30.
「彼女」は,エコール時代に私と一緒に書庫の管理を任されていた唯一の女性(ひと)だった.
私と「彼女」,2人だけの書庫の中での出来事は,年を経る毎に美しい想い出と化していた.
私は書物の大まかな管理を,「彼女」は書庫の鍵を持つのを許され,私と一緒に古文書を
解読する役目があった.書庫という閉じられた空間で,私と「彼女」は,日々書物探求の
旅をしていたのだ.それが,エコール時代の唯一の青春であった.
私を背負う女性の息づかいを聞いている内に,次第にその女性が「彼女」であることが
うすうす感じ取れていた私は,どうやってその女性と意思の疎通をはかるか考えた.
やがて,私はその女性の背中に指で文字をなぞり,今現在の私の意思を伝えようとした.
「ありがとう.もう私を下ろしてくれても構わないよ」
と.
その女性は私が指で文字をなぞる度にビクンと大袈裟に背中を反らした.
この感じ様は・・・間違いない,この女性は・・・「彼女」だ.
31.
「彼女」は私の意思に従い,私を地面に下ろしてくれて,そしてしばしの安息の時が訪れた.
私は今は話せないため,「彼女」とのコミュニケーションは手のひらに文字を書いて意思を
伝える方法だと私達は互いに考え,そして実行した.
「君と再会できるなんて思いにもよらなかったよ」
「倒れていたあなたを見つけた時,息が詰まりそうになったわ」
「どうして君は僕を背負いながら歩いていたんだい」
「霧から遠ざけるためよ.他にあなたを助ける方法なんて思いつかなかったもの」
「・・・答えてくれアンセーヌ,僕の君に対するロウソクの炎はまだ潰えてはいない.
君は・・・」
「待って.それ以上言わないで.私は・・・.私はまだ影を抱いているのよ.例えあなたの
ロウソクの炎がどれだけ強かろうと私の心には・・・届きは・・・しないわ」
「それが真実か,あの時試したじゃないか」
既に視界が回復していた私は,アンセーヌの細い躰を力強く抱きしめた.
32.
冷え切った洞窟の中で,何度も彼女を抱いた.久しぶりの再会の上に,日々積もっていた想いが
爆発し,私はアンセーヌを精いっぱい愛した.彼女はそれを拒むことなく,私と共にこの一時の
情事に身を任せて,やがて私達は絶頂に達した.
荒い息づかいを未だにしながら,アンセーヌは激しい情熱に満足しているようだった.
だったのだが・・・
「あなたに抱かれている時,私は満たされていくように感じられたわ.あなたが私の心に
焼きついた影を取り払ってくれるだろうってずっと思ってる.そう信じているのに!
どうして暗闇は晴れてくれないのかしら・・・」
「君は・・・青空が好きかい.僕は好きになれたよ.心の在り処が影によって定まらないのなら,
全身が心だと思えばいい.やがて影は君の体から染み出し,消えて無くなるさ」
私は蘇った五感を頼りに,今度は自分が彼女を背負って洞窟から脱出しようと試みた.
アンセーヌは,私の背中でゆっくりと寝息を立てていた.
33.
洞窟の中でアンセーヌを背負って歩きながら,
私はかつてのエコール時代のことを思い出していた.
学生として華やかで毎日が冒険の日々を送るよりは,静かな書庫の中で,身近な女の子―「影」を
抱いていても―と情熱的な恋をしたい.
当時の私は後者を選び,大人になり,そしてエコールを卒業した.もともと皆の輪に入り騒ぐのが
嫌いだった私は,喧騒から離れ,やがて静寂を求めるようになった.そういう私の気質を汲んで
くれたのか,当時のエコールの教師達は私に書庫の管理を薦めてくれたのかもしれない.私は
差し出された選択肢に飛びつき,静寂と情熱,両方を手に入れたのだ.それが,エコール時代に
おける唯一の青春だった.
洞窟の外にもう少しで出られるところ,光が差したせいかアンセーヌが目を覚ました.
「起眼と眠眼の世界の区別がつかないのは・・・いつものことね」
そう言って自分の足で歩き始めた彼女は,気だるそうにして,あの時の書庫の鍵をポケットから
取り出してみせた.
34.
「その鍵は・・・あの時の・・・どうして・・・」
「そんなに驚くこと?この書庫の鍵は
いつでもどこでも『あの時』に戻れるキーアイテムなのよ」
「それ程のものをどうして君が」
「あら,私も一応魔導の才がある人間だということを忘れないで欲しいわ」
そうだった.彼女もエコールの学生だったことをすっかり忘れていた.何故ならアンセーヌ,
君は腐ったエコール時代とはかけ離れたところにいた女性だったからだ.
気付くと,彼女は魔導の言葉を唱え始めていた.この書庫の鍵には時空魔導が施されている
ようだ.アンセーヌは両の人差し指を書庫の鍵にくっつけて魔導の言葉を唱え終わり,
言った.
「あなた,これからどうする積もり?この先は東の国々がいくつもある砂漠へと続く
カイダニア渓谷が連なっている・・・」
「カモメ無しでは大変そうだな.それにしても君は今一体どこで何をしているんだ?」
私の問いに,彼女は黙した.何かまずいことを問うてしまったのだろうか?
35.
沈黙した空気を破ったのは,彼女だった.
「あなた,私と再会してしばらくの間は五感の内幾つかが失われていたでしょう.
私と出会う前の事は覚えている?」
「ああ.竜と戦っていた」
「その時にあなたは目を引き裂かれそうになったのよ.それで,あなたのかけていた魔心眼が
あなたの眼を守ってくれた.でもそのせいで,あなたの眼と魔心眼が『同化』してしまった.
今だって,ちょっと工夫を凝らせばあらゆる境界線を見ることが出来るはずだわ」
アンセーヌにそう言われ,私は辺りの岩を視てみた.すると,確かに物質泉が見えるではないか.
「けど,いつの間に僕はそんな眼を持つようになったんだ?」
「竜は確かにあなたの眼を引き裂いた.あなたには傷みの記憶が無いのよ.いいえ,激しい傷み
を感じようとする時,その時の記憶が飛ぶように出来ているのよ,あなたは」
呆然とした私に,彼女は次々と知られざる事実を言ってくれる.記憶が飛ぶ,だって?それなら
今までに受けた傷の記憶は全て失われているのか?
36.
彼女は続ける.
「あなたはエコール時代の私と共にいた日々を思い出すことが出来た.全部,この書庫の鍵
のおかげなのよ.傷みの記憶,青春の記憶・・・」
「君は僕の事をずっと見守ってくれていたのかい?」
「えぇ,そうよ.『鍵士』としてね・・・」
「鍵士?」
「鍵士とは,あらゆる記憶を封じ,そして解放する事が出来る『過去の箱庭』の鍵を持つ事が
許されている者.私は鍵士になってから,ずっとあなたを追っていたわ」
「エコールを卒業してからずっとかい?」
「ええ・・・もちろんよ」
「影が出来始めたのは・・・いつか分からないか」
「・・・記憶を動かすことができるようになってから,疑問に思うことがあったわ.記憶に
伴う感情や気持ち・・・それさえも動かせるようになった私は,心の在り処が分からなくなった.
箱庭に置いた気持ちや感情が他の人のとすり替わったら大変なことになるじゃない.
私は大変な責任を負わされた・・・」
私はゆっくりと彼女を抱きしめた.
37.
「君はどうして鍵士になったんだい?」
一呼吸置いて彼女は返す.
「あの日のこと,覚えているかしら」
彼女,アンセーヌが言う「あの日」とは,多分・・・
「僕らが大人になった日のことかい」
「えぇそうよ.
私が唯一,書庫の鍵を使って密室を作り出して,あなたと初めて愛し合った日のこと.私は,
その時の記憶を永遠のものにしたいと思った.それで,思い出を封じ込める為の過去の箱庭
について学んだわ.そして私は鍵士となり・・・」
彼女が不意に息を詰まらせたので,私は大丈夫かいと気をかけた,その時だった.魔心眼で
彼女を見ると,本来生ける者が持つ生命泉が,彼女の中の何処にも見当たらないのだ.
ということは・・・彼女は生ける者ではなく死者であるということだろうか.いや,
もしかしたら,影が彼女を食らっている可能性がある.私は魔相を揃え,魔力を高め,
彼女を視た.
38.
私は彼女を覆う「何か」を剥ぎ取ろうと手を伸ばし,そしてビリビリとまるでテープで
くっついたものを剥がす音を聞いた.・・・くっついたものとは,生命泉であった.
なんということだ,彼女,アンセーヌは確かに影に食われていたが,それもただ食われている
だけじゃない.影が,何層にも渡って生命泉によりくっついているのだ.それでは・・・
影をこのまま剥がし続けたら,何が残るというのだ.
「心に決まっているじゃない」
アンセーヌの像がそう私に告げる.私の愛した彼女の躰は全て影,ということになるのだろうか.
しかし,心は・・・.影を全て剥ぎ取られ,「心」だけになった彼女は言う.
「ありがとう.私をずっと覆っていた影を全て取り除いてくれて.最期に1つだけ頼めるかしら.
あなたの,ユートピアまで行く旅に同行させてもらえない?」
私は答える.
「も・・・もちろんさ!」
私は彼女の心を自分の胸に押し付けて取り込み,涙を拭って笑顔で答えたのだ.
身体が死んでしまっても,魂は滅びはしない・・・・・・
39.
彼女の心を覆っていた影.彼女の身体を食らっていた影.
私によって彼女から剥ぎ取られた影達を,私は強く憎んだ.
どうしてお前達はアンセーヌの心を覆い,そして身体を食らったというのか!
しかし,その理由は,彼女自身が言っていたものだった.それは,心の在り処が分からなく
なってしまったから.その様な疑問を抱くようになった彼女につけ込んだ影達は,
彼女,アンセーヌを食べてしまったのだ.私が唯一愛した女性をそんな目に遭わせるとは.
私は容赦しなかった.未だ彼女の生命泉を食らい続ける影達を,私は大きく薙ぎ払った.
悲鳴をあげながら逃げ去ろうという影達にも,私は容赦しなかった.魔心眼で視,影達の
独特の生命泉を薙ぎ払い,滅したのだ.
気付かぬ内に涙が溢れ出ていた私を,心の中の彼女は,温かく包んでくれた.
"私はあなたの中にいるから,ロウソクの火は燃え滾っている.
これから誰も憎んではいけないわ.あなたが感じるものは私も感じるものだから"
影を全て滅した私は,彼女の声に従い,前に進んだ.
40.
ロウソクの火が灯るカンテラを君に届けに行く旅はもう終わった.これからは,ずっと一緒だ.
洞窟を出ると,アンセーヌが言った通り,険しい渓谷が見えるところに辿り着いた.
カイダニア渓谷と呼ばれるそれは,北方の国と東方の国を繋ぐ唯一の場所だ.
私は,これまで魔心眼を使ってきて,ようやく本来の使い方を知ることができたように思える.
すなわち,魔心眼でものを"造る"ことである.生命泉を薙ぎ払って生命の元を絶つ事が
可能なら,逆はどうだろうか.私はカモメを頭の中に思い浮かべ,物質泉を指でなぞるように
して無の空間に描き出した.・・・一通りなぞり終わった私は普通の眼で目の前を見た.
すると,少しイビツだが確かにカモメが出来ているではないか.まやかしなどではない.
本当に実在する"もの"である.少しイビツなところを直す為,私は初等魔導によってカモメを
加工することにした.目前に広がるカイダニア渓谷を越える為に.
41.
私の手から放たれ続ける炎により,イビツなところを溶され,やがてカモメは
空を飛ぶのに適した綺麗な曲線を持つようになった.
カイダニア渓谷を越え,東方の国々へ向かうために,カモメのエンジンを点ける.
私が魔心眼で造ったカモメは,かつて私の友人が作ってくれたそれと寸分の違いも無いもの
だった.内蔵する魔導具まで同じものだという事に気付いた私は,1つの疑問が出ていた.
すなわち,魔心眼はどのようにして作られているのか,ということ.かの様な疑問を
持ちながら,私は渓谷の上空へと飛び立った.
茶色の岩場で占められたかの渓谷は,岩が突出した部分とそうでない部分の差が激しい.
それ故か,私は地面より遥か上方で飛ぶことを余儀なくされた.この渓谷は通過点に過ぎない
のだが,きちんとした旅の記録をつけたかったのだ.異界へと続く洞窟,高低差の激しい
岩石群,薄霧がかった地面などなどを.
42.
眼下の渓谷は徐々に岩場が少なくなってゆき,しばらくするとカイダニア渓谷から
出ることが出来た.その時,私は下ばかり見ていたので,心の中のアンセーヌが注意を
促してくれた.
―前を見るのよ,最初に決意したことでしょう?―
確かにそうだった.私は前を見据えて,カモメを操縦する事にした.そして「分岐点」まで
辿り着いた.分岐点には看板が立てかけてあり,左右の矢印が描かれていた.私はカモメから
降り,看板の前に立った.両方とも行き先は暗がりになっており,此処から先へ進むにはこの
看板を頼りにするほかなかったからだ.
右の矢印の下には,"東の国"としか書かれていなかった.一方,左の矢印の下には,"此処より
ハウス脱出可"と書かれていた.私はその文字を見た時,"ハウス"という言葉が意味するものが
一体何であるか分からずにいたのだ.ハウスについてアンセーヌに尋ねると,彼女は少しの間
黙した後,驚くべき真実を語ってくれた.すなわちこの世界の全貌を.
43.
心の中のアンセーヌが言う.
「あなたと私の心が同化する前に話したじゃない?過去の箱庭のことを.あらゆる記憶を封じ,
そして開放できる過去の箱庭.ハウスというのも実は同じようなもので,過去の箱庭の
とてつもなく大きなもの,と捉えてくれても構わないわ」
「となると,ハウスもあらゆる記憶を封じたり,開放できたりするのかい.誰かの記憶を操作
することができるというわけか.大勢の誰かのを」
「いえ・・・ハウスは一人の人の記憶しか操作できないわ」
「ええ?それは一体誰なんだい?」
「それは・・・あなたよ.
今まで見てきた,感じてきたことは全てあなたの過去からやってきたものなの」
「それじゃあ,この看板の『ハウス脱出可』ってどういう意味なんだい?」
「文字通り,あなたの記憶から脱出すること・・・.つまり新しい記憶を経験することが
出来る『ユニバース』に行くことになるわ」
ユニバース・・・つまり宇宙か.私は,どちらの道へ行くか,決断しなければならなかった.
44.
初めてカモメに乗ってから今まで体験してきた事が,全て私の過去の産物だって?
綺羅の国や儀羅の国,果ては竜など初めて見るものばかりなのに,それがどうして過去の記憶
から来るものなのか,私は理解できずにいた.
心の中のアンセーヌは心なしか不安そうにしている.この旅は,過去という名の箱庭に
閉じ込められた世界で行われているものにすぎないというのか.
私は,自分を変えたかった.人生の大半を「何もしない」ことでやり過ごしてきた私は,
旅に出て,「何かをする」ことで,生きているということを実感したかったのだ.
この世界,いやハウスの中の世界が,全て私の過去の記憶の産物だというのなら.このハウスと
呼ばれる世界を存分に味わってから新しい記憶を体験しても―新しい自分になる―良いだろう?
私の記憶の中にあるユートピアは,ハウスにあるかユニバースどちらかにあるか分からないのだ
から.・・・私は東の国への道を心の中のアンセーヌと共に進んだのだ.
最終更新:2011年07月03日 18:06