臨時下校。
  心身ともに健全な学生であれば、まずこれを喜ばない者はいないだろう。
  退屈で眠気を誘う授業が打ち切られ、自由時間が降って湧いたように与えられるのだ。
  現にあんなことがあったというのに、生徒の中には帰りにどこそこの店で遊んでいこう、などと談笑しながら帰途に着いているものさえ居る。

 「……はあ」

  そんな中、帰途に着く少女が一人。
  ごく何の変哲もない容姿と顔立ちをした、彼女の名前は建原智香という。
  今は制服の袖で隠れているが、その右手には、十代そこらの子供には似合わない禍々しい文様が刻まれていた。
  言うまでもなく、令呪。
  彼女は聖杯戦争の参加者であり、今日の騒動についての真実を知る数少ない一人でもあった。

 『不安ですか』
 「それは……まあ」
 『無理もない。君のような子供には少々、厳しすぎる状況です』

  霊体化したままの状態で、アサシンのサーヴァント――『死神』は優しく笑った。
  彼は優しく、穏やかな人物だ。
  語気を荒げるようなことは決してないし、未だに聖杯戦争における身の振り方を決めかねている智香に対しても急かすことなく、優しく接してくれる。
  もしも自分が他のマスターとして彼に出会ったなら、きっとすぐに信用してしまったことだろう。
  ……正直な話今でも、この人が地球上で最強とさえ呼ばれた凄腕の殺し屋だなんて話には実感が持てない。
  死神なんて物騒な名前は、彼に全く似つかわしくないと、そんなことさえ思っている。

 『しかし物思いに耽る余り、足取りを遅くしてしまうのは戴けませんよ。
  そういうのは自分の部屋で、外など眺めながらするものです』

  窘める口振りは、学校の先生か何かを思わせる。
  わかってると言い返したくなるのに、嫌な気持ちにはならない心地よさ。
  もしも彼のような人物が教師だったなら、さぞかし頼れることだろう。


  そういう意味でも、このサーヴァントと過ごす時間は数少ない落ち着ける時間だった。
  彼が偵察などで出払うと、途端にこの先への不安が込み上げてくる。 
  このままじゃいけないと思っていても、やはりそう簡単に変えられるものではない。

  校門を出て、暫く歩く。
  すっかり歩き慣れた自宅への道のりだが、お天道様が空のてっぺんにあるような時間に此処を歩くのは稀だった。
  普段とは少し違った新鮮さを感じながら歩みを進めていると、智香は不意に、ある人物をその視界に収めた。
  黒いコートの、くたびれた印象を受ける男。
  口に煙草を咥えながら路傍に立っている様子を見るに、誰か人を待っているようだ。
  こんな真っ昼間からこうしているということは、誰か生徒のお迎えだろうか。
  そんなことを考えつつ、その横を通り過ぎようと足を進め――そこで、彼と目が合った。

 「――マスター!」

  突如、智香の傍らへ侍っていた死神が霊体化を解除して彼女を庇うように前へ出る。
  それと全く同時に、コートの男の傍らから、先程までは確かに居なかった筈の青年が出現した。
  銃らしき武器を携えた、どこか無骨な印象を見る者に与えるその青年は、表情を一切動かさずに一歩踏み込んだ。
  智香はようやく、この段階に至って理解する。
  踏み込んだ方の青年はサーヴァントで、コートの男はそのマスターであると。
  理解したからといって、智香にはどうにも出来ない。
  サーヴァントに対抗できるのは、サーヴァントのみだ。

  死神の腕に抱かれながら、智香は初めてのサーヴァント戦に臨む――




  『死神』の行動は迅速であったが、彼のそれに匹敵しかねないほどに黒いコートの男――衛宮切嗣のアーチャーは俊敏であった。
  彼が黒服の内から取り出した拳銃の引き金を引くよりも先に、アーチャー・霧亥の拳がその咽頭を射抜く。
  ――そんなビジョンを幻視し、死神は行動を中断、回避に専念することとした。
  元より直接戦闘を主とはしない生粋の暗殺者(アサシン)である彼だ、両方をこなそうとしなければ片方に少女を抱えていても問題はない。
  だがその彼をしても背筋に冷たいものが走るのを禁じ得ない程、霧亥の一撃は絶大な威力を秘めていた。
  死神の筋力ステータスも低い方では決してない。それでも奴は、少なく見積もってもその二ランクは上を行っている。直撃などしようものならば、彼の耐久値は低いのだから、相当な痛手を被る羽目になろう。

  殺し屋は正面戦闘を避け、一撃必殺を売りとして立ち回る職業だ。
  一つの殺しに入念な準備と下調べをするのは言うまでもなく大事なことであるが、実際にそれを決行する過程で時間をかけ過ぎるようであれば、死神に言わせれば落第点の誹りは免れない。
  何故なら殺しの段階で手間取れば、当然相手は自分が殺されかけているという現状を理解し、行動を起こす。
  それは然るべき機関への通報であったり、抵抗であったりと様々だが、共通しているのは碌な事態を招かないということ。死人に口なしとはよく言ったもので、死の断崖を目前にした人間こそが最も厄介なのだ。
  安全を重視すればこそ求められるのは一撃必殺。確実な依頼の遂行。

  されど、戦闘を避けられない局面というものが確実に存在するのもまた事実だ。
  死神は世界一優秀とされ、何千人と殺してきた暗殺者だが、その彼でもそういう場面を幾つも踏んできた。
  どれだけ気を付けていても、入念な準備の上で臨んでも、予想外の事態は確実に発生する。
  だから、重要なのはそうなった時にどう対処するか。そうならないように努めることには限界があるのだから、選択肢が絞られるのは当然の道理である。

  グレネード弾を始めとした各種重火器で武装した傭兵と戦闘になったことがあった。
  こちらは潜入の都合上小さな刃しか持っていないのに、敵は制圧力に優れた機関銃を携えている時があった。
  人間の身である以上、撃たれれば死ぬ。爆風などモロに浴びれば暗殺どころでは当然ない。
  そんな絶望的状況を切り抜け、ただ一度の不覚を除いて縄を掛けられることもなく、殺し続けてきたのが彼だ。
  今の状況も、言ってしまえば生前に経験した幾つかの窮地と同種のものでしかない。
  目の前の男は殺害対象で、その肉体、ひいてはホルスターに収められた宝具と思しき銃が警戒すべき凶器。
  あれを如何に躱しながら敵を追い立て、殺すか。試される内容は、やはり何も変わってはいない。

 「ふっ――」

  智香を抱えながらの背面跳びに打って出、霧亥の近接攻撃を難なく回避する。
  その淀みない所作を現役の体操選手が見たならば、心の手本と据えたとしても何らおかしくはないだろう。
  抱えられている少女が現状混乱以外の不快感を示していないのは、ひとえに魔法少女としての強化された体あってのものだった。少なくともこの程度で、魔法少女の体は異常を示さない。

  死神が抜き放ったのは古釘だ。
  中学校でくすねてきた廃材で、当然神秘など宿っていよう筈もない代物。
  しかしこと死神に限っては、その常識は無視される。
  彼の宝具『萬の術技』により強化された専科百般スキルが、彼が凶器として道具を扱う場合に限り、相手が英霊であろうとも通用する殺傷能力を与えているのだ。
  反則技としか言いようのないそれを見抜くのは、さしもの霧亥といえども初見では不可能だった。
  振り払わんとしたその腕に、錆びた古釘が遠慮なく突き刺さっていく。
  その表情に、この聖杯戦争が始まってから初めての僅かな驚愕が浮いた。

 「それは致命的な『隙』だ」

  時間にしてコンマ一秒にすら満たないような、僅かな隙。
  それを見逃さず、怜悧に笑って死神は一度引っ込めた筈の拳銃を連射する。
  本来ごく一般的な警官拳銃である筈のそれは、既に彼の改造によって凶悪な殺人兵器と化していた。
  反動は無視され、装填可能弾薬数は拡張、連射性能が付加されてパフォーマンスは格段に向上している。
  そこに英霊すら殺す殺意が宿っているのだから、スペックで勝った霧亥とて無視できるものではない。

  射線上から離れ、射撃を回避。
  次いで腕に突き刺さった古釘を抜き、彼が見せたのとほぼ同じ動作で投げ返す。
  釘は死神の体に吸い込まれるようにして命中したが、案の定、衣服一枚さえ破れることなく乾いた音を立てた。

  攻撃の後には、必ず隙が生ずる。
  それが不発に終わったならば尚のこと、反撃の威力は上昇する。
  そのことを証明するように抜き放った改造拳銃の弾丸が、霧亥の脇腹を抉り取った。
  いまだ致命的な痛手には至っていないが、趨勢がどちらに傾いているかは火を見るよりも明らかだ。
  敵の攻撃をひらりひらりと躱し、いなしながら、小さな傷を重ねて巨象の命を削ぎ落とす。
  さながら本物の死神がそうするように、防ぎようのない死を運ぶ刃――数千の命を屠った、人類最強の暗殺術。

  残弾の古釘全てを、流麗な動作で撒き散らす。
  撒き散らすとは言っても、一発たりとも無駄撃ちがない。
  まるで古い時代の忍者が放つ正確無比な殺意のように、急所という急所を目掛けて迫っていく。
  申し訳程度の神秘しか持たない小道具とはいえ、狙っている場所が場所だ。
  全弾喰らえば霊核損傷、そうでなくとも、半分も受ければ大半の英霊は行動不能を余儀なくされるだろう。
  だが、霧亥は凡百の英霊と一緒くたに扱えるスペックの弓兵ではない。

 「ほう――」

  回避などしない。
  捌き損ねる無様も晒さない。
  その体に、一筋の傷も負わない。
  全て殴り、蹴り、弾き、粉砕した。
  素直に感嘆の声を漏らしながら、死神は四肢を潰す銃撃を繰り出す。
  今度の霧亥は跳躍によってそれを回避――そして。

 「最低出力だ」

  それは敵に向けた言葉ではなかった。
  自らのマスター、衛宮切嗣への通告。
  つまり、宝具を使い、敵を滅殺するという宣言であった。
  通常、アサシンのサーヴァントは三騎士クラスに基礎スペックで劣る。
  実際に、死神のステータスは霧亥よりも殆どが低い。
  故にこの事態は、彼ら襲撃者側にとっても予定外。
  世界最強とさえ謳われた殺し屋の英霊は、数値だけでは測れない常識外の戦闘能力を有していた。
  だから、殺すために使わない予定だったものを使う。
  アーチャー・霧亥の主武装――重力子放射線射出装置(グラビティ・ビーム・エミッター)だ。


 (――不味いな。あれは)

  仕事柄、世界各地のあらゆる兵器を目にしてきた。
  これが神代の宝具や呪物であれば話は別だが、霧亥のそれは死神が生きた時代の後に生み出されたものである。
  年号自体ははるか彼方であろうと、面影さえ残っていれば、大まかに判別することは難しくない。

  つまり、あれは兵器だ。
  分かる。
  あれを使われれば、戦闘の中で他の物事を気にかける余裕は消滅すると。
  死神は素早く飛び退き、霧亥にも優る敏捷性を駆使して加速。

 「マスター、此処から決して離れないように」
 「え、あ、でも」
 「大丈夫。私を信じなさい」

  目を白黒させる智香の頭に手を置いて、それから銃を抜いた霧亥と再び相対する。

 (……どうしたものか)

  涼しい顔をしてはいるが、今度は一転、彼が苦境に立たされる側だった。
  智香を物陰に隠しはしたが、あんなものは所詮気休めだ。
  あの銃をもってすれば、建造物をぶち抜いて向こう側の彼女を殺害する程度は容易い。
  それが彼の見立てだ。幾らマスターが魔法少女という超常生命体であるとはいえ、サーヴァントの宝具で射撃されれば即死の未来は免れないだろう。
  しかしながら、此処は日中の街中だ。
  そんな場所で加減も考えない出力の射撃を行えば、最早民間人にその存在が露出する程度では済むまい。
  まず間違いなく、ルーラーが動く。
  そして見たところ敵のマスターは、そんな初歩的なミスを冒す阿呆ではないようだ。

 「やれやれ。正面戦闘は専門外だが……」

  この局面を切り抜ける手段は、一つしかない。
  彼にマスターを狙わせない。
  より正しくは、狙う暇を与えずに戦闘する。
  並大抵の難易度ではないが、出来なければ此処で脱落するだけだ。

  ――霧亥が引き金を引く。同時、死神は空間の張り裂けるような音を聞いた。


 「づッ―――」


  ――これほどか!
  その威力は、死神の予想した水準を二段階は軽く飛び越えたものだった。
  空間が捻れるような衝撃を伴って放たれる、現代の銃器など足元にも及ばないであろう高威力銃撃。
  予備動作を知覚出来たため、たたらを踏みながらも無事回避できたが、失敗したなら確実に殺られていた。 
  しかも恐ろしいのは、先程霧亥は「最低出力」と口にしていたことである。
  あの兵器にしてみれば今見せたような破壊は、全力の一割にも満たない余技であるというのか。
  自身の消費を顧みることもなく、人目への露見を最大限に抑えながら行え、それでいて魔術師の英霊が繰り出す強大な術にも匹敵した威力を持つセーブ状態での銃撃。


  ……難敵だ。
  死神ほどの殺し屋をして、そう結論付けざるを得ない。
  出来ることならこの手の敵とは正面からぶつからず、暗殺と不意討ちに徹して殺し屋らしく仕留めたかった。
  だが恐らく、それは不可能だろう。
  このアーチャーに限っては、正面戦闘をどの道避けられなかったはずだと死神は考察する。

  Aランクの気配遮断状態にあった自分を、察知していた。
  死神はプロであるが故、自身の隠形に一定の自信を置いている。
  英雄の格が高ければ高いほど。
  社会の矢面に立つ、光であればあるほど。
  死神の鎌は、それを的確に屠る。
  誰にも気取られぬよう闇へ潜りながら、人知れずその寿命をこそげ落とすのだ。

  その技の一環を、完全に読まれていた。
  咄嗟に対処したのではない。
  そもそも自分が"居る"ことを、予め察知されていた。
  気配探知のスキル――並びに千里眼。
  それも相当な高ランクで、このアーチャーは保有している。
  成程自分にとって、あらゆる面から難敵と呼ぶ他ない相手だ。

  二発目が来る。
  霧亥が引金に指を添えた瞬間を見計らい、死神は拳銃の残弾を全て撃ち放った。
  狙うはその手。引金に触れた指と手首に、合計四発の弾丸が襲いかかる。
  結果として、全て避けられてはしまったが、逆にそうしなければ一寸の狂いもなく全弾が霧亥に命中していた。
  回避の動作が終了する前に弾薬を補充し、再び四肢を狙った連続射撃。
  これも同じように回避される。――その分、霧亥の再射撃は更に先延ばしにされていく。

  霧亥もすぐに、敵手の意図する所に勘付いた。
  要は徹底してGBEを使わせず、回避に専念せねばならない自分の隙を狙い、その殺しの腕前を最大限に発揮した妙技の数々で此方を刈り取る算段なのだ。
  確かに死神が持つ数多の殺し技と、それを最適な局面に合わせて駆使する腕があれば、それも可能だろう。
  さりとて種が割れているのならば、対処することも容易である。

 「ぐ」

  霧亥は、敢えて弾丸の内の一発を受けた。
  肉が割れ、血が噴出する。
  その瞬間、死神が弾丸の補充のために一瞬だけ隙を見せたのを彼は決して見逃さなかった。
  GBEの銃身を盾に未到達の残弾を防ぎ、再び最低出力状態での銃撃を打ち込む。

 「くっ――」

  次に不利へ立たされるのは、死神の方だった。
  この戦いは双方が全く別ベクトルの強さを有している為か、戦況が一定しない。
  常に優勢劣勢が目まぐるしく入れ替わり、趨勢の天秤が最終的にどちらを下に選ぶのかは完全に予測不可能だ。

  曲芸のように体を逸らして回避に打って出た死神だったが、射出された力場の余波のみでその痩身が吹き飛ぶ。
  手にしていた筈の拳銃は、それだけで堪えきれずに砕けて地面へ散らばった。
  軽いとはいえ喀血さえしながら命を拾った彼が、生の実感を噛み締めるよりも早く、霧亥は追撃した。
  街路樹を粉々に吹き飛ばしながら殺到する破壊の力場は粉塵を巻き上げ、舗装された地面を破壊する。
  煙が晴れた時――そこに死神の姿はない。それを見て、仕留めたか等と戯言を漏らす阿呆はよもや居るまい。
  敵は死神だ。あらゆる困難を乗り越え、必ず敵を殺すと謳われた殺し屋なのだ。
  血の一滴も残さずに姿が掻き消えていたのなら――

 「そこか」
 「ええ、こちらですよ」


  ――人の後ろから、首根っこを狙っていると。そう考えるべきだ。
  振り向きざまにGBEを見舞わんとしていた霧亥は、しかし振り向いた先で一瞬、その動作を停滞させる。

 (見えない……?)

  いや、違う。
  見えてはいるのだ。
  討つべき死神の姿が、確かに視界には写っている。
  ただその姿形が、まるで霞か何かのように覚束ない。
  視界の右に居たかと思えば左に、更には中央に居るにも関わらず、そこからまるで気配を感じない時もある。
  気配の察知に一際優れた霧亥ほどのアーチャーを欺くなど、神代の暗殺者であろうと困難の筈だが……

 「そう大したものでもない。ただ、気配の運び方を工夫しているだけですよ」

  霧亥のスキルは健在だ。
  数キロメートルもの間合いをカバーする気配察知能力を欺くのはまず不可能。
  死神が小細工をしたところで、霧亥には彼の仄暗い気配が手に取るように分かる――そう、分かってしまう。
  そこが、問題であった。
  死神は気配を隠匿してはいない。
  むしろこれまでよりも分かり易く、気配を自ら放ってすらいる。
  霧亥が分かりやすいようにと、親切丁寧に。

  殺し屋にとって、気配の操作は必修科目だ。
  そしてそれを極めた者は、自らの気配を運び方一つで、無形の迷彩のように操ることも出来るようになる。
  此処まではある一定のラインまで極めた人間であれば、誰しもが至れる境地である。
  奥の奥まで『殺す』という事柄を極めた死神ならば、当然その扱いはより卓越したものとなる。

  死神は今、自身の気配をいわば点滅させていた。
  出す、消す、ぼかす、強める。
  それを絶え間なく繰り返すことで、霧亥の気配センサーとでも呼ぶべき機能を完全に撹乱しているのだ。
  暗殺者は時に弱点のみならず、こうして敵の長所にまでも付け入って仕事を完遂する。
  事実として今彼は、まさに霧亥の首筋を刎ねる一歩手前にまで迫っていた。
  その優れたステータスと恐るべき宝具をもってすれば、黒い鼠の一匹を殺すのは容易い。
  だがもしも仕留め損ねれば、その時鼠は毒牙を持って霧亥を食い破る。
  そういう状況にまで、只の一手で詰められた。
  恐ろしきは、死神の名を持つ殺し屋よ。

  霧亥はこの局面を打破するために、即断である選択肢を選び取った。
  出力を一段階上げ、力押しで滅殺する。
  当然死神にも予測可能な返し手ではあったが、あまりにもその威力が強大であるために、読んでいたとしても全力を尽くさなければ回避不能というのが恐ろしい点であった。

 (失敗すれば死ぬ――こういう状況は、随分と久し振りだ)

  少なくとも、『死神』としての彼にとっては久方振りの苦境だった。
  もし失敗したなら、間違いなく死神は死ぬ。
  マスターの選択を見届けることも出来ないまま、恐らくは最初の犠牲者として聖杯の糧になるだろう。
  懐かしい感覚。背筋に冷たい鱗を持った蛇が這い回るような悪寒に晒されながら、固唾を呑んで動向を窺う。
  早すぎても、遅すぎてもいけない。どちらだろうと、死ぬ。


  そして、霧亥の指が引金に触れた。
  銃口から莫大な破壊力を伴った力場のビーム弾は、さながら魔界の鉄砲水のよう。
  それは目の前で牙を剥かんとしていた死神の存在を焼き尽くし、この聖杯戦争から退場させる――


  そうなる一瞬前。
  重力子放射線射出装置に火を噴かせる引金を、霧亥の指先が弾く本当の寸前に。
  ――恐るべき破壊兵器の柄を握る右手を含めた彼の両腕が、半ばほどで切断された。




  分の悪い賭けだった。
  らしくもない綱渡りをしたと、死神は思う。
  彼が霧亥の撹乱に用いた、『気配の点滅』。
  結局のところをいえば、あれも囮の一環であったのだ。
  彼の本命は最初から、霧亥の両腕を奪い、宝具の使用を不可能にすること。
  その為には、霧亥にそれを気取られぬように立ち回る必要があった。
  注意を逸らすために多芸を駆使し、囮の刃で首を斬ると見せかけつつ、本命の刃を這わせる。
  糸(ワイヤー)を使った暗殺法は、随分前に学んだ。実際に使い、標的を仕留めたことも一度や二度ではない。

  それでも、上手く行くかは本当に賭けだった。
  気付かれないようにその両腕の下部まで糸を届かせ、完全に警戒が消えた一瞬で切断する。
  ――もし仕損じれば、本当に殺されていただろう。

 「!」

  だが、まだ勝負は決まったわけではなかった。
  死神をその場から飛び退かせたのは、両腕を失い、大きな不利を被ったはずの霧亥の前蹴りだ。

 (あれで――まだ続ける気なのか!)

  四肢の内半分を失ったのだから、これまで通りのバランス感覚で戦いを続けることは困難を極める。
  まず普通の人間であれば、片腕を失っただけでも戦闘の続行は不可能だ。
  そもそもそれ以前に、そんな大傷を受けて尚戦闘を続けようとすることが、先ず異常と言わざるを得ない。
  霧亥は、まさにその異常だった。彼は死神をして戦慄を禁じ得ないほどの、異常者だった。
  腕を削がれたというのに、交戦の意思を失った様子が欠片もない。
  戦意喪失とまではいかずとも、撤退なり何なりするのが定石であろうに、その戦意は不退転だ。
  それどころか、負傷したことを意に介してすらいないように見える。
  どういう精神構造をしているのか。――まず間違いなく、まともではないのだろう。

 「――がは」

  足技の達人が如く淀みなき動作で繰り出される蹴り上げを片腕を盾にして受け止めるが、衝撃は腕を貫通してその胴体へと容赦なく押し寄せた。
  空気を吐き出しながらもどうにかリーチから逃れ、今度はその首を切り落とす算段を立てる。
  数秒の内に次の攻め筋を見出した死神は、不意に視線を自らのマスターの方へと向け。


  銃口を突き付けられている、彼女の姿を目にすることとなった。




  想定外だ。
  衛宮切嗣は、内心の舌打ちを堪えられなかった。
  あの霧亥が、単体戦闘で押されている。
  此処が市街地であるということも手伝っての状況だが、それでも俄には信じがたい場面であった。
  しかし、それでも致命的というほどの展開ではない。
  霧亥は、不死だ。比喩でも誇張でも何でもなく、マスターである自分が生存している限り、霧亥は死なない。
  これほど追い込まれたのは初の事態だが、両腕程度であれば、魔力供給さえしてやればそう時間はかかるまい。

  もう一つの誤算は、切嗣自身、霧亥というサーヴァントの底を見誤っていたことだ。
  腕を落とされても尚、あれほどの勇猛さで戦闘を続行できるとは――正直な所、計算外だった。
  両腕を欠いた状態でも十分、奴は敵のアサシンを引き付けることが出来る。
  ならば、切嗣がやるべきことは最早一つしかない。

 「あ……」

  アサシンの手で気休め程度に逃された、彼のマスターの抹殺。
  二人の交戦に変わりがないのを確認してから、切嗣は素早く敵マスターの居る位置へと踏み込んだ。
  片手に持つのは小柄拳銃。これで頭を撃たれれば、魔術師だろうと大半は死ぬ。
  衛宮切嗣は外道ではない。だが、冷血になれる人間だ。敵は敵、そう割り切って子供だろうと殺せる傭兵だ。
  だから、ごく普通の中学生である建原智香に銃口を向けることへ毛ほどの躊躇いもなかった。
  あまり、時間はない。彼女のアサシンを霧亥が受け持っている内に、疾く事を済ませる必要がある。

 「あ、の」

  今まさに殺そうとしていた少女が、おずおずと口を開いた。

 「あなたは、どうして」

  構わず、額に銃口を当てる。

 「聖杯を――」
 「君に、それを語る必要はない」

  問いかけを最後まで聞かずに、切嗣はぴしゃりとそれを切り捨てる。
  聖杯に何を望むのか。
  そう、語る必要などない。
  これから死ぬ人間に、それを語って何になる。
  何にもならない。何にもなりはしないのだ。


  切嗣は銃の安全装置を外し、射殺の準備を整えた。
  余計な感傷を介入させず、指先を引金に運ぶ。
  そこで、彼の視界は眩い閃光に遮られた。

  ――なんだ?

  閃光弾のように、視力を奪う輝きではない。
  人工的な光とは異なった、どこか不思議な印象を抱かせる光。
  光源は、今まさに殺そうとしていたアサシンのマスター以外には考えられなかった。
  聖杯戦争の参加者である以上は、何か隠し玉を秘めていてもおかしくはない。
  だとすれば、速やかに処理を済ませてしまうに限る。
  切嗣は光の晴れつつある視界の中、少女が居る筈の位置目掛けて拳銃を発砲した。
  そう、撃った。そして、当たった。だが。

 「提案があります、アーチャーのマスター」

  霧亥と戦っていた筈のアサシンが高く跳躍し、マスターの傍らへと立った。
  対面する切嗣の表情には、少なくない驚きの色が刻まれている。
  彼の前にあった筈の、何処にでも居るような女子中学生の姿は既にない。代わりにそこへ立っていたのは、料理人のような衣装に身を包んだ、絶世のものと言っていい可憐な容貌を持った少女だった。
  弾が命中した手応えはあったのに、傷らしいものは頬に走った一筋の赤い線以外には見受けられない。
  まるで、人間ではない――もっと強くて夢のある、何かに攻撃したように。

 「これ以上の戦闘継続は、此方としても望む所ではない。
  今日のところは一つ、互いに痛み分けということで手を打ちませんか?」
 「……」
 「もしくは」

  切嗣が従える霧亥は、両腕を死神の絶技によって奪われた。
  修復が可能であるとはいえ、大きな痛手であることに変わりはない。
  一方の死神も、涼しい顔をしてはいるが蓄積したダメージの総量は少なくないのだろう。

 「一つ、同盟というものを結んでみるというのは」
 「……おまえ達は、聖杯戦争に乗っていないんじゃないのか」
 「正しくは、"現状は"未定――といったところです。
  もしも我々が乗ることになったなら、その時はそちらも我々を利用すればいい。
  最後まで乗る方を選ばなかったとしても、事実上の非戦協定だ。双方にとって益があると、そう思いますが」

  彼の言うことは、確かに一理ある。
  彼らが乗るにしろ乗らないにしろ、当分の間の敵が一陣営減ることに変わりはないのだ。
  まして、相手は切嗣が目下最大の警戒を払っていた相手――フリーランスの傭兵として培った様々な技術を悉く上回り、戦闘能力までもが申し分無しという恐るべき暗殺者だ。
  彼の言う通り、同盟を結ぶことに益はあっても損はない。
  それにいざとなれば、霧亥がより本領を発揮できる場面で一方的に屠っても構わない訳だ。
  僅かな逡巡の後、切嗣は申し出を許諾すべく口を開いた。

 「……分かった。その話を、呑も――」




 「避けろ」

  背後から聞こえた、地の底から響くような声音。
  切嗣は、背筋が凍る感覚を覚えた。
  咄嗟に全力でその場から飛び退くと、そこには彼が一瞬前まで存在していた地点を突き抜けて、死神へと猛進していく両腕を欠損した男の姿。

 「な……待て、アーチャー!」

  両足と、あとはせいぜい頭くらいしか戦うための武器を持っていないにも関わらず、まるでそのことを意に介していない。万全の状態であるかのように、そして事実、万全時と変わらない勢いで攻撃を仕掛けていく。
  マスターの指示など、完全に無視して。己の敵を討つために、霧亥は疾駆する。

 「……君のマスターは、停戦を望んでいるようだが」

  答えが返る。
  言葉の代わりに、抉るように鋭い爪先の一撃で。
  死神は智香――もとい。
  魔法少女「ペチカ」を片腕で抱き留めながら、ダンスパーティーに臨む紳士のように軽やかな動きで肉を砕く魔人の蹴撃を回避、距離を確保しつつ上着の内ポケットから抜いたサバイバルナイフを投擲する。
  刃は霧亥の膝を貫けずに砕け散るが、その歩みを一瞬止めることは出来た。

 「変身を解かないように。少々激しく動きます」
 「は、はいっ」

  死神が飛び上がる。
  近くの民家の屋根上へ、気配を最大限に殺すことで民間人への情報露出を避けつつ、霧亥を撒かんと駆ける。
  敵がこれほど物分りが悪く、直進的なサーヴァントであるとは予想外であったが、それでも事逃げ戦にかけては此方の方が数段秀でている。
  屋根を足場に、時に街路樹のように不確かなものさえ道としながら、逃れるための技術。
  距離は徐々に突き放せつつある――だが、油断は出来ない。
  霧亥は高い気配察知スキルと、優れた千里眼を併せ持った怪物だ。
  例の宝具銃が無くとも、脅威であることに違いはない。

  高度十五メートル以上は優にあるだろう建築物の真上から身を躍らせ、追撃に現れた数十メートル後方の霧亥目掛けて死神は小さな球体を投擲する。
  それは単なる火薬玉。子供の工作レベルの品でしかない、お粗末な即興武器だ。
  されどこれもまた、死神の宝具『萬の術技』によって霊体へ通用する手榴弾の役割を果たす。
  だが、所詮は即興。威力は大したことはなく、サーヴァントを傷付けられるとはいえ、それを殺害するまでには遠く及ばない程度のものでしかない。
  あくまでも、目眩まし。追い付かれないための工作が一環。

  後方で起こる爆音には振り返らず、死神はペチカを抱えたままアスファルトの地面へと着地。
  どんなハリウッドスターでも完全な生身では不可能だろうアクションは、しかし通行人の誰にも気に留められることなく、何事もなかったかのように彼らの中で処理された。
  人心へ取り入る能力。警戒をさせない能力。先程披露した、気配操作の応用系の一つだ。




  そのまま人混みを潜り抜けながら、死神と魔法少女は十数分に及ぶ逃走劇を繰り広げた。
  霧亥の追跡が止んでからも、数分間は逃げ続け。
  漸くその足を止めた頃には、彼と彼女は中学校から随分と離れた位置にまで来ていた。
  完全に撒いた――というよりも、あちらに追撃を諦めさせたことを確認し、死神はその場へ片膝を突く。

 「だ、大丈夫ですか? その、怪我は――」
 「致命的な傷は全て外しています。その状態の君で居てくれれば、数時間ほどで完全に回復できるでしょう」

  死神は、思い返す。
  ……バーサーカーと錯覚してしまうほどに、攻撃的なアーチャーだった。
  四肢の半分を破壊してなお、脅威的な正面戦闘能力を発揮した彼。
  もしも出会った場所が街のど真ん中ではなく、郊外の人気がない場所などであったなら、確実に殺されていただろうという確信がある。

  言わずもがな、理由はあの宝具だ。
  あれだけの威力を低出力帯で叩き出せるというのだから、最大出力がどの程度かなど想像もしたくない。
  もう一度戦ったら、勝てる可能性は限りなくゼロに近いと言っていいだろう。
  一応使っていない技術も幾つかあるが、少なくとも精神を揺さぶる類のものはもう通じないと見ていい筈だ。
  そもそも正面戦闘に持ち込まれることすらなく、遠距離からの一方的な狙撃で消滅――という可能性もある。
  仮に死神があの兵器を持っていたなら、そうしている。

 「最低でもあと一時間は気を張っておいて下さい。
  此処から更に距離を離します。私は暫し霊体化して回復に努めますが、様子はちゃんと窺っていますからご安心を。何処へ向かうかは、マスターの自由でいい」

  策を練らねばなるまい。
  あのサーヴァントと再度関わる羽目になった時、どうするかの策を。
  神と呼ばれた人間は殺意を蠢かせ、輝ける魔法少女は未だ未覚醒。
  彼女の聖杯戦争に、始まりの兆しはない。
  いまは、まだ。


【A-5/路上/一日目・午後】

【ペチカ(建原智香)@魔法少女育成計画restart】
[状態] 健康、魔法少女体
[令呪] 残り三画
[装備] 制服
[道具] なし
[所持金] 一万円とちょっと
[思考・状況]
基本行動方針:未定
0:此処から離れる
1:聖杯を手に入れ、あのゲームをなかったことにする?
2:魔法少女として、聖杯戦争へ立ち向かう?

【アサシン(死神)@暗殺教室】
[状態] 疲労(中)、腹部にダメージ(大)、全身にダメージ(中)
[装備] なし
[道具] いくつかの暗殺道具
[所持金] 数十万円程度
[思考・状況]
基本行動方針:マスターを導く
0:回復。
1:方針はマスターに委ねる
2:バーサーカー(ヒューナル)に強い警戒。
3:アーチャー(霧亥)を討つ策を考えておく




  結論から言えば、霧亥は死神を仕留められなかった。
  帰還した彼の回復を急がせつつ、切嗣は手持ちの煙草に火を点ける。
  思うようには行かない結果となったが、それ自体にはさして不満はない。
  確かに、敵を逃してしまったのは痛い。
  霧亥が序盤から大きな負傷を受け、早くも万全に行動できない状態になってしまったのも厄介だ。しかし霧亥の回復能力は並のサーヴァントを遥かに凌駕している為、この程度ならばさしたる損害とは成り得ない。
  それよりも問題とすべきなのは――霧亥というサーヴァントが垣間見せた、その精神性である。

  悪い意味での、想像以上だった。
  精神異常のスキルを持つ以上、いつか面倒を生むだろうことは察しが付いていた。
  これまではあくまで漠然としたものであったその危惧は、今やはっきりとした形になって切嗣の脳裏へ刻み込まれている。すなわち、霧亥の暴走。
  彼は気に入らない、殺害対象と判断すれば、同盟の益など無視して殺しに掛かるのだ。
  またああいったことが起これば、今度はよりぎっしりと、必ず彼の暴挙が切嗣の首を絞める。

 (……取り敢えず、今は――)

  一先ず今は、これからの方針を確たるものにするべきだろう。
  だが霧亥という駒をどのように使っていくかについても、近い内に結論を出す必要があると切嗣は判断した。
  彼を抑えられるなら、令呪の使用も勿体ぶってはいられないかもしれない。
  早くも立ち込め始めた暗雲に小さく嘆息しながら、切嗣は紫煙を吐き出した。


【A-2/S中学校付近/一日目・午後】

【衛宮切嗣@Fate/Zero】
[状態] 健康、軽度の苛立ち
[令呪] 残り三画
[装備] なし
[道具] 小型拳銃、サバイバルナイフ(キャリコ短機関銃を初めとしたその他武装は拠点に存在)
[所持金] 数万円程度。総資金は数十万以上
[思考・状況]
基本行動方針:聖杯による恒久的世界平和の実現
1:今後どうするかを考える
2:アインツベルンの森の存在が引っ掛かる
3:討伐対象の『双子』を抹殺し、令呪を確保したい


【アーチャー(霧亥)@BLAME!!】
[状態] 疲労(小)、両腕切断(回復中)、全身に細かな傷(回復中)
[装備] なし
[道具] 『重力子放射線射出装置(グラビティ・ビーム・エミッター)』
[所持金] なし
[思考・状況]
基本行動方針:聖杯獲得
1:サーヴァントの討滅
2:アサシン(死神)は殺す

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最終更新:2016年04月29日 16:31