傷(その12)

473 傷 (その12) sage 2009/02/06(金) 02:16:08 ID:39RhaT3P

「その後……お兄様の様子は……どうなんだい……?」
「ええ、まずまず平穏無事といったところね。事件の記憶もないみたいだし」
「自分が自分でなくなった瞬間を……?」
「ええ、普通に覚えていないみたいよ。……まあ、私はプロのカウンセラーじゃないし、冬馬くんの身に何が起ころうが、慌てるくらいしか出来ないけどね」
「――話の腰を折って申し訳ないんですけど」

 その場にいた全員が、今の声の主を振り返っていた。
 憮然とした表情で足を組んでソファにふんぞり返る一人の小学生。
「あたし、やっぱり帰っちゃダメなの?」


 おゆき――現在の名を渡辺ゆき。
 冬馬の最初の養家であった景浦家の妻・美也子の私生児として生まれた少女。
 彼女が生まれた時、すでに景浦家の家長たる景浦武彦は死亡していたため、姉たる千夏と同じ景浦姓を名乗れず、結局、美也子の旧姓である渡辺姓を名乗っている。
 もっとも美也子は、景浦武彦の妻であったと同時に彼を殺した犯人でもあったから、武彦の親戚一同が、おゆきに景浦姓を許すわけもなかった。ましてやおゆきの父と目される男が、美也子に武彦殺害を直接指示した愛人であるとすれば、なおさらだ。
 その美也子も、彼女の心を洗脳して“御主人様”として君臨した愛人――当時景浦家の隣家に住んでいた医大生――も、もはやこの世にはない。


「だいたいさ、お姉ちゃんは何であたしをここに呼んだの? あなたたちが今からしようとしている話はアイツの――冬馬の話なんでしょ? そこにあたしの意見や存在が必要とは到底思えないんだけど?」

 そう言いつつ彼女は、ここに居並ぶ全員に、機銃掃射のような鋭い視線を投げかける。
 しかし、そう睨まれても、弥生や葉月に返す言葉はない。
 おゆきという少女が、冬馬に対して明確なまでのアンチの立場を貫いているのは、もはや柊木家の姉妹にとっても周知の事実だ。だから「何故こいつがここにいる?」という疑問は、当のおゆき以上に濃厚に二人は持っている。
 その必然として、彼女たちの視線が向かう先は一つだった。
 おゆきをこの場に呼んだ張本人――彼女の姉・景浦千夏。
 その千夏は、まるで問題ないと言わんばかりの涼しい表情で、おゆきの硬い視線を迎撃する。

「いい機会だと……思ったからだよ……きみに……お兄様のことを理解してもらうためのね……」

 その言葉に、今まで以上にむっとした顔をするおゆき。
「あたしは別に理解なんてしたくはないわ。あんな人殺しの事なんて」
「まあ……そう言うだろうとは……思っていたけどね……でも……席を立つことは許可しないよ……」
 これは姉としての命令だ、と最後に付け足すと、おゆきはギギギと奥歯を鳴らしそうな顔をしていたが、しかし、やはり姉には逆らえないのか、一瞬浮かせかけた腰をふたたびソファに下ろした。



 そもそも今日の、この会合をセッティングしたのは弥生だった。
 冬馬の精神退行事件を題材に、彼と過去を同じくする元妹・千夏から話を聞くというのが目的だ。
 一応、冬馬の精神状態が回復したことは伝えてあるが、千夏としても弥生たちに色々と話を聞きたいこともあるだろう。少なくとも、一晩眠って冬馬が目を覚ましたら元の状態に戻っていた、などという弥生の虚偽報告を鵜呑みにしているとは思えない。
 いずれ彼女とは、弟を巡って敵対することになるだろう。それは分かっている。
 だが、それはまだ早い。
 彼女はまだ、利用できる。

 今回の事件で、冬馬はその心の裡にまだまだ闇を抱えていることが判明した。
 ただの暗黒ではない。
 自我がその負荷に耐えられず、精神退行さえ起こしてしまうほどの黒き深淵。
 だが、彼にとって芹沢家の時代を思い出すという行為のすべてが、自我破綻のトリガーに直結しているとは、弥生には思えなかった。冬馬という少年の精神力が、そんな脆弱なものだとは、彼女にはどうしても信じられなかったのだ。
 やはり、ここは冬馬の過去に関する情報を一度キチンと聞いておく必要がある。



474 傷 (その12) sage 2009/02/06(金) 02:17:35 ID:39RhaT3P

 だから、弥生は千夏と会う気になったのだ。
 場所と時間を指定し、約束どおりに現れた千夏に、弥生はその美麗な口元を緩ませて笑顔を見せた。
 だが、そこに現れたのは千夏一人ではなかった。何故か彼女の妹であるおゆきが、千夏の背後から、苦虫を噛み潰したような顔を出したのだ。
 葉月は素直に驚いた表情を浮かべたが、弥生はさすがに動揺を表に出さなかった。
 葉月がここにいるのは、冬馬に関する情報を共有する必要があるからだ。だが、このおゆきという小学生は違う。彼女は、それこそ一方的に冬馬の存在を憎悪しているはずなのだ。ここで自分たち姉妹と並んで、彼の情報を耳にする必要はないはずだ。

 だが、まあいい。
 このおゆきという女の子が、冬馬にフラグを立てそうな兆しはない。
 ならば、彼女の存在は弥生にとって完全に無意味だ。ただ外野が一人増えただけに過ぎない。千夏がこの少女を連れてきたのは彼女の事情であろう。自分たちには関係ない。
 無論、この子が発する雑音が、自分たちの意見交換の妨げになるなら、その時初めて追い出せばいい。
――弥生は、そう思うことにした。

 そして、四人はそのまま、最寄りのカラオケボックスに入った。
 勿論、ともに歌って親睦を深めるためではない。
 10代の少年少女が、余人の耳目を気にせず声を潜める必要さえなく、密談を交わせる個室と言えば、ラブホテル以外ではカラオケボックスが最も確実な場所だと言えたからだ。



「それで……聞きたいことは……お兄様の過去のトラウマについて……だったね……」
「漠然としたテーマで済みません」
 葉月が申し訳なさげに千夏に頭を下げる。
 だが千夏は、その美しい瞳を伏せる事無く答える。
「いいさ……でも……どこまで私の話が参考になるかは……あてにしないでくれ……私は……あくまでお兄様の妹であって……景浦冬馬本人ではないのだから……」

 カゲウラトウマじゃない、柊木冬馬だ。
 そう言おうとして、弥生は咄嗟に口をつぐんだ。
 この少女にとっては、どこまでいっても冬馬は景浦姓の人間――あくまで自分の兄なのだろう。
 ならば、今はそれでいい。
 どうせ現実の冬馬は、すでに景浦家の連中とは縁が切れている。いまや歴然たる“うち”の人間なのだ。
 そんな下らぬ差し出口で、千夏の話の腰を折ってはならない。
 自分は今、千夏の話を聞くためにここにいるのだから。

「……さて……どこから……話を始めようか……」



 ぶん殴られた。
 部屋に帰ろうとリビングで席を立った瞬間、後ろから後頭部を一発。いきなりだ。
 頭がくらくらする。
 だが、ふらつきながらも相手を確認した瞬間に納得する。
 彼が犯人なら仕方がない。ぶん殴られても仕方がない理由が充分すぎるほどあるからだ。
 よろけたところに二発目は来た。みぞおちに蹴りだ。
 思わず上体が前かがみになる。
 だが、横っ面をハタかれるよりはありがたい。なにしろ顔は商売道具だ。
 でもまあ、おれはツラで人気取りができるほどイケメンじゃねえけどな、と嘔吐しそうになるのをこらえながら思う。

――と、その瞬間に、胸倉を掴まれ上体を引き起こされた。
(このヘタクソが……)
 最初の不意打ちはよかったが、やはりこいつはケンカのやり方を知らない。ここで敢えてケガを負って休暇をもらう手もアリと言えばアリだが、やはり痛いのは嫌いだ。
 上体を引っ張られる動きに合わせて逆らわず、そのまま自分の頭部を、そいつの鼻っ柱に叩きつける。

「……かっ……はっ!!」

 顔を押さえてうめき声を上げる相手の、無防備の股間を思いっきり蹴り上げた。
 それで終わりだ。ここが学校で相手がクラスメイトだったなら、とどめに一発入れてやるところだが、さすがにやめておいた。家族愛でも兄弟愛でもない。ただ、やりすぎてしまえば正当防衛に見えなくなるという小賢しい計算に基づいた判断だ。
 芹沢冬馬は、声すら立てられずに土下座の姿勢でうずくまる襲撃者を、そのまま見下ろした。



475 傷 (その12) sage 2009/02/06(金) 02:19:25 ID:39RhaT3P

 勝利の余韻などない。
 あるのは、空しさだけだ。
――芹沢真司。
 歳は冬馬より四つ上の15歳。今年で中学三年生になる。そんな彼が、小学校五年生でしかない冬馬を背後から襲うなど、異常極まりない光景ともいえるが、しかし実際のところ、彼が冬馬を恨むのは当然だった。
 真司の上得意だった某女性議員が、それまで馴染みだった真司に目もくれず、先日から三回連続で冬馬に指名を入れているからだ。
 そして、その議員は今晩、冬馬に四回目の指名を入れていると、みんなのいるリビングで聞かされたのだ。15歳の少年の自尊心は、さぞかしズタズタになったことだろう。それこそ、背を向けた冬馬に我を忘れて殴りかかってしまうほどに。

 そのまま涙ぐみ始めた真司を見て、しかし冬馬は、ざまあみろとは思わない。
 彼は15歳という年齢相応の粗暴な性格だったし、何より冬馬よりも美形だった。
 一つ屋根の下で生活を共にする年下の――しかも明らかに自分よりイケてないガキに、眼前で堂々と客を奪われたのだ。そして改めてケンカでも負けてしまった今、その屈辱は察するに余りある。
 しかもその“弟”は、自分より高い売上を誇り、自分よりいい生活を謳歌している。互いに立場が逆だったら、やはり我慢できずにブチ切れてしまったかも知れない。それこそ、彼が自分に殴りかかったようにだ。

(いや……それはないか)
――おれは多分、そんなことを悔しいとは思えないだろう。
 そのまま真司に背を見せて歩き出した瞬間、そう思った。
 自分たちの争いの成り行きを呆然と見ていた兄弟姉妹たちが途端に動き出し、まるでモーゼの十戒のように、冬馬の進む先に道が出来る。
「冬馬……ちょっと待ちなさいよ……あんた、真司に何か言うべき言葉があるでしょう?」
“姉”の一人が、硬い声をかけてくるが冬馬は振り向きもせず、そのままリビングを出る。
 無論、今夜の客に備えて自室で準備をするためだ。

(くだらねえ……)
 無論、冬馬の方から、その例の女性議員に『真司を捨てておれの客になってくれ』などと言ったわけではない。彼は自分のもとを訪れた客を、いつも通り、全身全霊でもてなしただけだ。その結果、女性議員が冬馬を選んだというなら、冬馬が彼にかける言葉などあろう筈がない。
 彼が怒る気持ちも当然だと思う反面、こんな先の見えない生き地獄のような売春宿で、客が増えたの減ったのと、まるで死活問題であるかのように騒ぎ立てる真司に、どうしようもないバカバカしさを覚えずにはいられない。
 まるで、アリの巣の中で働きアリ同士が争っているようなものだ。
 勿論、結果的に“兄”から得意先を奪ってしまった自分が言えた義理ではない。だが、それでもやはり冬馬は、そんな自分たちが、
(みじめ過ぎる)
 と、思わずにはいられなかった。

 直接手段による闘争こそ禁じられてはいるが、基本的に芹沢家とは“子供”たちの間に家族愛が発生するような環境ではない。
 この家では、顧客からの指定・予約の獲得数――要するに売上で、各個人の食事・衣類などに明確な差別待遇が生じるようになっている。売れっ子になれば受け取る小遣いの額も違ってくるし、家具つきの個室だって貰える。
 みな“子供”たちの無用の連帯を防ぎ、競争意識を煽るためのシステムだ。
 基本的に、この家の兄弟姉妹たちはみな、実質的な商売上の競争相手なのだ。その結果が日々の生活水準に反映される事を思えば、親愛の情など生まれようもない。
 たとえば先程の“兄”――真司にしても、売上ランキングでもトップ5に入る芹沢家屈指の美形ではあったが、それでもやはり、小学五年生にして自分を凌ぐ売上を誇る冬馬が、目障りで仕方なかったらしい。

(バカな野郎だ)
 冬馬はそう思わざるを得ない。
 出る杭は打たれるというが、それでも杭の打ちようというものがあるだろう。
 白昼堂々、みんなのいるリビングで殴りかかってくるなんて、バカにも程がある。
 この後、真司は間違いなく“両親”から懲罰を受けることになるだろう。
 だが、これで明確に真司の中で、冬馬はライバルではなく“敵”として意識されてしまったはずだ。
 11歳にして、ランキング三位という高順位を誇る冬馬を煙たがっている“兄”や“姉”は少なくない。可能性は薄いが、そんな彼らが団結して、アンチ冬馬の派閥でも形成するような事態になれば厄介だ。
 またこれでやりづらくなったなと思いつつ、彼は溜め息をついた。



476 傷 (その12) sage 2009/02/06(金) 02:20:26 ID:39RhaT3P

 ドアにキーを差し込み、ロックを外す。
 八畳ほどの広さの部屋には千夏がいた。
 彼女がいること自体は、別に怪しむべきことではない。冬馬は千夏にだけは部屋の合鍵を渡してあるからだ。それ以来、千夏は時間が許す限りこの部屋に入り浸っているが、特に彼女は何をするわけでもない。読書をしたり、宿題をしたりしているだけだ。
 そして今も、無言のまま文庫本を読んでいる。が、彼を見ると僅かながら表情を変えた。
 だが、冬馬は妹の何か言いたげな視線を黙殺し、ふかふかのベッドに腰を落とす。
 よくは分からないが、このベッドにしてもかなり値が張るアンティークらしい。自分みたいなガキが、こんないい寝床で安眠を貪っていると思えば、周囲が敵だらけになるのも仕方がない気分になってくる。

「…………」

 ふと気がつけば、千夏がベッドの傍らに立ち、自分を見下ろしている。
 なんだよ?
 と、目だけで訊くと、彼女は怜悧な瞳を瞬かせ、囁くように言った。
「……また……学校で……けんかした……?」
 冬馬は無言で首を横に振る。
 だが、彼女は主張を引っ込める様子はない。
「……嘘をついても……分かる……」
(相変わらず鋭いな)

 クラスメイト相手の喧嘩程度では、冬馬はまず外傷を負って帰ることはない。小学生離れした度胸と運動神経を持つ彼は、11歳という年齢に不相応なほどの喧嘩上手だったからだ。
 しかし、この一歳年下の義妹は、何故か冬馬のあらゆる嘘をすぐに見抜いてしまう。
「うそじゃない。少なくとも学校じゃ揉めちゃいないよ」
 その言葉に、千夏はまたしても顔色を変えた。今度は、心配より怯えの方が多分に含まれている。それは『揉めたのは学校ではない』という言葉が、本当だと気付いたからこそ発生する恐怖だった。

「じゃあ……ここで……?」

 千夏が慄然となるのも当然だ。
 学校でこっそり暴れるのと、この芹沢家内で一悶着を起こすのではまったく事情が違う。
 この家にいる“子供”たちは、ただの無邪気なガキではない。その肉体を資本とする労働者であり、商品そのものなのだ。それが互いに拳を振り回し、傷を付け合うことなど許されることではない。だから基本的に“家庭内”の諍いはケンカ両成敗が常の掟だった。
 両成敗と言えば聞こえはいいが、早い話が、喧嘩に関与した両者平等に罰を与えるという事だ。そして、この芹沢家は尋常の家庭ではない。ゆえに、この家の折檻も、通常の躾の範疇を逸脱したものであることは言うまでもない。

(囚人同士が喧嘩するのを見過ごす看守はいない、か)
 そう、ここは牢獄だ。そして自分たちは、檻の中で這いずり回る受刑者だ。
 高い塀に囲まれているわけでもなく、鎖に繋がれているわけでもない。
 だが、逃げることなど出来ない。それは自分の身を以って知っていた。
 かつて冬馬は、この芹沢家に引き取られて以来、千夏を連れて何度となく“脱獄”を図っている。だが、警察以上のコネクションとネットワークを誇る芹沢家の前に、ことごとく失敗し、その度に二人は手酷い折檻を受けていた。

 自分一人ならいい。
 たとえ、どんな拷問を何回くらおうが、耐える自信はある。
 だが、千夏は違う。あの凄絶な折檻を何度もこらえる事は彼女にはできないだろう。
 千夏を置いて、自分ひとりで逃げ出すなどという選択肢は、冬馬の中にはない。
 つまり、自由になろうとあがくたびに、そのペナルティに千夏を付き合わせることになるという事だ。あの小さくか弱い妹の上げる悲鳴を、耳を押さえることさえ許されず、最後まで聞き届けねばならないという事だ。

 結局、彼は理解せざるを得なかった。
 もう自分たちは逃げられないのだと。
 芹沢に抵抗することなど出来ないのだと。
 黒いランドセルを背負って小学校に通いながらも、教師に真実を告げるでもなく、毎日毎日寄り道さえもせずに、真っ直ぐこの獄舎に帰宅してくるのはそのためだ。
 どうせ彼ら“子供たち”が通う一貫教育の学校法人も、理事として金を出している芹沢には逆らえないし、厚生労働省の役人どもも同じく抱き込まれている。広域暴力団にさえ顔が利く芹沢に抵抗するには、あまりにも自分たちは無力すぎる。
 飢え死にしたくなければ、言われるがままに股を開き、尻を振るしかないのだ。



477 傷 (その12) sage 2009/02/06(金) 02:21:43 ID:39RhaT3P

 そのとき、冬馬の携帯が鳴った。
 画面を開いて、メール内容を見る。そこには551と書かれていた。

「ひぃっっ!!」

 千夏が反射的に息を飲む。
 芹沢夫妻からの業務連絡は、大抵数字の形をとる。
 551という数字が意味するものは、芹沢家の“父”たる孝之の部屋への呼び出し……。

(まあ、さっきの件で呼ばれただけなら、まだいい)
 実は冬馬には、真司との喧嘩などよりも遥かに深刻な意味で、“父”からの召喚を怖れる理由がある。もし、この一件が暴露したなら、規定の折檻どころではない。“父”は決して自分を許さないだろう。

 だが、この妹に、そんな事実を話す気はない。無用の心配をかける必要もない。
 冬馬が、まがりなりにも、この芹沢家で“人間”であることを維持していられるのは、この美しい妹のおかげなのだ。もしも千夏がいなければ、とっくの昔に男娼である自分を受け入れ、指名や予約の数に一喜一憂するようになっていたかも知れない。
(冗談じゃねえ)
 そこまで堕ちるくらいなら死んだほうがマシだった。
 彼が売春者としての生を余儀なくされながら、自殺も発狂もせずに生きているのは「自分が一人でも多くの客を捌けば、その分、千夏が身を汚さずに済む」という思考が、彼の心の内にあるからだ。
 だから、ランキング三位の高売上も、自分を贔屓にする大勢の上得意も、報酬として得た食事や個室といった高水準の生活も、冬馬からすれば特に意味はない。こんなものは「汚れるのはおれだけでいい」という意識が導いた、単なる結果に過ぎないからだ。

 だが、“父”の呼び出しの用件次第では、それらはすべて水泡に帰す。
 今更ながらに冬馬は、どこまでいっても籠の鳥な自分たちに絶望するしかない。
 できることはただ祈ることくらいだ。
 芹沢孝之の用件が、真司との一件だけでありますように、と。

「心配するな、今回のは正当防衛だ。目撃者もいるし、言い逃れくらい幾らでも出来るさ」
「……でも……おにいさま……」
「心配するな」
 冬馬は寝転んだまま、そっと千夏の頬に手を伸ばした。
「おれは大丈夫だ」



「真司と揉めたそうだな」

 バリトンの利いた声でそう言いながら、彼はパイプの中身を詰め替えると、おもむろに火をつけた。
 日本人がパイプを愛用するのは珍しいが、彼はまるでNHKドラマのシャーロック・ホームズのように、それを扱う姿がいかにも堂に入っている。

 彫りの深いダンディな容貌。
 髪に混じる僅かな白髪さえサマになるロマンスグレー
 齢50を迎えながらも、スポーツで鍛え上げた186センチ85キロの逞しい肉体。
 明治維新以来の御用商人を家祖に持ち、大手企業間の資産融資を任されるほどの莫大な財力を持ちながら、世界中の難民や被災者たちや、その支援団体にも寄付を惜しまず、そして自らも全国から20人以上の孤児を自宅に引き取り、養育している一代の慈善活動家。
 その裏で、政・財・官のあらゆる大物たちを顧客とする高級娼館を経営し、その報酬として得た株価情報や政策上の優遇措置で、さらにその財を増やしつつある政商(フィクサー)。
 彼は、強制売春発覚後「平成のジル・ド・レー伯爵」「戦後最大の偽善者」などと呼ばれることになる。
――それがこの男、芹沢孝之だった。

「あれは正当防衛ですよ。殴られたから殴り返しただけです」
 それを聞いて、鼻を鳴らして芹沢が苦笑する。
「まったく、大したやんちゃ坊主だな」
 そんな芹沢を見て、冬馬は少しホッとした。
 どうやら今回の呼び出しは、真司との一件だけが原因らしい。
 ならば、こんな場所にもう用はない。
「とりあえず、リビングには咲良(さくら)姉さんや千鶴(ちずる)姉さんたちもいたから、訊けば答えてくれると思います。おれは被害者だってことをね」



478 傷 (その12) sage 2009/02/06(金) 02:22:37 ID:39RhaT3P

 それには答えず、無言でパイプから煙を吐き出す芹沢を見て、冬馬は失礼しますと言って背中を向けた。
 がんじがらめの規則と懲罰、そして競争原理だけが支配する芹沢家で、誰もが恐れる“父”に、こんな生意気な態度をとるのは冬馬だけだ。それが咎められもしないのは、彼は“営業成績”で充分すぎるほど結果を出しているからだ。
 だが、今は違う。
 いまの冬馬の心は、なによりも芹沢に対する怖れで埋め尽くされている。しかし、後ろ暗いところがあればこそ、いつも通りの態度を貫かなければ、芹沢はすぐに冬馬を怪しむだろう。態度を改めねばならない何かがあったのかと疑うだろう。
 ならば普段以上に“普段”を演じて見せねばならない。

「いや、待ちたまえ冬馬。今日ここにお前を呼んだのは、話がもう一つあるんだ」

 恐怖で脚がすくんだ。
 ばれたのか、という思いが瞬時に浮かぶ。
 だが、すぐにおびえを掻き消し、振り返る。
「なんです?」
「実はな、工藤さんが長期でお前を借り受けたいと言うんだよ」

 さすがの冬馬も血の気が引かざるを得ない。
 いま話に出た工藤啓太郎とは、前政権の閣僚であり、現在もなお与党幹事長のポストに座り、政界の重鎮として世間に知られている大物政治家だが、かつて芹沢家では、その妻の瑛子と二人、夫婦で顧客リストに名を連ねていたこともあった。
 ロリータ・SM・同性愛・乱交からスカトロまで、普通のセックスに飽きた人間が、金にあかせて変態性欲を発散する芹沢家。獣姦ショーのための豚や犬さえ専門的に飼育するこの館に於いても、彼ら夫妻は“子供”たちが最も恐れ忌み嫌う客であった。
――彼ら夫妻は、それこそ人間離れしたサディストであったからだ。
 しかし、不審でもある。
 彼ら二人は、以前この家の“娘”を一人、再起不能にしてしまったことから、芹沢家には出入り禁止となったはずだ。現にその事件以降、工藤夫妻はこの家に顔を出していない。
 だが、それを怪しむ余裕は、冬馬にはなかった。

「長期……ですか……」
「ああ、先方の希望では半年だそうだ」

 冗談ではなかった。
 冬馬はこれでも芹沢家での暮らしは長い。これまで彼ら二人の相手をしたこともあった。それこそ思い出すだけで鳥肌が立つような目に遭わされたが、それでもあれは一夜のことだ。一晩の相手ならば、たとえ何をされようが幾らでも我慢して見せる。
 だが長期となれば話は別だ。
 あの人面獣心の変態どもを、たった一人で半年も相手に出来るはずがない。
「もちろん……断ってくださったん……ですよね?」
 頬を引きつらせながら冬馬が尋ねる。
 だが、芹沢はさほど表情を変えずにパイプから煙を吐き出した。


「いいや。――明日から早速、君には工藤さんの家に行ってもらう」


 冬馬は絶句した。
「……なんで……?」
 まさしく理由が分からない。
 この家にとって“子供”は商品だ。だから芹沢は、少しでも彼らの体調や精神に異変があれば、まず大抵の場合は“仕事”をさせない。商品のケアやメンテナンスは、業者にとっては大切な仕事だ。芹沢は人間がいかに脆く、壊れやすいかを知り尽くしている。
 だから、工藤夫妻のような人間に、大事な商品を半年も預ける意味を、芹沢が理解しないわけがなかったし、ましてや冬馬は、この家屈指の売上を誇るドル箱の一人だ。何の理由もなく、彼ほどの売れっ子を潰すような決断を、芹沢がするとは思えなかった。
(理由もなく……?)

――そうか……。
 冬馬の顔が戻った。
 驚愕と絶望が消え、理解と諦念がその表情に現れた。
 これは報復なのだ。芹沢孝之から芹沢冬馬への。
「……知ってるんですね?」
「ああ」
 芹沢の目に、初めて激情の色が灯った。


「おまえ、家内とはいつから続いている?」




479 傷 (その12) sage 2009/02/06(金) 02:23:50 ID:39RhaT3P

 自ら引き取った養子に肉体を売らせている彼が、意外なほどの愛妻家である事実は、関係者筋には有名な話だ。少なくとも“家族”たちの中では、その事実を知らぬ者はいない。
 彼ら夫妻に生殺与奪の全てを握られている“子供”たちが、もし彼の妻と関係したなどという事実があれば、芹沢孝之がそれを許すはずがない。それこそ、可能な限り残酷な方法で殺されてしまうだろう。それこそ、拾った百円を自分の財布に入れる当然さでだ。
 そして今回、芹沢が自分を裏切った“息子”に取った処置が『工藤家への追放』というわけだ。
 これはある意味、絞首刑や電気椅子よりも遥かに苦痛を伴う処刑と言えるだろう。
 ならばもう、冬馬としては開き直るしかない。

「半年ほど前、からです」
「何回寝た?」
「7回、です」
「誘ったのは家内の方なのか?」
 それこそ回数を訊く以上に無意味な質問だ。
「おれたちに、“お母様”の言葉を拒絶する権限はありませんよ」
 それを聞いて、芹沢の目が怒りのあまり真っ赤に充血する。
 だが、たったいま逃れられぬ“死”を宣告された冬馬には、もはや芹沢を恐れる理由は無かった。
「あなたより『いい』って言ってくれましたよ。“お母様”は」

 だが、冬馬のやけくそな挑発を聞いても、さすがに芹沢が激昂する事は無かった。
「おまえ……確か、そろそろ誕生日だったか」
 一瞬、虚を突かれたような顔になる冬馬だったが、なんとか頷いた。
「……来月の9日で、12歳になります」
「そうか」

 そのまま一息、パイプから大きな煙を吐き出すと、芹沢は改めて冬馬を見た。
「冬馬、お前の気持ちは分かる。家内の方から声を掛けたのであれば、それは誘惑ではなく命令だ。お前がさっき言った通り、拒むことなど出来るはずが無い。だから、そんなやけっぱちな口を利きたくなる理由も理解できるつもりだ」
 芹沢の口調は重く、その表情は、むしろ沈鬱でさえあった。
「しかし、私は家内を愛している」
「…………」
「だから私は、家内に何度裏切られようが、それを咎めるつもりはない。だが、――おまえは別だ。男として、夫としての感情が、お前を許すことを認めない。だから冬馬、私は工藤さんに言っておいた」


「お前を殺しても構わない――とな」


 この芹沢という男が、見かけ通りの温和な紳士などではないことは十分承知している。
 だが、それでも冬馬は、この芹沢がここまで怒りをあらわにするのを初めて見た。
 彼がいま口にした言葉――それは死の宣告だった。いかに冬馬が気丈な少年とはいえ、彼はまだ小学五年生のガキに過ぎない。恐怖と後悔で、眼前が真っ暗になる。
 しかし、同時に怒りも沸いた。
 何故、おれが死なねばならないのだ。
 この鬼畜外道に、そんな事を言う資格がどこにある。
 そう思った瞬間だった。

「確か、お前の――景浦さんは、間男にそそのかされた奥さんに……刺されたんだったな」

 冬馬の顔色が変わる。
 その言葉を聞いた瞬間に、自暴自棄な表情が凍りついた。

「分かっているだろうが、お前がやったことは、その間男と同じことだ」

 手が震えた。
 今にも膝が崩れ落ちそうになるのを懸命にこらえる。
 頭の中はすでに真っ白だ。
 反論の言葉さえ出てこない。
 ドブの中を這いずり回るような日常を冬馬と千夏に強制する、夢魔のような男。どういう形にせよ、そんな芹沢に屈辱を与えたというなら、それは全ての抵抗を封じられてきた冬馬にとって、初めてこの男に一矢報いた行為であると言えるかも知れない。
 だが、それでもなお、冬馬は呆然とならざるを得ない。
 優しかった義母を狂わせ、尊敬する義父を殺させた、あの医大生と同列に並べて語られるなど、冬馬の中ではまさしく、身の破滅以上にあってはならないことだったのだ。

 焦点の合わぬ目をする冬馬に、芹沢は言った。
「千夏のことは心配するな、私が最後まで面倒を見る。だからお前は……せいぜい苦しんで死んでくれ」



480 傷 (その12) sage 2009/02/06(金) 02:26:41 ID:39RhaT3P

 しかし、結局のところ、冬馬は死ななかった。
 彼にとっては幸運なことに、工藤夫妻のもとに身を寄せて一ヶ月ほど過ぎた頃に、冬馬は解放され、自由の身になった。いわゆる芹沢家強制売春事件が世間に発覚し、芋ヅル式に出た逮捕者の中に、当時の与党幹事長・工藤啓太郎の名前があったからだ。
 だが、工藤家の私邸から救出された冬馬の肉体は、見るも無残な傷だらけの状態になっていた。――その日はちょうど彼の12歳の誕生日の前日であったという。

 だが、生きて帰ってきてくれたという事実こそが重要なのだ。
 自分の目の前で、すやすやと寝息を立てる弟を見て、弥生は改めて思う。
 腕時計の針は午後十一時。
 今日、カラオケボックスで行われた会合から、すでに数時間が経過していた。


「……アイツの不幸自慢をいくら聞いたところで、お母さんが帰ってくるわけじゃないでしょう」


 それでも悔しげな顔をしながら、おゆきはそう言い、カラオケボックスから出て行った。
 葉月は憤慨していたが、弥生にはおゆきの気持ちも少しは分かる。
 獄中の面会室で「釈放されたら一緒に暮らそう」と言った美也子。そんな母を拒絶した冬馬を、おゆきは激しく憎んでいる。冬馬が拒絶したからこそ美也子は自殺したと固く信じている。
 そんなおゆきにとって、冬馬を理解するということは、その怨念に縋って生きてきた、これまでの時間をすべて否定することになる。おいそれと納得出来るはずが無い。
 千夏が妹を追わなかったのも、そんなおゆきの気持ちが分かるからだろう。

 だが、そんな話は弥生にとってはどうでもいい。
 知りたい情報を聞くことは出来たのだ。弥生にとって今日の会合は大成功だったと言える。
 ちらりと腕時計を見る。
 そろそろいい頃合だろう。
 彼が床に就く前に飲ませた、熱い煎茶。そこに例の薬を一服盛っておいた。
 普段から宵っ張りの冬馬が、日付も変わらないうちから前後不覚に眠りこけているのは、そのためだ。だが、弥生は何も、彼に安眠をプレゼントするために薬を飲ませたわけではない。

「冬馬くん、起きなさい冬馬くん、冬馬くん」
「……んんん~~~~?」
「起きた?」
「……んだよ……どしたの姉さん……?」
 寝入りっぱなを叩き起こされ、不機嫌さを隠さず眠たげに目をこする。
 そんな弟に、弥生は亀裂のような酷薄な笑顔を見せる。
「姉さんじゃないわ、忘れたの、ぼうや?」
「……え?」


「私の名は工藤瑛子。芹沢冬馬――あなたにとって私は何?」





481 傷 (その12) sage 2009/02/06(金) 02:31:04 ID:39RhaT3P

 寝起きの表情は、一瞬にして消し飛んだ。
「おく……さま……」
 冬馬の顔面は蒼白になり、唇は紫色になり、目は大きく見開かれ、口元からは歯の根が合わない音がカチカチと鳴った。すべて恐怖という感情がもたらしたものだ。
――工藤瑛子。
 芹沢家における冬馬の最後の客。その夫・工藤啓太郎とともに、胸の『ドレイ』と背中の『犬』の二つの文字をはじめ、いまだに残る凄まじい傷痕を冬馬の肉体に刻み込んだ張本人。冬馬にとっては、芹沢以上に絶対に逆らえない主であり、恐怖と畏怖の具現化。

 そう、弥生にとって最も知りたかったのは、彼が絶対に逆らえない人間の名前。その名を聞くだけで足がすくみ、背中が震え、掌を汗で濡らしてしまう、そんな人物。
 それには、芹沢孝之こそが最も相応しいかと思われるが、そうではない。芹沢はおそらく、冬馬にとっては憎悪の対象でこそあれ、恐怖の対象ではなかったはずだ。冬馬の性格を推し量れば、弥生にもその見当はつく。

 弥生の目的は一つ。
 薬を使った後催眠暗示を冬馬にかけ、「私が工藤瑛子だ」という合言葉を聞いた途端、自分を、彼にとって絶対に逆らえないその人物だと思い込むように暗示をかけること。
 つまり先日、葉月が偶然呼び出した『不能になる以前の彼の人格』を、いつでも自由に召喚し、絶対の支配下に置けるようにすること。
 無論、正気に返す方法はすでに確立されている。
 以前取ったやり方と同じだ。彼の精神年齢を現在に回帰させてやればいい。


「僕にとって奥様は……永遠の忠誠を誓った御主人様です……っっっ」


 恐怖に引きつった顔で懸命に跪く冬馬に、弥生は艶然と微笑みながら、最初の命令を出した。
「とりあえず、その、だらしないモノを硬くしなさい。一分で勃起できなかったら、おしおきよ」


to be continued.

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最終更新:2009年02月08日 20:32
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