朝の訪れはこの世界の誰にも等しくやって来る。窓から差し込む陽光と小鳥の囀りで間桐桜は目を覚ました。
寝ぼけ眼をこすっていると「おはよう、桜」と声を掛けられた。


「おはようございます、アーチャーさん」


傍らには優しく微笑む翡翠の弓兵がいた。彼女は桜が目覚めるといつも隣にいてくれる。
毛布から這い出てアーチャーが持ってきてくれた缶詰や携帯食料に手を伸ばそうとした。
けれど、今着ているコート―――これもアーチャーがどこからか持ってきた―――は大人用で袖が長く、一度脱いで裸にならないと食事ができないことを思い出した。

迷わず羽織ったコートを脱いで「いただきます」と言ってから食べはじめた。
この世界に来てからというもの、裸でいる生活にすっかり慣れきってしまった。間桐の家にいる時はそうではなかったと思うけれど。
多分もう、誰に見られたとしても何も感じなくなっているだろう。


「……桜。やはり私が身体に合った服を探して持って来よう」
「わたしはだいじょうぶです。アーチャーさんにはせいはいせんそうがあるんですから」


そんなマスターを見るアーチャーは後悔の念に駆られていた。いくら六歳前後の幼子とはいえ肌を晒して顔色一つ変えない桜の姿は現代に生きる人々の装い、感性と乖離しすぎている。
現界し、この目で人々の生活、営みを見てこそアーチャーは自らの生きた時代、世界との違いを思い知った。知識と実感にはやはり大きな違いがある。
文明的な暮らしを謳歌するNPCや他の多くのマスターと比べ、自分たちの何とみすぼらしいことか。


「…私はもうそろそろ行かなければならない。日付が変わるまでには必ず帰る」
「はい、行ってらっしゃい。アーチャーさん」


だが、それも聖杯を手に入れるまでの辛抱だ。どれだけ忌まわしくとも奇跡なくして桜を救うことは叶わないのだから。
けれど、逆に言えば聖杯を手に入れるまでは桜に今の生活を強いるということだ。その無情な現実がアーチャーの心を苛む。
いや、あるいは今の生活よりもさらに転落する可能性とて決して低くはない。今でこそ人の手の入っていないこのゴーストタウンだがいつ何者かの調査の手が入ってもおかしくはない状況だ。


(もし誰かが本格的に調べれば桜の居場所が発見される可能性は高い。しかしここ以上に人が暮らせる場所はどこにも……)


桜には見せないようにしているが、アーチャーの顔に苦悶の色が浮かぶ。
桜はあまりに幼く、優秀な魔術回路こそ持っているものの身を守る術は一切ない。魔術師やサーヴァントはもちろんそこらのNPCの子供にすら簡単に殺害されるであろうほどのか弱さだ。
そして体力も年齢に比例して貧弱。今よりも劣悪な環境に移って生きていられる保証はない。
今の生活でさえ桜の忍耐力に助けられて成り立っている側面が大きい。何よりこれ以上の我慢を彼女に強いたくはない。
とにかく、今の桜の居場所を誰にも発見されないよう自分が立ち回るしかない。仮令それが不可能に近い難行だとしても、だ。


(今日はあまり桜から離れていない場所で哨戒に徹するか)


正直なところ、聖杯戦争の趨勢とは別の理由でアーチャーは極力市街地に出なければならない理由がある。その理由とは物資の調達。
生活基盤そのものが酷く脆弱な桜のために様々な物資を奪い、持ち帰る必要があった。必要な物資とは食料に限った話ではない。毛布やコートなど夜の寒さを凌ぐものや蝋燭、ライターなどもだ。
知識として現代の情報が必要最低限付与されているとはいえアタランテにとって現代の街中で適切な物資を調達するのは酷く困難な事だった。

例えば食糧。先ほど桜が食べた携帯食糧―――確かカロリーメイトとかいう名称だったか―――や桃の缶詰も何度かの試行錯誤を経て桜が食べられるものとして通行人の買い物袋から失敬してきたものだ。最初の頃などは弓矢で仕留めた鳥や木の実などを持ち帰って冷たい視線を向けられたこともあった。
例えば衣服。必要最低限の現代知識しか持ち合わせないアーチャーには桜の体格に合った子供用の服がどこに行けば確実に手に入るかさえ未だにわからない。
また生前、神話の時代に熊に育てられたアタランテの価値観は現代人のそれとは著しく乖離しており、無意識的に衣服の調達をやや後回しにしてしまっていた。さらに言えば子供用の衣服を奪うということはつまり間接的に桜を助けるために他の子供を傷つける行為と同義であり、子供の幸福を願うアタランテにとって心理的抵抗が極めて大きかった。
本来ならこうした欠陥は今を生きる人間たるマスターの助力を得て解消されるべきである。だがまだ幼い桜にはそれさえも満足にできない。

そして最大の問題がアーチャーの特異な外見と霊体化に伴う制約だ。
他の人間の姿のサーヴァントと異なり獣耳に尻尾が生えたアーチャーではどう取り繕っても現代の街に溶け込むことなど不可能。地元住民に紛れて事を運ぶことができないのだ。
そして最大の問題が「サーヴァントは現代の物品を所持した状態では霊体になれない」という制約だ。
これがどういうことかと言えば、調達した各種物資を手に持ったまま、実体化した状態で、NPCにもマスターにも、サーヴァントを感知する能力を聖杯から与えられた他のサーヴァントにも見咎められずに拠点に帰還しなければならないということだ。
もし一度でも姿を見られ、拠点を割り出されればその後に待つのは破滅だけ。故に物資調達の際には常に細心の注意を払うことを余儀なくされた。


現状、アーチャーはその持てるスペックの全てを発揮できているとは言い難い。魔力供給の問題ではない。むしろマスター適性のみなら桜は優れた資質を持っているし、魔術行使ができないからこそアーチャーへの供給に全てを傾けられる。
問題はアーチャーが聖杯戦争に使える時間の短さだ。今のアーチャーは育児をしながら聖杯戦争に臨んでいるに等しい。


(これでは違反者の討伐に参加するどころの話ではないな……。
もっとも褒賞自体が我々にとっては意味のない代物だが)


討伐クエストのことは当然桜もアーチャーも既に把握している。NPCとはいえ子供が犠牲者になっているかもしれないことを思うと参加したいという気持ちはある。
だがアーチャーの冷静な部分が無意味だと告げている。桜の安全を思うなら他の陣営に注目される違反者陣営の存在は自分たちにとってはむしろ好都合だと。むしろ違反者を屠る狩人になったつもりでいる他のマスターの背を狙い撃つことこそ上策なのだと。

さらに言えば、間桐桜はそもそも令呪を使うという行為自体ができない。
令呪の行使とはマスターが強力な意思を以ってサーヴァントに命令を下すというプロセスを経て初めて発動される。単に命令しただけで令呪が発動するなら聖杯戦争では令呪の誤発動が多発することになる。
では問題だ。魔術の修練と称した虐待で自らの意思と呼べるものを徹底的に蹂躙・破壊された幼子が強固な自意識などというものを持てるだろうか?―――無論、否である。
アーチャーの想像さえ超えるようなよほどのきっかけがない限り、桜が令呪を使えるようになることは有り得ない。


「…自意識、か」


我知らず口をついて出た言葉を自覚して、重い気分になった。
今回、現界を果たしたこの世界はとても文化的で開明的だ。作り物の世界であるといえどそこには確かにモデルとなった、実際の街と人が世界のどこかには在ったに違いない。
そんな明るく煌びやかな世界とは程遠い、暗く貧しい環境に置かれているにも関わらず桜は一度として不平不満を漏らしたことがない。ないがアーチャーはそれが喜ばしいことであるなどとは到底考えられなかった。

せめて、何か一言でも我が儘を言ってくれたならば。良い生活をさせてやることさえできない無力な我が身に不平を言ってくれたなら、口汚く罵倒してくれたならどれほど良かっただろう。
不平や不満とは、裏を返せば願望や希望が存在するということだ。けれど今の桜にはそのどれもが無い。マスターとしての闘志など論外であろう。
桜は今の環境に対して不満を持っていない、あるいは満足している。客観的に判断できるその事実はアーチャーにとって受け入れ難いことだった。


「最早手段を選んではいられない、か」


今こそアーチャーは決断した。この先、他の子供を傷つける行動を取ることになろうとも決して迷いはすまいと。
サーヴァントとしての本分を思い出せ。この身は誰を勝たせ、誰に肩入れするために召喚された。
決まっている。間桐桜だ。全てを奪われた少女の未来だけは誰にも奪わせないために己は今ここにいる。
ならば自分の感傷など何ほどのことか。桜という前例がある以上、期せずしてマスターに選ばれた、選ばれてしまった子供が存在する可能性は―――なるほど確かに否定はできまい。
それでも、アーチャーは迷うことなくその不幸な幼子に対しても弓を引こう。誰よりも彼らに死んでほしくないと願ったまま、速やかに抹殺するのだ。
そうすることによって生じるであろう己の感傷も全て呑み込もう。桜が味わい続けた絶望に比すれば生前の自分の抱いた絶望さえあまりに軽い。


「―――ああ、でも」


一つだけ、不安になることがある。
子の救済を願う自分が他の子を傷つけ殺す。その矛盾の果てに聖杯に至ったとして、この身に抱いた宿願を果たせるのだろうか。

答える者は、いるはずもない。


【A-8/ゴーストタウン/一日目・午前】

【アーチャー(アタランテ)@Fate/Apocrypha】
[状態] 健康、精神的疲労(特大)、聖杯に対する憎悪
[装備] 『天窮の弓(タウロポロス)』
[道具] なし
[所持金] なし
[思考・状況]
基本行動方針:もう迷わない。どれほど汚れようとも必ず桜を勝たせる
1 この周辺を哨戒し、何かあればすぐ桜の元へ戻れるようにしておく
2 討伐クエストには参加しない。むしろ違反者を狙って動く主従の背中を撃つ
3 正体不明の死霊使い、及びそれらを生み出した者を警戒する



食事、排泄、就寝の時を除いて間桐桜はずっと廃屋の中でコートを羽織って座り込んだままでいる。
此処には何もない。楽しいことも悲しいことも、痛いことも苦しいこともない。
何もないということ。平穏であるということがどれほど尊く素晴らしいことであるのか、桜は間桐家に引き取られてから、そしてマスター候補として聖杯戦争に放り込まれてからの日々を過ごしてこそそれを実感した。


「……アーチャーさん」


そして、そんな時間と空間を用意してくれたのが他ならぬアーチャーだ。長く彼女と一緒に過ごせば、どれだけ自分に対して真摯に接してくれるのか、どれほど心を砕いてくれているかぐらいはわかる。
幼い桜にあまり論理的な思考はできない。それでも自分が汚れきってしまっているということは何となくは理解していた。アーチャーがそれを知りながら自分に尽くしてくれていることも。

彼女にあまり苦しい顔や悲しい顔はしてほしくない。傷ついてほしくはない。そう思う程度には桜はアーチャーに懐いていた。
せめて迷惑はかけないようにアーチャーの言いつけは守ろうと決めていた。


「…ずっと、こんな時間がつづいたらいいのに」


窓から自由に羽ばたく鳥が見える。けれど羨ましいとは思わない。
小さな箱庭の中でも平穏に生きていられれば、それだけで良い。聖杯への願いなどは浮かんでこない―――あるいはあったかもしれないけれどもう忘れてしまった―――けれど、せめてこの時間を大切に噛みしめようと思った。
どうしようもなく訪れる終わりの時を心のどこかで感じ取りながら。


【間桐桜@Fate/Zero】
[状態] 健康
[装備] 大人用コート(下は全裸)
[道具] 毛布
[所持金] なし
[思考・状況]
基本行動方針:アーチャーさんの言いつけを守ってじっとする
1 …アーチャーさんにぶじでいてほしい

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最終更新:2016年01月04日 00:45