こうした事態の変化は、第一に電化によっておきた。そして労働の商品化によっておきた。電気・水道・ガスなどの普及によって、風呂は労働が不要になった。
昔は兄弟が7、8人いる。しかもその内赤ん坊がいるに違いない。赤ん坊はおむつをする。おむつは、ひっきりなしに洗濯していなければ、たちまちこまってしまう。10人以上の洗濯をするというのは、大変な仕事で、母親は食事と洗濯で一日中追われていたというが、かつての生活である。しかし、洗濯機が普及して大幅にそれは軽減された。乾燥機が普及したら、洗濯はもっともっと楽な仕事になっていくはずである。
ところで商品化や電化によって、家事労働を軽減したが、皆平等に軽減したのではない。洗濯機は洗濯そのものをなくしたわけではない。洗濯屋は洗濯そのものを家事労働からなくすだろうが、まだ全面的に洗濯屋に依存する家庭はないだろう。洗濯機は洗濯を楽にしたのだ。したがって子どもが手伝うという洗濯労働はなくなったが、楽になったとはいえ、主婦にとっては洗濯という労働は依然としてある。
掃除機もそうだ。昔は例えば廊下の雑巾掛けなどは、子どもの重要な労働だった。しかし、掃除機の普及と、そもそも長い廊下があるという家庭がほとんどなくなって、今や掃除は掃除機がやる簡単な労働になって、たまには子どもに割当てている家庭もあるかも知れないが、規律を形成する程の労働ではなくなっている。
つまり、子どもの家事労働が決定的に消滅したのである。したがって親自身がかなり自覚的に子どもに労働を割当てない限り、子どもが労働を分担することはなくなった。かつて子守りは、子どもがやらなければ、どうしようもなかった。母は掃除・洗濯・農業で忙しいのだから、どうしても子どもの仕事だった。しかし、今はそうした切実な労働というのは家庭にない。
次に家事労働を軽減したのは商品化である。
自分で作ったものを、殆どは買うようになり、サービスなども商品になった。ごくまれに外食したことがないという人がいるが、それは例外的だろう。ファミリーレストランも新しい形態である。
育児自体も部分的に商品形態で実施されている。
このようにしつけが親あるいは家族の手から離れていったため、しつけが困難になったのである。仮に「都市の論理」が完全に貫徹するならば、おそらく、集団的な規律は全く必要なくなると考えることができる。OA化が徹底すれば、求められる規律は、完全に個人的なものになる可能性もある。
現在は、そうした所に向かう過渡期であるといえるだろう。
最終更新:2008年08月06日 00:05