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三つの鎖 18 後編 ◆tgTIsAaCTij7 sage 2010/05/26(水) 18:33:01 ID:hbwZRgYX
二人で買い物袋を手に夏美ちゃんのマンションの階段を上る。
夏美ちゃんは鍵を取り出して玄関に入ると、僕の方を振り向いた。
「おかえりなさいです!」
笑顔でそう言う夏美ちゃん。
えっと、どう反応すればいいのだろう。
戸惑っている僕を目の前に夏美ちゃんはニコニコしている。
「今日、お父さんとお母さんが帰ってきた時に、おかえりなさいって言います」
夏美ちゃんは僕の手を握った。
「お兄さんのおかげです。本当にありがとうございます」
僕を見上げる夏美ちゃん。澄んだ綺麗な瞳。
顔に血が上るのが分かる。僕は思わず目を逸らした。
「その、とりあえずお邪魔してもいいかな。食材を冷蔵庫に入れないと」
恥ずかしくて言いたいことが言えない。
「そうですね」
夏美ちゃんは笑った。僕の手を握ったまま器用に靴を脱ぐ。僕も靴を脱いだ。
そのまま上機嫌に僕をキッチンまで引っ張る夏美ちゃん。
僕たちは手を洗い、冷蔵庫に食材を入れた。
二人でおそろいのエプロンをまとい、下ごしらえをする。
昨日教えた通りに夏美ちゃんは鳥の照り焼きの下ごしらえをする。
嬉しそうに、楽しそうに。本当に幸せそうな夏美ちゃん。
夏美ちゃんが動くたびに、ショートの髪が揺れる。
「お父さんとお母さん気に入ってくれるでしょうか」
「きっと気に入るよ」
ささやかな会話。それなのに心が温まる。
下ごしらえはすぐに終わった。すき焼きだし、準備はさほどかからない。
少し残念そうな夏美ちゃん。夏美ちゃんの気持ちは僕も分かる。
祭りより、祭りの準備の方が楽しい。
準備が終わって、僕と夏美ちゃんはリビングのソファーに並んで座っていた。
寄り添う僕と夏美ちゃん。はしゃぎすぎたのか、うとうととしている。
やがて夏美ちゃんは僕の肩にもたれかかって静かな寝息を立てながら眠り始めた。
安らかな寝顔。安心しきったように僕に身を預ける姿に胸が痛む。
はしゃいで疲れただけではない。ずっと心配をかけていた。
僕と梓の事を。
こうしていると、僕にとって夏美ちゃんがどれだけ大きな存在か良く分かる。
どうしようもないぐらい夏美ちゃんに惹かれている自分。
夏美ちゃんは僕にもたれかかった。そのまま僕の膝の上に上半身を預ける。起きないで眠り続けている。
ちょっと恥ずかしい。夏美ちゃんに膝枕。スカートから覗く白い太もも。
僕は脱いだ学生服を夏美ちゃんにかけた。目のやり場に困る。
のんきな表情で眠り続ける夏美ちゃん。なんかちょっと腹が立つ。
僕は眠り続ける夏美ちゃんのほっぺたをつついた。柔らかい。
微かに身じろぎする夏美ちゃん。
なんだか面白くなってきた。僕は調子に乗って何度もほっぺたをつついた。
「ん、んふぇ、しゅぴー」
夏美ちゃんが変な声を上げる。おもしろすぎる。
「しゅぴ、しゅぴです」
僕はさらに調子に乗って夏美ちゃんのほっぺたをつつこうとした。
「しゅぴです、おにいしゃん」
思わず手が止まる。
今何て言った?
「すきです、おにいさん」
夏美ちゃんの寝言。
頭に血が上る。恥ずかしすぎる。
今すぐに立ち上がって思い切り叫びたくなるほどの恥ずかしさ。
僕は何度も深呼吸した。落ち着け。夏美ちゃんが起きちゃう。
なんとか落ち着いた僕は夏美ちゃんの寝顔を見た。
安心しきったような無防備な姿。
本当は女の子の寝顔を見るなんて良くないと思う。それなのに目を離せない。
夏美ちゃんと知り合ってから、色々な事があった。本当に色々な事があった。
僕にとって悲しい出来事も、望まない出来事もあった。
それも、もう終わった。
396 三つの鎖 18 後編 ◆tgTIsAaCTij7 sage 2010/05/26(水) 18:33:43 ID:hbwZRgYX
梓も春子も分かってくれた。
もう、傷つける事も、裏切ることも、しなくていい。
いつの日か、夏美ちゃんと梓と春子と僕の四人で鍋をしたい。
いつになるのか分からないし、出来るかも分からない。梓と春子は嫌がりそうだ。無神経な事かもしれない。
でも、希望を持つぐらいは許されると思う。梓も春子も僕の大切な妹と
姉さんなのだから。
気がつくと部屋は暗くなっていた。窓の外はすでに暗くなっている。消した覚えもないのに明かりが消えている。
僕の肩に毛布が掛けられていた。膝の上の夏美ちゃんは相変わらず静かな寝息を立てている。
いつの間にか寝ていた。そして誰かが毛布をかけてくれた。
自分でもびっくりするぐらい無防備に寝ていた。
僕も疲れているのかもしれない。
しばらくぼんやりしていると、リビングに誰かが入ってきた。
「おや、目が覚めたのかい」
夏美ちゃんのお母さんの洋子さんがにやにやと僕を見た。
「すいません。寝てしまったみたいで。毛布ありがとうございます」
「なに。夏美が君の学生服を一人占めしている様だしね。気にしないで。いい絵もとれたしね」
そう言って洋子さんは僕にデジカメを向けてシャッターを切った。ピロピロリンと言う間の抜けた電子音が響く。
背中に冷や汗が流れる。ものすごく嫌な予感がする。
「ああ、安心して。もちろん二人の可愛い寝顔はしっかりと記録したから」
嬉しそうに洋子さんは言った。
脳裏に雄太さんの姿が浮かぶ。怒り狂う雄太さんの姿が。
「きっと雄太も喜ぶよ」
洋子さんはにやりと笑った。
「勘弁してください」
「勘弁?何の事かな?」
まずい。このままだと雄太さんに何をされるかわからない。
そんな事を考えていると、夏美ちゃんがむくりと起き上った。
寝ぼけた眼で僕を見つめる夏美ちゃん。
「おにいさん、だいすき」
夏美ちゃんはそのまま僕に抱きついてきた。柔らかい。寝起きなのか、少し高めの体温が温かい。
ピロピロリンと間の抜けた電子音が響く。終末を告げる天使のラッパのように。
「だいすきです」
夏美ちゃんは僕の胸に頬ずりしてくる。すごくうれしくて恥ずかしいけど、今はそれどころじゃないような気がする。
「あの、夏美ちゃん」
僕の呼び声に夏美ちゃんは顔を上げた。白くて滑らかな頬。綺麗な瞳。柔らかそうな小さな唇。
夏美ちゃんの顔がさらに近くなる。夏美ちゃんの唇が僕に触れる。
「んっ、ちゅっ」
柔らかい唇の感触に頭がくらくらする。
ピロピロリンという間の抜けた電子音が響く。僕ははっとなって夏美ちゃんを引きはがした。
「夏美ちゃん。目を覚まして」
「おにいさん、なつみのこときらいですか」
妙に舌足らずな声で僕にもたれかかる夏美ちゃん。まだ寝ぼけている。
再びピロピロリンという間の抜けた電子音が響く。
「夏美ちゃん。落ち着いてね」
僕は夏美ちゃんの脇の下に手を差し入れ、180度回転させた。洋子さんのいる方に。
夏美ちゃんと洋子さんの視線が合う。
洋子さんの構えたデジカメから再び間の抜けた電子音が響く。
「おはよう夏美。幸一君の膝の上はそんなに寝心地が良かったのかな」
意地悪そうに洋子さんは言った。
夏美ちゃんは立ち上がり、僕を見て、再び洋子さんを見た。
「み」
み?
「みゃぎぃ~~~~~~~~~~~~~~~!!!!!」
夏美ちゃんは頭を抱えて絶叫した。
「お母さん!デジカメを貸して!」
「だめだ。これは一生の宝物だ」
「むむむ!お兄さん!お母さんを押さえつけてください!」
「ほほう。私は別にかまわないよ。さあ幸一君、お義母さんの胸に飛び込んでおいで」
「やっぱり駄目です!」
397 三つの鎖 18 後編 ◆tgTIsAaCTij7 sage 2010/05/26(水) 18:34:20 ID:hbwZRgYX
じゃれあう娘と母。
僕はため息をついてソファーに座った。
洋子さんには一生逆らえない気がする。
「しかしまあ、見ていてかゆくなる光景だったね。まさか恥ずかしがり屋の夏美が男の膝の上で無防備に眠っているのだから。もう叫びだしたくなるほどの恥ずかしい光景だったよ」
さらにとどめをさしてくる洋子さん。もう許してください。
夏美ちゃんも顔を真っ赤にしている。
「特に夏美はすごかった。幸一君の学生服を離さないんだよ。寝ているのに。しわになるから代わりに毛布をかけようとしたのに、しっかり握って離さないんだ」
夏美ちゃんが震える。
「寝言もすごかった。聞いているこっちが恥ずかしくなるような寝言だったよ」
洋子さんは楽しそうに、実に楽しそうに話す。
「お母さん」
「何?」
「もう勘弁して」
両手を上げる夏美ちゃん。降伏のポーズ。
「僕からもお願いします」
僕も両手を上げた。
洋子さんはおかしそうに笑う。
その時、電話が鳴った。洋子さんは受話器に手を伸ばす。
「もしもし、中村です」
洋子さんはにやりと笑った。
「ちょっと待ってね」
そう言って洋子さんは夏美ちゃんに受話器を渡した。
「雄太だ」
夏美ちゃんの目が輝く。
「もしもし?お父さん?」
夏美ちゃんの声が弾んでいるのが良く分かる。
嬉しそうに、楽しそうに話す。
「いるよ。うん。え?いいけど…。変な事話さないでね」
夏美ちゃんは僕に受話器を差し出した。
「お父さんが代わってほしいらしいです」
僕は受話器を受け取った。
「もしもし。加原です」
『幸一君かい?娘がお世話になっている』
雄太さんの声。落ち着いた大人の声だけど、わずかに声が弾んでいるのは隠しきれない。
『あと30分ぐらいで着くと思う。遅くなってすまない』
「いえ、そんな事ないです」
『さっき洋子さんが後で面白いものを見せると言ってたけど、何か分かるかい?』
背筋に寒いものが走る。
「分かりかねます」
『まあいいや。幸一君の作るすき焼きを楽しみにしているよ。それじゃあ』
「お電話代わりましょうか」
『それには及ばない。またあとでと伝えといて。娘をよろしく頼むよ。それじゃあ』
それきり電話は切れた。
「お父さんなんて言ってましたか?」
受話器を受け取りながら夏美ちゃんは僕に尋ねた。
「あと30分ぐらいでつくのと、すき焼きを楽しみにしているって」
「じゃあ準備しましょう!」
元気よく言う夏美ちゃん。
僕と洋子さんは苦笑して立ち上がった。
準備はすぐに終わった。
もともと下ごしらえはすんでいる。食器やコンロを並べるだけで終わった。
それから三人でのんびりしていた。
「お父さん遅いですね」
ため息をつく夏美ちゃん。その言葉を何回聞いただろう。
洋子さんも苦笑している。
「よし。暇つぶしにこんなものがある」
洋子さんは大きな本を持ってきた。いや、アルバムだ。
夏美ちゃんの顔が真っ赤になる。
「お母さん!なんで見つけたの!?隠してたのに!」
398 三つの鎖 18 後編 ◆tgTIsAaCTij7 sage 2010/05/26(水) 18:34:54 ID:hbwZRgYX
「ふふふ。あれぐらい私の手にかかればどうってことない。幸一君。夏美の小さい時の写真に興味はないかい」
「あります」
「お兄さん!?」
夏美ちゃんの悲鳴を無視して僕と洋子さんはアルバムを開いた。
三人家族の写真。夏美ちゃんの写真がこれでもかというぐらいにある。
雄太さんも洋子さんも映っている。
「可愛いだろ?」
洋子さんの言うとおり、夏美ちゃんは小さい時から可愛い。
雄太さんが夏美ちゃんに甘くなるのも仕方がないと思う。
でも、洋子さんも夏美ちゃんが可愛いんだろうと思った。
アルバムには夏美ちゃんと雄太さんが一緒に写真がたくさんある。
つまり写真を撮ったのは洋子さん。
「ん?」
僕の視線に気がついたのか、洋子さんは怪訝な顔をした。
僕は笑ってごまかした。
「いつまで見ているのですか!」
顔を真っ赤にして夏美ちゃんは僕の手からアルバムをひったくった。
「ごめん。夏美ちゃんがあまりに可愛くて」
さらに顔を赤くする夏美ちゃん。湯気が出そう。
そんな夏美ちゃんを見るのがめっちゃ楽しい。
いつから僕はこんなに意地悪な性格になったのだろう。
「…今度、お兄さんのアルバムも見せてもらいます」
そう言って夏美ちゃんはそっぽ向いた。その仕草も可愛い。
その時、家のチャイムが鳴った。
夏美ちゃんははじかれたように立ち上がった。
「お父さんだ!」
駆け出す夏美ちゃん。それに続く僕と洋子さん。
三人で玄関に並ぶ。
夏美ちゃんがドアを開けた。
そこに立っていたのは雄太さんではなかった。
スーツを着た僕の父に数名の警察官。
異様で物々しい雰囲気。後ろの警察官は腰の拳銃や警棒に手をかけている者すらいる。
「中村雄太さんのお宅ですね」
僕の父が口を開いた。無表情に僕たちを見回す。
父は僕を見ても眉一つ動かさない。冷静で冷徹な警察官の顔。
「はい、そうですが」
洋子さんは呆然と応じた。
「中村雄太さんと思われる男性が遺体で発見されました。確認のためご同行ください」
何の感情も込められていない冷静な父の声。誤解のしようの無い簡潔な言葉。
それなのに、父の言っている意味が理解できなかった。
「ご同行、お願いします」
父はもう一度繰り返した
最終更新:2010年06月06日 20:22