夢見る蝦蟇は、大地に伏す◆L0v/w0wWP.



暗き水面に映ゆる月を映し出した、湖の南辺。
辺りは、しんと静まり返り鳥の鳴き声、獣の歩みすら聞こえない。
ただ、一つ、そこに佇む獣の影法師。否、それは紛れも無く人の影であった。
されども、その姿形は人と呼ぶには余りに奇怪至極。
その四尺に満たぬ短躯と、そこからおまけのように生える足。
頬はこけ、やややつれてはいるものの頭の鉢は異様に大きく、
血色の悪い青黒い肌、両の眼の間は離れ、つぶれた鼻の下には、厚い唇と広い口角。
身なりも蓬髪乱れ、体は土や枯葉に塗れ、ぼろ布のような着物を纏い、
人と言うよりは野人、いや、地に這う蝦蟇と形容するのが最も相応しい面妖な男。
彼こそ、寛永の駿河城下を震え上がらせた異相の凶漢にして、天稟の剣才の持ち主。
名を屈木頑乃助と言う。


頑乃助は行き倒れの浪士の忘れ形見であり、駿河城下に道場を構える
老剣客・舟木一伝斎に拾われ、その家僕として使われていた。
下男という卑しい身分とその異様な面相から、周囲の人間からは蔑まれ
稽古への参加も許されなかったが、門前の小僧習わぬ経を読むとは
よく言ったもの。環境とその天賦の才にて、独学で修練した剣技は
道場でも抜きん出たものとなり、当主・一伝斎も認めるものとなっていた。

そんなこの男が幼少の頃より、恋い慕う女が一人。
他でもない、一伝斎の娘・千加である。身分違いの恋とは心得ていた者の
その恋慕の情と妄執抑えがたく、夜な夜なその居室の下へまさに蝦蟇のように
潜り込み、ついには寛永三年端午の節句、道場の恒例行事ながら、その年は
千加の婿選びも兼ねていると囁かれていた兜投げの儀にも名乗りを上げたのだ。

だが、その前夜に盗み聞いた、千加の口から出た自分に対する罵声と嫌悪。
さらに満座の舞台で、恩義を感じていた一伝斎から浴びせられた恥辱。
これに耐えかね、道場を逐電、富士の樹海に隠遁するうち、彼は
千加への妄執と、その獣心をより一層強くし、さらにそれを発揮するための
手段『がま剣法』と名づけた独自の必殺剣を編み出した。これを使って
千加の夫及び、その候補三人を惨殺し、最後に討った・笹原権八郎の
従兄であり、城下一の槍の名手と名高い・笹原修三郎の挑戦に応じ、
頑乃助は駿河大納言主催の御前試合の場へと向かっていた筈だった。


はて、不可思議な事もあるものだと頑乃助はその短く太い首を傾げた。
確かにあの馬で二階笠の男は御前試合と言っていた。だが、自分は
隠れ家としている富士の風穴から、どうやってあの白州の場までやって来た
のか、まるで記憶が無い。さらに自分が、駿河城下へ向かったのは、
まだ日が昇ってすぐのはずであった。それが今はすでに月高く昇り、
草木も静まり返っている。

さらに気になる事が一つ、頑乃助は無学な男ではあったが、
最低限の読み書きならばできるし、自らに果たし状を叩き付けた男の名を
忘れるほど愚かではない。が、与えられた人別帖を何度読み返しても、
笹原修三郎の名は無かった。これらは一体どういうわけなのか、
まったく事態が飲み込めないままであった。

ただ、それらは今の頑乃助にとっては些細な問題であった。
彼の脳裏にはあの二階笠の男が述べた一言が、強烈に植えつけられていた。

『勝ち上がった者には、 古今東西天下無双の称号を 与え、また如何なる願いとて 聞き届けよう・・・・』

如何なる願いとて聞き届ける、男はそう言っていた。
さらに御前試合であると言うからには、この試合、いや死合を主催した者が
相当に高貴なものであるという事は、頑乃助にも見当がついたし
(それが駿河大納言か、そうでないのかは別としても)、
あの童の首を触れずに吹き飛ばして見せた不可思議な力といい―――
――よもや一生叶うまいとも考えていた、自らの積年の願いが
現実になるかもしれない。頑乃助の思考をこの一年が支配していた。

(千加様…しばし、しばしの間お待ち下さりませ。頑乃助めは必ずや参上いたしますぞ…。)

強大な妄執に憑かれた頑乃助は、のそのそと湖を囲む森へと入っていった。


頑乃助は這うように森を行きながら考える。ここは、三年余り過ごした富士の樹海と似た雰囲気の場所である。
潜伏するには持って来いだと。ここには古今東西無双の武芸者が集められていると聞くが、
その全員を斃せというわけではない。要は最後の一人まで残れば良いのだ。
愛しの千加を我が物とするためには、より確実に勝ち残る手段を取る必要がある。
彼の強い獣性が自らに告げたその手段、なるべくこの森に潜伏し、強者との戦闘は避ける事。

もっとも、頑乃助には多くの剣術の致命的な欠陥を突いた必殺剣、『がま剣法』―即ち、
振り下ろされた切っ先の殺傷力が最も小さくなる、地上二尺。ここに重心を構える事によって、
対手の斬撃を封じ、精妙な腰の動きによって両脛を薙ぐ、或いは並外れた跳躍によって
その喉笛を切り裂くという、彼だからこそ成し得る奇剣である―これがある限り
『剣』を得物とする相手にはまず敗れぬ自信はあった。

頑乃助愛用の得物(といっても無銘の打ち刀だが)は手に無く、代わりになんという事の無い木刀が
行李に収まっていたが、これでも相手の向こう脛を砕き、額を打ち割るには十分と言える。
しかし、それでも、確実にここから生き残るには細心の注意を払う事が必要であると頑乃助の感が告げる。
さらに時がたては、他の参加者同士の勝負で手傷を負う者、そうでなくとも疲労困憊する者が
次々と現れるはず。そういった連中を見つければこれを襲撃し斃す。頑乃助の考えは
真っ当な剣客としては唾棄すべき卑劣なものであろう。されど、彼は剣客ではない。
卓越した剣技を武器とする、一個の怪物なのだから。

と、思案しながら森を行く頑乃助の優れた五感が何かの気配を察知する。

「人の声…か。そう遠くは無い。」

次の瞬間には頑乃助の体は、声のした方向を目指し走り出していた。


頑乃助の両眼が二つの人影を捉えたのは、一方の男がもう一方に突きを繰り出したその瞬間であった。
そして瞬く間に試合は決し…いや、正確にはどちらかが斃れる前に、片一方―突きを繰り出した方の男―が
逃げ出したのだ。だが、その数瞬の間に頑乃助の慧眼はこの二人に関するいくつもの情報を捕らえていた。
まず一つは、両方とも自分とは正反対の、そして自分が最初に斬った相手・斎田宗之助以上の美男であるという事。
次に、両者の剣の技量が自信にも勝るとも劣らない、下手すればそれ以上の達人であるという事。
最後に、今、この場に残っている方の男。自分はおそらく、彼に負ける事はないという事である。

この場を立ち去ろうとする男の背を、少しばかり離れた茂みから覗きながら頑乃助は思案する。
この男の剣法は大上段から振り下ろす型の斬撃が主であると見た。自信の『がま剣法』の
格好の餌食。事実、もう一方の逃げ出した方の男が繰り出した、低い姿勢からの突きには
対応しきれずにいた。だが、その後の交わし様、及び返しの一撃を見る限り、この男は
相当の達人、おそらく逃げ出した方の男を上回っている。だからこそ…

頑乃助は口角を歪める。男が自身から四、五丈ほど離れ、富士の風穴での生活で鍛え上げられた
頑乃助の夜目をもってしても、それであると確認できるほどになった時、頑乃助は
物音も立てず、その後ろを着いて行く。悠々と歩く男に対し、やや小走りなのはその歩幅の差のためである。
今、この眼前の男をここで打ち斃す事は可能であると頑乃助は考える。が、そうはしない。
この男はおそらくここに集められたうちでも上位の部類に入る実力を持っている。
そして、その一瞬伺った顔色、自身の誇りを傷つけられた憤激に満ちている。
おそらく、この男は自らの剣技を示すため、多くの死合を行うだろう。

この男により多くの使い手を斃してもらい、剣士の大半が斃れた後、疲弊した所を撃つ。
もし、この男が他の剣客に斃されれば、その斃した相手を尾行する。
これが頑乃助の考え出した、最も確実に勝利を手にする方法である。
今、もう既に自分の背後に誰かがいない限りは、この男の後を行くことにより、
不意の襲撃を受ける危険性はほぼ無くなるという事もこの作戦の利点である。

頑乃助の目の前を行く男、佐々木小次郎ほどの達人ならば、おそらくこの程度離れた位置にいても
相手の気配を察する事が出来たであろう。だが、頑乃助が気取られなかった理由はいくつかある。
まず、ひとつは月が出ているとは家、暗く、死角の多い森と言う環境。もうひとつはここが、
頑乃助の慣れ親しんだ環境に近く、また、頑乃助が気配を消し、死角を見つける事に長けた男であるという事。
笹原権八郎を討ち果たした際も、白昼堂々、彼に気取られる事なくその槍持ちを討ち果たして
その得物を封じる事に成功しているのが、その証左である。おそらく、夜が明けても
よほど開けた場所に出ない限りは、小次郎の目を欺きとおす事が出来るだろうと頑乃助は考えた。
仮に見つかっても臨戦態勢を整える、あるいは逃げ出せるだけの距離は取ってある。

そして小次郎が頑乃助の尾行を許してしまった最大の原因は、彼の心が自尊心を傷つけられた
屈辱と先程対峙した、男・沖田総司に対する憤慨に満たされていた事。事実、小次郎が
歩き出す前まで、平常心ならばその存在を察知できたであろう位置に、頑乃助は潜んでいた。
だが、その時の心の乱れは頑乃助の接近を許し、いままた、一定の距離を取る事を許してしまった。

周囲に気を配りながら、夜の森を行く小次郎の後を頑乃助はそれ以上の慎重さで、息を殺し
まさに蝦蟇が地を這うように尾行していく。もしも、小次郎に自分の位置を察知されても
彼を返り討ちにする事は容易いだろう。それは相性だけではない。先程のあの小次郎の憤りようを
察するに、生まれてこの方、汚濁に塗れて生きてきた自分とは正反対の人生を歩んできたのだろう。
そんな心根の相手に自分が敗れるなどという事は万に一つも考えられなかった。だが、今しばらくは
その腕と誇りの高さ、存分に使わせてもらおうではないか。

(どこのどなた様かは存じませぬが、なるほど貴方様はお強い。されど、あなた様の強さ、あなた様のためではなく
 私と千加様のために振るっていただきますぞ…。)


【はノ弐 森の中 一日目 深夜】

【屈木頑乃助@駿河御前試合】
【状態】健康
【装備】木刀
【所持品】支給品一式
【思考】
基本:死合に勝ち残り、勝者の褒美として千加を娶る。手段は選ばない。
一:眼前の侍(佐々木小次郎)と常に一定の距離を取り尾行。出来うる限り
  残り人数が減るまで戦わせ、疲弊したところを襲撃し討つ。
二:小次郎が討たれた場合、可能ならば討った相手をさらに尾行。
三:小次郎、或いは他の者にに見つかった場合、状況により戦うか逃げ出す。ただ、返り討ちにする自身はある。
四:なるべく慎重に行動。小次郎だけではなく、周囲も警戒。

※原作試合開始直前からの参戦です。
※総司、小次郎の太刀筋をある程度把握しました。
※小次郎及び総司の名前は知りません。

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試合開始 屈木頑乃助 二重影

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最終更新:2009年03月25日 00:37