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アイヒマン実験

 アイヒマン実験は、アメリカの心理学者ミルグラムが、アイヒマン裁判をきっかけに行った実験である。当初から非常な話題を呼び、現在でも賛否両論を巻き起こしている。
 謝礼付きの被験者が募集され、教師役と生徒役に分かれる。実際には、募集された被験者はすべて教師役であって、生徒役はあらかじめ訓練された人が務めた。そして、生徒が問題を解くのだが、教師役はもし生徒が間違った解答をしたら、電気ショックを与えることを求められる。電気ショックを与えることによって、生徒はより真剣な態度で問題を解こうとするので、効果があるのだと教えられるわけだ。もちろん、その時点で怪しいと考える人もでてきただろう。
 そして、実験が進むにつれて、教師役の被験者のわきには、命令する実験者がいて、生徒が間違えた場合に、電気ショックを与えるように促す。電気ショックを与えるボタンを押すと瞬時に生徒は苦痛の叫びをあげる。これは訓練されて、電圧の強さによって、反応も使い分ける。嫌がる被験者を実験者が強く促すことで、実験が進んでいくわけである。そして、実験者であるミルグラムは、かなりの人が、命令に服従したという結果を示し、人間がいかに非合理であるとしても、命令に服従する性質があるのだということを、実験的に確かめたということになっている。

 しかし、この実験は多くの問題点をはらんでいる。それは単に倫理的な問題だけではなく、明らかに科学的な側面で大きな問題をもち、決して、科学的な実験の結果、人間の服従性が確認されたとは言えない実験なのである。

 倫理的な問題についてはいうまでもないだろう。従って、ここでは触れない。
 結論的な問題としては、この実験によって確認されたことは何か、という点である。ミルグラムは、「服従」の傾向性であるとしているが、果たしてそうだろうか。そもそも、アイヒマン実験とされた元のアイヒマンに対する理解が正しいだろうかという問題がある。
 アイヒマンは、一般的には裁判で、「自分は上官の命令に従っただけだ」と自己を弁護したとされる。しかし、多くの文献で確認されることは、そんなに単純なことではない。もともと、アイヒマンは、ユダヤ人の虐殺に「広義」では関わったが、直接彼が関わったわけではなく、あくまでも彼は、ユダヤ人の輸送担当だった。そして、初期の彼のユダヤ人輸送は、強制収容所に輸送するのではなく、ユダヤ人が外国に脱出するように輸送することだったのである。そういう意味では、アイヒマンはかなりのユダヤ人の生命を救ったのである。アイヒマンの自己弁護の最大の点はそのことだった。
 しかし、そのうちに上の政策が代わり、ユダヤ人を国外に出すのではなく、強制収容所に送るようになって、アイヒマンの輸送先が強制収容所になったのである。強制収容所で何が行われているかは、アイヒマンは知っていた。従って、彼が、輸送していけば、多くのユダヤ人が殺害されることも知っていたというべきだろう。しかし、全員だったわけではないし、また、彼が、手を下したわけでもない。
 そういう意味で、アイヒマン自身は、嫌な仕事と自覚しながら、仕方なく上官の命令で輸送していたというわけではなく、自分自身の信念に基づいて、正しいことをしているという意識が少なからずあったと考えられているのである。ニュルンベルク裁判でも、多くのナチス高官が、間違ったことはしていないということを語ったとされるのは、そうした側面である。
 このことは、アイヒマン実験そのものにも当てはまる。電気ショックを与えた教師役が、嫌だけど、実験者が脇にいて、命令口調で強く促すので、仕方なく電気ショックを与えていただけなのだ、という「解釈」が絶対に正しいかどうかはわからないのである。ある教師役は、できなかったら殴るというような教育方法が横行していた時代もあるのだから、電気ショックを与えることが効果的であると、信じて、信念をもってボタンを押していた教師役がいないとも限らない。そうしたら、「服従」の実験結果として扱うことはできないのである。
 また、そのような人物がいたという記録にはなっていないが、ショックを与えることに快感を感じていた人もいるかも知れない。
 従って、この実験によってわかることは、人間の服従性ではなく、服従であるか、あるいは信念からか、理由は別として、人間がかなりの程度「残虐になれる」ということではなかろうか。
 つまり、実験者の意図と結果には大きな齟齬があったと考えざるをえないのである。心理関係の実験にはこうした落とし穴がつきまとう。

 そして、そのことを確認するならば、次の点が検討されなければならない。
 人間が残虐に慣れることは、こうした実験によって明らかにされるのかという点である。歴史をひもとけば、残虐な行為はいくらでも見つけることができる。むしろ、「事実は小説より奇なり」という言葉でいえば、歴史的事実としての残虐さを、実験で作る出すことは所詮できないのであり、実験よりは、ずっと事実の重みの方が大きいというべきだろう。
 そうすると、むしろ、人間の残虐性などは、かえって過小評価してしまう危険性すらある。そういう意味で、人間に対する間違った認識を生み出す危険もあるといえるだろう。
最終更新:2007年11月07日 22:01