アットウィキロゴ
 人間の子どもは自分で生きるにはまったく無力な状態で生まれてくる。したがって、子育てに関わる行為、授乳、保温等の生物としての存在のための世話が必要であることは自明であり、また文明化された社会の中で、言葉や伝統や仕事に関する知識・技術を学ぶ必要があることも自明である。しかし、そのことと今日「教育」として理解されている行為との間には、大きな距離が存在する。現在、我々は「教育」として、授乳や無意識に行われる言葉の習得などをイメージはしない。「教育」とは、教育を目的として組織された、教師・教材・校舎等を含む合目的な活動をイメージする。つまり「学校」で行われていることを、主に「教育」として意識しているのである。
 したがって、ここでふたつのことを問題にしなければならない。
 第一に、なぜ「学校」が教育の主要な組織として成立したのか。
 第二に、そのことによって獲得されたものと、失ったものは何か。
 このふつたの問題は、この授業全体で扱うことであるが、とりあえず、ここでは、教育が誕生した時点を少し検討しておこう。
 フランスの歴史学者アリエスは、ルソー1に象徴される「子どもの発見」前後の家族の事情について、次のように書いている。

 古い家族は多産であり、子どもは少なくともそのごく幼い時期には、育てるに値しないものであった。彼らは重要でなく、人びとの注意もひかなかったから、その数をかずえる余地などなかった。子どもの数は、子どもの将来に対する親の無配慮の結果であった。ひとりか二人の男の子だけが、父の遺産を確実に継ぐために、父の側に残された。事実上、これらの子どもだけが、ずっと家族のメンバーを構成し続けることになり、他の子どもたちは、戻るあてもなくどこかへ消え去った。彼らはアメリカに渡ったか、あるいは軍隊に入ったか、その他さまざまであったろう。しかし、いずれにせよ彼らは幹から離れていったのだ。よくあったことだが、彼らはときにすっかり忘れ去られてしまうことさえあった。2

 母性について研究したバダンテールの叙述は更に衝撃的かも知れない。

 1780年。パリ警察庁朝刊ルノワールは、しぶしぶ、次のような事実を認めている。
 毎年パリに生まれる21000人の子どものうち、母親の手で育てられるものはたかだか1000人に過ぎない。他の1000人は、---特権階級であるが---住み込みの乳母に育てられる。その他の子どもはすべて、母親の乳房を離れ、多かれ少なかれ遠くはなれた、雇われ乳母のもとに里子に出されるのである。
 多くの子は、自分の母親の眼差しに一度も浴することなく死ぬことてあろう。何年か後に家族のもとに帰った子どもたちは、見たこともない女に出会うだろう。それが彼らを生んだ女なのだ。そうした再会が歓びにみたされていたという証拠はどこにもないし、母親が今日では自然だと思われている、愛に飢えた子どもの欲求をすぐにみたしたという保証もまったくない。1

 このことは何を意味するだろうか。
 フランスにおいてという限定をすべきであるかも知れないが、親が子どもに対して、意図的に教育を与えたのは、「子どもの発見」と言われる社会的な意識の変化以降のことであって、それ以前には、生まれた子どもを育てる意識すら、十分には親にはなかったということである。
 しかし、このころから、実は組織的な教育も学校が少しずつ設立されることで、始まってきたことをアリエスは紹介している。教育とは、生まれた状態では何もできない存在を、単に生物として生存できるだけではなく、社会の中で生きて行けるような能力を育てていくことである。
 常識的に考えて、人間か成長発達していくためには、以下の条件が重なり合って作用する。
 1 生得的資質(遺伝と胎内環境・出産条件等)
 2 自然的環境
 3 社会的環境
 4 人間による意図的な働きかけ
 通常、4の行為を「教育」と呼ぶが、教育を総体として再検討してみる場合には、当然、1から4までのすべてを考慮すべきであろう。社会的環境や意図的な働きかけが、社会の発展にともなって次第に変化することは当然としても、生得的資質や自然環境も、また人為的に変化させることが可能になってきただけではなく、教育的意図を含めて、生得的資質を制御しようという試みまであるからである。

1フランス革命を準備する思想家と言われるルソーは、また『エミール』という教育にも革命的な影響をもたらした本を書いたが、ここで初めて、大人の小さな存在ではない、独自の存在意味をもった「子ども」について具体的に叙述した。
2*5)フィリップ・アリエス『教育の誕生』中内敏夫・森田伸子偏訳 新評社 1983 p91
1E.バダンテール『母性という神話』鈴木晶訳 ちくま学芸文庫 p25
最終更新:2007年09月23日 18:18