とある魔術の禁書目録 自作ss保管庫

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洒涙雨 1 ―前編―



 とある海辺の旅館。さりとて豪華でもなく、かといって貧相な訳でもない、そんな何処にでもある旅館に上条当麻はいた。
 夏休みという事もあって、現在、両親プラス乙姫と一緒に宿泊中である。前回は散々な家族旅行だったので、今回は無事かつ恙無くかつ楽しく終わる事を切に祈っている。
 インデックスも誘ったのだが、ほぼ同時期に声を掛けてきたステイルの方へとくっ付いて行った。最近、インデックスとステイルがすごく仲が良いのがちょっと気になる。

(アイツらの仲が良いのは嬉しい事だから別にいいけどな)

 そんな事を考えつつ上条は、まだ昼間だと言うのにお風呂セットを手に大浴場へてくてくと歩いていた。
 両親と乙姫は先に海に行ったが、ここに来るまでに汗だくになってしまい、汗を流してから遊びたかったのだ。
 その途中、予想外極まりない人物と廊下でばったりと出くわす。
 何でコイツがこんな所に居るんだろうかとか、他にも気になった事はたくさんあったが、とりあえず口から出た言葉はその疑問とはかけ離れたものだった。

「げっ、ビリビリ……」

 驚きの表情でうめく様な声を上げる上条の正面にいるのはとある見慣れた少女。彼の呻き声を受けて、彼女の整った顔が不穏な様相を醸し出している。
 しかし上条からすれば、事あるごとに電撃やタックルをかまされているので、そのうめきは些か仕方ないのではなかろうか。

「……いい加減焼くわよ、アンタ」

 等と表情以上に不穏極まりない言葉を吐くのは、電撃ビリビリ姫こと御坂美琴お嬢様。
 何でコイツは出会う度にこう、及び腰になったりすぐにどっか行ったりしてしまう事が多いのだろうか。それが自分のせいだとは分かっていても、やっぱり、そういう反応はされたくないと思う。だって、そういうのって結構、寂しいし……。

(そりゃあ事あるごとに電撃ぶっ放すのは悪いと思ってるけど……)

 不満げにとがった唇から上条には聞こえない声量で美琴は呟く。
 美琴とて何も好きで電撃を放っている訳ではないのだ。
 上条の姿を見る度に、上条の声を聞く度に、上条を想う度に、何故か鼓動が痛いほどに逸る。そのくせ、それは苦しいのに心地よい。
 なんでそうなるのかわからない。自分の中にある、上条への莫大な感情が原因だとは思っているのだが、それが何故にどうして繋がるのかがさっぱりわからない。

 彼の姿や声はとても安心して、嬉しくも優しく、そして暖かいものが心にふわ、と灯っていく。けれど同時に、恥ずかしさにも似た戸惑いが心をかき乱す。
 抗いようのない程に込み上げてくる苦しくも切ない想い。けれどとても暖かく心地よい身を委ねたくなる衝動。
 この感情の名前を美琴は知らない。生まれて初めて感じる、全くの未知のものだ。
 苦しいのに心地よい。切ないのに暖かい。そんな相反する想いが同時に心の中に生まれていた。

 普段は大人ぶっていても心はまだまだ幼い子供。美琴の心は複雑に絡み合ったそれを解く術を知らない。
 この衝動はなんという名前の想いなのか。それが分からないからイライラして。でもそのイライラが嫌じゃないのも事実で。
 初めて抱く名も知らない感情に戸惑い混乱していて、けどそれを上条の前で表面に出すのは恥ずかしくて。
 結果、電撃を放ってしまう。という訳だ。

(その苦労を少しはわかれ! この鈍感バカ!)

 と、美琴は内心で正面に立つ少年を軽く罵倒する。
 その正面、未だ美琴を驚愕の表情で見ている上条は当然、美琴がそんな事を考えているなんて知りもしない。
 故に、美琴の言葉を真正面から受け取り、驚きから徐々に怯えに表情を変えながら返す。

「や、焼くって言うと、お嬢様の電撃でこんがりウェルダンな上条さんに……!?」

 びきり。美琴のこめかみに盛大に青筋が浮かび上がる。ついでに表情の険悪さもレベルアップしていく。
 何故だろう。ついさっきまで上条の事を考えていたからだろうか。その内容と全く異なる上条の言葉がとってもイラつく。
 もっとも、上条から見れば相当に理不尽なイラつきではあるのだが。

「本当に焼いてあげましょうか……? 焼き加減は選ばせてあげるけど……?」

 ついでに言葉の険呑さも何割か上がっている気がする。
 その言葉に上条の体が確実に数歩は後ろに音を立てて下がる。
 片腕を腰に当て、まるで悪役の如く屹立している美琴はそれを視界に収めながら、何かを吐き出すように深く息を吐く。
 上条はそれを怪訝な表情を浮かべて眺める。

「はぁ……。やめやめ。こんな所に来てまで騒いでらんないわよ」

 腰に当てていた手を離しパタパタを振りながら言う美琴に、上条はふと浮かんだ疑問を口にする。

「それはつまり学園都市だったら電撃の1つや2つ飛んできたという事……?」
「当たり前じゃない。超電磁砲くらいは覚悟しなさい」
「そんなあっさり当たり前とか言わないで!? そして超電磁砲を『くらい』って言わないでください!?」

 今度はびしっ、と上条を指さしてあっさりと答える美琴に、上条は悲痛にも聞こえる叫びを返す。
 そのやり取りに上条は激しい既視感を抱くも、それはすぐに解決する。何の事はない。彼の日常の一部となっているいつものやり取りだ。
 それが日常になっている事に軽くため息を吐く。
 彼としてはそんなアクティブ極まりないやり取りではなく、他愛のないおしゃべりとかお出かけを所望しているのに。美琴にそれが届くのはいつの事になるのやら。

(そっちの方が絶対楽しいと思うんだけどな~)

 そう思いながら上条は何となく美琴の前へと立つ。向こうも気にした様子もなくただ見ていた。
 美琴の前に立った上条は、落ち着いた所でようやく聞きたかった事を口にする。

「ところでお前、何でここにいるの?」

 言いながら上条は美琴の恰好に目をやった。
 見慣れた制服ではなく、初めて見る私服姿だった。学園都市ではないのだから当たり前だが、やたらと新鮮味がある。髪型もいつもと違い、前髪を全て髪留めで留めていておでこ全開だ。
 手にはお風呂セットがあるので、彼女も大浴場へ向かう途中だったんだろう。よく見れば、顔には汗が流れた後がうっすらとあった。

「夏休みだし、私は母と家族旅行よ。アンタは?」

 考える事はみな同じなのか、美琴も上条と同じ理由でここに居るようだ。けれど、何かがふと脳裏を過ったのは果たして上条の気のせいか。
 その予感を無視して上条は美琴に応える。

「俺も家族旅行だよ」
「アンタも? 珍しい事もあるのね」

 こんな偶然あるんだろうか。訝しみ小さく眉根を潜めた美琴の脳裏に、上条と同じ何かがよぎる。

「なぁ~。まさかお前がいるとは思わなかったぞ」
「それは私もよ」

 言いながら2人は、向かう場所は同じのようなので大浴場へ並んで歩いていた。
 上条も美琴も、何故コイツがここに居るかで混乱していたので、その理由さえ分かってしまえばいつも通りだ。お互い、言い知れぬ予感めいた何かを感じてはいるが。
 大浴場へ続く一本道の途中、廊下の壁に貼ってあったポスターを視界の端に収めた美琴は、隣を歩く上条へ気付いた様に尋ねる。

「そういえばさ、アンタ知ってる?」
「知らない」
「…………」

 やっぱり焼いてやろうかしら。間髪いれず返してきた上条の言葉に、美琴の顔が再び怒りに歪む。
 その隣、正面を向きながら歩いている上条の、常に研鑽されている不幸センサーが警報を発した。センサーを頼りに隣を見ると何やら危ない雰囲気。

「え、えーっと、なにをでございましょう?」

 愛想笑いを浮かべつつ上条は今度はちゃんと問い直す。
 その声を受けて、美琴はまるで子供の様に拗ねた。唇を少し尖らせ、上条と目を合わせないように壁を見ながら歩く。
 興味がなさそうな声音で即答されたのがちょっと傷付いた。

「知らないわよっ」
「え、えー……」

 その反応に困る上条。初めて見る美琴の態度に戸惑いを隠せない。
 美琴が何を言おうとしていたのかはもうどっかに放り投げて、上条はまず美琴のご機嫌を回復させようと色々と頑張ってみた。
 しかし何か話題がある訳でもなし。美琴の大好きなゲコ太の話を取り出そうとするも、上条はゲコ太の事を知らないのでその後がどうしても続かない。
 で、結局、お嬢様のご機嫌を回復させる事が出来ないまま、女湯と書かれた暖簾の前に到着してしまった。

「え、えーと、美琴サン? あ、あのまだ、怒っておられるのでございますのでせう……?」

 上条の困り果てた、時おり上擦る声と表情。
 対して美琴は背中を向けたまま、上条の声に体を一度大きく揺らすも振り向きもせず声も返さない。そのまま何も言わず中へ入っていく。

「…………はぁ」

 美琴の姿が入口の暖簾に隠れ、奥へ消えた所で上条の肩ががっくりと落ちる。
 そのままトボトボと凹んだ背中を見せながら隣の男湯の暖簾をくぐる。
 脱衣所で適当に籠の前に立ち、心なし力ない素振りで、脱いだ服を籠の中に入れていく。

(やっぱりアレがだめだったのか……?)

 脱ぎながら先ほどまでのやり取りを思い返す。
 思い当たるのは美琴の言葉に即答した事。どう考えても問題はそれしかない。
 上条としては、ただのいつもの戯れのつもりだったのだが、向こうはそうは受け取らなかったようだ。

「女子って難しい……」

 世の男どもの共通の思いを口にしながら大浴場へと消える。
 もっと面白おかしくお喋りしたいんだけどなぁ、アイツとは。その方がアイツも俺も絶対楽しいって。

(って、何で俺、アイツとこんなにお喋りしたがってるの?)


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 女湯の大浴場、その端っこに美琴はいた。自分しかいないのにわざわざ端で、しかも膝を抱えて小さくなってお湯に浸かっていた。
 鼻のすぐ下まで浸かっていて、ぶくぶくと顔の前に泡が断続的に音を立てている。

(何なのよアイツはぁ……!)

 温泉のせいか、はたまた別の理由があるのか、顔に朱が入っている美琴は先ほどまでのやり取りを思い返す。
 その中で真っ先に思い浮かぶのは入り口の前での上条の言葉。
 思い出すだけで嬉しい様な恥ずかしい様な。複雑な感情が美琴の胸中で渦巻いていく。たったアレだけの事で、何で自分の心はこうも揺れ動くんだろう。
 そんな感情を素直に受け止める事が出来ず、照れを隠すにも似た心境で内心、元凶へと八つ当たる。

(なんで! なんであのバカはこんな時に名前呼ぶのよ!)

 明らかに温泉とは違う理由で顔を真っ赤にして、傍から見れば少々的外れな事を心の中で叫ぶ。
 別に呼ばれた事に腹を立てた訳ではない。それは恥ずかしい以上に嬉しい。
 なんというか、状況が気に入らない。自分としてはもっと和やかな、もしくは楽しい時にさりげなく呼んで欲しかった。
 だから、嬉しいけども、その感情を素直に受け取る事が出来ずにいた。

(あーもうっ!)

 何だか訳がわからなくなってきて、内心で怒鳴り声を上げ、ひと際巨大な泡を顔の前に作る。その後は、ため息でも吐いたのか、小さい泡がぶくぶくと音を連続して音を立てた。
 長い息を吐いて少し落ち着き、美琴は顔をお湯から出し天井をぼーっと眺める。

(そういえば初めてかもしんない。アイツに名前で呼ばれたのって)


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 元々汗を流したかっただけなので、大した時間もかからずに美琴は温泉から上がった。
 ほとんど同じタイミングで隣の男湯へと消えていった筈の上条の姿は見えなかった。きっと先に上がって部屋に戻ったんだろう。
 美琴は今、宿泊中の部屋に戻り、お風呂セットその他諸々をカバンから出し入れをしている。
 この後使う物、使いそうな物を自身の脇に置いているとふと気付き、携帯を手に取り母へと電話を入れる。
 あるとは思うのだが、それでも念のため確認を取りたい。

(んー、携帯持ってるかな)

 部屋からは聞こえていないので持っていてはいると思うのだが、今その手に持っているかどうか。なんせ今母がいるのは海だ。
 電話をかけて5コール目の途中、コールが途切れたかと思うと向こうから声が聞こえてくる。

『お、美琴ちゃんお風呂上がったのね。どうかしたの?』

 周りが騒がしいのか、電話越しの母の声は少し大きい。
 美鈴の後ろに聞き覚えのある声が聞こえた気がしたが、気のせいだと切り捨て、美琴は脇に置いたものを手に取りに尋ねる。

「あ、うん。一応確認しとこうと思って。そっちって更衣室ある?」
『離れてるけどちゃんとあるわよ。少しぼろっちぃけど』
「ん、わかった。ありがと」

 簡単な応答をして携帯を閉じる。
 よかった、と美琴は手に持った物、水着を小さなカバンに詰め替えながら安心する。
 折角海の近くの旅館に泊っているのだし、海で心行くまで泳ぎたいというものだ。
 水着や日焼け止めなどを詰め終え、美琴はカバンを手に部屋から出る。が、引き戸に手を掛けた瞬間、美琴の直感が何かを感じ取った。気がした。

(まさか、ね……)

 諦めつつ、それでも一切の期待をしていないと言えば嘘になる。そんな心持で美琴は引き戸を開け廊下に出る。
 ガラッと音を立てて開いた引き戸の向こうは誰もいない、無人の廊下。

(ま、当然よね)

 期待が思いのほか大きかったのか、寂しさが美琴の心に積もっていく。
 寂しさを振り払う様に首を軽く振り、カバン片手にビーチを目指し廊下を歩く。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 きらめく太陽が肌を焼き、潮の匂いが鼻をくすぐり、楽しそうな人々の声が耳を打つ。その海辺から少し離れた所にある、外観は古びれたコテージに見える更衣室。
 その更衣室の前。それぞれ中から出てきた所で2人はばったりと出会った。

『…………』

 今、この心に生まれている、何とも言えない感慨はなんという名前なのか。諦観じみた予感。あるいは他の何かか。どちらにせよ、とある少年と少女はお互いに顔を見合わせて呆然としていた。
 しばし、2人は顔を無言のまま見合わせていたが、少年が先に口を開く。

「……あー、うん、俺は何となく先が読めたんだけど、そっちはどうだ?」

 少年、上条はもはや呆れを通り越し明日の天気でも聞く感じで問いかける。

「……奇遇ね。私も先が読めたわ」

 少女、美琴も彼と同じ雰囲気を纏い淡々と返す。
 しばし顔を見合していた2人だが、どちらともなくほぼ同時にため息を零す。その直後、上条は何かを思い出したように美琴から慌てて視線を外し、歩きだす。
 向かう場所も目印も分かっているのでその歩みが迷う事はない。

「ちょ、ちょっと? 先に行かないでよ」

 という、後から追いかけてくる美琴の声も何処か遠い。
 何故だろう。美琴の姿を直視できない。顔が熱いのは照りつける太陽のせいなのか。
 次第に顔だけでなく体全体まで熱くなってきた気がして、羽織る程度だったパーカーを脱いで無造作に手に掴み、なにを思ったか美琴へぶん投げる。

「わっ!? いきなり何すんのよ!」
「……それ、着てろ」
「え? なんでよ」
「いいから着てろって!」
「っ!? わ、わかったわよ……。そんな怒鳴らくてもいいじゃない!」

 上条の荒げた声に渋々従い、美琴は彼のパーカーに袖を通す。
 美琴の当然とも言うべき文句に小さく返しつつ、上条は口から零れそうになる何かを抑える様に、口元を右手で覆う。

(アレは反則だろう……)

 追いついて隣を歩いている美琴の姿を横目に思う。
 場所は海なのだから、美琴の恰好は当然、水着だ。別に水着が派手でもなければ、特別綺麗という訳でもない。それに、こう言っては失礼だが、彼女のスタイルは控えめで、とりわけ目を引くものでもない。
 しかしそれでも尚、美琴が視線を集めるのは、ひとえに彼女が元から持つ、人を引きつける不思議な魅力に他ならない。その魅力の影響は何の例外もなく、上条へも届いていた。

(御坂ってこんな可愛かったっけ……!?)

 もう一度チラッと横目で美琴を見やる。視線に気付いた美琴が返した上目遣いに、上条の心臓に激しい動悸が襲いかかる。

(やっぱ反則だろ!? つーかこの動悸は何なんでせう!?)

 素早く且つ乱暴な素振りで首を正面に向ける上条に、美琴は不思議そうな表情と共に視線を送る。
 美琴の方を見ない様に前を歩く。けれどそう思えば思うほど、隣を歩く少女を意識してしまう。
 何故か分からないが、気付けば美琴を直視できない。
 前が開いているパーカーからちらちら見える美琴の露出した肩やうなじに首筋、潮風に靡く綺麗な栗色の髪が多大な破壊力を持って上条を襲っていた。しかも美琴が着ているパーカーは自分の物。

(だーもう! なんなの!? 上条さんどうしちゃったの!? もしかして俺って変態さん!?)

 心に襲いかかる、得体の一切知れない衝動に上条は困惑する。
 初めて感じる感情に困惑する上条の隣から少し後ろに下がり、しょんぼりした風情で歩く美琴。

(なんでこっち見てくれないの……?)

 上条と初めて一緒に来た海。それは期せずして叶った事だが、一緒に海、というのはやっぱり嬉しい。
 水着姿を見せるのは恥ずかしいが、それでも心のどこかでは見て欲しいという思いもある。この鈍感バカにそれほど大きな期待はしていないが、何か言って欲しいとも思っている。
 なのに、上条は早々にそっぽを向いてしまったどころか、パーカーをぶん投げられ、折角の水着も隠す羽目になってしまった。
 横目でチラチラとこちらを見てはいたが、それもすぐに視線をそらす。

(少しはこっち見てくれてもいいじゃない……)

 後ろ手に肩を落としながら歩く美琴。
 こんなに近くに居るのに、上条が自分を見てくれないのが、こんなにも寂しい。
 そりゃあこの鈍感バカの事だから、私の水着姿なんて大して気にしていないのかもしれないけどさ、それでも、やっぱりそれでも寂しいな……。

(それとも私がおかしいのかな……?)

 ちょっと前を歩く上条の男らしく逞しい背を見て、美琴はドキッとする。
 正直、美琴にとって上条の水着姿というのはかなり刺激的だ。見ているだけなのに、何でかこっちが恥ずかしくなってくる。
 今の場所が海で、季節が夏だと言う事に美琴は内心感謝する。今の自分は絶対に顔が赤いからだ。
 しかし、夏の暑さはその不審げな視線までは誤魔化してくれない。
 前には上条の背中があって、恥ずかしさから前を見られない。視線を少しずらしながら歩いていても、目がどうしても上条の姿を捉えてしまう。

(うー! これじゃあまるでアイツみ、たい……じゃ…………へ!?)

 自分で思った事に意表を突かれ美琴は目を見開く。そして視線を上げ上条へ目を向ける。
 見えているのは背中だけなのに、そわそわしている事がすぐに分かる上条の態度。首がゆっくりこっちに向いたかと思えば、勢いよく正面に戻る。
 最初は何をやっているんだろうと思っていたが、改めて見れば、上条と自分の動きはそっくりだ。

(えっ!? えっ、ってことは、えーっ!?)

 頬にほんのり入っていた朱が一気に顔全体まで広がり真っ赤になる。

(す、少しはその、い、意識、してくれてる……の?)

 視線に思いを乗せおずおずと上条の背を見やる。
 その視線に感づいてか感づかずか、上条は頭を乱暴にかいてから正面を向いたまま、一言だけ言った。

「御坂、その……、水着! 似合ってるぞ!」
「ふえ?」

 上条の投げやる様にも聞こえた突然の言葉に、間の抜けた言葉が美琴の口から洩れ、表情も何処か抜けた物となる。止まった歩の先は乱暴に足を運ぶ上条。

(だぁー! 心臓うるさい!! 少しは静かにしてお願いだから!)

 うるさい程に速くなった鼓動をどうにか抑えられないかと胸を掴みながら歩く上条。
 少し離れて、1人呆然と立ちすくむ美琴。唯でさえ赤い顔が茹でダコみたいに真っ赤になる。
 直後、美琴はハッとして上条を慌てて追いかける。

「ちょ、ちょっとまって! 今なんて言ったの!? ねえ!」

 上条の下がっている右腕を乱暴に引っ掴みこちらに無理やり振り向かせる。

「俺は何にも言ってないぞー。御坂の聞き間違いじゃないのか」

 と、上条は何処かおどけた調子で顔をそむけながら返す。が、美琴は見抜く。

「うそ! アンタ今顔真っ赤よ!」

 その言葉に上条は一瞬ひるむも、今度は美琴の顔を見据えすぐに返す。

「お前にその言葉そっくりそのまま返してやる」
「うっ、こ、これは……っ! そう! 暑いからよ!」
「そうか、じゃあ早く父さんたちのとこ行こうなー。パラソルと飲み物くらいはあるだろ」

 とぼけた調子で言いながら上条は、腕を掴まれているのを良い事に美琴をズルズルと引きずっていく。
 美琴も力いっぱい上条の腕を掴み引っ張り返したり、腰を落としたりして抵抗しているが、一切の功を成さず、引っ張られていく。

「だぁー! 引っ張るなー! 離せー!」
「いや、お前が俺の腕を掴んでんだろ」

 ずさー! と砂地に2本の平衡のラインを引きながら歩く上条と美琴。
 引っ張られながらも、美琴の顔は楽しそうだった。

(知らなかったなぁ。私って、こんなに現金だったんだ)

 似合ってる。その言葉が上条の口から出ただけで、自分はこんなにも嬉しい。
 さっきまでの寂しい気持なんか欠片もなくなっていた。今はすごく楽しい。
 周りに居る人達はそれを暖かい視線と微笑みを向けている。が、その中に、暖かいとは断言しにくい笑みを浮かべる1人の女性と、1人の少女がいた。

「うわー、あのお兄ちゃんが青春してるよー!?」

 パーカーを羽織った少女が、袋に入った海の家で買った焼きそばを持ちながら呟けば、それに応えるように同じようにパーカーを羽織った女性も呟く。

「よかったわね。あの調子だとその内お姉ちゃんが出来るわよ」

 こちらはイチゴのかき氷をしゃくしゃくと口に運びながら言う。肘には焼きトウモロコシや焼きイカが入った袋がある。
 その言葉に少女は少し不思議そうな顔で首を傾げながら、女性の顔を見る。

「それってあのお姉ちゃんのお母さんが言うことなの?」
「んー、私は息子が出来そうだからいいかなーって」

 かき氷を少女へ勧めながら女性が応える。その言葉に何とも言えない感情を抱きながら、少女は差し出されたかき氷をしゃくと頬張る。
 ちなみに、とある少年と少女が2人をロックオンしているのは、背を向けた彼女たちに気付く術もなかった。

「ま、早く戻りましょっか」
「あ、そうだった。早くしないとおじさんが……」

 2人は荷物に注意を払いつつ、同じ方向に向かった上条と美琴よりも素早く戻ろうとした。が、その瞬間、後ろから不吉な声が。

「おーとーひーめー? 親父がどうかしたのかー?」
「なぁんでウチのバカ母がコイツの知り合いと一緒にいるのかなー?」

 少女―乙姫―と、女性―美鈴―は体でも凍ったかの如くギギギと音を立てながら首を回すと、そこには『とっても』素晴らしい笑顔をした、今回のイケニエもといいじられ組改め主役が。
 乙姫と美鈴は顔を見合した。さて、ここはどうしたものか。
 すぐに答えが出たのか。乙姫と美鈴は実にらしい行動に出る事にした。要は、誤魔化すのも面倒だし流しちゃえー、みたいなノリだ。

「お兄ちゃーん! ひさしぶりー!」
「美琴ちゃーん! ひさしぶりー!」 

 長年連れ添ったコンビどころではない息のピッタリさを発揮し、乙姫は上条に、美鈴は美琴に抱きつく。乙姫はともかく、美鈴は精々が1時間ぶりだけど。

『いきなり抱きついてくるなー!』

 そのまるで双子みたいに息がぴったりの乙姫と美鈴に、こちらも負けじと息をピッタリと合わせて怒鳴る上条と美琴だった。

洒涙雨 2 ―中編―



 上条と美琴が乙姫と美鈴に抱き締められたり羽交い絞めにされたり、美鈴が上条に抱きついて美琴が吠えたりした、その後。

「……この状況は一体何……?」

 右腕を美琴に。左腕を乙姫に掴まれ、なされるがまま、まるで連行でもされている気持ちで上条は歩く。
 連行、という言葉が出てくるのはきっと右が原因だ。美琴が顔を赤くして怖い顔で顔を見てきたかと思えば、すりすりと体全体で反対の腕を掴むようにしている乙姫を、羨ましそうな恨めしそうな顔で見ている。

「きゃー、両手に花なんて羨ましー!」

 その中、美鈴は状況と美琴の心境を完璧に理解しているがゆえに茶化す。

「片方は美鈴さんの娘でしょ!?」
「ちょっとアンタ! この子、アンタのなに!?」
「キャッ! 美琴ちゃんったら聞き方がだ・い・た・ん!」
「ちょっと黙ってて!?」

 火に油を注がんばかりの美鈴に上条は叫ぶ。
 しかし美琴は母の声は聞こえていないのか、ただ上条の顔を言葉では言い表しにくい、それでも不満は伝わってくる表情を浮かべ、睨みつけるように見つめる。乙姫は乙姫で、上条の腕に全身を押し付けご機嫌だ。

「私? 私はお兄ちゃんの妹だよ!」
「い、妹!? アンタ! 妹といつもこんなにくくくっ付いてるの!?」
「違う! 乙姫は俺の従妹! 俺は完全無欠に一人っ子です!」
「でも妹だよ! 前は一緒のお布団に寝てたしね。あ、そうだお兄ちゃん! 今日、久しぶりに一緒に寝ようよー!」
「勝手に話しを進めないでください乙姫さん!?」

 上条が抗議を訴える間も力いっぱい上条の腕を振り回しながらねだる乙姫。
 乙姫の言葉を受け、本人とその感情を向けられている当人以外には明白な理由で、美琴は顔を赤くして激怒する。
 その数歩後ろでは美鈴がそれはそれは楽しそうな顔で場の成り行きを眺めている。

「んなっ!? いいい一緒に寝るって!? そそそそんなのダメに、決まってるでしょ!!」
「えーなんでー?」
「なんでって、それは……」

 乙姫の自然な返しに言葉が詰まる美琴。それを見下ろすのは、美琴の起死回生を祈っている上条の暑さとは異なる理由で汗を浮かべている顔。
 困った顔をしている美琴に乙姫は何を思ったのか、爆弾を燃料付きで投下する。

「あっ、そうだ! せっかくだから美琴お姉ちゃんも一緒に寝ようよ!」

 名案を思い付いたと思っている乙姫の顔は輝いている。しかし、それを聞いた上条と美琴の表情は固まった。そして美鈴はすっごい笑ってる。
 時が止まった上条と美琴はたっぷりと間をおいてから言葉を発した。

『…………………………は!?』
「いいわよ美琴ちゃん! 母が許す! だから一緒に寝ちゃいなさい!」
『アンタ何バカな事言ってんの!?』

 母親にあるまじき事を楽しそうに笑いながら言ってくれた美鈴に、上条と美琴はついに親への敬意とかそこら辺を投げ捨てた怒鳴り声で突っ込む。
 突っ込まれた方は気にした素振りを見せずに笑いながら、乙姫を後ろから包み込むように抱きしめ、上条から優しく引っぺがす。

「冗談に決まってるじゃない~。乙姫ちゃんも、あんまりお兄ちゃんたちで遊ばないのね」

 なされるがまま、美鈴の腕の中に収まった乙姫は彼女の腕を下から抱え込むように掴みながら、キョトンとした顔をして見上げていた。

「遊ぶって?」
(あら。この子、天然でしてたのね)

 驚いた様にも見える美鈴の顔。しかしその顔はすぐに楽しそうな顔へと変わる。きっと、娘と未来の息子候補を一緒になっていじり回す未来を想像しているのかもしれない。
 現在進行形でいじる気満々な美鈴さんだけども。

「それより!」

 そんな事を考えていると、いつの間にか正面に立っていた愛娘がまだ上条の腕を引っ掴みながら仁王立ちしていた。

「何でコイツの従妹と知り合いなワケ?」

 美琴の質問というよりは詰問に美鈴はチラッと上条の様子を伺う。
 美琴に腕を掴まれていて恥ずかしそうな顔をしているが、彼女の質問には同意のようだ。頷いている。

「まま、それは戻ってから話し――」
「ま、待って母さん!! そ、それは投げたら父さんがー!?」

 美鈴の声を遮る、大の大人の情けなくも切羽詰まった悲痛な叫びが辺りに木霊する。
 それにはさすがの美鈴も驚き、4人ともその悲鳴の方へ慌てて向き直る。けれど、乙姫は呆れたと言いたげな表情だった。
 彼らの視線の先には、砂地に深々と突き刺さった白の日傘。それを寸での所で回避した、砂浜にへたり込んでいる上条の父、刀夜。

「あらあら、刀夜さん。避けちゃダメじゃないですか。あらあら、どうしましょう。私、お昼御飯を投げないといけないのかしら」

 お札の人もびっくりしそうな陰影を笑みに加えながら、それでも上条の母、詩菜は朗らかに笑っている。それが何とも怖い。砂地とはいえ、深々と突き刺さっている傘がそれを更に際立たせる。
 それを記憶喪失後初めて見た息子と、隣に立つ美琴は正直に思った。

(般若……)

 とっても失礼な事を思っているが、それを仮に口に出していても反論は来なかっただろう。
 息子にそんな風に思われているとはつゆ知らず、詩菜はただ無言で、しかし瞼を薄らと開けながら笑みを浮かべて刀夜を見つめる。
 その薄らと開いた瞼の奥に何を見たのか。刀夜は至極怯えながらなんとか弁解しようと手を顔の前で大きく振る。

「お願いですからもう投げないでください! 話し合いでいきましょう!?」
「あらあら、嫌だわ刀夜さんったら。私が何で怒っているのか忘れてしまったのかしら」
「そ、それは父さんのせいじゃ……!」

 そのやり取りで大方の事情を察した上条と美琴は、驚愕や恐怖を通り越しやれやれと呆れてそれを見ている美鈴と、もう見なれている乙姫へ視線を移した。
 その視線に気づいた乙姫が普段と同じ調子で応えた。

「んーと、おじさんがまた女の人にフラグを建てちゃったんだって」
『なるほど……』

 その言葉に上条と美琴は納得するが、美琴は呆れと怒りが混ざった複雑な感情を視線に乗せ上条を横目で見る。
 そうしていると、上条たちの姿に気付いた刀夜が藁にも縋る気持ちでその事を奥様に畏みながら進言していた。

「え、えーと母さん? 美鈴さんたちも戻ってきたし、ほらっ、当麻たちも来たみたいだからやめませんか……?」

 指さしながら言う刀夜の言葉に、詩菜はその指の先へ視線をやる。
 それぞれ複雑な表情でこちらを見ている上条たちの姿を視界に入れるや否や、先ほどまでの笑みなど初めからなかったかのように、令嬢の様な爽やかな笑みを浮かべる。

「あらあら、はしたないところを見せてしまいましたね。ごめんなさい」

 潮風に靡く髪を抑え、口元に手を当てこれまた令嬢の様に笑いながら言う詩菜の傍では、九死に一生でも得たかのような顔をした刀夜が胸に手を当てて深いため息を吐いていた。
 数度息を吐いてようやく落ち着いた刀夜は、立ち上がりシートを手で示しながら着席を促す。
 その手に促されて荷物を持った美鈴と乙姫が、シートに焼きそばを始めとした昼食を置いていく。

「わざわざ買いに行ってもらってすいません、美鈴さん」
「いえいえ、気にしないでください。楽しかったですし」

 言いながら横目に映るのは愛娘と、いつまでそのままでいるつもりなのか、未だ手を掴まれている未来の息子(予定)。

「私はー?」
「乙姫ちゃんもありがとう」

 無視した訳ではないが、されたと思った乙姫が手を上げた所に刀夜は父親の顔で彼女の頭を優しく撫でまわす。その下には満足そうな乙姫の笑み。
 刀夜の隣に立ちながら詩菜はまだ砂浜に立っている2人を手招きする。上条と美琴も手招きに応じ、シートへ上がる。

「あらあら、当麻さんったらいつの間に美琴ちゃんとそんなに仲良しになったんですか?」

 暖かく微笑んでいる詩菜の言葉に少しの間キョトンとする上条と美琴。が、何を言っているかすぐに気付いて、雷に打たれたかのように体をビクッと動かす。

『っ!?』

 慌てて手を離す上条と美琴を詩菜は母親の顔で朗らかに微笑む。

「私余計な事言っちゃったかしら」
「母さんっ!!」
「あらあら、当麻さんに怒られちゃいました」

 座りながら顔を赤くする上条の言葉を受けても、詩菜はそれでも笑みを絶やさない。むしろ嬉しそうな顔をしている。
 その傍では、借りてきた猫以上に体を小さくして大人しくなっている美琴が、声もなくちょこんとシートに座り込む。さりげなく上条の隣に。
 自分が座った場所に気付いて、さらに体を小さくして耳まで赤くする美琴を母は見逃さなかった。

「美琴ちゃ~ん、顔真っ赤~」

 にしし、と意地の悪そうな笑みを浮かべる母に美琴は食ってかかる。

「うっさいわよ!」
「美琴ちゃんかーわいっ!」
「だからうるさいわよ! それより! 何でコイ……っ、ああ、えと……」

 いつもの様にコイツと上条を呼びきる前に、寸での所で美琴は口を閉じる。両親を前にコイツ、と呼ぶのは憚れた。が、それはそれで困る。ぶっちゃけ、上条の事をなんて呼べばいいのかわからない。
 今までずっと上条の事を、コイツとか、アンタとか呼んでいたので、今さら改めて彼の名前を呼ぶのがすごく恥ずかしい。
 そんな感じでもじもじしていると、美琴の心中を正確に理解している美鈴は小さく笑いながら、彼女が聞きたい事を代弁する。

「美琴ちゃんが聞きたいのは『何で当麻くんの家族と一緒にいるのか』でしょ?」
「そうそれよ! なんで!?」

 美琴の隣で上条もしきりに頷いている。
 美鈴は袋に入っていたトウモロコシなどを出しながら答える。

「元々は私たちだけの旅行だったのよ」
『――?』

 美鈴の言葉に上条と美琴は仲良く首を傾げる。
 元々は、詩菜と美鈴だけの奥さんの息抜き旅行の予定だったのだ。ちなみに旦那はお留守番。それが詩菜の、当麻さんは夏休みはどうするんでしょう、という一言で、両家族そろっての旅行へと転がっていた、という訳だ。
 御坂家の大黒柱こと旅掛は例によって海外へ出張中。

「じゃあ何で私たちに内緒にしてた訳?」

 美琴の質問に母はあっけらかんと答えたものだった。

「面白そうだから!」

 笑顔で言う美鈴に、ああそうですか、とぐったりとした面持ちで上条と美琴は肩を落とす。
 その間も着々と昼食の準備は進み、焼きそばを並べている乙姫の隣では、詩菜がシートの重し代わりに置かれたカバンからおにぎりを取り出し、刀夜はクーラーボックスから冷えた飲み物を取り出す。
 その光景を視界に収めながら、上条は思った事を素直に口にした。

「美鈴さんって、面白い人だよな」
「その言葉、熨斗付けて返してあげるわよ」

 その呟きが耳に入った乙姫が、熨斗ってなにー、と聞いているのを耳に入れながら、保護者たちは素知らぬ顔で並べていく。
 何で素知らぬ顔をしているかというと、さっきの旅行のいきさつ。あれ、実は全て嘘だったりするから。
 ぶっちゃけ、いつまで経ってもくっ付かない存外甲斐性の無い2人をどうにかしてくっ付けてやろうかとこの旅行を思い付いた、という理由だったりする。
 丁度いい事に、彼らが泊っている旅館は今日、ちょっとしたイベントがあるし。

「さっ、食べましょっか」

 そんな両親の思惑の渦中に居るとは知らない2人は、美鈴のその言葉で並べられた昼食を前に皆と一緒に手を合わせ食べ始める。
 右に美琴、左に乙姫という何とも落ち着かない食事をしている上条に、詩菜からおにぎりを受け取った刀夜が話しかけた。

「そういえば当麻。お前、願い事は書いてきたか?」
「願い事?」

 おにぎりを頬張りながら不思議そうに顔で父を見返す。

「何だ、お前。知らないのか?」
「今日、私たちが泊っている旅館は七夕のイベントをするらしいですよ」

 刀夜の言葉を引き継いだ詩菜のその内容に上条は首を傾げる。
 右側で美琴がピクっと動いたのを横目に、上条は徐に美琴の着ているパーカーから携帯を取り出す

「ちょ、ちょっと何するのよ!?」
「ああ、悪い。パーカーのポケットに携帯入ってんだ」

ただでさえ近い上条の体が急接近してきて顔を赤くする美琴をしり目に、携帯を開いて今日の日付を確認する。カレンダーには8月6日。
 七夕と言うと7月7日というイメージが強い。人によっては1月遅れの8月7日の方が思い浮かぶか。どちらにせよ、8月6日に七夕というのは変な気がする。

「ここの旅館ってね、珍しい事に毎年旧暦に則ってやってるみたいなのよ」

 上条のその疑問に、もう氷が解けてジュースとなっているかき氷を飲んでいた美鈴が答えてきた。
 気の抜けた返事をした後に、上条は頬張っていたおにぎりを全て飲み込み、美琴が差し出してきたお茶を一口飲んでから、何となく右へ新しい疑問を口にする。

「旧暦って、8月7日じゃないのか?」
「旧暦は今と暦の作り方が違うから今の暦から見ると毎年日がずれてるのよ。アンタが言ってるのはあくまでも旧暦風。月遅れの行事の事よ」
「そりゃまた何ともややこしい事だな」

 今度は焼きそばに手を伸ばしつつ、どこか余所余所しい美琴に相槌を打つ。
 彼らの泊っている旅館は上条曰く『ややこしい旧暦』に則っているため、七夕が毎年異なる。今年みたいに世間とは大差ない日だったり、大きく離れて月末だったりする事もある。
 それはともかく、七夕という事もあって旅館のロビーと敷地内の庭には大きな竹が飾られていて、宿泊客や通りすがった人達が思い思いに短冊に願いを書いていく。

(あー、そういやあったかも。乙姫に散々振り回されて疲れてたからロビーのとこあんま覚えてねぇんだよなぁ)

 上条は焼きそばを啜りながら旅館に着いた時の事を思い出す。
頑張って思いだせば、ロビーのひと際広い所に何か黄緑っぽいものがあった気がしなくもない。海に来る時も周りを見ないでロビーを素通りしたし、庭は行ってないから分からないし。

「ねえねえ、お兄ちゃんはどんなお願い事するの?」
「そーだなー」

 まるでハムスターみたくトウモロコシを齧っている乙姫の言葉に、思わず箸を止めて唸りながら考え始める上条。
 それを微笑ましく眺めるほぼ正面に居る上条夫妻の隣では、美鈴が右隣に座る美琴の肘を自分のそれで軽く小突く。

「(ねね、美琴ちゃん。もしかして、知ってる?)」

 ひそひそと小声で話してくる母の声に、ピクッ、と分かりやすい反応を示す娘。
 言葉よりも雄弁に語るその反応に母は何やら意気込んだ表情を浮かべ、小声ながらも楽しそうな声で娘へ言葉を掛ける。

「(じゃあ美琴ちゃん、レッツゴーよ! お母さん応援してるわ!)」
「(お、応援って何よ!?)」
「(え、それはもちろん~、未来の息子を連れてきてね♪ って事よ!)」
「はぁ!?」

 ぶっ飛んだ事を言ってきた母の言葉に、美琴は素っ頓狂な叫びを上げる。それで注目を浴びて恥ずかしそうに体を小さくしつつ座るも、母へのひと睨みは忘れない。
 その睨みにひるむどころか、楽しそうな眼差しを返す美鈴に美琴は小声で食ってかかる。

「(このバカ母! アンタ何言ってんのよ!?)」
「(あはは、ごめんごめん。美琴ちゃんが可愛いからつい♪)」
「(つい、じゃないわよ!)」
「(まま、それより。当麻くんには言わないの?)」
「(い、言うって何をよ……)」

 と、拗ねた様な口調で尻すぼみになる美琴の言に、美鈴はやれやれ、と小さくため息を吐きつつ軽く肩をすくめる。
 この子の事だから、上条への想いは気付いている事だろう。上条への反応や態度を見ればそれはほぼ間違いない。ただ、それがなんて言う名前なのかはまだ気付いていないのだろう。

(美琴ちゃんってば変な所で鈍いからねぇ~)

 急に何かを悟ったかのような顔をする美鈴。それに怪訝な表情を向ける美琴をしり目に、母はそう思う。
 ここで母には一つの悩みが。美琴の抱いているその感情の正体を教えてあげるべきか、自分で気付くのを待つべきか。
 もちろん、自分で気付くならそれに越した事はない。けれど、勝手きわまる願いだが、美琴には今日この日にこの場所で上条へ言って欲しい。

(じゃないとわざわざこの旅館を選んだ意味がなくなっちゃうわよ)

 この旅館には一つの伝説、と言うと誇大表現になるが、その類の事がある。
 その中身はひどく在り来たりな物ではある。だが、その由来となっている出来事が恋愛とは縁遠い事なのだ。それが伝説となっている事にご利益を感じている人が意外といて、話題となっている。
 その話を知って、美鈴たちはこの旅館に決めたのだ。

(うーん、どうしたものかしらね~)

 ペットボトルのお茶を飲みながら人知れず、という訳ではないが悩む美鈴。隣から飛んでくる娘の怪しむ視線は自然に無視している。
 そして悩んでいるもう1人は何か閃いたのか、バッと顔を上げる。

「お願い決まったの、お兄ちゃん?」
「おう! 決めた! タイムセールに遅れない!」

 意気揚々と力強く言った上条の願い事に、場の空気が何とも言えない微妙な物へ、そして生ぬるいものへ変わっていく。
 1人その変化に気付かない上条は、得意満面にガッツポーズなんかしている。
 しかしこれは上条にとっては相当に切実なお願いなのだ。苦学生たる上条にとって、タイムセールに間に合う如何はそのまま死活問題に直結するのだ。

「お前、もうちょっとなぁ……」

 呆れを隠さない父の言葉に上条はムッとするがここは譲れない。詩菜と美鈴と乙姫も刀夜と同じような表情をしているが、何と言われようと譲らない。
 美琴は上条の性格から言いそうな事が推測出来ていたので、3人ほどの呆れはない。それでも、実際に聞くとやはり脱力してしまう。

「別にいいだろー。俺の願い事なんだからさ」

 美琴達のその反応が多少は気に触ったようで、上条は少し斜に構えてそう言う。

「まぁ、お前がそれでいいなら父さんたちは構わないけど……」

 それでも、他にもいろいろあるだろ、という思いを消し切れず惜しむ様な声になってしまう。
 刀夜のその言葉でこの話はここまで、という空気が流れ始め、空気は食事を始めた頃のそれに戻った。
 しばらく続いた昼食の途中、いつの間にかトウモロコシからイカへと標的を移し、中々噛み切れないイカと闘っている乙姫の姿に微笑みながら、上条は箸を置く。

「さて、と~」

 言いながら上条は膝に手をついて立ち上がる。

「なんだ当麻。もう食べないのか?」
「おにぎりもまだありますよ?」

 刀夜はおにぎりを頬張りながら、詩菜は同じ物を上条へ差し出しながら意外そうに尋ねる。
 チラッと見まわすと全員が似たような顔をしている。

「あんま腹減ってなかったし、海で泳ぎたかったから。あ、おにぎりは後で食いたい」
「あ、ちょっと待って。私も行く」

 そう言ってサンダルを履いて海へ行く上条。その背に少し慌てた感じの美琴の声が届いた。
 美琴は飲んでいたお茶を置き、パーカーを脱いでサンダルを履いて小走りで彼女を待っている上条へ駆け寄る。美琴が隣に来てから上条は改めて海へ歩いていく。

「あんまり沖まで行かないでくださいねー」

 心配する詩菜の声に背中を向けて、上条はおーと気の抜けた返事と共に美琴の分も含めて大きく手を振る。
 小さくなっていく家族の声を背に、美琴は楽しそうに上条の隣を歩く。
 海は本当に久しぶりだ。学園都市には海そっくりのプールがあるが、やはりそれはプールでしかない。海の独特の開放感も、泳いだ後の爽快感もない。

「お前、海好きなのか?」

 波打ち際まで来たところで、そのはしゃいだ様子に気付いた上条が口を開く。やっぱり美琴の姿を直視しないまま。いい加減慣れてもいいと自分でも思うのだが、一向に慣れる気配がない。何故だろう。

「うん、好きよ。アンタは?」

 ちゃぷ、と足を海に濡らし水の冷たさを堪能し、腰を屈めてぱしゃぱしゃと小さく水遊びをしながらそう言う美琴の言葉を背後に、上条はそのままじゃぶじゃぶと深い所へ歩いていく。

「んー、正直わかんねぇな。俺、海ってこれで2度目だからさ」

 ヴェネチアの時を含めれば3回になるが、果たしてアレを数に入れていいのか。
 まぁそれはいいとして。前回は浜辺で眺めていただけで終わったので、実際に海で泳ぐのはこれで初めてだ。
 腰まで海に浸かりながら、その水の冷たさと間近で感じる潮風と匂いを全身で確かめるように、少しその場に立ち尽くす。

「ふーん、じゃあ好きになりなさい」
「命令かよ……」

 隣に立ち水平線を見ながら偉そうに言う美琴に、上条は呆れ交じりの笑みを浮かべる。
 さー泳ぐぞー、と息まいていた美琴が何かに気付いて隣の顔を見上げる。

「なんだよ?」
「いや、アンタって泳げるの?」
「まぁ、たぶん人並みには」

 やっぱり美琴を直視しないまま言って、上条はクロールで少し沖へ泳いでいく。
 自分で言った通り、人並み程度で大して速くもない。その事にホッとした半面、物足りない思いが最近読んだ漫画のワンシーンと一緒に浮かび上がってくる。

「……泳ぎを教えるとか、そんな事してみたかったな」

 海やプールではほぼお決まりのアレだ。それでなんか良い雰囲気になっちゃったりするアレだ。それを仄かに期待していた美琴だが、眼前で楽しそうに泳ぐウニに砕かれた。
 流れる思考の中、自然と出てきた『泳ぐウニ』という単語に思わず噴き出す。
 まぁ、泳げるなら泳げるで別の楽しみ方があるからまるっきり残念、という訳でもない。

「どう? 好きになれそう?」

 泳ぐのが疲れたのか、仰向けで海にぷかぷかと浮いている上条の傍によって、美琴は浮き輪代わりに彼の腕を掴む。掴む時に少し逡巡したが、意気込んで掴む。
 それで少しバランスを崩したが、すぐに立て直して青空を眺めながら上条は言う。

「なれそうだな~。こう、ただ浮かんでるのも気持ちいいしな」
「ならよし」
「さっきからなんか偉そうだな、お前」

 ほんわかとした空気の中、互いに笑みを浮かべながら交わすその言葉。
 美琴にとって、上条には海を好きになってもらった方が嬉しい。この先、また上条と一緒に海に来る事が無いとは言い切れない可能性があるという、美琴の期待がある以上、好きになってもらわないと困る。

(そ、そう! あくまでも可能性の話よ! 今日みたいな日が無いとも限らないし、その時コイツが海が嫌いだと私も楽しめないし! コイツの為じゃないわよ私の為よ!)

 誰へでもなく自分の中で弁解する美琴。
 体は海に浸かっていて冷えているのに、顔はどんどん熱くなっていく。そう、これは別に上条の事を考えているからではなく、太陽のせいだ。と、美琴は思う事にした。

「あ、あの、御坂さん……」
「な、なによっ」

 そんな状態で不意に上条に声を掛けられ、若干声が上ずる。それに対し上条の声に僅かに含まれるのは苦悶の表情。

「その、腕が痛いんですが……」
「へ? あ、ごめん!」

 言われて美琴はようやく手に力が入っていた事に気付き、慌てて上条の腕から手を離す。
 指先に痺れたような感覚が残っているから、結構な力で掴んでいたんだろう。見れば上条の腕にも指の跡が残っている。

「何か考え事でもしてたんだろ? 気にすんな」

 上条も痛みを感じている筈なのに、その素振りを見せず、今度は手足を心行くまで広げ大の字で寝るように浮かぶ。
 美琴はその隣で、何をする訳でもなくちゃぷちゃぷと波に揺られ一緒に空を眺める。次第に、立ち泳ぎも疲れてきて、上条と同じように体を海に委ねて仰向けになる。

「なー御坂ー」

 海で冷える背中と太陽に焼かれる腹のその感覚を感じながら、それでも不思議なくらいに穏やかな内心に釣られ、上条の声は間延びした柔らかいものとなっていた。
 その事は上条自身もわかっていた。しかしそれ以上に、何とも心地よい衝動を上条の心は感じていた。
 初めての感覚だった。美琴が隣に居る事が、こんなにも心地よく落ち着いて、それでいてどこか気恥ずかしいと思う。そんな感覚は。

「んー何よー」

 応える美琴も上条と同じような声音で返す。若干、彼女の声の方が柔らかいか。
 ぷかぷかと穏やかな波に揺られているのは体だけではなく、心までもがその波に揺られている気が美琴はした。
 穏やかな空気に身を浸し、波に心を委ねているからだろうか。美琴を不思議な感覚が襲っていた。

(ああ、そっか……)

 あれだけ自身の心を襲っていた衝動が穏やかになっていく。けれど強さは静かに、だが確かに増している。
 あれだけ複雑に絡み合っていた糸がほどけていく。そして一本の太く強く、そしてしなやかな想いへと紡がれていく。

 暑いくらいのまぶしい日の光を一緒に浴びて。
 ひんやりとした海の冷たさを一緒に感じて。
 時おり鼻を突く潮の匂いを一緒に嗅いで。
 耳を打つ波と海鳥の声を一緒に聞いて。
 隣にコイツがいる事を一緒に想って。

「俺さーこういうのがさー」

 上条のほんわかした声を聞きながら、紡がれた想いを自覚する。

「こういうのがー?」

 波に揺られて偶に触れる上条の指にときめく。けれど前みたいに鼓動が早鐘を打つ事はない。
 苦しさも、切なさもない。心にあるのは優しく暖かい、たったひとつの感情。

(こんな簡単な事だったんだ……)

 紡がれた想いを自覚すれば、今まで彼女を襲っていたたったひとつの感情が、こんなにも簡単にわかって、こんなにも嬉しく思える。
 上条の低くて力強くて、とても優しくて暖かい声が美琴の心に届く。

「しあわせーなんだと思うなー」

 しあわせそうに、あんまりにもしあわせそうに言うものだから、美琴の顔が破顔する。
 でも、それでも対抗意識を持ってしまうのは、きっと自分が素直じゃないからだ。

「そうねー」

 自分は、上条に負けないくらいしあわせだ。いや、きっと上条よりもずっとしあわせだ。
 だって、自分はこんなにも。

(コイツの事が『好き』なんだから……)

 破顔しながら眠る様に目を閉じる。
 知らなかった。好きって、こういう事なんだ。
 こんなにもあたたかい事なんだ。
 こんなにもやさしい事なんだ。
 こんなにもうれしい事なんだ。

(コイツを『好き』になるのって、こんなにもしあわせな事なんだ……)

きらめく太陽と鮮やかな水色の下、気付けば2人は互いを離さないよう固く手を握っていた。




「……うーん、これは声を掛けられない雰囲気……」

 2人から少しばかり離れた所。そこに美鈴はいた。
 そろそろ旅館へ戻ろうと、2人を呼びに来たのだが、来てみれば近付けない空気が。
 困っている筈の美鈴だが、その顔にあるのは嬉しさだけだった。

洒涙雨 3 ―後編―



 日も沈みかけ、日の光が徐々に赤みを帯びてきた時間。
 赤みを帯びた光が差し込む部屋の中、美鈴と美琴は向き合って座っていた。

「えー!?」

 部屋の隅々まで行きわたる程の声量。美鈴は肺の中を空っぽにしてもまだ足りない気持ちで叫んだ。
 突然の大音量に耳をふさいだ美琴の肩を掴み詰め寄る。

「あれだけいい雰囲気作っといてまだ告白してないの!?」
「なによぉ、そんな大声で言わなくてもいいじゃない……」

 いつになく弱気で尻すぼみな娘の声も耳を素通りしていく。
 結局、美鈴は勇気を振り絞って上条と美琴の間に割って入って浜辺まで連れ戻した。
 声をかけた瞬間、2人とも慌てて手を離したのをとても好ましく思ったのをよく覚えている。
 告白したてでは、手を繋いでいる事も、それを親に見られる事も恥ずかしい事だ。だから、慌てて手を離したと思っていた。

「っはぁ~……。我が娘ながら情けない……」

 が、実際は2人の無自覚な行動だった。
 沈痛な面持ちで頭を抱える美鈴。こころなしか、頭痛さえしている気がする。
 その母の行動を、美琴は小さくした体で申し訳なさそうな表情に恥ずかしさを混ぜた顔で見ていた。
 上条への『好き』だと言う想いを自覚した途端、上条との事が今まで以上に恥ずかしくなった。嫌じゃない、むしろずっと一緒に居たいのだが、どうしようもない位に恥ずかしい。

(うわー! うわー! 今まですごい事しちゃってる気がするー!!)

 最初に浮かぶのは偽デート。出会って早々、上条にタックルをかまし、彼が倒れている間だけだが抱きついていた気がするし、その場から彼の手を掴んで去った気もする。あと間接キスなんかしちゃったかもしんない。しかも、とっても嬉し恥ずかしい事を上条が言っていた。

 次に思い浮かぶのは大覇星祭。思えば上条とは常に至近距離で会話していた気がするし、ここでも彼の手を掴んで一緒に走った。そして競技中に恥ずかしい事を言われて半ば押し倒されもした。

 そして次は大覇星祭の罰ゲーム。ポケットから取り出した携帯に着いているのはおそろいのゲコ太ストラップ。そこに行くまで上条の手を掴んでいた様ないなかったような。
 肩を抱かれ顔をすぐ傍までに寄せて一緒に写真も撮った。写真は黒子に邪魔されたけど。

 最後は、ほんの数時間前の海の事。最初から最後までずっと上条の隣にいて手なんか繋いじゃったりして。そんでもって彼への気持ちをはっきりと自覚して。

 状況は様々だが、こうしてみると結構手を繋いでいる2人。それはともかく。
 それらのシーンがついさっきの事の様に明確に美琴の頭に再生されていく。
 ひとつのシーンを思い出す度に顔の赤みは増していって、最後の方になると耳や首まで真っ赤になっていた。

「……………………………………」
「美琴ちゃん?」

 急に一切の音を出さなくなった娘をさすがに怪訝に思い、美鈴が体ごとそちらへ向ける。
 その視線の先には、赤、という色を真っ先に思わせるほどに顔を赤くしている美琴の姿。気のせいか、煙が上がっているような。

「み、美琴、ちゃん……?」
「…………ふにゃぁ」
「ちょ!? 美琴ちゃん電気電気! 電気漏れてる!!」

 まだ静電気程度だが、確かに美琴の周りでパチパチと紫電が音を立てている。

「ふにゃぁ…………?」

 けれど美琴から返ってくるのは、聞くだけで力が無い事がわかる程に頼りない気の抜けた声。
 どうすれば美琴が戻るのか美鈴には正直わからないし、近付いてみようにも静電気が徐々に強くなってきていて近付けない。
 こういう時はどうするべきなのか。慌てて思考が短絡的になっている美鈴は、とりあえず最初に思い浮かんだ少年に援護を要請する事にした。

「当麻くーん!? 当麻くんはどこー!?」

 慌てて廊下に出て人目も気にせず叫ぶ。
 その声を聞きつけたのか、運よく部屋に居た上条が正面の部屋から出てくる。ちなみに、部屋の位置も美鈴たちが決めてたりする。
 それは措いといて、慌てている美鈴に上条が少し声を荒げ尋ねる。

「どうしたんですか美鈴さん!?」
「美琴ちゃんが大変なの! 早く中に入って!!」
「御坂が!?」

 言い終わるが早いか、上条は聞いた途端に美鈴を押しのけて急いで部屋の中に入る。
 部屋へ続く戸を潜ると、焦点が定まらず顔を赤くしてフラフラしている美琴。これを見た瞬間、上条は全身の力が抜けていくのを実感した。

「大変って言うから何かと思えば、コレか……」

 脱力しながらも安心した笑みを浮かべる上条。美鈴の慌てぶりからもっと大変な事なんじゃないかと想像してしまったが、それは杞憂で終わった。
 戸に掴まってその場にへたり込んだ上条に、美鈴は混乱に怒りを混ぜて叫ぶ。

「コレってなによ!?」
「あ、そっか。美鈴さん、知らないんでしたっけ」

 けろりと答える上条。
 確かに、知らなければこれは慌てる。そして頼った男がこれを見て安心した顔で座れば怒りもする。
 怒りながらも何が何だか分からず、困惑した表情を浮かべる美鈴の視線を受けながら、上条は近付き、右手をぽふ、と美琴の頭に置く。

「にゃぅ……」
「コイツ、時々ですけど、こうなる事があるんです」

 上条の右手の感触が心地いいのか、目を閉じまどろんでいる美琴を視界の端に収めながら、上条は美鈴へ簡単に説明をする。

「理由はわからないけど、能力の制御が出来なくなって、気を失うんです。でもまぁ、こうやって俺が右手で抑えてれば、眠っているだけだから大丈夫です」

 そういえばコイツ、俺がいない時にこうなったらどうしてるんだろう。美鈴に説明しながらそう思うが、白井がルームメイトだし大丈夫か、と自問自答を終える。
 上条の説明を聞きながら、全てを理解した訳ではないが、安心しきった美鈴。原因とかは分からないが、これだけははっきり分かる。

「じゃ、当麻くんに任せるわ! それじゃ!」
「え!? ちょっ待っ!?」

 上条に任せれば安心だと言う事。そうとわかれば美鈴のする事は一つだ。

「私は詩菜さんたちと話す事があるから美琴ちゃんは任せたっ!」

 反論しようとした上条の口が開き切る前に、美鈴が脱兎のごとく部屋から脱出し向かいの部屋へ駈け込んでいく。急いでいた割に戸を全て閉めていっている辺り、何かを狙っている気がしてならない。
 ワナワナと体を震わす上条は、つい今しがた脱出した美鈴へ吠える。

「アンタはこんな娘を放っていくのかー!?」
「にゃっ!?」
「っ!?」

 その叫びに過敏に反応した美琴が体をびくりと震わし、ゴッ、という鈍い音が響く。
 その下では何故か右足の甲を押さえて悶絶している上条。

「ゆ、油断してた……!」

 美琴の体が震えた事で、丁度真下辺りにあった彼女の体がもち上がり、驚いた拍子に体も動き、浮いた美琴の膝が上条の足の甲に着地していた。
 泣きそうになるほど痛い。けれど、右手は意地でも離さなかった。離したら間違いなく電撃が部屋に充満するからだ。

「ってて……」

 正直、痛みがある内は立っているのも辛い。ので、素直に美琴の隣に座る事にした。
 頭を撫でられるのはやはり気持ちいのか、美琴はまたまどろんだ顔をしている。しかしついに力尽き、そのまま眠る様に目を閉じて。

「おっと」

 ぼふ、と上条の腕の中に倒れ込む。
 このままだと負担になると思い、ゆっくりと美琴の頭の位置を膝に持っていって体を横にさせる。右手は邪魔にならないよう彼女の肩へ。
 思わず美琴の寝顔にほぅ、と見惚れる。それを振り払うように頭を横に振って、美琴の頬を軽く突っついて寝ている事を確認する。
 それに少し声を上げるが、目は開けないので確かに寝ている。それを確認すると、上を向いて深く息を吐く。

「っはぁ~……! やべぇ……」

 思わず口から言葉が出た事を少し悔いながら手で口元を覆う。
 触れた左手で感じるのは、信じられないほどに熱い自分の顔。これは鏡がなくても分かる。自分は絶対に顔が真っ赤だ。
 そして何がやばいって、下を向くと美琴の顔があるという事だ。しかも寝ている無防備な顔が。
 チラッと下を向くと、真上を向いて自分を真っ直ぐ見つめるようにしている美琴の寝顔。

「ッ!?」

 それを見た瞬間、鼓動が跳ね上がる。顔もどんどん熱くなっていく。
 その内に美琴の顔を見ているのが恥ずかしくなって、慌てた風に顔をそむける。
 けれど、心のどこかでは彼女の顔を見ていたいと思っていて、彼女の顔を視界の中心に据える。
 でもやっぱり恥ずかしくて顔をそむける。
 そんな事を数度続けていると、ようやく慣れてきて、顔をそむける事はなくなった。
 美琴の寝顔を見ながらぼんやりと思う。

(俺、今日はどうしちまったんだ……?)

 初めてだ。美琴を見る事がこんなにも恥ずかしいと思ったのは。
 環境がいつも違うから? 美琴の水着姿を見たから? その理由もあると思う。けど、それが決定的な理由で無いとも思っている。
 なのに、いくら探してもその決定的な理由が見つからない。代わりに見つかったのは、海の時に発見してから胸中にずっとある得体の知れない感情。

 初めて感じる感情に上条は思う。訳のわからない感情だと。
 苦しくなったと思えば暖かくなる。切なくなったかと思えば優しい気持ちになる。
 今もある、その訳のわからない感情でも分かる事が一つだけある。

(御坂が原因、ってことか……)

 彼女の姿を見ると恥ずかしいと思う。でももっと見ていたいと思う。
 彼女の声はくすぐったく思う。でももっと聞いていたいと思う。
 彼女の笑顔は嬉しいと思う。もっと笑顔を見ていたいと思う。
 彼女を守りたいと思う。他の誰でもない自分の、自分だけの手で。

 何でそう思うのかは分からない。そもそも、理由なんてないのかもしれない。理由なんてあっても、それはきっと薄っぺらく聞こえるだろうから。

(理由って、必ず必要って訳じゃないよな、きっと)

 そう思うと、何も無理に理由を付ける必要はないんじゃないかと。素直に認めればいいんだと。
 美琴の姿を見たいと、声が聞きたいと、笑顔を見たいと、美琴の世界を守りたいと、素直に認めればいい。そう思える。

 それを認めると、さっきまでの訳のわからない感情も次第に落ち着いていく。
 暖かく、優しく、穏やかなものへとゆっくり色を変えていく。
 変わっていく中で、おぼろげだった感情が少しずつ輪郭を付けていく。ふわふわと、頼りなさそうなのに、その形は決して崩れない。
 そのしあわせな感情の正体は、なんというんだろうか。

 あと一歩で掴めそうだ。そう思った所に不意に、足をくすぐる感覚と右手を押される感覚が訪れる。
 その感覚に足を見れば、寝返りを打って自分の腹へ顔を向けている美琴がいた。
 その寝顔に上条は思わず小さく噴き出した。

「なんつーだらしない顔して寝てんだお前。お嬢様だろ……」

 実に間抜けな顔をしていた。
 とてもしあわせそうな表情で、口が少し開いている、とても愛くるしい寝顔。
 押されて肩からどかされた形になったが、右手が離れても電撃が来ないので今は本当にただ寝ているだけなんだろう。
 居場所を失った右手の落ち着く場所を求めて、上条は美琴の流れる様な髪を少し梳く。

(うわ、すげーサラサラしてんな)

 引っかかりの一切ない、本当に流れる髪に上条は軽く感動を覚える。
 それからはとても静かだった。美琴の寝息だけが聞こえる、とても静かで温かい時間。
 上条もリラックスした様子で、美琴の頭を撫でながらそこから見える窓の景色を眺めていた。

(あ、やべぇ。眠いぞ……)

 大して泳いでいないが、海とは思っている以上に体力を消費する。加えてこの穏やかな空間だ。自然と眠気が訪れる。
 じわじわと迫ってくるまどろみの中、上条は視線を窓の向こうから美琴へと戻す。
 そこには間の抜けた顔にも見える、気持ちよさそうな寝顔。

(いつもみたいに元気で騒がしいのも楽しくていいけど、たまにはこういうのもいいよな)

 この寝顔を見ていると、事あるごとに電撃やタックルをしてくるお嬢様には見えない。
 そんな美琴も嫌いじゃないが、今みたいにただの子供みたいな表情を覗かせる彼女も嫌いじゃない。いつもこんな感じだと、穏やかで楽しい毎日になりそうなんだけどなぁ。
 そこでふと、この上なく唐突に気付いた。
 嫌いじゃないって、なんだ?

(嫌いじゃない。でも、本当にそれだけか……?)

 さっきも感じた、名前の知らないしあわせな感情が再び上条の心に浮かびあがってくる。きっと、嫌いじゃない。その言葉に違和感を抱かせているのはこの感情だ。
 なんかこう、的確に今の感情を表現できる言葉があった様な。眠気と闘いながら、上条はなんとかその感情の名を掴み取ろうと手を伸ばす。

(だぁー……、眠いから考えがまとまらん……)

 美琴の頭を撫でる上条の手も徐々に止まっていく。
 ついには完全に動きが止まり、ぽふ、と美琴の頭に添えられるように置かれる。

「……ああ、でも、何となく、わかった、……かも……」

 感情の名前は正直、まだよくわからない。初めて抱く感情だ。もう少し時間がかかりそうだ。だから、この苦しさと切なさとはしばらく一緒にいなきゃならない。
 それはちょっと、ちょっとだけ嫌だけど、しょうがない。分からない自分がいけないんだから。
 だから、もうちょっとだけ待って欲しい。俺がこの気持ちをちゃんと分かる様になるまで。この気持ちはきっと、お前に向いているから。
 でも、そんなあやふやな気持ちでも一つだけ分かる事がある。

「お前と一緒にいたいんだ、俺……」

 運よくあった柱に背を預け、上条は心地よい感情を抱きながら意識を睡魔へ委ねる。
 部屋に差し込む光が完全に赤くなったころには、部屋にあるのは少年と少女の穏やかな寝息だけがあった。
 そこに無粋にも、戸が開く音が届く。

「たっだいまー……っと、ありゃあ2人して寝ちゃってるのか~」

 すやすやと寝ている2人の姿に、美鈴は困った様な表情を浮かべた。
 まだ夕方だが、夏の日が出ている時間は存外長く、今はもう6時を回っている。そろそろ夕食の時間だ。だから呼びに来たのだが。

「こーんな気持ちよさそうな顔して寝られたら起こせないわよ……」

 美鈴には、2人が微笑みながら寝ているように見えた。
 まるで、2人の周りだけ時間が、季節が異なると思うほどに穏やかな空気。
 これを起こすのは、余りに忍びない。

「ま、いっか。あとでなんか買っとかないとねー」

 言いつつ美鈴は旅行に持ってきたカバンから、しまっていた目覚まし時計代わりの腕時計を取り出し、時間を設定していく。

「花火が始まるのは……この時間だから、これでいいかな」

 この旅館の七夕イベントのメイン。花火が始まるのは8時だから、30分前に目覚ましを設定していけば大丈夫だろう。あとは、置き手紙でも置いておけば問題ないか。
 せっかく七夕のイベントを拝めるのだから、夕食は逃させてもこれは逃させる訳にはいかない。
 時計と置き手紙を2人の傍に置いて美鈴は立ち上がり窓へ手を掛ける。閉めっぱなしの部屋だと寝苦しいだろうと思った配慮だ。

「あら? あらあら!?」

 思わず窓から身を乗り出し、右手の方に見える山の方に目を凝らす。
 それほど高くない山の上には、どんよりとした暗い雲。天気に詳しくない美鈴には断言できないが、あれはきっと雨雲だ。
 あの雲がこちらまで来て、雨が降れば花火は中止だろう。

「これはいい感じじゃない!?」

 だのに、美鈴の顔には期待に満ちた眼差し。
 美鈴たち保護者は、この旅館の伝説じみた事に期待はしていた。が、それも、ちょっとした切っ掛けにでもならないかなー、そんでそのまま上手くいかないかなー、という楽観視交じりの淡いものでしかなかった。
 なんせ、この旅館の話を完全に再現するには天気さえも味方につけないといけない。
 その天気が今、何とも都合のいい様に運びそうな感じ。

「これは、詩菜さんたちにも伝えないとねー!」

 美鈴の軽やかな足音はその調子を変えないまま、部屋の外へと消えていく。
 一切の音が無くなった部屋に聞こえるのは穏やかな寝息。見えるのは赤い光に包まれた、微笑んでいる少年と少女。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


「ん……さみぃ……」

 肌寒さを覚え、眠い目を擦りながら起きたのは上条。寝ぼけた頭のまま周りを見渡すとすっかり暗くなっていた。けれど外の光が差し込んでいるようで、視界に困る暗さではなかった。
 その明りを頼りに周囲へ目をやると、窓が少し開いていた。肌寒さの原因はあれか。
 窓を閉めようと立ち上がる。けれど足が全く上がらない。気になり足元を見る。

「……んぅ……」

 そこには気持ちよさそうに寝ている美琴の寝顔。

「あー、なんだ。美琴か……」

 そういえば、寝てたなコイツ。
 意識が徐々にはっきりする中で思い出し、立つのを諦め、手近なところに何か羽織れる物はないかと首を巡らす。だが歯がゆい事に手の届く場所には無かった。
 それを確認した後、少し思案する。このまま美琴を寝かすべきか起こすべきか。
 このまま寝かしていては寝冷えでもして風邪をひくかもしれない。しかし、とても気持ちよさそうに寝ている彼女を起こすのは気が引ける。

「……起こすか」

 深く考えた割にはあっさりと答えが出た。
 寝るだけならいつでも出来るのだし、またこういう機会もある事だろう。なんと言ったってあの親たちだ。何度でもこういう状況を作りかねない。
 だが、見るからに張りと潤いがある綺麗な頬。無防備極まりない間抜けな寝顔。これらがそう簡単に見られない事は重々承知している。
ので、自身の内から湧き出てくる欲望に素直に身を委ねる事にした。
 まぁ要は、遊ぶ、という事だ。
 まずは頬を突っついてみる。

「おお、すっげぇプニプニしてる……!」

 返る頬の弾力に軽い感動を覚えつつも突っつく指は止めない。
 美琴の寝顔に変化はない。
 次に頬を引っ張ってみる。

「おわ、意外と伸びんな」

 みょいーんと伸びる頬にこれまた軽い感動を覚える。
 美琴の寝顔はちょっと痛そうにしている。
 次は鼻をつまんでみる。

「……ふ、ふにゃっ……」
「……ッ!」

 苦しそうな顔から漏れた、何とも可愛らしい苦悶の声に、上条は噴き出しそうになる。
 美琴の寝顔は息苦しそうにしている。
 次は耳に息を吹きかけて見る。

「……にゃふぅ……!」

 くすぐったそうな顔をして、体がプルプルと震えながら出たのは、ほとんど吐息の様な声。
 今まで散々いじった累積か、美琴の寝顔は泣きそうになっている。ただまぁ、ここまでされて起きないのも大したものだ。
 最後は、その寝顔をただ眺める。
 泣きそうな顔から、いじる前の間抜けな、しあわせそうな寝顔へと戻っていく。

「……いい加減、起こすか」

 美琴の寝顔を心行くまで堪能したつもりでも、それでもまだ起こす事に名残惜しさを感じる。
 しかしそろそろ起こさないと本当に寝冷えを起こしてしまう。
 ぺちぺちと優しく美琴の頬を叩きながら声をかける。

「おい、美琴。体冷えちまうぞ。美琴」
「ん~……」

 頬を叩く手と声を煩わしく思ったようで、美琴はそれらを振り払う様に腕をゆっくりと大きく回すように動かす。
 その腕を掴んで動きを止めてから、上条は空いている手でもう一度ぺちぺちと叩く。

「ほら、起きろって。風邪ひいちまうから」

 少し乱暴だが美琴の体の下に腕を差し込んで無理やり彼女の体を起こす。
 そのまま、彼女の肩を掴んで前後左右に揺さぶってみる。

「ん~……!」

 するとさすがに目が覚めた様だ。
 美琴は眠そうな顔に怒りを混ぜ、寝惚け眼を擦りつつ、このこの上なく快適な眠りを邪魔してくれた奴を睨んだ。
 その睨んだ視線の先には。

「おっ、やっと起きたか。お前、意外とねぼすけなんだな」

 新しい事でも見つけた様な笑みを浮かべた、上条の姿。
 彼の姿を視界の中心に据え、美琴の意識は何処かへ飛んでいく。呆けている彼女に掛けられる上条の声も遠い。
 まだ眠っている頭を無理やり叩き起こして、自分が気を失う直前の記憶をかき集める。

(え、えーと、あの時はコイツとの事を思い出していて……)

 その事を考えるだけで顔の温度が上がってくるが、今は無視。

(で……、あ、そうだ。確か漏電して、そんで母が慌ててコイツを呼んで……)

 その後に、上条の右手が頭に触れて漏電は収まって。で、その手があんまりにも気持ち良かったからそのまま寝ちゃって、そんでもって確か……。

(コイツにひざま……く……)

 徐々に開かれていく美琴の瞳。
 限界だった。音でも聞こえそうな程に美琴の顔が一気に赤くなる。
 いきなり顔が赤くなったものだから、上条も驚き肩を強く掴んで迫る。

「おい!? どうした!?」

 が、美琴は美琴で、ただでさえ近い顔が大接近した事に恥ずかしさも頂点を越える。
 強引に肩から上条の手を外し、座った体勢のままテーブルや床に手を突いて、反対側まで勢いよく離れる。手に何かが引っかかる感覚がしたが、それも無視して離れる。

「にゃ、にゃんでもにゃいから!!」

 その上手く呂律の回っていない、所々上ずった声を受けるのは、いきなり手を虚空に差し出され、すごい速さで離れる美琴に呆気にとられた上条の顔。
 手を弾かれるように外されたのがちょっと傷付いた。以前ならそれだけで終わっただろうけれど、今はそれさえも愛くるしく見える。

「なら、いいさ」

 笑顔を浮かべながら立ち上がり、宙を漂っていた手を膝について立ち上がり窓へ向かう。
 いつの間にか開いていた窓を閉めている上条の背に、美琴は上手く言えない違和感を覚える。
 本当に上手く言えないのだが、こう、強いて言えば、ただ力強く頼りがいのあった雰囲気に、優しい色がついたような。
 それもそうだと断言はできない。ただ、海の時に見た上条とは何かが異なって見えた。

(私が寝ている間に何かあったの?)

 うーん、と腕を組んで悩もうと腕を前に持ってくると、手の先に時計が引っかかっていた。さっきの感覚はこれか。
 見ると、美琴が母の腕時計だった。時間は7時半を差そうかとしている所。床に置いておいても壊しそうだし、と美琴は時計を持ってテーブルの傍へ寄る。
 置こうとした瞬間だった。
 腕時計からとは思えない、機械的な電子音が大音量で部屋に響いたのは。

「にゃー!?」

 突然の大音量に驚いた美琴の手から時計がすっぽ抜け、天井へぶん投げられる。
 勢いよく飛んで天井でガッ、と音を立てた腕時計は上条の足元へ落下する。

「あーもううるさいっ!」

 片方の耳に耳栓代わりに指を突っ込んだ上条が時計を拾い上げ、少々乱暴に時計の目覚まし機能を止める。
 止まった事を確認してから、上条はポイ、と持ち主の娘へ放物線を描く様に放り投げる。

「美鈴さん……、ちったぁ加減をして……」

 放り投げた体勢で呆れ顔で呟く。
 言葉は出なかった物の、受け取った方も同じ事を言いたいようだ。だが、こっちは少しばかり怒りを見せている。

「ん? なぁ美琴。それ、なんだ?」
「……置き手紙、みたいね」

 いい加減明りを付けようと移動していた上条が、テーブルに置かれていた置き手紙を発見する。上条の言葉に違和感を抱きつつ、腕時計を置いてから美琴がそれを手に取る。
 顔の前に持って来た時に丁度明りがついた。見てみると、母の字だ。一体なんだろうと目で追っていると、この後の花火の事だった。

「なんて書いてあんだ?」
「これから花火上がるんだって。この部屋から見えるらしいわよ」

 言いながら美琴は上条に置き手紙を手渡す。
 手紙の内容に目を通す上条をしり目に、美琴は隣に立つ少年の先ほどの言葉に抱いた違和感を探る。
 普通に名前で呼びかけられただけだ。別段、違和感を抱く所はないように思える。

(…………ん? ちょっと待って。『名前』で?)

 違和感の正体に気付き、思考がフリーズしている少女の隣で上条は手紙の内容に目を通し終え、確認する様に内容を頭の中で反芻する。

(8時に花火上がんのか。今はえっと、7時半をちょい過ぎた位か。んー、じゃあちょっと行ってくるかな)

 置き手紙をテーブルに置くついでに腕時計で現在確認をしてから、上条はそのまま部屋の外へ足を伸ばす。

「美琴ー、俺ちょっとロビー行って短冊書いてくるわー」

 まだ短冊に願い事を書いていない事を思い出し、今の内に書いてこようと思ったのだ。あと30分もあれば余裕だろう。
 返事が聞こえない事を少し訝しんだが、それほど広い訳ではない部屋だ。聞こえていない事はないと思い、そのまま部屋を出る。
 上条が部屋から出て程なく、美琴のフリーズしていた頭はようやく活動を再開する。混乱という形で。

「なななな名前!? え、ちょっ、えー!? 名前でって、うそ、本当に名前で!?」

 と、半ば狂乱しながら自分を名前で呼んだ張本人に叫ぶ。が、その姿はきれいさっぱりない。

「あれ……?」

 それに見事なほどに拍子抜けをくらい、美琴の頭は急速に落ち着きを取り戻していく。
 そういえば何処かへ行くと言っていたような。それ以上は思い出せないので飲み物でも買いに行ったんだろうと、自分に結論付ける。
 美琴は徐に窓へ近付き、縁へ腰を降ろしひんやりした窓の感触を頬で確かめる。火照った顔にこの冷たさは気持ちいい。

(私、今日、顔赤くしてばっかりじゃない……)

 それがなんだか無性におかしくて、くすりと小さく笑みを溢す。
 今も赤いだろうけど、昼間みたいに取り乱すことはない。

(さっきの不意打ちは例外で……)

 そう、アレは不意打ちだ。あんまりにも自然に言うものだから、こっちも気付かなかった。
 こんな感じで呼ばれる事を願っていた自分だが、実際に呼ばれて思う。やっぱり、面と向かって目を見て言って欲しいと。
 不意打ち気味に呼ばれるのも悪くないが、一番はやっぱり、気持ちを込めて呼んで欲しいと思うのは、わがままだろうか。

(でも、アイツ。何で急に名前で呼んだんだろ?)

 いつもはビリビリとか御坂と呼んでいたのに。
 彼女が想いを寄せる少年は、何を思って自分の事を名前で呼んだんだろう。
 その疑問に答えられる少年が傍に居ない事が、寂しくも口惜しくも思う。


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


 ロビーに到着した上条は、すっかり薄らいでいる到着時の記憶を頼りに、短冊が飾られた竹をなんとか発見する。

(つーか、午後が何かと濃すぎんだよ)

 辟易する様な言い方だが、真実、込められている感情はそれとは異なる。
 それは、口元に薄く刻まれている笑みを見ればよくわかる。
 白紙の短冊が置かれている台の前に立つと、柱に影になっていて見えなかった看板が見つかる。

(旧暦の七夕の事?)

 子供でも読めるようにと配慮だろうそれは、縦長の看板で色とりどりのチョークで絵も交えて書かれていた。
 そのすぐ傍にある同じような看板は高い位置にあり、こちらはより詳しい事が書かれていた。子供には難しい言い回しや言葉もあるので、こちらが大人向けだろう。

(へー、七夕の日に降る雨の事を『洒涙雨(さいるいう)』って言うのか)

 短冊とペンを手に取ったまま、思わず看板を読みふける上条。
 洒涙雨とは、旧暦の七夕の日に降る雨をさす言葉で、7月7日や8月7日にすることの多くなった昨今では、その意味を失いつつある秋の季語だ。
 その雨の意味は、織姫と彦星が逢瀬の後に流す惜別の涙。その逢瀬がままならず、悲しみに流した涙。と大きく2つある。
 その意味がどちらも『悲しい涙』だと言う事を、上条はどうにも納得する事が出来ない。

(別に涙って、悲しいから流すもんでもないだろ)

 そんな事を思いながら、上条は短冊になんて書こうかと悩んでいた。
 昼間言ったタイムセール云々はさすがにあんまりだと思ったらしい。かといって、他にどんな願い事があるだろう。
 欲しいものはあるが、それはわざわざ願う程の事でもないと思う。いや、あるにはあるのだが、それを願い事にするのは、気恥ずかしいというかなんというか。
 唸りながら悩んでいると、近くを歩く他の宿泊客の声が聞こえてくる。なんとなしに声に視線を向けると、良い年の取り方をした、そう思える老夫婦がいた。

「知っていますか? この旅館、七夕の雨の日に告白するとそれが叶うらしいですよ」
「そりゃあ知らんかったな。ただまぁ、わしらには関係のない話じゃな。そんな物に頼らんでもばあさんはわしのもんじゃからな」
「あらあら、おじいさんったら。大きな声でそんな事言って」

 恥ずかしそうにしているが、まんざらでもなさそうなお婆さんは悠然と歩くお爺さんの後をのんびりと付いていく。
 立ち聞きをする形になってしまったが、その話で願い事を決めると同時に気恥ずかしさを捨てる事にした。
 自分はあのお爺さんの様に強気には慣れないので、頼る事にした。なにせ、どうしても欲しいものだ。神頼みくらいはしてもいいだろう。

(って、何て書けばいいんだ?)

 さすがに直接書くのはダメだろう。しかし間接的に書くと言っても、どうやれば間接的になるのか。そもそも、願い事を間接的に書いていいものなのか?
 願い事は決まったが、また新しい問題に頭を抱える上条の目に入ったのは、ロビーの中心に立つ柱の四方にある時計。

「げっ! もう8時じゃねぇか!」

 花火が上がる時間だ。
 慌てて願い事を書いて、乱雑に笹の葉に括りつける。
 そして急いで部屋へ戻ると、耳に入ったのは高く澄んだ声。

「遅いわよ。どこ行ってたの?」
「わるいわるい」

 責める様な口調に、上条は息を切らしながら謝る様に手を上げる。ていくか、ちゃんとロビーに行ってくるって言った様な。まぁいいか。ほじくり返してもしょうがないとその話を終わらせる。
 息が落ち着いてようやく気付くのは、静かだという事。花火の音が聞こえない。

「弱いけど、雨が降ってきちゃったのよ。今は様子見してるみたいよ」
「ふーん。って、なんで知ってんの?」
「今、母からメールが来たのよ」

 別の場所で見てるという母からそうメールが来た。館内放送が無かった所を見ると、大方、ここの職員に聞いたか外で放送でもあったんだろう。
 上条も美琴も、家族が別の場所に居るという事に作為的な何かを感じながら、窓の向こうに目をやる。
 確かに雨が降っている。けれど雨脚はすごく弱い。右手の方に雲が見えるから、きっとそこの雨が風に乗ってこっちまで来ているだけだ。

「嫌な雨ね」

 その雨を見ながら、誰へでもなく呟いた美琴の声がやけに響く。
 七夕の日に告白すると叶う。そんな日に雨が降るなんて、普段は大して感慨を抱かない雨が今だけは憎らしい。
 が、美琴は知らない。その憎らしい雨こそが、その話の決定的な要素だという事に。

「洒涙雨って言うんだろ? 花火が見れなくなるのは嫌だけど、そんなに嫌な雨か?」

 上条が洒涙雨という単語を知っている事に驚き隣を見る。その視線に上条は、さっきロビーで見てきたんだ、と外を見ながら答える。
 そうか、ロビーに行っていたのか。と納得しながら、ならなぜこの雨を嫌だと思わないのかが不思議だった。
 織姫と彦星が別れる悲しみのあまりに流す涙。洒涙雨とはそれを指す言葉なのに。
 その事を言うと、上条は意外そうな顔をして言い返してきた。

「別に、別れたのが悲しくて流した涙、って決まってる訳じゃないんだろ?」
「そりゃそうだけど……」

 納得を渋る様な言い方をする美琴に、上条は笑みを浮かべながら続けた。

「じゃあさ、会えたのが嬉しいから涙を流した。かもしんないだろ?」
「あ……」

 人は悲しいから涙を流す。涙と言うと、どうしてもそっちを先に思い浮かべる。だから、洒涙雨もそういう意味が付いたのかもしれない。
 でも、人が涙を流すのは悲しいからだけじゃない。
 嬉しくて、あんまりにも嬉しくて、それが心に収まりきらないほど嬉しいから、人は涙を流す。

「そう考えるとさ、この雨ももっと降れー! って思えるんだよな」

 そう、なのかもしれない。
 この雨は別れを悲しむ涙ではなく、会えたのが嬉しいから流す涙なのかもしれない。
 言葉の意味は、必ず辞書通りに受け止めなければならない、という事はない。
 上条みたいに、時には自分が信じたいと思える意味を、見出してもいいはずだ。

「……そうかもしれないわね」
「だろ?」

 にかっ、と笑う上条につられ美琴の顔も綻ぶ。
 もう一度窓の外へ顔を向ける。雨は雨脚を変えず振り続けている。これ以上は強くならないだろう。
 さっきは憎らしく思えた雨が、今は止んで欲しくないと思える。上条の言葉で、こうまで意識が変わる自分の単純さを不思議に感じながら。でも、嫌な不思議さじゃなかった。
 けれどやはり、思った通り弱い雨脚は更に勢いを弱めていき、ついには完全に雨が上がる。

 雨がやんだ事が少しさびしい。でも、十分に勇気を貰えたからいいか、と一人微笑む。
 直後、空を切る様な甲高い音が夜闇に木霊する。そして程なく響く、腹の底まで届き振動させる様な轟音。

「おー、花火やんのかー!」
「いきなりすごいのあげたわね」

 暗い空に浮かぶのは、文字通りの大輪の花。最後の締めに上がりそうな大きい花火だ。
 その花火を皮切りに、次々と種類が打ち上げられ、周囲の影が赤や黄色や青などに染め上げられる。

「なー美琴ー」

 花火へ視線を向けながら、上条が唐突に隣で花火を見ている少女の名を呼ぶ。

「ッ! な、なによ」

 また不意打ちで名前を呼ばれて跳ね上がる鼓動を抑えて美琴は応じる。
 顔を向けると、上条が真っ直ぐに美琴を見つめていた。

「俺さお前と」

 上条はそこで言葉を切った。
 まだ、美琴への気持ちの名前は分からない。それでも言いたい事がある。
 断わられるかもしれない。嫌われるかもしれない。もう、美琴と会えなくなるかもしれない。
 それは怖い事だ。寂しい事だ。悲しい事だ。

(でも、俺、美琴と一緒にいたい。だから前に進みたい)

 そして、何かを意気込む様に小さく深呼吸をしてから美琴に向き直る。
 美琴の顔は強張っていた。何を言われるのかわからないから。
 最初に上がった花火と同じ、甲高い音が聞こえる。
 その音を気に留めず、上条は口を開く。

「――――――――――――――――――」

 瞬間、花火の轟音が一切の音を飲み込みかき消した。
 声を張り上げたつもりだったのだけれど、やっぱり怖かったようで、普段と同じ程度しか出なかったようだ。

(臆病者だなぁ、俺……)

 自嘲する様な呟きを内心で発する。
 花火の轟音でかき消されたかと思った上条の声は、確かに、美琴へと届いていた。
 驚きに見開かれた美琴の目が徐々に閉じていく。
 彼女の唇は、ともすれば叫んでしまいそうな想いのうねりを抑え込もうと、キュッ、ときつく引き結ばれる。

「……うん……」

 小さい、風にさえ消えてしまいそうな程にか細い、今にも泣き出しそうな美琴の声。
 けれど、上条は聞き逃さなかった。

「そっか……。そっか……」

 何故だろう。涙が零れそうだった。
 零れ落ちそうな物をこらえようと、上条は上を向く。だけど、堪え切る事は出来なかった。
 一筋だけ、頬を伝い落ちた。口元に刻まれた、笑みの横を流れる様に。

「……バカ……」

 ずるい。目の前の少年は本当にずるい。なんで、なんでコイツの言葉はこんなにも……。
 くしゃくしゃな笑顔を浮かべたその瞳には一つの雫。雫は先ほどの雨の様に静かに美琴の頬を伝い、ぽつり、と床を叩く。
 雫の後を指先で拭い、上条は暖かく優しい笑みを浮かべる。
 美琴は、涙が零れるのを抑えようとしながら笑ったからか、彼女の笑顔は少し歪だった。

「どこにも行くなよ、美琴」

 でも、やっぱり抑えきれず、雫は静かに何度も零れる。

「私を手放したら承知しないわよ、当麻」

 上条は、言葉では答えなかった。
 雫が流れ落ちる頬に愛しむように触れる。

 そして、影が一つになった。


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