聖杯戦争が始まっても、越谷小鞠の日常は何ら変わる気配を見せてはいなかった。
 朝起きて、朝食を食べて、歯を磨いて、顔を洗って、家を出る。
 少しの眠気を抱いたまま校門をくぐり、教室に行くと友達が話しかけてくる。
 強いて言うなら、その顔触れにだけは未だ慣れるということがない。
 皆、悪い人ではない。
 むしろその逆だ。
 環境の変化に戸惑って、ぎこちなさを時々見せる自分と離れることなく付き合ってくれている。
 でも、これだけはどうしようもなかった。
 小鞠にとってのクラスメイトと言えば、それは今でも、あの分校に通う皆を意味していた。

 流行りの服屋がどうだとか、新しい喫茶店がオープンしたから今度行こうだとか。
 そういった、あの田舎では聞かなかったような話題ばかりが飛び込んでくる。
 それに合わせて笑っていると、程なく担任の先生が入ってきて、ホームルームへ。
 チャイムの音が鳴り響き、ホームルームが終わって、少しの休み時間の後に授業が始まる。
 都会の学校で受ける授業の内容は、田舎の学校に比べるとずっと難しかった。
 問題集を解くだけということもあってマイペースに進めた頃とは違い、ここではある程度の速さで授業が進む。
 ノートを取って、黒板に書き出された問題を解き、チャイムが鳴ってまた休み時間。
 当初はなかなかどうしてハードに感じたものだが、今となってはこれにもすっかり慣れた。

 理科と数学という何とも眠くなる教科を終えて、三時間目。
 時数は担任が受け持つ教科の国語でカウントされているものの、内容は所謂ロングホームルームに急遽変更された。
 理由は、近付いている宿泊研修に向けての事前準備。
 冬休み初日から数えた二日間を使い、北海道の某所へと研修に向かうのが、二年生の恒例行事なのだという。

 身も蓋もないが、小鞠には関係のない話だ。
 聖杯戦争がどの程度長引くかにもよるだろうが、一ヶ月間も掛かるとは流石に思えない。
 となると、行く予定もない行事の準備をせっせとしているようなものであり、何ともいえぬ虚しさがあった。
 班の面子は、小鞠と普段から仲良くしている人物が二人。残る一人は、喋ったことのない物静かな子だ。

 物静か。
 そう言ってしまえばそれまでだが、小鞠個人としては、彼女は少し不思議な相手だと思っていた。
 別に人見知りというわけでもないようなのに、その少女はいつも輪の外にいる。
 教室内のどのグループにも所属することなく、それどころか必要がなければ一日中誰とも言葉を交わすことなく。
 ぽつんと自分の席に座っていて、時たま教室を出て行っては、気が付くと戻ってきている。
 そんな少女だった。どこか、冷たい印象を周りに与える少女だった。
 名前は確か、奈美。青木奈美――だったはずだ。

「小鞠? 聞いてる?」
「え? あっ、ごめん。ちょっとぼーっとしてた」
「もう、何してんのよ。小鞠と青木さんで視聴覚室行って、宿泊研修のしおり取ってくるって話だったじゃん。
 保護者向けの方と生徒向けの方で二種類あるから、一人だとちょっと厳しいし」

 びっくりした。
 ちょうど、彼女のことを考えていたタイミングだったからだ。
 そういえば、確かにそんな話をしていたような気もする。
 クラス委員たちが精魂込めて作ったしおりを、各班で取りに行くようにと、そんなアナウンスがあった――ような。

「まったく、しっかりしてよねー」
「あはは……ごめんごめん。それじゃ行こっか、青木さん」

 こくり。
 首肯して彼女が立ち上がったので、それを先導するように歩き始めた。
 会話は、当然ながらない。
 あちらから振ってくることはまずないだろうし、かと言って小鞠もどんな話題を振ればいいか分からない。
 そんな有様だから、この沈黙は当然のものといえた。

 元々青木奈美という少女は、当然のように班決めの流れからあぶれていた。
 これも田舎ではなかったことだが、都会の女子グループはかなり生々しい。
 小鞠の周りの人物は然程でもないものの、中には昼ドラも真っ青のドロドロ模様を呈しているグループもあると聞く。
 そういった連中にしてみれば、良く言えばクールビューティーに、悪く言えばお高く止まっているようにも見える彼女は格好の反感の的だ。実際に、彼女が陰口を叩かれているところを小鞠も何度か目撃している。
 しかしそこは、居た堪れない空気になる前に気を回す生徒が必ず居るものだ。
 それが小鞠の班の一人だった。奈美を班員に快く受け入れ、そうして今に至る。
 これだけ見れば、別によくあるような話。
 だが、いざ同じ班になってみて――小鞠はどうも、この無口な少女のことが気になっていた。

 劇的なエピソードがあったわけじゃない。
 それどころか、話したことさえ、まともにない。
 なのにどうしてか、気になる。

 ――奈美はとても、冷たい目をしていた。
 どうしてそんな目をするのか。
 一体、彼女は何を抱えているのか。
 うまく言えないが、黒々とした事情こそあれど概ね平凡な日常の中で、彼女は明らかに浮いた存在に見えた。

「あ、青木さんはさ」

 明らかにぎこちなく、話を切り出してみる。
 見切り発車にも程がある会話のスタートだった。
 そもそも何を話せばいいのかもろくにわからないまま一歩踏み出したものだから、目がどうしても泳いでしまう。
 奈美の視線が、小鞠に向く。
 気まずい沈黙が流れることがないように、とりあえず手頃に宿泊研修の話題でも振ってみようと思い立ち。

「今回の研修旅行で――」

 そこまで言ったところで。


 視界の先に見える、クリーム色の外壁が――砲弾でも打ち込まれたかのように弾け飛ぶ瞬間を、見た。



 呆然と、ただ目を見開く。
 何が起きたのか、理解が全く追いつかない。
 補足すると、ここは三階だ。
 断じて、運転を過った車が飛び込むような高度ではない。
 では、何が。
 一体何が、こんな現象を引き起こしたのか。
 その答えは、風穴の空いた壁面の中央に佇んでいた。
 怖じることも、隠れることもなく、堂々と。

 黒い甲殻の怪人が、赤く輝く拳を握り締めていた。


 日常が崩れ去る。
 廊下には悲鳴が轟いて、我先にと生徒たちが逃げ出していく。
 生徒だけではない、教師までもが、逃げていく。
 不審者対策のマニュアル程度は頭に叩き込まれているだろう彼らのそれは、あくまで対人用のものでしかない。
 人ですらないモノを相手にどう立ち回るかは、教えられていないのだ。

「走ります」

 ともすれば腰が抜けそうになっていた小鞠の耳元で、声がした。
 次の瞬間、隣に居た奈美が、小鞠の手を掴んで走り出す。
 速度は比較的速かった。しかしそこは田舎育ちだ。
 付いて行くのは難しくない。それに彼女のおかげで、我を取り戻すこともできた。

「青木さんっ、何、あれっ」
「……貴女には、関係のないものです」

 その口振りは、いつも通りの淡々としたものではなかった。
 どこか苛立ちを含んだ――様々な感情が綯い交ぜになった台詞だった。

 階段を下り、走る。
 すると、逃げてくる生徒の波が立ちはだかった。
 倒れてしまうことがないように、一度だけ奈美の手を離し、人をかき分けて進む。
 どこを目指しているのかなんて定かではない。
 ただ、あの化物から逃げる必要がある。
 頭の中にあるのは、それだけだった。

 そして、それがいけなかった。
 群衆がひとしきり通り過ぎた後、そこに級友の姿はない。
 あ、と声が出た。
 ……どうやら、はぐれてしまったらしい。
 幼い頃に、町の方に買い物へ連れて行ってもらった時のことを思い出す。
 慣れないタイムセールの人混みに揉まれて家族とはぐれ、結局は迷子センターに保護してもらった。
 その時にも似た心細さが、小鞠の胸にはあった。

 ――小鞠は、あの化物を定義する言葉を知っている。あれはサーヴァント。聖杯戦争の、参加者だ。


 越谷小鞠はマスターである。
 しかし彼女はこれまで、サーヴァントとの戦いを経験したことがない。
 慣れない日常を精一杯謳歌しながら予選を終え、ここまで勝ち残ってきた。
 聖杯戦争とは、本来こういうものだ。
 いつ如何なる時も敵襲の危険があり、しかも敵は人間を遥かに超えた存在。
 小鞠は今、初めてそれを実感した。
 ひとりになって、奥歯が震え始める。
 怖い――あの黒いシルエットを思い返すだけで、背筋の産毛がざわつく。

「気を確かに持ってください、マスター」
「……リリィさん……」

 それでも、彼女は決してひとりではなかった。
 小鞠もまたマスターの一人なのだから、当然、一騎のサーヴァントを使役している。

 きめ細やかな金髪に、シミの一つもない肌。
 浮世離れした可憐さを有した、サーヴァント・セイバーが実体化する。
 彼女こそはブリテン由来の少女騎士。
 やがて騎士の王となるさだめを抱えた、花の旅路を往く前日譚(リリィ)。

「あのサーヴァントを野放しにすれば、きっとこの学校へ危害を加え始めるでしょう。
 誰かが止める必要があります。それも、同じサーヴァントが。そうでなければ、事態はきっと最悪の方へ向かってしまう」
「……リリィさん、もしかして――」
「はい。出て、迎え撃つつもりです」

 毅然と言ってのけるセイバー・リリィに、小鞠の表情が不安に曇る。
 それを見て、リリィは安心させるように微笑んだ。
 彼女はそうすることを嫌がるだろうとも思ったが、その小さな頭へと手を置き、左右に動かす。

「大丈夫です。私は未だ半人前ですが、これでもサーヴァント。それなりに腕は立つつもりですので」

 数秒の時間があった。
 それから、小鞠はこくんと頷く。
 その意味は、ひとつだ。

「必ず、帰ってきてくださいね」
「勿論です。では――参ります」


 頷き返して教室を出るなり、リリィは全力で床を蹴った。
 加速する。英霊としての身体能力が、彼女を一陣の風に変える。
 階段を駆け上がれば、此方へ向かってくる黒い英霊と目が合った。
 飢えている。
 より激しく、熾烈な戦いに飢えている。
 そういう目だと、一目で分かった。
 黒い英霊――恐らく、バーサーカーであろう――は視線の交錯の後に踵を返し、自らが空けた壁の大穴から外へと飛び出した。この向こう側には、校庭がある。
 誘っている。
 その意図が分からないほど、リリィは馬鹿ではない。

「――いいでしょう」

 しかし、退くのは論外だ。
 マスターを守るために、この世界の仮初の営みを守るために。
 あのバーサーカーは止める必要がある。
 そしてそれこそが、今、この場の自分が立ち向かうべき難行だと理解した。


 セイバー・リリィも、穴へと飛び込む。
 冷たい外気が押し寄せるのを肌で感じながら、彼女は選定の剣を抜き放った。


  ◇  ◇


 飛び出したセイバー・リリィを迎え撃ったのは、バーサーカーの紅く輝く魔拳だった。
 髪の毛数本を巻き込んで空振りはしたものの、ただ振るわれた余波のみで大地が軋みをあげ、砂埃が舞う。
 さながらそれは破城槌――否、単純な威力はその数倍に達して余りある。
 もしも人間が直撃などしようものなら、まず間違いなく即死だ。
 その死体は損壊を通り越して爆散に近く、生の希望を全く抱かせない有様に変わるだろうことは請け合い。
 これほどの膂力が相手である以上、最早鍛錬の質や量などは彼方に吹き飛ぶ。そこにはただ、喰らえば死ぬという単純明快な理屈が存在しているだけだ。
 少女騎士がひらひらと舞う。
 それを追うようにして肥大した拳が大気を揺らし、暴風にも似た衝撃波を吹き荒らす。

 たんと地を蹴り、ターンする。
 針の穴に糸を通すのではなく、穴もろとも布地を突き破るような正拳突きを紙一重で躱し、セイバー・リリィが動いた。 
 鋭利さすら孕んだ速攻の踏み込みで間合いを詰め、ファルス・ヒューナルの迎撃を躱す形でその身を切り裂く。
 与えた手傷は脇腹を浅く切り裂くに留まったが、しかしそれでも、鮮やかな先手の奪取だった。矮躯を踊らせて狂戦士へ果敢に立ち向かうリリィの姿は、まるで暴牛を布一枚で翻弄する闘牛士のようだ。
 その旅路は未だ途上のもので、騎士王と呼ぶにはあまりに頼りない。
 しかしながら、剣技の腕前も戦闘における立ち振る舞いも、サーヴァントとして戦うに相応しいだけのものは有している。
 黄金の剣を細身で扱う様には可憐な白花がよく似合う――そして相手もまた、その花を摘まんとする役者に相応しい。

「脆弱」

 リリィの剣が引き戻されるのを待たずして、ヒューナルが動く。
 どこかくぐもった、しかし地の底から響くような重い威厳の籠もった声だった。
 二対の拳が赤光を帯びると同時に巨大化し、素早い動作で薙ぎ払うように振るわれる。
 剛力に見合わぬ速さに目を見開くが、幸いにも防御が間に合った。
 選定の剣を折り砕くには至らないものの、押し切られるのではないかと錯覚するほどの気迫と重圧。
 衝撃が抜けた後にも防御を解くことなく、敢えて後続を受け止めんとしたのは彼女が持つ直感のスキルの恩恵か。

「ふッ!」

 水平に、面の盾として構えた剣ごと、リリィは数メートルもの後退を余儀なくされた。
 彼女の意志でそうしたのではなく、防御もろともに吹き飛ばされたのだ。
 拳戟が当たったと思った途端、リリィを襲ったのは浮遊感。
 直に腹を穿たれたかと錯覚するほどの勢いで、彼女は後方へ追いやられていた。
 防御なしで受けていたならば、被害は甚大なものとなったことだろう。

 白昼堂々の襲撃という愚行と共に現れたバーサーカーを目にした時から、彼の強さをひしひしと感じていた。
 人ならざる凶魔の類と相対する際の、全身を貫くようなプレッシャーと背筋に氷柱を詰められるが如き悪寒。
 その両方を、少女騎士が未だかつて経験したことのないような色濃さで備えた存在。それが、ヒューナルだった。


 ――ダーカーという生命体が存在する。

 彼らは宇宙を漂い、その星の原生生物から人間、果ては機械に至るまであらゆる存在を侵食する。
 フォトンの力を扱える特別組織の構成員以外では駆逐することさえままならない、彼らはあらゆる生物の敵対種である。
 とはいえ、侵食と攻撃以外に能のないその希薄な知能で、精鋭揃いのアークス船員を退け続けるのは無理な話だ。
 アークスの人員数や、完全な駆逐は不可能でも残滓程度にまでダーカーを破壊できる原生生物たちの存在を考えれば、彼らが年貢の納め時を迎えるまではそう時間は掛からない――誰もがそう思う。
 しかし、現実は違う。
 戦いの数ばかり増えていくのに、彼らの総数を減らす作業は一向に進んでいないのが宇宙の現状だ。
 倒しても倒しても無尽蔵に湧き出る闇の化身たち。
 どれだけの数を揃えたところで所詮は有象無象、より強大な戦力をもって根気強く駆逐に当たれば敵ではない。
 ……彼らを使役し、その脅威度を桁違いにまで引き上げている存在こそが、宇宙を脅かす真の敵なのだ。

 その名は、ダークファルス。
 ダーカーを統べる者であり、底知れぬ闇の力を扱う主神とも呼ぶべき存在。
 そして今英霊の座から召喚され、バーサーカーのサーヴァントとして使役されている彼もまたその一柱。
 【巨躯(エルダー)】の名で畏れられたダークファルスがその存在規模を縮小させて打ち出した化身の一つ、それこそがこのファルス・ヒューナルという反英霊の正体だ。
 リリィの生きた時代に当て嵌めて称するならば、蛮族の王と形容するのが最も正しいだろう。

 故にこれは、騎士と蛮族の戦いだ。
 闘争を欲して人里に降り立った蛮王を退けるべく、花の旅路を歩む少女騎士が果敢に迎え撃つ。
 あらゆる英雄譚の中で飽きるほど語り尽くされてきたであろう、定番の構図の一つでしかない。


「はぁッ!」

 切り払う一撃を、ヒューナルはその豪腕で受け止めた。
 刃先が滑り、鎧のような甲殻が鮮やかな火花を散らす。
 破れない強度ではないが、しかし軟な剣ではこのようにいなされてしまう。
 当初は力のみを突き詰めた脳筋だとばかり思っていたが、彼の行動全ては、確たる戦闘論理に裏打ちされていた。
 間違いなく、途方もないレベルの経験を積んでいる――そうリリィは推測する。
 無論彼女とて、そんな存在と切り結ぶことができているのだから弱い筈がない。
 実際彼女はブリテンにて、自分を遥か上回るような力量を持った騎士たちに日々鍛え上げられてきたのだ。
 自他共に認める半人前とはいえ、それでも同年代の剣士、騎士に比べればその力量は確実に上を行っている。

「温いぞッッ」

 だが、ファルス・ヒューナルのそれは稽古で鍛えた強さではない。
 殺し殺されの実戦の中で研鑽を積み、無双の境地へと届いた怪物の強さだ。
 激しい摩擦の中で原石が研ぎ澄まされ、輝ける宝石へと姿を変えるように、これは練磨されてきた。
 そんな彼だから、サーヴァントとしてのクラスはバーサーカー以外にはあり得ない。
 策も罠も真っ向踏み抜き破壊して、激しく雄々しく喰らい合う――そんな闘争ばかりを、【巨躯】の化身は望んでいる!

(疾い――!)

 覇者の一喝と共に、二対の剛拳が唸りを上げる。
 闇の瘴気を帯び肥大化した拳が二連続のフックを放ち、それぞれリリィを打ち据えんと襲い掛かる。
 徒手は白兵戦において最も近いレンジを要する武器だが、同時に適した間合いで放てば最速の得物だ。後の先を取った上で、さらにこの至近距離で放つとなれば効果は倍増する。
 リリィは、力より技を駆使して戦う、ヒューナルとは全く別の戦闘スタイルを取る。
 なるべく真正面からかち合うことは避け、回避と受け流しに重点を置いて、あの魔拳と打ち合う機会を限りなく減らす。
 そうでもしなければ、この相手には押し切られてしまう危険性があった。
 先程ガード越しに吹き飛ばされたことからも、相手の筋力ステータスがこちらを上回っているのは確実なのだから。

 さらに、矢継ぎ早にエルダーはその拳を大地に打ち付けた。
 大地が罅割れると同時、地割れに沿って暗黒の瘴気の波動が三条の柱となってリリィに雪崩れ込む。
 拳による打撃と波動の二段構えは、あまりに与し難い連携であった。
 回避の隙を綺麗に突いた波動を彼女は二つまで回避したが、残る一つを避けきれず、剣で最低限浴びる範囲を狭めたとはいえ、浴びてしまう運びとなった。
 そしてその代償は、すぐに異変となって彼女を襲う。

「これは……呪い、ですか」

 波動を浴びたことで負った軽微な火傷。
 そこから、じくじくとした不快な感覚が広がっていくのが分かる。


 疾走する暗黒の波動は只の闇ではない。
 ダーカーの有する基礎的な浸食能力を高めて放った闇により付けられた疵は、自然治癒で癒えることなく、膿み腐らす病の毒のように、傷口を浸食し癒しを妨げるのだ。
 自ら解毒を行わねば、少なくとも数時間の間は解除されることはないが……たとえその術があったとしても、隙を見せようものなら容赦なく剛拳による洗礼が待ち受けていることは言うまでもない。
 リリィにとって幸運だったのは、彼女がクラススキルとして持ち合わせる対魔力のアビリティであろう。
 剣の防御のみでは到底防ぎきれない波動。
 捌けなかった対価として彼女を苛む手傷と呪いの濃さを、彼女の肉体は最低限のものにまで抑えていた。


「ふ……よもや、終わりではあるまい?」
「勿論! ――次はこちらの番です!」

 言うが早いか、セイバー・リリィが動いた。
 この局面だというのに、その口許には笑みがある。
 今も校舎の中で自分を待っているだろう小鞠を思えばこそ、ここで遅れを取る訳にはいかない。
 勝利し、彼女のところへと舞い戻る。その為にはまず、この蛮王を斬り伏せなければならない。


 踏み出したリリィの鋭い剣。
 迎え撃つはヒューナルの、極致まで極まった剛の力。
 それらは真っ向からの激突を果たすが、しかし今回はリリィが一枚上手だった。
 拳が切っ先に衝突した、その圧倒的な衝撃を利用して刃を滑らせ、ヒューナルの豪腕を伝うように切り裂く。
 行動に支障を与えられるほどのものではない。一手優った事実に喜びたい思いを抑え、リリィは更に追撃をかける。
 軽やかな動きと共に放たれる剣閃の数は、晩年騎士王と呼ばれる彼女にすら勝るだろう。
 蝶が舞うような鮮やかさと共に放たれる、蜂の如く繊細な太刀筋。
 時には軽装で戦に及んだ若き日の、アーサー王となる定めを持つ少女ならではの立ち回りだ。


「無為ッ!」

 轟く一喝。
 リリィの剣を防ぎ、捌き、間隙を縫う魔拳を放ちで対抗するファルス・ヒューナルに押されている様子はまるでない。
 もっともそれは、苛烈化する闘争に喜悦を持ち込む彼が相手ということもあるのだろう。
 彼は、いかなる局面に置かれても決して泣き言を吐かず、敵を罵ることもしない。
 それさえも含めて闘争と愛し、猛り、赤熱する闘志をもって喰らい合いに向かうのだ。

「愚鈍ッ!」

 見えている。
 それを端的に示す言葉と共に、ヒューナルが地を踏み鳴らした。
 震脚――定義しようとするなら、その名に当て嵌めるのが相応しいだろう小技。
 だがその小技も、桁の違う力を宿す闇の化身に掛かれば敵をその場へ縫い止める殺し技の布石となる。
 セイバー・リリィの動きが止まった。
 地へ付いた足は、さながら吸い寄せるかのように震動する地面に固定されて動かせない。
 そこへ、ファルス・ヒューナルの魔拳が放たれる。
 身動きの取れない彼女に向けて、宝具の一撃にも匹敵しよう超威力のゴンドラが肉薄し――


「弁えよッ!」

 炸裂。
 騎士の鎧を粉砕し、奥にあったうら若き肢体を粉々に破裂させ、その内臓が奇妙なコントラストを描く。


「戦いは――」

 その寸前に、異変が起きた。
 つむじ風のように、少女騎士を中心としてうねりが起きる。
 目に見えない、しかし確かに存在する力の螺旋。
 それはやがて勢いを増し、ヒューナルをすら驚愕させるほどの力の波濤に姿を変えていく。
 その正体は、魔力。サーヴァントの行動、出力、全てに付き纏う燃料とも呼ぶべき力が、リリィから溢れ出している。

「――これからです!」

 高らかに宣じると共に、彼女の矮躯を起点として、ジェット噴射の勢いにも匹敵しよう魔力の暴風が吹き荒れた。
 魔力放出。
 自己の身体に魔力を帯びさせ瞬間的に吐き出すそれを解き放ったことは、震脚による拘束を無効化し、更にファルス・ヒューナルの殺し技を僅かながら揺らがせるほどの効果を挙げた。
 ヒューナルは怪物だ。魔人を通り越し、一つの災害にさえ匹敵し得る戦闘狂いだ。
 しかしさしもの彼も、大技を放った直後の隙に全く予期しないだけのエネルギーを叩き付けられては一溜りもない。
 一瞬の硬直時間を突いて、リリィがその懐へと一歩踏み込む。
 ヒューナルは即座に彼女の意図を理解し、小さな頭を砕き潰すべく両腕を叩き合わせんとしたが、それは若き騎士の先手へ追い付く為の攻撃としてはあまりに遅すぎた。

 一閃。
 選定の剣が袈裟懸けに振り下ろされ、ファルス・ヒューナルの体に軌跡通りの傷痕が生まれた。
 霊核の破壊にまでは至らなかったものの、これまでのものとは異なり、確かに敵へ痛打を与えた手応えが伝わってきた。
 あと一押しか。
 剣の柄を握り締め、飛び退いて離脱を図ったヒューナルを追う。
 このまま追い立て、倒す。確たる意志と共に踏み込もうとする矢先、状況に全く似合わない笑い声が響いた。

「ふ、ふふ、ふはははははははは――」

 獲物を前にした竜種の唸りでさえ、もっと可愛げのある音色に違いない。
 その声には、地の底を通り越し、冥府の最奥から響くような格の違う重圧があった。
 重圧と言っても、それは聞く側が勝手にそう認識するだけであり、当の彼に他者を威圧する意図など誓って欠片もない。
 だがそれほどまでに、彼の喜びに溢れた笑い声はおぞましく、嵐の訪れを覚えさせるものだった。
 リリィが思わず足を止めたのは幸運だったのか、はたまた不幸だったのか。
 この場合でいえば、突如響いた喜びの声を不審がり、一旦攻めの手を緩めるのは何も間違っていない行為だ。
 しかしその代わりに、セイバー・リリィはファルス・ヒューナルへと与えてはならない『時間』を与えてしまった。

「滾る! 滾るぞ! 今世の肉体はさぞ血に飢えていたと見える!
 この我へ見事一撃を加えてみせたその手練……我が敵に相応しいと認めよう!」

 その頭部と背中に生えた棘にも似た突起物が形を変えていく。
 翼のようだとリリィは思った。
 一つ一つが鋭利な刃で出来た、触れるものを全て切り裂く鋼の翼だ。
 ずぶ、ずぶ――そんな奇怪な音を伴った行動が何を意味するかを理解するには、少しばかり時間が必要だった。
 やがてそれが『抜刀』だと認識した時、セイバー・リリィは持ち前の直感で、これから起こり得ることを瞬時に予測した。一も二もなく、彼女は止めた足を再度踏み出す。
 選定の剣が闇の王を切り裂くが速いか、彼が宝具の抜刀を完了するが速いか。


 その趨勢が決するよりも速く、セイバー・リリィ、そしてファルス・ヒューナルを目掛け、豪速の矢が降り注いだ。


  ◇  ◇


 校舎内に響いた轟音。
 非常放送はけたたましく鳴り響き、やれ物陰に隠れろだの、やれその場でじっとしていろだのとちぐはぐな指示を生徒へ飛ばし続けている。
 そんな中建原智香は、一人だった。
 周りの生徒たちが我先にと逃げていく中、彼女は何が起きたのかを即座に察することができた。
 まるで暴走トラックでも突っ込んだのではないかと錯覚させるほどの轟音。
 しかし非常放送は今になっても鳴り止まず、放送には校内へ不審者が侵入、との言すらあった。

「アサシンさん――」

 呼びかけると、彼女のサーヴァントはすぐに実体化した。
 黒髪に端正な容貌を備えた、黒衣の成人男性。
 顔立ちは童顔で、万人に警戒心を抱かせない、見る者を安らがせるような顔の作りをしている。
 彼こそが、智香を守るサーヴァント。
 かつて世界中の黒社会に名を馳せた伝説の男――『死神』と呼ばれる殺し屋に他ならない。

「これって、もしかして」
「先程確認してきましたが、サーヴァントによる襲撃で間違いないようです。
 クラスは恐らくバーサーカー。現在はどうやら、校庭でセイバーのサーヴァントが迎撃にあたっているようですね」
「えっ」

 さらっと、死神は宣った。
 襲撃の轟音が響いてから智香が空き教室に転がり込み、皆が逃げるのを見送りながら必死にどうしようか考えている間に、なんと彼は偵察へ向かい、あろうことか敵の現状に至るまでを把握していたのだ。
 敵サーヴァントと鉢合わせするかもしれない状況で放置されていたことに対する驚きもあったが、そこはこの人だ。
 仮に自分が件のバーサーカーと遭遇してもいいように、何かしらの備えを配備した上で出向いたのだろう。
 生きてきた世界が違う。否応なしに、智香はそう思い知らされた。

「これは私見ですが、マスター。この場は一つ、傍観に徹するのも手かもしれません」

 死神は、冷静に口にする。
 それは智香にしてみれば、予想だにしない台詞だった。
 よくよく考えればなんてことのない常套策だが、智香には無い発想だった。
 勿論、智香はその意味がわからないほど子供ではない。

「大方、バーサーカーのマスターは校内に存在する聖杯戦争参加者を炙り出す目的と見える。
 迎撃へ向かったセイバーの勇敢さは評価しますが、しかし些か短慮と言わざるを得ない……
 私ならば傍観に徹し、双方の戦力確認と同士討ちを狙うところだ。もしも殺れそうなら、その時は横槍で仕留めてもいい」

 何にせよ、馬鹿正直に止めに行くのが愚策なのは確かです。
 淡々と語る死神の口振りは、まさしく歴戦の殺し屋のものだった。
 敵の意図を即座に推察し、それを逆手に取り、如何にして利用し尽くすか。
 殺し屋とは、何も一方的に殺すだけが常の職業ではない。
 時には敵が用意した戦力との正面戦闘すら想定し、その都度順応に応じ、突破していく必要がある。
 正面戦闘が不都合ならば迂回路を通りつつ、相手の戦力すら利用して立ち回る策略が要求される場面も多々あった。
 この死神は、それをすべて踏破してきた歴戦の怪物だ。
 人間としての生涯ではただの一度しか不覚を取らなかった男。その肩書は、決して伊達ではない。

「と、普段の私ならそうするところですが……今この場における私は、あくまでもマスターの走狗だ。
 貴女の指示に従いましょう、マスター。貴女はただ、私にどうして欲しいかを命ずるだけで構わない」

 しかしながら、今の彼は死神であって、死神ではない。
 建原智香という少女に、ペチカという魔法少女に召喚され、その聖杯戦争を見届けるサーヴァントだ。
 冷血なる死の神は、人を知った。
 あの日。すべての始まりとなる夜に、瓦礫の山の中で、死神は正しく一度『死んだ』のだ。
 この場の死神は、彼がマッハの超生物へと変貌(転生)を遂げる直前――末期の時より呼びだされた存在。

「さあ、命じて下さい。貴女は、どうしたい」

 彼は、導くだけだ。
 己を呼び出した優しき魔法少女を、あるべき場所へ。
 自分の望んだ弱き存在へと成り損ねた怪物は、ただそれだけを願っている。

「……さい」

 智香が望むならば、彼は最強の暗殺者たる所以を遺憾なく発揮し、すべての敵を抹殺するだろう。
 智香が望むならば、彼は条理へと歯向かって、この聖杯戦争から必ず彼女を帰還させるだろう。
 聖杯戦争を打ち砕けと命ぜられれば、それもまた彼女の意思として、救いの剣ともなるだろう。

「止めてください――アサシンさん。この学校を、守ってください」
「了解しました、我がマスター」

 だから。
 此度の彼は暗殺者としてではなく、調停者として。
 花の騎士と闇の化身が鉾を交える戦場へと推参するのだ。


  ◇  ◇


 リリィは天性の直感による回避、ヒューナルは空いた右腕で矢を掴み取ることで不意の襲撃へ対処した。
 矢はごくごく普通のもので、何ら神秘の宿るような逸話やエンチャントを経てはいない。
 神秘存在であるサーヴァントを貫くには役者不足も甚だしいが、しかし、リリィとヒューナルはこれを避けた。
 眼前の宿敵を討伐することよりも、矢を回避する方が重要だと判断し、行動へと打って出たのだ。
 その意味は推して知るべし。この矢は、回避され、掴み取られて攻撃の意図を無効化されるまでの間、間違いなく対英霊においても通用するだけの殺傷能力を纏っていた。
 何者だ――二人の視線が集中した先は、体育館の屋根上だった。
 人が立つにはあまりに不似合いな場所に佇む人物は、万人に清らかな印象を与える、純白の衣を羽織り、その顔面を狐の面で隠匿した、見るからに胡散臭い風体のヒトガタ。

「……何者です、貴方は」
「サーヴァント、とだけ言っておきましょう」

 そんなことは見れば分かる。
 弓を使った所から推察すれば、妥当なところでアーチャー……だが奇襲されるまで、これほどの至近距離にいながら存在を感知できなかったこともある。そういう点では、アサシンのクラスである可能性も否定できまい。
 問うリリィには、彼のクラスはさておいて、素性の一端に心当たりがあった。

 白い男。
 それは小鞠の通学を護衛する中で耳にした、噂話の一つだった。
 生徒たちが時折噂の真偽を懸けて意見をぶつけ合っている光景を、リリィも目にしたことがある。
 犯罪者や怪物、無辜の民を脅かす者のもとへと現れ、事態を颯爽解決していくという異装の男。
 状況も、容姿も合致している。
 ただひとつ足りないのは、彼に付随するという、軍服の男の姿か。
 やや不可解な点はあるが、彼が本当に噂の白い男なのか、それとも都市伝説を騙る別人なのかは別としても、現れた理由には自ずと察しがつく。

「双方、この場は矛を収めていただきたい。
 私としては貴方方が共倒れになろうと構わないのですが、私のマスターはそれを望んでいないのです。
 一刻も早く学び舎から戦火が去り、平穏な時間が戻ることを望んでいる」
「……同意見です。元々私も、このバーサーカーを止める為に出てきたので」


 リリィの発言に「それはそれは」と笑ってみせる白衣の英霊――彼は言わずもがな、《白い男》などではない。
 アサシンのサーヴァント。真名の代わりに、かつて呼ばれた肩書をあてがわれた最強の殺し屋。
 彼はマスターである智香の望み通り、眼下の二騎に矛を収めさせるべくして現れた。そこに偽りはない。
 だが、暗殺者が堂々と敵手の前に顔を晒しては終わりだ。
 サーヴァントとして召喚された以上多少の融通は可能であろうが、それにしても権謀術策を生業とする彼にとっては手痛い損害になる。そこで彼は宝具化すらされた殺し屋のスキルを活かし、即興で変装したのだ。
 現在学生たちを騒がせる正体不明の正義執行者、《白い男》。
 都市伝説の存在に扮し、こうして場の調停に現れた。
 人相は面で取り急ぎ隠し、サーヴァントであること以上の情報は一切漏らさない徹底ぶりで。

 気配の一切を遮断した状態で多少戦況を観察していた為、リリィが善玉であることには察しが付いている。
 彼女については問題ない。
 問題なのは、やはりあのバーサーカーだ。
 言語をある程度介しはするようだが、あれは明らかに頭の根本がイカれている。
 闘争に臨むことを喜びとし、それ以外の全てを排除したような……ストレートに分かりやすいバトルジャンキー。
 あれが人間であるなら殺し易い。しかし相手はサーヴァント、それも人間由来の存在ですらない正真正銘の怪物だ。
 何の準備もなしに相手取るのは避けたい――あの様子では、二騎がかりでもリスクの方が大きい可能性さえある。


「貴様もか」

 これまでずっと口を噤んでいたファルス・ヒューナルが、明確に死神へ向けた問いを投げた。
 抜刀姿勢のまま固まって、されどもその心は灼熱に燃やし、新たな敵の登場を歓迎している。
 一体何が楽しいのか、殺し屋である死神には皆目わからない。
 多勢に無勢の状況を喜び、玩具を与えられた子供のように高揚するその思考を、理解できない。

「貴様も、我に猛き闘争をもたらす者か?」

 答えを待たずして、ヒューナルの右腕に灯った暗黒の波動が、砲弾と化して死神を襲った。
 やはり交戦は不可避か。
 自由落下に身を任せながら懐に仕込んだ武器を確認し、死神は一秒の内に自分の手札と、これからの行動を整理する。
 着地と同時に自衛隊施設から調達した爆薬を用いて攻撃を仕掛け、セイバーの戦力を活かしつつ確実に殺しに行く。
 殺せずとも、撤退まで追い込めればそれで構わない。
 いざ、死神が爆薬の詰まった小瓶を指先で打ち出そうとしたその矢先。


『退け――バーサーカー』


 聞き慣れた男の声が、ファルス・ヒューナルの脳裏に響いた。
 念話だ。
 それを耳にした途端、今にも暴れ出す勢いだったヒューナルが動きを止める。
 あとコンマ一秒の時間でもあれば完了したであろう抜刀姿勢を解き、そのまま彼は地面を蹴った。
 突然の事態に、死神とリリィが思い浮かべるのは令呪の二文字。
 しかしそれを裏切って、彼を使役するマスターからの撤退命令は、令呪による強制力を持ってはいない。

 とはいえ決して、ファルス・ヒューナルが物分りのいいサーヴァントということではない。
 今の彼は単に、『完全に興が乗り切る前』でなかったから命令に応じただけの話。
 万一にでも彼の宝具――星すらも抉ると謳われた激痛の鋭刃が抜かれていたなら、こうはならなかったに違いない。
 眼前の二騎か、己か。そのどちらかが倒れるまで、令呪以外の命令など決して受け付けはしなかった筈だ。

「良き闘争であったぞ」

 定型句のようなその台詞は、真実彼がアークスとの戦いの度に口にしていた台詞。
 化身として幾度となく現れ、このように暴れ回り、去る間際までも一瞬たりとて闘志を曇らせない。
 それこそが、ファルス・ヒューナルという英霊であった。
 その暴力装置ぶりを物語るような爪痕を残して、発作の如き唐突さで、彼は自ら起こした動乱を幕引きとしたのだ。


  ◇  ◇


 非常放送が鳴り止んだのは、校庭から狂戦士が撤退した十数分後のことだった。

 落ち着いて、なるだけ周囲の人間と固まって教室まで戻るように。
 そんな放送が響いた時に、小鞠はようやく平坦な胸を撫で下ろした。
 この様子だと、これから学校は警察の手が入り慌ただしい様相を呈するに違いない。
 今日はほぼ間違いなく、臨時下校となるだろう。

 戦闘が終わった。
 力不足ゆえ、戦場へ共に赴いて見守ることは出来なかったが、リリィは勝ったのだと分かった。
 その証拠に、小鞠の手に刻まれた令呪は今も三画綺麗に残り、消える兆しなど微塵も見せてはいない。
 教室へと向かうのも忘れてへたり込み、脱力したまま、小鞠は彼女の帰りを待つ。
 数秒とも、数十秒とも、数分ともつかない時間が流れた頃に、花の旅路を往く騎士は変わらない可憐さで戻ってきた。

「リリィさん! 大丈夫ですか!? 怪我とかしてないですか!?」
「ありがとうございます、コマリ。流石に無傷とはいきませんでしたが、それでも軽い傷です。問題ありませんよ」

 そう言って微笑むリリィは、確かに軽い火傷を負っていた。
 小鞠は心配そうにそれを見ていたが、リリィは違う。
 実際に戦い、相手の実力を推し量った彼女にしてみれば、これだけの傷で済んだのは間違いなく僥倖だった。
 あと少しでも撤退命令のタイミングが遅かったなら。
 もしも白衣のサーヴァントが調停に現れていなかったなら。
 ――刀身を見ずとも伝わるほどの禍々しさを醸す、奴の魔剣が抜刀されていたならば。
 勝つにしろ負けるにしろ、これだけの疲弊と損傷では決して収まりなどしなかった筈だ。

「他のサーヴァントの助力もあって、敵……バーサーカーは撤退しました。
 しかし、この学校にマスターが存在するとバレてしまったのも確かです。これからはより一層、身の安全に気を配る必要がありそうですね――と。
 続きは家に帰ってからゆっくり話すとして、まず今は教室へ戻りましょうか」
「あ……」

 すっかり忘れていた。
 少しだけ頬を赤らめながら、小鞠はあたふたと慌ただしく廊下を駆けていく。
 霊体化した状態で彼女へ続きながら、リリィは先程見た、《白い男》に類似したサーヴァントについて考える。
 あれが本物だったのか、それとも名を騙るだけの別物だったのかは、あの短い時間の邂逅では少々分かりかねるところだ。
 バーサーカーが撤退した後、リリィが礼を言う間もなく彼は霊体となり、去ってしまった。
 恐らくマスターの下へと戻ったのだろうが、だとすると、やはり彼を使役するマスターもまた、この学舎のどこかに居るということになる。
 ……できれば、頃合いを見て接触を図っておきたいところだとリリィは思った。
 彼が志を同じくする者だったなら――その時は、目的に向けて手を取り合える貴重な仲間となるやもしれないのだから。


【A-2/中学校/一日目・午前】

【越谷小鞠@のんのんびより】
[状態] 健康、安堵
[令呪] 残り三画
[装備] 制服
[道具] なし
[所持金] 数千円程度
[思考・状況]
基本行動方針:帰りたい
1:リリィさんが無事でよかった。

【セイバー(アルトリア・ペンドラゴン<リリィ>)@Fate/Unlimited cords】
[状態] 疲労(中)、腕と頬に軽い火傷
[装備] 『勝利すべき黄金の剣』
[道具] なし
[所持金] なし
[思考・状況]
基本行動方針:マスターを元の世界へと帰す
1:コマリを守る
2:バーサーカーのサーヴァント(ヒューナル)に強い警戒。
3:白衣のサーヴァント(死神)ともう一度接触する機会が欲しい


  ◇  ◇


「戻りました、マスター」
「あ……!」

 死神は、無傷だった。
 それもその筈だ。
 何故なら彼は実質的には、戦闘を行ってすらいない。
 あわや交戦になりかけたすんでのところで敵の将が、バーサーカーを退かせた。
 都合のいい展開になってくれたと、死神も思う。
 如何に彼が優れた殺し屋といえども、相手は人間ではなくサーヴァントだ。
 数のアドバンテージがあったとしても、正面から戦うべきではない。
 殺る時は影からの奇襲、『殺し屋らしい』手法で臨むのがやはりもっとも最適である。

「ご心配なく、マスター。この通り全くの無傷です」

 とはいえ実際に戦いへ発展していたとしても、精々擦過傷程度しか負わない自信はあった。
 ましてやデコイの役目となり得るセイバーがあの場には居たのだから、まず殺されることはなかったと断言できる。
 しかしセイバーの存在がなければ、万一の危険性は存在しただろう。
 あのバーサーカーは、間違いなく手練だった。
 死の神と畏れられた男に、薄いとはいえ死の気配を感じさせるほどの。
 次に相見える時があったなら、その時死神は躊躇なくマスター狙いにシフトする腹積もりでいる。
 直接殺さずとも、間接的に殺せる手段があるのだから、それを利用しない手はない。
 ああいった手練の戦鬼が相手というなら尚更のことだ。

「一先ず、教室へ戻りましょう。放送が鳴っていましたよ」

 アサシンに促されて、智香もまた皆の集まる教室へと歩みを進め始める。
 だが、その顔はどこか浮かない色を――憂いを帯びていた。

 所詮この日々は作り物。
 されども、そこへ営まれている暮らしは紛れもない本物だ。
 それを脅かし、願いを求めて喰らい合うデスゲーム――聖杯戦争。
 自分はそれに、如何なる者として臨むべきなんだろうか。
 智香は、未だ迷っている。
 失ったものを取り戻すか、それとも。

 答えは、未だ――


【建原智香(ペチカ)@魔法少女育成計画restart】
[状態] 健康、人間体
[令呪] 残り三画
[装備] 制服
[道具] なし
[所持金] 一万円とちょっと
[思考・状況]
基本行動方針:未定
1:聖杯を手に入れ、あのゲームをなかったことにする?
2:魔法少女として、聖杯戦争へ立ち向かう?

【アサシン(死神)@暗殺教室】
[状態] 健康
[装備] なし
[道具] いくつかの暗殺道具
[所持金] 数十万円程度
[思考・状況]
基本行動方針:マスターを導く
1:方針はマスターに委ねる
2:バーサーカー(ヒューナル)に強い警戒。


  ◇  ◇


 プリンセス・デリュージは変身を解除した。
 青木奈美としての姿に戻るなり、踵を返して教室へ戻るべく歩き始める。
 周囲に人はいない。
 意図的に一人になるように行動したのだから、居るはずもない。
 小鞠と離れてから、奈美は校庭を一望できる窓のある場所を探し、そこからひっそりと観戦していたのだ。
 バーサーカーとセイバーの、激しい戦いを。

 サーヴァントが現れた時、思わず舌打ちをした。
 よりにもよってこんな時間帯に、こんな場所へ堂々と襲撃を仕掛けてくる輩がいようとは夢にも思わなかった。
 最悪の場合は令呪を使い、この場へアーチャーを呼び出す必要もあるかと思ったが――幸い、そうはならなかった。
 それどころか、この学校内に恐らくあと二人のマスターが存在する可能性について知ることもできた。
 バーサーカーを迎え撃ったセイバーのサーヴァントと、場の調停に現れた謎のサーヴァント。
 あれらが全くの部外者であるとは、少しばかり考え難い。
 思わぬところで情報のアドバンテージを獲得できた奈美だったが、その表情は優れない。

 あの時。
 あの時自分は、越谷小鞠の手を引いた。
 合理的に考えるなら、あの場は彼女を囮に使うべきだった筈だ。
 バーサーカーを引き付ける役割として使っていれば、僅かなれども時間稼ぎができた。
 しかし、奈美は手を引いた。
 ――手を引くだけの甘さが、まだこの身には残っているのだと知った。

 NPCの一人も使い潰せずに、手段を選ばず勝ち抜くなどとはよく言ったものだと、奈美は自罰する。
 咄嗟に出たその偽善ぶった行動に隠せない嫌悪感を覚えながら、アーチャーのマスターはその場を後にした。


【青木奈美(プリンセス・デリュージ)@魔法少女育成計画ACES】
[状態] 健康、人間体、苛立ち
[令呪] 残り三画
[装備] 制服
[道具] なし
[所持金] 数万円
[思考・状況]
基本行動方針:聖杯の力で、ピュアエレメンツを取り戻す
1:教室へ戻る


  ◇  ◇


 バーサーカーによる中学校襲撃の首謀者たる男は、校舎を見下ろせる位置にある高層ビルの屋上で戦闘を俯瞰していた。
 真庭鳳凰は、戻ってきた自分のサーヴァントに「ご苦労だった」と労いの言葉をやり、一人思考する。

 彼はしのびだ。
 闇に潜み、表舞台ではなく裏方で敵を屠る存在だ。
 その彼が何故に白昼堂々、それも大勢のNPCが居合わせる公共施設への襲撃という手を取ったのか。
 無論、単に乱心を起こした訳ではない。
 彼は一忍軍の頭領を担う頭脳を遺憾なく発揮し、策を練り、結果として今回の襲撃を企てた。

 ファルス・ヒューナルは闘争を愛する。
 言ってしまえば、それだけが彼の行動原理であり、他の全ては彼にしてみれば些事と呼んでもいいだろう。
 だがしかし、流石に闇の生命体ダーカーを統率する覇者の一人なだけはあり、指示の内容を理解するだけの知能は持ち合わせている。彼が完全に『全力』で相手を潰すことを決める前ならば、十分撤退させることは可能だ。
 鳳凰は予選期間の間を費やして、そんなヒューナルの習性について確認した。
 戦力としては確かに申し分ないが、バーサーカーは決して扱いやすいクラスではない。それはヒューナルも同じことだ。
 彼の場合、境界線となるのが『宝具の抜刀』であった。
 【巨躯】の化身が全力を振るうに値すると判断した相手にのみ抜き放つ命食らいの魔剣、『星抉る奪命の剣(エルダーペイン)』。あれを抜かせたが最後、ヒューナルは何らかの形で闘争が終結するまで、鳳凰の命令を受け付けなくなる。
 そういう意味でも、瀬戸際のタイミングだった。
 あそこで命を下していなければ、ヒューナルは間違いなく全力を発揮していたに違いない。
 待ち受ける未来が勝利であれ、敗北であれ、後先に頓着することなく。

「最低でも二人か。悪くない成果だ」

 どう嘆いても与えられた手札は変わらないのだから、鳳凰はその特性すらも利用することにした。
 敢えて真っ昼間に人が集まる施設を襲撃させることで、潜むマスターとそのサーヴァントを誘き出す。
 もっとも、今回の目的はあくまで存在の確認だ。
 本格的に殺し殺されの大立ち回りを演じるのは、それこそ鳳凰が最もやり易い夜陰で構わない。
 存在することさえ分かれば、特定することはそう難しくない。
 他のマスターならばともかく、優れたしのびである鳳凰には慣れた作業だ。

「裁定者に目を付けられる前に、一先ずは退散するとしよう。――行くぞ、バーサーカー」

 一陣の風が吹いた。
 次の瞬間には、真庭鳳凰と、ダーカーの王の姿はどこにもなかった。


【A-2/一日目・午前】

【真庭鳳凰@刀語】
[状態] 健康
[令呪] 残り三画
[装備] 忍装束
[道具] なし
[所持金] なし
[思考・状況]
基本行動方針:聖杯を手に入れ、真庭の里を復興させる
1:当分は様子見。
2:中学校に通う、もしくは勤務するマスターの特定


【バーサーカー(ファルス・ヒューナル)@ファンタシースターオンライン2】
[状態] 胴、右腕に裂傷(行動に支障なし)
[装備] なし
[道具] 『星抉る奪命の剣』
[所持金] なし
[思考・状況]
基本行動方針:闘争を望む

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最終更新:2016年01月10日 16:10