313
三つの鎖 18 中編 ◆tgTIsAaCTij7 sage 2010/03/30(火) 22:51:57 ID:bAmrO5zr
次の日の朝、梓は部屋から出てこなかった。
体調不良だから休むとドア越しに言った。
昨日の夜、梓は僕に何も言わなかった。僕が何を言っても涙を流すだけで何も言わなかった。
京子さんが僕の肩のテーピングをしてくれた。今日は腕を吊らないことにした。今日の夕方に夏美ちゃんの家にお邪魔する。腕を吊ったままだと心配をかける。
朝食は京子さんが手伝ってくれた。
父と京子さんの三人での朝食。いつもとおり静かな食卓。
食後、僕と父はリビングでお茶を飲んでいた。京子さんは洗面所で歯を磨いている。
「幸一」
父が僕に声をかけた。いつもとおりのポーカーフェイス。何を考えているのか分からない無表情な顔の中で、瞳だけが力強い光を放っている。
「梓とは仲良くしているのか」
脳裏に涙に濡れた梓の表情が浮かぶ。
「まあまあかな。以前より良くなったよ」
半分は嘘だ。梓は僕と二人きりのときは露骨に迫ってくる。
でも、そんな事を父に言えない。言えば梓は遠方にやられる。今まで会ったことのない親類に預けられるだろう。梓が遠方に追いやられるとどうなるか。過去のように再び荒れるに違いない。
いや、それだけではすまない。柔道の稽古で父の同僚の方たちと知り合った時に、父の仕事ぶりを聞く事ができた。父は優秀で厳しい警察官らしい。冷静で冷徹。梓が僕にしたことを知られると、父は冗談抜きで梓を逮捕しかねない。
父は僕を無表情に見つめた。何を考えているのかはその表情からは読み取れない。
「幸一。梓は母親に似ている」
僕は驚いた。僕が覚えている限り、父が僕の生みの親の事に言及したのは初めてだ。
もう一つ驚いたのは梓が母親に似ているという事だ。梓はどう考えても、少なくとも見た目は父に似ていると思う。いつも無表情なところや鋭い目元なんてそっくりだと思う。
「僕を生んでくれた人ってどんな人だったの?」
父は微かに目を伏せた。まるで過去の記憶に思いを馳せるかのように。
「哀れな人だ」
微かな違和感。父の言う意味が僕には分からなかった。相変わらずの無表情に微かに表情が浮かんだ気がしたけど、どんな表情かは分からなかった。
「もし梓の事で何か悩みがあれば、いつでも言いなさい。言えないと思っている事でも心配ない」
父の言葉が胸に突き刺さる。
今の梓の事や春子の事を相談すればどうなるだろう。
言えない。
「ごめんねー。お化粧に時間がかかっちゃった」
京子さんがリビングに入ってきた。相変わらず若々しい。四十代に届く年とは思えない肌の張り。
僕と父を見て京子さんは不思議そうな顔をした。父は湯飲みを置いて立ち上がった。
「行ってくる」
そう言って父は鞄を手に立ち上がった。
「あらいけない。もうこんな時間ね」
京子さんは時計を見て慌てたように鞄を持った。
僕は二人を玄関まで見送った。
「誠一さん。ネクタイが曲がってるわ」
京子さんは父のネクタイを直した。白くて細い指。ふと梓の手が脳裏に浮かんだ。
「幸一君。梓ちゃんをお願いね。今日は早く帰ってくるから」
「今日も遅くなる。頼む」
そう言って二人は出勤した。
僕はキッチンに戻り、おかゆを作った。梓の体調が心配だ。昨日の事がショックで寝込んでいるのかもしれない。
お盆を持って階段を上る。梓の部屋の扉をノックした。返事はない。
「梓。入るよ」
扉を開けると、閉め切られた部屋に特有のむせた空気が流れる。
僕は机の上にお盆を置き、窓を開けた。澄んだ朝の空気が入り込む。ベッドの上で梓は布団を頭までかぶっていた。白い指が布団の端からのぞく。
なぜか京子さんの指先が脳裏に浮かんだ。
「梓。おかゆを作ったよ。食べられる?」
僕は布団の上から梓を揺さぶった。
突然、白い腕が出てきて僕を布団の中に引きずり込んだ。僕の背中に腕が回される。
目の前に梓の顔がある。泣きそうな表情で僕を見つめている。
「好き。兄さん」
梓は震える声で僕に告げた。僕の足に梓の素足が絡まる。
僕は布団を跳ね除けて起き上がろうとしたけど、起き上がれない。梓の手足が僕に絡みつく。
「お願い。抱いて」
耳元に梓の囁き。梓の吐息が熱い。
僕は梓の肩に手を当てゆっくりと押した。そこで初めて梓は何も着ていない事に気がついた。慌てて視線をそらす。その隙に梓は僕に抱きついてきた。
「梓。はなして」
背中に回される梓の腕に力がこもる。
梓は悲しそうに僕を見た。今までに見た事ないような儚い表情。
「私じゃだめなの」
314 三つの鎖 18 中編 ◆tgTIsAaCTij7 sage 2010/03/30(火) 22:53:32 ID:bAmrO5zr
僕は首を横に振った。
「梓は僕の大切な妹だ。それに僕には恋人がいる」
「兄さんが夏美のことを好きなのは知っている。わかっている」
梓の目尻に涙がたまる。
「兄さん。兄さんは私を大切にしてくれた。私に妹としての思い出をたくさん与えてくれた」
背中に回された梓の腕が震える。
「私、兄さんのことをあきらめる。妹で我慢する。もう何も言わない。だからお願い。一度だけでいい。私を女として扱って。妹だけじゃなくて女としての思い出をください」
梓は僕を抱きしめた。服越しでも梓の柔らかい体と熱い体温が伝わる。
僕は梓をゆっくりと引き剥がした。
梓の気持ちは嬉しかったけど、それをはるかに越えて悲しかった。
僕たちは兄妹なのだから。
「ごめん。梓の気持ちには応えられない」
僕はベッドを降りた。梓は上半身だけ起こして僕を見た。
梓の上半身が露になる。透き通るような白い肌、小ぶりだけど形のいい胸、まとめられていない艶のある黒い髪はほつれている。まだ大人になりきってない子供の幼さと大人になろうとしている女性らしい曲線が混ざり合って妖しい魅力を放っている。
血のつながった妹なのに、思わず見とれてしまった。
「何でなの」
梓の声に僕は我に返った。
涙が梓の目尻からぽろぽろ落ちる。落ちた涙が滑らかな梓の肌を伝って落ちた。
僕は梓に背を向けた。
ドアのノブを握り梓の部屋を出ようとした。慰めの言葉をかけようとは思わなかった。それは梓に失礼だと思ったから。
梓は妹ではなくて一人の女の子として僕に接してきた。だったら僕も男として梓をふる。
「お姉ちゃんを抱いたのに、何で私を抱いてくれないの」
何も言わずに部屋を去ろうと思った。それなのに、梓の言葉は僕の足を止めた。
梓の言葉に頭が
真っ白になる。
久しぶりに梓がお姉ちゃんという言葉を口にした。
梓の指すお姉ちゃん。
春子。
後ろからひたひたと素足で歩く足音と気配がゆっくりと近づく。
あまりの恐怖に息が詰まる。
「兄さんは脅されたからお姉ちゃんを抱いたの」
僕のすぐ後ろで足音は止まった。
梓の気配をすぐ後ろに感じる。息遣いすらも感じる。
動こうとしても、根が生えたように足が動かない。
「私、お姉ちゃんと同じことはしない。もう兄さんを傷つけたり脅したりはしない」
梓の吐く息が首筋に当たる。
「兄さん。お姉ちゃんに脅されているんでしょ」
梓の細い腕が僕の腰に回される。背中から梓の体温が伝わる。
「兄さんが望むなら、お姉ちゃんを殺してもいい」
梓の言葉に背筋が凍える。
「だって兄さんは脅されてひどい事をされているのでしょ。だったら私が兄さんを守る。兄さんにひどい事をする女は、例えお姉ちゃんでも殺す」
本気だ。
淡々として抑揚に乏しい口調。
それでも梓の気持ちが伝わってくる。
本気で僕のために春子を殺すと言っている。
「兄さんは何も考えなくていい。私が兄さんを守る。だからお願い。一度だけでいい。私を女にして。女として扱って。女としての思い出を与えて」
梓の細い腕に力がこもる。
ぽたりと、涙の落ちる音がした。
僕は梓の腕をほどき、梓のほうを振り向いた。
白い裸身が目に入る。梓は僕を見て笑った。泣き笑いだった。
梓は僕の胸に顔をうずめた。
「梓。お願いだ」
僕は梓の背中に腕を回した。梓の滑らかな背中の感触が手に伝わる。
「お願いだからそんな事を言わないで」
ずっと春子と一緒に育った。
一緒の時を過ごした。
そばにいてくれた。
励ましてくれた。
勉強を教えてくれた。
料理を教えてくれた。
家事を教えてくれた。
315 三つの鎖 18 中編 ◆tgTIsAaCTij7 sage 2010/03/30(火) 22:56:36 ID:bAmrO5zr
辛かった時、笑顔を向けてくれた。
春子にどれだけ助けてもらったか、言葉に尽くせない。
たとえ今は脅され、夏美ちゃんを裏切ることを強制されても、嫌いになれない。
ひどい事をされても、殺されていいなんて思えない。
一緒の時を過ごしたのは梓も一緒だ。
梓が生まれた時から一緒だった。
血を分けた大切な妹。
その梓に、人殺しなんてして欲しくない。
例えそれが僕のためであっても。
梓は顔を上げて僕を見た。不思議そうに僕を見上げる。梓の頬に僕の涙が落ちる。
「兄さん?何で泣いているの」
梓は僕の顔に手を延ばした。頬に梓の小さな手が触れる。
その手が僕の涙をぬぐう。
「梓も春子も、僕にとっては大切な人だ。大好きな妹と姉だ」
梓に傷つけられても、春子に脅されても。
二人を嫌いになれない。
僕の大切な姉と妹だから。
「兄さんの馬鹿」
梓は小さな声で言った。梓の頬を涙が伝う。
僕は学生服の上着を脱いで梓の肩にかけた。梓は学生服の襟をつかんで悲しそうにうつむいた。
涙が床に落ちた。
「兄さん。一つだけ教えて」
梓は顔を上げて僕を見た。
いつもよく見る梓の無表情。瞳だけが悲しげな光を放つ。
「もし私と兄さんが兄妹じゃなかったら、兄さんは私の恋人になってくれた?」
「分からない。梓と兄妹じゃないなんて想像もつかない」
僕は梓を見た。僕の学生服の隙間から梓の白い肌が見える。裾からは細くて柔らかそうな素足が伸びている。
「でも、梓の裸には見とれてしまった」
そう言って僕は目をそらした。
「血のつながった妹なのに。ごめん」
梓は微かに笑った。柔らかい微笑み。
「この変態シスコン。妹の裸に見とれるなんて」
「反論できない。ごめん」
「いいわよ。私も変態だもん」
梓は肩にかけられた僕の学生服に顔を押し付け深呼吸した。
「私ね、兄さんの匂いが好き。いつも兄さんの洗濯前の服を持ち出して匂いを嗅いでいたんだ」
梓は苦笑した。
「私たち、おあいこだね」
僕も苦笑した。そこまで変態じゃない、一緒にしないでと思ったけど、言わなかった。
二人で笑ったのは本当に久しぶりだったから。
梓は僕をまっすぐに見た。
「好き。大好き。兄さんの何もかもが好き」
澄んだ瞳が僕を見つめる。
「愛してる。誰よりも兄さんを愛してる。お願い。私を兄さんの恋人にして」
梓の目から涙が伝う。
血の分けた妹の願い。血のつながった兄と添い遂げること。
歪んでいるけど純粋な願い。
僕はハンカチを手に梓の目元をぬぐった。
「ごめん。梓の気持ちにはこたえられない」
僕は梓に背を向けた。
兄妹。僕と梓は血を分けた存在。
結ばれる事は許されない。
「兄さんの馬鹿。絶対許さないから」
後ろから梓の声。
梓の声は微かに震えていた。
「学校はどうするの」
少ししてから梓は答えた。
「休むわ」
「そう。何かあったら連絡して」
僕は梓の部屋を出た。
316 三つの鎖 18 中編 ◆tgTIsAaCTij7 sage 2010/03/30(火) 22:58:10 ID:bAmrO5zr
閉めたドアの奥から泣き声が聞こえた。
胸が張り裂けそうな悲しい泣き声。
それでも、僕は振り返らなかった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
僕は遅刻した。
梓のご飯を作った分、遅れた。鳥の照り焼きを作って食卓に置いておいた。偽善と分かっていても、そうしてしまった。
一時間目の途中から僕は教室に入った。クラスメイトの視線が突き刺さる。
教師に寝坊と伝えて僕は自分の席に座った。
耕平はドンマイという風に軽く手を挙げた。
春子はちらりと僕を見た。
僕は驚いた。春子の顔は少し腫れていた。
梓の顔が脳裏に浮かんだ。春子と喧嘩とはこの事なのかもしれない。
一時間目が終わった休憩時間に、僕は春子の席に近づいた。
「幸一くん」
僕に気がついた春子が泣きそうな顔で僕を見た。
近くで見るとはっきりと分かる。春子の顔が微かに腫れているのを。
「それは」
僕の言葉に春子は微かにうなずいた。
それだけで僕たちは理解しあえた。
ぱたぱたと足音が近づいてくる。
夏美ちゃんの足音。
「お兄さん!」
扉がガラッと開いて息を弾ませた夏美ちゃんが入って着た。
そのままの勢いで僕に近づく。
「あの、その、ぜぇはぁぜぇはぁ」
肩で息をする夏美ちゃん。
春子は夏美ちゃんを見て笑った。
「夏美ちゃん。どっからどう見ても変態だよ」
「は、ハル先輩。すいません」
春子は立ち上がった。
「春子。どこに」
「もう。女の子が席を立つときに質問しちゃだめだよ。お手洗いに行ってくるだけ」
春子は笑って教室を出て行った。
僕は夏美ちゃんの袖をつかんで目配せした。夏美ちゃんは何も言わずにうなずいた。
二人で教室を出て人気の少ない階段まで移動した。
「ハル先輩の顔、もしかして」
夏美ちゃんは言いにくそうに僕を見上げた。
僕はうなずいた。
「何があったかは聞いていない。今日のお昼休みにでも詳しく聞こうと思う。だからごめん」
お昼には春子と二人でいる。
夏美ちゃんは笑顔で許してくれた。
「いいです。気にしないでください」
お昼に春子から詳しい話を聞こう。
そしてその場に夏美ちゃんが同席していると、詳しい話しをできない。
ごめん。僕は心の中で夏美ちゃんに謝った。
「あの、お兄さん、その」
夏美ちゃんは言いよどんだ。頭を振り、僕をまっすぐに見た。
「梓とは大丈夫でしたか」
今日の朝を思い出す。あれは大丈夫といえるのだろうか。
でも、梓は笑ってくれた。
「大丈夫だよ。見てのとおり怪我もないでしょ」
僕は昨日吊っていた肩をすくめた。本当は固定して吊るした方がいいけど。
「だから今日の夜にお邪魔するよ」
夏美ちゃんの顔が輝く。
「あの、本当にいいんですか」
「うん」
「本当の本当ですか」
「本当の本当だよ」
317 三つの鎖 18 中編 ◆tgTIsAaCTij7 sage 2010/03/30(火) 23:00:21 ID:bAmrO5zr
夏美ちゃんの目尻に涙が浮かぶ。
「ぐすっ、本当ですか、ひっくっ」
僕はうなずいた。夏美ちゃんの目尻から涙がぽろぽろ落ちた。
「ひっくっ、ぐすっ、ひぐっ、無茶、ぐすっ、してないですか?」
「もう大丈夫」
僕は夏美ちゃんを抱きしめた。僕の背中に夏美ちゃんの腕がまわされた。
夏美ちゃんは僕の腕の中で子犬のように震えた。その背中をそっと抱きしめる。小さいけど、あの日僕に勇気をくれた背中。
「もう、ひっくっ、お兄さんとっ、ぐすっ、梓が、ひぐっ、喧嘩しないですか」
「分からない。でも、梓はきっと分かってくれる」
夏美ちゃんは顔を上げて僕を見上げた。涙がとめどなく夏美ちゃんの頬を濡らした。
「梓は僕の妹だ。きっと分かってくれる」
僕はハンカチで夏美ちゃんの顔をぬぐった。
予鈴が鳴る。
「放課後に迎えに行く」
「ひゃい」
夏美ちゃんは涙でぐちゃぐちゃの顔でうなずいた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
お昼休みに僕と春子は校庭に向かった。
この学校の校庭は広くてベンチも多い。日差しをさえぎる木も多くて夏が近づく今でも涼しい。他にもお昼を食べている生徒は多い。
僕たちは他の生徒と離れたベンチに腰を下ろした。
「梓と何があった?」
僕は単刀直入に尋ねた。
春子はうつむいて何も言わない。春子の手が微かに震えている。
「ばれたの?」
何かを言わなくても春子は分かったようだ。
顔を上げて僕を見る春子。今にも泣きそうな頼りない表情。
「梓に言われた。お姉ちゃんを抱いたんでしょって」
春子は目を見開いて僕を見た。口元を押さえ震える。目尻に涙が浮かぶ。
「お、お姉ちゃんね、昨日ね、梓ちゃんに全部ばれちゃった」
涙がぽろぽろと零れ落ちる。
僕は何も言わなかった。春子が自分からばらすはずがない。きっと梓は何か感づいて春子を追い詰めたのだろう。
「そ、それで、ひっくっ、梓ちゃんにっ、ぐすっ、二度と話しかけないでって」
見ていてかわいそうな程春子は涙を流す。
哀れな春子。あれほど梓の事を好きで大切にしていたのに。
これだけの事を春子にされても、憎しみよりも哀れみの気持ちを感じてしまう。
春子は僕を見て目を見開いた。胸の前で手を握り締め震える春子。
「…だっ」
「え?」
小さな春子の声。何て言ったか聞き損ねた。
「やだっ!」
春子の声が校庭に木霊する。
遠巻きに僕たちに視線が突き刺さる。
「そんな目でお姉ちゃんを見ないで!」
春子は肩を大きく上下して荒い息をついく。
脅えたように僕を見上げる。
「春子。落ち着いて」
春子は僕の言う事を聞いていなかった。春子は僕の胸に顔をうずめ背中に腕をまわした。
「お姉ちゃんを哀れむみたいに見ないで」
春子の涙がぽろぽろと僕のシャツに零れ落ちる。
僕は春子の震える背中と頭に腕をまわした。小さな背中そっと抱きしめる。
「お姉ちゃんねっ、分かっていたよ。いつかこんな日が来るって。梓ちゃんにも幸一君にも嫌われる日が来るって」
春子は顔を上げた。涙に濡れた春子の顔。
「こんな事いつまでも続けるのは無理だって分かっていたよ。幸一君は立派だもん。梓ちゃんの鎖が幻だったみたいに、お姉ちゃんの鎖も幸一君はすり抜ける事は分かっていたよ。それでも、その日までは幸一君のそばにいたいの」
僕は春子の頭をゆっくりと撫でた。
「ひどい事をしてもされてもいい。幸一君と梓ちゃんに嫌われても憎まれてもいい。幸一君のそばにいたい。そのためなら他の何もかもどうでもいいって思っていたのに」
春子の涙は止まらない。
「それなのに、梓ちゃんに嫌われたのが、こんなに悲しいなんて。分かっていたのに。自業自得なのに」
春子は僕をぎゅっと抱きしめる。離さないでというように。
318 三つの鎖 18 中編 ◆tgTIsAaCTij7 sage 2010/03/30(火) 23:03:13 ID:bAmrO5zr
「幸一君に憎まれてもいいと思っていたのに。それなのに何でなの。何でお姉ちゃんに優しくするの。何でお姉ちゃんを哀れむの」
僕の服をぎゅっと握る春子の手。
「ひどい事をされるよりも、嫌われるよりも、憎まれるよりも、優しくされるのが一番つらいよ」
震える春子の背中を、僕はそっと抱きしめた。
春子は泣いた。僕にしがみついて、子供のように泣きじゃくった。
昔は逆だった。僕は寂しい時によく泣いた。父さんも京子さんも来られなかった授業参加、梓と二人きりの夕食、運動会の後に楽しそうに帰る家族達を見ながら梓と手をつないで帰った日。
寂しくて仕方がない時、僕は部屋で一人で泣いた。梓の前では泣けなかった。
そんな時、春子は来てくれた。家に来て僕を抱きしめてくれた。寂しくて泣きじゃくる僕を優しく抱きしめてくれた。
春子は僕の
姉さんだった。それは今も、これからも変わらない。変われない。
「無理だよ」
僕の言葉に春子は泣いたまま。
「姉さんを嫌うなんて、僕には無理だよ」
最初から無理だった。僕が春子を嫌う事も、春子が僕を脅し続ける事も。
ずっと昔から僕たちは仲の良い姉と弟だった。
今でもそれは変わらないし、変われない。何があっても。
「いつかは分からないけど、梓は姉さんをゆるしてくれる。姉さんが僕と梓を助けてくれたみたいに、僕も姉さんと梓が仲直りできるように協力する」
春子の目的が何であれ、春子は僕と梓の仲直りのためにたくさんのことをしてくれた。
何度も三人で食事に誘ってくれた。
何度も三人で遊びに行く計画を立ててくれた。
何度も料理や家事を教えてくれた。
梓に嫌われていると思っていた頃、一番つらかった頃、春子は何度も僕を励ましてくれた。そばにいてくれた。
「お姉ちゃん、幸一君と梓ちゃんに最低な事をしたよ」
春子は泣きじゃくりながら僕を見上げた。
「もう、嫌なんだ」
「え?」
「大切な三人で傷つけあうのは、もう嫌なんだ」
春子の顔が悲しみに染まる。
「姉さんも梓も、大好きで大切な姉と妹だから」
僕はハンカチを手に春子の涙をぬぐった。
今日、三人の涙をぬぐった。
梓に夏美ちゃんに春子。
三人の涙の重さは変わらない。
三人とも僕にとって大切な人。
春子は僕の胸に顔をうずめた。
「ごめんね。こんなお姉ちゃんでごめんね」
僕の服を春子はつかむ。微かに震える白い手。
「お願い。お姉ちゃんにね、もうちょっとだけ時間をちょうだい。あとちょっとだけ。そうしたら、最初から始められる。幸一君のね、お姉ちゃんに戻れる」
春子は消え入るような声で囁いた。
僕を脅迫し続けた春子が初めて僕の言う事に耳を貸してくれた瞬間。
春子は分かってくれた。
もう、夏美ちゃんを裏切る事も、春子を傷つける事も、しなくていい。
大好きで大切な人同士で、傷つけあわなくていい。
まぶたの裏が熱くなる。視界がにじむ。
僕の涙が春子の頬に落ちた。
春子はハンカチを取り出して、僕の目元を拭いてくれた。春子自身も泣きながら僕の涙を拭ってくれた。
僕たちは泣きながらお互いに涙を拭いた。
涙は止まらなかった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
放課後、僕は夏美ちゃんの教室へ向かった。
夏美ちゃんの教室をのぞくと、夏美ちゃんは頬杖をついてぼんやりとしていた。
切なそうな表情。胸が締め付けられるような悲しい瞳。
僕は声をかけられなかった。夏美ちゃんの横顔がびっくりするぐらい綺麗で見とれた。
立ち尽くして見つめる僕の視線に気がついたのか、夏美ちゃんは僕の方を振り返った。途端に切なそうな表情が消え、明るい笑顔が浮かぶ。
「お兄さん!」
夏美ちゃんの声に僕は我に返った。夏美ちゃんはパタパタと僕に近づき、僕の手を握った。
小さくて温かい手。頬が熱くなるのを感じた。
「行きましょう!」
夏美ちゃんは僕に笑いかけて歩き出した。見ているだけで幸せになれそうな明るい笑顔。
319 三つの鎖 18 中編 ◆tgTIsAaCTij7 sage 2010/03/30(火) 23:04:33 ID:bAmrO5zr
僕は夏美ちゃんに引っ張られるように歩いた。
「まずは買い物に行きましょう!お父さんとお母さんからお金を渡されています。極上のお肉を買って来いって言ってました!」
夏美ちゃんは嬉しそうに買い物の話をする。どこのお店においしいお肉があるか、野菜はどこで買うか、普段は買えない高級なお肉の事。
「ビールも忘れちゃだめだよ」
「そうでした。お父さんもお母さんもお酒を好きですから、忘れたらすねちゃいます」
洋子さんと雄太さんの好きなビールの銘柄を夏美ちゃんは生き生きと話した。いつも家の冷蔵庫にあったから覚えているらしい。二人とも同じビールが好きらしい。
僕の父と京子さんが脳裏に浮かぶ。父は全くお酒を飲まない人だ。京子さんも嗜む程度。
夏美ちゃんは僕を引っ張りながら嬉しそうに今晩のすき焼きの事を話す。
幸せそうで明るい屈託ない笑顔。
その笑顔に僕は見惚れた。
「お兄さん?」
夏美ちゃんが不思議そうに僕を見た。
「何でもないよ」
夏美ちゃんは僕の手をぎゅっと握りしめた。
「私がいます」
僕を見上げる夏美ちゃん。
先ほどとは違う真剣な眼差し。落ち着いた大人びた表情。
「きっと大丈夫です」
梓の事も、春子の事も。
僕は夏美ちゃんの手を握り返した。
「…ありがとう」
夏美ちゃんの言う通りにきっとなる。
いつかまた、梓とも春子とも、仲良くなれる日が来る。
きっと来る。
僕の手を引っ張る夏美ちゃんの手。小さくて温かい掌。
その温もりが嬉しくて心強い。
風が吹く。僕は上を見上げた。
天気は良くない。どんよりとした曇り空。
それでも、きっといつか晴れる。
いつか皆との関係も、きっと良くなる。
「お兄さん?」
夏美ちゃんは不思議そうに僕を見た。
「何でもないよ」
僕は微笑んだ。夏美ちゃんも笑ってくれた。
梓とも春子とも笑い合える日が来る。
いつか、きっと。
最終更新:2010年04月15日 18:20