出来たろうに」
 攻撃は予定通り続行された。
 壮絶な轟音が響き渡り、梨花の居た座標は見るも無残な有様だ。
 小蝿でも振り払うように振るわれた炎刃は避けられたがだからと言って何も変わらない。
 葉桜適合者の残りが今更顔を出した所で皮下には何の問題でもないのだ。
 しかし。
「ゴチャゴチャゴチャゴチャ言ってっけどよォ~~…」
 ぶうん、と。
 その考えを切って捨てる音が響いた。
 白塵の中からシルエットが浮かび上がる。
 其処に居たのは神戸しおのライダーと。
 そして…彼によって腕にチェーンを結ばれ引きずられ、間一髪の所で圧死を免れた古手梨花の二人だった。
「どうにかなってんじゃねぇかよ。それとも眼に花咲いてっから見えねぇのか? あ~~?」
「…マジか」
 アイに限らず葉桜適合者の戦力はたかが知れている。
 少なくとも開花した夜桜の敵ではないし、そんな程度の雑兵が今更人外魔境の決戦に一枚噛める訳もない。
 現にアイは完全な不意打ちを果たしたにも関わらず皮下の攻撃を止められなかった。
 攻撃自体は止められず――微かに軌道を逸らすだけが精一杯だったのだ。
「ぶんぶんさんすごい! 梨花を助けてくれてありがと!!」
「おう。アイさんもナイスだったぜ、見ろよあのバカ医者の顔! 鳩が豆鉄砲食ったみてぇな顔してんぜ、ギャハハハ!!」
 しかしその僅かな逸れがデンジの救援を間に合わせた。
 彼は古手梨花の救出を果たし、皮下の攻撃は空振りに終わり。
 一方的に締め括られる筈だった戦端は予期せぬ延長を喰らった。
 花咲く事のない葉桜が、満開の夜桜に一泡吹かせたのだ。
「しおを守ってなくていいのか? この樹海は俺の支配下にある、その気になればすぐにでも殺せるぞ」
「テメェを先に殺しちまえばいいだけだろ。態度のでけえ命乞いだな」
 ぶっきらぼうな物言いだが彼の人となりは既に割れている。
 いざとなれば死ぬ気で助けるのだろうし、その算段がある上で前線に出て来たのだろう。
 後先考えず令呪の使用を考えているのだとすれば愚かだが、はてさて。
「不器用な奴だな。同情するぜ、ヴィランの似合う質じゃないだろお前」
「…いいか。俺ぁな、二度とあのクソデカバケモンと戦いたくねーんだよ。テメェブチ殺せばあのデカジジイも消えんだろ?」
「奇遇だな、俺もお前ん所のボスとは死んでも関わりたくないと思ってるよ」
 皮下真が最も警戒している事。
 それは言わずもがな、死柄木弔の介入だった。
 死柄木の能力は恐らく夜桜と最悪レベルに相性が悪い。
 細胞分裂も変化も再生も、恐らく崩壊の直撃一つで塗り潰される。
 出来るならあの魔王の相手はカイドウに任せたい。皮下はそう考えていた。
 何せ死柄木が適当に放った力の余波でさえ最重要の警戒対象だ。
 魔王の異能は都市一つ等容易に呑み込み破壊する。
 万一それに巻き込まれでもすればさしもの皮下も再起の手立ては無い。
 彼がこの場に来ないという事は、つまり今この決戦の裏で連合と方舟の最終決戦が行われているのだろう。
“とはいえ僥倖だ。死柄木はカイドウと方舟を天秤に掛けて、方舟を選んでくれた”
 その判断は理解出来る。
 皮下が彼でも同じ判断をしていた。
 カイドウは確かに強力無比だが、彼が聖杯戦争を終わらせる為にはあくまでも交戦という物理的なプロセスが必要だ。
 しかし方舟にはそれがない。
 聖杯戦争を破綻させる手段の具体的な曰くが解らない以上断言は出来ないが、彼らは恐らくそうした段階を踏まずに事を実行出来るのだろう。
 断言しよう。
 彼らは立派な脅威だ。
 対話を踏むという発言は根拠保証のない妄言であって信じるに値しない。
 戦場において性善説ありきの考えをする程愚かな事はあるまい。
 よしんば本気で言っていたとしても、彼らが何らかの理由で心変わりを起こしたなら最悪その時点で全てが破滅するのだ。
 聖杯を狙う考えがあるならば、方舟は間違いなく最悪のパブリックエネミーだった。
 故に死柄木には感謝せねばならない。
 少なくともこれで、決戦の傍らで出港されて卓袱台返しを喰らう事だけはなくなったのだから。
「クソガキ共の王様がやって来る前に片付けなくちゃな。因縁も、障害も…全部」
 嘆息と共に皮下の瞳が妖しく光る。
 アイは兎も角デンジの乱入は皮下にとっても多少厄介だ。
 てっきりしおの護衛に徹する物と思っていたが、こうなった以上は手立てを隠す意味もない。
 巻きで行こう。
 全てを終わらせる力は既にこの手中に収まっているのだから。


『――いけない』
 最初にそれに気が付いたのはやはりと言うべきか梨花の中に眠るつぼみだった。
 次いで梨花が怖気に全身の毛穴を粒立たせる。
 肌を刺すような感覚の正体は殺気ではない。
 致死量のソメイニンと適合し、生身でソメイニンの波長を感じ取れる程に深く夜桜化しているからこそ感じ取れる破滅そのものだ。
「何よ、これ――桜が…夜桜が、哭いてる……?」
 世界そのものがソメイニンに包まれたのかと錯覚する程の、噎せ返りそうな桜の兆しだった。
 渋谷一帯を…ともすればその外にまでも版図を広げているかもしれない夜桜の樹海。
 それを構成する桜の一本一本が含有するソメイニンの濃度が天井知らずの上昇を始めている。
“つぼみ! これは――”
『…そう。結局あなたは其処に立ち返っていくのね、川下先生』
“ッ、解るように説明して! アイツ、この期に及んで一体何をやらかすつもりなの…!?”
 そしてそれは皮下本体も同じだった。
 人の形をした桜がよりその純度を増していく。
 彼と似通った肉体の組成に変生した梨花だからこそ解る事だが、あれ程夜桜に過剰適合して只で済む筈がない。
 いや…そもそもこれまでだっておかしかったのだ。
 幾ら何でもやっている事が無茶苦茶過ぎる。
 都市一つを覆う樹海の形成なんて明らかに夜桜一人で成せる所業の範疇を超えている。
 これだけの無茶をすれば肉体が血に耐え切れず崩壊し、梨花と同じく――いやともすればそれよりも早く力尽きるだろう事は自明であった。
 にも関わらず此処で更なる無茶苦茶に打って出るその理由。
 梨花は何度目か、雛見沢分校の部活を思い出していた。
 人が後先を棄てた大勝負に出る時、其処にある狙いは大抵一つだ。
 ――後も先も必要ない程明確な勝利を狙うからこその、有り金全賭け(オールイン)。
 皮下は此処で全てを決めるつもりだ。
 今から彼の正真正銘、本命の策が花開くのだと梨花には解った。
『――種まき計画』
 皮下真の願いは変遷している。
 死に瀕して真の願いを自覚し、彼は愛を抱いて花開いたが。
 何の因果か彼は全ての大詰めに、踏み越えたかつての悲願へ立ち返った。
『この街を満たした全ての夜桜を破裂させて…超高濃度のソメイニンを世界全域に拡散させる』
「…は?」
 渋谷に形成された樹海。
 それを構成する桜の数は現在数十万本にも達している。
 皮下が鬼ヶ島計画の過程で生成して来たソメイニン、葉桜、その全てを取り込んで創生した異界が今の渋谷区だ。
 そんな数十万の夜桜を一斉が炸裂したならどうなるか?
 皮下によって生み出され土地そのものを糧に培養されて増殖した妖花が、これまでこの界聖杯内界に存在していた総量を数十・数百倍上回るソメイニンを大気中に解き放つ事になる。
 ほんの僅か取り込むだけでも体に重篤な異常を来たす"夜桜の血"が。
 無差別に見境なく、大気という人間にとって必要不可欠な要素を介して万人を超人に変えるのだ。
 適合出来なかった場合の拒絶反応や予後の全てを顧みず、桜の種子は東京都内に存在する全ての人間を強制的に進化させる。
『川下先生は――全てのマスターを夜桜(わたし)にするつもりよ』
 万有、残らず夜桜(カミ)と成り。
 そして世界は速やかに滅亡する。


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最終更新:2023年11月20日 23:31