――ここで時間の針は少し前に戻る。
イギリス、冬のロンドンの中心部の高級住宅街。
高級アパートメントが立ち並ぶその地区を、一人の少女が歩いていた。
その身長、顔つきから察するに、年齢は中学生程度だろう。
白い肌に、セミロングの綺麗なブロンド。双眸は黒く、瞳と同じ色をした薄手のコートを羽織っていた。
コートの裾から覗くのは、黒革で出来た編上げブーツ。少女に似合わぬ、軍隊で使われるようなガッチリとしたものだ。
時たま手に持ったメモに目を通しながら、白い息を吐いて辺りを見回している。
彼女の名前は
ハーティ=ブレッティンガム。
イギリス清教、
必要悪の教会《ネセサリウス》所属の魔術師である。
「全く、なんで私がこんな事を……。誰か教えてくれませんか?」
ぽつりと、ハーティの口から文句が溢れでる。
彼女は今、上層部からのとある指示を受けて高級住宅街を歩いているのだが、
それは久しぶりの休暇を受けて、新しい拷問手段を模索していた矢先の事だったのだ。
『死ぬほどの苦痛を与えながら死なない拷問』にあと少しでたどり着けそうなのだが、
その研究はまた随分と先送りになりそうで、それがハーティには納得が行かないのであった。
「分かるといえば分かるけど。この任務は随分と私向けですから」
彼女が今受けている任務は、簡単にいえば『魔術師の討伐』である。
その程度の仕事ならば幾らでもこなして来た彼女であり、必要悪の教会だが、
今回のそれは少しばかり事情が違った。その任務に付随して来た、『とある条件』の存在だ。
――『
科学サイドと協力すること』。
通常では考えられないその条件が、ハーティが選ばれた理由の一つだ。
ハーティは拷問を専門とする魔術師である。
そして拷問というものは、科学技術の発展に伴って同じように発展して来たのだ。
ハーティもまた、器具、薬物、人体工学、その方面において科学を蔑ろにしている訳ではない。
科学を魔術に取り入れ、『領分』を犯すような真似こそしないものの、
単純な拷問手段において、科学を転用することに左程の忌避感を感じていないのである。
これは魔術師の集まりである必要悪の教会《ネセサリウス》では比較的珍しいことだ。
ある程度の『妥協』をする魔術師こそ多かれど、理解を示す人間は少ないのである。
「それにしたって、拷問専門なのに。別に何もかもを許容しているという訳ではないのですよ?」
と、呟きは続く。最もそれは、拷問研究を邪魔された事に対する怒りであって、
科学サイドと協力する事に対しての物ではない。その点に関しても、ハーティは理解している。
今回の敵はよりにもよって『学園都市から生徒を誘拐した魔術師』なのだ。
しかも既に学園都市を抜け出し、このイギリスに居るという。
科学サイド側もそれを看過することは出来ないし、さりとてイギリスにおいて科学サイドが
戦闘を行うというのも、
魔術サイドとしては見過ごすことの出来ない話である。
それ故の妥協点として、『両サイドから刺客を出しての始末』が決定したのだ。
だから彼女は今、科学サイド側の刺客、今回の任務の協力者を探しにこの高級住宅街に来ているのである。
手に持ったメモは、その協力者が居るというアパートメントの住所を指し示していた。
それは余程の大金持ちでなければ住むことの出来ない、高級アパートメントだ。ハーティとは殆ど縁のない場所である。
ため息と白い息を吐きながらも、数分後、彼女は目的の場所につくことが出来た。
駐車場付きの大きなアパートメント。そこの二階が、彼女が指定された場所でる。
「全く……どういうことなの? 私が出向かなければならないとは」
建物に入り、階段を登る。二階のドアの前に着いた。
無骨な木製のドア。インターフォンのようなものは付いていない。
ハーティは呼吸を一つ入れる。冷たい空気を吸い込んだ。
まず、ノック。
しかし、返事がない。
もう一度、ノック。
「…………」
数秒待つも、やはり返事が無い。
改めてメモ帳を確認するが、場所に間違いは無い。
留守なのか、それともノックが聞こえていなかったのか。
拷問研究の邪魔をされた怒りと、歩いてきた疲れを織りまぜながら、ハーティは乱暴にドアノブを握りしめて、捻った。
激しい金属音を立てて、中の住人に気付かせようという狙いがあったが、しかしその目論見は僅かに外れることになる。
「あれ……。開きました?」
想像とは違う手応えと共に、ドアが内側にゆっくりと開いていく。初めから鍵はかかっていなかったのだ。
「なんて、無用心。……大丈夫ですか?」
中に居るにしろ居ないにしろ、ドアに鍵をかけないで放置してしまう無用心さに、ハーティは僅かに不安を覚える。
科学サイドと協力してことに当たるのは吝かではないが、素人と一緒では話にならない。
僅かな不安と共に、開いたドアから内側を覗いていくと、まずスニーカーが床に脱ぎ捨てられているのが見えた。
(そういえば、日本人は靴を脱いで部屋に上がる習慣があったわね。
と、言うことは、中には居ることは居るのでしょうか……?)
廊下の先、ガラス張りのドアの向こうにリビングが見える。
やはりというか、見える範囲ではサッパリとしたもので、家具の類は殆ど無い。
幾つかダンボールの箱が置かれていて、その内の一個の上に食器などが見える。簡易的なテーブル替わりなのだろう。
「幾らか生活はしているみたいね。……お風呂? それとも眠ってるのでしょうか」
内部の観察を終え、ハーティはゆっくりと部屋に足を踏み入れていく。
(万が一、ということもあり得るわね)
もし情報が漏れていて、先んじて襲撃されていたら――。
その可能性を考慮に入れ、彼女はコートのポケットに右手を入れる。
そこに潜んでいるのは、長い針。彼女の扱う霊装の一つである。
どんな不意打ちにも対応できるよう、神経を張り巡らせ、足を進めていく。
しんと張り詰めた、緊張感の有る空気。ハーティの呼吸が変わり、内臓の動きが変わる。
心の中を戦闘用に組み替える――魔術を行使する為の下準備を、着々と進めていた。
粘るような足取りで、しかし確実に歩を進めていき、やがて廊下とリビングを隔てるドアにたどり着く。
外から覗いた時よりもハッキリとリビングの中が観察できる。
ざっと部屋の中を見回して――そして、ハーティは脱力した。
部屋の中。
女性が一人、床に倒れていた。否、正しく表現するなら、寝ていた、だろう。
体に薄手のタオルケット一枚を掛けながら、大の字で豪快に寝ている。
大きく盛り上がった両胸が上下しており、呼吸しているのも分かる。
何より、枕元にビールの缶が転がっていた――これが決定的だ。
ハーティは無言でドアを開け、寝ている女性にズカズカと近づいていった。
寝ていても分かる程、背の高い女性だ。ハーティより頭二つ分は大きいだろうか。
黒い髪をポニーテールにしているようで、纏めた髪が横に流れていた。
元は凛々しい顔付きなのだろうが、今は幸せそうに眠り、柔んでいる。
ハーティは深くため息をついて、左手で顔を覆った。
(眠っている最中にドアに鍵をかけないのはまだ良いとするわ。
ですが、ここまで侵入されて、まだ眠っていられるのはありえません。
なんて、素人――先が、思いやられるわね)
ぎゅっと、ハーティは右手に持った長針を握りしめた。
そして、目の前で寝ている女性に――僅かな殺意を抱く。
しかしそれは、今まで積もってきた様々な要因が引き起こした、言わば無意識の殺意だった。
ハーティ自身も即座には気付かぬような心の揺れ。
だが――。
「――ッ!」
ハーティが一歩、後ずさる。
気付いた時にはもう、幸せそうに寝ていた女性が目を開いて、しっかりとハーティを見つめていたのだ。
それも、寝ぼけ眼で見ているのではない。それは、歴然とした観察だ。
ハーティという人物が、一体どういう存在なのか――見透かそうとしている、目。
(ま、さか――私の殺気に気付いたの? そんな、あんなちっぽけな物に――)
無意識の内に、ハーティはごくりと喉を鳴らす。
まだ女性は横になっていて、ただハーティを見ているだけなのに、じっとりとした緊張感が漂っていた。
そんな空気を先に絶ち切ったのは、ハーティだ。僅かに乾いた唇を開き、言葉を出す。
「あ、ええと――私は、ハーティ=ブレッティンガムよ。
必要悪の教会《ネセサリウス》から派遣された魔術サイドの刺客です。貴方が今回の協力者という事でいいのね?」
まずは自己紹介から入る。
この緊張感、あらぬ誤解を受けたくないというのもあったし、相手の素性も早く確認したかったからだ。
「おお、そかそか!」
ハーティの言葉を受けて、女性が笑みを浮かべながら上体を起こした。誰とでも打ち解けられそうな、気持ちのいい笑顔だ。
そして、右手を差し出してくる。長く、すらっとした指を持った手。爪は綺麗に切りそろえられている。
様々な武器を扱い、そして使いこなしてきたと言うことが、手のひらを見るだけで分かった。
「うちは
星嶋雅紀じゃ。とりあえず――その物騒なもん離して、握手ばしようや、ハーティちゃん」
驚きと共に、ハーティの疑念、疑惑が一掃される。
(この人――マキは素人なんかじゃないわ)
ハーティと同じ、一級のプロ……何度も死地を乗り越えてきた、歴戦の戦士だ。
握りしめていた長針を手放し、コートの中から右手を抜き、差し出した。
ほんの一瞬のやり取り。
それだけで、ハーティは彼女に対して信頼を置く事を決定したのだった。
「では――状況確認をするわね」
床に広がった様々な資料を見て、ハーティは話を始めた。場所は変わらず、雅紀の借りたアパートメントの中。
寝汗をさっぱりさせたいという雅紀の要求を受け、二人の握手から僅かに経った頃だ。
ハーティはコートを脱ぎ、雅紀はジャージ姿でバスタオルを首に巻いている。
「敵は、魔術結社
イルミナティに所属する魔術師。正直に言うと、この組織自体の全貌はこちら側でも掴みきれてはいません。
組織が全世界的に広がりすぎてる上に、魔術師というのは個人個人の思想は殆どバラバラだからね。
横の繋がり、上の繋がりも色々。百人規模の派閥もあれば、たった一人で行動する人間も居ます。
一応トップと十三人の幹部も存在すると言われているけれど、一度も見たこともないという構成員も居るのよね」
イルミナティは、必要悪の教会《ネセサリウス》も何度か戦闘を行ったことのある組織だ。
ハーティ自身も、戦闘に参加し、構成員と拷問《おはなし》したことがある。
だがやはり、同じ国ならともかく別の国の構成員の情報までは掴めなかった。
「基本的に魔術組織は国や地域、宗教単位で構成されるものですからね。
構成員毎に、信仰している宗教すら異なるあの組織は、やはり異端でしょう」
まあ――ともかく。と、ハーティは話を切り替える。
「今回の任務について、あまりイルミナティという組織そのものについては考えなくても良いでしょう。
目標はイルミナティの幹部クラスだけど、個人で動くタイプのようだから。
わざわざ『学園都市』まで自分で足を運んでいるのがその証拠です」
サッ、と。雅紀――科学サイド側が捉えた実行犯の写真を、ハーティは広げる。
金髪金目の優男。イルミナティの幹部、
ディアス=マクスターだ。
「彼は魔術サイドとも何度か諍いを起こしています。だから、ある程度の情報はある。
とはいえ、顔付きと、霊装として『剣を扱う』って事ぐらいなのですが……。
ま、今回はちょうどいい機会でもあったって事よね。目障りではありましたし」
と、そこで。
雅紀の視線が広げられた写真ではなく、自分に向けられている事にハーティは気づく。
何か、気になることがあるような、疑問に満ちた目線だ。
「ええっと、ここまでで何かありましたか?」
と、質問してから、気づく。今までずっと、何時もの協力者――魔術サイドと話しているつもりだったのだ。
「ああ……そうね、魔術サイド側の話は貴方には少し難しいかもしれないわね。
何か疑問に思うことがあったら何でも言ってください、マキ」
魔術側に一定の理解はあると聞き及んでいるが、それでも躓くことはあるだろう。
寛大な気持ちでハーティは雅紀に提案した。それに応えて、雅紀も口を開く。
「それじゃあ、聞かせてもらうばい」
「ええ、何かしら」
「……ハーティちゃんって、露出狂なんやろか?」
ハーティはコケた。
座った姿勢から、綺麗に横に倒れる。
「いや、いやいやいやいや……そこ? 今、そこなの!?
どう考えてもそういう雰囲気ではないですよねッ!?」
コートを脱いだハーティは、確かに露出狂の謗りを受けても仕方のない格好をしている。
黒革のボンテージを着用しているが、最低限見せてはいけない部分を隠す程度の布面積しか無い。
これには魔術的な意味合いがあり、ハーティが仕事をする際の正装だ。決して露出が目的ではない。
コートを脱ぐ際にそれを一応解説するべきかとも思ったが、雅紀が何も言わないため、問題なしと判断していたのだ。
「だって……うち、気になったけん。しょうがなか」
「……せめて、もう少し早く聞いて。これは魔術的な意味があるんですよ」
「分かったんやけん。ごめんねー、話の腰折ってもうて」
「いえ、良いです……。よくあることよ」
コホン、と咳払いを一つ。折れ曲がった話を、元に戻す。
「えーっと……。次は、そうね。誘拐された少女の話です。
名前はアデル=ヴァレリ。イギリスから学園都市に留学していた少女でしたね。
本格的な能力開発はまだ受けてなくて、簡単な身体検査程度に留まっていた、と」
「うん、そうたい。いうても、詳しくははなせんと。わるかなー」
「別に構わないわ。……機密を知れば危ないのはお互い様です」
「うん。……しかし、ディアスゆうんがなんで拐ったかわからんと?」
「そうね……。こちらでも色々と情報を漁ってみましたが、アデルに特別な魔術的要素は確認できませんでした。
その方面に関してはほとんど手詰まりといったところかしら。
実際に攻めこんで、解き明かすしか無いと思います。……ですが、まあ」
「そうたい……まあ、生きとらんなぁ。もう一週間ばい」
「どういう理由かはわかりませんが、ほぼ生贄目的しょうからね。
別に奪還は任務じゃないから、それは良いんだけど……」
と、そこまで言って、ハーティは口を噤む。雅紀の雰囲気が、一変したからだ。
どこかやんわりとした、おおらかな感じが消え去り、突き刺すような怒りを感じる。
「世の中綺麗事ばかりじゃなかと。うちらみたいな人間もおる。
ばってん、ただの人間巻き込む道理はなか……表と裏はわけんとだめばい」
「そう、ですね……ディアスにはけじめを付けてもらわないとなりません。
彼のした行為は表と裏、科学と魔術の棲み分けを乱す行為だもの」
「うん。……で、まあ奴の居場所はもうこっちで見つけてる。後はそこにうちらで攻撃するだけばい」
「……『学園都市』の衛星技術には恐怖を感じますよ。
その気になれば、昨日私の食べたソフトクリームの種類だって分かるんだから」
ディアスの素性を解き明かしたのが魔術サイドの情報網なら、その居場所を突き止めたのは科学サイドの最新技術だ。
超高精度の衛星写真が、イギリス帰国後のディアスの足取りを掴み、その隠れ家を突き止めたのである。
「郊外の廃村、ですね。もう人の出入りは無いみたいだから、戦闘時の配慮はいらないわね」
「うん。いやあ、うちの装備はかなり派手ばい、人が居なくてよかよか」
「あ、そういえば……」
雅紀の言葉を受けて、何かを思い出したようにハーティがコートを漁る。
取り出ししたのは、様々な場所に仕込んだ仕事道具の数々。
長針、鉄鎖、鉄槌、ペンチ、ノコギリ、針金、鉄板等だ。
それらは、一つの大きな『拷問器具』を、持ち運び出来るようにバラした物だ。
「まだ、お互いの『得意分野』について話をしていませんでしたね。
作戦を立てる為にも、一度話しておかない?」