490 名前:夏の綾 ◆5SPf/rHbiE [sage] 投稿日:2007/06/06(水) 04:10:47 ID:tq075IaU
支倉家の夏を支える冷房は、各部屋に置かれた扇風機が主である。
木造の少し古い造りの住宅は、いくつか窓を網戸にしておくだけで風通しが良く、扇風機だけでも快適に過ごすことができた。
クーラーをつけようと陽一が提案したこともあったが、綾は電気代が高くつくからと却下した。
実際のところは、各部屋にクーラーをつけると陽一が自室にこもりがちになって、今までのように一緒に居られなくなるのではと思ったからなのだが。
その晩も扇風機が回る居間で、陽一は本を読み、綾は家計簿をつけて、各々夕食後のひと時を過ごしていた。
窓から流れる夜風に風鈴がちりんと揺れる。
「……ねえ、お兄ちゃん」
不意に綾が口を開いた。
「ん?」
「もう明日から夏休みなわけだけど」
「ああ、そうだな」
「お兄ちゃんって、彼女いないわよね?」
突然の問いに、陽一は持っていた本を取り落とした。
「な、何でそんなこと……」
「いないわよね?」
「まあ、いないけどさ」
「つまり、今年の夏も一人寂しく過ごす、と……」
綾は家計簿を閉じると、深々とため息をついた。
「情けない……」
「え?」
「情けないって言ったのよ! いい若い者がそんなことでどうするのよ!」
「い、いきなりだな、おい」
「いきなり心配になったのよ! お兄ちゃんの今後が!」
綾はびしりと陽一の顔に指を突きつけた。
「生まれてから十七年間、彼女の居た気配なし! よくわからん女に痴漢と決め付けられ、私が告白された時はまともに相談に乗れず、中学生の色仕掛けにもめろめろになる始末!
まともに恋愛が出来るのか、悪い女に引っかかるんじゃないか、妹として心配するなって方が無理でしょう!?」
「す、すまん」
本当は彼女なんて出来たら一番困るのは綾であり、数年にわたってそれを全力で防いできたのも綾自身なのだが、陽一はそんなこと知る由も無い。
ただ勢いにのまれて謝った。
「というわけで決めたからね」
「何を?」
「この夏はお兄ちゃんを鍛えてあげる。女の子とまともに付き合えるように」
「え?」
「頼める人も居ないでしょうし、ひとまず私が相手になるからね」
「ちょ、ちょっと待て! 意味がわからん!」
「夏休み中は私を恋人と思っていいわよ。私もお兄ちゃんを恋人と思って接するから」
さすがに慌てて陽一は手を振った。
「いや、いい、いいから……それは変と言うか、まずいだろ」
「何よ、お兄ちゃんは一生恋人いらないの? 女の子に興味は無し?」
「そりゃ俺も男だし、無いわけじゃないけどさ」
「あのね、お兄ちゃんが女で身を持ち崩したとき、一番被害を受けるのは私なの。だから少しは女の子との付き合いに慣れていてもらわないと困るのよ」
「う……」
「だいたいね、可愛い妹が貴重な休みを潰して付き合ってあげようってんだから、少しは感謝しなさいよ」
「いや、でも……」
「だまらっしゃい! もう決めた! 明日はデートよ! わかった!?」
問答無用とばかりにテーブルを叩いて、綾は叫んだ。
491 名前:夏の綾 ◆5SPf/rHbiE [sage] 投稿日:2007/06/06(水) 04:12:01 ID:tq075IaU
事の起こりはアキラとの一件であった。
中学生の少女が兄の性欲を刺激したことに、綾は強い衝撃を受けた。
「陽一は女性に対する欲望を持った、一人の男である」
そのことを強く意識させられたのだ。
そして、陽一が男としての反応を自分に対してただの一度も見せたことがないことに気がつき、さらに動揺した。
(お兄ちゃんにとって、私は女ではない……?)
綾は今までずっと妹として陽一の傍についてきた。
陽一に見えないところで尋常ならざる独占欲を抱いても、表面上は兄想いの一人の妹として振舞ってきた。
妹として振舞ってきた以上、陽一からしたら綾は家族であるというのが道理だ。
(私は持ちうる全ての愛情をお兄ちゃんに注いでる。その自信がある。けど……お兄ちゃんが私に抱いているのは……)
家族愛――その言葉が、綾の胸に重く突き刺さった。
家族の絆と男女の絆、どちらが強いのかはわからないが、たとえ一部分にせよ、陽一の愛が自分以外に向けられることは許されることではない。
だからこそ陽一に近付く女は全力で遠ざけてきたし、いざとなれば殺すことも厭わなかった。
しかし、殺しても殺しても、次から次に陽一と関わりをもつ女は現れる。
終わりのない嫉妬の渦に、どうすれば良いのかずっと悩んできた。
「……簡単なことだったんだ」
陽一に近付く女たちだけではなく、自分や陽一にも原因があったのだ。
「お兄ちゃんと、男と女の関係になれば良かったんだわ……他の誰も入り込めないように」
家族愛と男女愛の二つを得れば、もう陽一の愛は全て自分のものだ。
綾はこの結論に至るきっかけとなったアキラに、心の底から感謝した。
せめて楽に死なせてやれば良かったと、今更ながら哀れんだ。
陽一と男女の関係を結ぶことは、想像するだけで笑みがこぼれてしまう、素晴らしく甘美で魅力的な世界だった。
近親愛が世間でどう言われていようと、法律で禁じられていようと、綾にはそんなことは関係ない。
問題は陽一の方だった。
「お兄ちゃん大好き! 恋人になって!」
「よしわかった!」
で済むなら問題は無いが、そう簡単にはいかない。
「あれでそれなりに倫理観はある人だから……」
もし真正面から行こうものなら、さすがに引かれてしまうか、陽一を大いに悩ませてしまうことになるだろう。
いずれにせよ、綾の望むところではなかった。
ならばどうすればいいか。
陽一が自然に、一人の男としての女に対する興味を、自分に抱くよう仕向ければよい。
勉強熱心な綾は、本を読むなどしてその具体的な手段を得ようとしたが、どうにもはっきりしなかった。
近づく人間を遠ざけることで陽一を独占してきた綾は、他人を排除することには人並み外れた力を発揮しても、自分に好意を向けさせるという一般的な恋愛については、まったくダメだったのである。
結局綾は、終業式が終わった学校の帰り、冷房の効いた喫茶店で、小夜子からの助言を受けることにした。
492 名前:夏の綾 ◆5SPf/rHbiE [sage] 投稿日:2007/06/06(水) 04:13:15 ID:tq075IaU
「んっふっふ。ようやく綾もそういうの気にするようになったのね」
「悪かったわね。ようやくで」
「悪くない悪くない。嬉しいような寂しいような、複雑な気分だけど……」
コホンと、小夜子は一息ついた。
「その人とは話をしたりするの?」
「別に相手がいるわけじゃなくて、ただ一般論として知りたいだけよ」
「ふーん……?」
小夜子は疑わしげに綾を見たが、まあよしと話を進めた。
「まあ……男の人っていうのは、確かにいろんな好みを持ってもいるけど、そういうのは気にせずに、一緒に遊びに行ったりして二人で過ごす時間を増やせば、自然と相手も好きになってくれると思うよ」
「そ、そういうものなの?」
「あれよ。どこかの心理学の実験によると、人間が他人と顔を合わせたとき、初めに好感を持てば、あとは接する時間に比例してその人への好意は増加していくらしいのよ」
「ふーん……」
「逆に悪感情を抱いた後だと、接する時間に比例して嫌悪感が増すから、その辺は注意が必要らしいけどね」
「第一印象をしっかりとして、後は一緒の時間をつくるようにすればいいってこと?」
「いいってこと。そのうち相手の好みとかもわかってくるだろうしね」
ふむ、と綾は腕を組んで考えた。
一緒の時間はたくさんある。
何しろ家族なのだから、世界で一番陽一と接している時間は長いだろう。
しかし、それで陽一との間に何か恋人めいた関係が生まれたかというと、まったくそんなことは無い。
「やっぱり、『男女として』っていうのが大切なのかしら……」
陽一が自分に悪感情を持っているということは、とりあえず無いだろうから、第一印象の点はクリアしていることになる。
後は、家族としての時間ではなく、男女としての時間を過ごせれば――
「ねえ小夜子、男と女として過ごす時間っていうのは、どんなのかしら?」
「え……えーと……エッチとか?」
「……あまり過激じゃないやつで頼むわ」
「デートとか?」
「デート、か……」
493 名前:夏の綾 ◆5SPf/rHbiE [sage] 投稿日:2007/06/06(水) 04:14:23 ID:tq075IaU
そんなわけで七月二十一日、陽一と綾は隣町の百貨店にやってきた。
「まずはデートの基本。ショッピングよ」
「……まあ、買い物に付き合うのはいいんだけどさ」
言って、陽一は傍らの綾を見る。
綾は自分の腕を陽一の腕に絡め、ぴたりと陽一にすがり付いていた。
「その……くっつき過ぎじゃないか?」
「恋人なんだから、くっついてるのは自然でしょ」
「というか、暑いしさ」
「あのねえ、誰のためにやってると思ってんのよ! 暑さぐらい我慢しなさいよ!」
綾はいつもはツインテールに結んでいる綺麗な髪を背中に流し、一見すると別人のようである。
普段と違う姿をした方が、兄に家族としての感情以外の何かを抱いてもらえるのではと、綾なりの試行錯誤の結果であった。
口を開いてみるといつも通りだが、外見に関しては活発な印象が薄れ、どこか清楚な雰囲気をかもし出していた。
「ねえ、いつもの髪型と、こっちと、どっちが可愛い?」
「まあ……好みとしては今日のかな。ロングヘアーは好きだし」
その言葉に綾はますます元気になり、陽一の腕に強くしがみついた。
「ふふ。今日は服とかきっちり見てもらうからね」
「お前、着る物ってそんなに気にしたっけ?」
「気にするわよ。それなりに」
実のところ、これまで綾は、服や装飾品にそれほどこだわりを持っていなかった。
服はあまりにひどいものでなければそれでいいし、装飾品は料理のときや体を動かすときには邪魔になるので、むしろ無い方がいいと思っていた。
しかし、陽一の好意を得ようとしたら話は別だ。
服にも装飾品にも気を遣い、陽一の好みの姿になる必要があった。
この日のデートは、単純に恋人としてデートをするという以外に、陽一の好みを探る目的もあったのである。
「というわけで、お兄ちゃん、はっきりと意見を言うのよ? いいかげんにしてたら張り倒すからね」
「素朴な疑問だけど、恋人同士ってそんなことで張り倒すものなのか……?」
「今までこういうのは着たことないけど、どう?」
陽一の質問は無視して、綾はいくつかの服を試着して意見を求めた。
ミニのフレアスカートから綺麗な脚をのぞかせ、胸元の開いた露出の高いシャツを合わせてみる。
いわゆる女らしさのアピールだが、陽一の反応は芳しくなかった。
「うーん、微妙かも」
「じゃあどういうのがいいのよ。参考にするから聞かせなさいよ」
「そうだな……」
陽一の示したものは、薄手の長袖シャツに、膝下までのスカートという、いつも綾が着ているものと似たような取り合わせであった。
「えー……何だかいつもと変わらないわけだけど」
「まあそうだな。変わらないな」
「あ、そ、それってひょっとして、私の普段の格好って、お兄ちゃんの好みだったってこと?」
思わず声をうわずらせて聞く綾に、陽一は首を横に振った。
「いや、俺の好みってわけじゃないけど……」
「じ、じゃあ、他の人に私の肌を見られるのが何か気に食わない、とか……?」
さらに期待の眼差しで見る綾に、やはり陽一は首を横に振る。
「いや、そうじゃなくて……お前、お腹強くないだろ?」
「は?」
「ミニスカートや生地の薄いシャツだと腹が冷えちゃうからな。下痢には要注意だ」
「げ……り……?」
「どうだ、参考になったか?」
「ならんわ!!」
陽一は何度も張り倒されたが、それはそれで楽しい買い物であった。
494 名前:夏の綾 ◆5SPf/rHbiE [sage] 投稿日:2007/06/06(水) 04:16:22 ID:tq075IaU
七月二十五日、陽一と綾は隣町にある大きなプールにやってきた。
「……ここでなら、お兄ちゃんも女としての私に、少しは刺激を受けてくれるはず……!」
この日の目的は、陽一に女として迫ることであった。
プールという場でなら、自然に己の体を見せつけて、普段は恥ずかしくてできない迫り方をすることが出来る。
というわけで、綾はこの日のデートのために作戦を練り、気合を入れて臨んでいた。
――作戦その一、大胆水着で迫ってみる。
綾がこれまで着たことのある水着といったら、基本的にワンピース型の露出の少ないタイプであったが、この日は思い切って水色のビキニを身につけてみた。
(ちょっと恥ずかしいけど……これならお兄ちゃんも……!)
期待と緊張に胸を鳴らしながら、更衣室を出て、陽一の前に進み出た。
「ど、どう? この水着」
「……お前、前も言ったけど、腹壊してもしらないぞ?」
「それだけか!」
終了。
――作戦その二、腕を組んで迫ってみる。
綾は腕を組む際に、胸を陽一の腕に押し付けるようにした。
これまでも時折やっていたことだが、今回はまた状況が違う。
陽一の腕と綾の胸とを隔てるのは、薄いビキニの水着一枚のみである。
(さすがにこれは、意識せずには居られないはず……!)
ぴったりと兄の腕に胸を押し付けて、ちらりと表情を窺う。
陽一はというと、真剣な表情でどこか遠くを見ていた。
「……?」
一体何を見ているのか。
陽一の視線を追うと、その先には、大きさも形も申し分ない、はちきれんばかりの胸を瑞々しく揺らすお姉さんの姿があった。
「ち、小さくて悪かったわね……!」
綾は陽一の脛を思い切り蹴飛ばした。
――作戦その三、ストレッチで迫ってみる。
プールに入る前の準備運動でも、陽一にアピールして見せた。
まずは自分のストレッチの際、陽一に見せ付けるように股を開き、脚の筋を伸ばした。
水着に包まれた秘所が、完全に陽一の視界に入るようにである。
一瞬息を呑む気配がして、今度こそやったかと陽一の表情を窺うと――とてもわくわくした目で見られていた。
「お前体柔らかいな! 俺と体前屈勝負するか!?」
「子供かあんたは!」
まだまだ綾はくじけない。
今度は陽一のストレッチを手伝うということで、背中からのしかかるようにして胸を押し付けた。
「……綾、お前……少し体重増えた?」
「黙れ!」
そんなこんなでその日一日色々と試みたのだが、陽一からの望むような反応は得られなかった。
「あーあ……欲情してもらうはずが、全然ダメだわ……」
帰り道、プールを満喫して上機嫌の陽一の後ろを、綾はしょんぼりと肩を落として歩いた。
495 名前:夏の綾 ◆5SPf/rHbiE [sage] 投稿日:2007/06/06(水) 04:17:28 ID:tq075IaU
八月二日、二人は近所の神社で行われるお祭に出かけた。
参道にたくさんの屋台が並び、地域住民がにぎわいを見せるお祭である。
紺色の浴衣に下駄を履いた綾は、またいつものように陽一と腕を組んだ。
陽一ももはや、初めのような抵抗は見せなくなっていた。
(これって、少しは進展したってことなのかしら?)
ただの慣れと言ってしまえばそれまでだが、恋人として腕を組んで歩けるのは、綾にとってこの上ない幸せだった。
綾はその日もまた目標を立てていた。
ずばり、陽一とキスをすることであった。
眠っている間に一方的にしたことはあるが、陽一の意識のあるときに、合意の上で唇を重ねたことは無い。
ちょうど、お祭の行われる神社の裏手の林を抜ける林道は、カップルたちが逢瀬を重ねる場として知られている。
お祭を一緒に歩いて、人ごみに疲れたあたりで林道に誘い、雰囲気が出たら一つ提案してみようというわけである。
しかし、それはそれとして二人ともお祭は大好きなので、神楽を見た後は次から次に屋台を巡り歩いた。
射的で三つ立て続けに落とし、金魚すくいに惨敗した綾が見事に一匹すくった陽一に八つ当たりし、どこか懐かしい味のする焼きそばやたこ焼きを食べた。
そうやって充実した時間を過ごしていたが、しばらくして陽一は綾の様子がおかしいことに気がついた。
歩調が最初よりも遅れて、時折陽一を引っ張るようになっているのが感じられたのだ。
「綾、どうしたんだ? 体調悪いのか?」
「え……? ううん、別に……」
「腹壊したのか?」
「何でいつもお兄ちゃんはそればかりなのよ!」
噛み付くように言いながら、顔をしかめて足を引きずる。
見ると、綾は下駄を履いた右足の甲を赤く腫らし、薬指と小指の爪を割って血を流していた。
「お前その足……どうしたんだよ!」
「金魚すくいをやった後……人ごみの中で踏まれちゃったのよ」
笑ってごまかそうとするが、やはり痛みに小さく声が漏れてしまう。
陽一は慌てて綾の肩を支え、歩くのを助けた。
「どこかで休もう」
「そ、それなら、神社の裏の林道が静かだから……」
「馬鹿! こんな足でそこまで歩けないだろう!」
「ば、馬鹿とは何よ……! 大丈夫だって本人が言ってるんだから……」
抗議を無視して、陽一は人ごみを抜けると、綾を神社の境内の手水場の傍に座らせた。
ぴしゃりと、柄杓で水を汲んで、綾の足に流す。
冷たい水が血と泥を拭い、白いつま先から地面に落ちた。
「痛いか?」
「別に」
「無理するな。どうしてすぐに言わなかったんだ。骨がどうにかなってるかもしれないぞ」
「大したこと無いわよ。ねえお兄ちゃん、ここからすぐだし、ちょっと林道を散歩してみない?」
「ダメだ。足を綺麗にしたら帰るぞ」
お祭の喧騒が遠くに聞こえる。
綾は拗ねたように唇を尖らせ、下を向いた。
「……だから、言いたくなかったのよ」
「あのな、子供じゃないんだから。祭なんてまた来年になれば来れるだろ?」
「今年のお祭はもうこれっきりでしょう!? せっかくお兄ちゃんと二人で……」
キスをするという目標が達成できていないこともある。
しかし何よりも綾は、年に一度のお祭を陽一と一緒に歩けなくなることが悲しかった。
「とにかく、まだ帰らないから」
「ダメだ。帰るぞ」
「イヤ」
二人は睨みあい、やがて陽一がため息をついた。
「なあ、頼むよ。どうしたら言うことをきいてくれる?」
「どうしたらって……」
不意に浮かんだ言葉を、綾は思わず口にしてしまっていた。
「キスしてくれたら……言うこときく」
496 名前:夏の綾 ◆5SPf/rHbiE [sage] 投稿日:2007/06/06(水) 04:18:51 ID:tq075IaU
「え」
陽一の顔がこわばった。
「お、おま、何言ってるんだよ!」
「だから、キスよ、キス! 口付け! 接吻!」
「そんなことできるわけないだろ!?」
「何で? 今私たちは恋人同士なんだから、問題ないわよ」
「問題あるだろ!」
「どんな問題よ?」
「いや、だって……お前は妹だし……」
食い下がる綾に、陽一はますます困惑する。
「お前だって嫌だろ? 俺の、その……練習台になるなんて」
「そりゃ好き好んでするわけじゃないけどね。変な女に引っかかる方が余程迷惑だから、キスの練習台になるくらいかまわないわよ」
「それでも……やっぱりダメだろ」
「ふーん、お兄ちゃんはそんなに嫌なんだ……」
半眼で睨んで、綾はすっと足を陽一に向けて突き出した。
「じゃあ、足にキスして」
「は?」
「血が流れちゃってるから綺麗にして。恋人としてそれくらいするのが普通よ」
「いや待て。それはむしろ普通じゃないだろ」
「唾つけると消毒になるっていうじゃない。それに……女王様気分に浸れて気持ちいいし」
「……まったく、悪趣味な奴だな」
何のことはない、いつもの生意気な妹だ。
陽一の顔からは戸惑いの色が消え、呆れたように息をついた。
「ちゃんと言うこと聞けよ」
「え……」
陽一は綾の足を手に包むようにして持ち、血の滴る小指と薬指に唇を当てた。
そして、流れ出た血を軽く吸い、そのまま飲み込んだ。
「……帰るぞ」
「うん……」
綾はそれまでの勢いは失せて、おとなしく負ぶわれ、後ろから陽一の首にぎゅっと抱きついた。
人のまばらな境内から、わき道に抜ける。
祭のざわめきが、次第に遠ざかっていった。
「お兄ちゃん……私の血の味、どうだった?」
「ええ? また変なこと聞くな、お前……」
「ね、どうだったの? 答えてよ」
「別に……何ていうか、血の味だったよ」
「ふーん」
色の無い答えだったが、それでも綾は嬉しそうだった。
綾の足先には、まだ血が固まりきらず、時折雫となって落ちる。
小さく街灯の灯る裏道に、綾の静かな笑い声が響いた。
497 名前:夏の綾 ◆5SPf/rHbiE [sage] 投稿日:2007/06/06(水) 04:20:57 ID:tq075IaU
そうやって、夏休みが始まってからずっと、綾は恋人として陽一と接してきた。
あらかじめ演技だと言ってのことなので、陽一から綾への意識が変わったかというとそんな様子は見られなかったのだが、それでも綾は陽一と恋人として触れ合う毎日に満足していた。
八月に入ってからはおおむね機嫌が良く、
「何か、この頃は随分と優しいよな」
「恋人なんだから、優しくするのが当然でしょ?」
と、陽一の言葉に笑顔で返した。
さらには、
「綾……俺、夏休みの宿題が全然進んでなかったりするんだが」
「ふーん?」
「……宇喜多を家に呼んでもかまわないだろうか」
「ん、いいわよ」
と、縁の訪問を一言で許すほどであった。
先日のウサギ肉の件もあり、やや萎縮してやって来た縁だったが、
「いらっしゃい。この暑いのに、兄が迷惑をおかけしてすみません」
「すぐに冷たいものを持ってきますね。あ、今日はちゃんといいところのお菓子も用意しておいたので、楽しみにしていてください」
綾の笑顔でのもてなしに、すぐに緊張感はなくなった。
「私、ひょっとしたら綾ちゃんに嫌われてるのかと思ってたんだけど……そうでもなかったのかな?」
机に向かって陽一に宿題を教えながら、縁は嬉しそうに言った。
「うん、まあ、この前は機嫌が悪かっただけだと思うけど」
「機嫌?」
「ああ。あいつ、その時々で寛容だったり厳しかったり、差が激しいんだよ。同じ人に対しても反応が全然違う時があるし。もう一貫性とか全然無いから、やっぱりその時の機嫌なんだろうな」
「なるほど。でも良かった。綾ちゃんとは仲良くなりたいと思ってたから」
「ん? 何で?」
「仲が悪いよりかは、仲がいい方が断然いいでしょ?」
微笑んで、縁は綾の用意した水羊羹をつまむ。
口の中で溶けるような、上質の味わいだった。
陽一の言葉は、間違ってはいないが正しくもなかった。
確かに綾の人への態度はその時の機嫌で決まるが、その機嫌は全て一貫性を持って、陽一に関わるところで決まっているのだ。
陽一を害することがなく、陽一を自分から奪うことがない人間には、綾はどこまでも寛容だ。
いや、無関心といった方がより近い。
大概のことは許せるし、その人間が幸運になろうが不幸になろうが、死のうが生きようが何の感情も抱かない。
元気よく適当なことを言って、それで終わりだ。
しかし陽一に関するところで少しでも不利があれば、一転激しく反応し、ある一線を越えると全ての能力を以ってして陽一と自分の防衛にあたるのである。
そして、綾にとって縁は、もはや危険因子ではなくなっていた。
綾が夏休みの半分近く陽一と恋人同士として過ごしてきたのに対し、陽一が縁と会ったのは一日のみ。
その差から来る優越感に支えられ、ごく穏やかな友好的態度で、綾は縁と接することができたのである。
(何でこんな簡単なことに今まで気付かなかったのかしら)
かつてはあれほど嫌った縁とにこやかに話しながら、綾は思った。
(人を遠ざけるよりも、私がお兄ちゃんに近付く方が、ずっと幸せな気持ちになれるのね……)
普通の女としての恋愛はあまりにも幸せで、これまで躍起になって邪魔者を排除してきた自分が馬鹿らしく思えた。
そもそも、他人を排除することで傍にいるよりも、陽一本人に選ばれて傍にいる方が、ずっと尊いに決まっている。
周りに誰も居なくなった結果愛されたからといって、それは真の愛ではないのだ。
(頑張って、お兄ちゃんにとって一番の女になろう)
訪問者に愛想良くするのもその一環だ。
綾は縁と、終始和やかに言葉を交わした。
498 名前:夏の綾 ◆5SPf/rHbiE [sage] 投稿日:2007/06/06(水) 04:21:55 ID:tq075IaU
数日後、綾はまたいつものように陽一を誘った。
「お兄ちゃん、デートするわよ。今日は映画ね」
事前に用意しておいたチケットを見せて、にっこりと笑う。
「何を見るかは私の好みで勝手に決めておいたから。もし他のが見たかったら、お兄ちゃんから私を誘い直すように。いいわね?」
上機嫌で準備を促す綾に、陽一は「ごめん」と謝った。
「え……ごめんって……何が?」
「いや、今日は訓練は無理だ。ちょっと予定があって」
「予定? それなら私もその予定に付き合うけど?」
「そういうわけにもいかないんだ、これが……」
陽一は赤面しながらぼそぼそと言った。
「その……恥ずかしながら本物のデートをすることになった」
「……!」
映画のチケットがひらりと床に落ちる。
陽一の襟首をひっつかんで、綾は叫んだ。
「な、な、なんですって!? よく聞こえなかったわ!!」
「デートをすることになりました。訓練でなく本番です」
「どうしてもっと早く言わなかったの!! そんな大事なことをっ!!」
「いや、昨日の夜決まったもんで」
綾は眩暈を起こし、倒れそうになるのを必死に耐えた。
「だ、誰なの? 相手は誰なのよ」
「四辻夕里子さんという人だ」
「誰よそれ」
「宇喜多と去年同じクラスだったらしい。この前宇喜多がうちに来たとき、一度会ってみてくれないかって言われてさ」
「それで会うことにしちゃったわけ!? どんな人かもわからないのに!? 変な人だったらどうするのよ!!」
「相変わらず変に心配性だな、お前は」
凄まじい剣幕で食って掛かる綾を、陽一は呆れたように笑っていなした。
「大丈夫だよ。綾がこの夏休み鍛えてくれたのは、こんな時のためだろ?」
「ま、まあそうね。そうだけど……」
「お前に心配かけっぱなしっていうのも悪いしな。ともかく一度会ってみるよ」
違う。
陽一を貶して鍛えるなどと言ったのは、陽一と恋人のように触れ合いたいがための建前に過ぎない。
黙りこくる綾に、陽一が心配そうに声をかけた。
「おい、どうした、ぼんやりして」
「べ、別に……! あー、良かったって感じ。お兄ちゃんに興味を持ってくれる人がいて」
「はは、そうだな」
「デートの結果、ちゃんと報告しなさいよね。せっかく鍛えてあげたんだから」
「ああ、わかったよ。……と、そろそろ行かなきゃ」
約束の時間を気にして慌てて家を出る陽一を、綾は静かに見送った。
(一度会うだけだもの……大丈夫よ……私の方が何回もデートしてるんだし……たった一度他の女に会うくらい……)
目を閉じて、深呼吸する。
「大丈夫よ……」
呟きながら、綾は受話器を取っていた。
499 名前:夏の綾 ◆5SPf/rHbiE [sage] 投稿日:2007/06/06(水) 04:22:41 ID:tq075IaU
「あ、綾ちゃん、こっちこっち」
綾が喫茶店の中に入ると、すぐに三つ編み眼鏡の少女に声をかけられた。
他でもない、宇喜多縁その人である。
綾は手を振る縁の対面の席に着くと、まず頭を下げた。
「すみません。突然呼び出したりして」
「いいよいいよ。ちょっと驚いたけどね」
綾は陽一が出かけてからすぐに縁に電話をかけた。
四辻夕里子なる人物について話を聞くためだった。
支倉家に来てもらってもよかったのだが、今のざわついた気持ちでは何をするかわからないので、あえて人目のある喫茶店で会うことにした。
「縁さん、四辻夕里子さんって誰なんですか? 何でお兄ちゃんに会いたがってるんですか? そもそも何で紹介なんかしたんですか?」
「ちょっと落ち着こうか」
「落ち着いてます!!」
綾の剣幕に、注文をとりに来た店員が、びくりと肩を震わせた。
「あ、すみません、アイスレモンティーもう一杯。綾ちゃんは?」
「私もそれで」
綾は机に置いた拳を震わせて、縁を睨みつけた。
すぐに店員が二つのグラスを持ってきて、テーブルの上に置き、逃げるように席を離れる。
綾の震えにあわせて、グラスの中の氷がかちゃかちゃと揺れた。
「あはは……怒ってるね」
眼鏡をかけなおし、困ったように縁は笑う。
「順番にいってみようか。まず……」
「四辻夕里子って誰ですか?」
「私の友達。元クラスメートだよ」
「何でお兄ちゃんに会いたがってるんですか?」
「一年前から支倉君が好きなんだって」
「そもそも何で紹介したんですか?」
「友達だもん。断る理由は無いでしょう?」
縁は綾の問いに、すらすらと答えた。
あまりにもあっさりと答えられて、肩透かしをくった気分になる。
レモンティーをぐっと飲み、綾は喉を潤した。
「……具体的に、どんな人なんですか、四辻さんという人は」
「あ、ちょっと待って。綾ちゃんの聞きたいことには出来る限り答えるけど、質問は公平に順番にということで、私からも綾ちゃんに聞かせてね。綾ちゃんは、私にそれを聞いてどうするの?」
「え……」
虚を突かれて、綾は一瞬口ごもってしまった。
「それは……どうするとかじゃなくて、お兄ちゃんと知らない人が会うんですから、興味を持って当然でしょう」
俯いて、愚痴をこぼすように言う。
「……まったく、お兄ちゃんもお兄ちゃんよ。見ず知らずの人と、どうしてすぐに会う気になるのかしら」
「支倉君も年頃の男の子だしね。特別好きな人も居ないみたいだし、機会があったらチャレンジしたくなるのは仕方ないよ」
「随分落ち着いてるんですね」
「綾ちゃんは随分怒ってるね」
「心配してるんですよ! 兄が変な女に引っかからないか! もしもの時のことを考えて腹を立ててるだけです!」
なるほど、と縁は感慨深げに頷いた。
「お兄ちゃん思いなんだね、綾ちゃんは。それにしっかり者」
「それはどうも」
500 名前:夏の綾 ◆5SPf/rHbiE [sage] 投稿日:2007/06/06(水) 04:23:41 ID:tq075IaU
もはや綾は敵意を隠そうとしない。
声にはとげとげしさが溢れていた。
縁はまったく気にした様子も無く、それじゃあ、と口を開いた。
「夕里子ちゃんのことを話すね。四辻夕里子、十六歳。誕生日は十一月二十二日。資産家の四辻家の一人娘。成績は評定平均が7.5。とっても綺麗な子だよ」
「お金持ちで成績が良くて美人だなんて、死角無しですね」
「んー、運動と家事は苦手だよ。それに綾ちゃんだって美人だし、成績はもっといいでしょ?」
後半の言葉は無視して、綾は質問を続けた。
「どんな性格なんですか?」
「温厚だけど、弾けるときは弾けるかな。今回みたいに、意外なところで積極的だったり、怒ると怖かったり……って、怒ると怖いのは当たり前だね」
「なるほど。どうして四辻さんは、お兄ちゃんを好きになったんですか?」
「それは知らないよ、さすがに」
「今日……四辻さんがお兄ちゃんとどこに行くのか、わかりますか?」
「それも知らないよ」
「本当に?」
「嘘ついてどうするの」
綾は縁の顔をじっと見つめた。
表情にも声色にも、まるで変化は無い。
レンズの向こうの瞳は静かな黒色をたたえ、発言の真偽を読み取ることはできなかった。
「満足した?」
レモンティーをストローで吸い上げながら、縁が聞いてきた。
「……ええ、まあ、聞きたいことは大体聞けました」
「安心した? それともまだ心配?」
「……」
「……不安になるのもわかるけど、少しは支倉君のこと信じてあげてもいいんじゃない?」
綾に鋭く睨まれていても、縁は何ら感情を動かすことが無い。
やりにくい人だと、綾は改めて思った。
「……お兄ちゃんの一番身近に居るのは私なんですから、私が心配しないで誰がするっていうんです」
「黙って見守るのも愛情だと思うけどな」
説教をするわけでも諭すわけでもない。
ただ淡々と言う縁に、綾は言い返すことができなかった。
しばらくの沈黙の後、綾は伝票を手に取った。
「……帰ります。ここの支払いはしておきますので。ご迷惑をおかけしてすみませんでした」
「あー、そんな、別にいいよ。どうせ暇だったし」
ぱたぱたと縁は手を振る。
二人の間を遮るように、陽光が窓から差し込んだ。
「……最後に聞きたいんですが、縁さん、どうして四辻さんをお兄ちゃんに紹介したりしたんですか?」
「さっき同じ質問に答えたと思うけど」
「私は、縁さんは、お兄ちゃんを好きなんだろうって思っていました」
はは、と縁は笑った。
「私は支倉君の親友だよ」
夏の光はきらきらとまぶしく、縁の表情を読み取ることはできなかった。
501 名前:夏の綾 ◆5SPf/rHbiE [sage] 投稿日:2007/06/06(水) 04:24:45 ID:tq075IaU
陽一はあれ以来四辻夕里子とデートを重ねていたが、綾はそれを黙って見守っていた。
いつもなら、相手の家やその周辺の地理、交友関係を調べ、いざという時の備えにするのだが、それもしなかった。
「四辻夕里子よりも愛されればいいだけのことだもの……」
綾は、恋愛で勝負してやろうと心に決めていた。
陽一にとって魅力的な女になって、陽一に選んでもらうのだと。
誰よりも傍にいて、誰よりも一緒の時間を過ごしている自分なら、それができるはずなのだからと。
しかし、陽一からデートの報告は必ず聞くようにしていた。
「で、今日はどうだったの?」
「ん、まあ楽しかったよ」
「どこに行ったの?」
「色々とお店を巡ったり。あ、お前と一緒に行ったケーキ屋に寄ったら、おいしいって喜んでたよ」
「そう」
「普通に会話も出来たし、訓練の甲斐があったな。ありがとう」
「ま、良かったんじゃない?」
嬉しそうに礼を言う陽一に、綾は複雑な気分ではあったが、それでも余裕を持って報告を聞いた。
陽一が四辻夕里子に会うのはせいぜい三日に一回程度だが、綾はそれ以上のペースで、相変わらず訓練と称して陽一と出かけている。
腕も組むし、抱きつきもする。
縁に対するのと同様に、自分の方が陽一に近いという安心感が、四辻夕里子への敵意と警戒心を薄めていた。
そうして日々は過ぎ、セミの声も衰えをみせる八月の終わり、四辻夕里子との五度目のデートを終えて帰った陽一に、綾はいつものように尋ねた。
「今日はどんなことをしたの?」
「え……あー、うん。色々と」
「何よ、はっきりしないわね」
夕食の支度の手を止めて、綾はおたまを陽一に突きつけた。
「ちゃんと話しなさいって。鍛えてあげた恩を忘れたの?」
「ちょ、おたまはやめろって。味噌汁が飛ぶ」
困ったように頭をかいて、陽一は顔を赤らめた。
「えーと……今日はキスをしたよ」
「ふーん」
「……何ていうか……妹にこんなこと言うのは恥ずかしいな」
「……」
綾は一瞬停止して、またすぐに陽一に掴みかかっていた。
「なな何ですって!? 今何て言ったの!?」
「だから、恥ずかしいって……」
「その前! よく聞こえなかったわ!」
「え……だから、キスをしたって……」
また陽一は顔を赤らめ、目を逸らした。
綾は脳をがつんと殴られたかのように感じた。
何故?
と、頭の中に問いが反復する。
何故、自分以外の人間が兄とキスをするのか。
自分の方がたくさんデートしているのに、何故?
自分の方が陽一に近いはずなのに、何故?
自分がしてくれと言った時には断ったのに、何故?
吐き気と眩暈に耐えながら、綾は尋ねた。
「ど、どんな風に? どうしてキスしたの?」
「いや……まあ、突然抱きつかれてキスされたって感じなんだけど……」
「あ、ああ、そう。無理矢理なのね」
「それで、付き合ってくれって言われた」
「!!」
そうだ。
縁も、四辻夕里子は陽一ことが一年前から好きなのだと言っていた。
好きならば、ただ仲良くお出かけするだけの関係で終わらせようとはしない。
「……お兄ちゃんは、何て答えたの?」
「とりあえず、考えさせてくれって……」
「断らなかったの? お兄ちゃんは四辻さんが好きなの?」
「好きかと言われるとわからないけど……」
「好きじゃないならすぐに断りなさいよ! 何で断らなかったの!」
「……いい人だと……魅力的な人だとは思ってる」
その日の夕食の味付けは、何ともひどいものになった。
502 名前:夏の綾 ◆5SPf/rHbiE [sage] 投稿日:2007/06/06(水) 04:25:45 ID:tq075IaU
冷たい夜風が窓から流れ込み、秋の虫の声が心地よく響く真夜中。
綾は陽一の部屋に居た。
ベッドの脇に立ち、眠る陽一を静かに見下ろしている。
「お兄ちゃん……」
呟いて、綾は人差し指で陽一の唇をなぞった。
「キス、しちゃったんだね」
顔を赤らめてデートの報告をする陽一を思い出す。
はらわたが煮えくり返り、悔しさに奥歯を噛んだ。
「私の……私だけのお兄ちゃんのはずなのに……」
奪われた。
先を越された。
そんな感覚が大きかった。
ベッドに腰掛けて、陽一の顔に自分の顔を近づける。
木製のベッドが、小さく軋んだ。
「ん……」
もう何度目かもわからない、眠る陽一とのキス。
小鳥がついばむように軽く、何度も唇を吸い、やがてねっとりと舌を這わせた。
「ん……は……お兄ちゃん……」
息を荒くして、むさぼるように兄の唇を味わう。
ぴちゃぴちゃと、唾液のはねる音が虫の音の中に混じった。
「そうよ……たかが一回くらいのキスが何よ……私は、私はこうやって何度もお兄ちゃんとキスをしてるんだから……」
唇の裏に舌を這わせ、歯の表面を丁寧に舐め取り、口の中の空気を吸い上げる。
情熱的な激しいキスを、何度も何度も繰り返した。
「お兄ちゃんの口……おいしい……」
うっとりと目を細めて呟く。
まだ見ぬ四辻夕里子への強烈な対抗意識が、綾に更なる情欲の火を灯していた。
「そう……キスなんて……たかがキス一つされたところで、お兄ちゃんは私のものなんだから。私は、キスなんかよりずっと凄いことができるんだから……」
ごくりと唾を飲み込み、綾は陽一の下半身に手を伸ばす。
夏用の薄い掛け布団を跳ね除け、パジャマの上から陽一の股間にそっと触れた。
「そうよ……私の方がお兄ちゃんの近くに居る……私にしかこんなことはできないんだから……四辻夕里子にはこんなことはできないんだから……!」
陽一が起きてしまったらどうするのか、そんなことは考えなかった。
ただ、自分の方が陽一の傍にいるのだという優越性を確認したいがために、綾は夢中になって陽一の体をまさぐった。
最初はゆっくりと、やがて激しく、陽一のペニスをパジャマの上から擦り上げる。
なかなか反応しないと見て取ると、綾は寝ている陽一のズボンをずり下げて、トランクスの隙間から直にペニスに触れた。
「お兄ちゃんの、おちんちん……」
熱く息を吐く。
綾も、陽一の性器に触れるのはこれが初めてだった。
暗闇の中、ベッドに腰掛けて、その形を確かめるように手を這わせる。
白魚のような手が細やかに蠢き、やがてその刺激に、陽一の体は勝手に反応していた。
綾の手の中でみるみるうちに陽一のペニスは膨らんでいき、トランクスの隙間からその姿をさらけ出していた。
「……!」
綾は思わず息を呑んだ。
陽一のそれは立派で、真上に向かってそびえ立ち、時折小さく震えている。
初めて見る男性器の異様な姿に、綾はショックを受けつつも、この上ない喜びを感じていた。
「私が……一番最初よね? お兄ちゃんのおちんちんを見るのは……」
喉の奥から笑いを漏らし、震える手で改めて陽一のペニスに触れる。
「お兄ちゃんのおちんちんを見たのも、お兄ちゃんのおちんちんに触ったのも……私が一番最初よね……?」
しばらく兄の体温を感じた後で軽く握り、本で得た知識のままに上下に擦った。
503 名前:
夏の綾 ◆5SPf/rHbiE [sage] 投稿日:2007/06/06(水) 04:26:48 ID:tq075IaU
「そうよ、キスなんて問題ないわ。四辻夕里子にはこんなこと出来ないもの。私しか……お兄ちゃんの傍に居る私しかできないもの」
綾が擦りあげるにつれて、陽一のペニスはますます固くなる。
やがて先端から透明な液が溢れ、綾の手を濡らした。
「や……何これ?」
手を見ると、指の間に透明な液が糸を引いている。
綾は恐る恐る、その粘液を舌の先で舐め取った。
「……怖くなんてないわ……お兄ちゃんの体から出てきたものだもの……」
見ると、陽一のペニスは先ほどよりも一回り大きく膨れ、先端から流れる汁が、亀頭のあたりをぬらりと光らせている。
「そうよ……怖くなんてないわよ……」
自分に言い聞かせるようにして、綾は亀頭に舌を這わせた。
何とも言えない臭いと味がしたが、興奮と緊張がそれらの感覚を麻痺させた。
「ん……ん……」
小さな猫のようにちろちろと、綾は舌を這わせる。
時折陽一のペニスがびくりと反応を示すのが嬉しくて、いつしか綾は夢中で陽一のペニスを舐めた。
「お兄ちゃん……」
ぴちゃ、ぴちゃ、と暗い部屋に響く水音。
荒い息。
一心に兄のペニスを見つめ、顔を紅潮させて舌を出す妹。
異常な状況の中、陽一は寝返りを打ち、小さく口を開いた。
「……りこ……さん」
不意の陽一の言葉に、綾ははっと身を離した。
「お兄ちゃん……?」
呼びかけてみるが返事は無い。
返事の変わりに陽一は再び、
「……ゆりこさん……」
そう呟いた。
綾の唾液にまみれた、これ以上なく固くなったペニスを脈打たせながら。
陽一は夕里子の名を呟いた。
「寝言……?」
綾は呆然とした面持ちで問いかけた。
「……何で、『ゆりこ』なの?」
陽一は寝息を立てたまま、答えはない。
夜風が部屋に吹き込む。
綾は立ち上がり、陽一のズボンと布団を元に戻すと、よろよろと部屋を出て行った。
504 名前:夏の綾 ◆5SPf/rHbiE [sage] 投稿日:2007/06/06(水) 04:28:34 ID:tq075IaU
自室に戻った綾は、明かりもつけず、鏡台の前に立った。
長袖の白いシャツに膝下までのスカートを着た、長い黒髪の美少女が、大きな鏡に映る。
夏休みに入ってからずっと、結ばずにおいた長い髪。
陽一が好みだと言ってくれたから。
夏休みが始まってから一月余り、綾は一人の女として陽一に愛されようと頑張ってきた。
陽一の好みの女になろうとしてきた。
「魅力的な女の子、か……」
呟いて、綾は鏡の中の少女を思い切り殴りつけた。
大きな音と共に鏡が割れ、床に転がり落ちる。
膝をついて、拳を振り回し、落ちた鏡をさらに殴りつけた。
何度も何度も。
拳はガラスに刻まれて、振り上げるたびに、壁に、天井に、血が飛び散った。
「は……ははは……」
笑いながら、綾は涙を零していた。
「馬鹿だわ……私は……大馬鹿だわ」
自分なら大丈夫だと思っていた。
必ず兄にとって一番の女になれると思っていた。
恋人として夏を過ごし、自分こそが女としても兄に一番愛される存在になりつつあるのだと思っていた。
「それが……よくわからない女にお兄ちゃんの唇を奪われて……おまけに……」
陽一は夕里子の名を呼んだ。
ペニスを愛撫されている最中に。
愛撫していたのは綾なのに。
「許せない……! 許せない! 許せない!! この馬鹿!! 大馬鹿者!!!」
凄まじい怨嗟の声を吐きながら、綾は床に落ちた鏡を殴った。
自分の姿が映らなくなるよう、細かい破片になるまで、何度も殴りつけた。
自分が許せなかった。
根拠のない優越感に余裕をかまし、兄の唇を奪われた自分が。
兄の性器を愛撫している最中に、他の女の名前を呼ばれた自分が。
そんな状況を作り出した自分が。
甘い恋愛などというものにうつつを抜かして、勘違いをしていた自分が許せなかった。
「所詮私は……お兄ちゃんにとって……女じゃない……」
床に散らばった鏡の欠片を浸すように赤い血が流れ、そこに透明な涙が幾筋も落ちた。
恋人として陽一と過ごした日々は幸せだった。
演技だということを忘れるほどに。
あまりにも幸せで、自分も普通の女として恋をして、陽一の傍にいられるのだと思ってしまった。
自分がいくら恋焦がれようが、陽一からしたらただの家族だということに、何も変わりはなかったのに。
「ホント、馬鹿だわ……勝手に思い込んで……油断して、奪われて……」
暗い部屋にへたり込み、綾は声をあげて泣いた。
身を震わせて泣いた。
「私なんかに……普通の恋愛ができるわけがなかったのよね……」
鏡に切れた手の甲が重く痛む。
この痛みを忘れまいと、綾は思った。
もう鏡に映った綾は居ない。
愚かな勘違いをして、最愛の人を奪われた綾という人間はいない。
痛みと引き換えに、甘い夢を見ていた自分は消えたのだ。
「はは……は……あはは……」
何でもしようと、綾は思った。
恋愛感情などいらない。
選んでもらわなくとも良い。
ただ結果として、自分が陽一の一番近くにいられればそれでいいのだ。
「あははは……はは……ははははははは……!」
嗚咽に混じって、乾いた笑いは続く。
夏はもう終わりを迎えようとしていた。
最終更新:2011年10月27日 23:16