荒野、一人で4

70 荒野、一人で ◆KYxY/en20s sage New! 2008/02/11(月) 00:41:55 ID:JsM5923R
 外出するには、絶好の日和だった。
 私は玄関前に立つと、革靴の爪先をトントンとやった。陽が照っていて暖かい。
午前中は陽も照って暖かく、午後になり、陽が落ちると急激に寒くなる。最近で
はそういう日が続いていた。
 真仁も玄関から出てきた。九時五十分。清水屋の開店は十時だが、店に着く頃
には十時を回っているだろう。清水屋は、三十分近くはかかる場所にあった。
姉さん、鍵持ってる?」
 ジャケットのファスナーを閉めながら、真仁が言った。真仁は下にジーンズを
穿いていた。腰が細く肩幅があるので、下手なモデルよりもスタイルがいい。
「持ってないけど、どうして?」
「いや、母さんが出かけるかもしれないって言ってたからさ。父さんの方はわか
らないけど」
「シンは鍵持ってるの?」
「一応」
「ならいいよ。どうせ一緒に帰ってくるんだし」
 それに、父しかいない家に入るつもりはない。そう思ったが、私は直前で言葉
を呑みこんだ。言っても気分が悪くなるだけだろう。せっかく真仁と一緒なのだ。
真仁のことだけを、考えていればいい。
 二人並ぶと、通学路を一本外した道を歩いた。
 私は、真仁を横目で見た。真仁の吐く息が白い。気温は十度を下回っていた。
暖かいといっても、それぐらいの暖かさだった。視線を戻す。
 清水屋は、場所で言えば高校へ行く電車の、二つ目の駅の近くだった。主に衣
服扱っている百貨店だ。電車に乗れば十六分で着けるが、真仁とは歩いて行くよ
うにしていた。
 通学時もそうだが、この時期は電車の中は暖房がかかっている。その暖かさを、
私は好きになれなかった。五分以上あたっていると、なんだか眠くなってしまう
のだ。それは真仁も同じようで、そこまで遠くない距離なら交通機関には乗らな
いようにしている。
 歩きながら、私は何気ない仕草を装い、真仁の手に手を伸ばした。掴み損なっ
た。事前に察知したのか、真仁が手を引いていた。怪訝な眼で、私を見てくる。
「ねぇシン。手、寒くない?」
「姉さん手袋してるだろ」
「そうじゃなくて、シンがだよ」
 真仁は眼鏡に手をあて、ちょっとずらした。手袋はしていない。珍しく、私の
方が手袋をしていた。家を出る時に、真仁に釘を刺されたのだ。
「俺は別に寒くないよ。寒くても、ポケットに入れてればいいし」



71 荒野、一人で ◆KYxY/en20s sage New! 2008/02/11(月) 00:42:28 ID:JsM5923R
「ポケットに手を入れて歩くのは危ないよ? 手を繋ぐなら危なくないけど」
 私は真仁に手を差し出した。
「姉さんは手繋ぐの、恥ずかしくないのか」
「ぜんぜん。だから、ね?」
「やめとくよ。俺は恥ずかしいから」
「えぇ」
「えぇ、って」
「横暴だ」
「なんとでも言ってくれ」
 真仁はジャケットに手を突っこむと、先に歩き出した。追った。きょうの真仁
は、意外と強情だった。
 途中、真仁の歩調が遅くなった。住宅街にぽつんとある、空き地の前だった。
土地売却の看板が立っていて、その看板も所々剥げ、古びていた。
「そういえば、もう二年だね」
 真仁が呟いた。懐かしむような響きがある。
 二年前まで、この空き地には一軒の柔道場が門を構えていた。なくなったのは、
道場主が死んだからだ。
 細川道場という十人ぐらいしか生徒が集まらない、繁盛してない道場だった。
道場主の細川は、どう考えても『ヤ』のつく自由業の男だった。頬から首にかけ
て傷跡があり、醸し出す雰囲気は一般人のそれではなかった。当時は違ったかも
しれないが、その前は間違いなくそうだっただろう。繁盛しなかった理由は、そ
こにもあったはずだ。
 私と真仁は、細川道場に小三から中三まで六年間通った。稽古は厳しかった。
いやに実践的な稽古で、型などはおざなりにしか教わらなかった。ナイフを持っ
た相手にどう対処するか。相手がボクサーの場合の対処法。人体急所の場所や、
その打ち方。そんなことばかり教えられた。基礎を固めなくてもいいのかと言っ
たこともあったが、私服の相手にそんな技通用するか、と一蹴されただけだった。
小学生に言うことではない。
「考えてみれば、めちゃくちゃな人だったな。あの人」
「真面目に人を殺せる急所、教えてたもんね」
「でも、俺はあの人、嫌いじゃなかったよ」
 やめていく生徒は、数多くいた。柔道場となっていたが、柔道では反則になる
ようなことしか教えていなかったからだ。入れ替わる生徒の中で、私と真仁は最
初からやめずにずっといた。なくなる寸前までいたのは、私と真仁を含めた三人
だけだった。



72 荒野、一人で ◆KYxY/en20s sage New! 2008/02/11(月) 00:42:53 ID:JsM5923R
 他の生徒に比べ、私と真仁は細川に眼をかけられているようだった。お前らな
かなか筋がいいな。細川は、口癖のように言っていた。
「でもニュースで見たときは驚いたよ」
「突然だったもんね。亡くなったの」
 通り過ぎた空き地を、真仁は小さく振り返った。
 次はヤッパの遣い方教えてやるからな、おまえら。ヤッパさえ遣えれば一人前
だ。拳銃なんてもんは、臆病者の使うもんだよ。憶えておけ。細川は死ぬ前日に、
そう言っていた。その次の日の夜に、ニュースで細川が死んだ事実を知ったのだ。
 暴力団組員と遣り合い、幹部三人を殺した挙句に自殺したのだという。
 ヤッパというのが何かわからなかったが、後で調べたら匕首のことだった。仁
侠映画でよく見るあれだ。言ったときは、細川はもう死ぬ気だったのだろう。心
の中の化け物が、細川には確かにいたのだ。凶暴な化け物が。あの広くもない道
場で六年も、その化け物は死ぬ機会を静かに窺っていた。そして見事に散ってい
った。あれが、化け物の死に方だ、と私は思った。
 しばらく、歩きながら真仁の隙を窺った。ジャケットから手を出そうとしない。
やっと出した時、手に狙いをつけたが避けられた。真仁が私をちらと見る。今日
の真仁はなかなか手強い、と私は思った。
 清水屋はちゃんと開店していた。十時二十分前。道路を挟んだ向かい側にみた
らし屋があり、みたらしのこうばしい香りが漂っていた。
 清水屋に入ると、エスカレーターで三階まで昇った。五階まであるが、四、五
階は駐車場だった。二、三階に衣料品を扱う店舗が並んでいて、一階は食料品や
生活雑貨が置いてあった。
 私は馴染みの店舗に入った。コートを一着選び、スタンドミラーの前で合わせ
た。
「どうかな?」
 真仁の前でも合わせた。真仁が、じっと見てくる。真剣な眼だ。絵を描くとき
の眼に似ている。
「うん、いいね。でも、もうちょっと体の線が生きるやつでもいいんじゃないか
な。姉さん、スタイルいいから」
 言うと、真仁もコートを漁りはじめた。数着に視線を迷わせ、一着のコートを
抜きだした。
「これとかどうかな。姉さんは、モノトーンの服が多いし」
 真仁が、私にコートを合わせながら言った。受け取り、鏡の前で合わせてみる。
私が選んだコートよりも、似合っていた。値段も張っているが、生地もこちらの
方がいい。
 真仁は、二着目を選びはじめたようだった。私も持っていたコートを隅に掛け
ると、見ていった。



73 荒野、一人で ◆KYxY/en20s sage New! 2008/02/11(月) 00:43:35 ID:JsM5923R
 物にこだわるところが、真仁にはあるようだった。自分の物もそうだが、他人
の物もそうだった。一緒に見て、と言われれば、一緒になって熱心に探してくれ
る。私の服も、何着かは選んでもらったものだった。センスも悪くない。どこか、
母親のような性格を真仁はしていた。
 しばらく、二人でコート選びに没頭した。
 モノトーン柄に合うもの、デニムに合うもの、ブレザーに合うもの。真仁は、
次から次へと抜き出していった。どれも私に似合っている服ばかりだった。絵描
きとしてもセンスがそうさせるのか、それとも私を知ってくれているからか。ど
ちらにしろ、わたしのことを考えてくれている、ということだろう。
 そう思うだけで、胸が熱くなった。私だけの幸せだ、と思えた。
 真仁が三着目に選んだコート。これが一番気に入った。ただ、ためらうような
値札が付けてある。どうしようか。束の間悩んだ。
「姉さん、そのコートにするの?」
「うん、でも」
 言い終わる前に、真仁は私の腕からひょいとコートを取り上げた。私に背を向
け、レジに向かっていく。
「えっ、シン。ちょっと」
 慌てて横に並んだ。真仁は、歩みを止めない。
「一ヶ月早いけど、クリスマスプレゼントでいいよ」
「でも」
「いいの、いいの。たまにはさ」
 真仁がこちらを向いて笑った。その笑顔に、私は立ち止まった。
 真仁が、レジから戻ってきた。片手に提げた、ベージュのビニール袋を差し出
してくる。
「ありがと、シン」
 なんと言っていいか、わからなかった。こういう風にプレゼントされたことは、
いままでにない。
「どういたしまして」
 店舗を出た。頬の熱さで、顔が赤くなっているのがわかった。好きな男に服を
選んでもらい、買ってもらう。うれしくないはずがなかった。私はコートを抱き
しめた。浮かされたように、ぼぉっとしている。ビニールの、擦れ合う音がした。
「姉さんは、まだ見るものあるかい」
 顔を覗きこむように、真仁が言った。
「あっ、うん、とっ、特にもうないけど」
 声が上擦った。しゃんとしろ、と私は自分に言い聞かせた。このままでは女と
しての私を見せるどころか、姉としての立場も危うい。数時間しか違わないが、
私の方がお姉ちゃんなんだ、という意識が、いくつになっても抜けきっていなか
った。



74 荒野、一人で ◆KYxY/en20s sage New! 2008/02/11(月) 00:44:01 ID:JsM5923R
 真仁のジャケットを探すことになった。
 三階、二階と見て回ったが、結局真仁はなにも買わなかった。私からもプレゼ
ントさせてほしい。そう言ったが、やんわりと断られただけだった。最初から買
うつもりなど、なかったのかもしれない。
 一階で雑貨を見ると、真仁と一緒に清水屋を出た。午後一時を少し回っていた。
昼食には、ちょうどいい時間だ。
「シン、コンパルでいいかな」
「どこでも構わないよ」
「昼食代は、私が出すよ」
「気にしなくても、いいんだけどな」
 困ったように真仁が言った。
 コンパルは、サンドイッチを出す店だった。みたらし屋の数軒隣。入ると、観
葉植物がおいてある窓際の席を取った。私は野菜サンドを、真仁はカツサンドを
注文した。焼き目のついたサンドイッチはサクッとして、おいしかった。
 お腹がおさまるまで、コンパルで時間を潰した。真仁は、砂糖を入れないコー
ヒーを飲みながら、コンパルにあった雑誌を読んでいた。コーヒーの湯気で、一
瞬眼鏡が曇る。真仁はジャケットの内ポケットから眼鏡拭きを出すと、それでレ
ンズを拭きはじめた。長いまつ毛がレンズに触れるらしく、他の人よりも拭く回
数は多い。
 真仁が、私の視線に気付いた。
「なに?」
「うぅん、なんでも」
 不思議そうな顔をしたが、すぐに真仁は雑誌に眼を落とした。コーヒーを口に
含む。真仁の濡れた唇に、私は眼を奪われていた。キスしたい。最近では、そう
思う回数が増えている。
 一時間ぐらいで、私と真仁はコンパルを出た。
 道路沿いに歩き、一本道を折れると赤い瓦屋根の長屋の間に、細長い雑居ビル
が見えた。
 そのまま雑居ビルに入った。木のやさしい香りがする。額縁や、イーゼルのに
おいだ。
 画材屋は、老人とアルバイトの女の子が二人いる、こぢんまりとした店だった。
1フロアは狭いが、二階まであるので商品の数は多かった。真仁が言うには、品
揃えがいいらしい。私は絵を描かないので、売り物の善し悪しはわからない。
 真仁と、階段で二階に上がった。



75 荒野、一人で ◆KYxY/en20s sage New! 2008/02/11(月) 00:44:27 ID:JsM5923R
 心臓が止まるかと思った。後姿でもわかる。久保悠。絵の具のチューブ棚の前
に、立っていた。
「久保さん」
「えっ」
 思わず声を出していた。真仁から久保に声をかけるとは夢にも思っていなかっ
たからだ。ただそれは、私の中の真仁でしかない。
「甘利くん」
 振り向き、真仁を認めた久保が瞬時に女になった。女の顔になったと言うべき
か。白いコートにチェック柄のスカート。私とは違う、女らしい恰好だ。
「あの、甘利くん。その人」
 私に眼を向けると、久保が言った。顔色が少し変わっている。
「姉さんだよ。ほら、隣のクラスの」
「あぁ、そうなんだ」
 久保の顔が喜色に染まった。なにを喜んでるんだ、おまえは。こみ上げてくる
言葉を、なんとか喉で押しとどめた。体中が燃えるように熱い。
「はじめまして、お姉さん」
「はじめまして」
 なんとか笑みを浮かべた。綻ばせた口内で、私は歯をくいしばった。敬語なの
も腹が立つが、ほっとしている表情も癇に障った。それにこの女は、私を最初か
らお姉さんと言った。
 真仁が一歩前に出て、久保の横に並んだ。
「久保さんは何買いに来たの」
「ちょっと、いつも使ってる色が切れちゃって」
「久保さんって、何色がなくなりやすいの?」
「私は青系統かな。青色が一番好きだしね」
「じゃあ同じか」
 真仁が、棚のチューブをひとつ取った。
「甘利くんも?」
「海、描くことが多いからね」
 顔が近い、そう思った。思うだけで声が出ない。同じ棚を覗きこんでいるので、
肩が触れ合うほどに二人の距離は近かった。
 真仁が棚を見ている間、久保は真仁の横顔をじっと見ていた。女の顔。女の眼。
私のひとなんだぞ、なに見てるんだ。やはり声にはならない。
「久保さんが使ってるのって、ホルベインなんだ」
「うん。でも甘利くんって、絵の具とかはあんまり使わないよね」
「そうだね。水彩色鉛筆とか、パステルの方が好きだから」



76 荒野、一人で ◆KYxY/en20s sage New! 2008/02/11(月) 00:45:03 ID:JsM5923R
 会話に入っていけないまま、私は後ろで突っ立っていた。絵を描かないので話
題についていけないし、話すきっかけも失っていた。それに真仁の表情も、心な
しかいつもと違うような気がした。私や家族と話す時とは違う、別の顔。不安が、
胸を圧迫してくる。
 ビニールの擦れ合う音。無意識に、コートの入った袋を握り締めていた。どう
にかしなきゃいけない。自然と、体が前に出た。
「あのっ、シン」
「あっ、ごめん姉さん。すぐに済ませるから」
「違うの、そうじゃないの。私、用事思い出したから先に帰るね」
 自分でも意外な言葉が出ていた。
「そっか、じゃあ俺も帰るよ」
「いいよ、いいよ。シンはまだお買い物してて」
 言うと私は背を向け、階段を駈け降りて店の外へ出た。
 空気が、やけに冷たかった。雲ひとつなかった空はオレンジに染まり、風も吹
きはじめている。
 私は、ぼんやりと歩きはじめた。
 不安で、どうにかなってしまいそうだった。叫びだしそうになるのを、私は必
死に抑えた。なんで飛び出してしまったのかさえ見当がつかない。わかったのは、
自分が臆病だということだけだ。
 真仁と久保の距離が、思ったより近かった。心の距離だ。真仁も、久保を嫌い
ではないのだろう。それが友達感覚か恋人感覚は、真仁じゃなければわからない。
 それでも、まだ私の方が優先順位は上のはずだ。友達感覚か恋人感覚か、どっ
ちだとしても真仁は、久保より私を大事に思ってくれている。久保といたければ、
一緒に帰るなんて言葉は出ないはずだ。しかし、うかうかもしていられなくなっ
ている。
 中学までは私が近くにいるだけで、暗に真仁に近づく女を防いでいた。ほかに
も考えられるだけのことはしたと思う。それが年重ねるにつれて、意味のないも
のになりはじめている。血縁の壁が、重くのしかかってきている。まるで、私だ
けが夢を見ているようだった。私だけが、覚めない夢を。
 いつの間にか、自宅まで歩いていた。
 私は玄関の扉に手をかけた。開かない。母さんが出かけるかもしれないって言
ってたからさ。父さんの方はわからないけど。真仁の言葉が、いまさら甦ってく
る。
 しばらくその場で突っ立っていた。風が、私の体をかすめた。体中を、ようや
く憤怒が駈け回りはじめる。
 私は周囲に眼を配った。近所に人の気配はない。一歩下がり、思い切り扉を蹴
飛ばした。虚しい音が、あたりに響いた。

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最終更新:2008年02月14日 01:26
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