第075話 最優先事項(前編) ◆7NffU3G94s


冷たい大気が槙村香の肌を刺す。
それは朝焼けと共に訪れた冷気だけが原因ではない、一向に消える気配のない緊迫とした空気が彼女の精神力をも啄ばんでいた。
年端も行かない少女の言葉、不釣合いな呟きが放たれてからどれだけの時間が経っただろう。
既に、第一回目の放送は行われた後だった。
何となく聞き覚えのある男性の声が読み上げていく死亡者の数々、その確認を細かく取る余裕など香に与えられるはずもない。
ただその中で「野上冴子」という非常に見知った名前があったことに少なからず驚きを覚えたものの、今の香にとってはそれだけだった。
どうすればこの少女を救えるか、どうすればこの場を乗り越えることが出来るか。
今の香にはそれだけが精一杯で、他に余力を割くことなどできないでいた。
正義感の強い香にとって、消えた命に対し湧き上がる怒りが抑えられないわけではない。
だが悲しむことなど後からいくらでもできるというのも、一つの事実だ。

今、香の目の前には救わなければいけない一つの命がある。
か弱い少女、香よりもずっと幼いそれは彼女から見れば庇護する対象に他ならない。
何としてでも、守らなければいけない。
それが香の正義であり、彼女にとっての最優先事項でもあった。

一方香の目の前の少女、藤崎あかりも流れた放送に対し特にアクションを起こすということはなかった。
香を射るあかりの視線の強さに変わりはない、彼女の強要は終わりを見せる気配はない。
進藤ヒカルが死んだという事実を、彼女はもう受け入れている。
それは『夢』という彼女の妄想が生み出した非現実的な観点からだが、とにかく現状それであかりが傷つくことは無い。
そんな『夢』の世界にて今更再確認を求められたところで、既にズタズタに裂かれてしまっているあかりの心に大きな変化など現れることなど無いのだ。

ただ怖かった。
誰も信用できなかった。する気もなかった。
いなくなって欲しかった。皆、死んで欲しかった。
あかりには、それだけだった。

今、あかりの目の前には消さなければいけないモノがある。
あかりよりも年が上とか下とかそのような事実は関係ない、自身以外の人間という時点で彼女からすれば排除の対象に他ならない。
とにかく、消したかった。
それがあかりの願いであり、彼女にとっての最優先事項でもあった。

「何で……死んで、くれないんですか?」

お互い無言であるが故の数十分。
変わらない現状に先に痺れを切らしたのは、あかりの方だった。
小さく震えながら呟かれたそれには、多少の苛立ちが含まれているかもしれない。
責めるような瞳に香は思わず視線を逸らしそうになるが、堪え、少女の悲しみを真っ向から受け止めた。

「言ったのに……いなくなってって。死んでって言ったのに、何で飛び降りてくれないんですか?」

ストレートなあかりの問いに答えられず、香は困ったように眉をハの字に寄せる。
できるはずはない、だがそれを否定してしまえば少女がどのような行動を取るか分からない。
少女の顔が歪んでいく。ああ、泣きそうだな、と香が予想したと同時にあかりはくしゃっと破顔した。
……どうすれば少女を止めることができるのか、いまだ香は答えを出せていない。
香の中で、ポロポロと涙を零す少女に駆け寄りたいという思いが一層強くなる。
しかし今彼女を刺激して脆い足場から彼女の身が投げ出されてしまうという場面だけは避けなければいけないというのも、香は理解できていた。
ではどうするか。答えは出せていない。
物事が上手くいかない苛立ちからか、香は思わず舌を打った。
香に取っては何気ない仕草である。他意もない。

だが香の想像以上に過敏になっているあかりにとって、それは一種の引き金となった。

一際大きく震えたあかりの体が、香から距離を取ろうと半歩後退する。
彼女が今いるのは崖だ。しかもあかりの身は、あと一歩下がれば空中に投げ出されてしまうという所まで来ている。
それ程危険な立ち位置にいたということを、あかり自身も忘れていたのだろう。

「駄目! 足場が!!」

香の叫びを、あかりはどこか遠い場所で聞いていた。
浮遊感。
ガクッと少女のか細い膝が崩れると同時に、黒のセミロングが宙を舞う。
次にあかりが感じたのは、右の手のひらへ走る猛烈な痛みだった。
咄嗟に伸ばしたあかりの右手は、しっかりと崖の端を掴んでいる。
そこに彼女の全体重がかけられることになったあかりは、突如襲ってきた想像を絶する痛みに思わず低い呻き声を漏らした。
呆然となっている彼女の心とは裏腹に、自然と動いたあかりの体はこのような形で生への執着を訴えている。
……訳が分からないのは、あかり自身だろう。

右手が痛い。
――でも離せない。
怖いこと、なくなるかもしれないよ?
――でも、離せない。
手を離せば、もう悩まなくてもいいんだよ?
『夢』、醒めるかもしれないよ?

様々な思考があかりの脳裏を駆け抜けていく。
しかしあかりは、手を離さなかった。
彼女の右手の人指し指には、彼女自身が作った切り傷があった。
それはとても小さく既に傷自体も塞がっているような程度のものだったが、右手を酷使することにより再び傷口は抉じ開けられてしまっている。
ぱっくりと開いた傷口からは、少量だが血が滴り始めている。生まれた新たな痛みに、あかりは思わず食い縛った歯にさらに力を加えた。
……それでも。
それでもあかりは、手を離さなかった。離せなかった。

何故、どうして。答えは出ない。
あかりの頭は混乱の極みにあった。だから、彼女の接近にもあかりは気がつくことはなかったのかもしれない。
頭上から影が落ちる、あかりがそう感じたと同時にあかりの右腕は他者によってがしっと掴まれていた。
手のひらを襲っていた痛みが軽減される、何事かと頭を上げたあかりの視界に映ったのは、優しそうな瞳を持つあの女性だった。

「大丈夫だから、もう大丈夫だからね」

香は大粒の汗を滴らせながら、あかりの体をゆっくりと引き上げていく。
その間、あかりは一言も漏らさなかった。

二つの過呼吸が場を満たしたのは、それからすぐのことだった。
地上に舞い戻ったあかりは全身の力が抜けてしまい立ち上がることが出来ないようで、ひたすら尻餅をついた姿勢のまま大きく肩を揺らしていた。
香も人一人を引きずり上げるという肥大な使役のせいか、あかりの隣で袖を使って汗を拭いながら、腰を上げることなく黙って呼吸を落ち着かせていた。
とりあえず、何であれ動きの取れない緊迫した場面が切り替わったのは香にとって大きかったろう。
今、香の隣には庇護すべき少女の姿がある。
やっと安心できたと。香は、心の底からの溜息をついた。

そんな二人を少し離れた場所から見守っていた影が動いたのは、その時だった。

越前リョーマが無言の問答している二人を発見したのは、つい先ほどと言っていい時刻であった。
対峙する二人から隠れるよう近くの茂みに潜った越前は、第一回目の放送をそこで聞くことになる。
行われた放送にて一つ口笛を吹き、自分以外で白星を設けている参加者の存在が明らかになったことに越前はニヤリと口角を上げた。
同じゲームでも、やりがいがある方が楽しいに決まっている。テニスでもそうだ。
……先輩である菊丸英二の名前が上がった際越前にも多少の動揺は走ったが、反面、そこにはそれが「手塚でなかった」という事実にほっとしているという思いもあった。

(先輩、ごめん)

生意気なルーキで名を馳せている越前にしては、素直な謝罪の言葉である。
彼らしからぬ態度、そのストレートさこそが越前の中で既に蓄積された優先事項の表れなのかもしれない。

学校で滝鈴音の首輪を爆発させた越前だが、今彼が向かうべき所と言うと勿論テニスラケットとテニスボールがある可能性のある場所だった。
手塚を見つけることも大切かもしれない、しかしとにかくそれがなければテニスの試合をすることはできない。
では、一体どこにあるのか。
とりあえずはどこかの民家か、地図にある平瀬村分校跡辺りが怪しいと越前は既に目星をつけている。
越前のいる場所から平瀬村分校跡まで、距離はかなりあった。近場で言えば、手っ取り早いのは鎌石村だろう。
鎌石村をある程度探った後平瀬村に移動し、その際分校跡を調べればいいと越前は結論付ける。

そうと決まれば話は早い。
移動を開始しようとした越前は、地図とコンパスを片手に北部へ向かって歩き出そうとする。
その時まるで新たな出発を図ろうとする越前を祝福するかのように、雲間から覗いた一筋の光が彼の視界を彩った。
越前が今いる森ではその全容を捉えることは難しい、だが段々と晴れていく視界に越前は思わず目を奪われた。

それはこの島に連行される前、テニス部の大石秀一郎の提案で見た山頂からの朝焼けに少し似ていた。
集められたレギュラーの面々、越前も最初は文句を漏らしてはいたが今では良い思い出となっている。
みんなで上った山、大きな達成感は中学一年生の越前に充分な経験をもたらしただろう。
クールな越前の面影が少し崩れる、それは感傷に浸ったことで訪れた一抹の寂しさを表しているのかもしれない。
ふと、そう言えばあの少年を突き落とした辺りの崖だったらこの光景をもっと楽しめたのではないかと、越前の中に遊び心が生まれる。
改めて地図を見ると、場所的にはそう離れてもいない。
寄り道しても特に問題はないだろう、自然と越前の足は鎌石村への進路から逸れていった。
逸れているとは言っても、方角的に大きな問題はない。その後道沿いに行けば、どうせ辿り着くところには辿り着くのだ。
越前の中で、それを問題視する側面は特にない。

そう。
越前にとっては、鎌石村に行くための寄り道に他ならなかったそれ。
その過程で見つけた、とある光景。

「ふーん。面白いこと、やってんじゃん」

途端、感傷に耽っていたはずの越前の表情が引き締まる。
香とあかり、彼女等がどのような状況にいるか越前が分かるはずないが、彼女等が真剣であればあるほどそれは滑稽な姿に見え越前に頬に嘲笑を生んだ。
馬鹿らしいと。あんな場所で何をやっているんだか、と。
それこそ越前の持つ銃の予備弾にはまだ余裕があったため、それでもって脅かしてやればどのような反応が返ってくるか試してみようかという悪戯心まで彼にはあった。
……実際彼がそれを実践に移す前に、事態は収束してしまったのだが。
興が削がれたとむくれる越前だが、それを引っ張るような幼稚な側面を彼は持っていない。
すぐに思考を切り替え、越前は銃をズボンのポケットに仕舞うと同時に隠れていた茂みから抜け出していった。

「こんにちは」

突然現れたイレギュラーの存在に、香もあかりも言葉を失い仰天する。
越前はそんな二人の様子に気にもかけることなく、自分の欲望を優先させた。

「ちょっと聞きたいことあるんスけど、いいっすか?」

テニスラケットとテニスボールを、この島のどこかで見かけなかったか。
簡単な問いである。
もし言うことを聞かなければ、越前はポケットに忍ばせた拳銃で脅すつもりだった。
また、在り処を知らないというのであってもそれで処理を行うだけであろう。
簡単なことだった。目の前の二人は、武器と呼べるようなものを手にはしていない。
うち一人はデイバッグをしょっているものの、中から何かを取り出そうとする気配もない。
反抗されることもないだろうと、越前は鼻で括っていた。実際その通りでもある。
いきなり現れた少年は、香からして見ればあかりと同じく庇護の対象という目線で見れる程の幼さを持っていた。
それが見かけだけだという事実を、さすがの香も一目で判断することはできない。
香は油断している。
だから、香は正直に答えようとした。
「ラケットもボールも自分が持っている」、と。
だがそんな香の言葉を遮るものが、その瞬間この場に響き渡った。

「みーつけたー! 見つけた見つけた見つけた、やっと見つけたぞ!! 
 こんのガキャァ、お天道様が見逃してもこの小平次様はごまかせねぇぜ!」

誰もが目を奪われたろう、砂埃を立てながら激走してくる男の存在感は圧倒的である。
ぽかんと、あのあかりでさえ真顔になってしまっていた。
越前も、香も、お互い行っていたはずのやり取りを忘れてしまっているかもしれない。
ぜー、ぜー、と三人の前までやってきた所で足を止めた男は、荒い息を吐きながら三人の視線を真っ向に浴びながら再び吼えた。

「この人殺し野郎が! あと俺の誤解も解け、絶対解け!!」

指差し、越前を強く見据えていた男の表情がはたとなる。

「って、人殺しの前に堂々と出てきちまって、俺危ねーじゃねーのか!
 すんげー危ねーじゃねーのか?!」

一人悶絶する男、中田小平次
彼の異常なテンションに、誰もが言葉を失った。





遡ること少々、とある歩道にて一人立ち尽くす男がいる。
男はダラダラと冷や汗を垂らしながら、ひたすら独り言を呟いていた。

「落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け……」

息を吸ってー吐いてーと数回の深呼吸を繰り返し、呼吸を整えた男は改めて腕を組み直し状況を整理しようとした。

「焦っちゃ駄目だ、焦っちゃ。
 小兵二軍団のトップである俺がこんなんじゃ、あいつらに示しがつかねーじゃねーか」

可愛い三人の子分の姿を反芻し、小平次は改めて自分の状況というものを省みる。
小平次の頭の中回想されるのは、ひょろいと敬称される優男と二人の子供だった。
殺すつもりは無い、だが先手必勝という形でイングラムを構えた小平次に彼等は果敢にも歯向かってきた。
脅すつもりで発砲した小平次だが、結局は隙を見せた所で彼等を逃がしてしまうことになる。
……小平次の作戦は、見事に失敗した。

「俺の俊足でこれだけ走って姿が見えないのなら、きっとあいつ等は別の方向に行ったに違いないな」

うんうんと一人頷き、小平次は自らが駆けて来た方向を振り返る。
深い森の先、そこで小平次は脅しと言う形ではあるが彼等に向けて確かにイングラムの引き金を引いた。
小平次の右手には、相も変わらずイングラムが握られたままである。
あれからどれ位の時間が過ぎたのか、時間を確認していない小平次が分かることはない。
しかしじんじんとした一向に引かない熱だけが、その現実を小平次に押し付けていた。
撃ってしまったということ。
脅しではあるが、小平次はこの武器を使用したことになる。

ゴクリと一つ息を飲む、予想以上の土煙を放ったあの光景が小平次の網膜に甦った。
繰り返すが、脅しではある。殺そうなんて意思は、小平次にも全くなかった。
だが一歩間違えば人の命を簡単に奪えたという事実に、小平次は一人愕然となる。

「い、いやいやいや、でも正当防衛じゃねーか」

小平次が見た限り、少なくとも人を一人確実に殺している人間があの場にはいた。
だから仕方ないのだと、小平次は無理矢理自分を納得させる。

(……これぐらいでビビってどうするよ、千秋ちゃんを守るって誓ったんだろうが!)

下心もあっただろう。しかし小平次の中には、純粋に好きな女の子を守りたいという実直な思いも確かに存在していた。
イングラムを見つけた時、小平次はこれが自分の運命だと感じた。
千秋を守る武器が手に入ったということ、またこれは一世一代のチャンスでもある。
何としてでも格好の良いところを千秋に見せ、大尊を出し抜かねばと小平次は燃えていた。

「あー、だがあいつ等の誤解を解かないと、万が一千秋ちゃんに変なこと吹き込まれちまったら……」

今一番小平次の頭を悩ませているのはそれだった。
誤解ではあるが、小平次が人に向けてイングラムを放ってしまったという事実が消えることはない。
それを逆手に取られ変な噂でも流されたら、小平次にとっては一貫の終わりである。
好き嫌い所の話ではない、小平次は自身の体をかき抱きながら悶絶した。

「だーー! とにかく走ろう、走れ俺!」

方角を変え、小平次は再び走り出しす。
不安や焦りといった類の物は全くと言って良いほど拭えてはいない、しかし今の小平次には走るしかなかった。


―― 数十分後。


「……何だ? 何で俺は、見覚えのある場所に出ちまってんだ?」

見上げると、眩い朝日が小平次の瞳を刺して来る。
その明るさに思わず目を細め、小平次は空いている左手を頭上に翳した。
また小平次が視線を動かすと、そこには海面を反射する日光のきらきらと輝く美しい様が広がっている。
これがデートスポットだとしたら、間違いなく千秋の心は落ちただろう……小平次の脳裏に、そんな呑気な考えが浮かんだ。
しかし、事態はそんな簡単なものではない。

「ま、まずいぞ……完全に見失った? いや、そんなはずはない。
 聡明な俺がそんな失態をする訳ないじゃないか」

今小平次が立っている歩道からは、一面に広がる海が見えていた。
方角的に言うと、小平次が先程の場所から一気に北上した結果辿り着いた場所というのがここだった。
思わず右手が緩みイングラムを落としそうになるものの、慌てて小平次はそれを握りこむ。
小平次自身、信じがたかったろう。しかし悲しいことに、それは確かに小平次が数時間前通った道だった。
呆然となる小平次を他所に、ついに時刻は六時を回る。それは、第一回目の放送の開始を意味する。
ノイズ混じりのスピーカー音に小平次ははっとなり、急いで鞄の中から名簿を取り出し死者の確認を行った。

「……は? 大場?」

そんな中、見知った名前が上がったことで小平次の中にさらなる焦りが生まれ出す。
小平次の思い人である千秋は無事だった、だが死者というものは確実に出ている。
しかも、その中には小平次の見知った者もいた。

「何てことだ……い、一刻も早く千秋ちゃんを、でも誤解も解かないと」

一人混乱しかける小平次、彼の中の優先事項は今やごっちゃになっている状態だった。
やらなければいけないことが多すぎる、しかしそれには解決する兆しというものが見えない。

(あーもう、弱気になるな俺、俺らしくないぞ俺……はて、俺らしいって何だ)

小平次にとっての小平次らしさ。
ここで改めて、小平次は自身のことを考えてみることにした。

「頭脳明晰で容姿端麗、頼れる小平次軍団のリーダー俺! ……ふう、俺の威厳を忘れる所だった」

一息つき、小平次は一人納得した。つっこみはいない。
ではこれからどうするか、小平次は改めて考えた。
周囲に人はいない。
逃げた三人の場所は分からない。
千秋の場所も分からない。
ダメダメだった。

「……待てよ。犯人は、現場に戻るって言うよな」

そんな時、ふと名探偵小平次の脳裏に名案が閃きあがる。
普通に考えたら、こんな状況でそのような思考回路をする人間は多くないだろう。
しかし彼は小平次だった。
自分の都合の良いように世界を回そうとする男、小平次からすればそれも造作のない理念となる。

「あの時はそう……左手側に海があった。つまり右手側に海を来るようにして……このまま突き進めばいいんだな!
 待ってろよ、小平次様を舐めんじゃねぇっ!!」

そして走り出す小平次の背中を、止める者は誰もいない。
つっこみのいない小平次は、暴走した機関車などと同等のレベルを持つ特攻力を持ってしまうのだ。
だからかもしれない。その時の小平次は、走り続けたことから少し息が切れ欠けていて、いつにも増して冷静さを失ってしまっていた。
暫く駆けた後、その視線の先にて見覚えのある少年の姿に小平次の目が一瞬点になる。
そして、それが誰か理解できた時点で……小平次は、先のことなど考えることもせず既に声を張り上げてしまっていた。

「みーつけたー! 見つけた見つけた見つけた、やっと見つけたぞ!! 
 こんのガキャァ、お天道様が見逃してもこの小平次様はごまかせねぇぜ!」

小平次の大声で場にいた三人が、一斉に視線を彼へと向ける。しかし小平次は少年のことしか見えていなかった。
ここであったが百年目とも言うような強引さを兼ねた勢いで、小平次は少年に詰め寄る。

「この人殺し野郎が! あと俺の誤解も解け、絶対解け!!」

少年こと越前は、ぽかんと小平次のことを眺めていた。多分、この時点では小平次が何者なのか思い出せていなかったのかもしれない。
小平次はそんな越前と対峙する形で足を止めていて、深く考えず荒い呼吸を必死に抑えようとしていた。
そして息が整っていくうちに、小平次はやっとその事実に気づく。

「って、人殺しの前に堂々と出てきちまって、俺危ねーじゃねーのか!
 すんげー危ねーじゃねーのか?!」

後先考えず突っ込んでしまったことが問題だった、だが全てはもう遅い。
今更小平次が慌てるにしても、声をかけ、彼は堂々と姿を晒してしまっている。
また、そこでやっと小平次は越前の他に二人の人間がいるのにも気づいた。
……先程小平次と一悶着を起こした人物ではない。小平次の頭にクエスチョンマークが浮かぶ。
あいつ等はどうした。仲間じゃなかったのか。
それじゃあ、こいつ等は何だ。お前の仲間か?
誤解をとかなくては、いや誤解をとくのはこいつ等じゃない。
だからあいつ等はどこに行った! いや待て、そもそもどうしてこいつだけ一人でいるんだ?
グルグルと小平次の頭の中を回る疑問、今取るべき行動は何なのかという所まで彼の思考回路はまだ辿り着いていない。

そんな中一番に冷静さを取り戻したのは、小平次に指を突きつけられている当人でもある越前だった。
すっと細くなる越前の両眼、だが一人慌てふためく小平次がその様子に気づくことはない。
ポケットに忍ばせた左手が武器の確認を取る、すぐ様取り出せるようになっていたそれはしっくりと越前の指に馴染んだ。

一方香にいたっては、全く現状を把握できていなかった。
名前も知らない少年達のやり取り、ただ「人殺し」という物騒な単語が香の胸中に戸惑いを生む。
問うような視線を越前に送るが、香のそれに越前が答えてくる気配はない。
また、よく見ると喧しい方の手に握られている、少年という単語にはあまりにも似つかわしくない危険な道具も香に懐疑心を抱かせるには充分であった。
少年こと小平次が隠そうともしないそれ、イングラムM10。
そんなものをここで放たれてしまったら、香はともかく匿うべき少女が無傷でいられる可能性は低い。
そう、香一人ならまだやれるかもしれない。しかし彼女には、守るべき存在がいる。

このような状況になりあかりは大丈夫だろうか、香は確認すべく視線を素早く動かした。
香の斜め後ろ、変わらない位置であかりは無言のまま固まってしまっている。
どうやら彼女も、次々と転回する目の前の状況についていけていないらしい。
……できることならすぐ隣に移動し、香は彼女の細い肩を抱きしめてやりたかっただろう。
しかし名も知らぬ少年同士が対峙する様、しかも片方は武器を持っているという時点で迂闊な行動を取ることを香は恐れた。
下手に動いていいものかという香の迷い、またあかりの方はと言うと、彼女の思考回路を埋めているものは香のようなただの疑問符ではなかった。
ぎりっと強く噛み締めた彼女自身の唇から、ほんの少しの赤が漏れる。
それはゆっくりと、あかりの激情を表すかのように彼女の唇を染めた。



      ※      ※      ※



あかりの望みは自分以外の人間が消えてなくなって欲しいという、それだけのことだった。

ただ怖かった。
誰も信用できなかった。する気もなかった。
いなくなって欲しかった。皆、死んで欲しかった。
あかりには、それだけだった。
それだけだったはずなのに、あかりの周りには既にこんなにも人が集まっている。

「……んで、よ」

呟く。
言っても聞いてくれない状況が、あかりには悔しくて仕方なかった。
自分がその程度の人間と、神様が嘲笑っているようにすら彼女には思えただろう。
誰もあかりのいうことを聞いてくれない、誰もあかりの望みを叶えてくれない。
これは、あかりの『夢』なのに。
何一つ、叶えてくれない。

理不尽だった。
不快だった。
死んじゃえばいいのに。
うざい。
皆うざい。
特に、あいつがうざい。

あかりの視線の先には、いまだ一人テンパっている小平次の姿があった。
まくしたてる声がうざかった。大きいし、下品。
あかりの二の腕に自然と浮き上がる鳥肌が、彼女が生理的に小平次を受け付けていないという様を表している。

「死ね」

ここまであかりが明確な殺意を持ったのは、初めてだろう。
消えて欲しい、いなくなって欲しい、という曖昧なものではない。
あかりは、明らかな小平次の「死」を望んでいた。
そしてそれは、とても良いタイミングで叶えられた願いとなった。

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最終更新:2008年02月13日 21:36