アカウンタビリティとは、通常「説明責任」と訳され、ある事態に対して、説明する責任があることを言う。日本語で「責任」は、英語でかなり多様な言葉によって表される。代表的なものをあげても、responsibilty, blame, accountability, liability などである。おそらく日本語の「責任」という言葉にもっとも近い意味範囲をもっているのは、最初の responsibility であろう。親は子どもの教育に責任があるというような広い意味での責任を意味し、法律上の責任を示すこともある。それに対して、法的責任、つまり、有罪となるような責任は、liability である。刑事罰を受ける必要があるようなときには、この言葉を使用する。
それに対して、アカウンタビリティは、そうした法的責任、罰というレベルでの責任ではなく、釈明する責任といえるだろうか。
例えば、学校で、授業中に何か事故があったとする。教師は十分注意していたとしても事故はありうるから、そこで過失が問われる、つまり、刑事責任をとるようなことではなくても、その事故に対して、学校は保護者に事故が起きた経緯や原因、そして、そのときの対応などについて説明する責任があるだろう。十分な説明を果たさないと、その後トラブルになる危険性もある。こうした説明の責任をアカウンタビリティという。
では、こうした「責任」という観念は、どこから生じるのだろうか。
基本的には現代の民主主義社会においては、共同社会や組織の「合意」を基礎とすると考えられる。社会契約である。もちろん、それは明文化されるいる場合もあるし(法律や組織の規則)、また、伝統や習慣という場合もある。いずれにせよ、社会的に合意された規範が、責任を生む源泉と考えるべきだろう。
日本でこの言葉が使用されるようになったのは、比較的新しいと考えられる。平凡社の百科事典には、説明責任もアカウンタビリティも項目としてはもちろん、説明の文章の中に出てきていない。
読売新聞の記事検索で調べると、アカウンタビリティという言葉が初めて登場するのは、1990年1月22日付け日下公人著「個性を以て貴しとす」で「聖徳太子は「和を以て貴しとなす」と言ったが、すでに和が実現している今の社会で、これを言うのは後ろ向き。日本型勤務評定の可否、異端と個性の違い、人物評価にアカウンタビリティ病、つまり出身校を目安としたりする「測定のしやすさ」が出る非、などを語って、サラリーマンには指針、参考になる。(プレジデント社、一三〇〇円)」という文章においてである。説明責任という現在の意味での記事は、更に5年後となる。
1995年10月29日の社説「金融に必要な説明責任意識」と題する文章で、ここで、国際社会では、金融のアカウンタビリティは常識であるというように使用されている。つまり、日本社会には、罪に問われるような「責任」は求められても、罪ではないが、社会的責任として説明を果たす義務が、社会的に意識されてこなかったと考えられる。それを、ウォルフレンは「人々を幸福にしない日本というシステム」で「説明責任を果たさない官僚が支配する」という形で日本社会を批判したのである。
では、こうした考え方は、どこから出てきたのか。聖学院の大木英夫氏は、キリスト教から来ていると説明している。
http://www.seig.ac.jp/edu/column_4.htm
まず「ペテロの第一の手紙」の次の文章である。
3:13そこで、もしあなたがたが善に熱心であれば、だれが、あなたがたに危害を加えようか。 3:14しかし、万一義のために苦しむようなことがあっても、あなたがたはさいわいである。彼らを恐れたり、心を乱したりしてはならない。 3:15ただ、心の中でキリストを主とあがめなさい。また、あなたがたのうちにある望みについて説明を求める人には、いつでも弁明のできる用意をしていなさい。 3:16しかし、やさしく、慎み深く、明らかな良心をもって、弁明しなさい。そうすれば、あなたがたがキリストにあって営んでいる良い生活をそしる人々も、そのようにののしったことを恥じいるであろう。 3:17善をおこなって苦しむことは?それが神の御旨であれば?悪をおこなって苦しむよりも、まさっている。 3:18キリストも、あなたがたを神に近づけようとして、自らは義なるかたであるのに、不義なる人々のために、ひとたび罪のゆえに死なれた。ただし、肉においては殺されたが、霊においては生かされたのである。
ここでは、「説明」を求める人への責任が説かれ、説明することによって事態をまずい方向にいかないようにする配慮として、説明すべきことが言われている。確かに現在のアカウンタビリティの概念に近いものがある。
ただ、大木氏は、更にマタイ福音書の次の文章をあげているのであるが、これは、多少意味が異なるようにも思われる。
25:14また天国は、ある人が旅に出るとき、その僕どもを呼んで、自分の財産を預けるようなものである。 25:15すなわち、それぞれの能力に応じて、ある者には五タラント、ある者には二タラント、ある者には一タラントを与えて、旅に出た。 25:16五タラントを渡された者は、すぐに行って、それで商売をして、ほかに五タラントをもうけた。 25:17二タラントの者も同様にして、ほかに二タラントをもうけた。 25:18しかし、一タラントを渡された者は、行って地を掘り、主人の金を隠しておいた。 25:19だいぶ時がたってから、これらの僕の主人が帰ってきて、彼らと計算をしはじめた。 25:20すると五タラントを渡された者が進み出て、ほかの五タラントをさし出して言った、『ご主人様、あなたはわたしに五タラントをお預けになりましたが、ごらんのとおり、ほかに五タラントをもうけました』。 25:21主人は彼に言った、『良い忠実な僕よ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ』。 25:22二タラントの者も進み出て言った、『ご主人様、あなたはわたしに二タラントをお預けになりましたが、ごらんのとおり、ほかに二タラントをもうけました』。 25:23主人は彼に言った、『良い忠実な僕よ、よくやった。あなたはわずかなものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ』。 25:24一タラントを渡された者も進み出て言った、『ご主人様、わたしはあなたが、まかない所から刈り、散らさない所から集める酷な人であることを承知していました。 25:25そこで恐ろしさのあまり、行って、あなたのタラントを地の中に隠しておきました。ごらんください。ここにあなたのお金がございます』。 25:26すると、主人は彼に答えて言った、『悪い怠惰な僕よ、あなたはわたしが、まかない所から刈り、散らさない所から集めることを知っているのか。 25:27それなら、わたしの金を銀行に預けておくべきであった。そうしたら、わたしは帰ってきて、利子と一緒にわたしの金を返してもらえたであろうに。 25:28さあ、そのタラントをこの者から取りあげて、十タラントを持っている者にやりなさい。 25:29おおよそ、持っている人は与えられて、いよいよ豊かになるが、持っていない人は、持っているものまでも取り上げられるであろう。 25:30この役に立たない僕を外の暗い所に追い出すがよい。彼は、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう』。
そもそもこれが「天国」の説明として語られるというのは、キリスト教徒ではない私には、あまりに不可解である。もともと、才能に応じて金額が決められ、才能ある者は多額の、そして、才能のない者には、少額の金額が預けられ、結果はもともとわかっていたように書かれている。そして、才能のない、そして、予想通りに増やすことのできなかった者は悪い怠惰な者とされ、才能のある者たちは増やした分も含めて管理を任されたのに、この怠惰な者は取り上げられてしまうそして、外の暗い所に追い出されてしまうのである。これが天国なのだろうか。格差社会として描かれている。
そして、これは確かに「説明」を求められているけれども、問題は説明ではなく、事実であり、それぞれが事実をきちんと説明していることについては変わりがない。現在言われているアカウンタビリティは、みなが果たしているというべきだから、ここで言われていることは、現在使われているアカウンタビリティとは異なるというべきだろう。
さて、アカウンタビリティとリスポンシビリティの違いが明瞭となる事例をあげておこう。
アメリカの少年犯罪を扱う少年法廷(teen court)という制度がある。軽犯罪を初めて犯した少年を、少年が公開裁判で裁くという、正規の裁判に代わるダイバージョンプログラムの一種で、犯罪少年の再犯率を著しく低下させたことで、アメリカで高く評価されているシステムである。
この裁判では、通常おろそかにされるアカウンタビリティとリスポンシビリティをともに重視することが、再犯率を低下させている理由のひとつと考えられている。つまり、通常の少年裁判所では、簡単な手続きで罰金刑などを課す。しかし、少年だから罰金は親が負担することが多く、それで済んでしまうから、本人は何ら責任を果たすことがない可能性もある。
それに対して、少年法廷では、通常罰金刑ではなく、社会奉仕などが課せられ、また、被害者に対しての謝罪や、被害者が望む場合には、被害者がどれだけ苦しんでいるかを受けとめることを求められる。つまり、前者がリスポンシビリティであり、通常の大人の懲役等にあたり、後者がアカウンタビリティであり、これは、大人の訴訟でも通常求められない。端的に言えば、被害者への謝罪であるが、手紙を書くなど、被害者に対して、自分で、行なった犯罪を説明する義務を課せられるのである。
このように、多くの場合には、犯罪を構成する場合には、リスポンシビリティ(ライアビリティ)が、そして、犯罪を構成しない場合には、アカウンタビリティが求められるであるが、事態の改善のためには、広い意味での両者がともに果たされることが必要な場合が多いと言える。
そして、トラブルが発生したときには、アカウンタビリティがどのように発揮されるかで、その後の展開が大きく左右されるといえるだろう。
最終更新:2008年05月05日 22:27