0321:少女の選択



クリリン君、待て! 行くなッ!」
 数瞬遅れて呼びかけた声は、『魔』と刻まれた小さな背中へと届くことなく、闇の中で掻き消えていく。
 離れていくその姿は、見る見るうちに夜の向こうへと溶けていく――
「――クソッ!」
 厳かに聳え立つ名古屋城の下、津村斗貴子は己の短慮に向けて悪態をついた。
 予想外だった。クリリンの背負った悲壮な覚悟は、自分が思っていたよりもずっと、重い。己の怪我すら、意に介さない程。
 ――追わなければ。リサリサと呼ばれていたあの女性、疲労が溜まっていたとはいえ、
 斗貴子に気付かれることなく罠を張ることが出来るその立ち回りと油断の無さは、相当な実力者である事を意味している。
 今のクリリンでは、否、万全であっても苦戦を強いられる相手である事は間違いない。
 そして彼女は、一度襲い掛かってきた相手に容赦をする事など、決してしないだろう。
 彼女と闘えば、クリリンは、殺される――それを放っておく道理など、何処にもなかった。
 ――ケンシロウ、済まない。入れ違いになるかもしれないが、必ず私は、彼を連れてここへと戻ってくる!
 クリリンの走り去った方角をしっかりと見据えて、斗貴子は粛々と続く石畳の道を駆け出した。
 その視線には、志を同じくした仲間の命を、絶対に手放すまいという決意も込もっていたのかもしれない。
 遥か頭上で、大天守上の金鯱が、月明かりに照らされて一層強い威光を放っていた。
 斗貴子を嘲笑うかのように。




 ――殺さなきゃ。ボールはみんなを救うためだけに使うんだ。ボールの存在を知った奴はみんな殺さなきゃ――
 それは義務感にも似ていた。思えば最初から、自分はそれに急き立てられてここまで生きてきた気さえしている。
 どんな願いも叶えてくれる、魔法の玉、ドラゴンボール。一度失われた命でさえも、現世へと呼び戻すことが出来る奇跡の力。
 その存在を思い出す事が出来たのは、自分一人だけだった。
 自分の発想で、自分の手で、参加者全員の命を救うことが出来る。その事実に気が付いた時の感動は、今も強く胸に残っている。
 そうして自分は、何人もの参加者をこの手に掛けてきた。共に苦難の冒険を切り抜けた仲である、旧知の女性でさえも。
 ――もうあんなことやめて違うんだよ脱出する方法を探す違うんだってだからもうやめて黙れ拒否拒否拒否拒否拒否拒否拒否――
 ――分かってくれよ、ブルマさん。みんなを殺すことが、みんなを助けることになるんだ――オレは、間違って、ない。
 クリリンは駆けた。一心不乱に駆けた。計画の邪魔となる存在を追いかけるために。
 ――残された自我を飲み込もうとする、何かから必死で逃げるために。
 ゲーム開始から、丸一日が経とうとしている。その期間に、無数の命を奪った心へと圧し掛かる、『罪の意識』という名の重荷。
 崩壊寸前のところで噛み合っていた歯車が、本人さえも気付くことなく、クリリンの中で外れかかっていた。




 鬱蒼とした木々の群れ、判然としない足元の様子が、順調な移動を妨げている。
「――わっ!」
 もう何度目になるだろうか、地面から突き出した根に足を取られ、躓き、前のめりにバランスを崩す身体。
「――大丈夫、つかさ?」
 横から差し出される優しい手によって、転ぶ寸前のところで支えられるのも、何度目になるだろうか。
「……ごめんなさい、リサリサさん」
「気にする事はないわ――少し休みましょう、朝を待った方がいいかもしれないわね」
 そう言って、彼女は空を見上げた。薄暗がりの中で辛うじて見えるその表情から、何を思うのか窺い知ることは出来ない。
 月の光が届かない程、深く生い茂ったこの森は、まるで世界から忘れ去られたようで。
 西野つかさは肩に掛けていたデイパックを下ろして、それへともたれかかるように腰を下ろした。当たり前のように溜息が漏れる。
 立ち直ると心に決めたのはいいが、その時からずっとリサリサには迷惑を掛けっぱなしだ。
 ――『息子には…息子なら、決して甘くはしないけれど。フフ…』――
 穏やかな笑みと共に告げられたその言葉だったが、今ではむしろ、その言葉を盾に自分の方が彼女に甘えているような気さえしている。
 単なる女子高生であるつかさと、一流の戦士――というか、そういった類のものに属するリサリサの間には、
 相当な身体能力の開きがあることは重々承知しているが――不甲斐ない事には変わりがない。
「はぁ……」
 二度目の吐息は少し大きめになってしまって、それに気付いたらしいリサリサの視線がこちらへと向く。
 その瞳にはやはり、非難の色など微塵も混じっていない――聖母様みたいだと、思った。
「疲れたのかしら?」
「あはは、少し……本当、ダメですね、あたし。ずっと、リサリサさんやマァムさんの足引っ張っちゃってて」
 思っていた事を正直を伝える。彼女を相手に強がってみたところで、全部見抜かれてしまう事が一緒にいるうちに分かってきていた。
 娘の事なら、何だってお見通し。そんなところまで、母親のようなのだ、この人は。
「気を落とす事はないわ。並大抵の神経では、とっくに参っているような状況――
 ここまで休まずに歩いて来れたことを、誇ってもいいわね」
「そうですか? あたしには、わかんないですけど……」
「そう。つかさ、あなたは強いのよ。私やマァムがいなくても充分に、ね」
「でも――やっぱり、リサリサさんにもマァムさんにも、傍にいてほしいな」
 我ながら本当に、言うことがころころ変わっているなと思った。
 一人でも大丈夫だと言えるようになりたいのか、頼っていたいのか、どっちだ。
 ――ほら、結局私はまだ、一人立ち出来ない『娘』のままなのだ。
 リサリサもその言葉には、やれやれと言った調子で笑みを浮かべる他になかったようである。
「フフッ――そうね。そんな事を言っているうちは、危なっかしくて一人にはさせられないわね」

 直後、彼女は鋭い目付きになって近くの茂みを睨み付けた。

「やれやれ、来訪者の多い夜だわ――戦うつもりなら容赦はしない。姿を見せることね」
 油断無く身構えるリサリサの姿を見て、慌ててつかさも立ち上がりポケットのワルサーを引き抜く。初めてまともに握ったそれは、重い。
 言うまでもないが、接近されていたことにはまるで気が付かなかった。こういうのも達人ならではの能力なのだろうか。
 草木を掻き分けて現れた長身の影に、ワルサーを持つ手が強張る。お互いがお互いを慎重に意識しあう中、相手が口を開いた。
「――悪いが、取り越し苦労だ。オレに敵意はない」
「あなたは――」
 多少の驚きを含んだ声をリサリサが放つのと同時に、つかさも気が付いた。
 強靭な筋肉で全身を覆った、精悍な顔立ちの男の胸には、北斗七星を思わせる七つの傷痕。この人は、斗貴子の言っていた――
「ケンシロウ、ね」
「――何故オレの名を?」
 警戒心を高めたように語気を強め、当然の疑問を述べるケンシロウとは対照的に、リサリサは静かに構えを解いて、種を明かした。
「先程、あなたのお仲間と鉢合わせしたのよ。津村斗貴子。知っているでしょう」
「斗貴子と……そうか」
 合点がいったと言うように向こうも緊張を緩めて、ぴんと張り詰めた空気が和らいだ。
 つかさもほっと息をついて、ワルサーを挿し直す。
「その子は?」
「……オレにも分からん。出会い頭に気を失われてしまったのでな」
 よく見ると、彼の大柄な背中には――たまねぎ、とでも言えばいいのだろうか。うん、たまねぎだ。たまねぎ頭の少年が背負われている。
 ケンシロウの顔と気絶している少年の顔を見比べて、相当怯えてたんだろうなぁと、現場の様子がありありと浮かんできた。失礼ながら。
「彼女なら、名古屋城であなたを待ってるわ。私達には別の『目的』があるの、もう行きなさい」
 既に戦う気はないようだけれど、突き放すような口調でリサリサが言う。斗貴子の仲間ということから、協力を持ち掛ける気はないらしい。
「ああ」
 ケンシロウもそれを察したのか、それだけ言うと踵を返して去っていく――かのように思えたが。
「……悪いが、一つだけ聞いておきたい」
 一度背を向けたところで足を止めて、再度こちらへと向き直り問いかけてきた。リサリサが怪訝そうな顔をする。
「まだ、何か?」
「斗貴子は冷静だったか?」
 どういう意味だろうと、頭の中で無数の疑問符が渦巻いた。斗貴子に冷静さを失うような何らかの要素があるというのだろうか。
「どういう意味かしら」
 リサリサが見事に、つかさの疑問とまったく同じ言葉を紡いだ。
 ケンシロウはちら、と虚空へと視線を向けてから、その問いに答える。
 今彼の瞳に映ったのは、このゲームの中で出会った、戦士と名乗る少女の姿だろうか。
 その姿は、彼にどのような印象で残っているのだろう。
「オレはこの殺し合いが始まってすぐに彼女と出会い、そして6時に名古屋城で待ち合わせる約束をして、別れた。
 それから今までの間に、彼女の仲間が二人、死んでいる。
 彼女は強い女性だが、まだ若い――心に傷を負ってはいないかと、心配になった。
 ……妙なことを聞いたな。済まない」
 照れたような様子一つなくそう言ってのけるケンシロウに対して――優しい人だ。そう、つかさは感心していた。
 この人、顔は怖いけど、こんなゲームの間もちゃんと、仲間の気持ちを考えてあげられるんだ。
 ――あれ? でも、斗貴子さんは、その死んだ仲間を――
「あなた、ドラゴンボールのことは何も聞いていないの」
「ドラゴンボール? 何だそれは――」
 訝しむような表情になって問い詰めるケンシロウの背後から――

 眩しい光の凶弾が、リサリサ目掛けて飛んできた。

「……ッ!」
 眼前へと迫ってきていた弾丸を、寸での所で上体を逸らし回避する。その反動でバック転をする事によって、体勢を立て直した。
 無数の枝がへし折れて、落下する音が背後から聞こえる。
 今の攻撃によるものであるのは間違いない、避け損なえば間違いなく死んでいた。
 夜であることが幸いした。日中であの奇襲を喰らっていれば、太陽光が保護色となって飛んでくる弾に気付けなかったかもしれない。
 だが、今はそんな仮定に思考を費やしている余裕などない。この場で考えなければならないのは、
 未知の攻撃方法を持つ襲撃者が目の前に潜んでいるという事実、その一点のみ。
 ケンシロウがつかさへと駆け寄り、任せたと言って背負っていた少年を下ろす。
 そして茂みへと向き直り、リサリサと並ぶようにして立った。
「つかさ、その子を連れて下がりなさい――ケンシロウ、今の技に覚えは?」
「いや。初めて目にする」
「そう。なら質問を変えるわ。何故――襲撃者は、『背を向けていたあなたを狙わなかった』のかしら?」
「む……」
「――そりゃあ、ケンシロウさんはオレたちの味方だからさ、お姉さん」
 返答は、茂みの中から聞こえてきた。
 現れたのは、闇に紛れる紫色の胴着に身を包んだ、小柄で禿頭の、額に6つの小さな円を描いた青年。
「探したよ、ケンシロウさん。
 斗貴子さんは6時に待ち合わせって言ってたのにさぁ、いくら待っても来ないんだもんなぁ? 参っちゃったよ」
 そう言って頭を掻く青年の顔は、本当に"困った"時の表情をしていた。人一人を撃ち殺そうとした直後の顔が、これだ。
 この青年は、危険だ。リサリサは直感でそう判断した。
「オレはお前など知らん。何者だ」
「ん? ああそっか、そっちはオレのこと知らないんだっけ。
 斗貴子さんの仲間さ、クリリンっていうんだ。よろしくな、ケンシロウさ――」
「何故彼女を攻撃した?」
 暢気な調子で自己紹介を始めた青年――クリリンの言葉を、ケンシロウが遮った。
 リサリサは思考を巡らせる。やはり――同じ斗貴子の仲間であるにも関わらず、ケンシロウとクリリンはお互いの素性を知らない。
 ケンシロウは斗貴子とゲーム序盤で出会ったと言っていたが、その時はまだ、斗貴子はドラゴンボールの存在を知らなかったのだ。
 だから斗貴子はケンシロウに対し、仲間の身を案じるような言動を切り出したし、ドラゴンボールの話をする事もなかった。
 斗貴子がドラゴンボールの存在を知ったのは、ケンシロウと別れたその後のことなのだろう。
 さしずめ、ケンシロウの思案通りに仲間の死によってショックを受けていた斗貴子を、
 死んだ人間を蘇らせることが出来るという、ドラゴンボールの話を吹き込んで利用しようとした第三者がいる、というところか。
 そしておそらくは、今目の前にいる襲撃者、クリリンこそが――
「決まってるじゃないか。ドラゴンボールは死んだみんなを生き返らせるために使うんだ。
 それ以外の目的で狙う奴がいちゃいけない……」
 後に連れて独り言のように小さくなっていく声とともに、彼の翳した右手には眩いばかりの輝きが溢れ、刃のようなものが形作られて――
「こんなゲーム、全部なかったことにしてやるんだ……!
  他の目的に使わせるわけには、いかないんだぁぁぁぁあああああああ――ッ!!」
 絶叫とともに、再度――否、光の弾は形を変え、万物を切り刻む斬撃となって、リサリサへと襲い掛かった。
 馬鹿の一つ覚え――ではなかった。飛んでくる気の斬撃と並走するようにクリリンが突っ込んできている。
 おそらくは時間差攻撃、斬撃が先かクリリンが先か――その形状から察するに斬撃は命中すれば致命傷、
 波紋防御で防ぎきれるかどうかは読めない。斬撃を凌いで、カウンターの波紋でクリリンを迎え撃つのがBESTか。
 死神の鎌の如く鋭利なその一撃を、リサリサは右側へと僅かに身体を傾けて躱した。
 そうして、続けて向かってくるクリリンの攻撃を――
「――ッ!」
 迎撃の態勢を取るよりも早く、クリリンは既にリサリサの懐へと潜り込んできていた。腕への波紋の伝達が間に合っていない。
 甘く見ていた。気を飛ばす『能力』だけに意識が向いていたが、この青年、体術だけでもかなりの実力を――!
「死ねぇぇ――ッ!!」
 あらん限りの咆哮とともに突き出された抜き手が、無防備なリサリサの心臓を――
「むん!」
 ――貫く寸前、その指先は、堅牢無比の闘気に包まれた男の掌によって防がれた。
 鬼気迫る形相で肉薄していたクリリンの表情が、驚愕へと変わる。
 その隙を見逃さず、リサリサは攻めへと転じた。力強く、踏み込む。
 ――コオオオオオオオオオオオオオ……!
 深く吐き出した呼吸の音が、密林を揺らすかのように闇夜の中で響き渡る。己が内に流れる血液は緩やかな波となって、力となる。
 それは肉体に宿りし奇跡。血液の流れから生み出される無限のエネルギーを引き出す神秘の呼吸法。月夜に迸る太陽の波紋――

 サンライトイエロー・オーバードライブ
「 山 吹 色 の 波 紋 疾 走 ッ !!」
 強烈な熱の籠った一撃が、がら空きになっていたクリリンの下顎へと突き刺さった。
 骨を砕くには至らなかったが、確かな手応えを感じた。青年の顔が苦痛に歪み、幾つかの歯と血反吐を撒き散らす。
「がああ……っ!」
 掠れた呻き声を上げて、小柄な身体はそのまま無抵抗に吹っ飛び、元いた茂みへと半ば突っ込むようにして、止まった。




「う……」
 口の中で、折れた歯が一本か二本ほど転がっている。血が止まらない。打たれた顎のダメージはそこまで酷くないらしいが――
 思考回路が上手く働かない。何かを考えようとするだけで、何度も脳味噌を揺さぶられた痛みが頭の中を駆け巡る。
 ――ちくしょう。
 こいつは、強い。今のオレじゃ、勝てないかもしれない。オレはみんなを、助けなきゃいけないのに。
 ドラゴンボール。ピッコロを、優勝させる。そのために、危ないやつは、少しでもオレが――
 ――殺さなきゃ、いけないのに。




「――『借り』が一つ出来たわね」
 自分のすぐ横に立っているケンシロウの、クリリンの一撃を容易く受け止めてみせた右手へと視線を向けて、言った。
「気にするな、痛みはない――それよりも、まだ終わってはいないようだ」
「そのようね――」
 険しい表情を崩さないケンシロウの視線を追いかけた先に、血走った目の青年が地に手をついて立ち上がる姿があった。
 大した『執念』だ――そう思った。
 人間に対する波紋の効果が、吸血鬼へのそれに比べて遥かに劣ることは当然ながらよく知っている。
 それにしても、相当量の波紋を籠めた一撃だった筈だ。脳震盪でも起こしていてもおかしくはないのだが――
「な……んでだ、よ。ケ、ケンシロウさん、そいつを……」
 途切れ途切れの言葉を、搾り出すように吐き出している。
 瞳の焦点が合っていない。どうやら、波紋の影響は少なからずある様だった。
 ――だが、不死の悪魔達を例外なく天へと還す太陽の輝きも、青年の奥底に蠢いている闇を晴らすまでには、至らなかったらしい。
「そう、か。説明不足、だったんだよな? すげえんだよ、ドラゴンボールは。そいつがあれば、どんな願いも、叶うんだぜ。
 ここで死んだ、みんなだって、生き返らせる、ことが、出来るんだよ。
 はは、フリーザのやつ、バカだよな。ざまあみ、ろってんだ、はは、は――」
 紅に染まった口元を不気味に歪め、クリリンはふらつく足取りでこちらへと近付いてくる。背後で、つかさが息を呑むのが分かった。
 ――口の端から滴り落ちる血を拭おうともしないその姿が、自らの倒すべき敵である吸血鬼達と重なって、見えた。
 この青年と吸血鬼は、似たようなものなのかもしれない。
 己の吸血衝動が赴くままに人の生き血を啜る奴らと、己の目的を達成するために見境なく人の命を奪うこの青年。
 しかも彼の質の悪いところは、それを正しいと心の底から思い込んでいること。
 強固な『意志』を持っているからこそ、彼は立ち上がることが出来るのだろう。
 自らの掲げる主義主張に、欠片の疑いも持っていないから。
 ――『哀れ』だわ。






 うわー、随分おっかない目するなぁこの人。ケンシロウさんはこっち来ないし、一体何がどうなってんだ?
 ……ん、ははーん? ああそっか、そういうことかぁ! ケンシロウさんがオレのこと信じてくれない理由、分かっちゃったよ。
 そっか、こんな簡単なことだったんだ。なんで気付かなかったんだろうなぁー、オレってホント頭悪ぃなあー、っへへ。
 この人が、ドラゴンボールを独り占めしようとしてケンシロウさんにテキトーなことを吹き込んだんだな。そうだよ、そうに決まってる!
 オレの言ったとおりだろ、斗貴子さん。ボールのことはなるべく秘密にしなきゃいけないんだよ。次からはマジで気をつけてくれよ?
 え? あぁ、今回のことは別にいいって! バレちゃったもんは仕方ないよ、どうせ――

 オレが殺すんだからさぁ。





「……ケンシロウ、斗貴子との合流は諦めなさい」
 幽鬼の如くにじり寄ってくるクリリンから、視線を外さないまま、言った。
「――何?」
「あの青年は殺し合いに乗っている。そして彼は斗貴子の『仲間』――どういう意味か理解できるでしょう?
 彼女も『警戒』する必要がある」
 規則的な呼吸を繰り返し、蓄積されていく波紋エネルギーを両の掌へと集中させる。
 打撃では致命傷にならないと、先刻の一撃で悟った。
 クリリンの肉体は、見た目からは想像が出来ないほど丹念に鍛え上げられている。
 だから、攻撃方法を切り替える事にした――人間に流す波紋というのは、高圧電流と似たようなものである。
 両手に溜めた渾身の波紋を胸部へと叩き込めば、彼の身体は心臓麻痺を起こして、物言わぬ亡骸と化す――筈だ。
「斗貴子も殺し合いに乗っているというのか? 待て、奴が斗貴子の仲間だという証拠など――」
 ケンシロウの声に、若干の戸惑いが混ざっている。その間にもクリリンはまた一歩、リサリサ達との距離を縮める。
「斗貴子は、私達にドラゴンボールの話をしてくれたわ。
 7つの玉を集めればどんな願いも叶えることが出来る、そんな素敵な『御伽噺』を。
 そんな馬鹿げた話をする人間が、この会場で他に何人いるというのかしら」
 距離が縮まる。波紋を溜める。
「先刻の問いに答えていなかったわね。
 斗貴子が『冷静』だったか、答えは『NO』――失くした命が二度と戻らないのは当然の話でしょう?
 彼女にはもう、その程度の判断もつかなくなっているのよ。だから『夢物語』にも縋り付く――」
 距離が縮まる。波紋を――
 ――溜め切った。今現在でリサリサが放てる、最大級の波紋の一撃を。
 何か察するものがあったのか、クリリンが足を止めて腰溜めに構える。またしても、例の『気』の攻撃を放つつもりだろうか。
 そう何度も、同じ技に翻弄されるつもりはない。クリリンは見る限り既に満身創痍――次の一撃で、全てが決まる。
「――その『夢』を断ち切るということは、『彼女』を断ち切るということと同意義ッ!
  私はここでッ! 津村斗貴子の『希望』を断つッ!!」
 予想出来る気弾の射線上から身体を外して、リサリサクリリンへと向かって一直線に駆けた。
 彼の鮮血で汚れた口元が吊り上がって――



「――止めろぉぉぉぉぉぉっ!!」


 ――響き渡った怒声によって、クリリンの掌で急激に膨れ上がった光が、ライトが明滅する時のようにすぐさま掻き消えた。

 僅か一瞬ではあったが、その場一帯をはっきりと照らし出したその明かりの奥から、彼女は現れた。

 ――津村、斗貴子。


 荒い呼吸を整える事に意識の半分を回しつつ、状況を確認することに努めた。
 戦場と化していた森には、今のところ静寂が訪れている。
 虚ろな眼差しを向けているクリリンの顎は、夥しい量の血によって肌色の部分が見当たらない。
 既に、一戦を交えてしまっていたか――胸中で失意の念が広がりかけたが、彼は、まだ生きている。後は説得が上手くいくかどうかだ。
 その後方、先刻遭遇した時とはまるで印象が違う――凄まじい威圧感を持ってこちらへと対峙しているリサリサには、目立った外傷はない。
 ただ、心を射抜かれるような鋭さを持ったその視線と、目を合わせることが出来ない。
 ――養豚場の豚でも見るかのように、冷たい目だ。『可哀想だけど明日の朝にはお肉屋さんの店先に並ぶ運命なのね』とでも言うような。
 苦し紛れに逸らしたその視線の先に、救いがあった。胸に七つの傷を持つ男。この殺人ゲームの中で最初に出会った、頼れる仲間。
「ケンシロウ! 無事だったのか、よかっ――」
「感動の再会が出来る状況ではないことくらい、分かっている筈よ」
 踏み出しかけた足が、冷淡な声によって静止する。ケンシロウが何かを言い淀んだのが分かったが、どうする事も出来なかった。
 大柄な背中の向こう側には、困惑しきった様子の少女――西野つかさと、その足元で仰向けになっている、たまねぎ頭の少年の姿がある。
 暗闇の中ではっきりとした判別は付かないが、こちらも外傷が見受けられないので、単に気を失っているだけのように見えた。
 この場にいる人間は、それで全員――死人こそ出てはいなかったけれど、一触即発の状態は、まだ、続いている。
 やはり、来るのが遅過ぎたのだろうか。
 リサリサから発せられている敵意は、もはや『警戒心』などという言葉で言い表せるそれではない。
 何とかして、話し合いの成り立つような態度へと移行させなければ――



「斗貴子、さん」



 その声を意識が捉えたとき、得体の知れない何かが背筋を這い上がってくるような感覚に陥ったのは、多分気のせいではなかった。
 各々が、様々な態度で声の主である青年へと向き直る。
 リサリサは氷のような視線を絶やさず、ケンシロウの表情は硬い。つかさは、顔を引き攣らせて後ずさっている。
 名前を呼ばれた張本人である、斗貴子は――動けなかった。
 斗貴子だけを真っ直ぐに見据える、濁り切った双眸から、逃れられなかった。
「言っただ、ろ? ドラゴンボールのことを、知った奴は、殺すしかないって、さ」
 青年が右手の指先を血塗れの顎へと押し付けて、離す。指先はあたかも、絵の具を付けた筆のように真紅へと染まった。
「ほら、オレの、手、見てよ。こんなに、赤くなってるじゃんか。ほら」
「――キミは、何を、言ってる」
 身体中に戦慄が走るのを、止める事が出来ない。
 名古屋城の一件から今まで、然程時間も経っていないというのに、この変わり様は一体何だ。
 今のクリリンの言動は、まるで――狂人のそれではないか。
「でも、別に、構わないよ、な? みんな、死ねば、助かるんだから、さ。
 いくら、手が汚れたって、みんなのために、やってるんだから、さ」
 血潮に濡れる指先は、それぞれが異なる方向を向いて捩れてしまっている。ケンシロウの強健な手掌によって、弾かれた結果。
 おかしいな。こんなにあっさり折れちゃうのかよ? あの時は、めちゃくちゃ上手くいったのにさぁ。
 ――ブルマさんは、ずっと簡単に、殺せたのに。
「……もう、いい」
 そう言った斗貴子は、何かを耐え忍ぶかのように、遣り切れなさそうな表情を浮かべている。
 ――何を耐えている?
 このゲームにおいて、苦しむことなど何もないのに。
 どうせ全てがやり直せるのだから、心を痛める必要も、艱苦を味わう必要もないというのに。
 自分達は、正しい。命を救うために命を奪うことは、正しいのだ。
 正しいことをしているのだから、非難を浴びる謂れなど何処にもない――

 ――『足掻いて、足掻いて、最後まで足掻いて。絶対に、脱出する方法を探す。だから、もう――やめて』――

 その通りだよ、ブルマさん。オレは今まで、ずっと足掻いてきた。みんなのために、必死で足掻いて、考え抜いた結果がこれだったんだ。
 オレは間違ってない。みんな助かるんだから、いくら殺したっていいじゃないか。ピッコロが最後の一人になったら、オレだって潔く死んでやる。
 最後の一人になったピッコロが、みんな生き返らせてくれる。そうしたらみんな、オレのやってきたことは正しかったって、気付いてくれるんだ。
「みんな、助けてやったら、さ。みんなも、ブルマさんも、オレのこと、許してくれるよ、な。そうだろ? オレが、助けるんだよ」
「……もう……いいんだ、クリリン君……!」
「オレがやるんだ。オレがやる。オレが、オレが、オレがオレがオレがオレがオレがオレがオレが――オレがぁぁぁぁぁぁあああぁぁああっ!!」



 静寂の森に、嵐が吹き荒れる。それは、この殺戮劇の中で、誰よりも救いを与えようとした男の、悲痛な叫び声。

 ――誰よりも、救いを求めていた、男の。

 そして三度、彼の掌からは、命を刈り取る光の球が放たれた。

 たった一つの使命感によって、その身体は突き動かされていた。



 ――殺さな、きゃ。





 振り向き様に放たれた殺意の閃光は、一発目の攻撃を銃弾とするならこちらはバズーカ砲か、そう思える程に巨大な光の束で、
 クリリンがこちらに背を向けていたことと、想像を、文字通り――大きく上回る質量を持った砲撃だったことが、リサリサの回避を遅らせた。
 ――それが、『かめはめ波』と呼ばれる亀仙流秘伝の気功術であることなどリサリサには知る由もなかったが、
 消耗しきったクリリンに残された、全身全霊の気の一撃は、横っ飛びに逃れようとしたリサリサの両足を飲み込んで――
 ――吹き飛ばした。
「……ッ!」
 途方もない高熱と激痛が、残された上半身へと広がっていく。
 受身も取れずに砂石が転がる地面の上へと打ちつけられて、呼吸が、乱れる。
 用意周到に腕へと練り集めた波紋は、たったそれだけの事で、消失した。
「……なんて……こと……」
 呟いた声は、自分の耳にすら届かない程か細い。意識とは無関係に、身体が断続的な痙攣を起こす。
 焦げ付いた胴体の断面からは、乾き切った大地へと数多の"赤"が注がれている。
 考えるまでもなく、完全な、致命傷だった。
リサリサさん! やだっ、そんな――!」
「……つかさっ……!」
 気丈な意思を振り絞って、駆け寄ってくる気配を、制する。
 彼女が来たところでどうしようもない、攻撃が続けば彼女も巻き添えを――



「……武装、錬金」

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最終更新:2024年08月20日 10:09