「……浅い」
浄化の中心部、城のすぐ外での香坂しぐれとの激しい斬り合いの中、塚原卜伝はぽつりと呟いた。
剣士としてしぐれの腕が劣る訳ではない。
むしろ、この若さで此処まで多彩な流派の技を使いこなし、その全てで奥義を極めているというのは驚嘆に値するだろう。
以前に剣を合わせた時に見られた迷いも、少なくとも表面的には消え去り、気迫はこれ以上ない程に鋭く研ぎ澄まされている。
だがそれですら、上泉伊勢守の代わりの敵としては……

卜伝の感想など知らずに懸命に跳び回り、攪乱し、斬り掛かるしぐれ。
その凄まじい速度は卜伝程の剣客の視界にすら残像を生じさせ、更にしぐれは気当たりにより残像に気配をも付与して分身とした。
最高の剣客との対峙でしぐれの気迫は膨れ上がり、分身は触れた者の触覚すら騙せる程の水準に達している。
仮に卜伝が分身に斬り付ければ、肉を斬る感触を錯覚し、それが本体と思い込んで致命的な隙を晒していたかもしれない。
だが、分身に斬り付ける事がなければ折角の凄まじい気も無意味。
卜伝は、五感でも気配でも見分けられない筈の分身と本体を完全に把握し、常にしぐれ本人を目掛けて斬り掛かっているのだ。
何らかの超常的な能力で本物を察知しているのか、或いは究極の剣聖は天文学的な幸運すら容易に掴みとれるという事か……
ただの分身では通用しないと見切ったしぐれは気当たりを一気に強くすると、次の瞬間、いきなり気配を完全に殺す。
強烈な気配が急に消えれば如何な卜伝でもしぐれが消えたという錯覚に囚われ位置を見失う筈。
その一瞬の内に完全な視覚に回り込んで卜伝の動きを制するのが、しぐれの戦略。
音も気配もなく、無形の構えのまま自然な動きで卜伝の死角に滑り込もうとするしぐれ。
しかし、それが完遂される直前、卜伝が周囲に強烈な殺気を放った。
無論、全周囲に放ったものである以上、しぐれが受けた殺気は総量としては大したものではない。
それでも、気が放たれるのに全く前兆がなかった為に、その急激な変化にしぐれの身体は反応してしまう。
万全の位置関係に達するよりも早く、しぐれの身体は脳に命じられぬままに動き出し、卜伝に斬り付ける。
相手の殺気に自動反応して意識よりも速く敵を斬るのは、殺人剣の使い手との闘いの中で身に付けた、本来ならば優れた技。
それがこの場面では裏目に出、不十分な体勢からの一撃は卜伝に凌がれ、辛うじて反撃を避けて跳躍する。
天性の才により他者の技を盗み取っても、自ら編み出した技のようにすぐには血肉とならず、技同士が有機的に繋がらない。
結果、異なる哲学に基づく技が互いの持ち味を打ち消し合ってしまう、これが卜伝に「浅い」と言わせたしぐれの大きな弱点の一つ。
互いに手傷を負った訳ではないが、様々な攻め手を繰り出しては防がれたしぐれの方が、気力体力の消耗は遥かに上。
このまま闘い続けるのは無理だと悟ったしぐれは、更に大きく跳躍して、城を囲う堀の中へと飛び込んだ。

忍術の心得があるとは言っても、さすがに水中戦で身体能力の優る敵と闘うのは無謀と思ったか、卜伝はすぐにはしぐれを追わない。
踵を返して歩き出すと、近くに落ちていた女の死骸を掴み、再び堀まで戻る。
この間にしぐれが泳いで逃げる可能性もある筈だが、それで構わないと考えたのか、しぐれが逃げはしないと読み切ったのか……
そのまま死骸を堀の、しぐれが跳び込んだ辺りに投げ込もうとする卜伝。
水中のしぐれが死骸を卜伝本人と誤認させる策、或いは水に血を混ぜる事で地上戦になった時に発見しやすくする目的とも取れるが。
何にせよ、卜伝の策は不発に終わった。
死骸を投げ、手を離そうとする瞬間、真下から刃が卜伝を襲う。
しぐれは卜伝が離れた隙に自ら出て堀の縁にぶら下がり、卜伝の足下に潜んで隙を窺っていたのだ。
だが不意討ちの一撃は卜伝に受けられ、太刀と打刀が激しく噛み合う中、しぐれは義手に掴ませた小太刀で卜伝に斬り付ける。
卜伝の片腕は受け太刀に使われ、残る腕で死体を投げる瞬間に襲われた為に骸を盾にするのは間に合わないし、無手で防ぐのも困難。
優位と思われた状況だが、小太刀が卜伝の身体に届く直前、しぐれは己の義手に刃が食い込むのを察知した。
卜伝はしぐれが仕掛けた瞬間、死骸を離してその手に握られていた剣をもぎ取り、後の先で手首に打ち込んだのだ。
機先を制した筈のしぐれの刀が遅れた直接的な原因は、義手に染み込んだ水。
水に入った事で木製の義手が水分を吸い、重量が増した事で必然的に速度が落ち重心も狂う。
剣と心を一つにする事が出来るしぐれも、義手を身体と一体化させる程には使い込んでおらず、咄嗟に対応できなかった。
それでも、卜伝の側に奇襲による乱れが少しでもあれば、しぐれの剣が先に届いていた筈。
しぐれが後れを取った真の原因は、これまでの応酬と同様、如何なる奇手で攻めようと卜伝が読み切っていた如く的確に応じて来る事。
極言すれば、剣客としての積み重ねの差が、策では覆せない圧倒的な劣位となってしぐれに圧し掛かっているのだ。

通常、武道、即ち武術家の進むべき道は一本道でも直線でもない。
曲がりくねる道を歩いていたら何時の間にか逆方向に進んでいたり、より上を目指す為には一旦、谷を降る必要があったり。
調子良く進める道だと思ったら辿り着いたのは袋小路、という事も珍しくないだろう。
試行と錯誤を繰り返し、ぶつかった壁を越えるか破壊し、苦労して道を探し、或いは荒野に新たな道を切り開いて頂を目指す。
それが通常の剣客の歩みだとすれば、あらかじめ詳細な地図を持っているかのように一直線に進むのが天才というもの。
特に今のしぐれは、己が対峙した剣士の技を盗み取る事で急激に技量を上げている。
他者が行きつ戻りつして漸く辿り着いた境地に、正しい経路のみを通って短時間で辿り着く。
だからこそしぐれの年齢で卜伝と渡り合う事が出来ているのだが、一方でそれが卜伝の言う“浅さ”にも繋がっていた。
達した頂が同じでも、一直線に進んで来た者と回り道を繰り返した者では周囲に対する理解の深さが違う。
それは錯誤であり無駄かもしれないが、故に敵の策に掛かって誤りを強いられた時に素早く次善を選ぶ事が出来るのだ。
逆に正路を貫くのみの剣は読まれ易い上に、予想外の展開に対する対応も遅れがちとなる。
才により輝きを得たしぐれの剣と違い、卜伝の武芸は長い年月、厳しい修練と無量の実戦によりあらゆる側面を磨き抜いたもの。
如何なる奇策でも経験に裏打ちされた読みで見抜いてしまうし、仮に裏を掻かれても読んでいたのと変わらぬ早さで適応してしまう。
決まった筈の策に容易に対応される事でしぐれの側に動揺が生じ、疲弊して隙を作る結果になっているのだ。
そして遂に、義手とはいえ卜伝の刃を身体に受けるしぐれ。
だが無論、しぐれもこの程度で諦めるつもりはなかった。

後の先を取られたとはいえ、卜伝とて不利な状況から無理にしぐれの斬撃に割り込んだのだから、体勢は万全ではない。
それでも生身の腕なら即座に両断しただろうが、しぐれの義手は杖と棍の製法を応用して造り出した特別品。
完全に切断される迄には一拍の間があり、その隙にしぐれは義手に力を加え、卜伝を投げ飛ばす気色を見せる。
柔術の腕だけなら卜伝が上だが、しぐれは無手の技を究めた柔術家達と親交を結び、或いは刃を交えた経験を持つ。
そうして得た知識を元に柔術の奥義を用いる様子を見せれば、しぐれの意図を読んだ卜伝は対抗せざるを得ない。
しぐれにそれが可能かまでは卜伝にもわからないし、彼女が専門外の流派の奥義を見様見真似で再現し得る才を持つのも事実。
投げの勢いを受け流す為に卜伝が握りを緩めた瞬間、しぐれは義手を思いきり飛ばし、勢いで卜伝の刀をもぎ取る。
これで義手を切った刃にそのまま胴を斬られるのは防いだが、卜伝とてただ刀を奪われるがままになってはいなかった。
しぐれが神経を義手の側に集中させた隙に、鍔競り合う刀を擦り上げてしぐれの手から叩き落とす。
武器を失ったしぐれは咄嗟に空中で身を屈め、卜伝から奪ったばかりの刀を足で掴むと、剣を構える卜伝に斬り込む。
如何にしぐれの足が器用とはいえ、両手で剣を構える卜伝に対しては絶対的に不利と思われたが……
しぐれが刀を振るうとその軌跡が空間を切り裂き、裂け目から無数の武器が飛び出した。

しぐれが新たに手に入れた刀は、元々何の変哲もない無銘の一本に過ぎない。
特別なのは、直前にそれを持っていた、卜伝が利用した死体の方。
それは人間ではなく、この御前試合の環境を整えた聖杯なる仙宝によって生み出された、一種の妖怪、或いは神。
徳川忠長の、最強の武芸者を生み出さんという願いに応えて生み出された存在だが、これは初めから不可能な願いだった。
聖杯の力の源となった神の子が武とは無縁の人生を送ったのだから、そもそも聖杯は武という観念を理解していない。
駿河城の御前試合で多くの武芸者の技を学びはしたが、あの惨劇は時間的空間的により広く複雑な因縁により引き起こされたもの。
駿河城に於ける死闘は、闘い全体の中のほんの一端に過ぎず、そこだけを見ても彼等の心の内を理解する事など不可能。
しかも、御前試合の優勝者、即ち最後の生き残りが参加者中で最も武人から遠い磯田きぬな上、その魂を取り逃したとあっては。
故に、如何に駿河で死した武士達の技を持たせようが、生み出した者が最強に程遠い事は聖杯にもわかっていた。
それでも、出来得る限り所持者の要望に近付かんが為、聖杯は生み出す剣士に力を与えてはいたのだ。
力の源は神の子の血であるが、聖杯の魔術的構造は聖杯戦争なる儀式に用いられた偽の聖杯を模倣したもの。
この縁を基に、聖杯の創造物には、聖杯戦争の参加者の能力を模した力が与えられている。
その一端として、手にした武具を宝具……神器や宝貝の如き不可思議な力を持つ特別な武器と化す力があった。
聖杯の剣士は雲耀の一撃により武器を振るう間もなく斬り捨てられたが、それ以前に刀に力を付与する迄は既に為されていた。
といっても、無から力を生み出して賦与するのは簡単ではなく、武器に元々秘められていた力を引き出すのが魔導の定跡。
仮に刀が島に幾本か用意された神剣妖刀の類であれば、その本来の力を完全に発揮させる方向に聖杯の力は働いていただろう。
だが、今しぐれが持っているのは、悪い刀でないとはいえ名刀とも呼べない程度の代物。
剣の作りが平凡ならば、その持ち手であった者の縁を頼り、遺された想いや魂を核に魔力を生み出すしかない。
この刀の前の持ち主は剣豪将軍足利義輝
多くの師を招き、多数の流派を修め、無数の名刀を蒐集した、義輝の武への想いが込められている。
そこに、無数の名刀を畳に突き立て代わる代わる使いながら闘死するという、義輝の本来の運命が加わって、一つの宝具となっていた。
与えられた能力は、無数の剣を各地から召喚する事。
各地と言っても、この島の属する世界は玉梓により既に消滅済み。
また聖杯が元々異世界から剣客達を招く為に用意された術具である事もあり、使い手との相性次第では他世界の剣を呼ぶ事も可能。
本来の使い手は示現の太刀により剣を使う暇もなく果てたが、香坂しぐれと出会い、この刀も漸く真の力を発揮できる環境が整った。
無限とも言えるしぐれの才能と、剣に留まらずあらゆる兵器を使いこなす対応力は、無限の世界から剣を呼ぶ事を可能とする。

次元の裂け目から現れる、無数の、様々な形状と性質の剣が現れ、しぐれに取られるのを待つ。
人の姿や性が時代や星や世界により異なるように、「剣」の定義も世界が異なれば種々異なるのが道理。
槍の如き剣、弓の如き剣、銃の如き剣、鏡の如き剣……人間には理解も形容も出来ない物に到るまで、あらゆる剣が次々と現れた。
しぐれ以外の者ならば、現れた「剣」の内、まともに活用できるのは武器として認識できる、ごく一部のみであったろう。
だが、香坂流の奥義は手にした剣と心を一つにする心刃合錬斬。
今のしぐれならば、如何に外見が剣と見えなかろうが、その本質が剣でありさえすれば、心を合わせる事が出来る。
しかも、この場に呼ばれた剣は、御前試合の参加者と同様、各々の世界の武術の総決算とも言うべき、選び抜かれた神剣ばかり。
殆どが、世界の頂に立つ名剣士に使われた歴史を持ち、彼等が身に付け、或いは対峙した種々の武術の記憶が染み付いていた。
剣と心を一つにして以前の使用者の記憶を読む事で、しぐれは見た事もない不可思議な武器を存分に扱う事が出来るのだ。
無論、他者の記憶を見る事で武術を身に付けても、卜伝が指摘した武略の浅さという欠点は少しも解消されはしない。
しかし、例え浅くとも、無限の広さがあるのならば、深くとも狭い武術にどうして劣る事があるだろうか。
宙に刺さった剣を抜いて見た事もない武術で激しく攻めかかり、相手がそれに対応するより早く手近な剣に乗り換える。
個々の剣と術では卜伝を斃せずとも、一瞬だけ拮抗する事が出来れば、一瞬を無限に重ねて永劫とする事が、今のしぐれには可能。
未知の武術により防戦一方になる展開が続けば、如何な卜伝でもいずれ体力差でしぐれに押し込まれる筈。
遂にしぐれに勝ち筋が見えたかと思えるこの状況、だがそうではない事を、しぐれ自身だけは痛感していた。

様々な世界の武器と心を合せ、異次元の武術を学ぶ中、世界を隔ててはいても、各々の武術が決して孤立してはいないとしぐれは知る。
一見バラバラに見える技が、実は全て集めると巨大な絵を構成するピースの役割を果たしているようなのだ。
無数の世界の技、それを生み出した歴史を垣間見る事で朧に浮かび上がる壮大な世界樹。
しぐれが其処から悟ったのは、無数の宇宙が生まれ、生命が育まれ、武術が編み出されたのには、何もかも意味があったという事。
全ては、一個の完全なる剣客、即ち塚原卜伝という剣士を完成させる為、あらゆる武術はそこに集約されるのだ。
当事者達は自覚していないが、この御前試合の開催も、しぐれが無数の武器と心を合わせたのも、巨視的に見れば卜伝の為。
全ては、塚原卜伝という無限の広さと深さを持つ器に満たされつつある大海に、更に一滴の水を加える為の儀式。
初めからそう定められていたのか、卜伝が巨大すぎて巨星に引き寄せられる塵の如く全てが引き寄せられ始めたのか、それは不明だが。
何にせよ、ここまではっきり見えてしまえば、しぐれの採るべき道は一つしかなかった。

しぐれの気合いが爆発的に膨れ上がり、次いで実際に爆発したかの如くに飛び散る。
そして、卜伝の目には、気と同時にしぐれの身体まで無数に分裂し、各々が別々の武器を手に取って襲いかかって来る武影が映った。
香坂流最終奥義、総刃共錬斬。
召喚された無限の武器の総てと同時に心を一つとし、全ての術を以て卜伝を襲ったのだ。
無数の影が無数の武器を取って己を襲う光景を見た卜伝は、そっと息を吐く。
その意味するところは、失望。
今までしぐれは卜伝を翻弄する事が出来ていたが、それは卜伝も予想のつかない異質な武技を次々と繰り出して来たからこそ。
だが、卜伝の予想が及ばないのは、無数にある武器の中から、無作為に一本ずつを選んで使っている間のみ。
無数の世界の無数の武術は、個別に見ればバラバラに思えるが、総合すれば一つの体系に組み上げられる代物。
全ての武技を同時に見せてしまえば、卜伝ならば一見で全体像を把握するのは難しくない。
一つの体系として理解してしまえば、例え無限に分裂したとしても、一人の敵と同様に対処できる。
如何に無数の流派を組み合わせ完成された術であっても、理は決して完全ではなく、必ず出来る盲点に位置取る事で防禦可能。
そして、決定打と成り得ない奥義に気力の全てを注ぎ込んでしまったしぐれの運命は一つしかなく……

(…………)
しぐれの猛攻を防ぎつつ、卜伝は複雑な心境でいた。
彼女の遣う技の数々は卜伝にとっても初見であり、学ぶだけの価値ある優れたものばかり。
この全てを理解し、魂を新当流の理の中に混ぜ込めば、卜伝の武は更に一歩進展するであろう。
しかし、それが己の糧になるとわかっていても、結末のわかりきった勝負では卜伝の心は湧き立たない。
しぐれも卜伝には及ばずとも相当の経験を積んだ武芸者であり、こんな戦法で勝ちを得る可能性が皆無である事くらいはわかる筈。
卜伝に人の心を読む力はないが、それでもしぐれが己の役割を悟り使命に殉ずる覚悟を決めたらしい事くらいは読み取れる。
そんな相手と闘うのは、卜伝にとっては決して面白くはない話。
無論、詰まらないからといって卜伝が手を緩めたり隙を作るなどという事はありえないが。
結局の所、卜伝はしぐれの攻めを最後まで完璧に凌ぎ切り、力尽きたしぐれをあっさりと斬り捨てた。
この闘いで確実に卜伝の剣は完成へ一歩近づき、得たもので言えば上泉伊勢守と勝負した場合よりも大きかったであろう。
それでも、伊勢守との再会や武蔵との邂逅で再燃した卜伝の剣士としての心は、こんな闘いでは満足しきれない。
武道の大家として君臨し、弟子にも無益な危険は避けるよう教えて来たが、卜伝の本質は強敵を求める勝負師。
既に御前試合への参加によって卜伝の胸には若き武者修行の日々をも上回る熱が宿っており、死闘なしには収まるまい。
しぐれのような生に意義を見出す者ではなく、相手が剣聖だろうと何であろうと、ただ己の我が儘でのみ戦う剣客。
いわば赤子のような自己欲の塊こそが、今の卜伝にとっては望ましい敵。
そんな相手を求めて、塚原卜伝はこの御前試合最後の会敵に向けて歩き出した。

【香坂しぐれ@史上最強の弟子ケンイチ 死亡】
【残り二名】

【ほノ参 城下町/一日目/真夜中】

【塚原卜伝@史実】
【状態】軽傷
【装備】七丁念仏@シグルイ、妙法村正@史実
【所持品】支給品一式(筆なし)
【思考】
1:この兵法勝負で己の強さを示す
2:勝つためにはどんな手も使う
【備考】※人別帖を見ていません。
※参加者が様々な時代から集められたらしいのを知りました。

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最終更新:2015年12月29日 15:15