激しい振動が島を襲い、
伊藤一刀斎は歩みを止め、両足を踏ん張ってどうにか転倒を免れた。
だが立ち直って前方を見た一刀斎は目を瞠り愕然とする。
目の前には南西から北東へ向かい巨大な剣を叩き付けたの如く穿たれた、島を分割しかける程の大地の傷跡。
そして丁度その線上にあった伊庭寺は、完全に破壊されただの瓦礫の山と化していた。
幾度も邪魔されながら半日以上も歩いて漸く視界に入った目的地がいきなり破壊されたとなれば衝撃を受けて当然だろう。
しかし、一刀斎を愕然とさせたのは破壊された寺ではなく、大地の傷……より正確には、寺よりも傷に目を奪われた己自身。
神か魔の所業としか思えぬこの傷が剣士の剣による一撃の結果だと、一刀斎は一目で見抜いている。
それが如何なる剣の如何なる技によるものなのか……一刀斎は寺の事を忘れ、咄嗟にこれを為した剣士に思いを巡らせたのだ。
(何とも未熟な……)
剣を捨てるつもりでありながら剣士たる事を忘れられない身を自嘲し、落ち込む一刀斎。
そのせいで、己を目掛けて飛んで来る物体に気付くのが僅かに遅れる。
無論、余所事に気を取られていてもただ飛んで来るだけの物に打ち当たる失態を一刀斎が犯す筈もない。
上の空であっても身体は勝手に動いて剣を振るい飛来する物体を両断する……直前、漸く一刀斎はそれを認識した。
飛んで来ていたのは、伊庭寺に奉られていたと見られる仏像。
仏の現身としての験力を持っていた為か、宝剣の一撃により住処の寺が粉砕されても像だけは損なわれず吹き飛ばされるのみで済んだ。
頭上に降って来た物体がその仏像だと気付いた時には、一刀斎の手は既に像を切り裂く一撃を放った後。
既に止めようとしても止められる段階ではないし、避けもせずに止めてしまえば一刀斎は仏像の下敷きになってしまう。
だが、必要こそは発明の母。
そして、寝ている者が痒い所を無意識に掻くように、必要があればそれに応じて剣を無意識に進歩させるのが一流の剣客。
嘗て策略に嵌められて払捨刀を編み出し、強敵に襲われて夢想剣を開眼したように、この危機が一刀斎を更に成長させる。
一刀斎は放った一刀を振り切ると、間髪入れずに跳躍して身を躱す。
通常ならば飛来する巨大な像に切り付ければ反動を受けて動きが制限される筈だが、その様子は皆無。
一刀斎ほどの剣客なら像を空気を斬る如く抵抗なく切ってのけられるかもしれないが、ならば仏像は既に両断されている筈。
しかし、一刀斎が一瞬前まで立っていた地点に落ちた像には、落下した時のものと思しき凹み以外に目立った傷はない。
新たに会得した剣技に満足した一刀斎は、仏像をきちんと立て直すと一礼して歩み去る。
或いは、仏像が彼目掛けて飛んで来た事こそが、一刀斎を新たな境地へと進ませる為の仏の導きであったのだろうか。
「こんなものか……」
宮本武蔵は、大地を穿つ巨大な剣の痕を見て呟く。
いきなり島を襲った衝撃の正体を見定めに此処までやって来た武蔵だが、一目見ただけで既に興味を失ってしまっている。
この惨状が剣の一振りで為されたとすれば確かに威力は相当だが、絶対的に技のキレが不足しているのも明らか。
たとえ出会ったとしても自分の脅威となるような相手ではない、と見定めた武蔵は踵を返し掛けて、その気配に気づいた。
剣を手にした一人の老人……その立ち姿を見るだけで端倪すべかざる達人である事は一目瞭然。
更に特筆すべきは、それ程の達人、しかも白刃を抜き身で提げていながら少しも殺気が感じられない事。
試みに武蔵が殺気を放ってみても、受け流すだけで自身の気で押し返そうとはしない。
全力を以て立ち合うに値する相手と判断した武蔵が木刀を構えると、老人……伊藤一刀斎も剣尖を上げる。
次の瞬間、武蔵が一気に間合いを詰めようとする直前、拍子を読んでいたのか一刀斎がいきなり駆け出し横合いの林に走り込む。
林の中は木によって剣も視線も遮られる為、不用意な動き一つが致命的な隙を生む地勢。
慎重に回り込みながら間を詰めようとする武蔵に対し、一刀斎は無造作に踏み込むと剣を振るう。
近くの樹を盾にして回り込もうとした武蔵は、眼前に迫った剣を地を転がる事で辛うじて躱す。
更なる追撃をどうにか凌ぎつつ、武蔵は目前の木を木刀で一撃する。
その木は、武蔵が先程、一刀斎の一撃を防ぐ盾とした使った樹。
だがあの時、一刀斎の刀は木などないようにすり抜けて武蔵を襲って来た。
そして、確かに刀が幹を通ったにも拘わらず木は倒れもせず何事もなかったかのごとく佇立している。
無論、一刀斎程の達人が振るう剣ならばただの木など空気を斬るように抵抗なく通り抜けられる切れ味を持っていてもおかしくない。
鋭い剣で組織を全く損なう事なく切断すれば、戻し斬りの原理で即座に切り口が癒着する事も有り得るだろう。
しかし、その場合でも一度斬られた痕跡が幾らかは残る筈であり、武蔵は木刀で振動を与える事で其処を見極めようとしたのだ。
結果、木は通常の樹木と少しも違わぬ様子で震え、武蔵は一刀斎の剣がこの木をそもそも斬っていない事を確信した。
確かに剣が通り抜けたのに斬られていない……理に反する事象だが、そうだとすれば一刀斎の妙な闘い方も納得できるのだ。
一刀斎からは全く殺気を感じないにも拘らず、その剣先は鋭く武蔵を狙って来る。
矛盾しているように思えるが、一刀斎が斬っても敵を傷付けない剣を使えるのであれば話は別。
達人ならば剣気により相手に斬られた如く錯覚させ傷付けずに戦意を喪失させる事が可能だが、一刀斎の剣は更にその先。
実体のある剣で斬りながらも傷付けない技を本当に会得したならば、それは剣術の一つの完成系とすら呼べるであろう。
伝説にある不射之射をも遥かに超え、言うなれば剣を忘れず捨てずして剣士の業から脱却する事を可能とする究極の剣。
ならば、剣の究極の境地の一つにまで達した一刀斎に立ち向かう武蔵に勝ち目はあるのか。
木を盾にしても一刀斎の剣は平気ですり抜けて来るし、同じ理由で受け太刀すらも無意味。
しかも、斬った物を破壊しないという事は、本来なら破壊に使われ速度から差し引かれる筈の力を消費せずに済むという事だ。
樹木など固体を間に挟んだ場合は顕著だが、ただの空気であっても剣が切り裂き押し退ける際には剣速を微かながら奪われる。
故に何者も破壊しない一刀斎の剣はその分だけ速度を殺されずに済み、速度の点でも同等の剣客を紙一重だけ上回る事が可能。
一刀斎に相手を傷付ける気がないのであれば無視して斬られても良さそうなものだが、敵の慈悲に頼るのは剣客の矜持が許さない。
そうでなくとも、この不殺の剣は剣士の心技体が完全でなければとても使い得ぬ途轍もなく高度な剣技。
闘いの中で僅かに気が緩んだり手元が狂えば、忽ち只の殺人剣に戻るであろう。
故に一刀斎の速く防御する事も出来ない剣を武蔵は必死で躱し続けるしかない……通常ならば。
激しい応酬の連続の中、劣勢の中でも一刀斎に糸一本分の隙を見出した武蔵はそれを逃さず動く。
間を詰める武蔵に対して一刀斎が牽制気味の一撃を放った瞬間、武蔵は流れるような動きで近付き、自ら刃に身を投げる。
「!!?」
予期せぬ行動に驚愕した一刀斎の手元が乱れるが、その時には剣は既に武蔵の身体を通り抜けており、刃は僅かに着物を切ったのみ。
相手の意表を突き素早く間を詰める事で、武蔵は斬られる危険を極小にして一刀斎の奥義を身体で味わったのだ。
流石に剣が身を通った直後に反撃する余裕はなく、大きく跳躍して再び間合いを開ける武蔵。
そして一瞬の黙想の後、武蔵は剣を上段に構え、
塚原卜伝から盗み取った一ノ太刀の構えを取る。
一刀斎と武蔵は同時に渾身の一撃を放ち、直後、一刀斎は武蔵の木刀が空気を切り裂いていないのを悟って瞠目した。
元々、武蔵の剣は我流。
幼い頃に父無二斎から当理流の手ほどきを受けたのは事実だが、その当理流を否定する所から武蔵の剣は始まっている。
習い覚えた技を捨てる所から始め独力で一流を完成させるに到れた最大の要因は武蔵の学習能力。
だからこそ、遠目で見ただけの一ノ太刀を未だ完全ではないとはいえ短期間でほぼ習得できたのだ。
一刀斎の不殺の剣は一ノ太刀にも劣らぬ高度な技ではあるが、剣を己の身に通す事による理解の深さは見ただけの場合とは段違い。
武蔵が敵の剣を敢えてその身に受けるという無謀にも見える賭けに出たのも、一刀斎の奥義を効率的に学ぶ為。
実践してみると体感による学習効果は絶大で、武蔵は瞬時に一刀斎の剣の根幹を理解した。
無論、一刀斎自身程に完璧に扱える訳ではないが、武蔵は既にほぼ完全に修得した一ノ太刀を併用する事でこれを補う。
結果として、二つの奥義の力で速度を増した武蔵の木刀が、紙一重分だけ早く一刀斎の身体を捉える。
武蔵は手元を微かに握り直して木刀を不殺の剣から凶器へと戻し……
木刀に頭蓋を砕かれ斃れた一刀斎を見詰める武蔵。
一瞬、口を開きかけるが思い直し、不機嫌な顔をしたまま一刀斎の手から落ちた刀を拾い、無言で踵を返して歩み去る。
伊藤一刀斎は倒れ、宮本武蔵は無傷……だがそれこそが、この勝負が武蔵の勝ちとは言えない事を示していた。
一刀斎の剣が不殺であるのはその剣さばきが完全である場合のみ。
当然、武蔵の木刀が一刀斎を捉えればその剣は乱れ、武蔵を傷付け得る武器となる。
武蔵もそう理解しているからこそ、二つの奥義の融合を為してまで一刀斎より早く打ち込んだのだが、それで稼げた優位はほんの半瞬。
普通なら、武蔵の木刀が一刀斎の命を奪い動きを止める前に武蔵も一刀斎の剣で浅くない傷を負うであろう程度の差だ。
それでも、一刀斎が自分以上に経験豊富で不慮の事態への対応力に優れた剣客だと悟っていた武蔵には速戦こそが最良の選択だった。
多少の手傷は覚悟の上で、致命傷を負う前に一刀斎を仕留めてしまおうと渾身の力と気迫を籠めて木刀を叩き付けた武蔵。
だが、頭蓋を砕かれながらも一刀斎の剣は止まる事なく振り切られ、しかし確かに剣で斬られた武蔵は全くの無傷。
つまり、一刀斎は絶命しながらも自身の剣を止めるどころか少しも揺らがせる事なく完遂してみせたのだ。
一刀斎がその気になれば武蔵との勝負を相討ちに持ち込む事は可能だった。
しかし、信念か意地か、自身は殺されても不殺を貫く事こそが一刀斎の剣道であったのだろう。
武蔵には理解も共感も出来ない生き方であったが、ただこの勝負は生き残ったからと言って武蔵の勝利であったとは言うまい。
新しい技と剣、そして無数の勝利を得て来た中で初めての「勝負なし」の結果を抱き、宮本武蔵はその場を立ち去るのだった。
【伊藤一刀斎@史実 死亡】
【残り二十七名】
【はノ陸 草原/一日目/夕方】
【宮本武蔵@史実】
【状態】健康
【装備】自作の木刀、村雨@史実(鞘なし)
【所持品】なし
【思考】最強を示す
一:無二斎に勝つ
二:塚原卜伝を倒す
【備考】※人別帖を見ていません。
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最終更新:2015年12月29日 13:08