アットウィキロゴ
 入試改革は、いつも大きな問題となっていた。特に「大学紛争」以後、相当大きな入試制度改革が何度か行われた。
(1)共通一次、共通テスト
 その最大のものは、共通一次テストから現在の共通テストに到る公的な全国共通試験の実施である。
 共通一次テストは、導入の際に、それまで一期校と二期校とに分かれていた国立公立大学の入試を、一本化して、共通テストに基づいて振り分けをするという意図で行われた。しかし、その実際の意図や、その効果については、さまざまな評価がある。
 そもそも、「定員」を設けざるをえないときに、誰が選抜するのが、望ましいのか。共通一次前は、完全に大学が個別に選抜をしていた。しかし、これは大学にとっても負担が大きいものであるが、私立大学にとっては、財政的に意味があった。
 「共通テスト」の考え方は、高校や大学が選抜を個別に行うのではなく、専門的機関する共通テスト実施組織が、一元的に、かつ全国的規模で生徒の評価を行い、それに基づいて選抜するというものである。
 個別の大学が、どのようにその資料を利用するかは、大学に任されるのが、普通である。
 ところで、共通一次や共通テストがもたらした結果の一つとして、大学の偏差値化がある。現在の大学生にとっては、大学が偏差値で表現されることが、当たり前のように思われるかも知れないが、そうした現象は、共通一次前には、ほとんど存在しなかったものである。もちろん、格差意識はあったが、それは漠然としたものであり、数値化されたものではなかった。
 日本の大学が、格差をもった不平等な体系を形作っていることが、入試問題の原因でもあり、また、結果となり、問題を拡大再生産している。しかし、この格差が、大学の全体的な評価に基づくものではなく、つまり、教授の質、施設などはあまり考慮されず、入学時の偏差値で計られている。特に大学では、「格の高い大学=優秀な教授層」という図式は、あまり成り立たない。アメリカなどでは、州立大学では、格差はなく、私立大学では、基本的に教授層の質によって、格が決まることと非常に対象的である。もっとも、その場合の学力は、知的な能力の一部であることは、銘記すべきだろう。また、ヨーロッパの出口規制のシステムをとっている国でも、多くは大学の格差は存在しない。
 出口が問題だ、ということは、そこで行われていた教育の質が問われていることである。ところが、入口だけが問題になることは、教育の質は問題とされないことになる。就職のときに、指定校制度があることは、このことと密接に結び付いている。いってみれば、大学入試とは、小学生からずっと続いてきた「学力競争の終着点」であり、従って、日本の学校教育が果たしている最も顕著な機能である「能力識別機能」を、既に入学時のテストで果たしているので、もう、入ってから以降は問われない、という構造になっている。
このことが、教育・研究機関としての大学にとって、どれだけ不幸なことであるかは、測り知れないものがあると考えれらる。というのは、問題にされないことに対しては、普通誰でも、あまり熱心に取り組むことは難しいからだ。

(2)推薦入試など、評価の多元化
 次に進んだ傾向が、推薦入試の拡大であり、その際の評価の多元化というべき現象である。信州大学の一科目による入試、亜細亜大学の入試など、推薦入試以外の学力面でも、そうした多元化が導入される場合が増大した。
 推薦入試にしても、指定校推薦、一般推薦、スポーツ推薦など、多様化している。また、推薦に際して、自治活動やボランティアをどう評価するのか、なども争点となっている。これらは、結局、大学は何を判断基準にして、学生を選抜するのか、という根本問題とつながっている。
 パソコン通信で次のような意見があった。

 2つの論点を見いだします。受験科目はなぜ選ばれたのかということです。大学のその学部で必要な科目なのでしょうか。もしそうなら、受験の成績が入学後のパーフォーマンスと有意に相関しているという確実なデータはあるのでしょうか。ここに、採用試験との類似性をみます。つまり、採用に当たっては面接等により応募者の全人格を判定するわけです。入試では英語・国語・数学などで総合的知的能力をはかっているのにすぎないのではないかなというのが、1つめの論点。
 「総合的知的能力をはかっている」というのは、そう答えるとしたら、苦肉の答ということにすぎない。実際に何故、特定の入試科目を設定しているのか、というと、常識的に知的優秀さを示すと考えられる科目をまず設定し、それから、多数の科目を設定するかどうかは、受験生を多数確保できるかどうかに関わる。
 もともと大学の格によって、多くの受験生を確保できる大学は、多くの入試科目を受験生に課すことができる一方、通常の大学では、科目数を多くすれば、受験生は減少するのです。しかし、あまりに少ない入試科目を設定すると、学力の低い受験生しか集らないことになり、その兼合で、科目が決まってくるという関係がある。
 受験の成績が入学後の成績と相関があるか、ということに関しては多くの研究がある。そのほとんどの研究は、「ない」という結論をだし、また少なくない研究は、高校時代の成績と大学の成績は、相関がある、という結果を出している。
 しかし、問題は、「大学の成績」なるものが、どれだけ信用できるか、という問題が常に付きまとうことだろう。学生がいつも提出する疑問に、「先生はレポートをきちんと読むのですか?」というのがある。どれだけの大学教師が、成績を真剣につけているのだろうか。成績というのは、その年齢に相応しい負荷量を学生にかけ、それを丹念に検証するのでなければなりません。前に書いたように、大学の成績は、その後の社会への入口、つまり、大学としての出口で、ほとんど問題にならないとすれば、成績を真剣につけようというモチベーションに欠けることになるわけである。
 「2つめは、合格を決めるのには、一括の競争試験と最低限の資格だけを決めてあとは、応募した順番などである種の行列をつくってもらい1番目の人から○×をつけ定員に達したところで締め切るという方法もある。入学試験も新卒の採用試験も一括の競争試験にする隠れた論理はなんなのだろうかということです。

 ここで言われていることは、必ずしも明確ではないが、評価の多元化と解釈しておこう。
 評価の多元化は、現在の入試改革のキーワードの一つである。
 前回の文書発言で論じられた問題であり、ほとんどの学生が肯定的であったが、もちろん実施に関しては様々な問題をもっている。それぞれどのような内容が、大学に入学するにふさわしい能力なのか、実際には、大学人の政治力によって決定されるのではないか、例えばスポ-ツで卓越した成績を残した者、という評価を、入学試験で考慮しようということになったとき、どのスポ-ツか、どういう成績ならいいのか、もし入学後スポ-ツができなくなったら、その生徒・学生はどうなるのか、スポ-ツは優秀でも、成績が悪くて、授業について行けない時どうするのか、等。
 ここで、こうした多元化が、教育の活性化につながるのか、あるいは、政治力が横行する事態になるのか、あるいはまた、無気力が生じるのか、あるいは、タレント的人気で、大学がにぎやかになるのか。
 それは、多元的要素をどのように処理し、また教育に生かすか、という内部の力量によって、その意味はそうとう違ってくるように思われのである。

(3)入試部門の独立 アドミッション方式の入試
 もうひとつだけ、今は、まだまだほとんど行われていないが、今後普及してくると思われる方式として、アドミッション方式の入試がある。これは、欧米では普通のやり方であるが、日本では、ほとんど採用されていないものである。
最終更新:2008年08月04日 21:41