生徒に対する罰で、最も問題になるのは、「体罰」である。学校教育法にみるように、体罰が禁止されているが、実際には、明治以来、学校では普通に見られる。イギリスのように、1970年代まで、正式に体罰が認められていた国もある。(ただし、イギリスの体罰は、校長だけが行うものであり、家庭に校長から事実が通知される。)
 また前に見たように、体罰は校内での活動による懲戒では、最も多くなっている。そしてこの実態はほとんどわかっていない。
 法的にいえば、体罰は禁止されており、容認される要素は全くない。しかし、それにもかかわらず、体罰は現場で横行しているといってよく、体罰をまったく行使したことがない教師は少数派といえる。体罰を「愛の鞭」とする感覚は、教師の多くがもっている。
 体罰が訴訟の対象になったときには、体罰を振るった側はまず勝訴しないが、唯一例外といえる事例が、「水戸5中事件」の東京高裁判決である。事件の具体的説明は省くが、この判決の中で、体罰を肯定するとも思われる内容が書かれている。これは大きな話題を呼んだ。

  そこでまず、教師が学校教育法に基づき生徒に対して加える事実行為としての懲戒行為の法的な性質を考えてみると、右懲戒は、生徒の人間的成長を助けるために教育上の必要からなされる教育的処分と目すべきもので、教師の生徒に対する生活指導の手段の1つとして認められた教育的権能と解すべきものである。そして学校教育における生活指導上、生徒の非行、その他間違った、ないしは不謹慎な言動等を正すために、通常教師によってとられるべき原則的な懲戒の方法・形態としては、口頭による説諭・訓戒・叱責が最も適当で、かつ、有効なやり方であることはいうまでもないところであって、有形力の行使は、そのやり方次第では往々にして、生徒の人間としての尊厳を損ない、精神的屈辱感を与え、ないしは、いたずらに反抗心だけを募らせ、自省作用による自発的人間形成の機会を奪うことになる虞れもあるので教育上の懲戒の手段としては適切でない場合が多く、必要最小限度にとどめることが望ましいといわなければならない。しかしながら、教師が生徒を励ましたり、注意したりするときに肩や背中などを軽くたたく程度の身体的接触(スキンシップ)による方法が相互の親近感ないしは一体感を醸成させる効果をもたらすのと同様に、生徒の好ましからざる行状についてたしなめたり、警告したり、叱責したりするときに、単なる身体的接触よりもやや強度の外的刺激(有形力の行使)を生徒の身体に与えることが、注意事項のゆるがせにできない重大さを生徒に強く意識させると共に、教師の生活指導における毅然たる姿勢・考え方ないしは教育的熱意を相手方に感得させることになって、教育上肝要な注意喚起行為ないしは覚醒行為として機能し、効果があることも明らかであるから、教育作用をしてその本来の機能と効果を教育の場で十分に発揮させるためには、懲戒の方法・形態としては単なる口頭の説教のみにとどまることなく、そのような方法・形態の懲戒によるだけでは微温的に過ぎて感銘力に欠け、生徒に訴える力に乏しいと認められるときは、教師は必要に応じ生徒に対し一定の限度内で有形力を行使することも許されてよい場合があることを認めるのでなければ、教育内容はいたずらに硬直化し、血の通わない形式的なものに堕して、実効的な生きた教育活動が阻害され、ないしは不可能になる虞れがあることも、これまた否定することができないのであるから、いやしくも有形力の行使と見られる外形を持った行為は学校教育上の懲戒行為としては一切許容されないとすることは、本来学校教育法の予想するところではないといわなければならない88)http://members.tripod.co.jp/ete/mito5hanketsu.html}

 しかし、体罰を限定的にせよ肯定した判決は、これだけであり、その後も体罰は処罰の対象となる判決が続いている。次の東久留米市立中央中体罰事件は、水戸5中事件の判決を事実上否定したものと評価されている。

 被告Mは、平成六年一一月一四日午前九時一〇分ころ、中央中二年二組の教室において、同日の第一時限の道徳の時間に行われた同月四、五日開催の文化発表会のまとめの授業中に、原告K子ら六名に対し、右文化発表会において行つたアンケートの集計を行うよう指示したところ、原告K子は、被告Mに対して、「集計しなくていいつて言つたじやない。自分の言つたことに責任もてよ」と反論した。被告Mは、同原告の言葉に激昂し、同原告に対し、大声で「もう一回言ってみろ」と怒鳴り、同原告が座っている机を蹴つた後、右手平手で同原告の左頬を一回殴つた。同原告は、これに対し、被告Mを凝視したところ、同被告は、同原告に対して「なんだ、その顔は」と言つて、更に右手平手で、同原告の左頬を一回殴り、髪の毛を手で鷲づかみに引っ張つた。これらの暴行により、同原告は特に怪我を負わなかつたが、同原告の衣服には引っ張られて抜けた後であるような髪の毛が数本ついていた。
 
 二 原告K子の被告市及び同都に対する損害賠償請求
 
 前記一認定の被告Mの原告K子に対する暴行は、中学校教師の生徒に対する体罰に当たる。
 学校教育法第一一条は、校長及び教員が学生、生徒及び児童に対し懲戒を加えることを認める反面、体罰を加えることを禁止している。戦前、わが国において、軍国主義教育の一環として、体罰を用いた国家主義思想の強制がなされ、これによつて民主主義と自由な議論の芽が摘み取られていつたのであり、その反省として、昭和二二年に制定された右学校教育法により、教育の場において体罰を懲戒手段として用いることを禁止することとしたことは、当裁判所が改めて述べるまでもない歴史的事実である。しかし、戦後五〇年を経過するというのに、学校教育の現場において体罰が根絶されていないばかりか、教育の手段として体罰を加えることが一概に悪いとはいえないとか、あるいは、体罰を加えるからにはよほどの事情があつたはずだというような積極、消極の体罰擁護論が、いわば国民の「本音」として聞かれることは憂うべきことである。教師による体罰は、生徒・児童に恐怖心を与え、現に存在する問題を潜在化させて解決を困難にするとともに、これによつて、わが国の将来を担うべき生徒・児童に対し、暴力によつて問題解決を図ろうとする気質を植え付けることとなる。しかも、前記一認定の被告Mの原告K子に対する体罰は、その熊様を見てみると、教師と生徒という立場からも、また体力的にも、明らかに優位な立場にある教師による授業時間内の感情に任せた生徒に対する暴行であり、およそ教育というに値しない行為である。当裁判所は、当然のことではあるが、体罰が学校教育の場において一切禁止されていることを改めて確認し、かつ、本件で問題になつた体罰が右のようなものであることを前提として、以下に判断を示すこととする。89)http://members.tripod.co.jp/ete/higashik.html}\footnote{

 他には、「必殺宙ぶらりん事件」「岐陽高校事件」などがある。
最終更新:2008年07月25日 21:42