五章.バリナ・ビーチ
流,という人物は,二面性を持っていた.
ある時は屈託なく付き合える存在だったし,
またある時は真剣に議論できる友だった.
私は,友に恵まれた学生生活を送った.
ファイ研究所に移ってからも,同じだった.
ナギアとミツヨシは最初の頃こそ権威的
だったが,次第に彼らに歩み寄っていた.
私は,空を見上げたのだ.
ナギアは,どこか間の抜けたひとだった.
スラッとした体格に,分け隔てなく接すること
のできる,好印象な青年だった.
そして彼は,毎朝のように修行をしていた.
「なにを…しているんだ?」私は尋ねた.
「素振りの練習だよ.みりゃ分かるだろう?」
素気ない返事だった.「木刀は,男のロマンだぜ」
確かにそうかもしれない.
「ぼくも木刀は持っているよ.修学旅行先で
行った町で買ったことがある」
「だろ?そう言えば,このシチュエーションは
どこかの漫画で読んだことがあるな」
ナギアは,無類のマンガ・アニメ好きだった.
「あずまんが大王,だな」私も,その頃は
漫画が大好きだった.研究室時代では,もう
読まなくなっていたが.
「そう言えば」ナギアは木刀を振るのをやめ,
私の方へ顔を向けた.「先日の実験の報告書
はいつ提出なんだ?」私はドキッとした.
「ああ…,ミツヨシに見てもらってからな」
「あいつ,結構厳しいぞ」ナギアは難しい顔をした.
「そうなのか?」私は恐る恐る訊いた.
「そうさ.俺も報告書を出したら,あいつ言ったんだ.
『しょうもないことするから,グラフの縦軸・横軸を
書き忘れるんだな』.そしてばしぃって」
「そりゃ,叩かれても仕方ない.もうポスドクだって
言うのにグラフの縦軸横軸くらいは忘れてはいけない」
ナギアは,「あいたた…」と言わんばかりの表情をした.
ミツヨシは,その厳しさとは裏腹に,思い切った
ほどの遊び人だった.「もし宝くじが当たったら?」
彼は巷で話題のゲームをプレイしていた.私の問に
ミツヨシは,私の方を向かずにこう答えた.
「そりゃ,豪遊よな」…仏教徒らしからぬ答えの
ように思えたのは,私だけではあるまい.しかし,
そんなミツヨシにまつわる,こんな出来事があった.
ある晩,彼がアルバイトしている酒場に招待された.
二十代も半ばを過ぎた頃だった.私が席に着くと,
スーツ姿のミツヨシが現れ,私の前にカクテルグラスを
置いた.「今日は特別な日や」その日は,私が
ちょうど昇進した日だった.
彼はシェイカーで小気味よく振り混ぜた.
まだ何も注文していないのに.何を混ぜている?
「このレシピは,俺しか知らん.どんな生きかたを
しても,お前のレシピは誰にも知らせないほうが良い.
バリナ・ビーチや.ブルームーンちゃうで」
緑が映えるトロピカルなそれは,良い思い出だった.
流れにもいろいろある.クエット流れなのか,
ハーゲンポアズイユ流れなのか,
ランキン渦なのか.
はたまた乱流であるのか?
流自身の「流れ」は一体どんなものか.
私は知らねばならなかった.ものの
流れを知るには,トレーサーを置けばよい.
例えば,澄んだ川の流れを調べる際に,
色素やアルミニウムの粒を含ませる.
そうすれば,流れの様子がはっきり見えてくる.
私は,流にトレーサーを放った.
大学時代の友人に,色素を与えたのだ.
流は,桃色を帯びてきた.桃色の濃いところは
流速が弱く,薄いところは流速が強いところ.
といった具合だ.
流は,渦を巻いていた.ランキン渦だ.
そう思った.
自然界の渦…例えば,
竜巻,台風,木星の大赤斑もそうだ.
それはみな「ランキン渦」という渦だということが
分かっている.
流体力学はどんな場面でも,美しい記述をしている.
流れ無しには,宇宙は成り立たないのだ.
銀河の膨張則しかり,風の状態しかり,
導体の中身を走る電子しかり….
『チャックベリーの「JohnnyBGoode」は,
植松伸夫の手により編集され,
「ジョニー・C・バッド」という曲が出来上がった.
友人との会話で飛び交うネタがゲームのことばかり.
「ファイナル・ファンタジー1」は,
ファンタジーからSFへの転換が印象深い.
プレイキャラのジョブを,開始時に決めることが
できる画期的なゲームだ.
「ファイナル・ファンタジー2」の主人公は,
リメイクの度にイケメンになってゆく.
初めてキャラクターたちが喋る(テキストだが)
ゲーム,として,今でも根強いファンがいる.
「ファイナル・ファンタジー3」は,
童心のような心に戻ることができる.
後世に知られるようないわゆる「召喚獣」が
3から登場した.
「ファイナル・ファンタジー4」は
愛と裏切りについて深く考えさせ,そして
シリーズ初となる「宇宙」が舞台となった.
そして子ども向けじゃないゲームNo.1
「ファイナル・ファンタジー5」は,
アビリティシステムが初めて導入され,
戦闘においての戦略性が生まれた.
自然が大好きになれるゲームだ.
「ファイナル・ファンタジー6」は,
愛ついて考え,中盤からの展開に,
多くのプレイヤーは涙した.
子ども向けじゃないゲームNo.2
… … …
私たちが共有できるのは6までだった.
それ以降は,ヴィジュアルにこだわりすぎて
「ファイナルファンタジー」というブランドが
良くも悪くも大きく揺れたものだ』
「それはおまえの感想だろう」
ナギアは私の話を遮った.彼は5に登場する
飛竜の絵を描いていた.「確かにその通り」
ミツヨシも,ナギアに賛同しているらしい.
あの頃は,みんなが好きなものを共有できた
時代であったように思う.今ではゲーム
というとスマホゲームがほとんどであり,
ネット上にすぐ攻略サイトが作られる.
『個人的な見解だが,ゲームは「共有できるもの」
から,時間を潰すだけのものになったと思う.
かつては何時間もかけてラスダンに挑んだもの
だが,今のゲームはサクッとできるのが売り』
「それはおまえの意見だろう」
ナギアはまたしてもドラゴンの絵を描いていた.
ミツヨシは…,なんだか末恐ろしいものを描いた.
ホワイトボードは,どんどんと混沌を湛える.
『「当時の方が良かった」とは思うが,
ゲームにおいては,三人そろって熱弁できる.
それくらい,我々はゲーム好きだったということ』
「まー,それはそうやろな」
「オレのドラゴンは破壊神だ!」
明日は電磁気学の試験があるが,三人そろって
何をばかなことやっていたのだろう.
いま思えば,懐かしい日々である.
「おれはスーパーマリオで力学を学んだ」
「おれ さけ のめない」
「ふたりら,酔っ払いすぎやぞ」
ミツヨシは鏡月の鏡月割りを作り,
そして夜を越える.次の日は三人とも
電磁気学の試験を難なくクリアした.
我々にとってゲームはそういうものなのだ.
六章.エデンのひとふり
「それで,真実ってなんだ?」私は問いた.
流は相変わらずキザだった.「僕の本名は,
『ナッガーレ↑スペクタクル』」.私は彼が
そんな冗談を言う男だとは思わなかった.
「君は完璧主義者かい?白か黒かはっきり
分けるべきだと思っていないかい?」
私は答えた.
「未来はそんな完全に決まるものでは
ないと,おまえは理解してるんじゃないのか」
流は,宇宙物理をどうとらえているのだろう?
「流よ.今度はおれから逆に問おう」
私は屹然とした口調で言った.
「なにが,おまえのなにに働きかけて
どうなったんだ?」流は応える.
「とても科学者らしい問だね.感心するよ.
やはり土木でも宇宙でもみんな一緒なんだね.
僕は自分が自分で分からなくなった.
いつの間にか身体が支配されていたんだ.
流体力学は,ひとの心のゆく末まで
記述するんだと知った….そして,ひとは
美しく散ってまた流れに還っていく….
万物は流転する…」
私は流の言っていることがよく分からなかった.
「ナヴィエ・ストークス方程式のことか?」
「ああ,その通りだ.僕はこの方程式を解こうとした.
だけども解けなかった….
数学上では,一般解なんて得られないんだよ.
それは君も分かっているだろう?気象,地象,水象
においては,かの式では何もわかっていない.でも
もしだよ?
一般解が分かっていたら,天気や地震について
完全な予測ができるはずなんだ」
流はなにがしたいのだろう?「いいかい,君」
流は言った.
「僕は,アインシュタインに賭ける.自然界は数式で
どうにもなる世界なんだ」「ならおれは,ボーアに
賭ける.確率によってしか…いや,確率でこそ
決まる世界をおれは望む!
シュレディンガー方程式の左辺の虚数単位を信じる!」
「そこまで君が言うとは…やっぱり世界は確率なのか…
僕は,なにも信じる気持ちが起こらなくなった.
不遇のハンディだったのさ」
『なにも信じる気持ちが起こらなくなった』?
「それは,おまえの友人のおれでも,信じられなくなった
ってことか?」
流,おまえは信じていたじゃないか.『そこまで
君が言うとは』と.少なくとも,私のことを信じて
くれていることじゃないのか?
「確かに宇宙論は,難しかった.君と
同じく,かの方程式には脱帽した」
だから,僕は,ふたりに分かれたのさ.
流はそう付け足した.
ふたりに分かれた?
ふ,た,り?誰と,誰とだ?
流は,依然光っている.
閃光の向こうに見えるのは,鈍く
染まった雲だった.流は手を口にあて,
ロウソクの揺蕩う火を吹き消すように,
私にその鈍い空気を放った.
不吉な予感はしていた.
私は,なにかでヘマをしたと思った.
またやらかしてしまった.
そう思った.
『人間は偉大で,
完璧にものごとが全て決まり,
あいつも,おれたちも,全てが思い通りに
なる世界を望む.
そのためには,手なんかかけてはいられない』
「いや,違う!
未来は決まらなくて当たり前だ!
いつかの日に備えて,
手を取り合うことが大事なんだ!」
たとえ,眼の前が見えなくても.
たとえ,周りの音が聞こえずとも.
たとえ,そばにいるひとが,
いなくなっても.
「ぼくらは生きていける!
明日を迎えられる!
それが,たとえ無くても!
私たちは,いま,ここに生きている!
それがなんて素晴らしいことなのか,
おまえは理解していない!
不遇のハンディをもってでも,だ!」
「実に虚しい」流は言った.
「では,君たちの住む母星が,
二つの意思によって違うループを
採るならば,どっちを選ぶ?」
違うループ?
私は混同した.したが,私は,
彼の言葉を傾聴した.同じ,人間として,
彼の言葉を聴くべきだと判断したからだ.
彼は言う.
「ナギア君とミツヨシ君から,連絡が
入ったようだ.彼らは殺されて
なんかいない.知ってたかい…?」
突然の死者が,使者になった瞬間だった.
言葉遊びではない.たとえ元同僚が
敵先でも,私の苦労には及ばない.
私は全てを信じていた.
「この母星には」流は話し始めた.
「ふたつの脅威がある.
とても,とても,恐ろしい.
ひとつは神.もうひとつは悪魔だ…」
「神と悪魔?」私は返した.
「おまえがクリスチャンだったとは
知らなかったが,分けるのは良くない.
おまえは,そのままでいる方が,充分だ」
「僕は,いつからこうなったのか
分からないんだ.ただ僕らしさって
なんだろうって…」「それで,
分かれたのか?感心しないが….
科学は,分けることによって成功した.
だが,心は,分けるもんじゃない!
ありのままで,いいんだ!昔みたいに,
黒板の前でもう一度議論しようぜ?」
"それが,友だちってやつだろ?"
私は心のなかで付け足した.
おそらく,流は人格が崩壊しつつある.
誰が,こんなに穢した?
「知りたいかな…?」
流は,もう流本人ではなかった.
「君は,恐怖の前に,ひれ伏せ,
あらゆる命に,並べられた秩序に!
『調和の神エデン』か,
『混沌の悪魔ラプラス』か,
どちらかを選ぶ権利を与えよう!」
幾億の運動.
幾億の契り,理….
我はラプラスの悪魔….
混濁した我を前に,ひれ伏すがいい!
おまえたちの母星,地球…
闇に包まれなおも,秩序を求めるか?
秩序など,そこにあってはならぬ.
この現世に…混沌はなくしてはならぬ.
それでも我に抗うとするならば,
受けてみよ!そして耐えてみよ!
諸星の光を受け,偽りのエデンを,
暴き出せ!
やつは,エデンは,この世界に秩序を
もたらそうとしている.完璧な世界を,だ.
おまえの友,流は,このわしが喰った.
一番誇りの「うぬぼれ」を犠牲にして,
このわしに貢いだのだ.ナギアとミツヨシも
わしのエサになった.彼奴らは,とても
美味かった….悪い虫に食べられる夢を
みせてやったのだ.哀れなやつらだ….
しょせん想像上の人物でしかないものよ.
さあ,いまこそ世界に混沌を!
イマジナリに終焉を!
愚かな流れに別れを告げよう!
≪ラプラスの力が強まっていく!≫
「食らえ!
≪はどうほう≫
≪全滅した…≫
七章.愛するひとへ
肌がジリジリと痛む.
私は一体どうなったのだ?
「立ち上がって!
あなたは生きている!」
だ,誰だ…?
虚空の彼方から,声が聞こえた.
「全ての幻想は終わったわ」
すべての…げんそう?
「そう.
自然神エデンの企みが,そして
レッド・サイクロンの目的が分かった」
それは…いったい?
ラプラスから激しい光を浴び,
私はどうなったのだろう.
私は目を覚ました.スカーレットの
ひざまくらでお世話になっていた.
「流くんのセリフを思い出してみて」
スカーレットは,いつでも情熱的だ.
私は彼女のそういうところが大好きだ.
「流の…どのセリフだい?」私は尋ねた.
「ずうっとずうっと前のセリフよ.
自由に回想していいの」
私は,【回想】してみた.
そうだ.現実か夢だか分からなく
なったあの時の声だ.
≪実に虚しい≫
あの時の…声だ.
≪ヨーク公のことを知っているかね?≫
唐突に放たれた言葉だった.
≪君は,悪い虫に食べられた夢をみている≫
こんなことも言っていたな.
そして,
≪君は,一度死んだ方が良いな≫
そんなことも言っていた.
私は死んだのか?
「ヴェートーベンは耳が聞こえなくなった」
スカーレットは言った.私は返す.
「そうしてもなお,音楽を作った」
生きるとは,つまりそういうことだ.
ハンディを背負ってこそ,生きることができる.
「つまり,ぼくは死んで,新しいぼくに
なった.そういうことかい?」
スカーレットはゆっくりうなづいた.
「もうあなたは安心していいのよ.
烈風や豪雨が来ても,きっと乗り越えられる.
それだけの強い精神力がついているはず」
いろいろ,あったからな.
不遇のハンディがやってきても,
なおも前へと進む力がある.困難を
乗り越えた先には,困難に打ち克った
自分がいる.それは事実だ.
「それにいまのあなたは,独りじゃないわ」
そうだ,私を支えてくれたひとがいる.
彼らを仲間と呼ぶのならば…
私は,確かに独りではない.
支え合うこと,手をかけあうことが
大事なんだ.それこそが生きるということ.
私は立ち上がった.そして手を差し伸べ,
スカーレットを強く抱きしめた.
「ありがとう.還って来てくれて」
スカーレットは,涙を湛えていた.
「泣かせてごめんよ.ただいま,
スカーレット」「ううん,嬉しいの」
真実と向き合う時が来た.いま,
何が起こったのか.何が起きているのか.
ナギアとミツヨシはどうなったんだ?
結局のところ,彼らは殺されていなかった.
これは一体何を意味するのだろう?
流は,彼らの「連絡が入った」と言った.
私は状況を把握せねばならなかった.
「科学者は,べき思考の塊みたいなものだ」
ふと思いついたことを言ってみた.
私はこの世界に入って,どれくらい
「~なければならない」と言っただろう?
そんな科学者も,自然を愛している.
現象を観察し,仮説を立て,実験する.
そうした得られた結果と,仮説とを
照らし合わせ考察する.ひたすらに
事実と向き合う姿は,自然愛そのもの.
彼らは何度も仮説を立て,ひたすら
実際に試す.自分の仮説が正しいのか,
異なっているとしたら,自分の仮説を
再構築する.
その姿勢は,謙虚で「見返り」を
求めない,「無償の愛」そのもの
だと言えよう.
夢をみていた.悪い虫に食べられる夢だった.
体中がヒリヒリしている感覚がする.
私はいままで夢をみていたのだろうか?
それとも醒めたのか?
これから夢をみるのか,
またはこれから醒めるのか?
それさえも分からない.
生きるとはどういうことだろう.
アンセーヌを失った時から私は,
死んでいたのだろうか.
「スカーレット.ぼくの頬をつねってくれ」
私は言った.「痛みをおぼえることで,あなたは
夢か現実かを判断するの?」とても甘い声だった.
痛みを感じることが現実で,
感じないのが夢だとするならば….
私の夢は,とても現実だった.時は儚くして
今に至るが,私はあいかわらず悪夢だった.
「スカーレット.スカーレット.
ぼくの声が聞こえるかい?」「ええ,
ちゃんと聞こえているから心配しないで.
生きることは痛みを感じることじゃないわ.
私たちは明日をみつめなければならない」
「君も科学者だね」「事実に謙虚にいること.
マトリックスは規格化されていなければならない」
その通りだと私は思った.
全ての幻想は,一つの現実に絞られる時がきた.
「ぼくたちは,明日をみつめなければいけない」
「そういうことよ.悪い虫は,倒してもキリがないの.
振り返ることは大事なこと.
だけど,過去の出来事をいつまでも思い出してばかり
では前へ進めない.過去を食べられてあなたは
生まれたばかりなのよ.さあ,空を見上げて」
私は,スカーレットを愛した.とても情熱的な
営みだった.現実は,思っていたより辛くはない.
ひとを愛すること.それこそが生きることであり,
私の心のなかの一番強い気持ちだった.
「ラム!」ふたりの男の声がした.
「俺たちは宇宙にいるぞ!
倒す脅威はラプラスじゃない!エデンのほうだ!」
ふたりの声は鈍色で,虚空に消え去っていった.
八章.手を取り合って
雲塞レッド・サイクロンに乗り組んだ
私とスカーレットは,宙を越え,
真実を確かめようとしている.
ラプラスは,正しかった.
あの声….「真の敵はエデン」だって?
「ああそうさ!俺たちは宇宙で
おまえを待っている!」妖精さんの
声のように聞こえた.
レッド・サイクロンは,雲塞だった.
青白い扉の向こうには,旅客飛行機の
操縦席のようなものがあっただけだった.
ところどころに赤いタッチパネルが犇めき
合っていた.私はレッド・サイクロンとは
なにかの組織だと思ってきたが,どうやら
それは違うようだ.
結局,ここは何をどうするところなのか?
それを今一度はっきりさせるべきだ.
この要塞は,不思議なところが見受けられる.
「ドラえもん・のび太と雲の王国」を
思い出した.素晴らしい映画だと私は思う.
ドラえもんが二度故障するシーンには号泣した.
ノア計画には,驚いたものだ.
父と一緒に観に行った,最初で最後の映画だった.
大人が観ても,そのシナリオは驚かされる.
主題歌「雲が行くのは」は,今でも心のなかに
ずっしりと残っている.
小学校二年の時に観たのは,「雲かためガス」で
固められた雲の上に王国を作る物語だった.
レッド・サイクロンも同じように
できているかと思った.
とすれば,かの映画の「雲かためガス」に
相当するものはなんだろう?操縦席に身を預け,
気象学者の私は考えた.雲にもいろいろな種類がある.
「雲形十種」を覚えることは,気象を知る上で
一番基本的なことだ.
雲塞レッド・サイクロンは,積乱雲のような形を
している.なかにはなにかの施設があると思ったが,
青白い扉がただあって,操縦席があるだけだった.
「雲を,運転するのか…?」そう呟いた.赤い
タッチパネルのひとつを押してみた.
すると….
「きゃ」スカーレットは声を
出すくらい驚いたようだった.
「宇宙物理もいいけどさ」私は悟り,言った.
「雲物理学も楽しいものだよ.実学も役に立たなくては」
「そうね,そう思うわ」
「それで君はレッド・サイクロンについてなにか知った
んだろう?」
自然神エデンと,レッド・サイクロン
の目的は一体何だろうか.
スカーレットにそのまま訊いた.
「彼らの目的はひとつ―――.
―――地球の「振り子」に調和を…
振り幅を全て揃えようとしていること」
自然界にはあらゆる振動がある.
気象で言えばエルニーニョ現象がそうだ.
エルニーニョとラニーニャは東西に
一定の周期で振動している.南米の
太平洋側で海水温が高くなれば,
インドネシア付近の海水温が低くなる.
南米太平洋側の海水温が低くなれば,
インドネシア付近の海水温が高くなる.
まるで,温度の高い領域が東西に
振り子のように行き来しているのだ.
インドネシア付近の海水温が高く
なったり低くなったりすると,日本の
天気が大きく影響される.
スーパー台風ができるのがその一例だ.
振動するのは,海水温域だけではない.
水蒸気を多く含む雲が,一定の周期で
赤道上を走っている.この振動を
「マッデン・ジュリアン振動」という.
懸念されるのは,そうした振動が
共鳴した時のこと.共鳴してしまうと,
振り幅が大きくなり,より強い振動を,
つまり,影響を更に強めることになる.
スカーレットの言っていることは,
そういうことだ.なにも天気だけじゃない.
地震という振動さえも,
共鳴させようとしている.
「地球にある全ての振動現象を揃えること」
これが自然神エデンのする役目だと言う.
それを助長しようとするのが,
【レッド・サイクロン】の目的だと言う.
「【レッド・サイクロン】は,共鳴を,
とても大きい共鳴を,起こそうとしているわ.
『彼ら』は,とても大きい共鳴のことを,
"エデンのひとふり"と呼んだの」
エデンのひとふり.その大共鳴が起これば,
この星が大きな振動を起こして,大地は裂け,
風は耳を壊し,水はあっという間に洪水となる.
そんなことはあってはならない.
妖精さんの声に従うと,エデンが
倒すべき相手であり,彼ら(?)は
どうやら宇宙にいるらしい.
私たちは彼らのところへ行く.
エデンは宇宙で,何をしているのか?
私たちは真相を探る.
実際に行ってみないと
分からないものだらけだ.
さあ,エデンと対峙しよう.
第一宇宙速度を突破した.
私はエンジンにブーストをかけるべく,
操縦機のトリガーを引いた.
「それで,流を支配していたラプラスの
ほうは,どこにいるんだ?」
混沌の悪魔,ラプラス.
ラプラスの言うことは正しかった.
「ラプラスは,全てを乱そうとしているわ.
振り子を乱そうとしている.地球の数ある
振り子をバラバラにしようとする内に,
自分自身を乱してしまった.エデンと
ラプラスがいるのは,未来よ」
未来…?私は呆気にとられた.
雲塞レッドサイクロンは,時空を超えるため
の乗り物ではない.未来にゆくのか…?
「私とあなたなら,未来に行くことができる」
「未来へ行くには,独りではいけない?」
「私は宇宙物理を専攻していたのよ.
星間飛行なら,お手のもと.
私たちふたりだけの星がひとつあるの」
スカーレットは唐突に言った.
「ふたりだけの星?」私は言った.
「そう.そこにエデンとラプラスを封じ込める」
「封じ込めて,どうするんだ?」
「そのままブラックホールへ」
よくある話だ.そう思った.
「でも,この雲塞でどう時空を?」
「光を越えるには,あらゆる質量を
そぎ落とさなければならない」
スカーレットも,科学を学んでいたのだ.
「私たちはいま!光の流れを超える!
そしてあなたは,ふたりだけの星へ彼らを
追放するのよ!」
待ってくれ!
君の質量をなくすのか?
「君を犠牲にしてまで,
彼らを封じることは出来ない!」
もうスカーレットは,光の流れを超える
トリガーを引いた後だった.
「ぼくが犠牲になればいい」
「じゃあ,私は誰を愛すればいいの…!」
「【コスモポリタン】だよ.意味は
地球市民.君は地球を守る女神になるんだ.
君を含めたコスモポリタンが….
みんなが幸せになれれば,ぼくの死なんて
瑣末なことに過ぎない」
私は,スカーレットが座っている助手席を
宇宙空間に脱出ポッドとして放った.
目標はもちろん地球だ.
スカーレットの泣く声が聞こえる気がする.
ごめんよ,スカーレット.君はこれから,
地球市民として,強く生きるんだ….
ずうっとずうっと愛しているよ.
彼女のなかに放った,私の最後の声だった.
程なくして,光の流れを超えた.
だが,未来など,存在はしない.
時の流れの方程式までは分からないけど.
流れ始めたら,もう誰にも止められない….
ぼくにできることは,彼らを連れ,
ふたりだけの星で彼らとともに
最期を迎えることだ.
ありがとう,とても美しい夢だったよ….
混沌の向こうに,真実がある.
エントロピーは増大しつつあった.
かつての偉大な物理学者アインシュタインは,
熱力学の達人であったという.
熱力学は,素晴らしく理論だてられた学問だ.
アインシュタインは熱力学の何を愛したのか?
矛盾なき,整然とした,どんな座標系を採用しても
必ず成り立つ理論だからか?
古代から「熱とは何か」という議論が為されてきた.
電気の粒が流れて電流としてあるように,
熱もなにかの粒が流れている現象なのか?
かつてのひとびとは,その熱の粒のことを
「熱素」と呼んだ.しかしいま現在では
こう結論づけられている.
熱はエネルギーの一種で,系の【温度差】を
平衡状態に持っていくために発生するものとして
捉えられている.そこには,【自分自身】と,
【他のもの】が必要だった.
自分と他がいて,熱は発生している.つまり,
【温度差】が必要なのだ.他とは違っていても,
自然界は平衡に,互いを同じように持っていこうとする.
アインシュタインは,もしかするとそういうものを
愛していたのかもしれない.私たちが時を刻む,
いまここの瞬間でも,混沌が増大している.いまより
煩雑さが増している.煩雑していくもの.
それが「未来」の定義だと私は強く思っている.
アインシュタインは歌う.万物の理論を.
温度差,つまり【自分】と,【他のひと】が
いて,この世界が成り立っている.
… … …
ドップラー効果により,
遠ざかっている星は赤く見え,
近づいている星は青く見える.前者を
【赤方偏移】という.宇宙物理の常識だ.
私は宇宙の彼方から青く見えているはずだ.
故郷に,母なる星に,地球へ向かうトリガーを
引いたのだから.
熱帯低気圧は,はるか彼方に遠ざかってゆく.
代わりに,自分の座る操縦席を脱出ポッドは
宇宙空間に脱し,その反動で地球へ向かう.
赤い熱帯低気圧が,青い月になった瞬間だった.
君のなかの私は,どう映っているんだろう?
光を超え,のどが焼けた私は,君になにを
すればいい?
操縦席のとなりに置かれたテーブルに,
ウィスキーが置いてあった.
コトコトと音を立て,いまにも
倒れそうだ.見ていられない.
私は40度越えのウィスキーを飲み干した.
のどが焼けるように痛みが走る.
そうか.のどなしになる対価には,
それだけで充分なんだ.
光速へ近づくからのどが焼けるのではない.
最期さえも超える,ひとの美徳こそが,
世界を救うのだ.美は死をも超える.
記憶は流れゆく….
のどなしの私に,君へ,そして
コスモポリタンへできることは―――.
終章.コスモポリタン
『見返りを求めない,
彼による無償の愛が世界を救った.
秩序などこの世界には元々なかったのだ.
複雑である方が,人生というものだ.
私たちは自然についてなにも知らないし,
だからこそ探究することが大事である.
生きることは大変ではあるが,大変だからこそ
ヒトである証なのだ.
未来のことなど分からない.どんなに
苦しくても,手を取り合うだけで,
道は拓かれている.
ラム・サルーインは,そうしてこの世界から
去っていった.彼は,わたしのために,
残されたコスモポリタンのために,全てを託して
宇宙の彼方へ旅立った.
そこはまぎれもない,見返りのなさそうな,
それでいて厚く信頼している証でもあるのだ.
事実をありのままに受け止める.それは
自然への至高な,愛のかたち.
のどなしの彼にできたことは―――.
―――全てを愛することだけ,だった」.
スカーレット・サルーイン著:
読解・【コスモポリタン】より
私は,【コスモポリタン】の原稿を読んでいた.
ねぇあなた,いま,どこでなにをしているの?
あなたの声が聴きたくて,しょうがないの.
私はあの日から毎晩,泣いていた.
脱出ポッドで地球の海に堕ちた,あの日から.
私は,いままでなにをやってきたのだろう?
宇宙物理?いえ,なんかもっと
訴えかけるなにか….色,が問題だったの?
星は,赤いか青い?
私が見える月は,赤かった.「赤方偏移」?
いいえ,ちがうわ.遠ざかってゆくのは,悪い
虫だけでいいの.私は彼を,信じたいの….
あなたが信じた,「わたし」と「コスモポリタン」
のことを.愛しい,この世界を.
あなたが愛した,この世界を.
そして,わたしが愛する,あなたのことを.
「宙へ逝ってしまったあなたに,どうすればいい?」
答えは分かっているわ.思い続けることが,
こんなにも大事なことだと,あなたから
教わったのだもの.忘れません.
ひとは,大切なひとを愛することで,いつまでも,
どこまでも生きることができることを知りました.
私は,あなたのしてきたことを振り返りながら,
私のしてきたことを振り返りました.
たくさんの愛をありがとうございます.
私が生きている限り,あなたは生きています.
私が死んでも,あなたは永遠に語り継がれます.
だから少しでも….あなたのお側に居させてください.
いつまでも,あなたに恋をしていたいのです.
これもひとつの,愛のかたち.
あなたのことを,ずっと愛しているわ.
いつまでも,いつまでも….
"ありがとう,スカーレット.君の緋色の
明りで,ぼくは帰ってこれる.
ぼくたちが生まれた,故郷に.
母星へ.地球へ.
全てが愛しい,あの青い月が照らす地球へ.
君が信じた,いや,君が信じている,
《スカーレット》へ.赤は,離れる色じゃない.
愛を結ぶためだ.君の緋色がキレイだよ.
ハートマークはどうして赤く描かれる?
女性はどうしていつも赤く象徴される?
男性はどうして青く象徴される?
言っただろう?
《空のように,君を守ってみせる》と.
ブルームーンの下で,一緒に生きよう.
だから,もう泣かなくていいんだよ".
私は地球への流れに合わせて,トリガーを引いた.
おまけ
最終更新:2017年11月12日 13:59