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『きっと、壊れてる』第13話(1/7) sage 2010/12/25(土) 23:20:55 ID:hsMRLTqv
浅草浅草寺は、年間約3000万人もの参詣者が訪れる都内最古の寺院だ。
少し背伸びをして、正面玄関の雷門を抜けた先に視線を向ける。
仲見世商店街には数々の土産物屋が並び、江戸時代から変わらぬ下町情緒溢れる賑わいを見せていた。
空も青く輝き、休日の人々の心を太陽が温かく照らしている。
浩介は読んでいた文庫をバッグの中へ仕舞うと、
人混みの中からこちらに向かって歩いてくる人物に視線を向けた。
「おまたせ」
「あぁ、早かったな」
浩介の左腕に身につけた腕時計は約束の13時より10分前を指していた。
1週間と少し会っていないだけなのに、浩介は美佐と顔を合わせる事に懐かしさを感じた。
今日の美佐は緩めのトップスにめずらしくスカートを穿いている。
その太股は北海道で見た楓の太股に比べ肉付きが良く、
シャンパンのような女の色気で存分に浩介を酔わせた。
「ここが有名な雷門ですねっ? わぁ~すごいっ! ねぇ見て? 鳩がいっぱい! 蹴散らしたくなるよね~」
美佐は雷門の屋根瓦の上で休んでいる鳩を指差し、どこかわざとらしい笑顔を浩介に向けた。
「……怒ってるのか?」
「ううん、 全然! それよりホラ! あそこの人力車のお兄さん見てよ! すっごい嘘臭い笑顔! きゃはは~ 」
「……怒ってるんだな」
「当たり前だろ」
美佐は一瞬にして不機嫌そうな顔を見せると、浩介の腕を引っ張り仲見世通りへと歩いた。
雷門の下を通り過ぎる時、横目で見た金剛力士像よりも浩介には今の美佐の方が力強く感じた。
仲見世通りを抜け、宝蔵門を避け横道に入る。
比較的人が少ない宝蔵門の左手にある五重塔付近まで二人は歩いた。
「で? 言い訳はあるの?」
美佐は腕を組みながら顎を少し上げ、浩介を睨みつけた。
美佐と背後にある五重塔が、皮肉にもポストカードのように綺麗な構図だ。
それなりに怒っている時の顔を見せる美佐に、浩介は自分で情けなくなるほど恐縮していた。
美佐がこんな表情を見せるのは、4年前浩介がデートの約束を寝過ごして反故にしてしまった時以来だった。
「言い訳って……」
「彼女を置き去りにして、他の女と旅行に行ってイチャイチャしてた事に関して」
浩介が言葉を誤魔化さないように、美佐は明確な質問をした。
「イチャイチャって、おい」
「言っておきますけど、『妹だから』って言い分は通用しなくてよ?」
「その……確かに俺が軽率だった。悪かった」
「本当に反省してんの? 誠意見せて頂戴」
「……あぁ、ほらこれ。北海道のお土産」
浩介は肩から掛けていたショルダーバッグから、北海道で買ってきた美佐への土産を取り出した。
売店の名前が入った紙袋、中にはメールで頼まれたスイカ熊なる小さいぬいぐるみが入っている。
可愛くデフォルメされた熊という点は他の従来のぬいぐるみと同じだったが、
熊の体模様が緑色と黒色の縞模様、スイカの皮の模様になっているのがこの商品の特徴だった。
最近若い女性の間で流行っているとテレビのニュースで見た事を思い出し、
美佐も普通の女性と同じ感性を持つ事があるのだ、と浩介は少し驚いていた。
「きゃあぁ~! これこれ! 超かわいい~!」
美佐はそれを無言で受け取ると、おもむろに紙袋から中身を取り出し、目を輝かせた。
「これが?」
「なんか文句あんの?」
「いや……」
「ホントかわい~」
赤ん坊を愛でるような声でぬいぐるみを入っていた袋に戻し、美佐はその袋を浩介の胸の前に突き出した。
「でも今貰っても荷物になるから、帰りに渡して」
少なくとも今日中は我儘を許そう、浩介は覚悟を決めてぬいぐるみをバッグへと戻した。
386 『きっと、壊れてる』第13話(2/7) sage 2010/12/25(土) 23:21:22 ID:hsMRLTqv
浅草寺境内を簡単に散策し、二人は徒歩で建設中のスカイツリーまで向かっていた。
目で見る分には道のりはさほどない印象を浩介は持ったが、
実際に歩いてみると、かなりの距離がある。
それがスカイツリーの大きさを物語っていた。
人の少ない裏路地を、眼前に迫ったスカイツリーを目指し腕を組みながら歩く。
雲一つない青い空を背景に、その目標は清潔さを持った白く凛とした姿を浩介の眼一杯に披露していた。
「ねぇ、浩介は東京タワーとスカイツリーどっちが好き?」
かなりの距離を歩いているにもかかわらず、美佐は涼しい顔をして浩介の顔を見上げた。
「さぁ? どうせなら高い方が良いな。スカイツリーで」
浩介がそう答えると美佐は何か不服なのだろうか。
歯に何か挟まったような表情をした。
「わかってないなぁ。いい? 東京タワーはね、私達の生まれる前から東京の電波を統治してきたの。
小さい頃の浩介が鼻水垂らしてヒーロー物のテレビを観る事ができたのは、彼のおかげなんだよ? ……多分。
それを、まだ完成もしていないヒヨっ子の方が良いなんて失礼しちゃう。ミーちゃんハーちゃんだわ」
「そこまで深く考えないといけないのか? そういえば美佐は小さい頃何観てた?」
「私? テレビはあまり観なかったかも。チャンネルも少なかったしね」
「チャンネルが少ない?……あれ? 美佐って出身東京じゃなかったのか?」
よく考えると、美佐の過去の話をあまり聞いた事がない。
出身はどこか。どんな学生時代を過ごしたのか。
自分はあまり人の過去を詮索するタイプではないが、まったくと言っていいほど知らないのは不自然だ、と浩介は思った。
以前付き合っていた頃に、そのような話はしなかったのだろうか。
「あっ。その顔は気付いたね? 私の過去がベールに包まれている事を」
観客が不思議がるのを面白がっているマジシャンのような顔をした美佐が、浩介の頬を指で突いた。
「あぁ、今はまだ復縁したばかりだし仕方ないけど、昔付き合ってた頃も俺は何も聞かなかったか?
我ながらドライ過ぎる気がするんだけど」
「大丈夫、あの頃の浩介はさりげなくちゃんと聞いてたよ。大げさに言うとどんな人生を歩んできたのか。
でも私がうまくかわしてたからね、あきらめちゃったんじゃない?」
記憶にない。
そこまで自分も気にかける事はなかった、という事か。
大雑把な自分の性格に浩介は一つ溜め息をついた。
「そっか……じゃあ……今、聞いていいか?」
常識を持った人間なら、罵倒され侮蔑されても文句は言えない近親相姦という過去を持った自分を、
何も言わず受け入れ、抱きしめてくれた鎌倉でのシーンを思い出す。
浩介にとってはその思い出はセピア色などではなく、空の色からトンビが飛ぶ姿、波の音まで鮮明に記憶している。
その一生忘れる事のない人生のピースを与えてくれた美佐に何か抱えている過去があるならば、
自分が癒し、しがらみを取り払ってあげたい、浩介は右手の拳を強く握り締めた。
「まだだめぇ~。浮気癖が治ったらね?」
「言えない理由でもあるのか? いや、変な事を疑っているわけではないんだけど」
「う~ん。一つだけ、話すのにはまだ勇気がいるエピソードがあるかな。
でもね、浩介はきっと受け入れてくれると思う。だから私はあまり気にしていないんだ」
「じゃあ他のは?」
「なんか謎のままの方がかっこ良いじゃん」
「確かに。ヒーローは謎を抱えているもんだ」
浩介がそう言うと、さっきまでの不機嫌が嘘だったように、人懐っこい笑顔を見せた美佐は、
抱いている浩介の腕をより一層強く締め付けた。
浩介には何が美佐をこんなに上機嫌にさせたのか、自分の発言を振り返ってみたものの、一向に答えは見つからず、
気付けばスカイツリーを鑑賞しに来た人々の波に紛れていた。
387 『きっと、壊れてる』第13話(3/7) sage 2010/12/25(土) 23:21:47 ID:hsMRLTqv
「ねぇ、浩介」
「ん? もう時間か?」
ベッドの脇にある灯りを付けると、まだ1時間ほど時間が余っている。
一糸纏わぬ姿の美佐は、浩介の左腕の中でいつものように足を絡め浩介の胸板を枕にしていた。
「違う、あのさ……ちょっと真面目な話」
声に真剣さを感じた浩介が顔を窺うと、美佐はめずらしく神妙な面持ちをしていた。
睫毛をパタパタと閉開している。緊張している様子だった。
「何? さっきの続きか?」
「違う」
「悩みか?」
「はぁ……あのねぇ、私がウジウジ悩み事抱えて、彼氏に相談する様なお淑やかな性格だと思う?」
「いや。でも俺の知らない美佐もいるんだろ? きっと。別に変な意味ではないけど、恋人なんてお互い知らない事ばかりだよな」
先程の事といい自分は美佐をどこまで知っているのか。
美佐の中では自分はどの程度の存在なのか。
答えのない海を泳ぐのが好きな自分に、浩介は苦笑いをした。
「……じゃあ、恋人やめようか?」
「えっ?」
「結婚しようよ。私と」
ラブホテルの一室で二人の時は止まり、浩介は無音が響き渡るという珍しい体験をした。
「俺と……か?」
「あんた双子で毎回入れ替わってんの? それともコピーロボットかなんか?」
「いや、違うけど……」
美佐の提案は、復縁を果たしてからというもの、浩介も常々考えていた事だった。
年齢的には少し早いかもしれないが、周囲で異端のレッテルを貼られる程、若いわけでもない。
この先、美佐以上に惹かれ、自分の過去も現在も受け入れてくれる女性が現れるとも考えられない。
「そうだな……俺も美佐と一緒に生きて行きたいと思っている。ただ……」
「あ~皆まで言うな。わかってる、わかってる。茜ちゃんの事が気掛かりなんでしょ?」
「……あぁ」
現在は楓の方に悩まされている、という事を浩介は美佐に告げるべきかどうか迷っていた。
楓はまだ若い。
先日の飛行機内での事も、精神的に不安定で性に興味があって仕方なかったのだ、と自分に言い聞かせ、
誰にも話さずに墓場まで持っていく事も可能だった。
自分の行動の過ちに気付き、後悔してくれればそれでいし。
「私もあの子の事は何かと心配だからね。浩介の気持ちはわかる。
だからとりあえず口約束でいいの。返事はイエスって事でいいよね? 断ったら鼻水を顔に付けてやる」
「もちろん。本当は俺の方から言うべきなのかもしれないけど」
指輪がいる、式は挙げるのか、新居はどうする。
様々な事が頭を駆け抜ける。
散々妹の体と人生を弄んでおきながら自分だけ先に幸福を掴むつもりか、と心の声が脳裏に響いた浩介は、
頭を左右に振り払い、これで正しいのだと信じる事しかできなかった。
「へぇ……意外。てっきり『茜に良い人が見つかるまでは~』とか自己満足でしかないセリフが聞けると思ったのに」
「……もう俺がしてきた事は取り返しがつかない。一生恨まれても構わないんだ。
なら、茜と俺はもう終わったんだって示してやる事が俺にできる精一杯だと思う」
「ぷっ、結局自己満足には変わりなかったね!」
美佐は吹き出し、堪えるように浩介の胸の上で小刻みに震えた。
「そうだ、自己満足だ。もうどんな行動を取っても自己満足で自分勝手な最低野郎である事に違いないさ、俺は」
「そして、自己満足で自分勝手な最低野郎のオナニーショ……失礼、自己満足ショーに私は付き合わされるわけね」
「そうだな。でも美佐はそれをわかってて、結婚してくれるんだろ?」
「モチのロン。どうせ浩介がどんな贖罪したって、茜ちゃんの為になる事なんて一つもないんだから、
浩介の好きに生きた方が得だと思うよ? 私はおもしろそうだから、そのお手伝い。嬉しいでしょ? こんな物好きな女、中々いないよ」
「はははっ、そうだな」
二人はベッドの中で再び抱きしめ合い、笑いあった。
幸せの定義などわからない。浩介にとって、自分と茜と楓。
そして気付いた時には、美佐が笑ってくれる事が浩介の人生の目標になっていた。
388 『きっと、壊れてる』第13話(4/7) sage 2010/12/25(土) 23:22:14 ID:hsMRLTqv
太陽の光が自分の体力を奪っている事を感じる。
蝉が鳴いているのは、この暑さで削られていく自分の命を嘆き悲しむ別れの詩なのではないだろうか、と考えると、
今自分が立っているこの隅田川のテラスも、どこか有名な演劇団が観客を沸かせる素敵な舞台になっているような気がした。
「遅かったわね、私をあまり待たせないで。あなたと違って忙しいの」
楓は暗い表情をして自分の真横で立ち止まった巧を睨みつけると、左手で長く美しい髪をかき上げた。
遅いと言っても自分が急に呼び出した上に、5分程しか約束の時間は過ぎていない。
しかし、巧の忠誠心を高く見積もっていた楓にとって、その5分間に不安を掻き立てる何かを感じていた。
「……あぁ、悪い」
声も聞き取り辛い程に小さい巧に、楓は心の中で舌打ちをして巧の顔を真正面から凝視した。
「何? 体調でも悪いわけ? 」
「……いや、大丈夫」
「ならハッキリと喋ってよ。今日呼び出したのは他でもない、あなたが玉置美佐に引導を渡す日が近いわ。
その事についての最終確認。しっかりとしてもらわないと困るのだけど」
「あの……その事……なん……だけどさ……やっぱ、やらないとダメかな」
下を俯きながらボソボソと喋る巧を見た楓は、わざと大きくため息をついた。
そのような心境になった経緯はわからないが、一番重要な仕事を任せられる男の表情ではない。
しかし、今さらこの男を解放した所で楓にメリットはなく、どうにか巧のやる気を取り戻す方法しか取れないのが現実だった。
「そんな事言わないで。どうかしたの? あなたにここで降りられると、私も困るわ。あなた意外に頼れる人がいないのよ」
我ながら、芝居臭いセリフだと思った。
だが、それを見抜いていても、男という生き物は惚れた女の手前騙されてしまうのが性だ、という事も楓は理解していた。
「……俺達のやっている事が最低に思えてきたんだ」
「最低?」
「あぁ、あの人は……ただ純粋に村上浩介って人に恋をしているだけだと思う。それを邪魔している俺らはなんなんだろうっって」
「それを承知で引き受けたんじゃないの? 今更そんな事言われてもね。それに、あの女のやっている事は泥棒よ」
「泥棒?」
「そう、村上浩介は恋人が居たの。色々な事情があって、その事を公にできない二人に目を付けて、
あの女はその女性から村上浩介を奪ったのよ? 多分、人の物を奪う事でしか自分の価値を認識できない人種よ、彼女は。それこそ最低じゃない?」
「それ、本当か?」
「嘘言ってどうするのよ。あなただから言うけど……私はその女性の妹。
悔しいの、許せないの、笑顔で
姉さんの幸せを奪ったあの女が。姉さんは今も彼を失った事に心を痛めながら抜け殻のように生きているわ。
見ているこっちが病んでしまうような悲しそうな表情。あなた経験した事ある? 大好きな家族が人が変わった様に無表情になって
笑わなくなってしまったり、天気の良い休日でも家に閉じこもって1日中何か考え事をしているのを遠目から眺める、そんな経験した事あるの?」
自分にあるすべての演技力を尽くし、楓は姉を想う妹を演じた。
アカデミー賞を受賞した女優とでも張り合えるぐらいの迫力を出せた自分に驚きながらも、
これは演技ではない、自分の当時の思い『そのもの』なのだと気付いた。
「……ごめん」
「いいわ、私も言い過ぎた。ごめんなさい、あなたとは短い付き合いだけど、つい自分の内面をさらけ出してしまうの。
私だって、こんなやり方できればしたくなかった。でも……表立って抗議してしまったら姉さんに気付かれてしまう。
そうしたら姉さんはもっと傷ついてしまうもの。姉さんが好きになった人と、あの汚い女が幸せに暮らす事だけは許せなかったの」
「……そうだよな、そんな人が幸せになっていいはずなんて……ないよな」
巧の声に自信のような物が戻ってきているのを楓は感じた。
おそらく良心が痛んでいただけで、楓へ尽くしたいという気持ちは変わっていなかったのだろう。
手駒を失いかけた楓は安堵するように、手で涙を拭くふりをして薄く笑った。
ここで、巧を失っていたら自分が玉置美佐と対峙しなくてはならない。
もし、今まで茜と美佐が接触した事がなかったとすれば、『茜』だと偽って会う事も可能かもしれないが、
顔を覚えられ、浩介達の家に乗り込まれでもしたら面倒になる事は確実で、
美佐を城門の中には入れず、矢や大砲で追い払うのが現時点で楓のできる最良の方法だった。
389 『きっと、壊れてる』第13話(5/7) sage 2010/12/25(土) 23:22:47 ID:hsMRLTqv
「わかった。これまでの話通り、俺に任せてくれ。」
「ありがとう。じゃあ、詳細を言うわね。とりあえず、私とあなたがこうして対面で会うのは、決着が着くまでこれが最後」
日差しが今まで以上に強くなったため、楓はお気に入りの黒い日傘を差した。
実家に置いたままになっていた、茜のお下がりだった。
「無駄な不安要素は消しておく、という事か?」
「えぇ、ここはけっこう気に入った場所だから使っていたけど意外に目立つのよ、橋の上からでも見通せるから」
巧は300m程離れている橋に視線を向けた。
確かに歩いている人の性別は判別が可能であり、服装も含めれば十分個人が特定できるレベルだ。
「そうだな、それがいいかもしれない。連絡は電話で?」
「そう、これまで通り私から連絡するわ。安心して? すべてが終わった後でも音信不通になったりはしないから」
「あぁ、信じるよ」
「それで、次に私があなたの携帯を鳴らす時は、別に出なくても良いわ」
「察して、玉置美佐に例の物を届けろって事か?」
先程までの表情とは打って変わって巧の顔に生気が戻っていた。
自分の行動に正義感を覚えたのか、むしろ誇らしそうなその真剣な眼差しに、楓は頼もしささえ感じ始めていた。
「理解が早くて助かるわ。やはりあなたは私が選んだ人ね」
「……次に俺の携帯電話の画面に公衆電話と表示されたら、俺は玉置美佐に例の物を届ける。それでいいんだろ?」
「そう、頼むわね。あれを確実に渡してくれさえすれば、玉置美佐は逃げたくなるはず。
もしくは、仮にあなたが言う様に玉置美佐が村上浩介に本気だったとしたら、暴露されるのが怖くて自分から身を引くはず」
「そっか。……じゃあ、俺行くな」
靴紐を結び直し、巧は腰掛けていたベンチから立ち上がった。
「えぇ、気を付けて。……あっ、今日話した内容は……」
「わかってるよ。誰にも言わない。二人だけの秘密だ」
巧はそう言うと、自分の言ったセリフで恥ずかしくなったのか、少し俯きながらテラスの階段へと歩き始めた。
そして3歩か4歩進んだ場所で立ち止まり、まだ川の方を眺めていた楓の方を振り向いた。
「なぁ!」
「何?」
まだ何か伝え忘れていた事があっただろうか、楓に心当たりはない。
自分で振り向いたにもかかわらず、巧は照れ臭そうにしていた。
普段なら不快に思う他人の行動も、なぜか今日は感じない事を疑問に思った楓は、
動揺を悟られないように日傘で自分の顔を隠した。
「一つ約束してくれないか? 俺が終わりにしてやるから…… もうこういうのはナシにするって」
「こういうの?」
「だから……嫌がらせとか、どんな理由があってもだ。負の感情が君の人生になってしまっては駄目だ」
「……まるで、ドラマの主人公みたいな事を言うのね」
なるほど、確かに現実世界で人に発するには恥ずかしい言葉だ、と楓は納得した。
「君の……いや、なんでもない」
「何よ? 言いなさいよ」
「本当は……嘘なんだろ? お姉さんの話。いや、俺がそう感じただけだから、真実だったらごめん」
今自分はどんな表情をしているのか、想像するだけで寒気がする。
日傘で顔を隠していて良かった、と楓は思った。
「ふざけないで。全部真実よ。……でも、なんでそう思ったのか聞いてあげる」
「俺さ……ウチの両親昔から仲が悪くて、小さい頃から人の顔色ばかり窺って生きてきたんだ。
『お母さんは今機嫌が悪いから良い子にしていよう』とか、『お父さんは今機嫌が良いからおもちゃを強請ってみよう』とか。
だから、
なんとなく人の感情が表情や声から読み取れる気がするんだ。いや~大学でもさぁ、みんなの本音って言うの?
本当は俺の事なんて友達と思っていない、ってのをヒシヒシと感じちゃったりして、それで今あまり通っていなかったり……。
……だから……なんていうか、君のさっきの言葉、本当にお姉さんの事を想っているというのが伝わってこなかった。
でも、君がそう言うのなら騙されよう、素直に従おうって思ってたんだけど、それも違う気がするんだ」
そう言うと、巧は申し訳なさそうに苦笑いをした。
だが楓の目の位置にある日傘の表面をしっかりと見据えているのが、日傘越しでも楓は感じ取る事が出来た。
390 『きっと、壊れてる』第13話(6/7) sage 2010/12/25(土) 23:23:32 ID:hsMRLTqv
「……そう、じゃあ仮に、あなたの言う通り嘘だったらどうするの? いえ、あなたは嘘だと思っているんでしょ?
どうするつもりなの?」
「君の言う通りにするよ。ただ、さっき俺が言った事も守ってもらう。もうこういうのはナシだ」
「それで?」
「えっ? それだけだけど」
「あなたのメリットについて聞いているの。私の人生をあなたの言う立派な人生に矯正したとして、あなたは何を得るの?
……ふふっ、自分で言っていて笑ってしまうわ。本当にドラマみたいなセリフね、お互い」
「……正直に言う。本当は……俺、君の事を性的な目でしか見ていなかった」
「でしょうね。ナンパで誠実な恋愛を求めているのもおかしな話だわ。それを承知で私もあなたに頼み事をしたのだからお互い様よ」
「そうだな。それで、つい最近まで君の事を……その……無理やり襲ってしまおうと思ってた」
「報酬の私とのデートとやらで、という事よね?」
「あぁ」
「まぁ、想像できる範囲ね。あなた普段はモジモジしてるくせに、潜在的にはサドなのね」
「すまなかった」
「別にまだ何もされていないし、謝られる筋合いはないわ」
「……」
「それで? 自分の手の内を私に暴露してしまい、その望みも叶えられる可能性が無くなったあなたは、
私のお使いをこなして、その後の私をあなたの言う立派な人生にする事で、何を得るの?」
巧の答えを真剣に聞きたくなった楓は、日傘を折りたたみ巧の顔を真正面から睨みつけた。
「わからない。けど、俺が言ってる事は間違えていないと思う」
「……埒があかないわね。とりあえず、今は打ち合わせ通り動いてもらう。
私の言った事が真実であれ虚偽であれ、どちらにせよあなたは動いてくれるのでしょう?」
「あぁ、そういう事になるな」
「なら、話は早いはず。その後の
私の生き方について熱く語るのは、事が終わってからにして頂戴」
「わかった。……じゃあ行くわ」
蝉の声は相変わらず鳴り響き、川は太陽を反射してキラキラと輝いていた。
今度こそ一度も振り返らずに、テラスから去ろうとしている巧の背中を睨みつけたままの楓は、
小さく舌打ちをした。
他人に素の感情を表に出す事など久しい楓は、不思議な敗北感に包まれ、
巧の姿が見えなくなってからも、しばらく階段を睨み続けた。
「ただいま」
「お帰りなさい」
美佐と夕食を取り、浩介が自宅に着いたのは午後9時頃だった。
夕食中だったようだ。
茜はホワイトシチューをスプーンですくい一口味わうと、浩介のお茶を入れようと立ち上がった。
「いいよ、食事中だろ? 自分で入れる」
「そう、じゃあお願い」
茜はいつも通り、外着と判別がつかないような小奇麗な格好だったが、
コンタクトではなく眼鏡をかけている。
今日は休日という事もあり、一歩も外へ出なかったようだ。
「今日は? 家でずっと仕事?」
最近替えたばかりである食事テーブルの向かいに浩介は座り、
茜がシチューを飲み込むのを見計らって、声を掛けた。
「えぇ、とは言っても15時ぐらいまでだけど。それ以降はのんびりとしていただけ」
「茜は本当にインドアだな。たまには外出た方が良いぞ」
白く細い茜の腕を見て、猛暑日に外出でもしたらパタリと倒れてしまうのではないか、と浩介は少し冗談めいた不安を感じた。
「ふふふっ、大丈夫。これでも中学、高校と皆勤賞だったんだから」
そういえば、茜が学校を休んでいるのをあまり見た記憶がない。
二人で家を出た時は、茜は卒業を控えた高校3年生だったか。
毎朝セーラー服姿で自分を起こしてくれたのだ、と浩介は思い出した。
「楓は予備校の友達とご飯食べるから遅くなるって」
「そうか……そういえば、さ」
「何?」
「茜と楓って今寝室一緒だよな?」
「他に部屋があれば別々にするけど? それとも兄さんが私と寝る?」
391 『きっと、壊れてる』第13話(7/7) sage 2010/12/25(土) 23:23:58 ID:hsMRLTqv
声の質と表情で浩介は判別した。
これは本気ではない、冗談だ。
「ははっ、茜は寝相が酷いから遠慮しておくよ。それよりも……楓って、茜と一緒の時は自分の事を何て呼んでるんだ?」
今夜の茜との会話。
浩介には目的が2つあった。
1つは楓の事をさりげなく聞き出し、一連の真意を掴む事だった。
あの深夜のホテルでの行動と、飛行機内での行動。
常軌を逸した行動をした2人目の妹に、これ以上道を踏み外させるわけにはいかなかった。
「自分の事? 『かえで』だけど? どうかしたの?」
「いや、大したことじゃないんだけど」
どうやら、楓は茜の前では浩介の認識である『元気が良い妹』のようだ。
浩介と二人きりの時だけ見せる楓は、所謂『大人の女』を演じているだけなのだろうか。
背伸びしたがるのは10代の内はよくある事だ、それだけなら気にはしない。
「なんか最近様子がおかしいとか、そういうのはないか?」
「特にはないと思うけど。楓がどうかしたの?」
少し踏み入りし過ぎたか、浩介は2つ目の目的を今ここで茜に打ち明けてしまおうと思った。
「えぇっと……あのさ、今度の週末……美佐がウチに遊びに来たいって言ってるんだけど……」
夕食中、美佐が言い出した事だ。
浩介と茜が関係を断ってから1カ月以上が過ぎたのだから、
茜も気持ちの整理が付いているだろう、というのが美佐の理屈だった。
浩介は先日のホテルでの茜の目を思い出した。
何事にも動じない、世界をすべて見渡しているかのような瞳。
その記憶が浩介の勘違いでなければ、まだ茜は自分の事を想っている、と結論付けられる。
しかし、茜は楓とは違い、何の行動も起こさない。
むしろ美佐と付き合っている自分を陰でしっかりと支えてくれている印象を浩介は持っている。
ホテルでの茜がどうかしていた、と自分の都合の良いように信じる事にした。
最低な事は理解している。だが、もうそんな事を言っていては誰も前に進めないのだ、と浩介は握り拳に力を込めた。
「美佐さん?」
「あぁ、だから、楓の……ほら、言葉遣いとか! あいつら初対面だろ? 一応お客さんだし、失礼のないようにしようと思って」
浩介は茜の顔を恐る恐る見た。
思ったほど強張ってはいないが、やはり複雑そうな表情だ。
「……そう、なら大丈夫じゃないかしら。あの子はもう、ある程度大人よ。お客様に失礼な事なんてしないと思う」
「そ、そうか。ならいいんだ。じゃあ……茜も日曜日は家に……いる……だろ? よろしく頼む」
「えぇ、わかったわ。じゃあ、週末は美佐さんに以前褒めてもらったカニクリームコロッケでも作ろうかしら」
「あぁ、喜ぶよ。きっと」
浩介は安堵し、茜に感謝した。
気付けば茜にはいつも感謝している。
日々の生活の事。自分の一方的な別れ話を受け入れてくれた事。今回の事。
茜はクリームシチューを平らげたのか、いつの間にかコーヒーを飲んでいた。
小さく柔らかそうな唇でコーヒーを少し啜った茜は、ゆっくりと浩介の目を見た。
「兄さん」
「ん? 何?」
「兄さんは何も心配しなくていいのよ」
「えっ? あ、あぁ」
茜は微笑んでいた。
優しい香りがした。
浩介にはその言葉が、週末の事を指しているのか、楓の事を指しているのか、どちらかわからなかった。
第14話へ続く
最終更新:2011年01月05日 19:58