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 生物としての人間は受精をもって始まる。では、生物としての「ヒト」ではなく、「社会的存在としての人間」には、いつなるのだろうか。
 赤ん坊が生まれても、しばらくの間は、知覚作用が働いているようには見えない。目が見えているようにも、またはっきり音を聞き分けているようにも見えない。したがって、ごく最近までは、胎内での神経感覚機能が、実際に働いているなどとは考えられていなかった。しかし、胎内でも胎児は感覚をもっていて、外界の刺激に反応していることが、最近では明らかになっている。そして、呼吸、指しゃぶり、羊水を飲むなどの行動をしている。
 皮膚感覚と聴覚は胎児でもある程度発達した感覚である。母親の心音は胎児の聴覚に大きな意味をもっているし、また外界の音すら聞こえているとされる。ここからこれまでとは異なった胎教の概念が出てくる。妊娠中に意図的に音楽などを聞かせ、音楽的な資質を向上させようというものである。また母親の精神的動揺なども、胎児の行動に影響すると言われている。
 胎内で感覚機関が機能していることがわかるずっと以前から、胎教という概念はよく知られていたし、また多くの人に実践されていた。しかし、その胎教という考えは、母親が心身とも健康であることが、胎児の健康な成長に必要なことだから、母が健康に充分留意することを意味していた。今日の「教育的」な胎教は新しい考えである。
 また、最近では、胎内記憶についても研究されており、存在するという学説もでてきているが、証明が非常に困難である。以前、テレビで放映された内容を簡単に紹介しておこう。ある男の子は、バイオリンを習いはじめてそれほど経っていないときに、ドボルザークの「ユーモレスク」を演奏した。技術的に困難な曲を、だれも教えていない段階で。母親は、胎内にいるときに、この曲を絶えず聴いていた、と語った。胎内での記憶によるものだとその番組は言うわけである。
 ある男の子は、保母の「お腹のなかはどんなだったの?」という質問に、「暗かった」、「出てきたときのこと覚えている?」「黄色い手袋が見えた」というようなやりとりをしたという。母親は、出産のことはまったく話しておらず、確かに医者は黄色い手袋をしていた、だから、子どもが記憶しているのだろう、と話している。
 このような事例が、そのテレビ番組では、いくつも出されていた。そして、極めつけは、母親が妊娠中に見た光景を、子どもが正確に語ったというのである。
 前者の例は、「胎児でも感覚器官が既に機能しており、従って、「記憶」があって当然であり、言語化されない状況で記憶が残っている、多くの場合、それが言語を習得するあたりで消えてしまうが、何人かの子どもは、記憶をまだもっているので、言語で表現できるのだ」という考え方になる。
 後者は、「記憶物質」を想定し、母親の記憶が、胎盤を通じて胎児に入り込むというのである。これらは、かなり批判的な検証が必要であり、科学的に証明されてはないし、また論理的にも可能性は低いと思われる。ただ胎児が聞いている心音が、母親に抱かれたときに聞こえると、安心するというような経験的な事実も存在する。

Q 胎教についてどう思うか。科学的な真偽ではなく、上記のようなことが一応正しいとして、胎教を実行することの是非を考えてみよう。

 脳細胞は140億という神経細胞(ニューロン)を中心に成立っており、この神経細胞は胎児及び出生からしばらくの間に形成されて、以後増加しない。しかし、神経回路網、グリア細胞そして、髄鞘などは出産後形成されていく。*12)

 したがって、一度形成された神経系統(例えば運動機能系統)は、脳の障害で喪失すると、機能も喪失し、治癒することはない。未使用領域に、リハビリによる再形成によってのみ、機能が回復可能である。ただ、注意すべきは、グリア細胞(血液脳関門)が未形成であり、大人なら脳に達しない物質を通過させてしまうことである。このため胎児性の脳障害が起きる。(アルコール中毒、一酸化中毒による脳の未発達、胎児性水俣病、その他薬による障害など) 多くの物質は胎盤を通過しないように防御されるが、通過する物質や細菌もあるので、その点の注意は親として当然のことである。
 脳の構造は次第に明らかになってきたが、もちろん人の発達を左右することができるほどになったわけではない。また明らかになったとしても、実際にそれを応用して、人間の発達を左右してよいかどうかは、社会的な合意が存在するまでに時間がかかるだろう。
 脳の研究がいかなる意味をもつかは、少なくとも教育学にとっては、まだ明確ではない。おそらく社会学や心理学にとっても、同様だろう。心理学の書物には、脳の構造に関する叙述が見られるが、それが「人間の心理」の解明にとって、いかなる意味をもつかは、まだ未確定の部分が多い。

2-3 発達の順序性
2-3 発達の順序性

 量的・質的展開を発達と把握すると、そうした変化はどのようにして進行するのだろうか。一定の道筋と一定の期間をもっているのか、あるいは個の多様性が大きいのだろうか。言い換えれば、発達の筋道がどこまで、決ったものであるのか、あるいは可塑的であるのか。発達の診断が進む程、自分の子どもの発達を気にするようになり、発達表に記述された内容と異なっていたり、遅れたりすると、親として不安になる現象が起きている。
まず、発達は順序性があるのだろうか。あるとすれば、どのような事例が考えられるか。 
身体的な発達において、ある動作がより単純な動作を含み、より複雑な動作となっているような場合、順序性があると考えられる場合が多いだろう。「はいはい」ができないのに「歩行」ができることはないだろうし、「歩く」前に「走る」ことが可能ではないだろう。しかし、例えば「立つ」行為と「歩く」行為は、必ずしも一定の順序をとるとは限らないようだ。きちんと立つことができない段階で体を移動すること、つまり歩くことはできる。「立つ」動作と「歩く」動作は、ともに不十分な段階から次第に双方が安定した状態に、発達していくと考えられる。もちろん、しっかり立ってから、初めて歩行をする子どももいる。そして人為的な操作によって、この順序が多少狂うこともある。現在は以前ほど使われないようだが、歩行器に子どもを入れると、まだ立てない時期、歩けない時期に立ったり、立って移動したりする動作に近い状況を作りだすことができる。寝ている状態よりも視界が広がることで、これは赤ちゃんにとって刺激的な環境とも言える。
 このような発達の具体的な展開について、発達段階表といわれる指標がある。母子手帳などにも記載されており、これを参考にしながら、親は我が子が正常に発達しているかどうかを確認するわけである。
 発達段階表の具体例をあげておこう。



   表 乳児の運動発達(Bayley 1069)

行動                     月齢の範囲     平均月齢
うつぶせにすると腕で支えて頭をあげる 0.7~5 2.1
支えるとすわる 1~5 2.3
短時間一人ですわる 4~8 5.3
30秒以上ひとりですわる 5~8 6.0
寝返り(あおむけからうつぶせに) 4~10 6.4
長時間安定してすわる 5~9 6.6
家具につかまって立つ 6~12 8.6
手を支えると歩く 7~12 9.6
立位からすわる 7~14 9.6
ひとりで立っている 9~16 11.0
ひとり歩く 9~17 11.7
横向きに歩く 10~20 14.1
後ろ向きに歩く 11~20 14.6
支えられて階段をのぼる 12~23 16.1
左足で片足立ち 15~30 22.7
両足をそろえてその場でとぶ 17~30 23.4
右足で片足立ち 16~30 23.5
階段の一段目からとびおりる 19~30 24.8
一段ごとに足をそろえてひとりで階段をのぼる 18~30 25.1
つま先で2、3歩歩く 16~30 25.7
一段ごとに足をそろえてひとりで階段をおりる 19~30 25.8
階段の二段めからとびおりる 21~30 28.1
足を交互に出して階段をのぼる 23~30 30
          千羽喜代子編著『乳児の保育』萌文書林 p24


        表 幼児期における子ども同士の関係の発達


年月齢                      1:0 1:3 1:6 1:9 2:0 2:6 3:0 3:6 4:0
小さい子をみると近付いていってさわる      36.4 81.1 89.4 84.2 96.7
子どもの中にまじりひとりでげんきよくあそぶ 72.8 74.3 92.6 98.0 100
子どものあとくっついて歩く 21.7 55.0 64.9 78.1 87.5 90.7
子ども同士で追いかけっこをする 9.5 37.4 59.4 66.9 89.4 93.8
年下の子どもの世話をやきたがる 4.2 31.5 40.4 52.0 76.9 88.8
友だちなどとけんかをするといいつけにくる  2.2 12.0 16.6 22.5 36.6 53.8
30分以上も友だちとままごと遊びをする 75.0 88.4 79.8
友だちと順番にものを使う 50.0 61.6 63.5
友だちを自分の家にさそってくる 50.0 57.6 68.9
こんなことができるかと他の子にじまんする 28.6 48.1 48.6
砂場で協力してひとつの山をつくる 60.8 44.2 55.2
数人いっしょに発案したごっこあそびをする 35.8 32.8 49.9
禁止されていることを他の子に注意する  17.9 34.6 58.1
小さい子や弱い子の面倒をみる 25.0 30.8 40.5
友だちのとけた衣服のひもをなおしてやる 10.7 25.0 20.3


 知的な領域ではどうだろうか。知的な発達については、まだまだ誕生後間もない時期の発達については具体的に分かっていない面が多い。そして、過去の学説が新しい実験が修正されたりしていることも少なくない。たとえば、以前は小さいころは、ある物が視界から消えると物自体がなくなってしまうと子どもは思うとされていたが、今では見えなくなっただけだと認識していると考えられている。人と人との関係についての認識も、かなり早期から展開していると考えられているが、まだそうした順序性の認識まで整理されていないようだ。そこでもう少し大きくなってからの認識について具体的に考えてみよう。
 例として「足し算」と「引き算」を考えてみる。
 日本の教育課程では、足し算を習ってから、その応用として引き算を学習する。つまり、計算能力は、「足し算」→「引き算」と順序性をもって発達すると考えられている。
 3+4=7
が理解できて、初めて、
 7-3
の計算が可能だと思われているわけである。
 しかし、欧米では次のような計算の学習をすることがある。
 7=4+( )
 7=3+( )
 7=1+( )
 この学習法は、ふたつの意味があると考えられる。
 第一に、計算を単純に「ひとつ」の正解があると操作としてではなく、多様な正解がある操作として学習すること。
 第二に、「足し算」と「引き算」は、段階的な順序を踏むのではなく、同時進行的に理解可能であるということ。
 もっとも、この事例についても、実際には「足し算」が必ず先行していると理解することもできる。
 こうした順序性の問題は教育学に則して考えると、教育内容の配列に非常に大きな意味をもつ。大学の授業配列についても認識発達の順序性が関わる議論が起きることがある。もちろん順序性が明確に確認されれば、それに対応した教材の配列がなされることが、教育の効率性にとって大切であるが、順序性は通常それほど明確ではないと思われる。したがって、教材の順序性についてあまり厳格に考えると、かえって生徒の理解を困難にすることもある。また、順序を逆転させることで、意図的につまづきを与え、より深い理解を結果として獲得するという方法もありうる。順序性は重要であるが、固定的に考えるべきものではないと言えよう。
最終更新:2008年08月19日 20:01