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惚れ薬 - (2006/03/12 (日) 23:18:46) のソース

 平日の白昼。私立有栖学園の塀を乗り越えて、侵入する女が一人。 
 茂みの陰に隠れ、用心深く辺りを見回す。彼女の名は、みっちゃん。 
金糸雀のストーカーである。 
 可愛らしいものに目がないみっちゃんは、同じマンションに住む金糸雀にぞっこんだった。 
 盗み撮りに盗聴は当たり前。最近では、出勤前にカナが出したゴミ袋まで掠め取る有り様だ。 
 そして、みっちゃんはとうとう強硬手段に打って出た。ポケットの中から小さなガラス瓶を取り出して、 
ほくそ笑む。 
「ふっふっふー、ネットの闇オークションで八十万も出して手に入れた、この惚れ薬で、 
カナのハートをゲットしちゃうんだから……嗚呼、夢にまで見たまさちゅーせっちゅの日々が、 
もうすぐ現実になるのね……」 
 しかし、現実はそこまで甘くはなかった。 
 ちゃきり。小さな金属音と共に、冷たい感触がみっちゃんの首筋に押し当てられる。 
 恐る恐る振り返ると、目の前にはサイレンサーを装備したサブマシンガンの銃口が。 
 プラスチック製の玩具などではない。金属の重厚な輝きが、そこにあった。 
 雪華綺晶は、何の表情も見せず、安全装置を解除した。 
 みっちゃんは、全身から冷たい汗がどっと噴き出すのを感じた。 

 水銀燈が駆けつけてきた。 
 雪華綺晶の足元には、猿ぐつわをかまされた簀巻きが一本、転がされていた。 
「……不審者を捕らえました。どう処理しましょう……?」 
「そうねぇ……簀巻きと言えば、川に流すのが常道だけどぉ……」 
「んーんんっ、んーんんん、んーーっ!!」 
 簀巻きが身をよじらせて抗議すると、水銀燈は、ぞっとするような笑みを浮かべて、 
簀巻きの前に屈み込んだ。みっちゃんは、びくりと身をすくませる。二人は顔を合わせた。 
「ふふふ……冗談よ。あなたは今回が初犯みたいだからぁ、川に流すのだけは勘弁してあげる。 
でもねぇ、もしまた同じことを繰り返したら、その時は……そうねぇ」 
 水銀燈は、みっちゃんに耳打ちした。みっちゃんの顔から見る見る血の気が失せていく。 
 雪華綺晶がホイッスルを短く鳴らすと、どこからともなく二人の兵士が現れた。 
 生徒だろうか。全身くまなく都市迷彩服に覆われていて、顔にはペイントが施されていた。 
今はまだ授業中のはずだが……。水銀燈がじろりとにらむと、二人は体を強張らせたようだった。 
 雪華綺晶の指示に従って、二人は簀巻きを担ぐと、どこかへと運び出していった。 
「……状況終了しました……」 
「ご、ご苦労様……」 
 水銀燈が疲れたように返すと、雪華綺晶は敷地内の見回りに戻っていった。 
 水銀燈も立ち去ろうとする。と、足元に転がる小さなガラス瓶を見つけた。 
「……惚れ薬? そんなに都合の良い物が、そうやすやすと……でも、 
何か本物っぽい感じもするわねぇ……そうだぁ、誰かで試してみれば良いのよぉ……」 
 水銀燈は、低く笑った。どこかで稲光が轟いた気がした。 

 昼休みの職員室。 
「ラプラス先生?」 
 教頭がお弁当を広げたのを見計らって、水銀燈は声をかけた。 
「ん、何ですか、水銀燈先生?」 
「お食事中に済みません。至急、この書類に判を押して欲しいんですけどぉ」 
「はいはい、ちょっと待ってくださいね……」 
 ラプラスはやれやれといった様子で椅子を回転させると、机に背を向けて、書類に目を通し始めた。 
 水銀燈は、するりと背後に回り込むと、スポイトに採った液体を数滴、お弁当の中に垂らした。 
「はい、どうぞ。これからは、もっと早い時間に持ってきてくださいね」 
 小言を忘れないラプラスに、こめかみをひくつかせながらも、水銀燈は黙って引き下がった。 
 物陰から、そっとラプラスの様子をうかがう。教頭は、フォークに刺した人参のソテーを、口に含んだ。 
 良し、と……。小さくガッツポーズを決め、水銀燈は、次のターゲットのところに急ぐ。 

「校長先生、ラプラス教頭が探しておいででしたよぉ?」 
「げっ、俺、また何かやった? どうしよう、ばっくれたほうがいいかな?」 
「いいえぇ、そうではなくてぇ、何でも文化祭に関する重要な書類に判を押して欲しいとか、何とか」 
「文化祭か……それなら仕方がないか」 
 校長が、祭りに目がないことを利用して、巧みに誘い出した。水銀燈は、 
職員室までこっそりついていく。 
「ラプラス先生、私に何か用があるとか?」 
「は? 校長先生、私は特に何も……」 
 ラプラスの心臓が、どきりと跳ね上がった。急激に頬が熱くなるのを感じる。 
恥ずかしい、でも目の前の校長から目が離せなかった。 
「教頭先生?」 
「えっ、いや、その、私は……」 
 どぎまぎして視線を逸らした。どっどっどっどっ……。鼓動が、耳に聞こえるほどに高まっていく。 
目の前のやさぐれた中年男が、いとおしくていとおしくて堪らなくなってきた。 
 自分は今までどうして、こんな魅力的な男性の存在に気づかなかったのだろう。 
 どっと後悔が押し寄せてきた。同時に、もうこれ以上後悔したくなかった。 
 ラプラスは、意を決して口を開いた。 
「こ、校長。私、あなたを……その、どうやら……愛してしまったようです……」 
「…………………………へっ?」 
 水銀燈は、瞳をきらきらと輝かせて、修羅場と化した職員室を抜け出した。 
「こいつは面白い物を手に入れたわぁ。次は……」 

「ひ、雛苺!! 僕はどうして今まで、君のように魅力的な女性の存在に 
気づかなかったのだろう……雛苺っ、愛しているよ!!」 
「うゆー、蒼星石、どうしちゃったの……? 何か怖いの……」 
 戸惑う雛苺をひしと抱きしめる蒼星石。 
「大丈夫だよ、何も心配することはないんだ……これから二人で、 
愛に満ち溢れた世界を築いていこう!」 
「ああっ、そこの二人!! 何くっついてやがるですか!? 離れるですぅ!!」 
 と、二人の抱擁を引きはがそうとした翠星石は、蒼星石に逆に突き飛ばされる。 
「そ、蒼星石……?」 
「邪魔しないでくれ、翠星石。僕はもう、雛苺と二人で生きていくことに決めたんだ。 
いつまでも、君の面倒ばかり看ていられないよ……!」 
「そ、蒼星石、蒼星石……ぐずっ……うわああああああああーーーーんんっ!!」 

「ばらしー……」 
「きらきー……」 
 お互いの目を見つめ合う二人。その指先が絡み合う。周囲の雑音など、もう何も聞こえなかった。 
 大切な相手が目の前にいて、自分のことだけを考えてくれる。それだけで満ち足りた気持ちが溢れた。 
 二人は時の経つのも忘れて、自分に瓜二つな顔に見入っていた。 

「ああーん、何て凛々しいのかしら、惚れちゃったのかしら、もう離れられないのかしらーーっ!!」 
 金糸雀は、校舎裏で二宮尊徳の銅像に頬擦りしていた。 

「うっがああああああああーーーーっ!! やめろッ、来るなッ、この俺に近寄るんじゃねーーーーッ!!」 
「そ、そんな校長、もう私、あなたなしでは、一秒たりとも生きていけませんっ!!  
お願いしますっ、どうか……私の愛を受け入れて……!!」 

「まったく騒々しい……一体何の騒ぎなの? 神聖なる学び舎を何だと思っているのかしら……」 
 学食で昼食を終え、職員室へと戻ってきた真紅。自分の机を見て、小さく悲鳴を上げる。 
「ひっ……!!」 
「うなーーっ?」 
 それは、丸々と太ったトラ猫。日当たりの良い真紅の机の上で、とぐろを巻いて日向ぼっこしていた。 
 元は近所の野良猫だったのだが、雛苺と金糸雀が餌を与えたため、今ではすっかり居ついていた。 
こうして我が物顔で職員室にまで入り込み、辺り構わずくつろいでいる。 
 真紅は、へっぴり腰でステッキを振り回して、猫を追い払った。 
 猫は一度だけ振り返ると。 
「シャーーッ!!」 
 そう一喝して、雛苺の机の下に潜り込んだ。 
「あーら、何ぃ、みっともない……」 
「水銀燈、あなたも知っているでしょう? 私、猫だけは駄目なのよ……どうしてかは 
分からないけれど……きっと、前世か何かで因縁があったに違いないわ……!」 
「ふーん……」 
 水銀燈は、妖しげに微笑んだ。そして。 
「ま、待って……お願いだからっ、そんなに邪険にしないで……」 
 懸命になって、逃げる猫を追いかける真紅がそこにあった。 
 猫が穴に潜り込めば、自らも泥だらけになって後を追い、猫が木に登れば、 
スーツをかぎ裂きだらけにして後に続いた。 
 しかし、猫は追われれば逃げるもの。加えて、普段から追い立てられていた相手に、 
猫は警戒を隠さなかった。振り返って、毛を逆立てて威嚇した。 
「シャーーッ!!」 
「ああっ、そんなっ……」 
 真紅は、よよと崩れ落ちた。 
「あなたに嫌われてしまったら、私、もう何を頼みに生きていったらいいのか、分からない……」 
 水銀燈は、それを見て、お腹を押さえて笑い転げていた。 

「すーいーぎーんーとーうー……やっぱり、てめーの仕業だったんですね!!」 
「へっ?」 
 恐る恐る振り返ると、そこには烈火の如く怒り狂った翠星石と雛苺の姿が。 
「水銀燈……酷いの、あんまりなのーーっ!!」 
 それぞれの得物を手に、じりじりと詰め寄ってくる。水銀燈の全身から、 
冷たい汗がどっと噴き出した。完全に気圧されていた。 
「まままま、待って、これは、そのぅ……つい出来心でぇ……」 
「問答無用!!」 
「天誅なのーーーーっ!!!!」 
 ごすッ。 
 水銀燈の手からこぼれた小さなガラス瓶は、床に落ちて粉々に砕けた。 

 盛られた薬の量が少なかったのか、翌日には全員が回復した。 
 水銀燈がどうなったかと言うと……。 
 簀巻きにされた彼女は、みっちゃんと二人仲良く、学園の裏山の木に釣り下げられた。 
「ああああああ……もう、朝になっちゃったぁ……お腹空いたなぁ……」 
「ふっふっふー、でもっ、こんな程度じゃ挫けない!! 障害が高ければ高いほど、 
絆は強まるもの……カナ、待ってて……いつかきっと私のものにしてみせるからーーっ!!」 
「うるさいッ、空腹に響くっ……元はと言えば、あなたがあんな物を学校に持ち込むからぁ……!」 
「あーっ、自分のこと棚に上げて、人のせいにしたーーっ!」 
 とことん反省の色のない二人であった。 
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