0403:愛をとりもどせ!!


 恥の多い生涯を送ってきました。

 はじめてズレを感じたのは、あの石仮面に出合った時でした。
 赤鼻の道化師さんは自分を殺そうと銃を向け、嫌がる自分の服を無理やり引きちぎり、
「派手に散れ~い」と言っては満足げに高笑いするのです。
 弱い人間だった自分は何も抵抗することが出来ず、道化師さんの真っ赤なお鼻に目を奪われるばかり。
 ただ死を待つだけの、他愛もない弱者の最後。
 そんな絶望的状況を一変してくれたのが、石仮面。
 自分は人間をやめ、人間を超越し、人間を殺したのです。
 今でも時々思うのです。あの頃の自分は、まだ人間でいれたのでしょうか?
 好きな人も、友達も、どちらにも『逢いたい』と願っていた頃の自分は、まだ人間だったのでしょうか?
 今は、もう違うから。
 なおさら、考えてしまうのです。


   ♪


「そんなボロボロの姿で、いったいどこへ行こうと言うのかしら」

 雨は止むも、未だ晴天は覗かず。
 残りカスのように散布する雨雲は太陽の光を遮り、少女の活動を助力する。
 加えて、ここは太陽光も覗かない程の広葉樹林に囲まれた深い森の中。
 影の細道で遭遇した二人に、『光』という名の邪魔者はない。

「……東城綾、か」

 フェニックスの聖衣を身に纏った、満身創痍の拳闘士が一人、そこに立っていた。
 彼の名はケンシロウ。
 彼に話しかけた少女とは初対面のはずだが、ケンシロウはその少女を知っていた。

「私のことは、西野さんから聞いたの?」
「ああ。君が人間をやめたということもな」
「そう。それなら話が早いわ」

 年齢不相応の妖艶な笑みを零しながら、綾はケンシロウに歩み寄った。
 近づく歩幅は狭く、細かい。リンやユリアとなんら変わりない、女性の歩み。
 当たり前だった。彼女は西野つかさの友達で、こんなゲームに参加していること自体がおかしい、ただの女子高生なのだから。
 そう、『この間』までは。

「『DIO』があなたを捜している。あなたも、DIOと決着を付けたいのでしょう? 案内するから私に付いて来て」

 綾は翻り、ケンシロウに背中を見せる。
 彼女自身は、ケンシロウに殺意を持ってはいない。
 綾はDIOの手足として、彼を戦場に運ぶだけだ。
 一歩、二歩、三歩、足を運ぶが、後を付いて来る気配は動かない。

「……どうして付いて来ないの?」

 綾の誘いに、ケンシロウは反応を見せなかった。
 脚を動かさず、視線を逸らさず、拳は握らず。
 ただ一点、目の前で振り向いている少女を見つめて。

「そう。ロボットさんにやられた傷が痛むのね……そんな身体ではDIOには勝てない。
 だから、私に付いて来れない。そういうことね」

 ケンシロウが負った傷は、綾の目から見ても酷い。
 これではDIOは到底――吸血鬼となった綾とて――倒せない。

「あなたも人間……命が惜しいのね。
 でも、私はあなたをDIOの元に連れて行かなければならない。力尽くでも」

 ケンシロウと正面から向かい、綾は不気味に微笑んだ。
 彼女の役目は、あくまでもケンシロウをDIOの元に導くこと。
 綾自身に戦意はないが、彼が従わないと言うのであれば、その時は。

「……君は、何故西野つかさを殺害した?」

 爪を研ぎ始めた吸血鬼を前にしても、ケンシロウは未だに拳を作らない。
 目の前の少女を『東城綾』と見て、数時間前に起こった事の真意を問いただす。

「つかさは、東城綾のことを友達だと言っていた。例え人間をやめても、それは変わらないと」
「……あなた、人を愛したことってある?」

 質問するケンシロウに、綾は質問で返した。

「『愛』っていうのはね、人を狂わせるの。人は誰かに愛を抱くと、もうその人のことしか見えなくなる。
 特に、自分以上に想い人の近くにいる人物には、敵意を抱くまでに。こういうの、嫉妬とか妬みっていうのよね。
 彼女は、私が持っていないものを持っていて、私なんかより、ずっと真中君との接し方が上手くて……憎い。
 だから友達だって……単なる『お邪魔虫』にしかならない」

 視線の先は虚空、太陽の覗かない天に、綾は死後の世界を見据える。

「……それは、つかさのことを言っているのか?」
「今は、『彼女』の話をしているんじゃなかったの? 違った?」

 綾は悪ぶった態度を見せることもせず、ただ平然とケンシロウの質問に答えていった。
 西野つかさ、という友人を殺めたことを否定もせず、ケンシロウがつかさと仲間関係にあったという事実も知っている上で尚、

『AYA』は、不気味に哂う。

「でもね、西野さんの言うとおり、私と彼女は確かに友達だった。だから、ちゃんと償いもする。
 ……DIOが優勝したら、西野さんを生き返らせてもらうって形でね」
「何故、共に生き延び、この世界から脱出しようと考えなかった」
「夢みたいなことを言うのね。脱出なんて、できるわけがないじゃない。
 西野さんもそうだけど、みんなもっと現実を見たほうがいいわよ」

 綾の思考に、西野つかさとの共存という道は示されていない。
 それはこの世界に来てからなのか、綾が吸血鬼になってからなのか。
 それとも、初めから綾とつかさの敵対関係は崩せないものだったのか。
 これが、つかさと綾を取り巻く『愛』の形なのか。

「死者の蘇生は信じておきながら、脱出の可能性は否定するのか」

「夢物語と幻想物語は違う。知ってるでしょ? 私、今は吸血鬼だけど昔は人間だったのよ。
 一度死んで、人間を超越して、今の私がいる。これが、私が実際に体験した『幻想』。
 脱出なんてものは……強さも持たないのに高望みをする、お猿さんの『夢』物語」

 ふと、綾が虚空から目線を外し、ケンシロウの瞳と交差させる。
 その瞳に、輝きはない。
 君臨者が下等生物を見下ろすかのような、完璧なる侮蔑の眼差し。
 あの明朗快活だったつかさの友達が、こうも非人間的な瞳を持っているというのか。
 所詮、人間と人間をやめた者では、住む世界が違うというのか。

「理解した? あなたはDIOと戦い、殺される。そして私とDIOは他の参加者達も駆逐し、最後まで生き残る。
 そこまでいったら私は優勝を放棄して……ご褒美はDIOのもの。
 DIOが生き残り、西野さんは生き返り、私は死後の世界で真中君と一緒に暮らすの」

 人間らしさを失っていた綾の瞳にただ一つ、『夢見る少女』の輝きが戻った。
 彼女に言わせれば、死者の蘇生は決して不可能ではない『素敵なファンタジー』。
 ケンシロウに言わせれば、死者の蘇生は絶対不可能な『素敵な御伽話』。これは、つかさやリサリサも否定していたこと。

 ただ、愛する人のため。

 信憑性なんてものは、ないも同然だとしても。

 愛しいあの人のことを思えば、夢を見ることも、ファンタジーに浸ることも。

 殺戮、裏切り、服従、どんなに愚かで屈辱的な行為も。

 目的のためなら、やり通せる。

 それが、東城綾の『愛』。

「…………歪んでいる」

「え?」

 ケンシロウの表情には、怒りも哀れみもない。
 道端の小石に顔色を変える必要性はないように、ケンシロウには綾に対して表情を変える理由がない。
 悪に対しては徹底的なまでに非情になる北斗神拳。
 その拳は、恋に生きる少女に振るうべきものではない。

 ただ、
 無表情で、一言だけ。
 綾の『愛』に関して、素直な感想を述べる。

「そんな歪んだ思想は、『愛』でも、『嫉妬』でもない!」

 顔色を変えずに言い放った言葉は、無表情ながら怒りにも似た激昂の凄みを秘めていた。
 ウォーズマン戦での負傷もあり、元々表情が険しかったせいもあるのだろう。
 綾はケンシロウが戦意を剥き出してきたと錯覚し、静かに身構え始める。 

「……あなたは、私の真中君への愛を否定するの?
 こんなゲームに巻き込まれて死んでしまった真中君のために、私がやろうとしていることを……否定するの?」

 静かに、怒り始める。
 何も知らない、恋する少女の気持ちも分からない無粋な男に、敵意を返して。

「独り善がりはやめろ! 真中淳平はそんなことは望んでいない!」

 ケンシロウがいよいよ拳を握り締め、熱弁した。
 握った両拳は振るわず、言葉を伝えるためだけに使う。
 道を誤った少女に、ケンシロウが考える『愛』を説かんがために。 

「つかさは死んだ真中淳平の分まで生きようとした!
 だが綾、お前は愚かにも死者に縋りつき、つかさのいない世界で彼を手に入れるという『夢』物語に浸っている!」

「それは、西野さんの真中君に対する愛情がその程度だから……ッ!」

「違う! 西野つかさ東城綾……より愛が深かったのは、つかさの方だ!
 つかさは思い人だけではなく、強敵(とも)であるおまえの生存も願った!
 つかさの『愛』の前に……おまえはもう『負けている』のだ!」

 ――この人が何を言っているのか、理解できない。
 私の愛が、西野さんに劣る?
 愛しさのあまり、友人までをも手にかけた私の愛が?
 だって、西野さんは真中君のことを見限ったのよ?
 私は、死んでまで真中君に逢いたいと思っているのに。
 何が死んだ真中君の分まで生きるよ。
 本当に真中君のことが好きなら、もっと真剣に――

「聴け、東城綾! つかさが、生前お前に残した――遺言を!」

「!」

 まだ、西野つかさという少女が生きていた時のこと。
 死者に固執しなかった彼女が最後に思っていたのは、掛け替えのない友達のこと――


   ♪


 ――綾さんのことについて教えて欲しい?

 そうだ。元は人間だったが、今は吸血鬼に変貌したというその少女……いったい、つかさとはどういう関係なのだ?

 ――どうって……うーん……友達?

 何故疑問符を浮かべる?

 ――友達って言っても、いつも一緒の仲良しさんってわけじゃなくて……同じ人のことを好きになった、相容れぬ存在っていうか……

 つまりは、恋敵か。

 ――言っちゃえばそうなんだろうけど……敵、って言うほど憎しみはないっていうか、むしろ私は綾さんのこと大好きだし。

 ならば、好敵手、というのはどうだ?

 ――そう! 正にそれ! 好敵手(ライバル)!
   同じ人を好きになったから、間接的に知り合えたっていうか、強敵と書いて『とも』って読む感じ!

 強敵(とも)…………なるほど。

 ――なんだかすっきりしたよ。綾さんは確かに恋敵かもしれないけど、やっぱり大切な友達だし。
   強敵(とも)って言葉なら、意味がピッタリ嵌る。

 ……つかさは、綾のことを今でも強敵(とも)と思っているのか? 彼女が、人間をやめてしまったとしても、強敵(とも)だと。

 ――当然!!


  ♪


 かつて、ケンシロウにも強敵(とも)と呼べるような男がいた。
 敵であり、友人でもあり、互いに強さを賞賛し合った仲。
 彼亡き今も、ケンシロウは強敵(とも)の勇士を忘れてはいない。
 この腐った世界においても、彼は己の拳に殉じ、拳王として誇らしく死んでいったのだろう。

「う……」
東城綾! おまえは、つかさが『強敵』と認め、『友』と慕った『人間』だ!
 ならば、死んだ彼女に恥じぬよう……最後まで、東城綾としての誇りを捨てずに生きてみろ!!」

 つかさの殺害を咎めるでもなく、ケンシロウは決して悪とは呼べない吸血鬼相手に、生きろ、と。

 間違っている。

 東城綾は、もう死んでいるのだ。

 ここにいるのは、石仮面の力で蘇ったAYAという名の吸血鬼。

 人間の血を吸い、私欲のために友をも手にかける、最低の吸血鬼。

「う…………URYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYYY!!!」

 生きろなんて言うのは、お門違いだ。
 ケンシロウも、つかさも、
 誰も、何も分かってない。

 静かに雄叫びを上げ、綾は感情を爆発させた。
 人間をやめた代償として手に入れた、超人的な腕力。
 それを遺憾なく発揮した平手で、ケンシロウの頬を殴りつける。

「あなたに何が分かるのよ! 
 あなたに、人間を『やめさせられた』女の子の、愛する人を失った女の子の、友達を殺してしまった女の子の気持ちが分かるって言うの!!?」

 猫をぷちっ、と殺してしまうほどの綾の力は、決してノーダメージというわけにはいかない。
 その威力は、全力全開の少女の拳でも絶対に到達できない次元のもの。
 ケンシロウはその平手を避けるでもなく防ぐでもなく、棒立ちのままその身に吸収していった。

「…………」

 哀れみとは違う、悲しそうな瞳を綾に向けながら。
 感情を見せず、穏やかな物腰で、綾の猛攻に耐える。
 無言で、綾の奇声交じりの攻撃を受け続ける。

「なんで……反撃してこないのよ。私を哀れんでるの? 私を愚か者だって、相手にする価値もないって思ってるの?
 私は……私はただ! 真中君も、西野さんも幸せになれる道を選んだだけなのに……」

 よもや、このまま殺される気なのではないだろうか。
 そんな心配も巻き起こったが、今は自分の感情が抑えきれない。
 初対面の男に全てを否定され、罵られた綾は、もはや冷静ではいられなくなっていた。

「――KUAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAAA!!!」

 平手を握り拳に変えて、綾が腕を振りかぶる。
 それでも、ケンシロウに抵抗の様子は見られない。

 分からない。この人は何故抵抗しないの?
 分からない。私は何故こんなにも心を乱しているの?
 分からない。私は西野さんを、どうしたかったの?

 殺して、生き返らせて、仲良く暮らして、幸せになるのは、喜ぶのは、いったい誰?

「あっ……!」

 考えながら、拳は振りかぶられた。
 加減の知らぬ吸血鬼渾身の一振り。
 防がなくては、さすがにただでは済まない。

 それでも、ケンシロウは動かない。
 唯一動いた箇所は、右と左、両の瞳。
 未だ悲しげな色を浮かべながら、ケンシロウの瞳は――綾の頬を伝い落ちる、一滴の雫の行方を追う。

 それを目にした瞬間、ケンシロウは思ったのだ。

 人間をやめた? 馬鹿な。

 東城綾は、まだ『人間』ではないか――


  ♪


「白昼堂々婦女暴行か? ケンシロウ。
 このDIO、たった7年とはいえ貴族の家で育った身として、見過ごすわけにはいかんなぁ」

 ――その男の出現は、あまりにも唐突。
 ケンシロウと綾、二人の前に割って入ったのは、いつか見たブロンドの髪。
 振り翳された綾の腕を労せず防ぎ止め、結果的にケンシロウを死の窮地から救って見せたのは――『真に人間をやめた者』。


      ―― 俺は人間をやめるぞ、ジョジョーーーーーーーッ!!! ――


 あの時から、もう100年以上もの時が流れた。
 流れすぎた時間は、その男を正すことを不可能にさせた。
 完璧に、人外。
 身体的にも、道徳的にも。
 全てにおいて、『悪』。

 こいつだ。
 こいつこそ、北斗神拳が断罪すべき標的なのだ。

 ケンシロウが、いよいよ拳を握り締める。

「でぃ、お」

 自身が流した涙には気づかぬまま、綾は主の登場に感情を落ち着かせつつあった。

DIO…………ッ!!」

 反比例して感情を高ぶらせたのは、ケンシロウ。

「久しいな、ケンシロウ」

 ゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴゴ、と不穏な空気が周囲を包む。
 吸血鬼二人と傷だらけの男が一人、一触即発な雰囲気の中で、いがみ合うでも争うでもなく、ただ視線を交差させている。
 これから起こり得るであろう展開は、当事者達にしか分からない。
 だが、進む道は一つ。
 ケンシロウとDIO――二者が顔を合わせた時点で、終息までの一本道は形成されたのだ。

「予定通り……あまりにも予定通りの筋書きで安心したぞ、ケンシロウ。
 お前は必ず、再度このDIOの前に立ち塞がる……例え死に掛けの致命傷を負っていたとしてもだ。
 事実、お前はウォーズマンとの戦闘を終えた直後であるにも関わらず、このDIOを追ってここまで来た。
 ククク……それほどまでに憎いか? それほどまでに危機感を持っているというのか? なぁケンシロウ――」

「御託はいい。言ったはずだ。貴様は、この俺が倒すと」

 二人の激突は、脇を逸れることの出来ない絶対直線の一本道を進むかの如く回避不能。
 悪を絶対に許さぬケンシロウと、自らを悪と自覚し、帝王を名乗るまでの誇りを持つDIO
 共存の道はない。あるのは、衝突の道が一つ。
 進むのは、必然。綾という架け橋が、二人をこの道に誘ったのだ。

「御苦労、AYA。お前はそこで見ているがいい……このDIOと、『ザ・ワールド』が持つ絶対的な力を。
 マミーの時などとは比べ物にならないほどの、極上の安心感を与えてやろう」

 DIOは綾に労いの言葉をかけると、自ら前面に躍り出てケンシロウと対峙した。

 ――これで、綾の目的は達成された。
 あとは全て、DIOに任せておけばいい。
 ケンシロウの、綾が信じて疑わなかった『愛』を否定した奴の、駆除を。

 これで安心できる。そう思った矢先だった。
 頬を流れる熱いものに気づき、綾は動揺した。
 涙。とうに失ったと思っていた水の雫が、蘇っている。
 あの時と、つかさを自らの手で殺めた時と一緒だ。

 感情を揺さぶられたまま、周囲の環境は綾を取り残して、用意された道を直進していく。
 ケンシロウ VS DIO――避けられぬ必然の闘争が、今。


「俺は、貴様から全てを奪い取る! 
 自身の力に驕り偏った『安心』!
 他者を脅かす害としかならない貴様の『生命』!
 そして、貴様が縛っている東城綾という『人間』を!」

「やってみろケンシロウ! WREEEEEEEEYYYYYYYYYYYYYッ!!」


 開幕した――


 暗雲と無数の大木によって光を遮断された暗い世界で、二人の男が戦いを始める。
 片や世紀末を生き抜く拳闘士、片や人間を超越した吸血鬼。
 実力的には共に人外の位に立つ二人が、己の肉体を駆使し、拳と拳で殴り合う様は――正に、男の戦い。

「あたぁッ!」
「フン、無駄ァ!」

 ケンシロウが飛び蹴りを仕掛け、DIOがそれを寸前で回避、身代わりに木が一本へし折れる。
 カウンターに繰り出されるのは、DIOの分身であるスタンド、『ザ・ワールド』の拳。
 的確にケンシロウのこめかみを狙った一撃は、回避行動を取った標的の鼻っ面を掠め、空を切った。
 ケンシロウの反撃。振り被られた『ザ・ワールド』の腕に狙いを定め、指先を突き刺す。
 秘孔と呼ばれる人体急所を狙った、北斗神拳必殺の一撃。
 決まりすれば、防御不能の内部破壊を引き起こす――はずも、やはり当初の危惧通り、

「無駄無駄無駄ッ!」

(『スタンド』に、秘孔は存在しない――ッ!?)

 人型をしているとはいえ、本来ならば常人には見ることも叶わぬ霊体のような存在、それが『幽波紋(スタンド)』。
 ダメージは使い手であるDIOに直結して伝わるが、人体のある一点を的確に狙う北斗神拳の真髄は、スタンド越しでは発揮されない。
 加えてDIO本体も、ウォーズマンと同じくただの人間ではない。
 吸血鬼に秘孔が存在するのか――結論を出す暇もなく、DIOの猛攻は降り注ぐ。

 1――2――3、とテンポのいいリズムで繰り出される拳の連撃は、執拗にケンシロウを付け狙う。
 パワー、スピード、テクニック。あらゆる面で秀でた『ザ・ワールド』の格闘能力に、さすがのケンシロウも防御を強いられた。
 途切れぬ連続攻撃は防御側に焦りを煽り、決死の反撃をも無駄な行為にしてしまう。
 闇雲に放ったケンシロウの拳は『ザ・ワールド』の拳に迎撃され、新たな隙を生む。
 1、2、3、と速まるテンポに呼応して、『ザ・ワールド』の拳は威力を上昇させていく。

「ぐっ!」

 遂には防御を崩され、ガードごと後方に弾き飛ばされるケンシロウ。
 休むことなく追撃するDIOと『ザ・ワールド』に成す術が見い出せず、瞬間的に回避に移った。

「どうしたケンシロウ! 防御と回避だけでは、このDIOを屈服させることはできんぞォ!!」

 一際大振りな拳が、ケンシロウの頭部を打ち砕かんと放たれる。
 ――この一撃。この一撃を待っていた。
 自身の力に絶対の安心を覚え、決定打を狙わんとする隙の生じやすい攻撃――反撃を狙うのに、これほど効果的なタイミングはない。

「うあたたぁ!!」

 刹那、音速に匹敵するほどのスピードでケンシロウの拳が三打、『ザ・ワールド』に打ち込まれる。
 これまでの防戦一方は、相手を油断させるための演技――
 そう言わんがばかりの攻撃力を持った刹那の三連撃に、『ザ・ワールド』ごとDIOの身体が吹き飛ばされた。

「ぱべらぼっ!? …………グヌゥッ」

 それまでの愚直な攻勢を悔いるように、一転してDIOはケンシロウから距離を取る。
 ケンシロウも、反撃が成功したからといって無理に追撃を仕掛けることはしない。
 戦況を冷静に判断し、より効果的な攻撃を放つ。
 それが単なる殴り合いの戦いだとしても、勝負の世界には決して無視することが出来ない、場の流れというものが存在するのだ。
 それを的確に把握して初めて、勝利への切符を手に入れることが出来るのだ。

「いい……ッ! いいぞケンシロウ!! マミーなどとは力の質がまるで違う……このDIOに歯向かうだけのことはある!」
「黙れ外道。俺は貴様を倒すため、ただ拳を振るうのみ」

 ケンシロウを強敵と賞賛するDIOから、『絶対に勝てる』『絶対に負けない』という『安心』は未だ消えない。
 あくまでも帝王の貫禄を持って、軽く遊戯をこなすかのように、北斗神拳継承者と相対する。

「あたぁ!」
「無駄ァ!」

 ケンシロウ、DIO、双方が再度ぶつかり合う。
 繰り出される北斗神拳の拳技を全てスタンドの拳で受け、攻撃を的確に捌いていくDIO
 穿ち合う拳と拳は、次第に血を噴出し、皮を裂く。
 直接殴っていないとはいえ、スタンドからのダメージを直通で感じているDIOは、
 徐々に傷ついていく己の両拳に、不快感を覚えた。
 だが、劣勢は微塵も感じていない。

「どうしたケンシロウ!? お前の拳……昨夜相手をした時には背筋を凍らせるほどの豪拳に感じたが……
 今のお前の拳は、連戦連敗中の崖っぷちボクサーの一撃にしか感じぬぞ!」

 ウォーズマン、そして洋一に負わされたダメージは、確実にケンシロウから勢いを奪い取っていた。
 全身を軋ませるほどの痛み、拳の振りを遅らせる疲労、共に怒りで忘れているとはいえ、戦いには確実に影響を与えている。
 それでも、感情が拳を振るわせる。
 満身創痍であるにも関わらず、例え崖っぷちに立たされようとも、ケンシロウは拳を放つ。

「あぁたたたたたたた!!」
「ごぱら!? ぐおご!? ひでぶ!?」

 気合の発声が高まるごとに、技のキレも増していく。
 渾身の鉄拳を、『ザ・ワールド』の拳撃の間を縫うように繰り出し、スタンド越しにDIOを追い詰める。
 鼠は隅に追いやれば追いやるほど、より反抗的に向かってくるもの。
 ケンシロウも、劣勢になればなるほどパワーを発揮するタイプだったのだ。

「ぐっ……この破壊力! スタンド越しでも感じ取れるぞ……まだやれる、そういうことだなケンシロウ!?
 面白い。ならば、次はあの時の技でこい! 今度こそ、『ザ・ワールド』の力が最強であるという証明をしてやる!!」

 ケンシロウを挑発するようなポーズを取り、DIOは余裕の笑みでスタンドを前面に押し出した。
 易々と挑発に乗るわけではないが、ケンシロウは『ザ・ワールド』の正面に構える。
 繰り出すのは、あくまでも拳。これは、ケンシロウも『ザ・ワールド』も変わらない。

「あぁたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたぁっ!!!」
「無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄ァッ!!!」

 互いの拳が衝突し合い、短くも豪快な音を奏でながら周囲の木を揺らす。
 巻き起こった衝撃波は地に敷かれた落ち葉のカーペットを容易く引っくり返し、突風で吹かれるかのように宙を散布した。

 ケンシロウが『北斗百裂拳』で攻め、DIOが『ザ・ワールド』でそれを迎撃する。
 超高速で繰り出される拳と拳の連撃合戦は、両者の初対決の際にも行われた。
 あの時は僅かにケンシロウの拳が勝ったが、今回の状況を見れば、どちらが優勢かは一目で分かる。
 傷を負い、疲弊しきったケンシロウの方が、圧倒的に不利だった。

 はずなのに。

「あぁたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたた
 たたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたぁっ!!!」

「む、無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄――ッ!!?」

 ケンシロウの拳は限界を迎え衰えるどころか、一発一発新たな拳を打ち放つごとに、その勢いを増していく。
 八十、九十、百――百打を越えても、ケンシロウの拳は止まらない。

「ああぁたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたた
 たたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたた
 たたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたたぁぁっ!!!」

(ぐ、ぐぅ~……ケンシロウのこの、底力! 認めたくはないが、確かに凌駕している……ッ!
 パワー、スピード、テクニック――どれもこれも、我が『ザ・ワールド』の上をいっているというのかァー!?)

 鬼気迫る猛攻を見せるケンシロウと正面から打ち合い、DIOは初めて、『劣勢』を感じた。
 孫悟空等と対峙した時にも覚えた、久しぶりの屈辱感。
 それは、これまで成功続きだった帝王のプライドをズタズタに裂き、怒りを及ぼすほど。

 このままではマズイ。このまま打ち合いを続ければ、『ザ・ワールド』の、DIOの拳が砕かれる。
 襲い来る危機感と己の誇りを天秤に掛け、DIOは打開策を練る。
 悪の帝王に、敗北は許されない。

(生意気にも、このDIOに冷や汗をかかせた罪として――貴様を断罪するっ! 我が最強のスタンドの、『真の力』を駆使して!!)

「たたたたたたた――」

 なおも降り止まぬ拳の豪雨。その一撃と一撃の間を縫い、DIOが真の力を解放する。


「ザ・ワールド(時よ止まれ)!」


 ――世界の時間が、停止した。
 ケンシロウが打ち続けていた拳も、DIOの鼻先でピタッと制止。
 強面の表情のまま、間抜けな棒立ち姿を作って硬直している。

 今から数秒間、世界で動き回ることが出来るのは、DIOただ一人のみ。
 時間を止める最強のスタンド能力――これこそが、『ザ・ワールド』の真骨頂なのだ。

「――ふぅ、危ない危ない。冷や汗なんてものをかいたのは随分と久しぶりだぞ、ケンシロウ。
 人間は窮地に立たされることで限界以上の力を発揮する……うっかり忘れるところだったな。
 思えば、ジョジョも人間でありながらこのDIOに煮え湯を飲ませていた。
 人間風情が、と甘く見てはならない。人間を超越した絶対君臨者として、敗北は許されないのだからなぁ。
 さてケンシロウ――と呼びかけても聞こえてはいないだろうが。
 この時の止まった世界でお前を攻撃し、死に至らしめるほどの致命傷を与えるのは容易いが……それではつまらん。
 波紋もスタンドも持たず、自らの肉体のみを信じて歯向かってきた功績を考慮し、お前にはより屈辱的な死を与えてやろう。
 それこそ完璧なまでに。あの世の果てで後悔し、三日三晩憂鬱で寝込むほどの完全なる敗北感を味わわせてやる。
 おっと、さすがに無駄話が過ぎたな。
 このDIOとて、時を止められる時間は僅か10秒にも満たん。
 出勤前のサラリーマンのように、慌しく行動してはいけない……時間を支配する者として、無駄のない行動をしなければ。
 やるべきことは全て済ませた。再び時が動き出した際の布石を整え、そしてケンシロウ。
 今の内にお前に別れの挨拶でも済ませておくかな……ククク」


 ――そして、時が動き出す。


「――たぁっ!?」

 拳の連撃回数がもうすぐ二百に到達しようかというところ。
 ここにきて、ケンシロウの攻撃が初めて空を切った。

 今の今まで眼前にいたDIOが、消えている。
 0.0000001秒前までには確かにそこにいて、拳を繰り出していた対戦者が、忽然と姿を消した。
 手を止め背後、左右と確認するケンシロウだが、DIOの姿はどこにも見当たらない。
 これは、つかさを殺害し逃亡する際に見せたあの能力と同じ――
 自分の姿を霞のように消し去り移動する妙技(とケンシロウは錯覚していた)。
 速いなんてものじゃない。DIOは瞬間移動でも使えるのだろうか。
 まさか相手が時を止め、その間に移動したなどという異常な考えを思いつくはずもなく、ケンシロウはDIOを完全に見失った。

 そして、第二の異変に気づく。
 今の今までDIOに放っていた両拳――その片方である右腕が、『凍っている』。
 いったいいつの間に。DIOの消失と同じく、こちらの現象も不可解すぎて答えが出ない。
 この右腕が、時間停止中にDIOが『気化冷凍法』で凍らせたものだということも分からず。

 パキッ。
 足元の落ち葉を踏む音が、静かに響いた。
 周囲一帯には、これまでの騒がしい戦闘音が全てまやかしだったのではと思えるほど静寂が広がっている。

DIOはどこに消えた。DIOはどこから俺を狙っている?)

 逃げたわけではない。一旦戦場外に退き、機会を窺っているだけにすぎない。
 ケンシロウは己の全神経をフルに活用し、DIOの気配、殺気、足音を探る。
 僅か数秒の隙。その僅かな間に、DIOはどんな仕掛けを施したのか。
 考えが及ぶはずもないほど、答えは単純でいて、ケンシロウを窮地に追いやるのだった。

「――!」

 微かな羽音を察知し、ケンシロウが上空に視線をやる。
 丁度頭上、背の高い木から飛来した巨大な影が、ケンシロウを覆いつくさんばかりにと降ってくる。
 視覚で確認した当初、ケンシロウはその正体を理解することができなかった。『それ』は、あまりにも意外な物だったから。
 DIOではない。『ザ・ワールド』でもない。
 もっと黒く、もっと大きな、潰されればただでは済まされないほどの、巨大な影――


「護送車だッ!」


 ――馬鹿な。木の上から、黒塗りの車が降ってきた。
 DIOが抱えた護送車は、勢いづいたままケンシロウに激突。

「あたたたたたたたたたたたッ!!」

 ケンシロウは回避を放棄し、自らの拳で捻じ伏せようとする。
 が、凍結した右腕が使えぬ以上、どうしても今までどおりの百裂拳を打つことは叶わない。
 それでも、例え左腕一本でも。ケンシロウは、DIOへの抵抗をやめない。

「もう遅い! 脱出不可能よッ!
 無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄――ッ」

 護送車の上から、DIOが『ザ・ワールド』のラッシュを繰り出す。
 連打の衝撃が圧力となり、下に位置するケンシロウを執拗に追い詰める。

「ウリイイイイヤアアアッー! ぶっつぶれよォォッ!」

『ザ・ワールド』のみならず、DIO本人からも渾身の一撃が叩き込まれる。
 既に拉げ壊れた護送車は、無情にもケンシロウ身体を押し潰し、その巨体を完璧に地に押し込んだ。

 ドグシャアァッ、という嫌な衝撃音が鳴り響き、DIOの猛攻が止む。

「まだだ! 蓋だけではなく栓もしなければ――最後まで安心はできんッッ!!」

 護送車に潰され、既に姿を残していないケンシロウに叫び、DIOは身近に聳えていた大木を引っこ抜く。
 人間を超越した怪力を発揮し、ケンシロウに最後のとどめを刺すため大木を振るう。
 巨大な釘のように真っ直ぐと振り下ろされた大木は、根っこから護送車の残骸を襲撃し、刺し潰す。

 全てが終わりを告げた。
 轟音を送り続けた森林内も、やっと元の静寂を取り戻す。

「やった……………………」

 最後に立っていたのは、DIO
 潰された男と君臨し続ける男、どちらが勝者かは明白だった。

「終わったのだ! 『北斗神拳』は、ついに我が『ザ・ワールド』の前に敗れ去った!」

 哂う。悪の帝王を名乗るに相応しい、王者の高笑いを浴びせる。

「不死身ッ!! 不老不死ッ! スタンドパワーッ!
 フハハハハハハハハハ! これで何者もこのDIOを越える者はいないということが証明されたッ!
 取るに足らない人間どもよ! 支配してやるぞッ!! 我が『知』と『力』の前にひれ伏すがいいぞッ!」

 圧倒的。あまりにも圧倒的だった。
 力はもちろんのこと、貫禄、残酷性、あらゆる点において、DIOはケンシロウの上をいったのだ。


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最終更新:2024年07月26日 23:23