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 人間は、大人の働きかけによって、彫刻のように、働きかける者のイメージにしたがって育っていくものなのだろうか。また、そのようなことは可能なのだろうか。それとも、子どもには、大人の意思によって左右することのできない、固有の資質が既に胚胎していて、それが開花するのが基本なのだろうか。その場合、教育という行為は子どものもつ資質を正確に見極め、その開花を助けることになるのだろう。歴史を見る限り、常にこの二つの考えが、ともに存在したように思われる。
 古くはギリシャ神話にあるピグマリオンの話は、前者の考えを代表するものであろう。
 ピグマリオンは美しい娘の彫刻を製作し、やがてその彫刻に惹かれてしまう。そして、その愛の強さによって、愛の女神アフロディテがその彫刻を本物の娘に変化させるのである。イギリスの劇作家バーナード・ショーは、美しい言葉こそが人間の価値と考えるヒギンズ教授なる人物を登場させ、下町の汚い言葉を話す娘を教育し、社交界にデビューさせる話を書いた。「マイ・フェア・レディ」として知られるその劇の原題は、「ピグマリオン」であり、「教育によって自由に人間を変化させることができる」という考え方を、俎上に乗せたのである。
 教育思想から見ると、「感覚論」の系譜から、このような考えが教育論として体系化されてきた。「タブラ・ラサ(白紙説)」なる考えが、17世紀から18世紀のヨーロッパに、啓蒙主義の一つとして主張された。人間は白紙として生まれるのであって、教育によって、白紙のキャンバスに描いていく如く、人間が形成されていくとする主張は、身分制社会における人間の世襲的価値を打ち砕くことが目的であり、近代社会における教育の位置を高めていった。
 もちろん、人間が機械であるというような考えは、現代ではそのまま通用することはないにしても、人間を機械のアナロジーにおいて捉える議論は、ひとつの大きな流れでもある。サイバネティクスを体系化した天才のウィーナーは、『人間機械論』という書物を書いている。
 また、S-R理論及びプログラム学習を提起したスキナーが、「私に子どもを預け、自由に教育させてくれれば、ノーベル賞の科学者にでも、天才的な音楽家にでもしてみせよう」と豪語したことは、有名である。(本当に言ったかどうかは、定かではないが。)行動理論のワトソンも同様なことを言ったとされている。
 最近の遺伝学の進展によって、漠然とヒトの成長発達が、遺伝的な規定が決定的であるかのような、あるいは、遺伝情報を読み進むにつれて、発達の遺伝的な要素が支配的であることが「分っていく」という理解が多いが、しかし、実際には、遺伝情報は、より複雑で、発現しない情報も多く、遺伝・素質・環境が、「教育」や「学習」という行為によって、どのように具体的に、かつ現実的に発達していくのかを、解明していかなければならないことが、段々明確になってきたのである。
 それでは、人間は、大人の望むように、どのようにでも育てることができるのだろうか。あるいは「悪魔」のように、あるいは「天使」のように。
 別の問題として、そのようなことが可能であるとして、それは許されるのか、と表現することもできるだろう。こうした対象としての人間を、最大限、大人の側から意図的に操作して子どもを生み、育てていくというスタイルを描いた小説として、かなり以前のベストセラーであるが、城山三郎の『素直な戦士たち』を紹介しておこう。特に話題になったのは、その小説の開始部分である。
 見合いの席で、女性が、まず相手の男性に「あなたのIQはいくつですか」と質問する。相手の知能指数が充分に高いことを確認した上で結婚し、生まれた子どもを受験勉強に駆り立てるが、子ども自身はだんだん息切れして、精神的に崩壊していくという物語である。
 これは、「幼稚園では遅過ぎる」→「胎教」→「相手の選択」というように、受験戦線を勝ち抜くために、親としての取り組みが次第に早くなっていった社会状況を背景に、そうした風潮を批判した小説である。もちろん、このように、相手の知的程度、あるいは他の要素を考慮して結婚することは、別に珍しいことではない。むしろ、アメリカでは、ノーベル賞受賞者の精子が売買の対象になっていることの方が、よほど、極端な事例といえるかも知れない。
 当然のことであるが、これまであげた思想家たちの人間をある意味で操作の対象とする考えは、理想と結びついた操作を前提としていた。しかし、人間への操作は、権力の行使と不可分の形で意図されることもあった。歴史上名高い事例では、ヒトラーの行った青年教育であり、その代表的事例として「ヒトラー・ユーゲント」をあげておこう。
最終更新:2007年09月23日 18:29