腐剣鬼抄◆F0cKheEiqE
ほノ参
帆山城とは堀を隔ててすぐの位置の城下町の一角の事である。
そこには、釣鐘がつけられた物見梯子があったが、
その周囲には、嘔吐を催す悪臭が充満していた。
一体何の臭いであろうか。
ひどく甘酸っぱい、強い酸性の、鼻を突き刺すような劇臭だ。
何か生き物が腐った臭い、それが一番適当な例えだろうか。
臭いの源は何であろう。
梯子の根元に眼を向ければ、
そこには白くて赤い『何か』が蹲っている。
臭いは『それ』から発していた。
『それ』は驚くべき事に人であった。
驚くべき事と言ったのは、その姿形が余りに人間離れしているからだ。
梯子を背にしてもたれかかるようにして座っている。
容貌はまるで解らない。
目だけを僅かに露出させて、
それ以外の部分は白い袈裟頭巾に完全に覆われてしまっているのだ。
僅かな隙間から覗く双眸は、
恐ろしく熱を持っており、充血して真っ赤であった。
また、目の周りの僅かに露出している肌は酷く黄ばんでいて、
良く解らない油のような物で覆われている。
真っ赤な双眸が闇夜に炯々と輝き、
黄色い肌が月光にテラテラと光っている。
顔以外の部分はどうだろう。
肌に着けているのはえらく黄ばんで、
茶色や黄色の良く解らない染みがあちこちに付いた襦袢と、
その上から被せられた血の様に真っ赤な袍一枚のみだ。
そして、その襦袢の外に出ている肌は残らず、
いや、恐らく襦袢の下も全て、
包帯の様な白い布で隈なく覆われ、
まるで木乃伊の様になっている。
そして全身を覆う白布もまた、
黄ばみきっており、茶色と黄色の気味の悪い染みで溢れ返っている。
それが、凄まじい悪臭を放っていた。
白い「人物」は真っ赤な焦点の定まらない瞳で、
ぼうっと宙を見ていた。
その視線は、まるで『病人のように』にひどく熱を持っている。
『病人のように』?
そう、『彼』は病人であった。
恐るべき病、生きながら体が内外より徐々に腐っていく天刑の病。
癩病、現代ではハンセン氏病と呼称される業病に、
彼は全身を侵されているのだ。
「・・・・ぁっ・・・・」
声にならない不気味な呻きが、頭巾の下から零れた。
彼は、深紅の瞳で空を仰ぎ見た。
彼の名は
師岡一羽。
天真正伝神道流を修め、次いで卜伝より新当流を学び、
ついには一羽流という一流を起こした剣豪のなれの果てであった。
◆
師岡一羽は常陸国信太庄江戸崎の人である。
名門土岐氏の系譜で、
江戸崎の土岐氏に仕えてきた家系の人だ。
伝承には
塚原卜伝に師事し、次いで神道流、飯篠長威斎に師事し、
長じて一羽流を開いたとあるが、これは誤りである。
一羽が生まれる前に長威斎は死んでいる。
故に彼は恐らく卜伝に学んでそのまま一羽流を開いたのだろう。
彼の主君であった土岐氏は、秀吉の小田原征伐の際に佐竹氏に攻め滅ばされ、
一羽は仕官を望まれるも固辞し、浪人し、
すでに開いていた一羽流の道場に専念した。
道場は隆盛しており、
後継者と目される三人の高弟もいた。
すなわち、
根岸兎角、岩間小熊、土子泥之助(土呂之介、泥介、泥助とも)の三名である。
弟子も多く、優秀な後継者候補もおり、
一羽流は大いに栄え、
彼は一流祖としてあるべき静かな余生を送れるかと思われた。
しかし、彼の本来あるべき晩年の姿は、癩病が発症したこで一変する。
全身の皮膚が黄ばみ、崩れ、夥しい斑点と腫瘍が体を覆い、
体毛は抜けおち、神経が侵される。
気が付けば、彼は道場の運営どころか、
日常生活すら満足に行えない体になっていた。
中世、恐るべき伝染病は、多かったが、癩はある意味もっとも恐れられた。
有効な治療法は無く、病状の進行は真綿で首を絞めるように緩やかで、
それでいて醜く体が崩れ、腐っていくのである。
道場から門弟たちは瞬く間に去り、
気が付けば一羽に寄り添う者は、例の高弟三人だけになっていた。
しかも、そのうち、兎角が回復の見込みの無い、
醜く腐っていく師の看病に嫌気がさして逐電してしまった。
一羽は天正二十年に死ぬが、
癩病でもはや立ち上がることすら叶わなくなった上、
困窮極まり、死に立ち会ったのは忠弟二人だけという、
あまりにも寂しく悲惨な最期であった。
そんな一羽が、この殺し合いの場に呼び出されたのは、
死の一年前、兎角が逐電した直後であった。
◆
(何故、今なのだ?)
一羽は宙に視線を漂わせながら、
熱でぼんやりと靄がかかったような頭脳を、
必死にゆり起して思考を繋ぐ。
(兵法勝負・・・是非もなし・・・だが・・・)
(何故、今の俺を呼んだのだ)
一羽の体は、既に癩に侵されつくして、
剣を振るうどころか、寝起きすることすら困難な体なのだ。
そんな自分を呼び出して何とするつもりなのか。
(死ぬのか?)
(俺はここでみじめに野垂れ死ぬのか?)
今の自分は芋虫みたいなものだ。
地を這いまわる事しか出来ない腐った芋虫。
今の自分なら童でも殺せる。
ましてあの白州の達人たちは・・・
(嫌だ)
(そんなのは嫌だ)
(だとすれば俺は何のために・・・)
気が付けば体の自由が利かなくなっていた。
肌が崩れ、できものに溢れていた。
弟子たちはみんな去っていった。
しまいには高弟の兎角にまで逃げられた。
自分にはそれを引きとめる力すらない。
そして、公衆の面前に引き出されて、
惨めに虫みたいに殺されると言うのか。
( イ ヤ ダ )
( ソ レ ダ ケ ハ イ ヤ ダ )
剣に生き、将として生き、
一流を興した俺の末路がこんな物?
そんな事は認めない。
絶対に認めない。
ここで殺されるのが運命なら、
何のために剣を極めたか、
あの修行と闘いの日々は何のためのものであったか。
(死ねない)
(死ねない)
(シネナイ)
(シネナイ)
(シネルワケガナイ!)
一羽の深紅の双眸が一層輝きを増した。
一羽が、不意に両手を前に突き出す。
プルプルと小刻みに震えるそれは、
まるで二本の白い棒きれのようだ。
右手はまだ辛うじて人間の手の形をしているが、
左手に至っては指が三本しかなく、
しかもいずれも鉤のように曲がっていた。
二本は腐って落ち、残る三本も神経を侵され、
猿手になっているのだ。
一羽はそのまま地を這うようにして
傍らの行李に近づき、震える手でそれを開いた。
中には一振りの白木拵えの刀があった。
一羽は凄まじく苦心しながら鞘から刀身を引き抜いた。
白刃が月下の闇に晒され、それが一羽の赤い瞳に映った瞬間、
一羽の体に電流が走った。
『不屈の精神を持った剣士にあっては、
おのれに与えられた過酷なさだめこそ、
かえってそのたましいを揺さぶり、ついには・・・』
三枝伊豆守高昌
手島竹一郎家伝 写本「駿河大納言秘記」
「お・・・・お・・・・」
「おお・・・おお・・・」
「おおおおおおおおおおお」
「おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお」
呻きとも叫びともとれる声が一羽の喉より迸った。
そしてどうであろう。
もはや立つことすら叶わぬと見えた一羽が、
身体を痙攣させながらも立ちあがったではないか。
白布に包まれた両の足はやせ細り、
しかも右足の方が、左足より短くなっていた。
右の五指はすでに落ちていたのだ。
そして、右手に抜き身の刀をもったまま、
一羽はいずこへと、体をよろめかせながら歩きだしたのである。
「勝つ」
「勝って俺の最後の・・・」
一羽は呻いた。
一羽が手にした白刃は、
『七丁念仏』という銘を持つ妖刀であったが、
その刀身を見た一羽が立ち上がったのは何故であろう。
誰が知ろう。
七丁念仏に映る姿だけは、
かつての剽悍な一羽であったのだ。
赤い袍が、風にばっと閃いた。
まるで火柱があがったようであった。
一羽最後の戦いが始まる。
【ほノ参 城下 往来/一日目/深夜】
【師岡一羽@史実】
【状態】重度のハンセン病が進行中
【装備】七丁念仏@シグルイ
【所持品】なし
【思考】:兵法勝負に勝つ
一:見かけた奴を斬る。
【備考】
※人別帖を見ていません。
※重度のハンセン病で、病状は現在も進行しています。
今は身体を騙して動いていますが、
病状の進行具合では、失明、
あるいは歩行不能の状態に陥る可能性もあります。
※ほノ参に行李が放置されています。
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最終更新:2009年03月28日 08:37