その人間はアメリカ合衆国の中で独自の連邦制度を確立させる部族の一員として生まれた。
物心付いた時から勇ましく勇敢で勇者だった人間は『調停者(ピースメーカー)』たる過去の偉人にして大英雄達に憧れた。
争い続けていた部族間に和解を呼びかけ平和の同盟を結び、歴史上初めて女性への参政権を認め、今なお強固な結束力を保ちながら部族国家集団を維持し続ける礎となった大英雄達のような人間に。
如何なる困難な道をも切り開き、未知なる遭遇に畏れなど抱かず、無知であったとしてもそれを恥とせず貪欲に己の血肉とし、胸を熱く焦がす好奇心が指し示す道無き道へ赴いたまま生きる事を望んだ。
『へぇ。それが君の矜持…折れる事の無い信念なんだね。病弱な私からすれば、君のような人は凄く眩しいよ。私はこの部屋の窓から見える景色しか外の世界を知らない。君が私が閉じこもっている世界で暮らしたら、30分も経たない内に出て行ってしまうのだろうね』
小さい頃から興味があった各地の蛇伝承を追い求め旅をする人間は、何時しか世界中に行動範囲を広げていた。
未開の奥地も、想像を絶するような凄まじい自然環境の中も、犯罪や戦争が起こっている土地にさえ足を踏み入れ、民族学者として歴史研究家として、そして誇り高き部族の末裔として自らの知的好奇心を満たし続ける自由奔放な活動を続けていた。
故に、魔術などという平々凡々な人生を過ごす人間なら一生出会わなかったであろう未知の領域に引っ掛かったのも必然であったのかもしれない。
『蛇か。私は嫌いだね。実物は未だに見た事は無いんだけど、想像するだけで鳥肌が立ってくる。あぁ、でも君の話を聞いていると案外平気だったりするのかも。
生憎私の知識は極々限定的なんだ。本や人伝の知識ばかり。外の世界は私の想像なんか一瞬で吹き飛ばすくらい豊かで色鮮やかな景色に満ち溢れているんだろうね』
抗争中の魔術師同士のいざこざに巻き込まれた事を切欠に魔術の世界へズルズル引き込まれていったその人間は、しかし見た事の無い無知で未知な世界に心躍らせた。
男とか女とかどうでもいい。己は誇り高き部族の名に恥じぬ戦士であるという気構えを幼い頃から内に宿していた事もあるだろう。戦士たる人間は瞬く間に魔術の世界に順応し、一人の魔術師として内に秘められていた才能を開花させていった。
一度怒髪天を衝けば荒れ狂う怒りのままに勇ましき戦いを繰り広げ、空いた時間があれば霊装開発の腕を磨く為延々と試行錯誤を繰り返していた。
『……私は臆病なんだ。すごくすごく臆病なんだ。お医者さんには、色々気を付けさえすれば外の世界で暮らしても大丈夫という許しは得ているんだ。
でも、私は恐いんだ。恐怖しているんだ。この見慣れた光景が、馴染んだ入院生活が変化するのが堪らなく恐ろしい。君はどうしてそんなに勇敢でいられるんだい?…ごめん、愚痴に付き合って貰っちゃって。
全く、私は本当に君の事が羨ましい。だって、君は私には無いものを色々持っているからね。あぁ、それでも君の無茶っぷりは全然羨ましくは無いね。君の辞書には「無茶」だったり「無謀」だったり「蛮勇」という単語は無いのかな?フフッ」
とある日、とある時、とある場所でその人間は人生の伴侶となる人と出会った。男とも女とも判断できる色白で中性的な容貌で、会話も中性的な話し振りで終始する。
入院している病院の一室でずっと外の景色を眺める、折ろうと思えば簡単に折れてしまいそうな儚げさを秘める『花』に戦士たる人間は一目で心奪われた。
偶然を装い、何度も足繁く病室へ通う人間は自身の臆病さを打ち明ける人を愛しいと想うようになった。
大英雄のような偉大なる戦士になる為に苛烈な人生を歩んでいた人間は、愛しき人に恋慕を告白した瞬間から己が伴侶の為に生きる輝かしき太陽となった。
『すごいね。こんなに世界というものが広いものだったなんて知らなかった。箱庭の世界で閉じこもっていた頃の私は、きっと人生を無駄に消費していたんだろうな。
美味しい空気。見応えのある景色。肌に感じる太陽の暑さ。聴こえる波飛沫。私はようやく実感した。君のおかげで実感できた。
世界は素晴らしい。こんなにも素晴らしいものに満ち溢れている。何より、素晴らしい世界に私という存在は君という存在と儷となって生きている。その事実が堪らなく嬉しいんだ』
愛という名の絆を結び儷となった人間と人間は、それから世界中を回った。大海原を渡り、大草原を歩いた。
古びた遺跡の上で母なる大地の息吹を感じながら寝転がり上空に浮かぶ虹を眺め、草木が生い茂る木々の中を昼食用の弁当を持参して散策する。
旅の途上で相も変わらず無茶ばかりする片割れを、もう一方の片割れが制止する。時折以前の臆病さが露になる片割れを、もう一方の片割れが勇気付ける。
夫婦らしい阿吽の呼吸で以て自分達が生を受けたこの惑星の脈動を体感し続けた。それは儷の望み。夫婦の心からの願いだった。
駆け回った。はしゃいだ。楽しかった。嬉しかった。笑い合った。こんなに幸せな時間は今まで存在しなかったと思うくらいに何処までも愛し合った。
そして。信じて疑わなかった。この幸福な時間がこれから先、いついつまでも続いて行く事を。少なくとも戦士『だった』人間はずっと信じていた。
『おい!おい!!しっかり…しっかり!!目を……目を開け、開け、て……ハルジ!!!』
生涯を共に添い遂げると約束した『花』―ハルジ=バウンド―が力無く崩れ落ちたあの日が来るまでは。
~とある魔術の日常風景 異説「イ・プルーリバス・ウナム」Ⅳ~
地形の四割弱が消滅した無人島の上空に雷走る暗雲が立ちこめる。包囲する輪を縮め、当初は数百だった数を減らしながら収縮中の『ブレ・カロウ』は未だその動きを止めない。
炎核の巨人スルトの核級の威力を誇る一撃で発生した大気の流れとは別種の突風が吹き荒れ始めた。
脈動する異世界の力と大地の力。模倣魔術『カーゴ・カルト』の働きにより『ハワイキ』に存在する『ブレ・カロウ』と瓜二つの建築物に包囲された無人島は、これよりとある魔術を行使する為の儀式場に様変わりする。
「コノ力ハ…『天使の力(テレズマ)』!!?」
スルト状態を保つカッレラは、『ブレ・カロウ』に取り囲まれたこの場一帯に別位相に存在する筈の異能の力が集約しつつある状況に驚愕を禁じ得ない。
『多数派』たる十字教が自らの源の一つに置く最重要の異能のエネルギー、それが神が作りたもうた『天使の力』。
絶大な力を有する天使そのものを構成するエネルギーでもあり、十字教徒であれば誰でも借りているものだが敵対しているイロは十字教徒では無い。
イロが扱う魔術に『天使の力』を借りられるような伝承があったというのか。疑問と混乱で咄嗟の身動きが取れないカッレラに、イロは“敢えて”自らの魔術の真相を語り始める。
「フィジー諸島はな、かつて英国の植民地だった。それが発端で十字教も伝来、元からあった伝統宗教と習合しちまった事例が出て来たわけだ。
カッレラ。十字教を目の敵にするテメェなら『ノアの方舟』伝説は知ってるよな?神と大天使たる『神の火(ウリエル)』が関わる、旧約聖書における創世記に起きた大洪水の逸話をよ」
『ノアの方舟』伝説。掻い摘んで説明すれば、数を増やした人間の愚かな悪行に心痛めた神が人間を浄化すべく地上を大洪水で埋め尽くした。
そして「神と共に歩むに相応しい正しさを持つ」人間ノアに大天使ウリエルが方舟の建設を命じ、方舟を完成させたノアとその家族や動物達は大嵐が世界を包む中方舟によって生き抜き、遂に世界を滅ぼした大洪水から生き延びたという神話である。
これに限らず、世界全体を見れば大洪水に関わる逸話・神話はそれぞれ規模は違えど様々な所に存在する。無論蛇神ンデンゲイが君臨していたフィジー地方にも。
「ンデンゲイの伝説にも十字教の影響が混ざっちまった事例があるんだよ。その一例が『ノアの方舟』伝説。
神たるンデンゲイの怒りを買った人間は最終的にンデンゲイの引き起こした大嵐と大洪水で滅ぼしに掛かる。
そして、船大工の祖であり別の神話じゃンデンゲイの息子とも称されるロコラの作った船によって辛くも生き延びるなんていう伝承が存在する。
聞いていてどっかの神話に似てると思っただろ?類似してると感じただろ?そりゃそうだ。何たって、大本の十字教が侵食してきて習合しちまったわけなんだからな」
「アンタ……恥ズカシクナイノ!?十字教ノ力ヲ使ウ…イエ、恩恵ニ預カルダナンテ恥ヲ知レ!!」
「うるせぇ!!人の事どうこう言えねぇだろうがテメェ!!ユミルにしろスルトにしろ、『少数派』からすれば『多数派』として見做される北欧神話をバンバン使ってんじゃねぇか!!」
「ッ!!」
「無意識か?それともわかっててやってんのか?まぁどちらにしろ『少数派』の代表として十字教に襲撃を仕掛けようとする張本人が『多数派』魔術を主戦力にしてるんじゃ説得力もガタ落ちだわな。
テメェが当初逃亡用に想定していた『ナンタヴェア』に積んでいた積荷の中にスルトが扱う霊装もあったし。なぁカッレラ。矛盾を抱えるのが絶対悪い…なんては言わねぇよ。
己も矛盾を抱えている。今も昔も。矛盾を抱えたまま事を成し遂げた奴も大勢いるだろう。矛盾を超越してでも絶対にやり遂げたい想いもあるだろう。テメェにもな」
魔道書原典『カレワラ』にはフィンランド神話だけでは無く、例えば近辺の北欧神話なども記されていた。北欧神話はメジャーであり、その分強大な逸話が山程存在する。
そこに目を付けたエリアスは慧眼の持ち主であった。しかし、それが現所有者カッレラの思想と相容れるかと問われれば必ずしもそうではない。
『少数派』の誇りを取り戻す為に『多数派』に戦いを挑む、その先陣を走るカッレラが北欧神話に登場する巨人に変貌し大いに暴れ回る姿を見て果たして他の『少数派』はどのような感情を抱くだろうか。
カッレラの圧倒的な力に心震わせ、『多数派』に挑む勇気を胸の内に湧きあがらせる事が叶うだろうか。それとも…失望か。
「だから見せてやる。己が矛盾を抱えても成し遂げたい理想の一端を!!オリジナルだけじゃ無く、習合伝承になった“十字教に影響された”伝説を!
『カーゴ・カルト』も言わば外部から影響された信仰だからな、実はもう見せちまってるとも言えるんだがここからがメインディッシュだぜ?」
強大な力を蓄えるイロの宣言と同時に収縮し続けていた『ブレ・カロウ』が動きを止めた。それは、全ての準備が整った事を示す合図でもあった。
「『ノアの方舟』じゃ天に存在する神から使わされた『神の火』がノアに自然の動向を伝え方舟製作を命じた。『神の火』が象徴するのは大地。
蛇神ンデンゲイは天と地の二重起源を持つ。すなわち、ンデンゲイは『ノアの方舟』伝説における神と『神の火』両方に類似する性質を有する!」
あくまで類似する、あるいは同一視できるだけであって同じものでは決して無い。だが、形や役割が似ているものは互いに影響し合い、性質や能力がどうしても似てくる。
それが魔術における類感的理論。『天使の力』はその類感が柱となる偶像の理論によって集められる。
ならば。習合により神や『神の火』が出て来る『ノアの方舟』伝説と類似する逸話を『持ってしまった』ンデンゲイの伝説は、逆に言えば『神の火』達が活動するエネルギー源となっている別位相の力にも干渉し得る。
「魔術的記号に求められる要素は神を降ろす『ブレ・カロウ』!そして方舟!!それは、周囲の『ブレ・カロウ』と島の中央部に存在する『ナンタヴェア』が役割を担う!!」!
模倣魔術『カーゴ・カルト』によって精緻に建築された現地材質版『ブレ・カロウ』の法則性立地―これは『ハワイキ』に存在する『ブレ・カロウ』と同じ立地―と、島の中央部に着水したイロの『ナンタヴェア』が儀式魔術における魔術的記号と化す。
『ブレ・カロウ』に顕現させるのは蛇神ンデンゲイとその眷属でありフィジー信仰における土着の神々カロウ・ヴの力。
戦争や天候などの啓示的役割も有する『根の神々』カロウ・ヴは、『ノアの方舟』伝説における大地の大天使『神の火』とその役目を類似させる。
『根の神々』は啓示する時に何らかの存在へ憑依する必要がある。故に、今回憑依するのは神の社『ブレ・カロウ』である。
(『ブレ・カロウ』に『天使の力』が!!……風属性の『天使の力』が島の周囲を覆いながら天に昇っていく!!このままじゃ…儀式が完成する前に『ブレ・カロウ』を破壊する!!)
儀式魔術によって『神の火』の虚像が数十軒の『ブレ・カロウ』に出現し、集約される風属性の『天使の力』が虚像から天に立ちこめる暗雲目掛けて殺到する。
言い換えれば、まだこの儀式魔術は完成には達していないのだ。今までの会話もカッレラの動揺を誘い、儀式完成までの時間稼ぎでしか無いイロの手管。
そう捉え直したカッレラは『ブレ・カロウ』を破壊する為―中央部に存在する魔術的記号となっている『ナンタヴェア』を狙わないのは攻撃によって誤って自身の『ナンタヴェア』を失いたくないからである―再び『カレワラ』の力を借りて炎核の巨人スルトの莫大な力を発揮するべく地脈から火属性のエネルギーを取り出そうとする。
「何ッ!?地脈ノ属性ガ…!!」
「テメェが己を殺しかけたスルトの一撃で地形が一変する程海底の構造は変化している。て事は、“地形が変わったんなら流れる力の属性や方向性も変化する”のは当然だよな。今みたいに属性が火から水に変わったように!」
しかし、スルトの核兵器クラスの爆撃で海底を流れる地脈はその属性や方向性を一変させてしまっていた。
具体的には、火属性だった地脈が水属性になってしまっていたように。この辺の地脈は図太い川のようなエネルギーで、属性も一本化されていた。
スルトの一撃を経た現在は、カッレラ達が立つ島の地下においては支流のように枝分かれはしていないものの属性がそれまでの火から水に変化してしまっていた。
そして、水に変わった地脈エネルギーはイロが行おうとしている儀式魔術にとっても重要なエネルギー源となる。
(やっぱキツい!己の腕だと風属性の『天使の力』と水属性の地脈エネルギーを同時に使用するこの魔術は持って一分が限度!!
特に、己は風属性魔術の腕前が他の属性魔術と比べるとレベルが一段下がるからな!!魔力精製に気を払わず制御に一極集中してこれか…まだまだ精進が足りねぇわ)
内心自身の未熟さを嘆くイロだったが、その魔術制御に些かの乱れも感じさせないのは一世紀近くに渡る魔術師としての経験が成せる業か。
風属性の『天使の力』と水属性の地脈エネルギーを引き出す引き鉄となったのは、『ハワイキ』の魔術師達から『ブレ・カロウ』に送られる魔力。
儀式魔術に必要な魔術的配置も達成。後は全身全霊で以てエネルギーや魔術式の制御に集中するのみ。
程無くして、スルトとしての力を発揮するための供給源を失ったカッレラが構成する巨人の肌を雨の雫が濡らす。
それはすぐに一粒一粒が強大な破壊力を有する弾丸となって降り注ぐ猛烈な豪雨となり、海に降り融合を果たした雨粒を含む大波は無人島を丸ごと呑み込む大洪水となってカッレラを襲った。
「GAAAAAAAAAAAAA!!!!!」
十字教の影響を受け風と水の習合伝承となったンデンゲイ伝説を基にした儀式魔術『カウニトーニ』によって発生した大洪水に呑み込まれ噴出する炎熱を削られて行くスルト。
大波から体を出せば、すぐさま風によって威力が増した豪雨の弾丸がスルトの肉体に穴を穿っていく。
世界を焼き尽くした巨人神話に対抗するのが世界を大洪水で滅ぼした旧約聖書の創世記伝承の影響を色濃く受ける習合伝承なのは、ある意味では都合が良く理に叶っていると言える。
とはいえ、元の神話を考えるとオリジナル伝承と習合伝承とではオリジナルの方が勝ると思われる。今回の場合は大きな魔力消費を伴うスルト術式に必要な地脈エネルギーが火から水に変わってしまったが為に、そして幾度の戦闘でカッレラが魔力を消費していたという事実が合わさった結果力負けしてしまったという事なのだろう。
「ハァ・・・ハァ・・・」
「ハァ・・・ハァ・・・」
一分が過ぎ去り、儀式魔術『カウニトーニ』が終了し、魔術的結界にて守られていた中央部を除いて巨人スルトを構成していた肉体諸共島の木々を全て流した大洪水と大嵐が過ぎ去った島に残ったのは、片で息を吐くカッレラとイロの疲弊した姿だけであった。
「まだ、まだ勝負は終わってなんかないわよ!」
水浸しになっているカッレラの闘志はまだまだ鎮火していない。すぐに魔術『樫切りの巨人』を発動するべく魔力を精製し、大地から炭素や窒素を集め始める。
その途上で
カッレラは奇妙な光景を目にした。イロもまた大地から炭素や窒素を収集し始めたのだ。集められた窒素や炭素などを基に巨人となる肉体を構成していく二人だったが、異常が発生したのはカッレラの方だった。
何と、カッレラが構成していた巨人の肉体が突如四散し、あろうことか同じく巨人の肉体を構成中のイロの下へ向かい、イロが作成した巨人の腕の構成材料となってしまったのだ。
「う、嘘…!!」
「魔術『カーゴ・カルト』には幾つか種類があるって言っただろ?今回の場合は、模倣による魔術制御の乗っ取りってヤツだな。
テメェの『樫切りの巨人』は今回を含めて今までに何度も見てきたし、式の下地になる伝承も仲間としてよく知ってたしな」
「……それもあの蛇のような目と何か関係するのかしら?模倣って言うくらいだから、知識の深さは大前提として魔力精製を含めた色んな魔術的記号の看破が必要になる筈。
そうじゃなければ、こんな完璧な乗っ取りは実現できない。そうよ。『ナンタヴェア』を使って時速千キロを超えた速度で逃走する私の位置を捕捉できた事そのものをもっと疑うべきだった」
「へっ。察しがいいな。テメェが言う蛇ってのはこんな姿を言うのかよ?」
最初は驚いたものの、心はすぐに落ち着きを取り戻すカッレラは冷静にイロの手管を指摘する。
先程までは炎核の巨人を身に纏っていたせいか冷静さを失い掛けていた部分もあったが、ずぶ濡れになった今は必要以上に熱くなる事は無い。
それは、腰巻の布の中から取り出したビンの栓を抜き顔や腕、そして足下に横たわらせている雷槌『ウコンバサラ』のハンマー部分に中身である無色透明の水を垂らした後に再び蛇化したイロを眺めても一切の揺らぎを見せない少女からして見て取れる。
「そうよ。それよ。全く、見るのは二回目だけど最初の時と変わらず気色悪いったらない。その瞳…もしかして千里眼みたいな効果があるんじゃない?」
「……」
「まぁいいわ。ふぅ……ねぇ、イロ?」
「何だよ」
「私の掲げる目標ってやっぱり無茶なのかな?無謀なのかな?蛮勇なのかな?」
「…ッ!」
覇気が無いわけでは無い。闘志が潰えたわけでは無い。十字教に宣戦布告し、弱者という立ち位置に甘んじる現状を変え、少数派宗教・民族としての誇りを取り戻す。
その信念に揺らぎなど一切無い。揺らぎが無いから戸惑っている。自分が選択した手段が、イロが指摘するように、『少数派』の為にと決意して戦いを挑もうとした自分が、よりにもよって『多数派』の魔術を使用するという選択を取った事に対する矛盾に対して。
「…あんたの意見を聞きたいな。あんたはどうして『多数派』の影響を受ける『少数派』魔術を使用する事にそこまで肯定的なの?
私なんか、指摘された途端『カレワラ』に眠っているメジャー魔術を使う事が恐くなったのに。私の無意識に反応して勝手に術式を組み上げちゃうしね。
あんたもわかってるでしょ?だから、さっきの私は抵抗らしい抵抗を見せずに大洪水に呑み込まれた」
「その割には『ブレ・カロウ』を破壊する為にスルトの力を使おうとしてたじゃねぇか」
「もう使っちゃってたから、そこまで拒否感無かったのよ。……あぁ、そうか。これが『多数派』の侵略を受けて『少数派』が抱く諦念なのね。『もうそうなっちゃったんだから認めるしかない』ってヤツ。
この感情久しく忘れてたかも。そうだ。そうなのよ。私も諦めたんだ。『道理を通すには相応の犠牲や悲劇が伴う』って。世の道理に諦念を抱いてた」
「それを何とかしたくてこんな事をしたんじゃねぇのか?」
「そうよ。何とかしたい、私達は弱くなんかないんだって示したいって。今もずっとその気持ちはある。でも、それと同じくらい大きな諦念が私の胸を締め付ける。
さっきの攻防で『多数派』魔術に手を出した私は、『多数派』の影響を受けた魔術に打ち負けた。結局世の道理は『多数派』に成った存在に味方するんだって。
きっとあんたの制止が無くて予定通り十字教へ襲撃を仕掛けたとしても、私に付いて来てくれる人はいなかった……かもしれない。どう思う、イロ?」
矛盾は新たな諦念を浮き彫りにさせる。誇りを取り戻す為の戦いに矛盾をバラ撒けば、付いて来てくれる人がいてもいずれ付いて来なくなる。
『少数派』だの『多数派』だのしつこいくらいに区別していたのに、蓋を開けてみれば混同も甚だしい自身の行為にカッレラは悲しんでいた。
自分は何をしたかったのか。本当は何が目的だったのか。自分は何から目を背けていたのか。自身は何を間違っていたのか。
聞きたい事は、問いたい事は山のようにある。でも、『独り』になった少女にそんな相手はいない。世の道理に従い、あらゆる者を敵に回した。
それでも聞きたい。問いたい。そうしないと自分の信念さえ崩れてしまうから。それが敵であったとしても。自分の事を仲間だと言ってくれた敵であったとしても。
「んな事己に聞くなよ。己はテメェじゃ無いんだ」
「年老いた外見の時はよく気を回してくれてたのに薄情ね」
「テメェに聞けよ」
「自分に聞いてもわからないから聞いてるのに」
「嘘吐け。そこまで自分の事を分析できてる奴が、自分が本当に何をしたいのかがわからないだなんて道理があるか?無ぇよ。
だから、己はテメェの質問に何も答えは返さねぇ。敢えて言うなら質問に質問で返してやるよ。
テメェは『ウコンバサラ』を片手にテメェの命を摘もうとしている人間に向かって何をしてやりてぇんだ?そもそも、テメェは己の言う事を素直にハイハイ頷くようなタマだったか?思い出せよカッレラ」
『それなのに』。敵対する人間は自分の問いなど一蹴するばかりか質問を質問で返して来た。何と言う横暴だろう。珍しく人が下手に出てみれば調子に乗って。
そうだ。そうだ。思い出した。沸々と湧き上がって来るこの熱い感情の根源を。イロが『多からなる一』に加入してきた時から“こうだった”。
カッレラはまるで親のように健康管理だの魔術の使い方だのあれこれガミガミ言って来るイロ相手にどうしても反抗的になってしまっていた。それは何故なのか。自分でもちょっと不思議に思った事が切欠となり、一度だけ考えた事があった。
「『何がしたい』?あんたに対して?………ハハッ。そんな事決まっている。“それだけは決まっている”!!」
一晩中考えて、一睡もせずに悩み、目の下にクマができた顔のまま『ハワイキ』内に存在する大きな食堂で朝食を摂っているイロの真正面に座って宣言してやった。
今みたいに。挑戦的な笑みを浮かべながら。イロへ指差しながらキッパリ宣言してやったんだ。
「『ガミガミうるさいあんたの思い通りになんか絶対にならない!!私は私が納得した事だけをする!!馬鹿老害!!私の邪魔をするなら容赦しないわよ!!』」
自己満足と欺瞞に満ちた『私の中の正義』の味方。それが魔術師カッレラの在り方。たとえその正義がどれだけ自己満足に満ちていても、その信念がどれ程欺瞞に溢れていても、それは自分が行動を起こさない理由にはなり得ない。
自己満足も欺瞞も矛盾も全て踏破していく。数多のしがらみを掻き分け、『正義』を貫いた代償として傷だらけになったその手で掴み取った何かが幸せであるならそれでいい。
知っていた。わかっていた。理解していた。納得していた。欠けていたのは勇気。無茶でもいい。無謀でもいい。蛮勇でもいい。
少女は誰かの為にその身を賭して戦っているのでは無い。他の誰でも無い、自分が定めた自分だけの正義の為に心を奮い立たせて勇ましく戦い続けて来たのだ。
(いいな!いいぜぇカッレラ!!チックショー!!マジで羨ましい!!その無鉄砲さ!!猪突猛進さ!!好きだ!!大好きだ!!メチャクチャ己好みだ!!!
己もテメェみてぇに戦いてぇ!!後先考えず、思うが儘に戦い尽してぇ!!……だが、それだけはできねぇんだ。悪ぃなカッレラ)
点火し、燃焼し、一気に爆発させたカッレラの両の瞳の映る灯火に呼応するかのうように魔道書原典『カレワラ』が激しく少女の周囲を飛び回る。
その光景に一瞬だけ戸惑いの色を見せたカッレラを見やるイロは、心の中だけでだが自身に啖呵を切ったカッレラに拍手喝采を繰り広げていた。
本音を漏らせば、カッレラのような勇ましき姿勢の一助となりたい。彼女の正義が実を結ぶよう助力してあげたい。
でも、それだけはできない。カッレラが目指す『少数派』と『多数派』間の関係とイロが目指す関係は着地点が異なっている。
(テメェが目指す『少数派』と『多数派』間の関係性は、侵略なんかの緊急時こそ効果を発揮するが平時でやっちまったら逆に改善不可能な軋轢を生む危険性が高い!!
『少数派』の力で『多数派』を完全消滅させられるのならまた違った話になるのかもしれねぇが、そんなのは夢物語だ。仮に誇りを取り戻せたとしてその先はどうなる?
終わりの見えない血に塗れた宗教戦争でも引き起こすつもりか?そんな事は『多数派』どころか『少数派』の多くさえ望んじゃいねぇ!!)
カッレラのやり方は侵略に対する抵抗活動としてなら確かに効果を発揮するだろうし、彼女に加勢する『少数派』も出て来るに違いない。
しかし、平時でそれをやるとカッレラは明らかな加害者となり『多数派』への明確な“侵略者”となる。
多勢に無勢とはよく言ったもので、こうなると『少数派』は『多数派』に不利である。パワーバランスとして、『多数派』は『少数派』を確かに上回っているのだから。
(必要なのは戦闘という血みどろの直接的手段を用いずに『少数派』の地位を向上させる事だ。相手を蹴落とすのでは無く、相手の歩みを上回る速度で地位を確立する事が求められる!!
それこそが己が目指す目的。勿論、この方法論でも地位が脅かされる事を恐れる『多数派』が戦いを仕掛けてくるんだろうが、己はこれを戦いでは無く対等な融和路線に変更させたい。
かつて己が目指した大英雄達のように、弱小と見做される民族・宗教でも融和と強固な絆を結ぶ事でメジャー級な勢力と対等に渡り合う。
国家レベルと宗教レベルを同じ扱いにしちゃ駄目なんだろうが、己はそれを目指す)
一方イロが目指すのは現在アメリカ合衆国の中で独自の連邦制度を確立させる部族のような宗教連邦制度である。
一概に一緒にできない点は幾らでもあるが、確かなのは部族及び宗教同士の融和と対外勢力との対等な関係性の構築である。
一例を挙げると、イロが扱うフィジー信仰には十字教に影響を受けた伝承も色々存在する。習合と呼ばれる融合策だが、今を生きるフィジーの人達はそれ等を受け入れている。
当時の人々には各々の葛藤があったのかもしれない。習合とは名ばかりの外来宗教の侵略に恐怖し抵抗した人々もいたのかもしれない。
しかし、今のフィジー信仰は習合伝承を受け入れている。時を経て『多数派』と『少数派』の宗教は確かに融和し、今を生きる現地人の信じる信仰となった。
血を血で洗い流す戦争では無く、融和路線の上での戦い。結局戦いの宿命からは逃れられないのかもしれない。
しかし、イロは信じている。最初は異教に臆病な心を抱いてしまうのかもしれない。それは自衛本能としてとても大事な要素だ。
臆病だからこそ、異教の教義に潜んだ本質を察知できる可能性が生まれる。理解を早める一手段ともなり得る。
当たり前だが臆病なだけではいけない。理解が進めば次は勇気の出番だ。その勇ましき歩みで他宗教と融和の絆を築く礎となる。そうする事で初めて融和路線が現実味を増す。
(だからこそ、己は『多からなる一』に入った!!『少数派』の集まりである彼らが大きな対抗戦力に無為に踏み潰される可能性を可能な限り排除したいと思った!!
何せ、何時か築く宗教連邦制度の礎となる可能性を魔術結社『多からなる一(イ・プルーリバス・ウナム)』は秘めていたからな!!その芽を悪手で踏み潰すテメェの行動だけは認めるわけにはいかねぇな!!
カッレラ!!テメェは己をブチのめす!!己はテメェを止める!!互いに譲れない揺るがぬ信念があるならそれを貫いてみせろ!!貫き通した方がこの勝負勝つ!!)
魔術師
イロ=コイが目指す目的。魔術師カッレラが目指す目的。互いに『多数派』に対する『少数派』の地位を向上させる事。違うのは過程と着地点。
どちらを一概に否定する事はできない。どちらにも優れている点と改善点がある。故に、勝負の分かれ目となるのは目的を掲げる人間であるイロとカッレラ。
互いの信念を何処まで貫き通せるのかが勝敗を分かつ。もし、それ以外に勝敗を揺らがす不確定要素があるとすれば……“パートナー”次第か。
『ごめんね。本当は隠すつもりじゃ無かったんだ。君にも打ち明けようとずっと考えていて…ズルズル来た。余りにも君との時間が幸せ過ぎて、幸福過ぎて、あっという間に時間が経ってしまっていた。幸せな時間は過ぎるのが早いね』
通常のように策も無しに『樫切りの巨人』を発動すれば、『カーゴ・カルト』の餌となる。カッレラは『カレワラ』に記された巨人化魔術とは無縁の魔術を発動しイロを攻撃する事で得た隙を最大限活用し再び『樫切りの巨人』となる。
カッレラ自身の意思なのだろう、北欧神話に登場するユミルやスルトになる気配は一切見せず『樫切りの巨人』―フィンランド神話に登場するカレヴァン・ポイカ―のままで戦闘を開始するカッレラは、まさに初心に立ち戻ったかのような凄まじい挙動を見せる。
潤沢な資源さえあれば際限なく巨大化でき、その体積を利用した質量攻撃を得意とする一方で、体格差を物ともしない相手からすれば『的が大きくなったに過ぎない』と散々な評価を受けているが、それは鈍間であればという但し書きが付随する場合である。
メジャーでは無い、何かしらの魔術を使って巨人の挙動レベルを向上させているカッレラが操るカレヴァンが繰り出す質量攻撃の速度は目で追う事さえ難しい。
「ドウシタノヨイロ!!コレガアンタノ底ナワケ無イデショーガ!!アンタハ私ヲココマデ追イ詰メタ!!呆気無イ幕切レナンカ私ハ認メナイワヨ!!」
「活き活きしてやがるなカッレラの野郎…」
そもそも巨人はその怪力が自慢となる伝承は数多く存在する。そこへ単純に速度を乗せればどれ程の脅威になるか。
現に、カレヴァンが繰り出した突きを避け切れず構成した巨腕で防御したイロは、その威力を相殺し切れずに後方へ吹っ飛ばされる。
『どうやら、症状は末期のようだ。我ながら、ここまで体が弱かったのかと嘆いてしまったよ。自分の体なのにね。君と共に歩いている内に少しは貧相な体も強くなったと思っていたのだけれど錯覚だったみたいだ』
体へのダメージを最小限に食い止めたイロが目にしたのは、猛烈な速度でこちら目掛けて疾走してくるカレヴァンがサッカーよろしくのスライディングを仕掛けて来る姿だった。
ゴリゴリと地面を削りながら砂煙を纏う死神の鎌は、かつてカレヴァンが巨大な牧草地を刈り取っていた鎌に通じる鋭さを宿している。
「ちぃっ!!」
「本当ニドウシタノヨイロ!!巨人ノ片腕ト『ウコンバサラ』ヲ持ッテイルノニソノ体タラクハ何ナノヨ!!
今私ガ力ヲ借リテイル『カレワラ』ノ知識ハ強化術式クライ!!メジャーナ巨人化魔術ハ全然使用シテイナイッテイウノニ!!」
巨腕を盾にしながら横っ飛びで死神の鎌から逃れるものの、生じた衝撃波で再び地面を転がるイロの体勢にカッレラは不平不満を漏らしながらもおおよその見当を付けた。
先程の儀式魔術が終了すると同時に島を覆っていた『ブレ・カロウ』は跡形も無く海の中に沈んだ。つまり、『ハワイキ』の魔術師達から魔力を送って貰えなくなったイロは儀式魔術によって集中力を相当消耗しているのだ。
生命力を魔力に変換するのは、息を吸うくらいに簡単にしてこそ一流の魔術師。しかし、人間は疲弊すると集中力は乱れ息を吸うのも苦しくなる。当然魔力精製にしたって同様の事は発生する。
『どうして…どうして!!魔術式は完璧な筈なのに!!セッティングにも不備は無いのに!!どうして望むような『両性産卵』が産まれない!!?魔術は…魔術はこんなにも不便なものだったのか!?己は大事な…とても大切な…世界で誰よりも愛しているハルジを救う事もできないのか?あぁ…ああぁぁ……ああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!!!!』
カッレラに予測されなくとも、イロ自身自分の状態くらい正確に把握している。魔術というものが万能なように見えて実のところ如何に不便なものなのかをイロはその身を以て知っている。
あの頃の自分は真の意味で魔術師と呼べる存在では無かったのだろう。所謂魔術を齧っただけ一般人。魔術師もどき。
魔術の不便さを理解できず、己の腕が未熟である事に納得できず、只管失敗作ばかりを作りながら運命どころか魔術の存在さえ憎むようになった愚かな人間。
無茶をやってのけ、無謀振りを反省などせず、蛮勇を繰り返したばかりで自らを省みる事の無かった人間の中に初めて生まれた『臆病』。
それを認めてくれたのも、それを大事にするよう進言してくれたのも、絶望に染まっていたイロを救ってくれたのも、伴侶たるハルジ=バウンドであった。
『自分を責めないで。私は君に救われた。君と出会っていなければ、私はずっとあの箱庭の世界の中で生涯を閉じていただろう。味気の無い、無機質で灰色に染まった絶望の世界から引っ張り出してくれたのは君だよ』
『己は「花」である君の為に戦士を辞めて君の太陽になる事を選んだ。愛しき君が歩む道を照らせるように。それなのに、照らされていたのは己だった。
省みずだった己を臆病という光で照らしてくれていたのは君だった。太陽だったのは己じゃ無くて君だった。己は…ずっとハルジに照らされていたんだ』
『私からすれば君は間違い無く太陽だよ。でも、その苛烈さにはやはり反省を促したいところだね。何回も言っているけど、君はもっと臆病になるべきだ。
周囲を見ずに突き進めば、何時か盛大にこける。失敗する。恐怖を知らない者は恐ろしくもある代わりに案外脆いものだよ。今の君のようにね』
外の世界に出る事に臆病だったハルジを連れ出し、愛しき『花』が迷い無く歩けるように道を照らす太陽となる。そう心に誓ったイロの方が何時の間にか照らされていた。
無茶で無謀で蛮勇で。何者をも恐れず突き進んでいた自分がこけないようにほんのりとした温かい陽光で優しく包んでくれた太陽。
『ハルジ…!!』
『私の世界は君に出会って色付いた。灰色の蕾だった「花」は君という輝かしき「色」に「恋」をして花開いた。この人生に悔いは無い。君との約束を果たせない事だけは残念だ。でも、心配しないで。
私は君の中で生き続ける。君の中で私という「花」はいつまでも揺れ続け、咲き続ける。君という太陽が在る限り。
私もそうだ。命尽きるその時まで、そして死んだ後でさえ君という太陽は私の魂を照らし続けてくれる。そうだろ?」
『あぁ…あぁ!!勿論だ!!絶対に…絶対に約束する!!』
『それを聞いて安心したよ。…君には臆病で居続ける事の大切さをもっと学んで欲しいと思う。でも、君の勇敢さを失うような状態にだけはならないでくれ。
それは君の矜持であり信念だ。君が君である所以だ。私が…ハルジ=バウンドが惚れた一番の理由だ」
『いまさら惚気なんて、理知的なハルジらしくないよな本当にもぅ…』
『ハハッ。最期の最後くらい惚気させて欲しいよ。普段はとてもじゃ無いけど恥ずかしくて言えないんだから』
もうすぐ消える。命の灯火が。勇敢なる人間を包んでくれていた太陽が。満開に咲き誇っていた『花』は、散り逝く間際になってなお懸命に愛しき人の為に言葉を紡ぐ。
『もし、私のように弱かったり苦しんでいたり恐がったりしている人達がいたら勇気を出して助けてあげて欲しい。
もし、君のように無茶ばっかりする無謀で蛮勇な人達がいたら君がその人達に臆病の大切さを説いて欲しい。
君にならできる。私の伴侶なら絶対にできる。何たって、私が惚れた人だからね。お願いだ』
『ハルジ!!』
『……好きだ。ずっとずっと大好きだ。………愛してるよ―――』
あれから幾度涙の夜を過ごして来ただろうか。幾度もの後悔に襲われてきただろうか。ハルジの体調の異変に気付く事ができなかった己を幾日も責め続けたイロは、やがて涙の枯れ果てた瞳をゴシゴシ擦りながら立ち上がった。
ハルジと一緒に暮らしていた住み家にずっと閉じこもっていたイロは、ヨロヨロとした足取りで家の扉を開け外へ出る。
そこに待っていたのは、夜明けしたばかりの眩しい太陽の光だった。朝の陽光にその身を包まれるイロは亡き伴侶の温かさを思い出し、胸にその温かさが残り続けている事に気付き、ようやく面を上げた。
魔術を齧っただけの一般人でも無ければ魔術師もどきでも無い。戦士たる魔術師イロ=コイが誕生した瞬間だった。
(約束だ。これはハルジとの約束だ。己はあいつを絶対に止める。ここで踏ん張らなきゃ、『多からなる一』の皆にもハルジにも顔向けできねぇよ!!)
(目付きが変わった!来るわね…イロ!!)
衝撃波から体勢を立て直したイロは、片手に持つ『ウコンバサラ』に自身の魔力を注いでいく。
強烈な稲光が蠢く雷槌はカッレラにとって最も大きな警戒対象だ。手が塞がるのを承知でイロが今なお持ち続けているのを見る限り、やはりエリアスが『カレワラ』に仕組んだ自壊術式は本当のようだ。
(でも、どうするの?今の私ならあんたがどんな動きをしたって即座に反応できる。未知の認識阻害魔術だけが脅威だけど、幾つもの魔術を並行的に行使するのは如何にあんたと言えども疲労している現状から無理があるのはわかってるわ)
魔術にはそれに応じた魔力精製が必要である。今のイロは巨人化魔術にフィンランド神話魔術を同時行使中である。
そこに他の魔術に避けるだけの余力がどれだけ存在するかは甚だ微妙である。カッレラはイロの攻撃を待って仕掛けるか攻撃の前に潰すかを見定めていた。
互いに動きが止まり、緊迫した空気に雷の音だけが耳障りな音として木霊する。そして…遂に最終局面の幕が上がる。
「行くぜ、カッレラ!!」
最初に動いたのはイロ。右腕に構成中の巨腕をまるでロケットパンチの如き要領で限り無く水平に射出する。狙いは当然カッレラである。
「遅イ!!」
迫り来る巨人の腕に何らかの罠を仕掛けている可能性はある。特にあの蛇の鱗に覆われている左腕が気になっているカレワラは、まともに受ける事を由とせず俊敏な挙動でイロが放った巨腕を避けた。
地面に落着し回転運動でもって垂直に転げ回る巨腕は肘の先を地面に突き刺す形で動きを止める。
(イロの左腕…いえ、左手の挙動に注意!!あれで指差される事が魔術発動のトリガーになっている可能性が高い!!)
島に存在していた木々は全て大洪水によって流され身を隠す盾も無い現状では、巨人化魔術から解放されたイロの左手の動きに細心の注意を払う必要がある。
カレヴァンの圧倒的な速度で以てイロを牽制しつつ、隙を見て強大な一撃を打ち込む。シンプルだが、実に合理的な戦闘プランである。
「ハアアアアアアアアアァァァァァァァッッ!!!」
イロが雄叫びを放ちながら、雷槌『ウコンバサラ』の投槍を扱うような投擲体勢に入った。雷槌から迸る雷はイロを中心とし円状に放射される。
『ウコンバサラ』が『カレワラ』に、そして所有者に致命的な存在となっている以上何がトリガーになっているか知れたものでは無い。
イロは『ウコンバサラ』を『カレワラ』に叩き込む事を条件に挙げていたが、それが何処まで真実かは不明だ。この迸る雷に所有者なり魔道書なりが触れる事が条件となっている可能性も0では無い。
よって、警戒心を最大レベルまで上げているカッレラは突入仕掛けた体勢を一時ストップさせ、後方へ跳躍し距離を取る事で円状に広がる雷から逃れた。
「オラアアアアアアアアアアァァァァァァァッッ!!!」
動きが止まったカッレラ目掛けて、イロは『ウコンバサラ』を投擲した。雷で空気を膨張させ爆発的な推力を得た雷槌は猛スピードでカレヴァン目掛けて飛来する。
正確にはカレヴァンの周囲を一定間隔で飛び回る『カレワラ』が標的。青白い雷と化した『ウコンバサラ』は
シンボルの蛇のようにジグザク軌道を辿りながら標的を射抜く為に突貫する。
「舐メルナ!!」
強化された『樫切りの巨人』の反応速度でもこの一撃を交わす事は難しかった。だから、カッレラは跳躍前から対抗策を実行していた。
それが『樫切りの巨人』の縮小化。カレヴァンの伝承では、元は小さな小人が巨人に変貌したというのが一連の流れである。
故に、カッレラは自身の身体を自在に拡大・縮小できる。今回で言えば、十数メートルだった巨体を3メートル程の小ささまで一気に縮小した。
これもまた天を覆う樫の木を切り倒した巨人をモチーフにした体積変換術式の真骨頂。そして、縮小した体格に合わせて一定間隔を飛ぶ『カレワラ』の挙動も変化する。
イロが投擲した『ウコンバサラ』は、縮小化に合わせて挙動を変化させた『カレワラ』に掠る事すら無く空振りに終わった。
(この隙を逃さない!!)
3メートルに縮小し却って挙動速度が増した状態となったカレワラは、投擲後の隙だらけのイロへ向かって疾走する。
渾身の『ウコンバサラ』が空振りに終わった今、気を付けるべきは未知の蛇魔術のみ。他の属性魔術を行使したとしても、全て看破し踏破してみせる。
グッと勝利に近付いたカッレラは、しかし自身に降り掛かる脅威を前にしても微動だにしない眼前の青年を見て背筋が寒くなるのを感じた。
その予感は後方からバチバチと聞こえて来る雷の迸る音から確信に変わる。
(地面に突き刺さった巨腕が『ウコンバサラ』を!!?)
後方を振り返ったカッレラが目にしたのは、イロが射出した挙句地面を転がり肘の先から突き刺さった巨腕の手が飛来した『ウコンバサラ』を掴み取り、『ウコンバサラ』の推進力で以てその場を高速回転した後に巨腕が爆発すると同時に再び『ウコンバサラ』が投擲された光景だった。
疲弊したイロが完璧に体系の異なる巨人化魔術とフィンランド神話魔術と蛇魔術を三つ同時に行使する事は不可能と読み、隠し玉である蛇魔術をここぞという場面で繰り出す為に他の二つの魔術を早期に切り捨てる事―第一候補は言うまでも無く巨人化魔術である―を想定していたカッレラ。
だが、イロはカッレラが警戒していた蛇魔術を一切発動せずここぞという場面になった今も巨人化魔術とフィンランド神話魔術の同時使用に徹した。
かつてのイロならカッレラの想定通りのプランを遂行していただろう。だが、今のイロは愛しき伴侶との約束の為に臆病なる慎重さと戦士たる勇敢さを兼ね備えた魔術師になっていた。
(避けられな…!!!)
イロに突っ込んだ体勢となっていた為に如何に速度を増していたとしてもカッレラは避けられない。体積変換魔術も間に合わない。もし間に合う術があるとすれば。
(『カレワラ』!?)
自動的に即興複合術式を発動できる『カレワラ』を置いて他に無い。カッレラの背中に悪寒が走った瞬間から、カッレラの無意識に反応するように『カレワラ』は対抗策となる術式を組み上げ始めた。
カッレラは感覚的にわかる。これは北欧神話の巨人ユミルの術式だ。身体の部位から有象無象の巨人の肉体を即座に生み出し、『カレワラ』の盾として『ウコンバサラ』から逃れる考えなのだ。
実際に防げるかどうかはわからないが、それでもあると無いとでは回避成功の確率は天と地ほどの差が生じる。
(それだけは…駄目!!!)
事ここに至り、自身の命の危機にも関わらずカッレラは『カレワラ』の即興複合術式を己の意思で拒否した。
所有者が魔道書を拒否する事がどれだけ命知らずな行為なのか、『ウコンバサラ』から逃れる為の最適解を提示しようとした『カレワラ』の行動を止める行為がどれ程自分の命を危険に晒す事なのかカッレラは理解も納得もした上でそれでも中断させた。
今の自分にとって、『少数派』を代表すると謳った自分がもう一度『多数派』の魔術を使用すればそれは自身の正義の否定に繋がる。
魔術師としてそれだけは絶対にしたくない。そんな悲愴な決意が生んだ葛藤の間に、容赦無く『カレワラ』内の物語における主神ウッコが雷槌は魔道書を射抜く。
「ガハッ…!!」
『カレワラ』が貫かれ、凄まじい雷光の中に消えていく中所有者であるカッレラもまた自身の心臓が高鳴る音を聞いた。
息が荒くなる。意識が明滅する。体中の感覚が無くなっていく。これがイロと『カレワラ』の著者エリアス=リョンロートが仕掛けた抹殺術式なのだろう。
(負け…か)
息も絶え絶えになり、意識が保てなくなりつつあるカッレラは道半ばで果てる運命に歯噛みしつつも、何処かスッキリとした表情を浮かべていた。
全力でやった。自己満足で欺瞞だらけの自分の正義を最期の最後に貫く事ができた。でも、もし生まれ変わってまた魔術師になる事があったなら、今度はもう少しだけ緩めの正義を持ちたい気はする。
『多数派』や『少数派』に拘って自分の扱う魔術に制限を設けて道半ばで死ぬなんて、普通に考えたら本末転倒もいいところだ。
『道理を通すには相応の犠牲や悲劇が伴う』在り方に『必要な時は「多数派」だの「少数派」だのに拘らない』という文言を追加してもいい。
これは決して諦めとかじゃ無い。道理を通す為に手を汚す必要があるなら、道半ばで死ぬなんて事にならない為には、メジャーな魔術を使ってでも押し通す事も必要だ。
「あぁ…ここまで、か」
立っているのか倒れているのかすらわからなくなったカッレラは少しだけ表情を緩め、僅かに笑みを浮かべながら虚ろな瞳を閉ざそうとする。
もう力が入らない。『カレワラ』を射抜かれた瞬間よりもっと前、『カレワラ』の即興複合術式を止めた瞬間からもうカッレラは自分の生を諦めていた。
その時浮かんだ複雑過ぎる感情は自分でも理解できなかった。そして、もう理解する時間すら存在しない。自分はもうすぐ死ぬ。
「『ここまで』じゃ無ぇよ。『ここから』だよ。己“達”…『多からなる一(イ・プルーリバス・ウナム)』が歩む長く険しい道は」
死を覚悟し意識を手放す間際、少女は自分を抱きかかえる若き老人の凛とした覚悟に満ちる声が聞こえた気がした。
それは、死を受け入れた少女にとってどんな意味を持つ言葉だったのか。それもまた、意識を手放す少女が理解する時間は存在しなかった。
「うんっ…」
死を受け入れた少女のまどろむ意識が付近から聞こえて来る漣の音によって少しずつ覚醒し始める。
どうやら死後の世界というのは本当にあったらしい。魔術師の癖に死ぬまで死後の世界の存在に疑問を抱いていたのは果たして健全なのか異常なのか、少女にはわからない。
とりあえず、靄の掛かった視界を晴らさないとどうにも身動きが取れない。少女カッレラはぼやけた視界を何とかする為に何度も目を擦る。
「ようやくお目覚めかじゃじゃ馬姫?」
「イロ…?」
何という事だ。死んだというのに、この期に及んで自分の瞳が映すのはイロの幻覚とは冗談でも笑えない。
それかこれもイロの魔術だったりするのか?『ハワイキ』には死者の魂と交信できる特性がある。成程。つまり、私は『ハワイキ』の特性で魂だけ再び現世に戻ってきたという事か。
「何よイロ。『ハワイキ』を使ってまで死んだ私を現世に呼び戻すだなんて、まだお説教でもしたいの?」
「…おい。何時まで寝惚けてやがる」
「寝惚けるも何も、私はもう死んで…」
「あっそ。なら、このチアリーディング風の服も下着もいらねぇってわけだな。風邪を引かねぇように折角乾かしてやったっつーのに。まぁ、死んだんなら服の一つや二つどうこう言わねぇよな?」
「服?下着?…………ッッッ!!!」
顔が瞬く間に紅潮する。羞恥心が瞬間沸騰する。カッレラは目を擦っていた腕を使って自身の着衣の状態を確認する。
上布団のように布が掛かっているが、その下は一糸纏わぬ姿だった。イロが指差す方向に自分の着衣が全て干されているのも確認した。
死んだら全員裸になる?そんなわけ無い。そんなあの世なんか絶対信じない。つまりここは現世でしかも肉体的な感覚が健在という事は、ようするにカッレラは死んでなどいないのだ。
「そんなに恥ずかしいのか?己が女の時は『ハワイキ』の大浴場で一緒になるじゃねぇか」
「それとこれとは話は別!!第一今のあんたは男でしょ!!?」
「テメェだって己がこの姿になった時己の全裸を拝んでたのに何一つ恥ずかしがらなかったじゃねぇか」
「昔と今じゃ事情が違うでしょ!!!もう!!!」
風邪を引かない為にとはいえ着衣を脱がされた恥ずかしさは甚大だ。確かに女状態のイロが女性用の大浴場に入って来る事は日常茶飯事だ。
最初は抵抗感があったが何時の間にか慣れてしまった。元々女性だったのかもしれないという理由もあるし、何より『ハワイキ』の大浴場には男湯・女湯と共に混浴を謳った浴場もある事が大きい。
日本の特撮に詳しいカッレラなんかは、日本の混浴露天風呂の存在を知っていた事もあってすんなり受け入れた方である。
しかしながら、これは恥ずかし過ぎる。まるで小さい娘の風呂の世話をする親のような構図ではないか。
「目覚めたばかりだっていうのに元気なこって。その調子ならもう大丈夫だな」
「…どうして私は死んでないの?『ウコンバサラ』は確かに『カレワラ』を射抜いた。『カレワラ』も消滅した。もしかして、あんたかエリアスのどちらかの術式に不具合でも…」
頬が真っ赤なカッレラの抗議に面倒くさ気に応対するイロの投げ掛ける言葉にふと少女は冷静になる。
自分は死んだ筈だ。『ウコンバサラ』は確実に『カレワラ』を捉えた。エリアスが『カレワラ』に潜ませておいた術式は発動条件を満たし、『カレワラ』と所有者カッレラを抹殺する手筈だった。
それなのに未だカッレラが生きているという事は、何か予期せぬ不具合が『ウコンバサラ』もしくは『カレワラ』に生じていた可能性が高いと少女は踏んだ。
「あぁ、それな。そりゃ己の嘘だ。良かったな」
「なーんだ。嘘だったのね。それは良かった良かったってんなわけあるか馬鹿老害!!!」
「うるせぇ!!巨人化してない状態でもマジでうるせぇな!耳が痛ぇ!!」
踏んだのだが、それがイロの吐いた真っ赤な嘘である事を知った今のカッレラはまさに怒髪天を衝いた鬼のようだ。
そこからイロが明かしたのは、エリアスが生きていた時代に自分はまだ生まれてなどいなかった事、『カレワラ』にカッレラが完全に馴染む前にカッレラに『カレワラ』に対する不信感を抱かせる必要があった事、
『ウコンバサラ』は一度使えば崩壊する試作品で虚言に具体性を付加させる為に『ハワイキ』の何処かにあるイロ専用の霊装保管庫から引っ張り出して来た事などまぁ色々である。
あらかた聞き終えたカッレラは酷く疲れたような表情になり、もう一度地べたに寝転がった。
「ハァ~。何か一気に疲れが出たわ。ビクビクしてたのが余りにも馬鹿らしくて恥ずかしくてその辺に穴があったら引き篭もりたい気分だわ。…でもおかしいな。私は確かに最後の場面で『カレワラ』を拒否したのに、『カレワラ』はまだ私を所有者と認定してるのは…」
「そりゃテメェが意識的に拒否したとしても、実は心の底では『カレワラ』を求め続けているのを魔道書が見抜いているんだろうさ」
「…ハァ~。私って欲張り屋さんなのね。目的を成し遂げる為には『多数派』の魔術を使ってでも…なんて心の何処かで思ってる。『少数派』を代表しようとした人間がよ?呆れてるでしょイロ?」
「呆れるかよ。……正直己はテメェのやり方が“認められない”けど“好き”だからな」
「…なにそれ。ハァア…まぁいいわ。どっちにしろ、私はあんたに負けた。『多からなる一』は私を裏切り者と認定した。そして、私は事件の首謀者として処刑される。もう抵抗なんてしないから好きにすれば?」
悟った風に乾いた笑いを零すカッレラは、既に覚悟は決めていた。『多からなる一』が厳重に管理していた魔道書原典『カレワラ』を奪取し、組織を存亡の危機に陥れた事実は揺るがない。
事を成そうとする前に外部の人間や刺客の働きによってカッレラの目論みは破綻した。カッレラはイロに敗北した。『独り』のカッレラは結社メンバー総出の援護を受けたイロに打ち負かされた。
『少数派』が『多数派』に挑み敗北した末路はどれも悲惨なものである。どのような辱めを与えられても、どのような苦痛を与えられても受け入れざるを得ない。
「そっか。そんじゃ…」
抵抗の意思を見せないカッレラの覚悟に満ちた顔を見たイロは指先に火の玉を浮かべる。何らかの火属性魔術を行使し、灯す指先をカッレラへ向けて発射する。
「やっぱりこうなるよな」
「『カレワラ』が私を守って…?」
「カッレラ。どうやら『カレワラ』は所有者を傷付ける事に断固反対のようだぜ?」
半ばこうなる事を確信していた―発射した火の玉もカッレラに当たる直前に停止させる予定だった―イロは全く驚かず、所有者であるカッレラのみが目を丸くする。
『カレワラ』の迎撃術式は所有者への攻撃にも反応するようになっている。これは、『カレワラ』が一段とカッレラに馴染んでいる証左でもある。
「で、でもあんたならエネルギー源の地脈なり龍脈なりに干渉して魔道書の働きを弱める事だって…!私は結社を裏切った重罪人よ!?皆だって私を裏切り者として…!!」
「カッレラ。もう一回聞くわ。何で己が『多からなる一』の皆を説得して単身ここにいると…テメェの刺客に名乗りを挙げたと思ってやがるんだ?」
「そ、それはあんたが『カレワラ』にとて有効な手段を持っていて……じゃなかったわね。嘘だったのよね。そ、それじゃどうして……」
カッレラには理解できない。イロ程の魔術師なら『カレワラ』を一時的に
行動不能に陥らせる策を講じれる筈。その時間もあった。何と言ったって、先程までカッレラは意識を失っていたのだから。
文字通り頭を抱えてしまった少女に深い息を吐く若き老人は立ち上がり、裸身を布一枚で包んでいるカッレラの前で中腰になり、自身の顔を少女の目と鼻の先まで近付けた。
「決まってんだろ。テメェを守る為にだよバカヤロー」
「ッッ!!」
「他の連中だとテメェを殺しかねなかった。できるかどうかはさておいてな。他にも『カレワラ』の強大な力を前に手加減できずにどうしてもテメェを殺さざるを得ない奴もいただろう。
そして、テメェもまた結社のメンバーをその巨大過ぎる力で殺しかねなかった。テメェが望むにせよ望まないにせよ。
それによ、テメェの事を心配してる奴も結構いた。例えばアーシィとかな。あいつ、己に『お願いします!カッレラちゃんを殺さないで下さい!!』ってずっと頭を下げてたぞ。
テメェの目論見を大体察していた奴の中にはテメェの意思に共感するメンバーもいた。勿論己だってテメェを心配した人間の一人だぞ」
イロは甚大な衝撃によって言葉を失ったカッレラに静かに優しく語り掛ける。『多からなる一』のメンバー全員は、確かにカッレラを止める為に少女の暴走を食い止める敵となっていたのかもしれない。
だが、それは少女の取った行動に対してでありカッレラに対する明確な敵になったわけでは無い者達も多い。
カッレラの思惑を察したメンバーの中には彼女に共感する者すらいた。多かれ少なかれ、皆もカッレラが抱く理想に何かしら心を動かされたという事か。
無論カッレラに対して怒りをブチ撒けたメンバーもいた。誰もが皆右往左往していた。故に、結社の中で最年長である老人イロは皆を説得し単身でカッレラを食い止めるべく出撃した。
全てはカッレラの暴走を、目的遂行を止める為。侵略者として抹殺に動く十字教から、そして裏切り者として処刑を叫ぶ者達から一人の少女の命を守る為。
「まぁ、事がここまで進んだんだ。テメェや他の反逆者には何らかの罰なり枷なりは課せられるだろうが、処刑にまで発展するような事態にだけはしないつもりだ。
そこまで踏み込むと『多からなる一』が内部分裂を起こしかねない。やれやれ。これからが大変だ……カッレラ?」
「グスッ…グスッ……私、私……『独り』じゃ無かったんだぁ……!!皆から怨まれても仕方無い事をしたのに…切り捨てられてもおかしくない事をしたのに……ヒック、ヒック」
「…テメェはテメェなりに頑張ったよ。その行動力はマジで尊敬するぜカッレラよぉ」
「グスッ……なによぉ、こんな時も私の事子供扱いしてぇ……」
『独り』じゃ無い。その事実がこれ程までに嬉しいと感じた事は今まで一度も無かった。無造作に少女の髪を掻くイロの手の温かさが、ようやくカッレラの緊張を解く契機となった。
事を起こしてからずっと張り詰めていた。処刑されるのを覚悟した先程までずっと。でも、それも終わり。きっとイロはカッレラを処刑させたりなんかしない。
ガミガミうるさいが、その指摘はどれも適切な物ばかりだった老人がここまで断言するのだ。絶対に間違い無い。
「なぁ、カッレラ。テメェは今も弱小と呼ばれる民族や宗教の誇りを取り戻す為に戦いたいか?」
「……うん」
「なら、今回みたいな最終手段的な手法を採る前にできる事がないかもういっぺん考えてみろ。己の指図を受けるのが嫌ならテメェの存命を願い、テメェの意思に共感した奴に応える為にできる事がないかを自分の胸に問え。
テメェは若いんだ。若さゆえの過ちってのは誰にでもある。それを未来へ活かせるかどうかはそいつ次第だ」
「……あんたにもあったの?若さゆえの過ちってヤツが」
「……………あぁ。あったよ。今のカッレラとは比べモンにならねぇ程馬鹿でマヌケで愚かな己(テメェ)が犯した過ちがな」
「……そぅ」
大地に肩を並べて座るイロとカッレラ。特に、カッレラは隣に座るイロが見せる複雑な感情が綯い交ぜになった表情に思わず見惚れてしまう。
この若き老人が経てきた年月にどれ程の深みがあったのかを悟ってしまう何かがその横顔にはあった。
この人間が胸に秘める『悲劇』。それは、今のカッレラには想像の付かない程の絶望だったのか。そこから立ち直って現在があるイロの歩んで来た人生の最終的な目的地は何処にあるのか。
魔術師イロ=コイが何を目指しているのか、一人の魔術師としてカッレラは無性に気になった…が、それを問うような事はしなかった。
今の自分にはその資格が無いように感じてしまったから。唯今は、彫りの深い瞳に海の彼方を映す老人の横顔を見やるだけに留める事にした。
「おっ。来た来た」
「あれは…トゥルカワ?」
イロが嬉しそうな声を挙げたのでつられてカッレラも水平線の彼方に視線を向けた。そこにあったのは、美しき黒い鳩が力強く羽ばたきながらこちらへ向かって飛来してくる姿だった。
鳩の名はトゥルカワ。蛇神ンデンゲイを目覚めさせる鳥であり、一説には鷹ないし鷲の姿となる女神且つンデンゲイの妻とも称されるトゥルカワはイロが作り出した霊装でもある。
魔術で飛ぶのでは無く、羽ばたく事で飛行するので撃墜術式の効力を受け付けないトゥルカワはイロの現在地を何時如何なる時も判別できる。
これは言い換えれば敵対勢力にイロの居場所を悟られる危険性も存在しているという意味だが、トゥルカワはそういった干渉術式や破壊される程の直接攻撃を受けるとすぐさま自爆する。
この自爆に巻き込まれた者達には特殊な呪術が魔法陣として刻み込まれる。それは、蛇神ンデンゲイの呪いであり体内を流れる血流の勢いを加速化させ体内から血管を破裂させて絶命させるという極悪仕様である。
また、イロが別の魔術を付加させる事で鳩であるトゥルカワは人を乗せる程の大きさを有する鷹ないし鷲に変化する事もできる。
そんな美しき黒い鳩が次第にイロ達が佇む島へ近付いてくると同時に、水平線から輝かしき恒星が顔を出す。
「夜が明けた……あっ!あれは『ナンタヴェア』!後ろに見えるのは『ハワイキ』!?」
「現在地はトゥルカワの進路で判明するからな。…うん。ちゃんと己が教えた通りの陣形を組んでるな。『ナンタヴェア』は陣形を組んだ集団戦で真の効果を発揮するしな」
トゥルカワの後方に突如として姿を現したのは海上移動要塞型神殿『ハワイキ』と霊装船団『ナンタヴェア』の先遣隊である。
認識阻害の魔術結界を解除して出現した『ハワイキ』は停泊している時こそその辺の船と変わらないが、移動する際は『ナンタヴェア』と同じく海面に『乗る』形となる。
その為に航跡波が一切発生しないので魔術結界と組み合わせる事で外界に察知されない態勢を取る事ができている。
また、『ナンタヴェア』は船団として様々な陣形を取る事で蛇神ンデンゲイの加護を得る事ができる。加護の種類は色々あるが、おおよそ航海時に役立つ物ばかりである。
「さて、己も『両性産卵』でとっとと姿を変えないとな」
「別にいいじゃん。今のあんたの姿を見たら、皆あんたへの認識を変えると思うわよ?」
「だってよ、腰巻一丁の若い男と布切れ一枚の若い女が肩を並べて座っている光景なんか見られたら皆がどう受け止めるか。己はどうでもいいが、テメェはそういうわけにはいかねぇだろ?」
「…確かに。ねぇ、イロ」
「うん?」
「あんたの指図は受けないって言ったけど、それはあんたの指図で納得できない物に限った話だから。私自身それが理に叶っていると思ったら受け入れる……渋々だけどね!」
「…そっか。わかった」
この会話の直後『両性産卵』を食べてカッレラより小さな幼い女の子となったイロに呆れつつもクスッと吹き出してしまったカッレラの表情はどこまでも爽やかだった。
そして。先遣隊の『多からなる一』メンバーに拘束されるカッレラを見送るイロは、肩に黒鳩トゥルカワを乗せながらこれからの内部処理に頭を悩ませていた。
魔道書原典『カレワラ』の騒動から時は経ち、完全に平静を取り戻した『多からなる一』の本部『ハワイキ』は今日も今日とて大海原を航海していた。
『ハワイキ』内部には木々の他に多くの石造りの建物が立ち並ぶ。マジックアイテムや食料品などを売っている店もあれば、魔術研究所や各々が信じる神に祈る様々な社も存在する。
当然結社メンバーが住む一軒家や寮のような建物も存在するし、中央部には『多からなる一』の本部機能を備える大きな神殿がある。
多種多様な文化が垣間見える『ハワイキ』のとある表通りにて、チアリーディングの衣装にヒーロー然とした意匠が凝らされた服を着た少女と西洋式の服装とサンゴマの衣装が融合したかのような衣服を身に纏う少女が仲良く並んで歩いていた。
「ほうほう。日本の特撮物というのはそこまで工夫が凝らされたドラマに仕立て上げられているのですね。
わたくしからすれば、カッレラちゃん一押しの平成ライダーなる特撮物と他の特撮物は一緒に見えてしまうのですが」
「甘いな、平成ライダーの良さは子供の興味を引き付けるロボカッコいいビジュアルやイケメン俳優の甘いマスクのみならず。脚本家が絞り出した、単純な勧善懲悪の一言で語れない重厚なストーリーこそが真髄よ。
正義の味方が悪を蹂躙して終わり、な『御約束(ステレオタイプ)』じゃあ昨今の目の肥えた子供やマダムは惹かれないからな。他の特撮物とは次元が違う」
「成程成程」
傍に魔道書原典『カレワラ』を控えるカッレラと会話しているのは
アーシィ=リトルガーデンという名の少女。
南アフリカの祈祷師兼呪術師サンゴマに関わる魔術を扱う彼女は、結社において非戦闘要員の穏健的な魔術師である。
カッレラへの刺客となったイロにカッレラの助命を嘆願した一人でもあるアーシィは、カッレラにとって心許せる友の一人となっていた。
「こうしてカッレラちゃんと普通にお話できるようになって、わたくしすごく嬉しいです」
「…あの馬鹿老害が色々手を回してくれたからね」
「あらあら。仮にも『多からなる一』の暫定主導者となったイロ様にそのような口利きはいけませんよ。『めっ!』です」
「痛っ!やったなぁ、アーシィ」
「フフフ」
カッレラが拘束されて以降の流れを簡潔に説明すると、まずカッレラを打ち負かし捕獲する事に成功したイロはその功績を皆から認められた。
イロ自身は皆のおかげと謙遜したが、それでも尚イロの働きに異を唱える者は一人もいなかった。臆病者と蔑まれていた反動とでも言うべきか、見事『カレワラ』を所持するカッレラ相手に渡り合ったイロの戦い振りは皆がイロを見直す契機となった。
その上、『カレワラ』の所有者状態が続くカッレラを組織の長にするわけにもいかない事もあり、イロ=コイは『多からなる一』の暫定的主導者に選ばれた。
今まで『文化や民族に優劣はない』という理由で明確な主導者は存在していなかったが、危難に際し組織を導く主導者の重要性を今回の騒動で痛感したのだ。
また、結社が所持する魔導書に所持者と認められた者がボスとして候補に挙げられるのだが、反乱者であるカッレラを候補とするわけには絶対にいかない。
様々な事情が絡み思いがけず組織のトップに立ったイロは、慣れない立ち位置に戸惑いながらも一世紀近くに渡る膨大な魔術師経験から得た様々な知識や体験を糧に『多からなる一』運営の舵を切っているのだ。
「あらあら。ここまでおいで~です!……あっ。イロ様。おはようございます」
「うむ。おはよう。今日も体調は万全かの?」
「はい。おかげさまで」
「うむ。しかしまぁ、その様呼びは慣れんのう。敬称などわしは余り気にせんタイプなのじゃが」
「そういうわけにもいきません。主導者としての自覚をイロ様にも持って頂かないと」
「…ハァ。肩が凝るわい。おかげで、日々の仕事で魔術研究がちっとも捗らん。…おっ。カッレラ。息災ないか?」
「ふん。馬鹿老害に言われなくてもちゃんと元気だっつーの」
一方カッレラについての処分についてだが、カッレラにどうしても貫きたい信念があったとはいえ組織を存亡の危機に晒したカッレラ達反逆者に必要以上の手心を加えるわけには絶対にいかず、しかし処刑にまでいくとカッレラの意思に共感する者達の反感や不満を買ってしまう。
そこでイロは彼女達の意思に理解できる要素が散見された為今後二度とこのような事態を起こさない旨を記した魔術的誓約書を書かせる事を条件とし(これは処刑を含めた反逆者達の処分を求めた者達を納得させる為止むを得ない措置であった)、特例的に保護観察処分という形に収めた。
『組織全体に率先して敵を責めない臆病風を吹かせている』という批判を除けば結社メンバーからの信頼はかなり厚いイロだからこそ、そしてカッレラの暴走を食い止めた立役者である魔術師イロ=コイだからこそこのような処分に収める事が叶ったのである。
「相変わらず反抗的じゃの。命の恩人に対して、礼の一つや二つ素直に言えんもんかの」
「—―――うるせー馬鹿老害、絶対ありがとうだなんて言ってやんねー!!」
「あっ、逃げた。やれやれ。じゃじゃ馬姫は今日も変わらずか」
「まぁまぁ。カッレラちゃんは素直じゃ無い一面もありますからねぇ。でもでも、その意固地さは何かを成そうとする時に意志を揺らがせない原動力にもなる。わたくしは、そんなカッレラちゃんが大好きですよ。イロ様もそういうカッレラちゃんが実は好きなのでは?」
「……まぁの」
処分が下されて以降、イロとカッレラの付き合いはこんな調子が続いている。イロが自分の意思を汲んで温情を与えてくれた事に感謝はしているようなのだが、
カッレラ自身が照れ屋で感情を上手く伝えるのが苦手な上に同僚達にそれを弄られるのが嫌だからなのか素直になれない少女はイロを見ると何時も脱兎の如く逃走する。
意思を組んだイロとしてはカッレラの複雑な乙女心に溜息ばかり吐く。それでも、カッレラが少しずつ良い方向に変わって行ってくれている事を願うばかりだ。
「ふぅ」
年老いた老人の姿を取っているイロはアーシィ達と別れ、『ナンタヴェア』が格納されているとある『ブレ・カロウ』の屋根に一人立つ。
予想だにしていなかった『多からなる一』の暫定的主導者就任。正直戸惑う事も多いが、それ相応にやり応えもある。
自分はアメリカ合衆国の中で独自の連邦制度を確立させるに至った『調停者(ピースメーカー)』たる過去の偉人にして大英雄達に憧れた。
争い続けていた部族間に和解を呼びかけ平和の同盟を結び、歴史上初めて女性への参政権を認め、今なお強固な結束力を保ちながら部族国家集団を維持し続ける礎となった大英雄達のような人間になりたいと強く願った。
如何なる困難な道をも切り開き、未知なる遭遇に畏れなど抱かず、無知であったとしてもそれを恥とせず貪欲に己の血肉とし、胸を熱く焦がす好奇心が指し示す道無き道へ赴いたまま生きる事を望んだ人間は、様々な経験を経た後に「『大いなる個』に対する『多からなる一』たらん、世界の総意に対する抑止力たらん」という理念を掲げる魔術結社『多からなる一(イ・プルーリバス・ウナム)』のトップに立った。
自分が目指した在り方と現在の自分が立つ位置に何か因果のようなものを感じずにはいられないイロは、しかし迷いの無い光を瞳に浮かべながら『ハワイキ』の舵を切る。
己が成し遂げたい目的の為に。愛しき伴侶との約束を守る為に。戦士たる魔術師イロ=コイは今日もまた果てしない航海の旅へ赴く。
「さぁて、今日は何処に行こうか」
Fin
最終更新:2016年01月24日 01:27