剣法封印◆F0cKheEiqE
伊藤一刀斎景久と東郷藤兵衛重位。
この二人には、双方ともに卓越した剣客だったいう点以外に共通点というものは無い。
伊藤一刀斎が賤しい身分に生まれ生涯仕官せずにただ剣一筋に生き、
最後は霞のように歴史から消えてしまったのに対し、
東郷重位は生まれながらの武士で島津家の剣術師範を務めるだけでなく、
様々な薩摩藩の職務をも全うし82歳で大往生を遂げたという。
むしろ対照的な生涯を送った二人と言える。
そんな二人が、どういう縁か、この残酷無残な剣法勝負の場で、
奇しくも一つの共通点を持つことになる。
それは、おのおの理由は違うと言えど、
共に己の剣法を封印してしまったという事である。
◆
東郷藤兵衛重位は言うまでもなく薩摩の人である。
島津家家臣、瀬戸口重為の三男だと言われているが、
重為の子東郷重治の子供、すなわち重為の孫とする資料もある。
天正15年に時の主君、島津義久と共に京都にのぼった際に、
常陸の郷士、十瀬与三左衛門長宗が開いた天真正自顕流を
天寧寺の善吉和尚から学んだらしい。
故郷薩摩に帰ってから修行と実戦により工夫を凝らし、
慶長9年、時の主君家久の御前でタイ捨流の達人、
剣術師範、東新之丞に打ち勝った事を切っ掛けに
“自顕”の字を改め“示現”とし、
後の世に名高い示現流を開いたのだという。
その後薩摩藩剣術指南を中心に
上でも述べたように様々な仕事を行った。
ただ剣だけの人ではなく、
諸芸に秀でた教養人でもあったらしく、
薩摩藩密貿易の拠点とも言われた坊泊郷の
地頭を務めたともいうから、
役人としての能力もかなり高かったと思われる。
しかし、彼の職務の中で最も著名なのは「上意打ち」であろう。
彼はひとたび主君の命あれば、たちまちその身を刺客と転じ、
島津に有害な人間を一刀の元に悉く斬り伏せた。
その数は十数人に及ぶと言われている。
普段は克己復礼の人で、門弟、同僚には親切礼儀正しく、
事を荒立てない人だったと言うが、
やはり曲がりなりにも戦国の世を体験した世代であり、
その足跡には血生臭い物がつきまとっている。
その東郷重位が、この剣法勝負の場で最初に目を覚ましたのは、
「へノ漆」の「へろな村」の民家の中での事である。
ガラスも無い格子戸からは月が伺える。
(あの男、柳生であったな)
薩摩の道場から気が付けばあの白州に連れ去られていた
重位は、当初は混乱し夢かとも思ったものの、
白州で死んだ青年の血の臭いを思い出す。
あの血の臭い。
それは確かに戦場や、上意打ちの時に自らの剣で作り出し、
確かに嗅いだ物と同じであった。
あれが夢であろうものか。
(あのような無残な殺し方・・・天下の公儀も無体な事をする)
(しかしそれはさておき)
重位は顎をさすりながら天を仰いだ。
この兵法勝負で自分は如何に動くべきか思考しているのだ。
(御前試合・・・・柳生がいたことから考えれば徳川の者どもの誰かか。
薩摩侍の武芸の冴えを天下に振るうのはやぶさかではないが・・・)
島津が関ヶ原で西軍につきながら領土を安堵されたのは、
あの時、島津義弘が苛烈ともいえる凄まじい撤退戦を演じ、
家康が薩摩武士の戦闘力に恐れをなしたからだと言う。
いつとり潰されるとも知れぬ外様の中の外様、島津の家の命運を
安泰にするためにも、また公儀に改めて薩摩武士の恐ろしさを刻みつける為にも、
この兵法勝負で腕を振るう事はむしろ望むところである。
いや、積極的に勝ちにいかねばならないのだ。
もし自分がここで逃げ腰になったり、不様な醜態、敗北を晒せば
公儀が「島津恐るるに足らず」と、
それまでの薩摩に対する恐怖をぬぐい去り、
早速とり潰しにかからないとも限らないのである。
故国薩摩、島津の現在の状況は、それほどまでに不安定な物なのだ。
(お家の為にも、この兵法勝負には勝ちにいかねばならぬ。しかし・・・)
ここで重位の頭をよぎる一つの懸念がある。
彼が大成し、薩摩のお家流儀となった「示現流」は「御留流」、
すなわち門外不出、藩外教伝禁止の流派に他ならないのである。
その「御留流」の太刀筋を、いくらこのような兵法勝負の場とは言え、
衆目に晒すことは果たして許されることなのか。
合戦であれば構わない。
むしろ戦場で薩摩の武士たちが“蜻蛉”で“猿叫”をあげながら
大地を駆け、敵を斬り伏せていくのは剣術師範として、
また一流の始祖として、はたまた薩摩隼人として本懐であるといえる。
しかしこの兵法勝負、人別帖を見る限り
示現流の使い手は恐らく自分一人。
たとえ勝ち上がったとしても、
それまでに太刀筋は悉く公儀の目に晒されてしまっていることだろう。
それは現代風に言えば軍事機密の漏洩といっても言い。
「御留流」の太刀は秘密はあくまで守り抜かねばならぬ。
自分はこの兵法勝負では必ず勝ち上がらねばならない。
しかし人生を掛けて研鑽してきた示現流の太刀筋は、
あくまで隠し通さねばならない。
相反する両方を為さねばならないのだ。
東郷重位、生涯において恐らく最も過酷な「任務」になるかもしれぬ。
しかし・・・・
「勝つ」
そう短く言うと、
重位は立ち上がって民家を出る。
眼には決意の光が宿っている。
その決意とは・・・・
◆
東郷重位が一つの決意を胸に抱いたのとほとんど同時刻、
「ちノ漆」に存在する「血七夜洞」の中から一人の男が姿を現した。
背の高い初老の老人ある。
髭も、後ろで束ねた髪も残らず白、あるいは灰色をしている。
衣服は粗末でくすんだ帷子しか着ていない。
手にはひと振りの太刀が握られている。
老人はすぐ近くの崖まで歩いて行く。
崖には、波飛沫がうちよせ、白い水の飛沫がとんでいた。
老人は海面をじっと見ていた。
その視線は、何か重苦しい思いを内包した、
硬く冷たい視線であった。
老人はそれからしばらく、顔が飛沫で濡れる事も、
髭や髪が風で掻き乱されるのも気にならないような様子で、
じっと海を見続けた。
老人が動き出したのは突然である。
何を思ったか、この危険極まりない兵法勝負の中においては、
自分の命綱ともいえる太刀を海に投げ捨てたのである。
老人は清々したといった調子で、
太刀が波の中に消えていくのも見送らず、
すぐさま崖に背を向けた。
「俺は斬らない」
老人は洞穴に戻りながら言う。
「俺は斬らない」
もう一度、自分に言い聞かせるように強くそう言いきった。
老人の名前は伊藤一刀斎と言った。
伊藤一刀斎景久、前名、前原弥五郎は生没年はおろか、生地ですら定かでない。
一般には伊豆の人と言うし、一説には江州堅田の人という。
とにかく卑しい生まれである事は確かだ。
伝説によれば幼名を鬼夜叉といい、
その名の如く鬼のような容姿で、近隣住民は恐れて近づかず、
14の時に富田(中条)流の達人、富田一放を一太刀に斬り、
盗賊7人を斬り殺し、最後の一人は大甕に隠れたのを
甕ごと斬り捨てたというから凄まじい。
名人相手に勝負すること33度、
凶敵を倒すこと57人、
木刀で打ち伏せること62人、と実戦を重ね、
その果てに自得する所あって一刀流を開いた。
師匠は富田流系、外他(鐘巻)流の流祖、鐘巻自斎であり、
彼より、小太刀、中太刀を学び、その上で大太刀の使い方を工夫し、
五十本、刃引、相小太刀、正五点などの刀法を考案した。
逸話も多く、“払捨刀”や“無想剣”の故事が著名だろう。
彼の一刀流は、
塚原卜伝の新当(神道)流、上泉伊勢守の新陰流
と並んで今日の剣道、剣術の基礎になり、剣術の三大潮流と呼ばれている。
しかし、卜伝、伊勢守が“剣聖”と謳われ、
時の室町将軍の御前で武芸の上覧、はたまた武芸師範を行い、
名誉と敬愛の中で往生を遂げたのに対し、
仕官もせず、名声も求めず、
ただ阿修羅のごとく戦い続けた果てに
杳として姿を消してしまったのである。
正に「一刀斎」の名前の如く、
剣だけに生きて、剣だけに死んでいった男であった。
その一刀斎が、この兵法勝負に連れて来られたのは、
正に弟子、神子上典膳、後の
小野忠明に一刀流の後目を譲り、
深山へ分け入って最後の場所を探そうと、
人知れず富士の樹海へと分け入った正にその時であった。
一刀斎は何処とも知れぬ洞穴の中で目が覚めた。
そして先ほどの二階笠の男の言ったこと、
さらには無残に殺された村山という少年の事を思い出した。
その時の一刀斎の表情は、
苦虫を噛み潰したような陰鬱極まりない物であった。
その背中は、彼がその剣で多くの剣士を血の海に沈めてきた男とは
思われぬほどに小さく、憔悴しきっていた。
「俺にまだ人を斬れというのか・・・・・」
一刀斎はねじれた唇から絞り出すようにして言葉をはいた。
そう言うと、行李の中に入っていた太刀を掴み、
ひらりと鞘から抜いた。
白刃が、蝋燭の明かりが仄かに光る洞穴の闇で閃いた。
一刀斎は、その輝きを食い入るように見つめている。
太刀は研ぎ澄まされ、曇りもない綺麗な業物であった。
しかし、一刀斎には、その白刃が真っ赤な血で染まっているように見えた。
否、白刃だけでなく、その両手が、両腕が、いや体中が血まみれであった。
臭うはずもない、噎せ返る様な血臭が鼻をついていた。
伊藤一刀斎が何故、晩年山野の果てに姿を消したのかは、
史料が少なく、彼自身があまり自分を語らなかったが故に判然としない。
世を儚んだとも、
はたまた、後継たる小野善鬼、神子上典膳、
善鬼は性質邪悪、典膳は精神未熟と、
その出来の悪さに失望したためとも言われている。
事実、神子上典膳、後の小野忠明は、
徳川家の剣術指南となり一刀流を世に広めたとは言え、
当人自体は腕は立っても軽率粗暴、天下の剣術指南とは思えぬ
乱暴狼藉が多く、結局生涯柳生の後塵を排し続け、
ついには発狂して死んだと言うから、あながち有り得ぬとも言い切れない。
しかし、一刀斎が隠遁した最大の理由は、
剣の道に疲れ、仏心を起こしたからだと言われている。
伊藤一刀斎という剣の人が度重なる死闘の果てに得たものはなんであったか。
『一刀斎先生剣法書』に斯くの如くある。
『相対者は或は勝、或は負く。これ理の順也。
然るが己が分限を知らず、我れ堅固にて他を害せんと欲す、是れ道に非る也。
勝負の根元は自然の理にして是非全く計り難し、思わざるに勝ち、量らざるに負く。
勝つべきに却って負け、負くべきに全く勝ち、あるいは倶に死し、あるいは倶に生く。
善は善にして善ならず、悪は悪にして悪にあらず。
何に向かって勝つ事を楽しみ、何に向かって負くる所を悲しまんや。
人間無常の習、その得失はただ天道自為の妙理也』
武蔵の生涯の集大成、『五輪書』が如何にして相手に勝つかの理の極致であったのに対し、
一刀斎の剣の極致は、余りにも冷徹な人勝負自体の理であった。
武蔵が、剣を極めた先にある物を、勝ち続けた先にある物を追及し続けたのに対し、
一刀斎は剣そのもの、勝負そのものを追求し続けたように思われる。
そして恐らく100をも超える剣の戦いの果てに、
たどり着いたものが上の宿命観であったのだろう。
しかし、斯くの様な理に行き着いてしまった男が、
その後も勝負を続けることは可能であろうか。
はたして、一刀斎は、凄まじい虚無感を抱きながら、
山野へと消えて行ったのである。
一刀斎は太刀を鞘の中にしまった。
そして、深い溜息をついた。
(無理だ・・・・・)
剣法勝負を続けることがである。
一刀斎は深くそう考える。
生まれおちて60余年。
只管剣に生きてきて、その果てに得たものは果たしてなんであったか。
ただ、自分の背後に連なる屍の山と、
この胸に巣食う果てしない虚無だけである。
全てが嫌になって、
結局一刀斎は典膳に全ての後始末を押し付けて隠遁する事を選んだ。
剣と関わらない、終の地を求めて。
にも関わらず、天は尚俺に剣で人を殺せというのか。
一刀斎は洞穴の奥を見つめた。
そこには、底知れぬ闇が広がっている。
まるで俺の心だ。
一刀斎はそう自嘲した。
無明。
この人生得たものは唯無明。
されど、
その事に気づいた今こそ
一刀斎の目に光が灯った。
◆
東郷重位と伊藤一刀斎。
奇しくも二人は互いに相知らぬ仲であるにもかかわらず、
同じ時に同じ決意をすることになった。
すなわち剣法封印である。
重位はお家の為に剣を封じる。
一刀斎は自分の為に剣を封じる。
決意の理由も対極なれど、至る結論は同じであった。
重位はこの殺し合いに積極的に乗るつもりであった。
是が非でもこの兵法勝負には勝たねばならない。
重位は勝ちに行くつもりである。
しかし、“示現流”は使わない。
彼は、自顕流を知るまで慣れ親しんでいたタイ捨流の太刀筋で戦う積りであったのだ。
重位自身が示現流を興すまで、薩摩で主流の流派はタイ捨流あり、
彼ももちろんこの流派を習得している。いや、こちらでも十分に彼は達人であると言えた。
しかし、示現流を興して早十年以上。
果たして自分のタイ捨流の太刀は、あのお白州の武芸者達に通じるか・・・
(いや、ここが薩摩隼人の見せどころ)
重位は不敵に笑うと、
へろな村の往来に繰り出した。
【へノ漆/へろな村 往来/一日目/深夜】
【東郷重位@史実】
【状態】:健康
【装備】:打刀
【所持品】:支給品一式
【思考】 :この兵法勝負で優勝し、薩摩の武威を示す
1:相手を探す
【備考】
※示現流の太刀筋は封印しました
一方、一刀斎はこの殺し合いに乗る気は全く無かった。
だからこそ彼は、この場における彼の唯一の武器である
太刀を惜しげもなく海に投げ捨てたのだ。
その瞬間、彼には憑きものがとれたようなすがすがしい気持ちになったのだ。
一刀斎はこれを機に、完全に己の剣を封じてしまう積りでいる。
剣の果てが無明なら、残された生を、その無明を晴らすために使う。
それが一刀斎の結論である。
故に剣はいらない。
下手に剣など持つと、襲われた際にうっかり無想剣などを放っしまうだろう。
そうすれば目も当てられない。
故に丸腰。誰かに挑まれれば逃げればいい。
取り敢えず、伊庭寺を目指そう。
一刀斎はそう決めると、月の下、笑顔でその場を後にした。
【ちノ漆//一日目/深夜】
【伊藤一刀斎@史実】
【状態】:健康
【装備】:なし
【所持品】:支給品一式
【思考】 :もう剣は振るわない。悟りを開くべく修行する
1:伊庭寺に向かう
2:挑まれれば逃げる
【備考】
※一刀流の太刀筋は封印しました
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最終更新:2009年03月19日 21:12